藍色秘抄
06
(外がざわざわしてる……)
里のどこが戦場になっているのかはわからなかったが、耳を澄ますと、遠くの合戦のざわめきが聞こえる。眠ることも、ただじっと待つこともできなくて、アスランが出て行ってしばらくして、カガリも部屋を出た。
廊下をひたひたと歩き、外の様子が見られる縁側を目指す。
(火が……)
縁側に出ると、いよいよ騒がしかった。叫び声や掛け声、金属のぶつかり合う音が一緒になって夜の空に響いていた。燃えているのは畑なのか民家なのか。
館の庭の高い塀の向こうに、ぼうっと赤い明かりが見える。
(アスランはもうあそこにいるのかな……)
縁側のてすりに手を置き、赤くなった里山を見るカガリの横顔も、ほんのりと赤い光が照らしていた。里長たち館の人々は戦いに出たのか、どこかに避難しているのか、建物は静かなものだった。
だから、かすかな床板のきしみにも、カガリも気付いたのだ。
背後にぎしりと物音がし、人の近づく気配を感じて、カガリは振り向いた。音の原因は廊下の暗がりの人影だった。ゆっくりとした足取りでそれは近づき、やがてカガリと同じく夕日のような色が照らした人影の正体は、藍色の髪の少年だった。
「アスラン……?」
いるはずのない彼である。カガリはまつげをしばたいた。薄明かりだけでは彼の表情が見えず、カガリは少年に駆け寄った。
やはり、アスランだ。
「どうしたんだ?なにかあったのか?」
早口に問いかけたが、彼は答えずにじっとカガリを見返すだけだった。カガリはなぜかそこはかとない不安を感じて彼の腕をつかんだ。
「黙ってないでなんとか言えよ。なんかあったんだろう?」
カガリが声を大きくすると、彼はようやく反応を返した。ゆっくりと目を細め、彼は微笑んだのだ。込み上げてきた嬉しさがほころんだような。
「アスラン……?」
様子がおかしいと、カガリははっきり思った。しかし、彼の発した言葉は普段通りだった。
「なんでもないよ、カガリ」
翡翠色の瞳に、かなたの炎の色が映っていた。
「ただ、君の顔が見たくなったんだ」
呆れて、カガリは気が抜けてしまった。
「そんなことのために戻って来たのか?」
「うん……」
「あのなあ……」
ばかばかしくなって、怒る気もしなかったが、一言言ってやろうと、カガリは彼の顔をもう一度ちゃんと見た。その微笑んだ彼の瞳を見た瞬間。
カガリはぞっとするような違和感を感じた。
(アスラン……、じゃない)
断言できた。
外見は寸分の違いもなくアスランなのに、目の前にいる少年は彼ではない。たしかにアスランの形をしているのに。
(これは、誰)
カガリはふらりと後ずさった。
「どうしたんだ? カガリ」
彼は笑って、首を傾けた。やわらかく、微笑みの手本のような笑顔なのに、瞳の奥が笑っていない。
「おまえ……」
こんなに怖い思いをしたことがあっただろうか。恐怖に唇が震えた。
「おまえ、誰だ」
カガリが敵愾心をこめた瞳を向けても、彼の笑顔は崩れなかった。
「君がアスランと呼んだからアスランなんだろう?」
くすくすと彼は品よく笑った。
「おまえはアスランじゃない。私にはわかる。一体……」
誰だと口にしかけて、カガリはしびれるようにひらめいた。
(……アレックス)
「なんだ、もうばれたのか。少しつまらないが……カガリも賢くなったんだな」
「わ……、私の名前を呼ぶな!」
カガリがまた一歩下がると、アレックスはあいだを詰めた。
「どうしてだ? カガリ」
走って逃げようかと思った矢先、アレックスの手が伸びてカガリの二の腕をつかんだ。足がもつれて転びそうになったカガリを支える格好になる。
「混乱する? あいつと同じ顔で同じ声で……」
「や、やめろ……っ」
耳元で囁かれた声はアスランののどが発するものと同じだった。これが待ち望んだ皇子なのか。
「なんで敵の大将がこんなところに……!」
殴り掛かるつもりで腕を振ったが、アレックスにつかまれた腕はびくともしなかった。恐怖で手足に力が入らない。
「言わなかったっけ? 君に会いに来たって」
カガリの髪に手を差し込み、小さな頭を抱え込むと、アレックスは少女の唇を唇でふさいだ。
「ぃ……や!」
今度こそ手加減なしで、カガリはアレックスを突き飛ばした。それで二人の唇は離れたが、アレックスはカガリの手首をつかんで逃がさなかった。
「わ、私に触るな!」
「触るな? ひどいことを言うな……あいつには自分から近寄るのに俺にはその態度なのか?」
アレックスは表情に憂いを浮かべてみせた。
「誰がおまえなんかに……!」
「そういう態度はいただけないなぁ、婚約まで結んだというのに」
渾身の力をこめてアレックスの手を外そうとしてもまったく敵わず、カガリは彼の胸に片手でやすやすと引き寄せられてしまった。
