藍色秘抄
04
イザークが案内したのはまかない所のような場所だった。
彼はカガリに待つように言うと手際よく湯を沸かし、温かい手ぬぐいを作ってくれた。そして、一緒に一揃いの衣をカガリに手渡したのだった。それはカガリが欲していた深い色の男ものの着物だった。
「あ、ありがとう……」
思ってもみなかったほどこしを受け、カガリは胸に温かいものが満ちるのを感じた。この少年はアスランにもこんなふうに親切だったのだろうか。
「イザーク……だっけ、おまえもやっぱり近衛なのか?」
「まさか、俺は正式には近衛ではないぞ」
カガリの隣に腰を下ろしてイザークは言った。彼が動くたびに、切り揃えられた銀髪がさらさらと流れる。
整った容姿のせいか、機敏でも優雅さのある動作のせいか、彼の外見はカガリの思う近衛とはだいぶ違っていた。
「まあ、いつまでもこんなことをしてはいられないだろうな。俺にはいずれ治めなくてはならない所領があるからな……」
「所領? おまえ国長の子なのか?」
領地を持っているとなると、ただの身分ではない。
「さあ、どうかな?」
イザークは淡い色の瞳を細めた。
「なんだよ、それ」
口ではなんとでも言える。国を持っているとつぶやいたイザークの言葉が真実かどうかはたしかめようもなかったが、カガリはそれを嘘ではないと思った。
彼には気品がある。それはちょうどラクスが持っていたような、意識しなくてもにじみでるような、血筋の気高さだ。
「おまえさ……」
急にカガリは思いついた。
「おまえ、アスランに似てるな」
「なんだと?」
イザークは腰が抜けたような声を出した。
「よりによってなんてことを言い出すんだ、貴様は」
「いや、言っておくが顔じゃないぞ。なんだろう……空気みたいな……雰囲気かな」
カガリは記憶の中のアスランを思った。イザークとアスランは真反対といっていいほどに気性も見た目も違うのに、何が似ていると思ったのだろうか。
「わかんないけど……」
アスランの、すらりと力まず姿勢を伸ばした立ち姿だとか、微笑み方のやわらかさだとか、指の動かし方ひとつも。
カガリは難なく思い浮かべられた。十二の子供のままでなら。
「馬鹿げたことを言っていないで早く支度を終わらせたらどうだ? じきに他の人間も帰ってくるぞ」
「え、そうなのか?」
カガリはぎくりと体を固めた。他の近衛には、イザークのように見逃してもらえるはずはない。
「ゆっくり休ませてやれたらいいんだが。俺も他の者に見つかったら出立できなくなるからな」
「出立って、イザークもどこかに旅立つのか?」
「何を寝ぼけたことを言っているんだ、貴様と一緒に行くのに決まってるだろう」
カガリはきょとんとまばたいた。
「行くってどこにいくんだ? おまえと」
「アスランを、奴を探しに行くほかに貴様に行き先があるのか?」
そこまで言われてカガリはようやく理解した。と、同時にひどく驚いた。イザークが道連れになることなど考えてもいなかったのだ。
「ちょっと待てよ。いつ私に着いてくることになったんだ? イザーク、おまえ一応は近衛なんだろう?」
カガリは早口でたずねた。
「私が探そうとしているアスランは皇族の敵ってことになってるんだぞ。見つけたらおまえはアスランをただじゃおかないんだろう? 私はそんな物騒なやつを連れてなんか行かないぞ」
言いながらカガリははっとした。
カガリがアスランの身内だと名乗ったから、イザークはカガリに手をくださなかったのだろうか。アスランのところへ導かせるために。
「言っただろうが、俺は近衛ではないと。大王に忠誠を立てた覚えもない」
カガリの疑惑を切り捨てるようにイザークははっきりと言った。
「ありがたく思え。貴様の旅を手伝ってやると言っているんだ。だいたい、あんなに弱くてどうするんだ。都を出たらすぐにでも盗賊に身ぐるみ剥がれてしまうぞ」
そこらの盗賊には負けないつもりだったが、イザークに手も足もでなかった経緯から、カガリは反論できなかった。
「それに、俺もアスランが謀反を起こしたなどという噂は信じていないからな」
「え? イザークもか?」
カガリは思わずイザークの手を掴んだ。
「ああ……」
イザークは少々驚いて身を引いたが、ふっと笑うと小さな子供にするようにカガリの頭を叩いてやった。
「気に食わないことはそのままにしておかないのが、俺の信条のひとつだ。貴様が来ようと来まいと、いずれ反乱軍を追うつもりだったんだぞ。アスランを取っ捕まえて尋問してやる」
「うん……」
(こいつ、いいやつだ……)
アスランを助けようとしてくれている、力強い味方だった。ひとりで立ち向かうつもりだったカガリには、これ以上ない支えだ。イザークのおかげで新しい展望にカガリの胸は膨らんだ。
「カガリ、貴様もアスランを一発くらい殴って……」
カガリの方に向きなおろうとしたイザークは、またも少女の行動に驚かされなくてはならなかった。カガリがイザークの首に勢いよく飛びついたのだ。
「ありがとう! イザーク」
嬉しいことがあると、お礼と一緒に相手に抱きつくくせのあるのがカガリだった。それこそ、十二の頃から変わらない。
「か、カガリ……貴様」
驚いて硬直しているのかと思いきや、イザークはカガリの両肩を掴んで引っぺがした。
「貴様、女なのか?」
「は……?」
イザークは真剣な顔だったが、その言葉の無礼に気付くとカガリは憤慨した。
「おまえ、私を今までなんだと思ってたんだよ!」
つまり、イザークが男ものの着物を選んだのはそういうことだったのだ。
「いや、しかし貴様兄弟だと名乗ったじゃないか」
「兄弟みたいなもんだって言ったんだ。弟だとは言ってない」
曲がりなりにも、皇居でお姫様をしていたカガリを男だと思うなんて。女だからといって変に気を使われるのは大嫌いだったが、果たして喜ぶべきなのか、カガリは複雑だった。
イザークの収集していた情報によれば、アスランがいるとおぼしき反乱軍は西へ向かったということだった。
カガリとイザークはひとまず西に行き先を決めて、都を出発した。カガリが喜んだのは仲間の他に、馬まで手に入ったことだった。毛並みのよい、気性の大人しい馬を二頭もイザークは所有しており、カガリの足はかなり楽になった。
「馬に乗れる女なんか初めて見たぞ」
軽快に手綱をとるカガリを、イザークは感心した目で見た。
「だから男だと思ってたんだろ」
カガリは横目で彼をにらんだ。
これから先、当分は根に持ってやるつもりだった。とはいえ、今のカガリの服装はイザークにもらった男ものの濃紺の衣で、肩までの金髪がカガリをまるきり少年に見せている。
「あれは弟だって名乗った貴様が悪いんだぞ」
イザークは決まり悪そうに言い訳した。
「弟じゃなくて兄弟だって言ったんだ。それにな、ひとつ言わせてもらうけど、仮に私とアスランが兄弟だったとしても兄は間違いなく私だぞ」
「ん? カガリのほうが年上なのか?」
「そうじゃなくて、アスランに兄貴なんか任せてらんないんだよ」
兄というのはもっと頼りがいのある、強い人間がなるものだ、とカガリは思っていた。
「あいつ、ほんとに私がついていなくちゃだめなんだよ。人付き合いへたくそだし……」
ずっと抱えていた心配事を、カガリはイザークにたずねた。
「なあ、イザークは近衛でアスランと一緒だったんだろ? あいつ、いじめられたりしてなかったか?」
