藍色秘抄

07



 ひどく、冷たくて、寂しい夢を見た気がして目が覚めた。開いた目尻には夢の名残か、涙がにじんでいた。
(なんでだろう……昨日はすごく嬉しい気持ちで寝入ったのに)
 体を起こすと、関節がきしむ。
 カガリはまぶたをこすって雫をぬぐった。寝ぼけていた頭がはっきりしてくると、下腹部の違和感も加わって、さらに体が重くなる。
(残っているのかな……)
 へその下辺りをさすってみて何がといわず思ってしまい、カガリは赤面した。そういえば、とんでもないことをしてしまったのだ。
(あれ、アスランは……)
 布団にも部屋にもいるのはカガリ一人きりで、彼の姿はなかった。
 身支度をして、カガリは部屋を出た。
「なんだか、私いっつも寝坊してるな」
 昨夜の戦は村にも跡を残したのだろう。
 里長の館は少し騒がしく、廊下にも侍女が早歩きで行き来していた。それを見ると、寝入ってしまったことが申し訳なくなってきて、カガリは仕事を探そうと館の中心を目指した。
 いちおう立場上のカガリの仕事はアスランの部屋にいて大人しくしていることなのだが、もちろん彼女にそれが務まるはずはなかった。
(やっぱりここにいた)
 彼を見つけることが目的ではなかったのだが、館の大広間に行くと、アスランの側近達が集まり会合を開いていた。アスランを中心に男達が重たい表情で議論を交わしている。
(昨日の戦闘よくなかったのかな……)
 もともと会合の中に入っていくつもりはなかったが、雰囲気がこうではますます近寄りがたかった。何かあったのだろうかと、一目でわかる。
 遠くから様子を伺っていと、背後から誰かがカガリの肩をぽんと叩いた。
「加わりたいなら入ればいいじゃないか」
 背後にいたのはイザークで、彼はあごでアスランの方を指した。
「加わりたくて見てたんじゃないけど。ただ、深刻そうだから昨日の戦があんまりよくなかったのかな、と思って」
「貴様が心配するようなことはなにもないぞ」
 頼もしく言い切った直後に、しかしイザークは表情を曇らせた。
「……と、言ってやりたいところなんだが、言えば嘘になるからな」
 問題は二つあるのだと、イザークは話した。
「ひとつは圧倒的に皇子の軍が強いということだな。昨夜はほとんど追い詰められたところでなぜか急に引き潮みたいに撤退して行ったからよかっただけで」
 カガリにも予想くらいはついていたが、衝撃はあった。
やはりアレックスには敵わないのだろうか。しかし次にイザークが告げたふたつめの問題が、カガリに与えた揺さぶりは、ひとつめの比ではなかった。
「もうひとつは、皇子がこちらに皇妃を返せと要求してきたことだ」
「え……?」
「今朝、皇子から遣いが来てな」
 大きな目をさらに大きくして硬直したカガリにイザークはにやりと笑ってみせた。
「貴様が皇妃様だったなんて初耳だったな」
(皇妃……)
 それはカガリの中で、とうに終わっていた肩書だった。
(アレックス、あいつ……終わらせる気なんてさらさらないのか、やっぱり)
 そう、正式に婚約を破らなくては皇妃という地位は生涯ついて回るのだ。それを蹴ったつもりでいて、足元をすくわれた。
「なあ、それじゃあ、こちらが完全に不利なんじゃないのか?」
 カガリは床を見つめた。
「よくわかっているじゃないか」
 イザークは少々大げさに褒めた。
「まあ、こちらの方が戦力的にも劣っている上に、取りようによっては、我々は皇族を人質にとっている形になるからな」
 息を吸って、イザークは短く吐き出した。
「立場が悪い」
「そう……だよな」
 ここにきて、不利が生じるとは思わなかった。
 戦には大義が必要だ。自らが正しいと信じなければ、武器を振るうほどの衝動を生むことは難しい。両軍のどちらが皇家に対して正当であるかということが、なによりに頼りなっているのだ。大義は兵士の士気に直結する。それをくつがえされるわけにはいかないのだ。
「アスランはどうするつもりでいるんだ?」
 カガリは引き戸の間から議論を続けているアスランを見た。思案を巡らせているのか、頬杖をついて一向に顔を上げない。