「そんなの、名ばかりの婚約じゃないか」
「名ばかり? どこが?」
アレックスは暴れるカガリを抱きすくめた。
「俺はこんなにもカガリが好きなのに……」
力いっぱい抱き締めながら、耳元では誘うように甘く囁く。
「い、や……アスラン……っ」
「そんなにあいつがいい?」
アレックスは場に似つかわしくないくらい優しく問いかけた。
「力も、身分も、何にもないのに? 俺ならカガリを守れるのに? わかってないなら教えてあげるが、あいつに君は守りきれない」
背中を抱き締めていた腕を、アレックスは撫でるように下ろしていく。
「現にこうして、大事なカガリは他のやつに捕まってるじゃないか」
「やっ……なにを」
太ももを這い下りたアレックスの手が夜着をたくし上げはじめて、カガリはびくりと悲鳴を上げた。
「いや、……やっ」
太ももの内側を撫でる手にぞくぞくする。
「ねえ、あいつにはもう許した?」
「え?」
気を抜いたのもつかの間、カガリの足の付け根に、アレックスの指が触れた。
「え、いやっ、や! やだぁ」
未知の場所を触られ、降って湧いた恐怖にカガリは一瞬で身がすくんだ。うごめく指の感触が生々しいくらいにわかる。
「ひ……っ」
ぎゅっと目をつぶる。
(アスラン! アスラン!)
叫んで彼を呼びたいのに、恐怖でもう声がでない。変わらず優しく囁きかけるアレックスが恐ろしかった。
「ほんとに、カガリはあいつばっかりだな」
カガリの心を読んだかのように、アレックスは言った。
「カガリの心を占めるものを全部なくそうと思って、由良も消してみたけど。一番の邪魔はやっぱり奴だったんだな」
「やっ、やめて……お願い」
懇願など屈辱でしかないのに。足はがくがくと震え、立っていられないくらいで、カガリはアレックスの着物にしがみついた。怖くて気持ちがつぶれそうだった。
胸にすり寄るようなカガリのしぐさが嬉しかったのか、アレックスは愛撫を与えるのをあっさりとやめ、愛しいものを包むように少女を抱き締めた。
「君さえ手に入れば俺はなんにもいらないんだよ、カガリ」
言い聞かせるように、彼は続けた。
「あいつのことをちゃんと忘れるなら、アスランは消さずにいてあげるって言ったら、君は綺麗さっぱり忘れられる?」
アスランを消してしまうことなどさして難しいことでもないんだよと、アレックスは笑った。
「兄殺しなんて俺にはたいしたことじゃないし」
(兄……?)
上手く機能しない頭の隅で、カガリはぼんやりと聞いた。
「ただ、着物を汚すのは好きじゃないんだ。できることなら避けたいからね」
ついでに語りながら、アレックスは腕に抱えたやわらかな金髪を撫でていた。
「落ち着いた?」
髪を撫でていると、しばらくして、震えのおさまってきたカガリにアレックスはそっとたずねた。すっかり魂が抜けてしまったようなカガリの頬に手をやり、上向かせる。
涙を堪えていたカガリの瞳は潤み、頬も紅潮していた。
「そんな顔をされるといじめたくなるじゃないか」
アレックスはまたくすくすと笑った。額を寄せてやわらかな頬を楽しむように撫でる。
「やっと手に入れた……カガリ」
(その声で……)
お願いだから呼ばないでほしいと、カガリが思っている間に額の距離がさらに縮まり、唇にアレックスの唇が押し当てられた。
「ふ……っ」
抵抗しなくては、と思うのに気持ちが疲弊しきっていて、体は重く動かなかった。重なるだけだった口づけが、そのうちに唇を割り、深いものに変わっていく。
「ん……ぅ」
(アスラン……)
熱情そのものだったアスランの接吻を思うと、カガリは涙が込み上げてきた。舌が絡まり、口内を撫でる。行為は同じなのに、カガリの胸にはあの時のような苦しくなるほどの高揚はなく、あるのは絶望に似た感情だった。
「もう抵抗はやめにしたのか?」
問いながらも、アレックスの手は無遠慮に進む。
「知らないぞ? カガリがいいなら俺の好きにしてしまうけど」
「んっ」
アレックスの指先が胸の頂きをつまんだ。
「さて、どうしようか?」
思案するような顔つきで、アレックスはカガリを眺め下ろした。
少年の一番の怖さは綺麗なくらいに作られた表情だ。底知れなくて、恐ろしい。
「あいつと何をした? どこまで許したんだ? それがなにより気になるし……」
肌にたずねるように、体中に彼は手を這わせた。
「それを考えると、気が狂いそうなんだよ、もう」
ぞっと、背中を走ったのは悪寒だったのか。
アレックスは手近な部屋にカガリを連れ込むと、簡単に押し倒してしまった。あっという間のことで、カガリがはっとした時には、ひざ頭を割られそうになっていた。
「や……やだ」