その質問に、イザークは怪訝そうな顔をした。答えずに彼は逆にカガリにたずねた。
「おい、貴様とアスランは一体どういう間柄なんだ? 兄弟というにはやはり血の繋がりがあるのか?」
「どういうって……」
言葉にすれば、同郷の人間であるというただそれだけのことなのだが。しかし、それだけでは説明しきれないのがアスランとカガリだった。
血は異なっていても、肉親より二人は近い。
「一番近い他人かな……。一緒に育ったんだ、四年間ずっと」
「四年? アスランは四年前に近衛に入ったはずだが……?」
カガリは補足する。
「四年間一緒に過ごして、一緒に都に来たんだ。なのに四年も離れてしまった……」
思えば長い四年だった。四年の間にカガリはすっかり大人になってしまったのだから。
「そうか……やっとわかったぞ。貴様がアスランの言っていた『太陽』なんだな」
イザークは納得のいった様子でつぶやいた。
「太陽……?」
何の形容だろうか、カガリはゆっくりと聞き返した。
「奴はほとんど自分の話をしなかったんだがな……」
イザークはそう切り出した。
「貴様の……カガリの話だけなら何度か聞いたことがあるぞ」
「私の……?」
「ああ、太陽みたいな人なのだと」
カガリは不思議な気持ちでそれを聞いた。
人づてにカガリの話をするアスランのことを聞いたのは初めてだった。
「それに、アスランは自分の太陽なのだとも言っていた。まぶしくて、明るくて、あたたかい……」
「へぇ……」
褒め言葉ととっていいような内容にカガリは妙なくすぐったさを感じた。アスランにこういう種類の言葉をもらったことはないのだ。もちろん、カガリもアスランを褒めてあげたためしはないのでおあいこなのだが。
「どんな奴なんだろうと思っていたんだがな。まさかこんなちんちくりんの子供だったとはな」
「子供じゃない! 私はもう十六だぞ」
カガリはわめいた。
馬を並べて歩かせているので、隣を歩いているといっても距離があり、小声では届かないのだ。
「都じゃどうなのか知らないけど、由良じゃ十五から大人なんだからな」
カガリは威張って言ったが、イザークは別のところに興味をひかれたようだった。
「カガリ、貴様、由良の生まれなのか?」
イザークの顔色がさっと変わったようだった。口調の深刻さから、カガリも自然に身構えてしまった。
「そうだぞ。私もアスランも由良が故郷だけど……なんなんだよ」
「そうか……当然アスランもなのか。そういえばやつの出自については話したことがなかったな」
イザークは唇を噛んでつぶやいた。
それだけで、カガリを不安にさせるには十分だった。
「由良がどうかしたのかよ? イザーク、何か知ってるのか?」
イザークが考える一瞬がもどかしくて、いっそ馬を引っ張って止めて、イザークを問いつめようかと、カガリが行動を起こす前に、彼は話した。
「今朝に……反乱軍は西に向かったと話しただろう」
「西って……まさか」
カガリは息を飲んだ。
「察しがいいな」
都からちょうど西。街道沿いという交通の便のよい場所に由良はある。
「そのまさかだ。行軍中の反乱軍に由良が襲撃を受けた。昨日のことだ」
強調も婉曲もせずに、イザークは率直に言った。それは彼なりの優しさだったのかも知れない。
「襲撃って……どの程度の」
しかし、カガリの受けた打撃は強く、気を張っていなかったらカガリは馬から落ちていたかもしれなかった。さすがに先に進めなくなり、カガリは馬を止めた。
「詳しいことはわからない。ただ、皇子の直属だった反乱軍は一方で大王の軍より優秀だといわれている軍だからな」
「アスランは……」
アスランは本当にどうしているのだろう。
カガリは今、どうしようもなく彼に会いたかった。
「カガリ、急げ。一刻でも早く奴らに追いつくぞ」
慰める言葉のかわりに、イザークはカガリを急かした。
暗い、暗雲のような予感はずっと胸の中にあったように思う。それも、何年も前から。
もしかすると、すべては、カガリが由良を出たときから始まっていたのか。いや、きっとそれよりもずっと以前から。少しずつ、少しずつ時は動き、形のない力となって、カガリとアスランを出会わせた。
そして、その力が二人を都へ運び、物語の道筋を造ったのだ。
カガリは幼かった自分の行動をのちに何度も悔いたが、どこかでその動きを止められたのかといえば、たぶん誰にもできなかった。何度、人生が巡ってきたとしても、きっとカガリはアスランと出会うだろうし、きっと彼のために都に行きたいと願うだろう。カガリの意思か、誰の意図か、静かに流れていた時は満ち、津波のような波をつくって、カガリとアスランを飲み込んだ。
「……ひどいな」
イザークがはじめに口にした感想は、カガリには届いていなかった。
里の入り口、由良が一望できる丘に、カガリとイザークは立っていた。もっとも、カガリは立てずに草の上にひざをついていたが。
限界まで馬を走らせ、小枝や木の葉であちこちに擦り傷を作りながらも、故郷までの道を急いで、たどりついたカガリは崩れ落ちるように馬から降りた。
(こんな……)
想像していた、最悪の状態よりさらに悪い。
里は全滅だった。
全景を見てそう思うくらいだから、間違いはない。焼き打ちをかけられたのだろう、里の景色は綺麗なくらいに何もなかった。
周りの山の緑と分かれて、くっきりと墨色の場所がただ広がっている。
「カガリ……」
イザークはいつまでも立ち上がれずにいるカガリの肩に手をかけた。
「いつまでもここにいても仕方ないだろう。立てないなら肩くらい貸すぞ」
イザークはそっと言った。カガリは自分の息をたしかめるように何度か深呼吸をして、首を横に振った。
「館が見たい……」
カガリはぽつりと言って、足に力を入れた。立てた気はしなかったが、イザークが支えにこなかったから歩けてはいたのだろう。
カガリは感覚で覚えている道を、館まで歩いた。しかし、そこから先のことは記憶がたしかではなくなった。
ただ気がついたら夜になっており、野営の支度が整えられた場所にカガリはいた。
たき火がぱちぱちと音をたてる。闇に目をこらすと人影がはっきりとして、イザークがこちらを見ているのに気がついた。
「もう大丈夫か?」
「あれ、私……」
カガリの疑問をイザークは先に答えた。
「あれだけ泣いたらすっきりしただろう。子供みたいで手がつけられなかったぞ。おかげで俺の着物はびしょ濡れだ」
「あ……」
言われてみて、思い出した。
イザークの胸でわんわん泣いた気がする。
「……ごめん」
「まったくだ」
イザークは短くため息をついて、枯木を火の中に投げた。
ばちばち、と大きな音が返ってくる。しばらく二人は無言で炎を見つめていたが、イザークはやがて決心したように言った。
「カガリ、貴様は都に引き返した方がいい。いや、そうするべきだ」
彼の声は重たかった。
「それで私が帰ると思うのか?」
カガリは笑ってみせた。
笑う気力もないはずだったが、不思議と笑みは作れるものだった。
「私が帰る場所は由良だけだ。都じゃない。アスランとお父様に帰ると約束したんだから……」
カガリは膝に置いた両手を強くにぎりしめた。着物がちぎれそうに絞られる。
イザークがやさしくなだめてくれ、思いきり声を張り上げて泣きじゃくったから、涙はもう出なかったが、気持ちを保つのはまだ難しかった。
