藍色秘抄
05
(あれ……?)
重たい頭を動かして、昨日のいきさつを思い出す。自分がいるのはアスランの寝所だということを思い出して、カガリは起き上がった。
天幕の中にカガリは一人だった。
(アスランは……?)
よほどたっぷり眠っていたのか、体が久しぶりに軽かった。入り口の厚い布を持ち上げると、視界を光が刺した。陽はもう高く昇っている。
「勝手に出られると困るのですが」
アスランを捜しに出ようとすると、横から機嫌の悪そうな声が掛かった。声のほうを見ると、金髪の少年がやはり機嫌の悪そうな顔でカガリを見ていた。
兵の一人だろう、身軽な具足を身につけている。
「勝手ってなんだよ。私は囚人じゃないぞ」
カガリは腕組みをして少年を見上げた。年の頃はカガリと同じくらいだろうか。肩まで伸ばした色の淡い髪を結わずにそのまま下ろしている。
カガリが不機嫌ににらみ返しても、少年は表情も口調も変えずに言った。
「あなたがふらふら歩き回ると確実に騒ぎになります。ご存知ないでしょうが、あなたのことは昨夜のうちにもう兵の間で広まっているんですよ。隊長が女性を連れて帰ったと」
「は?」
カガリの中で自分と女性という言葉が結びつくのには少々時間がかかった。
「今まで女性に興味すら見せなかった隊長が選んだ相手だとして、あなたは兵達の好奇の対象になっているんですよ」
カガリは焦った。
「それはちょっと勘違いしてるぞ。私はアスランの身内だぞ」
カガリが言うと、動きのなかった少年の表情にかすかな驚きが見てとれた。
「だとしても兵はそうは思いません。いらぬ混乱を作らないためにも……」
「おかしな誤解をされてたまるか。私にはなんにも後ろめたいことはないんだからな」
そんな浅薄な関係に見られていたのだということに、カガリは一気に腹を立てた。少年が止めるのも無視して、足を踏み鳴らす勢いで野営の中心に向かった。
一般の兵が集まっている場所。アスランのものよりさらに簡素な作りの天幕が集合している場所だ。集まって談笑する者、武具の手入れをする者、食事の用意をする者、穏やかな空気がそこにはあったが。
カガリが大またで通り過ぎたところから、それは順に凍りついていった。おおげさな者は、カガリを見つめてぽかんと口がふさがらなくなっていた。
(じろじろ見てきやがって)
肩を怒らせて、カガリは心の中で悪態をついた。
特にあてもなく、アスランを捜していたのだが、野営地もさほど広いわけではなく、カガリは運よく彼を見つけることができた。野営地の一角に、彼はいた。打ち合わせか何かだろうか、真剣な様子で立ち話をしていた。
「アスラ……」
呼びかけて、カガリははっとした。アスランの話していた相手がこちらを向いたのだ。
「……イザーク!」
二人の少年の周囲には、アスランの取り巻きとおぼしき兵も数人いたのだが、カガリは気にもとめず、イザークに駆け寄り飛びついた。銀髪の少年に一目散に抱きついたカガリを見て、アスランの表情が先ほどの兵達の誰より険しくなったのに、カガリはまったく気付かなかったのだが。
「お、おい。カガリ」
イザークは少しばかりよろけながらも、少女を受け止めた。カガリはほどんど泣いてしまいそうだった。
「よかった、私またこうしておまえに会えると思わなかった」
「ああ、俺もカガリが元気そうで安心したぞ」
胸にうずまった金髪をイザークはぽんぽんとなだめた。
「でも、イザークはどうしてここに?」
「ああ、昨夜貴様と別れてから、俺もじっとしていられなくなってな。もしも窮地に立っているなら、やはり助けようとも思って、正面から野営地に切り込んだんだ。すると入り口で不寝番をしていたのが、顔見知りのやつで」
そこで事情を説明され皇子の策略に憤慨したイザークは、アスランの隊に協力すると決めて、野営に加わったのだそうだった。