カガリは子供のように顔をゆがめた。
「先に言っておくけど叫んでも無駄だよ。今、館にいるのは二人だけなんだからな」
開かされそうになる脚を、カガリはかろうじて守る。
「やだ、いやだ……離して……っく」
琥珀の瞳はみるみる潤み、とうとう涙が溢れてしまった。
「そんなにいやなのか」
暗がりの中で、アレックスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「残念だけど、まだ当分はカガリのアスランは戻ってこられないぞ」
カガリの最後の抵抗もあっさり無にして、開いた脚の間からアレックスはカガリにおおいかぶさった。
「それに戻って来たとしても、あいつに俺は殺せないから……」
「それはどうかな」
アレックスの声に重なるようにして、低い声が響いた。
「今すぐにでも俺は剣を動かしてやりたいが」
続けて、刀を構え直す硬質な音がした。
まばたいて涙ににじんだ視界を晴らすと、カガリの瞳に映ったのは、自分を押さえ込んだアレックスの首筋にそえられた鋭利な刃だった。さらに、その肩口の向こうには、無表情で剣を構えるアスランがいた。
「久しぶりだなぁ、アスラン」
感慨深げにアレックスは言った。首に触れている剣の切っ先がまるで目に入っていない様子で、彼は続ける。
「けど、相変わらず、することが粗野だな。おまえと同じ血が流れてると思うと時々嫌でたまらない」
「そんなことはどうでもいいから、そこをどけ」
本当にアスランの声なのかと一瞬耳を疑うほどに、冷酷で思いやりのかけらもない声だった。剣先がわずかにずらされて、アレックスの首に一筋の傷ができた。
「おどしのつもりか? 皇子に切りつけたなんて、ただの死罪じゃすまないぞ」
アレックスは愉快そうだった。
「ここでおまえを斬って、誰が俺を裁くっていうんだ?目撃者もいないだろう」
「よく言うな。できもしないくせに」
「できない? 簡単なことだ。あとは手を引くだけなんだからな」
刀の柄を握り返し、でも、とアスランは言葉を継いだ。
「それをすると、カガリがおまえのせいで汚れてしまうからな。そこをどけば剣は退いてやるよ」
「……本当につまらない奴だな」
アレックスはため息をつくと、指で刀を払って立ち上がった。
「やっぱりおまえを皇族にしなくて正解だったよ。あんな父でもたまにはいい判断をするものだな。宮の中で生きていくにはおまえは甘すぎる」
アレックスが着物を直してカガリから離れると、アスランはすぐさま少女を抱き起こし腕に抱えて、剣先をアレックスに向けた。
「それは平常のときの話だろう。理性をなくしたときの自分は俺自身も知らない……今、おまえに何をするか自分でもわからないな」
触れているアスランの肌から、ほとばしる怒りをカガリは感じた。静かな語り口調の内には、業火のような激情があった。
アスランに肩を抱えられたカガリをじっと見つめて、アレックスは独り言のようにつぶやいた。
「どうして先に会ったのが俺じゃなかったんだろうな……」
まつげを伏せた彼が一瞬だけ見せた表情を、なぜか泣きだすんじゃないかと思って、カガリは驚いた。まるで心細い迷子の子供のようだった。
「ハイネ」
面倒そうにアレックスが呼ぶと、いつから控えていたのか、アスランとカガリの背後に夕日色の髪の青年が現れた。
「戻りますか?」
「ああ、邪魔者が来たからな」
「では兵は完全に退かせましょうか」
「そうだな」
手のひらでハイネに指図する。体を寄せあう、カガリとアスランに一瞥もくれず、去って行ったアレックスは、やはりかしずかれることに慣れているようだった。
上等な絹のすそをひるがえして彼の姿が完全に消えると、カガリは糸を抜かれたように体の力が抜けた。
「カガリ、ごめん」
苦痛をもらすように謝って、アスランは剣を放ると、カガリを抱き締めた。
「……アスラン」
やっと名前を呼ぶと、堪えていた涙が一気に湧いてきて、カガリはアスランにしがみつき声を上げて泣いた。温かい体温と、体の芯まで馴染んだアスランの感触と匂い。
愛しくて、心地よくて、その胸にカガリはがむしゃらにすがった。息を詰めて、闇からかばうようにカガリを抱き締める。そうして、アスランは何度もごめんと言った。
「君を一人にするんじゃなかった……留守を狙うなんて奴の考えそうなことなのに。ぜんぶ俺の責任だ」
「違う……ちがうんだ」
鳴咽の合間にカガリは言った。
(悪いのは抵抗できなかった私だ)
殺そうしていた相手だったのに、手も足もでなかったのだ。それどころか、唇を侵され、散々体を触られて、アスランも知らない場所を許してしまった。思い出したとたんに感触がよみがえり、カガリは震えた。