「そのアスランのことだ。貴様がまだ奴を追い掛けるつもりなら俺は力ずくで止めるぞ」
「どうして『追い掛けるな』なんて言えるんだ? 私にはもうアスランしかいないんだぞ、アスランしか」
カガリは思わず声を大きくしたが、イザークはうめくようにつぶやいた。
「もっと早くに言っておくべきだったのかもしれない。俺の判断の甘えが結局、カガリを最悪な方向に動かしてしまった」
「え……言っておくべきだったって、何を……」
どくんと、心臓が音をたてた。聞きたくないと、とっさに思ったのは、その先の話にカガリもすでに予想がついていたからかもしれない。
落ち着いて聞くようにと、イザークは前置きした。
「……御所の中で造反した皇子の軍に応戦したのは、俺たち近衛と大王の軍だっただろう」
静かにイザークは話した。
「近衛の中には当然アスランを見知っている者がいる。軍の指揮をしているのがアスランだったという知らせを、カガリが誰から聞いたかは知らないが」
カガリがはじめに聞いたのは侍女からだった。あの時、カガリはそれを頭からはねつけたのだが……
「あの知らせの源は近衛の人間だ。複数の目撃者がいるのだ。皇子の館に火を放つよう指示する藍色の髪の少年や、騎馬の相手をやすやすと倒すアスランを見たのだと」
「そんな……」
叫びたかったのに、言葉に力が入らなかった。否定できなかったのだ。
「俺もはじめに仲間からその話を聞いたときは嘘だと思った。アスランを見たのが一人なら俺も動きはしなかったが……御所の戦いに動員された十数人すべてがアスランを見ている。やつが御所に火を放ったのはたぶん事実だ」
カガリは深く、胸の空気が空になるまで息を吐いて、両手で顔をおおった。
体がひどく重たかった。
「俺はその真相をたしかめたいんだ。まだ信じたわけでも、自分の目で見たわけでもないからな。必ずアスランをつかまえてやる」
最後の言葉を、希望のようにイザークは言った。彼はまだ反乱の首謀がアスランでなく、彼は誰かの指示に従っているだけだと考えているのだ。しかし彼とは逆に、カガリの心はもう決まってしまっていた。
(……アスランは私との約束を果たそうとしたんだ)
いっそ、火をつけて……
そう、カガリも思ったことがある。皇家の力が絶対であることを知って、もう二度とアスランには会えない場所に自分が来てしまったことを知ったときだった。十四のときに、それをラクスにさとされ、教えられて、それからカガリは散々泣いた。
思えば思うほど由良は懐かしく、アスランは恋しかった。
(いっそ全部なくなれば、と私も思った……)
果たさなくてはならない約束があったし、都などでは決して自分は生きてゆけないと思ったからだ。御所が大火に見舞われることを夢想したりもした。そしたら、混乱に紛れてアスランと都を出るのだと。
「アスランは……」
カガリはぽつりと言った。
「……アスランは馬鹿みたいに真面目なんだ」
かき乱された心がようやく落ち着いたら、それは固く、石のようになっていた。
カガリの感じていた、深く暗い予感は彼だったのだ。侍女の言葉も、近衛の報告も、今まで疑っていたのはそれらが真実であることをカガリが一番よく知っていたから。目を背けていたのだ。
「近衛の見たのが事実だ、イザーク。皇子に反逆したのはアスランだよ」
「何を言いだすんだ、貴様は」
イザークはあわてた。
「貴様がそれを言っていいのか? 貴様が違うと否定しなければアスランの罪は事実になってしまうんだぞ」
「でも、イザークも完全には否定できないから、私にこの先を行かせたくないんだろう」
真意を言い当てられたのだろう、イザークは黙った。
「私は行くぞ、イザーク。アスランを止められるのは、たぶん私だけなんだ」
やがて、大王が追討軍を出し、アスランを追うだろう。そんなものに彼をわたす気はなかった。
(アスランは私の見た夢を叶えようとしたんだ、きっと)
昔からアスランはそうだった。
頼んだわけではないのに、黙ってカガリの願ったものを手のひらにおいてくれる。
(そうだ、あの小鳥みたいに……)
いとこが育てているのを見たカガリが、欲しい欲しいと駄々をこねた、小鳥の雛を彼がどこからか拾ってきたことがあったのを、ふいに思い出した。手のひらにおさまる小鳥を得て、大喜びで跳びはねるカガリを見て、笑みを浮かべていたアスランをよく覚えている。
巣を離れた雛が長くは生きられないのを彼は知っていたはずなのに。
「私が止めなくちゃ……」
由良に帰りたいと、願ったカガリの足かせを、アスランは燃やして切ったのだ。
なんという皮肉だろう。
御所から生涯出られないはずだったカガリは、アスランの反乱のために、いまこうして由良の土の上に立っている。由良が大王の所領に隣接してあるのは、小さいが鋭利な刃物を突きつけられているようなものだった。
カガリという人質を得てもなお、大王が由良を滅ぼしたがっているのはカガリも知っていた。カガリが自力で都から逃げていても、皇子を殺して自由になっていても、どのみち由良は攻め滅ぼされていたし、カガリは逆族として追われていただろう。
そのための人質だったのかもしれない。
「あいつはきっと、私の代わりに御所に火をつけたんだ。だから、私があいつを討ってやらないと……」
どこの誰かも知らない相手に奪われないよう。
自分を憎めと、アスランが言っているように、カガリには思えた。
「アスランは私が止める……」
カガリは静かに決意した。
山あいの里である由良には、毎年冬にはカガリなど簡単に埋まってしまうくらいの雪が降る。大勢の子供がそうであるように、カガリも例にもれず雪が好きだった。初雪が積もった朝には、いつもアスランを引っ張り、家を飛び出していた。
その年の最初の雪が積もった中、まだ誰も触れていない純白の雪に足跡をつけるのだ。
いつも目を覚ますのはアスランが先で。
「カガリ、雪が積もってるぞ」
と、彼はカガリを揺り起こす。
彼女の目覚めの悪さは冬にこそ深刻になるのだが、起こしてやらないと、後で彼女は一日中ふてくされてしまうから。
目覚めたら、手あたり次第に着込んで、二人の子供はきらきらと輝く白の世界に走り出る。
鋭い朝陽に反射する雪の結晶は無数に輝き、綿のような雪を蹴散らしてカガリはアスランのずっと先を走っていく。
積もりたての雪の続くところまで行くつもりなのだ。二人とも朝餉を食べていないから、帰りにはへとへとになってしまうというのに。
案の定、体力を使い果たした帰り道は先頭が逆になるのだ。
二人の小さな雪靴の足跡をたどりながら、カガリは深い雪に足をとられて思うように進めない。体は芯まで冷え切って、早く温かい朝食にありつきたいのに。カガリと反対に、行きも帰りも同じ歩調で雪を踏むアスランは、先を歩きながら彼女を振り返り、立ち止まり、振り返っては進む。
待ってくれているのだ。
カガリはアスランをおいて、はしゃいで勝手に走っていったというのに。
きっと、手も足もかじかんで感覚はなくなり、早く熱い湯につけてしまいたいくらいで。
カガリをおいて帰ることはたやすくできたが。
(あの時は、アスランの優しさのひとつもわかっていなかったんだ……私は)
わがままで手のかかるお姫様だった自分に、彼はどうしてあんなにも親切だったのか。
(今もまた、待っててくれてる……たぶん、きっと)
夢の余韻の中で考えて、カガリは目が覚めた。
(あ……私、寝てた?)