「回りくどい警戒をせずに最初からこうしておけばよかったのかもしれんな」
「ううん、来てくれて嬉しい! じゃあ、イザークもこれからまた一緒なんだな」
カガリが声を弾ませると、イザークも表情を緩めてうなずいた。そして、彼はちらりとアスランに視線を移したが、思わず吹き出してしまった。
「貴様もそういう顔をするんだな。気の抜けた顔しかできないのかと思っていたぞ」
くっくっと、イザークは肩を揺らして笑った。
「おい、カガリ。もういいだろ、貴様の弟が何か言いたそうだぞ」
「弟……?」
カガリが振り向くと、アスランは無表情で二人を見ていた。彼を見て、カガリは用事があったことを思い出した。
「そうだよ。言いたいことがあるのは私のほうだぞ。なんだかおかしなことになってるんだよ、アスラン」
「おかしなこと?」
カガリはイザークから離れて、訴えるようにアスランの袖を掴んだ。
「なんでか知らないが、私はアスランが連れて来たってことになってるんだ。おかげでじろじろ見られたぞ、腹が立つ」
「ああ、それか……」
アスランの表情に笑みが戻った。
「レイから聞いたんだろう?」
「レイ?」
アスランが金髪の、と補足してカガリは合点した。
「でもカガリ、刺客が処断もされずに居座るなんて、本当のことを知ったら事情を知らない兵が許すと思うか?」
「それは……」
答えられなかった。
「兵も敵意を持って君を見ているわけじゃないさ。嘘でもカガリの立場を決めておいたほうがよけいな詮索をされなくていいだろう」
「うん……そうかな」
アスランにさとされるとカガリは弱かった。幼い頃には反発しかしなかったというのに、アスランにじっと目を見て言われるとうなずくしかなかった。
「話は済んだのか?」
会話の切れ目にイザークが言った。
「あ、そうか……すまない。話をしてたんだよな」
カガリは少々赤くなって謝った。夢中で、アスランとイザークの間に割って入ってしまっていた。
すると、アスランが答えて言った。
「いや、いいんだ、カガリ。君のところに行こうかと話していたところだったんだ。ちょうど良かったよ」
「私のところに?」
アスランは一度イザークと目線を交わして、カガリに言った。
「アレックスのだいたいの居場所がわかったんだ。イザークが知らせてくれた。奴は主要な国や村を制圧しながら西に向かっているらしい。追いつくなら十日もあればでぶつかるだろう」
説明を聞きながらだんだんと表情を固くしたカガリに向けて、アスランは少しだけ微笑んだ。
「カガリ、どうするんだ?」
どうするかと問われて、カガリの答えがいくつもあるわけがなかった。アスランに追いかけたいと答えると、軍はその日のうちに移動を始めた。まったく前触れのない出発となったが、将であるアスランに兵は素直に従った。
軍を構成する者の大部分はアスランよりずっと年長だ。さらに、数人の近しい部下と彼とは父と子ほどの差がある。どうして特別身分も持たないアスランにこれほど従順なのか。軍というものにほとんど知識のないカガリでも疑問に思うほどで、気になったカガリはその日の夜にアスランにたずねた。
「イザークにも同じことを言われたよ」
アスランはあまり気の進まない様子で説明した。
「兵が従っているのは本当は俺じゃない。皇家なんだ。兵は俺のことを皇族の人間だと考えているから従っているのに過ぎないよ」
「皇族? アスランが? なんでだ」
「なんでだろうな……」
アスランは明らかにはぐらかした。しかし、それに気付かないカガリではなかった。
「そんな目で見るなよ。嘘をついてはいないぞ」
アスランは苦笑いした。
「似ているらしいんだよ、俺とアレックスが」
「似てるって顔がか?」