「どうするも、やつがカガリを皇子に引き渡すはずがないだろう」
「でも……」
 イザークはさも当たり前の答えのように言ったが、それが一番困難な道なのではないだろうか。今更だが、カガリ達が相手にしているのは国を治めている者なのだ。
「そんなことできないだろう。皇子が連れているのは正規の軍なんだろう。そのほんの一部が抜け出したものである私たちが本元に敵うわけがないじゃないか」
 敵わない相手に挑んだって、兵達が意味もなく傷つくだけだ。
「一番犠牲が少なく済む方法は、私が皇子の前に出向くことじゃないか」
 アスランには他に選択肢はないだろうとカガリは思ったが、イザークは意外そうに言った。
「なんだ……貴様はもっとアスランのことをわかっているんだと思っていたんだがな」
「なんだよ、それ」
 カガリが眉を寄せてにらむと、イザークはふいと目線をそらした。
「やつが……」
 イザークの瞳が暗くなった。
「アスランがカガリと自軍の兵を秤にかけると思うか?」
 不安を誘うほど真剣に、イザークは言った。
「比べもせずに、貴様を選ぶやつだぞ、アスランは」
「どういうことだよ……それは」
 ずっしりと胸の辺りが重くなった。イザークの言いたいことは理解できていたのだが、それを打ち消したくて、カガリはたずねた。
「言われたことはないのか? カガリさえいればいいというようなことを」
 イザークは口許を歪めて笑った。
「アスランのそれは口説き文句じゃなくて本心だぞ。本気でやつの中にはカガリ一人しかいない。そのための障害になるのなら俺だって簡単に切り捨てられるだろうな」
 いい人そうにしてるが実際ろくでもないやつだと、イザークは愚痴った。
「今回の皇子の要求は最大の厄介事だな」
 アスランが他のなによりカガリを優先するはずだという、イザークの意見をカガリは否定できなかった。アスランが気をおかずにいられる相手がカガリだけなのは間違いないからだ。
 彼はやすやすと人に馴染めるたちではない。それはカガリが一番よく知っていた。イザークがわりと正確にアスランを理解しているだけでも、カガリにはかなりの驚きだったのだ。
「でも、じゃあ、アスランは……」
「どうするのかは俺にもわからんがな。遣いが要求してきたとおりに、貴様を引き渡すつもりがさらさらないのはたしかだ」
 イザークは吐き捨てるようにため息をついた。
「アスランがいやに兵の信頼を集めているからなお悪い。おそらく今回の要求が下の方まで伝われば、皇妃がいる自分達の軍こそ正当だなんて言い出すやつがきっとでるぞ」
「そんな……」
 カガリは頭を抱えた。両軍の実際の戦力差がどれほどなのか。
 知識も経験もないカガリには想像もつかなかったが、少なくとも自分が関わることで誰かが傷つくのはたしかなのだ。そして場合によっては傷つくだけではすまないことも。
「よくわからないが、皇子は全面的にぶつかりあって敵う相手じゃないんだろう?」
「こちらが勝てたら国がひっくり返るぞ」
「だよな……」
 悔しくてカガリは奥歯を噛んだ。
「アレックスのやつ、卑怯だ……こんなふうに力を使うなんて」
 イザークはカガリが人質みたいな立場だと言ったが、カガリにとってそれは逆だった。アスランの下にいる兵、数百名をそっくり人質にとられた状態なのだ。
 カガリがアレックスを選ばなければそれらを全滅させることも皇子には可能に違いない。
(まるで仕組んだみたいな……)
 あのまま安穏と皇居にいては作れない状況だった。もしかすると、本当にアレックスは意図してこの状況を作ったのだろうか。
(いや、まさか……)
 わざわざ動乱を起こして、アスランに遠征軍を動かさせざるをえないように仕向け、それと対峙し、追い詰めて。カガリが宮を抜け出すのも予想していたというのだろうか。
(まさか……それはいくらなんでもできっこない)
「アレックスというのは皇子の名か?」
「え、ああ」
 考えに夢中になっていたカガリは急に聞かれて曖昧に答えた。
「へぇ、さすがは皇妃様だな。皇子の名前を知っているなんて」
「私はもう妃じゃないさ。その身分は都を出るときに捨ててきたんだから」