午後の心地よい陽気のせいで知らぬまにうたた寝をしてしまっていたのだ。
カガリが夢に見たのは由良の冬と、アスランだった。カガリの中で、いつまでも成長しないアスランを。完全に目が覚めてしまえば、カガリがいるのは見知らぬ里の民家で、由良でもなんでもなかった。
旅も幾日か重なり、そこはカガリとイザークが昨日から世話になっている家だった。引っ張り上げられたように現実に戻される。
カガリはぼうっと天井を見た。
(……もう一度目を閉じたら)
夢に戻れるかな。
ふいに思ったことに、カガリはひどく胸を締めつけられた。懐かしさに息がつまり、胸に熱が込み上げてくる。
けれども、泣けなかった。
泣かないと決めたのだ。ぎこちなく深呼吸をして、涙を押さえ込む。胸元を押さえて背を丸めるカガリの姿が苦しげに見えたのか、イザークが駆け寄って来た。
「おい、大丈夫か?」
震えていた肩に手がかけられる。
「おい……」
「……大丈夫だ」
イザークが顔をのぞき込んでくる前にカガリは起き上がった。
気持ちはもう落ち着いていた。手のひらで気遣いが無用であることを示す。
「イザーク、おまえ心配しすぎだぞ。由良を見る前はもっと私のことぞんざいにあつかってたくせにさ」
カガリは笑った。
決心してからは、カガリの心は湖のように穏やかになっていた。今は声をこぼして笑うこともできる。
「私は大丈夫だよ」
「そうか……」
カガリが強く言ったので、イザークは納得しきれていない様子だったが、それを飲み込みうなずいた。続いて、カガリはたずねた。
「それで、どうだったんだ? 何かわかったか?」
反乱軍の行方について、情報を集めるためにイザークは集落の長に面会してきたのだ。それを待っている間にカガリは眠りに落ちてしまっていたのだが。
「ああ。近いぞ、奴らは。どうやらこの街道の先で野営をしているらしい。行軍の速度は意外に遅いな」
「待っててくれてるのか……」
カガリは心でつぶやいたことを口にしていた。
「ん? なんだ?」
「いや……、なんでもないよ。それより、野営地の場所までわかってるのか?」
「まあな。急げば今夜中に追いつけるだろうな」
言ってから、イザークはカガリをうかがい見た。
視線が噛み合うと、カガリは眉をゆがめた。
「行くなって、言いたいのか?」
「いや、行くなとは言わないが。しかしな、貴様が行って何ができるんだ? 相手は訓練を受けた兵だぞ」
「私だからできるんだ。相手はアスランだからな」
カガリが窮地に立つことを、アスランが許すはずがないと断言できる。敵陣に飛び込んでも、それがアスランのいる場所なら、まったく平気でいられる気がする。
「アスランのための太刀があればそれでいい」
イザークはまだ何か言いたそうにしていたが、カガリの意志を変えることは断念したのだろう。
視線をそらして、彼は静かに息を吐いた。カガリはなんだか少し申し訳ない気がした。
「ごめん……イザークにはいっぱいお礼をしなくちゃな、思えば世話になりっぱなしだ」
何か礼がしたいが今の自分には何もない、とうつむくカガリに、少し考えてイザークは言った。
「じゃあ、俺にもちゃんとアスランを一発殴らせろ。俺も奴に会って言わなきゃならんことが山ほどある」
「そうか……」
カガリはいいぞ、とは答えられなかった。
イザークに会わせる前に、アスランの息を止めるつもりでいたからだ。そして、ことが終わってしまってからは再びイザークに会うつもりはなかった。
もしかすると、イザークはそれを悟って、カガリに約束させようとしたのかもしれない。
「それを全部の謝礼にしてやる。だから貴様はアスランを連れて俺のところに戻ってこい」
澄んだ色の瞳がじっとカガリを見据えた。真っすぐなそれを見返せなくなって、カガリは床を見た。
「ごめん……」
うつむき唇を結んだが、カガリは次に顔を上げたときには微笑みを作っていた。
「私、守れない約束はもうしないんだ」
「カガリ……」
「もう出発しよう、イザーク。どっちにしたっていつかはアスランに追いつくんだから。私は早いほうがいい」
カガリは立ち上がって、話を打ち切った。
月のない闇夜。
うっそうとした森の中。
明かりは燃える小さなたきぎの炎だけで、決戦に向かう者を送り出す舞台としては、あまり華々しくない場所だった。最後の宿から街道をさらに西に下り、川沿いで野営している集団を見つけるのに日にちは三日とかからなかった。
『そんなに大きな軍じゃなかったが、我々の里を荒らしてはいかなかったし、都の軍は行儀がいいな』
と、いうのはイザークが村人からとってきた証言のひとつだ。
その通りに、軍というには少し小規模な一団は街道をそれた小川に軍営を張っていた。仮屋に旗印はなく、イザークは皇子の軍だったものかどうかがわからないと言ったが、カガリは直感的に確信していた。
きっと、そこにアスランがいる。
近くの林にカガリとイザークも場所をとり、カガリは夜が来るのを待った。兵の数は少ないが、兵営の形に隙はなく、侵入という手段でアスランに対面するには、闇を味方につけた方が賢明だった。
日が沈んでから一時、闇は次第に濃くなっていた。焚き木のはぜる音と、森のざわめきだけを聞きながら、二人はじっと待っていた。
「……子供のころに一度だけ、こんな夜の森を歩き回ったことがあるんだ」
黙って炎を見つめていたカガリが、ぽつりと話した。
「アスランと二人だった。今思うと無茶をしたなあ、と思うんだけどな」
「子供だけでか。たしかに無謀だ。よく無事だったな」
「アスランがいてくれたからな。たぶん山賊が出ても平気だったと思うよ」
それを聞いて、イザークは納得しながら、少し悔しそうに付け足した。
「そうだな、やつは近衛になったときも初めからずば抜けて強かった」
その言葉に興味をひかれて、カガリは顔を上げた。
「じゃあ、イザークは私たちが都に来たばかりのころからアスランを知っているのか」
「言っておくが、俺のほうが先にあそこにいたんだからな」
イザークは念を押すように言った。
「やつが来る前は年少の者の中では俺が当然一番だった。俺より五つも年上の者も組み手で俺に勝てなかった。まあ、アスランはそいつも一撃で倒したんだがな」
はじめは得意げに話していた顔がだんだんと曇って不機嫌になるのを見て、カガリは案外と表情が豊かなイザークにまた好感を持った。
「イザークはアスランと仲が良かったわけではないみたいだな」
ふふ、と笑いをもらしながらカガリは言った。
「俺はやつが嫌いだったな」
胸を張ってイザークは主張した。
アスランとイザークは年が近いこともあり、たびたび比べて話をされたというのだった。