そういえば御所の騒ぎで、藍色の髪の少年を見たという者がいたのだ。おかしな話だよな、とアスランは笑った。
「でもこの東征軍は言ってみれば逆賊に仕立てあげられたようなものだからな。成果を上げて帰ってきたのに、反乱軍なんて汚名が都では当たり前になっている」
「ちょっと待てよ、じゃあここの奴らはアレックスの奴をアスランだっていってるのか?」
「名前は関係ないよ。ただどちらが正当であるかということだ」
アスランは気にもしていない様子だったが、カガリには納得がいかなかった。事実がねじまがっているようですっきりしないのだ。
「そんなのアレックスに会ったらぜんぶ私がはっきりさせてやる。ラクスを悲しませたのも、由良を焼いたのも、ぜんぶ奴なんだから」
ここで二人で話していても解決しないのはわかっていた。ならばカガリの手でアスランに罪のないことを示せばよいのだ。
「これで気になることは片付いたか?」
カガリの表情の曇りがようやく晴れたのを見て、アスランは言った。
「あ……うん、大丈夫だ」
一日の移動を終え、その日の宿場に選んだ里で、軍は歓迎を受けた。都の大王に恭順を示している土地だと、皇家のしるしがあればほとんどが歓待の姿勢をとる。
一応は皇子の軍であるから、それは当たり前ではあった。
そのおかげで、今夜は屋外ではなく、清潔に整えられた寝室にありつけているのだ。そして、里長の屋敷の最上の部屋に案内されたのがアスランとカガリだった。もてなしは丁寧で感情が込められていて、不満に思うことは何ひとつなかったのだが。
ただひとつだけ困ったことがあった。二人が通された部屋にはアスランの夜具しか用意されていなかったのだ。考え事が片付くまでは、カガリはそれが気にはならなかったのだが。
会話が止まると、そこに目が行き、急に胸が鳴りだした。
(そうか、立場でいえば私はアスランの側女みたいなものになってるんだよな)
カガリの寝床がないのはつまりそういう意味なのだ。アスランはそれについて何も意識していないように見えるが。カガリは自分でも驚くほど気まずい思いだった。
話をしようと思えばなんでも出てくるはずなのに、カガリの頭には何も思いつかなかった。
「不思議だな……」
口を開いたのはアスランだった。
「考えてみたら四年も離れていたのに、こうして君と話すと、昨日まで同じようにしていた気がする」
「そうだな……私もそう思う」
お互い成長してきた月日を、距離には感じなかったが。しかし、カガリにはアスランの言うように以前とまったく同じには思えなかった。四年前にはこんなふうに心臓がうるさく鳴ることはなかった。
「カガリ、疲れているのか?」
カガリの表情の強張りを疲労だと勘違いして、アスランは心配した。
「いや、そんなんじゃないよ。大丈夫だ」
「軍の中なんかに身を置いていたらカガリには窮屈だろうな」
それまで離れて座っていたアスランが近づいて来たので、カガリはますます息がしづらくなった。
意識したくないのに、心拍数が上がる。
昨夜と同じだ。アスランがカガリに手を伸ばし髪に触れたが、カガリは彼の目を見ることができなかった。
「もうおやすみ、カガリ。話はまたいつでもできるから」
数回頭を撫でて、彼は立ち上がった。そうして、昨夜と同じに出ていこうとしたので、カガリは思わず止めた。
「また出ていくのか? アスラン。おまえ昨日だって、結局戻ってこなかっただろう?もしかして一睡もしてないんじゃないのか」
「そんなことはないさ。休むところが他にないわけじゃない。見回るついでに睡眠はとっているよ。ひとつの布団に無理して二人で寝なくてもいいだろう」
反論する理由もなくて、カガリはうなずくしかなかった。昨日と同じに彼がいなくなると、カガリはなんだか本当に疲れたような気がした。
(変な心配をして損した……)