 真面目に言ったカガリに反してイザークはからかうように、にやりとした。
「ほんとだな。近衛の頓所で見たときの貴様はまるきり田舎の子供だったからな」
「う、うるさいな。イザークに見る目がないんだろ」
「いいや。残念だが今のカガリを見ても皇族だとは夢にも思わないぞ。妃なんてのはたぶんもっとしとやかで奥ゆかしくて……」
 イザークは指を立てながら条件を上げていったが、その手が後ろからつかまれたので、途中で止まってしまった。
「くだらない条件ばかりだな」
 いつから聞いていたのか、イザークの背後にはアスランが立っていた。
「くだらないとはなんだ。俺が言ったのはよくある一般論だ」
 イザークはうるさい虫を払うように手を振った。
「貴様、どこから盗み聞きしてた」
「聞かれたくない内容ならせめて声を落としたらいいだろう」
 隣に並んだアスランを、カガリは見上げた。彼に先ほどの広間にあったような思いつめた様子はなく、いつもと変わりなかった。アスラン達が円形を作って話し合っていた広間の中を見ると、もうそこには誰もいなくなっていた。
「アスラン……なあ」
「カガリ、そんな顔をするなよ」
 アスランは困ったように笑った。
「ひょっとして俺についてきたこと後悔してる?」
「どうしてだよ。ついてきてなかったほうが後悔してたぞ。私はもうアスランとはぐれたくないから」
 それだけは絶対だった。
 アスランにも大切なものが極端に少ないように、カガリにも今守りたいものは少なくなっていた。アスランのそばにいられることだけは守り通したい。
「本当に?」
「私はうそはつかない」
「嵐の中を行くようなものだってわかっているか」
「だったらなおさら、隣にいないと先に進めないじゃないか」
 覗き込んで再確認してきた翡翠の瞳に、カガリは澄んだ瞳を返した。じっと見つめ合って、信じられたのか、アスランは微笑みを見せた。
「それが聞けたらもういいよ」
「え……」
「もし、カガリに少しでも宮へ戻りたい気持ちがあるなら、とも思っていたけど」
 カガリにはとても笑顔になる余裕はなかったが、アスランにはさして力むところはなく見えた。
「そうだな。アレックスに君は返せない」
 しかし、イザークはアスランの口ぶりが気に食わないようだった。
「貴様、断言して、いったいどうするつもりだ?」
「こちらにはカガリがいるからやつに強行策はできないさ」
 だから全滅だとかいう結果にはならないのだと、アスランは外を見た。
「勝つ目算があるのか?」
「勝ち負けじゃない」
「カガリを返さずにいられたらいいというんだろう。貴様はそれでいいのかもしれないが」
 イザークはいらいらと髪を掻きあげた。
「全兵を踏み台にするつもりか?」
「そんなことするわけないだろう」
 イザークが睨みつけるのに対してアスランは穏やかに返した。どこか愉快そうにも見えるのは。
(……アレックスが挑んできたからだ)
 自ら出向いた前回と違って使者を使うという手は明らかにアレックスの挑発だ。皇妃という言葉をだしたのも、おそらくはその一部だ。アスランは挑発に応えるつもりなのだ。
 イザークはあれこれとアスランを追及したが、彼はついぞ具体的なことを話さなかった。質問をかわされることに、イザークもやがて苛立つのもばかばかしくなったようで、諦めると勝手にしろと捨てぜりふを残して立ち去った。
「おまえ、怒ってるんだろう」
 二人きりになると、カガリはぽつりとたずねた。
「怒ってる? どうしてそんなふうに思うんだ」
「だって……」
 アスランを見上げようとしてカガリはやめた。怒りだとかいう感情を通り越しているのかもしれない。アスランとアレックスにはカガリの知らない何かがある。
 それはカガリの知るもののなかでは、憎しみに一番近い。
「なあ、アスランとアレックスって何なのか聞いてもいいか」
「気になるのか?」
 カガリは一瞬考えて、うなずいた。アレックスの発言の端々や、二人の様子からほとんど答えは出ていたのだが、確かめるのが怖かった。それはつまりアスランの出身に直結しているからだ。
「アレックスは弟だよ。双子の」
 アスランは簡潔に答えた。
「でないと、あんなに顔が似ているのは不自然だろう」