それまでイザークが保持していた最年少記録を、アスランが塗り替えるたびに噂になるのが我慢ならなかったのだという。ただし、近衛として職務に従事していたアスランと違い、所領を持つ貴族の跡継ぎとして武術を磨く目的で近衛の屯所に身を置いていたイザークは、屯所内では客分扱いだった。
アスランのほうが秀でていることを誰もが認めていても、それで発破をかけられるようなことはなく、中には機嫌をとろうとイザークのほうが実力があるなどと言ってくる者もいたのだそうだ。
「そういう大人どもを見返してやりたいと思ったんだろうな」
懐かしむようにイザークは話した。
考えた末に彼は実戦に参加することができないから実力を示せないのだと思い至ったのだそうだ。そこで、年少の者には禁じられている真剣での勝負をアスランに申し込んだのだ。
「アスランはいいつけだとかは、ほんと真面目に守るからなあ。断ったんじゃないのか」
「いや、まだほんの入りたての頃だったからな、やつはその掟を知らされていなかったんだ」
人目につかない館裏の空地で二人だけの勝負は行われたが。
一太刀交えたところでイザークは剣をはじき返され、結果はアスランの圧勝だった。それを誇るでもなく、気兼ねするでもなく淡々と剣を納めるアスランにイザークは煮え切らない思いが噴出して、再勝負を申し込もうと剣を突きつけたところで、年長の者に見つかってしまった。
法度破りには厳しい罰が与えたれるのが通例だったが、幹部に呼び出され尋問を受け、罰を与えられたのはアスランだけだった。身分のあるものとして、イザークが優遇されたのは言うまでもないが、尋問の場で、アスランは勝負を持ちかけたのは自分のほうだと説明したらしかった。
「アスランがイザークをかばったってことか?」
「知らん。謹慎が解けてからすぐに問いつめても、やつはなにも話そうとしなかったからな」
仏頂面で言ってイザークは頬杖をついた。
「そっか、あいつらしいな」
イザークの態度もなんだかおかしく思えて、カガリは小さく笑った。
「それから二人は仲良くなったのか」
「べつに今だって仲が言いわけではないぞ。ただ年が近いから会話をすることが多いというだけだ」
むっつりとしたままイザークは反論した。口ではそう言うが、カガリについてここまで来てくれたことがイザークの気持ちをなにより語っていた。
「うん、ありがとう。あいつに優しくしてくれて」
カガリは感謝を込めて微笑んだ。
「もうこの話は終わりだ。夜更けまではまだ時間があるから、少し休んでおけ」
焚き火の炎で染まったのか、イザークの頬が少し赤くなっているように見えた。
少しだけ休もうと思って目を閉じていたら、眠り込んでしまっていたらしく、焚き木のはぜる音で目が覚めたときにはすっかり夜が深まっていた。月は夜明け近くまで昇らないから、空は飲み込まれそうなほど暗かった。
「本当に貴様がやるのか?」
着物のすそを払い、帯を締めなおして、まさに行こうとするカガリにイザークは最後の確認をした。
「うん……」
カガリは唇を引き結ぶ。
「私以外の誰にもあいつを殺させない」
はっきりと口にして決心を強固にする。
「アスランは……」
闇と木々の先、彼のいる場所を見た。
「アスランは私が止める」
自分の足でアスランに会いに行く。
カガリが心を決めてから、イザークは引き止める言葉を口にしなくなっていた。
もともと口数の少なかった二人連れはさらに無口になっていたが、カガリにはそれがありがたかった。前に進むこと以外を考えたり、会話する余裕のないカガリを、彼は気づかってくれていたのかもしれない。
「ありがとう、イザーク。お前がいてくれて本当によかった」
カガリは心から礼を言った。
イザークはたきぎの向こうで黙ってカガリを見上げた。目線があい、それを別れの合図だと受け取って、カガリは、じゃあ、と彼に背を向けた。彼は無言のままだったが、足を踏み出そうとしたときにカガリはぎゅっと手首を握られていた。
「待て……」
低い声でイザークは言った。
「イザーク……」
カガリが振り向くと、彼は言いたいであろう言葉をすべてのどの奥で止めているような顔で、カガリを見ていた。
言ったとしてもカガリがとどまらないことをわかっている彼は、唇を開きかけてやめた。
「離してくれ、痛い……」
血が止まってしまいそうなくらい、手首を掴む力は強くなっていた。
「おい、イザーク」
「……どうしたら、貴様は思いとどまる?」
イザークはそれだけ絞り出した。その問いに、ふっと、影を含んだ笑みを浮かべて、カガリは答えた。
「イザークが笑って行けって言ってくれたらな」
冗談で言ったわけではなかったのだが、その言い草がイザークの怒りに触れたようだった。
「どうして! 死にに行くような真似をするんだ?」
イザークはカガリの両肩を掴んだ。
「由良からこっちろくに食べも寝もしないで、そんな奴に何ができるっていうんだ」
イザークは黙っていられなくなったらしく、次々畳みかけた。
「先に言っておくが、貴様の行動はまったくの無駄に終わるぞ、間違いなく。それくらいわかっているだろう? アスランが大事なのはわかるが……でも、だったら、どうして貴様が奴を……」
言いかけて、イザークは言葉を切った。懸命なイザークの説得でも、カガリの心は少しも揺れなかった。
カガリが自分で思っていたよりずっと、決意は固く冷たかった。けれども、どうにかしてカガリを引き戻そうとするイザークの純粋な心配が、カガリは素直に嬉しく、そして申し訳なかった。
言い方は甘くないが、彼はやさしいのだ。
「ごめん、イザーク」
力の緩んでいた彼の手から、カガリは腕を抜きとると、その腕でイザークに抱きついた。本当は、子供をあやすようにイザークの背中をたたきたかったのだが、彼のほうがずっと背が高かった。
「あのな……」
いきなり抱きつかれて喧嘩する気をそがれたのか。げんなりした様子でイザークは言った。
「どういうふうに育てられたのかは知らないが、すぐ飛びつく癖は治したほうがいいぞ。子供じゃないんだからな」
「なんでだよ。悪いことじゃないだろ」
体を離すと、カガリはきょとんとイザークを見上げた。
「こんなところアスランが見たら、奴でも激怒するぞ」
「アスランが何を怒るんだ? 行儀か悪いからか?」
幼子のように首を傾げたカガリの頭を、イザークはため息をつきながら手のひらでぽんぽんとたたいた。
「まあ、そんなところだ」
苦笑いを笑みに変えて、イザークは言った。
「ほら、行くんだろう」
目線で軍営地を指し示す。
「行ってこい……」
イザークが笑っていたのかどうかは、背中を向けられたせいでわからなかった。
「……うん」