なにもかもが、はっきりと体に残っている。
「アスラン……」
もっと、強くアスランを感じたくて、カガリは囁いた。
「もっと……腕強くして」
カガリが震えているのがわかっていたのだろう。アスランはそれに応えて息もできなくなるくらいにカガリを抱き締めた。時間と共に涙はだんだんと落ち着いて、呼吸も元に戻っていく。
熱くなった瞳を閉じて、カガリはアスランの着物に頬を寄せた。
「ありがとう……」
「いや……」
言おうかどうかを少しだけ迷って、カガリは切り出した。
「なあ、もうひとつ、お願いしてもいいか……」
意地や照れは今はなく、今だけならカガリはアスランに思ったままをねだれた。
「触って、アスラン……お願い」
なだめるためにカガリの背中を上下していた手がぴたりと止まった。顔は見えないがアスランはきっと驚いている。
「……触って、アスラン」
カガリは胸に顔を沈めて繰り返した。どうにかしてアレックスの感触をなくしたかった。アスランがいっぱい触ってくれればその感覚がアレックスを上回り、アスランの手のひらがきっと肌に残る。
(早く……)
早くアレックスを忘れなくてはならない気がした。逡巡ののちに断れないと思ったのだろう、弱ったため息をついて、アスランはうなった。
「その言い方はひどいぞ。理性が飛びそうだ」
「いい……それでも」
アスランの愛情を受けたかった。すべて忘れてしまえるくらいに。
「理性をなくしたら俺は何をするかわからないんだが」
一応念は押して、けれどもすでに止められなくなっていたらしい。カガリの髪を乱して小さな頭を抱え込むと、アスランは唇に噛みついた。
「ん……はっ」
アスランの口づけだった。前回の時は、ただ堪え目をつむっているだけで何かを感じる余裕はなかったが。
「はぁ……」
口内を撫で、舌に絡まるアスランの愛撫を感じとれ、カガリはそれを心地よいと感じた。その感覚を味わうように軽く瞳を閉じた。
はじまりの性急さとは違い、アスランの口づけはたっぷりと優しかった。それはカガリの欲しかったものそのもので、気持ちも溶かすようなアスランの舌にカガリは無意識に応えていた。
「ふぁ……」
こんなに心地よいものなのかと、カガリは意識の隅で感動する気持ちだった。蜜に酔うような。髪をくぐるアスランの指にうっとりとまぶたを閉じる。
長い口づけを終わらせると、アスランはまたカガリを抱き締めた。
「カガリ……、大丈夫か?」
「ん……なにがだ?」
接吻の余韻がもったいなくて、カガリは小声でたずね返した。
「いや……」
アスランは言いにくそうに言葉を濁した。彼がためらっていることに漠然と察しのついたカガリは、アスランの肩に額を寄せて言った。
「大丈夫も何も……」
先程と同じことを言いかけて、カガリは赤くなった。もしかしたらとんでもないことを言っていたのだろうか。ただ思ったままを言っただけなのだが。
アスランのためらいが伝染したようにカガリまでどきどきしだしてしまった。顔が熱い。
「緊張されるとこっちも緊張してきてしまうんだけど」
アスランは眉を下げて笑った。
「そんなこと言っても……」
走りだした鼓動はどんどん加速してしまう。
「変だな、私。アスランに頭とか撫でてもらうのは好きなんだぞ。お父様に撫でられているみたいで安心するような」
「お父様か……」
アスランは考えながらつぶやいた。
「褒め言葉と受け取っていいんだろうけど。お父様にはさすがになれないかな」
苦笑いをすると、アスランはわざと耳元に唇を近づけて声を低くした。
「違うんだってことを教えてあげたほうがいいかな」
「え、わ……」
首筋に舌を這わされて、カガリはぞくりと震えた。
「何……ふぁ」
アスランの髪が肌をくすぐり、唇がついばむように触れる。それと同じくして、衣を握りしめていた指を解かれ、代わりに彼の指が絡まった。高鳴る胸と過敏に煽られる感覚が一緒になって、カガリを騒がせた。動悸のせいなのか、息が上がる。
(……気持ちいい)
腕を上下するアスランの手のひらと、夜着の透き間を這う唇。愛撫を受けながらカガリはまた夢見るように瞳を閉じた。じんわりと癒されるようなのに、発熱をうながすほどの高揚があった。
アスランなりにカガリを落ち着かせようと、慰めようという気持ちがあるのだろう。前回みたいに急くようなところはなく、アスランの触れ方はひたすら穏やかだった。
場所を寝室にしていた小部屋に移して、二人はまた口づけから始めた。
「ぁ……っ」
アスランが愛撫を始めると、カガリの口からは自然と声がもれる。意図しているわけではないのに勝手に喉が鳴ってしまうのだ。
「ふ、やぁ……あ」