アスランにそういう気がないのは半面でありがたかったが、意識したのが自分だけだったのだと思うと、カガリは赤くなった。彼自身が言ったとおり、アスランは四年経ってもアスランなのだろう。
(イザークのところにでも行ったのかな)
軍に同行することになった友人に、アスランも話すことがあるのかもしれない。なんとなくそんなふうに思い、深くは考えずに翌朝顔を合わせたイザークにカガリはアスランの話をしてみたのだが。
イザークは首を横に振った。
「なんだ、貴様とアスランはやっぱり本当に兄弟だったのか?」
イザークは意外そうに言った。今度はカガリが首を振る番だった。
「違うぞ」
カガリがきっぱり否定するとイザークは腕を組んだ。
「じゃあ、アスランの奴がやせ我慢をしてるのか、慎重になっているのか、どちらにしても哀れだな……」
そこでイザークはふっと企むような笑みを浮かべた。その笑みを消してカガリに視線を戻すと、彼はカガリの思ってもみなかったことを言った。
「ひょっとすると昨夜、アスランは里長の娘のところにいたのかもしれないぞ」
「へ? なんだそれ」
カガリが目を丸くすると、イザークはやれやれといった様子で教えた。
「あのな、昨夜の歓待の宴で、長の娘が奴に色目を使っていたのに、貴様以外の全員が気付いていたんだぞ」
その日も一日が移動で終わった。一日の行軍を終えて足を止めた村でも、カガリ達はまた前日と同じようなもてなしを受けたのだった。
そうなるとやはりカガリとアスランは同室に通されるわけだったが。他愛のない昔話をしたり、カガリからはラクスの話をしてみたりと、会話は探せばいくらでも見つかるもので、夜更けまで二人は話を続けた。そうして、アスランがカガリに寝場所を譲り、出ていくところまで、昨夜とまったく同じだった。
違ったのは、カガリが今までにないくらいきっぱりと呼び止めたことだった。
「また私に場所を譲って、どこ行くんだよ?」
怒っているわけではないのだが、自然と声色が固くなっていた。
「どこって……」
「昨日も一昨日も私から逃げてるみたいだぞ。どうしても私とは一緒にはいたくないってのか」
つかつかと強気で近寄ると、アスランは返答に困ったようだった。
「一緒にいたくないなんて言ってないよ。ただ無理に俺がここにいる必要もないだろう」
「私がここにいて欲しいって言ってもか?」
カガリがちらりと見上げると、アスランは少し驚いたように言った。
「カガリ……もしかして眠れなかったのか?」
アスランらしいといえばらしいが、的外れだった。
「たしかに、慣れない場所だとカガリはいつも寝付けなかったもんな……」
「違う。そうじゃなくて……」
そうではないのだが、だったらなんなのだろう。一緒にいたいと思うのは確かだったが、カガリ自身どうして彼を引き止めたいと思うのか、わからなかった。
「アスランだって言ったじゃないか、私たちは昔と何も変わってないって。あの頃と変わりないなら、昔みたいに一緒に寝て、一緒に起きたって……」
言いながら違うと思った。十二の時と同じにしたいのではないのだ。そうではなくて、昔と違うものが欲しかった。欲しいと思うのに、欲しいものが何なのか、その答えはカガリの中にはなかった。
「俺が何も変わらないと言ったのは気持ちの話だ。四年間でひとつも変わっていないわけがないだろう。大人になっているじゃないか、君も。俺がここにいられない理由も、せめてわかってくれないか」
アスランは滅入った様子でため息をついた。カガリはすかさず言った。
「それは誰か女の人のところに行くからか?」
「女の人?」
まつげをしばたくアスランを、カガリは少しだけ頬を赤くしてにらんだ。
「私だってラクスから恋人がどういうものかは教わってるんだぞ。アスランも夜は誰かのところで過ごすんだろう。身内の私じゃなくて」