カガリはこくりとうなずいて、今度こそきびすを返した。林の中に走り出して、緩い坂を下って加速をつけて、それからもう、カガリは振り返らなかった。
アスランの休んでいる天幕はわかりやすかった。陣営の一番奥、崖を背にした最も大きな天幕だった。
カガリは森から回り込み、陣の背後をつくことにした。単独の攻撃だから可能なことで、軍であったらこうはできなかっただろう。
(見張りがひとりもいない……)
高台からアスランの天幕の様子を観察して、カガリは気付いた。
篝火がひとつ焚かれているだけで、天幕の近くには兵士のひとりもいなかったのだ。アスランが置かないようにしているのか、それともたまたま席をはずしているのか。
(どうして……でも)
一瞬の逡巡ののち、カガリは足を踏み出した。
この好機を逃してはいられなかったし、それに、待ってなどいられなかった。カガリは落ち着いたつもりでいたが、胸を占めているのはどうしようもない高陽だった。自分の耳に響くほどに心臓は高鳴っている。
恐怖と、興奮と、不安と、ないまぜになった気持ちはカガリの手足に熱と力を与えていた。
その高まりに任せて、木々の合間を割いて坂を駆け降り、カガリは一気に天幕まで飛び入った。重みのある布を両手で開く。
天幕の中は外見より広く、ちょっとした小部屋のようだった。油皿の明かりがあり、空間はほの明るい。
そこにアスランはいた。
カガリが飛び込んだ瞬間、油皿の炎がかすかに揺れて、静かな横顔と小さな天幕をゆらめかせた。明かりをもとに武具の手入れをしていた彼は、風のような侵入者に顔を上げた。カガリは肩で息をしながらアスランを見た。
「カガリ……?」
(アスラン)
カガリも声を発しようと息を吸うが、できなかった。
第一声で言うことは決めていたのに、見つめることしかできない。彼の姿を見たとたんに、しようと考えていたすべてのことを忘れてしまい、頭は空白になっていた。
「カガリだよな……」
アスランはもう一度名前を呼んだ。手にしていた剣を取り落としたことも構わずに、彼は立ち上がった。
からんと、かすかな音がする。
カガリは目眩がしそうな気分だった。彼と対峙するときのことを、何度も思い浮かべ、考えてきたのに、土壇場でどうしていいかわからなくなっていた。夢にまで見たその姿は、想像したどれよりたしかにアスランだった。
「どうしてこんなところに……」
アスランは一歩だけカガリに近づき、立ち尽くした。唐突な再会にどうすることもできず、二人ともが言葉をなくして見つめ合った。
こんなはずではなかったのに。
冷淡に、目的通りに、剣を抜き、カガリがここへ来た理由だけを述べて、そしてすべてが片付くはずだった。少なくともカガリの計画はそうだった。
けれども、アスランの姿、声を体に受けて、カガリの胸は感動でつまってしまいそうだった。自分が、ただ純粋に、彼に会いたかっただけなのだと思い知らされていた。
アスランは白っぽい衣を纏っており、立ち上がった姿に、カガリは思わず後ずさりしそうだった。思いがけないくらい彼の背が高かったからだ。カガリの中にいる子供の姿をしたアスランは、少女のように華奢な手足をしているのに、目前に立つ彼は、細身ながらしっかりとした骨格と、しなやかな筋力を感じさせる立ち姿をしていた。
カガリの対峙している人物はたしかにアスランだったが、彼女のよく知る子供ではなかった。
それならば、せめてそれらしく剣を構えて迎えてくれればよかったのに、彼はただ無防備に立っていて、カガリの倒すべき咎人にもなりきれていなかった。
(違う、だめだ、流されては。これはアスランだけどアスランじゃない。お父様の……みんなの仇なんだ)
ともすれば、決意が揺らいでしまいそうな感情の波を、カガリは振り切り言った。
「私は、おまえを倒しに来たんだ、アスラン。見張りをひとりもおかないなんて、おごったな」
瞳の色を変えて彼を見据えた。
宣言すると、動揺もゆっくりと冷めて、気持ちは再び無感動になれた。腰の短刀を抜くカガリをアスランは呆然と見ていた。
「見張りなど置いても、無駄なだけだからおいてないだけだよ。刺客くらい俺一人で十分だから。でも……カガリが来るなんて」
「嘘をつけ。いつか私が来ることはわかってはずだ」
カガリは剣をアスランに向けて構えた。
「由良を焼いた人間を私は許さない。それとも、私にとってなにが大切か、もう忘れてしまったということか?」
いっそ、カガリのことなど、四年の間に忘れてくれていたほうがよかったかもしれない。そうだったら、すべて捨てて、衝動だけで剣を使えたのに。
「いや、逆だよ。君が俺のことなんか忘れているだろうと思ったんだ。もう一度会えるなんて思いもしなかったのに、君のほうから来てくれるなんて」
アスランは微笑んだ。場違いなほど嬉しそうな表情だった。
「君が来てくれてよかった」
ため息と一緒に吐きだされた声は、少し低く、幕の中に響いた。
「たしかに由良のことは俺の罪だ。カガリが罰を下すというのなら、甘んじて受けるよ」
アスランに抵抗する気配は少しもなかった。正面からいっても、不意打ちをかけても、彼にその気があればカガリは決して敵いはしなかっただろうが。
立っているだけの相手を仕留めるならば話は別だった。カガリは息を止め、大きく踏み出し、にぎりしめた短刀を振り上げた。アスランの衣の前合わせを掴んで、あとは、何も考えなければよかった。
よかったのに。
掴んだ着物から、ふわりとアスランのにおいがした瞬間、カガリは頭からつま先まで懐かしさでいっぱいになってしまったのだ。抱きついたとき、おぶさったとき、いつもそばにあった、カガリの安心。
しびれるような感覚の向こうで、カガリは短刀が床に落ちる音を聞いた。
「カガリ……?」
同じく息を止めていたアスランは、ゆっくり呼吸を戻すと小声で呼びかけた。アスランを殺すはずの少女は、彼の胸にすがるようにして小さな肩を震わせていた。
「だめじゃないか、剣を落としたりしたら。昔、ちゃんと剣の使い方も教えただろう? カガリなら覚えているはずだ」
「だめだ……できない」
カガリは凍えた声で言った。
「お父様……ごめんなさい」
ただの灰になってしまった美しい由良と、焼け跡で拾った父の護身用の短刀と、怒りの衝動で、彼を倒せると思っていた。
「……カガリ」
震える肩をどうしたものか、持て余して、アスランはそっと両手で触れた。温かいその手のひらが、カガリのなにより大切なものだと思い知っていた。
いつの間に、カガリの中をこれほど占領するようになったのだろう。会えなかった四年の月日の間に想いは知らず募っていたのかもしれない。