アスランの手が胸に触れ、円を描くように揉みしだく。今、自分達がしているのが恋人達がする行為であり、アスランはただカガリをなだめるために体に触れているのではないとわかっていた。
いやらしいことをしているのだという自覚はある。
「え? あす……あっ」
するりと寝間着に入り込んだ手が、肩から前合わせを大きく開かせた。肌があらわになる。薄い着物一枚きりなので、胸から腹まで簡単に裸にされてしまった。
「や、やだ……ちょっと」
さすがに戸惑わないわけにはいかなかった。
触ってほしいとはたしかに言ったが、脱がせることまでは頼んでいない。
カガリはとっさに胸を手でおおったが、アスランは止まらずふくらみに触れ、さらにはその頂点を口に含んだ。
「あ、待って、やっ」
アスランの頭を掴んで引きはがそうとしたが、与えられた刺激に、思わず胸に押しつけるように抱えてしまった。アスランは黙々と愛撫を続ける。
「アレックスになにされた?」
「え……」
「ごめん、聞かずにいるつもりだったけど、無理だ」
アスランが苦々しく思っているのが声でわかった。
「あいつが触ったところぜんぶ教えてほしい」
アスランは顔を上げてカガリを見つめた。なるべく顔にはださないようにしているが、憤りが翡翠の瞳を燃やしていた。
「妬いてるのか……?」
「当たり前だ」
「……ごめん」
「カガリが謝ることじゃないよ」
諭したアスランの声は優しかった。
「でも、ごめん。ちょっと、俺の気持ちがおさまらないんだ。自制してないと、カガリに乱暴してしまいそうなくらい」
「乱暴って」
アスランのいう乱暴がどういうものなのか、カガリには漠然としか想像できなかったが。
「でも、私も……」
アスランの手が離れていたことに気付くと、カガリは乱された着物を引き寄せ、とりあえず胸を隠した。
「私もあいつに触られたとこ、アスランに触ってほしいんだ。アスランが触った方を本当にしたい」
「……うん」
ひとつひとつ息をつきながら明かしたカガリの気持ちを聞いて、アスランはうなずいた。子供を慰めるように頭を撫でるアスランの手のひらが心地よく、カガリは誘われるままに正直に話した。
「あいつにあちこち触られたけど……背中とか、足とか、でも」
決心して、カガリは言った。
「でも、ここが」
「ここ?」
アスランの眉が曇った。カガリの手が示していたのは足の付け根だった。
「ここを触られたのが一番嫌で、怖かった」
思い出すとぞっとしそうで、カガリは努めて考えないようにした。
「カガリ、泣くな」
手で顔をおおったカガリが泣き出しそうに見えたのだろう、アスランは優しくなだめた。何度も髪を撫で、カガリを落ち着かせようとしていた彼の表情がふと雲がかかるように暗くなった。
「でも……」
ぼそりと彼がつぶやいた声はカガリには聞こえていなかった。
「俺も一番嫌だな……」
カガリが暗い感触を思い出していることがアスランにもわかったのだろう。そっと、カガリの手を取り除くと、軽く唇を何度も重ねた。瞳の端ににじんでいた涙もすくいとる。
「ん……」
思えば、カガリがアスランを慰撫したことはなかったような気がする。その逆ばかりなのだ。
幼い頃、父に叱られてカガリがひとりで涙をこらえているときなど、アスランは必ず寄ってきて頭を撫でてくれたものだった。泣くのは負けだと思っていたし、アスランの前では特に涙を流したくはなかったカガリの意地っ張りがそれでいつももろく崩れて、アスランの着物を濡らしてしまうくらい、わんわん泣いていた。
(こういう慰め方が……)
あるのだと。
カガリは唇の効果をはじめて知った。彼の触れる指先が限りなくやさしい。カガリが壊れないように、壊れないように、そんな想いを感じるのだ。
「カガリ、力抜いていて」
口づけを降らせながら、アスランは囁いた。
「え、うん」
思わず返事をしたものの、力を抜けと言われてすぐに実行できるわけはなかった。しかし、アスランの手がすそを割って、足を撫で上げてきたので、カガリは逆に体を強張らせてしまった。
「や、アス……」
「……大丈夫だから」
カガリの気を紛らわすためか、アスランは耳に愛撫をほどこす。けれども、アスランの手がカガリの中心にたどりついてしまい、カガリは意識をそらしてなどいられなかった。
「や……ぅ、そこ」
表面を羽根でなぞるように触れられる。それだけで、他の場所の何倍も感触が伝わってきた。
「逃げないで、カガリ」
腰を浮かそうとした矢先に釘を刺され、カガリはどうしようもなくて、とりあえず夜具をつかんだ。
「う、く……ゃ」
深く入り込んできた指が、動きにくそうに秘所を探る。足が閉じられているからなのか、動作が引っ掛かるのだ。ところが、なぜかそのうちにそれが不思議に滑らかになり、まるで油でも垂らしたようにするすると花びらの間を動くようになった。