「うん……」
 もうすでにわかりきっていたことなのに、カガリは返す言葉に詰まった。
(兄弟ってことは)
「でも、それじゃあアスランは」
「血筋だけいうと皇家の人間だよ」
 心の準備をしておけばよかったのだろうか。アスランの告白にカガリはひどく動揺してしまっていた。
「じゃあ……これが」
 息を吸う。そわそわと速くなりそうな心臓をごまかそうと、カガリは頭を強く振った。
「これが、アスランが隠していた秘密か?」
「隠していたわけでも、秘密にしていたわけでもないよ。ただ話していなかっただけだ」
「そういうのを秘密だっていうんだ!」
 八つのときに、田舎の小さな里にやって来た藍色の髪の男の子のことが頭をよぎった。彼は、里の他の男の子と根本から違っていた。異彩を放っていた。声を荒げることはなく、常に穏やかで、動作が柔らかく、そして笑顔が違っていた。その理由がここにあったのだ。
「秘密も過ぎたら嘘と同じだぞ」
「でも話す必要もないことだろう。俺の親がなんだろうと、カガリには関係ないよ」
 つい、手が出てしまっていた。
 小さく音が上がったと思ったら、しばらくして手のひらがじんじんと熱くなってきた。カガリはアスランに平手打ちを食らわせていたのだ。
「関係ない?」
 怒らないでいるつもりだったのに、アスランの言葉で頭に血が上ってしまった。
「私たちがあの時、何をしに都に行ったのか知らなかったわけないよな」
 アスランに繋がるものを探しに行ったのに。
「それに、これから戦う相手がおまえの弟だなんて」
 そして彼はカガリのかたきでもあるのだ。
「すまない」
 カガリが泣くことにも、怒ることにも弱いアスランは、やはり我を通しきりはしなかった。
「もっと早くに言えばよかったかもしれない」
「嘘つけ、私が聞かなかったら言う気もなかったくせに」
 アスランが黙ったので、それは図星だったのだろう。むっとしたカガリはもうひとつ平手を加えてやろうかと思ったが、一発目でアスランがすでにすっかり参っていたので、やめることにした。
 再会してからはアスランの方が主導権を握ってばかりで、カガリは受け身に回ることが多かったが。こうなると、十二のときと同じだった。
「双子だっていうなら、アスランも皇子なんだよな」
 カガリは怒りをといて、声をやわらげた。
「いや、俺にはもう継承権はないよ。皇家の人間ではないからな」
「勘当でもされたのか?」
 半分冗談でたずねたつもりだったのに、アスランはうなずいた。
「捨てられたという言い方が一番正しいかな。めずらしいことじゃないが」
「え……」
「双子が不吉だっていう考え方があるのを知っているか? 普通だったら生まれたときに処理されるから、捨てられるくらいで済んだのは幸運だったよ」
 アスランはなんでもないことのように笑ったが。カガリはとても一緒に笑ってなどいられなかった。彼は聞かれればなんでも答えてくれるが、自ら話をすることが少なすぎるのだ。
 それがアスランの性格なのだが。もう少し主張してくれてもいいのにと、カガリは胸のうちで愚痴った。
「捨てられたなんて、いつの話だ?」
「確か四歳になる年だったかな」
「由良に来るずっと前だ……」
 以前に、一度アスランに由良に来る前にどこで何をしていたのかとたずねたことがある。その答えをカガリは再びたずねたが、アスランはすんなり話そうとしなかった。
「言いたくないのか?」
 カガリが顔を覗き込んでもアスランは目を合わせようとしなかった。
「カガリには……」
 長いまつげの影になった瞳が暗く見えた。
「知らない方がいいこともあるし。俺は……たぶん君が思っているようなやつじゃないから」
 アスランは言葉を濁した。
 知りたいと、カガリは切実に思ったが、開きたくない口をそれ以上こじ開けることはできなかった。それに、子供だった頃ならまだしも、今ならアスランの濁した答えにおよその想像はついた。
 四歳程度の子供が世間に放り出されて、生きていく手段はそう多くない。通常ならある親の庇護をなくした子供が、まっとうな方法で生きていけるはずはないのだ。