父と故郷のかたきなのに。彼は、決してカガリには討てない人だった。
「アスラン……そこの短刀を拾え」
ふらりと彼から体を離して、カガリはうめくように指示した。しかし、アスランは次にカガリが命じることを的確に察したのだろう、床の刀を拾わなかった。
「それだけはできない、カガリ。他の何を叶えてあげてもいいけれど……」
「他に何にも望まない。私はおまえを殺しに来たんだ。それだけのためにここへ来た。それは、おまえを他の誰にも殺されたくなかったからだ」
虚勢を張っていたカガリの唇がついに震えだした。
「でも……」
息を継ぎ、言ってしまったらカガリの瞳から涙が落ちた。
「でも、それ以上に、私はおまえに会いたかった」
運命は仕組まれ、舞台は用意されていたのに、カガリはその役を演じきれなかった。敵討ちになるには、カガリの想いは育ちすぎていたのだ。
「剣をとれよ、アスラン。命を狙った刺客を生かしておくのか?」
カガリ声を大きくした。
自暴自棄になったのではない。自分にけじめをつけたかったのだ。どちらかしか、道はないのなら。
カガリが刀を振り下ろせないのなら、アスランが返り討ちにしなければ。
「言っただろう、カガリ。それだけはできない。君を殺すくらいなら俺は刃を自分に向けるよ」
「おまえはばかだ」
涙声でののしって、カガリは背後の短刀を拾おうとした。しゃがみ込んで、刀に手を伸ばしたカガリを、アスランは反射的に止めた。
「カガリ、よせ」
掴まれた手首を解こうとカガリがもがき、二人はもつれて床に倒れた。カガリはがむしゃらになって叫んだ。
「離せ、アスラン。私は……!」
けれども、カガリの抵抗も、声も、次の一瞬で飲み込まれてしまった。
アスランがカガリの手首を押さえたまま、唇に唇を重ねたからだ。のしかかるアスランの重さと熱に驚き、唇をふさがれたことに気付いたときには、カガリは抵抗を忘れていた。唇を奪われては息もできない。カガリはただただ目を見開いた。
自刃しようとしたカガリを止めるために羽交い締めにしたのかと思ったが、そうではないことはカガリにもすぐに理解ができた。
これは口づけだ。
「ん……っ」
彼がいくら必死で止めようとしたのだとしても、これはいただけないと、カガリはとっさにそう思った。声を出させないために唇をふさぐにしても、他にやりようがあったはずだ。
「やめ、……あす」
縮こまった体に力を入れて、アスランを押しのけようとしたが、カガリの力は少しの抵抗にもならなかった。
「カガリ、もうやめてくれ」
アスランの声は低く怒気を含んでいたが、見上げた彼の表情は泣きそうにも見えた。
「君が幸せで生きていられるなら、君が誰のものになっても構わないと思ったんだ、俺は。あの御殿の中で、誰よりも安全に暮らしているんだと……でも」
アスランは、カガリがこれまでに見たことがないくらいに怒っていた。掴まれた手首からそれが伝わる。
「それなのに、どうして君はこんなところにいて、しかも俺の目の前で自分に向けて刃物を握ろうとなんてするんだ」
アスランが怒鳴るのをカガリは初めて見た。
彼が痛みに耐えるような顔で叱るので、その痛みが伝染したようにカガリの胸もつぶれそうに痛んだ。
「だって……」
最後の柱が折れて、カガリは子供のように顔をゆがめた。
「だって、私はどうしたらいいんだ? もう、帰るところもない。アスランに復讐することだけが私の力だったのに」
彼を倒すという目的を失って、そしてどうしろというのか。そのうちにカガリは泣きじゃくっていた。
「私にはできなかった……」
再会して、はっきりとわかった。
カガリには由良より、宮より、アスランがなにより必要だったのだ。たとえ荒野に二人きりであっても、豪奢な御所にいるよりカガリはずっと幸せだ。
「私、アスランが好きだ」
すべての意味を込めて、カガリは言った。
「誰かに罰せられるならそれでもいい、それでもいいからアスランのそばにいたいと思ってしまうんだ……」
会えたなら、もう二度と離れたくはなかった。故郷のかたきを憎みきれず、それどころか恋い慕ってしまうなんて罪人はカガリの方だ。
「アスランのそばにいたい……でも私にはその資格がない」
腕の中で涙をこぼしながらカガリが告白するのを、アスランは黙って聞いていた。
しゃくり上げて泣いていたカガリの涙がおさまるまで沈黙は続いた。カガリが指先で涙をぬぐって、息を落ち着かせた頃合いを見て、アスランは静かに言った。
「カガリにはなんの咎も責もないんだよ。責められるべきは俺だけだから」
「でも、わたしは」
「俺は由良を守れなかった……」
それだけ言うと、アスランは唇を噛みしめて視線を外した。
「守れなかった……?」
言葉が微妙に噛み合わず、カガリは聞き返した。由良はアスランが滅ぼしたはずなのに、それを守れなかったとは。
「アスラン、おまえ……」
「もう、何を言っても言い訳にしかならないから」
たずねようと体を起こしたカガリをアスランは笑顔で制した。何も聞かせなくするようなきっぱりとした笑顔だった。
カガリは直感した。
アスランはなにかを隠したままにしようとしている。彼は決して嘘をつけないから、言わずにいつも隠すのだ。自分の痛みも、なにもかも。
「何を隠すつもりだ? 言い訳したらいいじゃないか」
カガリは歯噛みした。悔しかったのだ。
「おまえはずるいぞ、いつも、昔から。私はなにも隠してなんかいないのに、おまえは隠し事だらけだ」
彼が話してくれていないことは、数知れぬほどで、でもカガリはそれをむやみにたずねはしないと決めていた。彼が話してくれるのを待とうと思ったし、ひょっとすると、触れるのが怖かったのかもしれない。
「それで、また隠し事をふやすつもりか? おまえは私がそんなに信用ならないか」
彼を追い詰める言い回しだとわかっていながらカガリは言葉にした。さらに責めるようにじっと見つめてやると、しばらく迷ったアスランも、やがて諦めたのか、長いため息をついた。
「俺はただ、君は知らないほうがいいかもしれないと思ったから言わないでおくつもりだったんだ……」
前置きをして、アスランは端的に、事実だけを並べた。
「由良に攻め入ったのは俺じゃない、皇子本人なんだよ。奴は俺に成りすまして反乱軍の指揮をしている」
「アスランに成りすまして……?」
蒼い髪の少年の目撃者は多くいた。
「カガリ、皇子に会ったことは?」
「……いや」
「だろうな。会っていたらたぶんこんなふうに俺に会えないよ」
アスランの笑みに自嘲の色が交じったようだった。
「皇子の名はアレックスという……君をなにより欲しがった奴だよ」
「アレックス……?」