そばを離れたくない。一緒にいたい。
そんなふうに思っているのが自分だけなのだと思うと、カガリは胸が苦しかった。彼女の率直な物言いでやっと伝わったのか、アスランは、しばらく考えていたが、やがて低くたずねた。
「カガリはまだ俺のことを弟だと思っているのか?」
どこか深刻な口調だった。
「気持ちに変わりがないと言ったのはアスランだろ」
カガリはふいと顔をそらしたが、アスランの手が頬に掛かかり、それを戻した。
「変わらないよ、俺の気持ちは」
彼の瞳と目が合うと、どきりと、そらせなくなった。アスランの瞳はこんな色だっただろうか。深くて、静かで、烈しい嵐のようで。
「俺はあの頃からずっと君が欲しかった」
気がつくと、カガリの唇にはアスランのそれが押し付けられていた。唇が重ねられたのは初めてではなかったが。カガリの驚きはいつかの比ではなかった。
口づけられるとほとんど同時に抱きすくめられ、カガリは息もできなくなった。アスランの力は意外に強く、強引だった。確かに、もう彼は十二の子供ではないのだ。
それをカガリが一番わかっていなかったのかもしれない。まるで、おとなしかった子犬に、急に襲い掛かられたような気分だった。
「アスラン……待って、ちょっと」
すっかり驚かされてしまい、カガリは足元も危うくなっていた。ふらふらと、力のない両手でアスランの胸を押す。
「四年も経つのに君はうとすぎるよ。せっかく、部屋から出ていくことができていたのに、どうして呼び止めたりするんだ」
カガリが拒否を示しても、アスランは腕を緩めもしなかった。
「他の人のところに行くだって?ずいぶんと不愉快なことを言うんだな」
その声で、カガリはアスランが怒っていることに気がついた。
「それで? 君のところにはイザークでも来るのか?」
「アス……」
「君が俺のことを弟だって思うように、俺も君のことを兄弟のように思えたらいいと何度も思ったけど」
腕におさめたカガリの形を確かめるようにアスランの手が背中を撫でる。
「できるわけがない……俺の気持ちはそんなものじゃ片付かないよ」
カガリの言わんとしたことに気付いていながらそらとぼけていたのか。寝物語のその先を、望んでいたのはカガリだけではなかったのだ。いや、もしかするとアスランのほうがずっと……
「怖い……?」
カガリが動揺しているのが見て取れたのだろう。アスランは耳元に囁いた。
「こ、怖くなんかないぞ……おまえがいきなり抱き締めたりするからびっくりしただけで……」
「君が怖がるだろうと思ったから、こんなことはしたくはなかったんだけど……」
耳に不思議な感触が走った。耳たぶを舐められたのだとわかって、カガリは鳥肌が立った。
「やめて欲しいなら今のうちだぞ。今なら昨日みたいに俺は出ていくから」
完全に優位に立たれたことを悔しく感じて、カガリは強がった。
「私を子供みたいに言うなよ。私だって、何にも知らないわけじゃないんだぞ」
「いや、カガリは知らないと思うよ」
腕の力が揺るんだと思うと、また口づけられた。目を開けていられなくなって、カガリは瞳をぎゅっと閉じた。
その後に、アスランがかすかに微笑みを浮かべたのをカガリは知らなかった。唇を噛み合わせるように、何度か口づけられた。乾いた唇が湿り気を帯びる。
呼吸を止めていたカガリが耐え切れず息を吸おうと唇を少しだけ開いた瞬間をアスランは逃さなかった。口を押し広げ、入り込んできた舌に、カガリは再び驚かずにいられなかった。
「んっ……、ふぁ」
アスランの舌が上あごをなぞり、カガリの舌を求めて絡まる。カガリはどうすることもできずに、ただ口を開き、口づけを受け入れた。何をされているのかといえば、もちろん接吻なのだろうけれども。カガリの知識には口の中まで侵す口づけは存在しなかった。