「や、あっ……あ」
びくびくとカガリは震えた。違和感しかなかったはじめとは違い、種類のわからない感覚が下半身から背中を抜ける。ちゅくちゅくと、水っぽい音がアスランが指を動かすたびに鳴るのが、自分の声の合間に聞こえた。
「あすら、ん……あっ、やだ」
アスランの指の動きがだんだんと大胆になってくる。この感覚はなんなのだろう。じれったいような、くすぐったいような。
少し不安に感じて涙の浮いた目でアスランを見ると、彼は熱っぽい目でもだえるカガリを見下ろしていた。
「気持ちいい? カガリ」
「……あ」
彼の問いかけで、カガリにも答えがわかった。
(気持ちいい……んだ)
くせになりそうな、甘い快感だった。カガリが慣れるまで、花びらばかりで指を動かしていたアスランが、意思をもってある場所に触れたとき。
「ひ、や……っ!」
カガリはのどを鳴らして息を飲んだ。突然、突き抜けるような鋭い刺激を感じたのだ。
(なに……)
もう一度アスランを見上げると、同時にまたしびれが襲った。今度は断続的に。
「あっ、あ! ……やッ」
声が悲鳴じみてきた。電気が抜けるように刺激が強く、体が勝手に跳ねてしまう。今までとはまったく異質な快感だった。アスランがあるところを擦ったり、潰したりするたびに刺すように感じる。
「カガリ、可愛い……」
たまらない様子で、アスランはつぶやきをもらした。感嘆を込めて、ため息をつく。カガリの息だけではなくアスランの呼吸も少しずつ熱が上がっていた。
「や、やめ……ッア」
アスランの言葉を聞くほど、カガリには余裕がなく、知らないあいだに胸への愛撫も再開されていて、夜具を掴むだけでは足りなくなっていた。体がどうかしてしまいそうで。
(ゃ、だめ……っ)
意識が飛ぶ予感があって、カガリは手足に力をいれようとした。けれども上手くいかずにそれは空回りし、代わりにカガリは息を止めた。
「ぅ、く……っ」
体が真っ白になった。アスランの手が一気に濡れて、彼の愛撫も同時にやんだ。
「ふ……、ぁ、はぁ」
ようやく解放される。体は熱く上気していて、カガリはしっとりと汗をかいていた。
「カガリ、大丈夫か?」
目を開くと、気遣わしげな翡翠の両目がカガリをのぞきこんでいた。乱れた髪の毛を、アスランは撫でて直した。
「大丈夫……だけど、はぁ」
ぐったりと体が重かった。息がなかなか整わない。
「ごめん……無理させた」
アスランが心底申し訳なさそうな顔をするほど、カガリは疲れてしまっていた。
「やっぱり悔しくて。今カガリに触ったら止まらなくなるだろうってわかっていたんだけど。……それにあんまりカガリが可愛いくて」
照れのひとつもなくアスランは素直に言ったが、カガリには素直に受けとめられる言葉ではなかった。
「か……わいいって、おまえな」
「可愛くて困るくらいだよ。カガリのああいう声、ずっと聞いてみたかった」
ああいう声というのはさっき自分が出していたような声のことだろうか。よくはわからないが、ひどく恥ずかしいことをしたような気がして真っ赤になってしまった。
「ばか!」
カガリはうつぶせて、勢いよくそっぽを向いた。
「由良のおてんば姫も、かたなしだな……」
くすくすと笑って、アスランは着物越しに口づけを落としていった。カガリの着ている衣すら愛しいとでもいうように。丁寧に唇をつけては離し何度目かで、アスランはゆっくりとやめた。
先ほどまでの甘さに似つかわしくない、彼はどこか険しい表情をしていた。
「カガリ……」
カガリの背中に、アスランは抑えた声色で言った。
「ひとつ、約束を破ることになるけど、いいかな」
「え……」
カガリが寝返りをうつと、アスランはどこか辛そうに笑っていた。
「さっき、今日はもう君のそばから離れないって約束したけど、守れないと思うんだ」
「え、どういうことだ?」
カガリは不安になって、アスランの衣をつかんでいた。悪態をついたのがよくなかったのだろうか。しかし、アスランに怒っているような様子はなく、どちらかといえばすまなそうな顔をしていた。
「今はなんとか自制していられるけど……」
アスランは言いにくそうに言葉を選んだ。
「今夜一晩そばにいて君をどうにかしないでいる自信はない」
なんとなくアスランの言おうとしていることがわかってきて、カガリはやはり赤くなるとそろりと着物をつかんだ手を離した。
「ずっと、望んでいたことだし。カガリさえ許してくれれば俺は一向に構わないんだけど……」
カガリを組み敷くように体制を変えると、アスランはやさしく髪に触れた。
「今、君を抱いてしまったら、あいつへの嫉妬で抱くことになりそうで」
(だく……?)