皇子に名などあったのかと、カガリはそんなことを思った。侍女も皆、皇子様だったり殿下だったり、敬称で彼を呼んでいたからだ。
「アスラン、ひょっとしておまえ皇子を知っているのか?」
アスランの口ぶりは見知った相手に対してのものだったが、皇子はカガリでも顔すら知らない人物なのだ。
「知ってはいるよ。次の大王、日継ぎの皇子だろう」
皮肉めいた言い方だった。質問に答えると、アスランは切り出した。
「カガリ……ハイネを覚えているか?」
「え……、ああ」
その名前でカガリの印象にあったのは、明るい色の髪に似つかわしく調子のいい青年だった。
「あのひとは皇子の側近だったんだ……何がしたいのか、何が目的なのか、最後まで掴めない相手だったが」
アスランはことの次第をカガリにわかるように説明した。
「この前の遠征の帰り、まだ都に帰還する前にハイネが伝達という名目で俺のところに来たんだ。本来の伝達はもっと下位のものがするもので、間違っても皇子の最側近のハイネがするものじゃない。だからあれはハイネの気まぐれなのか、もしかしたら皇子の企みだったのかも知れないが……」
由良に帰れ、と。
ハイネはそうアスランに言ったのだという。正規の皇子の軍が由良に向けて進軍するから帰ったほうがいいんじゃないかと。
アスランに任された東征軍は、皇子の軍の一部だけのものだった。都で事実とされていたのは、その帰って来た一部の軍が御所に火を放ったというものだったが。
真実はそうではなかった。
アスラン達、遠征軍はハイネの忠告通り途中で進路を変え、都に向かわず由良に向かっていたのだ。御所に放火などできるわけがない。
「その直後に皇子は御所に騒ぎを起こし、俺たちの先を越して由良を攻めたんだ」
「皇子が……」
カガリは確かめるようにつぶやいた。
彼は、のちには婚姻を結ぶ予定だった相手ではあるが、カガリにはラクスの兄だというくらいの認識しかなかった。存在自体がカガリの中に形を持っていない相手なのだ。その彼が由良を滅ぼしたという。
「皇子が私の敵なのか……」
憎しみを抱くには実感が乏しかったが、事実はようやくはっきりしていた。
「……君がそう言うと思ったから話したくなかったんだ」
アスランは深くため息をついた。
「もう奴を追いかけるつもりなんだろう、カガリ」
「だって……」
口にすると、実感してきたのか、怒りの熱がじわりとにじんだ。
「だって、アスラン。追いかけなきゃ。私たちのかたきじゃないか」
「君がそんなことを思う必要はないよ。俺が奴を止められなかった。だからこれは俺の罪だ……」
反論しようと口を開いたカガリを、アスランはいきなり抱き締めて黙らせた。
「君がそんなふうにして奴にとられるのが嫌だったんだ、俺は。憎しみだとしても奴が君の心を占領するなんて」
考えたくないと、アスランはつぶやいたようだった。
「アス……」
「君にかたきを討たせるくらいなら俺がアレックスを殺すよ……」
アスランは、誇張も冗談も決して言わないので、それは言葉のあやとはいえなかった。
「カガリがここにいると決めたなら、もう譲らないよ。奴に少しだって渡してやらない、君を」
腕が伸びてきたかと思うと、カガリはアスランに抱きしめられていた。
「俺は君が思っているような、ただの優しい人間じゃないんだ」
アスランの腕は手加減をしてくれず、カガリの背中を痛いくらい抱き締めていた。
「アスラン、痛い……」
カガリが耐えかねて声をもらすと、背中の腕が緩んだ。
すると、緩めた手がそのまま顔のほうに伸びてきて、頬をなぞり、カガリの髪を滑り落ちた。その指を追っているのか、アスランの瞳が頬をすべって肩のあたりに落ちた。瞳の色がいつもと違う気がする。
(なにを……)
その瞳にくぎづけになり、カガリは息ができなくなってしまった。声も息ものどから出てこない。
アスランは無言のまま指を滑らせて、あごから、カガリの唇にそっと触れた。いつのまにか、カガリの心臓はやぶれそうなくらいおおげさに鳴っている。金縛りにあったように何もできない。
(私……)
この状態に似たものを知っている気がする。
そう、恐怖だ。
カガリは瞬きもせずアスランの瞳を見つめた。恐ろしさに体の自由を奪われたときに一番近い気がするのに、けれどもその実はまったく掛け離れている。激しい鼓動がひどく堪えがたいのに、ずっとこのままでいたいようで。
「カガリ……」
囁くように名前を呼んで、アスランは顔を寄せた。カガリが無意識に身構えると、こつんと、額が軽くぶつけられた。
「とりあえず、今日は休もうか。君も疲れているだろう」
「あ……」
ようやく声が出た。
「詳しい話も、これからのことも、また明日話そう。君がここにいるのなら時間がないわけじゃないのだから」
体を退くとアスランはいつもの笑顔でにっこりと笑った。それだけだった。
「うん……そうだな」
カガリはぎこちなく同意した。それにうなずき返すと、アスランはさっと立ち上がった。
「この天幕を使うといいよ。他のより居心地はずっといいだろうから」
いろいろ揉み合ったおかげで砂ぼこりのついてしまった着物を、彼は軽く払った。
「あ、え……アスランは」
天幕を出ていこうとした背中にカガリは急いで言った。
「おまえはどこに行くんだよ。ここがアスランの寝所なんだろう。ここで休まないのか? 私相手に遠慮はするなよ」
一緒に寝て、一緒に起きるのが当たり前だったのだ。よそよそしくしてほしくなかった。
「俺は夜だからってゆっくり休んでもいられないんだよ。ぐるっと見回ってくるからカガリは先に休んでてくれるか?」
「そうか……うん、わかった」
納得してカガリはうなずいた。
アスランは、おやすみと目を細めると闇の中に出ていった。天幕に一人になると、カガリは気が抜けてしまい、ため息が出た。
(こんなことになるなんてな……)
生涯に一度の決心をして、来たつもりだったのに、結果を見てみれば、たどりついたのはカガリがずっと帰りたかった場所だった。一番安心できる、アスランの隣だ。
カガリはなくしていた体の半分を取り戻したような気分だった。それもそのはずだ、二人はほとんど兄弟のようなものだったのだから。
(でも……)
急ごしらえの寝台に腰を下ろしたカガリは、ぎゅっと胸元を押さえた。まだ、鼓動が速い。先ほどの金縛りは一体なんだったのか。
カガリの心に起こった初めての反応だった。
気持ちを落ち着けたくて、寝台に横になり、まぶたを閉じて、カガリはアスランを待った。とても眠れるような気持ちの状態ではなかったのだが、旅の疲れと、ようやく得た安堵はカガリを知らないうちに眠らせていた。
やがて、目を覚ましたカガリが起ききらない頭でぼんやり見たのは明るくなった天幕の中だった。