「はぁ……」
とろりと舌を抜かれて、唇が離れると、カガリは息をもらした。アスランの口づけはカガリに得体の知れない心地よさを与えていた。
「な……んだよ、今の」
翻弄されてしまったことを隠そうと、カガリは怒ったように言った。
「何って、口づけだよ? 知らなかったか?」
唇の次は額に口づけながら、アスランは答えた。彼もどうやら主導権を握れていることが楽しいらしい。
「こんなことどこで教わったんだ」
カガリはぶつぶつと文句を言った。同じように育ってきたはずなのに、変だと思う。
「私の知らないあいだに……」
「俺は知らないあいだに、カガリが皇子に盗られてしまったものだとばかり思っていたよ」
体がきしむんじゃないかと思うくらいに、アスランはカガリを抱き締めた。
「よかった。本当にそうなっていたら、とてもこの場で正気を保てなかった」
声が静かである代わりに、カガリを締めつける腕は遠慮がなかった。
「アスラン……苦しい」
「……うん、ごめん」
何に対しての謝罪だったのか。アスランは急に腕を解くと、間をおかずに、カガリを抱き上げた。
「え、……わ」
カガリをうながすのも面倒だったのだろう。アスランは軽々とカガリを運び、夜具の上に降ろした。
「ラクスに教わったって、一体何を聞いたんだ?」
「え……」
正面からたずねられて、カガリはたじろいだ。ラクスから聞いていたのは、彼女が乳母から教わったことの受け売りで、知識というより物語に近いものだった。夫婦となった男女は、夜のしとねで体を重ねて、互いを慈しみあうのだと。
「よく……わかんない」
「そうか……」
カガリがうつむくと、アスランはふっと笑った。
「じゃあ、俺がこれからどれだけカガリのことが好きか……それを教えてあげるから」
ひざの上に重なっていた華奢な指をとって、彼は儀式のように口づけた。
「いやだったり、痛かったら言ってくれ……」
「う……うん」
止められるかどうかは保証できないけど、とアスランはこっそり付け足した。ゆっくりとカガリの上体を布団に沈めて、その上に覆いかぶさる。真摯な彼の瞳を、カガリは少しだけ怖いと思った。
「ずっと、こうしたかった……本当に」
切なげなため息と一緒に、彼は言葉を吐いた。ことさらにゆっくりとカガリに触れる。
「カガリ……」
熱く、名前を呼ぶと、アスランの中で歯止めが利かなくなったようで、そこから先は噛み付くような愛撫だった。
「んんっ……ふ」
それは飲み込まれるほどの口づけで。
「あす……」
待って、とすら言えなかった。アスランが一途に唇を求め舌を絡めるのに、カガリは唇が離れたすきに息をするのが精一杯だった。
「あ、……えっ」
やがて、遠回しに腕や腹の辺りを撫でていた手が胸のふくらみに触れて、カガリは思いがけず声を上げた。
「アスラン……うそ、んっ」
口が自由になったかと思ったら、アスランはカガリの肌に舌を這わせていた。
「ふ……っ、う」
薄い夜着越しにアスランの手が体中を撫でていく。どうすればいいのかわからずに、カガリは布団をにぎりしめた。ずっと、こうしたかったと彼が吐露した気持ちはなにより真実だったのだろう。
自分からは必要でなければ指一本もカガリに触れてこなかったアスランが、カガリの肌に夢中になっていた。
(ま、待って……っ)
思っても声にならなかった。どきどきと、心臓が呼吸までも支配して声が出ない。何も考えられなかった。いやだったら言ってくれと彼は前置きしたが。
声が出なければどうすればいいのだろう。
「ぁ……すら……っ」
ひょっとすると彼には感情がないのではないかと、周りが思うほど穏やかで冷静なアスランが、これほど感情的になるのをカガリですら、はじめて見た。今の彼は、やめてと言っても聞いてくれない気がした。
「ん……っ」