カガリはまつげをしばたいた。何を指す言葉かはわからなかったが、直感的に体が熱くなった。
「あの……よくわからないけど私嫌じゃないぞ、たぶん。アスランがしてくれることなら」
たどたどしくも伝えたことが果たして正解だったのか。少なくともアスランを赤面させるだけの効果はあったようだ。
「せっかく退こうとしていたのに、人の努力をだいなしにしないでくれ」
カガリから視線を外して、彼は小声で言った。
「いますぐにでも脱がせてしまいたいとか、触りたいとか、そんなことばっかり考えているのに」
「え……」
カガリはとっさに腕を胸の前で交差させた。カガリが着ているのは肌着一枚きりで、帯さえ解けばすぐに全裸になれるのだ。よくよく考えなくとも、大変な格好でアスランの前にいるわけだった。
「どうにかしようと思ったら簡単なんだぞ。俺の方が力は強いんだからな」
アスランは軽く脅すように言った。
「でも、俺が嫌なんだ。怒りをぶつけるようなことをするのは」
アスランでも八つ当たりのようなことをしたくなるのかと、カガリは意外に思った。
(ああ、でも……)
アレックスと対峙したときのアスランに見た激情は、相手を殺してしまいそうなほどのものだった。まるでアスランではないかのようで。
(私はアスランをぜんぶは知らないのかもしれない)
ふと、カガリは寂しさを感じていた。
行かないで欲しいと、思った気持ちをどう言えばよかったのだろう。言葉よりも先に手が動いてしまうカガリは、体を起こそうとしたアスランの着物を両手で掴んで引き止めていた。
「あ、う……いや」
止めたのはいいが、上手い理由が見つからなくて、カガリはどもった。
「い……いっちゃうのか?」
「そんな顔をしないでくれ……それに理由はさっき言ったじゃないか」
起こしかけた体をもてあまして、アスランは結局夜具の上に戻った。
「私も、嫌じゃない、ってさっき言った……」
まつげをふせてぽつりと言う。離れたくないのだと、はっきり言葉にすればいいのだが、それができなくて変な苦労をしてしまうのだ。難なく言えてしまうときもあるのに……。
「それは、俺が君にさっきみたいなことをしてもいいととってもいいのか」
率直に追求されて、答えにつまりながらカガリは小さくうなずいた。
「俺の理性の保証はできないって言ったよな」
顔が上げられなくて、ただわかるくらいにうなずく。長いため息の後に、アスランはつぶやいた。
「俺も、たいがい弱いな……」
自嘲するように苦笑いすると、彼はカガリの両手首を自らの手で軽く結わいた。顔の上に影が落ちたのを感じて、カガリが目線を上げると、澄んだ緑色の瞳が熱をもって見つめていた。
はっと、身じろぎもできなくなる。
たぶん、とうとう覚悟をしないといけないのだ。
「嫌だと思ったら、おもいきり、頬でもたたいてくれ。たぶん目が覚めるから」
まつげの触れるほどの距離で言う。
(いやだなんて……)
思いはしないだろうと、カガリはどうしてか確信していた。いま彼が、彼の中のかせを外したのがわかった。これまで、襲うぞと、いろいろカガリに忠告しながらも、実際アスラン自身は本気にならないようどこかで一歩退いていた。
盲目に溺れてはしまわないように、冷静でいられる位置に立っていたのだ。
「カガリ……」
頬と、耳に唇が押しあてられる。吐息が耳をくすぐった。
「ん……っ」
カガリは、感情だけで動くアスランを見てみたかった。そうすれば彼のことで、ひとつは知らないことがなくなるはずだから。アスランが盲目になるときを。
「はぁ……」
口づけは首を伝って落ちていく。ゆっくりと、ひたすらに静かで。カガリを夢の中に誘うには十分だった。少しずつ、少しずつ、酒を含まされているような。
はじまりはとても甘く穏やかで、けれども落ちはじめるとあとは真っ逆さまだった。
油皿の燈す明かりはあまりに頼りなく、ともすればお互いの顔もおぼろげになるほどだった。ほとんど闇と変わらない背景の中で、アスランとカガリの影は透き間なく寄り添い重なっていた。
「あ……っ」
アスランはゆっくりと、ゆっくりとカガリに触れ、遠慮しているのではないかと思うほど、愛撫は静かだった。首筋から鎖骨に唇が移り、所々をきつく吸い上げられる。
薄闇でもわかるくらいはっきりと色づいた肌の上に咲いた花を、カガリは知らない。
「やっ……ぁ」
つい、声を上げてしまった。胸を触られるのには、やはりまだ慣れない。アスランは着物の上からふくらみに触れ、しばらく撫でていたが。やがて力を込めて、乳房の形が変わるくらいに揉みだした。
「ん、ゃあ……ふ」
吐息に声が混じる。
アスランの手の動きにあわせて、声がもれてしまうのだ。恥ずかしさで熱が上がっていった。先ほど感じた快感とは種類がまったく違うが、アスランの愛撫が進んでいくに連れ、体の中心がじわりと熱くなっていくのだ。
「あっ、んん……ぃや!」
胸を探る手が多様になってきて、頂きをつまんだり、転がしたりが加わる。カガリの声も反応も、いやおうなしに高められていく。そうなるとアスランも抑えていられなくなるのは仕方のないことで。
「はっ、あん……」
少しずつ溜められた水が、溢れかけるまでなみなみと湛えられて、それがふとした拍子に勢いよくかえされたような。はやる気持ちを抑えつけた愛撫をしていたアスランが、ある一瞬で糸が切れたように獰猛になった。それでも触れ方は優しいのが、アスランなのだが。
「え? あ、……あ」
カガリの戸惑いに気付かなかったのか、それともわざと取りあわなかったのか。アスランはするりと帯を解くと、前合わせを開いて肌に直接手を触れた。
「や、やだ、アスラン……!」
カガリは当然着物を元に戻そうとしたが、アスランがもう体に覆いかぶさっていて、それもできなかった。まだ袖が引っ掛かっているとはいえ、ほとんど裸だった。
「はっ、やだ……ぁ、恥ずかしい、って」
嫌だと思ったら頬でも叩けと、アスランは言ったが。自分の肌を夢中で貪るアスランに、そんなことはできなかった。手が止まらないのか。
アスランは本能的に、カガリをひたすら求めていた。
「ゃ、あっ……あ」
アスランの手はさらされた秘所にも及び、快感がカガリの抵抗心を薄れさせた。アスランで感覚も心もいっぱいになってしまう。そしておそらく、それはアスランも同じなのだ。
「ずっと、ずっと、こうしたかった」
行為のあいまにアスランはため息をついた。
「俺なんかには許されないと思ってたよ……」
手を止め、体勢を起こすと、彼はカガリを眺め下ろした。肌を隠す気も起きないほど、甘いしびれにカガリの体は弛緩していた。吐く息も不規則で、体がおかしい。触れる、という行為だけのはずなのに、アスランにされると体がどんどん知らない感覚に陥ってしまうのだ。
「見るな、ばか」
「見せてくれ、頼むから……何年、想い続けたか」
太ももから、アスランの手が体の稜線をなぞる。
「ふっ……」
「もう、頬をぶたなくてもいい?」
それはたぶん前置きだったのだろう。ももの内側に口づけられて、カガリがぎょっとした後、さらにその先にアスランの唇が入り込んだ。
「あ、アスラ……!」
平手を食らわせることは、彼の顔の位置からして不可能だった。カガリがひどく驚いているのが、わからないわけがなく、舌を使う合間にアスランはごめんと言っていた。足を撫でる手つきも謝っているようで、それに気付いてしまうと、カガリは拒みたくても拒めなくなってしまっていた。
「あっ! ……ッ、あ」
覚えのある感覚が、アスランの口や手が触れたところから体を走った。魔法でも使っているのだろうか。彼の愛撫ですぐにでも意識が曖昧になってしまう。肌にかかる深い藍色の髪や、舌や指に全身の神経が集中してアスランだけに感覚のすべてが向かう。
それはつまり、アスランしか感じていないのと同じことだった。
体が彼でいっぱいになる。それは、まぎれもなく幸福なことなのだろう。
部屋の中に二人だけしかいないように、外の雑事はとうに頭から消え去り、お互いだけしか見る余裕はなく。そうなった二人が止まるわけがなかった。
部屋の外に出れば、二人を待つ現実と、予想のつかない霧のような未来があるのだけれども。アスランとカガリに、今だけは関係のないことだった。
アスランはカガリに満たされ、カガリはアスランで満ち、それでも足りなくて、夜の間ずっと二人はお互いを求めあった。恋が幼かった二人を貪欲にしていく。
アスラン自身言っていたように、皇子に対する憤りもあったのだろう、アスランはカガリを一度ならずねだったが、そのためにアスランは翌朝珍しく寝坊してしまったのだった。
カガリを腕に抱いて寝たアスランは、滅多にないほど熟睡していた。