鎖骨の肌を吸っていた唇が下りてくるのにあわせて、手のひらも着物の前合わせを開き、滑り込んで素肌に触れた。
「ひぁ……、や」
強張っていたカガリがいよいよ手足を緊張させたとき。ふいにぴたりとアスランが動きを止めた。
「……え」
あまりにも唐突だったため、まともに彼の顔が見られなかったカガリも、そっと胸元のアスランに視線を落とした。するとアスランは、急に熱が冷めたかのようにカガリから手を引き、顔を上げた。
「どう……したんだ?」
カガリがよほど不安げな顔をしていたのだろう。アスランは安心させるようにカガリに微笑みかけた。それからがらりと表情を変えると、戸口の方に向かって言った。
「何事だ?」
「お休みのところ申し訳ありません」
即答で返ってきた返事の声にカガリは覚えがあった。たしか、レイという名の少年だ。板の扉の向こうから彼はためらいなく次の言葉を告げた。
「将殿、敵襲です」
少年の温度のない口調のおかげでカガリの興奮も一気に醒めた。
「皇子のものと思われる軍が、この館を目がけて夜襲を掛けてきました」
固い表情で報告を聞いていたアスランの表情が、苦笑いにゆがんだのをカガリは見た。
「わかった。すぐに行こう」
アスランが答えると、レイは下がったようだった。
「……まるでアレックスの嫉妬だな」
少年の気配が完全に消えると、アスランはぽつりと皮肉を言った。
「なあ、アスラン……アレックスが来たのか……?」
起き上がろうとしたカガリを、アスランは抱きすくめた。
「カガリを盗りにきたんだろうな、間違いなく」
やわらかな体にすがりつき、薄闇の中、押し殺した声でアスランは囁いた。
「渡すものか……他の何をやれても、君だけは奴にはやれない」
そのうちに、腕を解いたアスランが、当然のようにカガリを置いていこうとしたので、カガリも呆けているわけにはいかなくなった。
「待てよ、私も行くぞ」
「……言うと思ったよ」
「なら黙って行こうとするなよ」
アスランを追って、ひざを立てたカガリの肩を押さえて彼は有無を言わさず座らせた。
「君が行って何ができる?」
見下げるのでも、さとすのでもない。
カガリの瞳をまっすぐに見て、アスランはたずねた。勢いが先に立ってしまいがちだが、真に盲目的に行動できるほどカガリも子供ではなく、落ち着いてたずねられると、現実が見え、答えられなかった。気持ちだけでは、軍を相手にはできないのだ。
訓練を受けた兵の中にカガリが加わって戦うのは、わざわざ死にに行くようなものだった。
「わかってるよ……」
カガリは肩を落とした。
「わかってるけど……でも」
決着はどうにかして自分でつけたいのだ。雲のような存在だった皇子の顔を拝んでやりたい。
「皇子にはちゃんと会わせるよ。君が無茶をしないでここで待っていてくれるのなら」
すべてカガリが望むようにするからと、アスランはカガリの肩を強くつかんだ。
「君は終わるまで、ここにいると約束してくれないか」
戦場に出ることより、なによりカガリを失うことが彼は恐ろしいのだ。
「わかった……」
約束してしまったら、カガリに破ることはできない。戦う夫を待つだけの妻のようなものにはなりたくないと、幼い頃に強く思ったものだけれど。アスランを信じ、カガリは決意してうなずいた。
「じゃあ、また後で……」
それで安心したのだろう。金色の前髪のかかった額に唇をかすめて、アスランは部屋を後にした。
「……気をつけて」
もどかしさを飲み込んで、カガリはつぶやいた。
ひとり、カガリを残したアスランのこの判断が正しかったのか、誤りだったのか。戦場についていっていれば命の保証はなかったのだから、その点では正解だったのだろうが。カガリを館に残したことを、のちに後悔しなければならなくなるのだとこのときのアスランは思いもしなかった。