(由良の山で十二歳のアスランは軽々近衛を数人倒したんだ)
 そのすべをアスランはどこで身につけたのか。
「怒ったりして、ごめん……」
 出生の話をすると必ずここへ話がいたることがわかっていたから、アスランは語ることを意図的に避けていたのだろう。今度はカガリがしょげてしまっていた。
「いいよ、カガリが謝ることはない。話さずにいたのはやっぱり裏切りだと思うし」
 うつむいたカガリの顔を伺いながらアスランはやさしく言った。
「いや、でも……」
 顔を上げると、ひざを折って目線を合わせたアスランの瞳とかちあった。
「叩いたのはだめだ。ごめん、腫れたりしてないか?」
 カガリは指先でそっとアスランの頬を撫でた。心なしか少し熱いように思う。
「なんだか、かっとなっちゃって悪かった。私のことぶってもいいぞ。そしたらおあいこだ」
「そんなこと、できるわけないだろう」
 アスランは体を退いて目を見開いた。
「でも、それじゃあ私の気が済まないよ」
 手をあげるなんて、最後の手段なのに、口で言えばいいことを感情の突発ですぐに使ってしまうのだ。アスランが殴られっぱなしでは公正ではないと、カガリが食い下がると、アスランはやれやれといったふうに笑った。
「そんなに言うなら、せっかくだから平手打ちのお返しもらおうかな」
 アスランの瞳がたくらむように細められる。
「目を閉じてもらってもいいか?」
 言われたとおりにすると、両肩に手が置かれた。カガリはさっと覚悟をして奥歯を噛んだが。
「ん……!」
 次にきたのは、身構えていた衝撃ではなく、唇に押し当てられたやわらかな感触だった。
「あす……」
 ぶたれるよりずっと驚いて、カガリは目を開けてしまった。
「お返しなら、こっちの方がいい」
 アスランは親指で奪った唇を押した。
 額がこつりと合わさる。気付かなかった、さっきからずっとこんなに至近距離に互いの顔があったのだ。
「え、ちょ……」
 いいとも言わないうちに、アスランはふたたび唇を重ねた。今度は、もっと深く。
「ふ……」
 やがて入り込んできた舌がカガリの口内を味わいながら撫でていく。知らずそれに応えてしまいながら、手足には甘いしびれが広がるのをカガリは感じていた。
「はぁ、……あす」
 こうなると、意識しなくても頭に昨夜のことが重なってしまう。本当に自分達があんなことをしたのか、夢みたいだった。昨日はどうかしていたとは思うけれども。
 その熱を思い出してか、昨夜の自分が恥ずかしくなったからか、カガリの体温が一気に沸いた。
「カガリ、真っ赤になってるぞ」
「うるさい」
 唇を離すと、一番にアスランは言った。嬉しそうにくすくす笑っている。
「こんなふうにお返しもらえるなら、もう一回くらいぶたれてもいいかな」
「男なら殴り返せよ、ばか」
 腕の中におさめたカガリの髪や背中を撫でるアスランに対抗して、カガリは彼の着物をつねった。
「君を手放すなんて考えられないな、もう」
 何気なく彼はもらしたが、そのつぶやきに深くほの暗い決意が見えてしまい、カガリはやはり不安を感じずにいられなかった。
 アレックスに対して、アスランはどうするつもりなのか。イザークにも読めなかった彼の考えは、カガリにも解くことはできなかった。
(でも、たぶん、もう、話し合いだとかでは片付かないんだ)
 アスランに譲歩する気持ちがないのだ。衝突という手段しかないのだろう。
(でも……それはだめだ)
 カガリは首を振った。
 仕事があるからと言って、アスランが去った後、カガリは廊下で立ち尽くして考えていた。カガリが悩むのは、今から起こるであろう戦いが回避できるものであるからだった。
(私がアレックスに会って止めればなんとかなるかもしれない)
 イザークとの会話からカガリの頭にずっと引っ掛かっていたのはその考えだった。アスランに何か上手い策があるのだとしても、これより犠牲を少なくとどめられる方法はないはずだ。
(誰も傷付かずにすむのなら)
 思いついてしまうと、急速に意志が固まってしまっていた。
 決意すると、すぐさま行動に移さなくては気が済まないのがカガリだ。どうやってアレックスのところへ行こうかと、彼女はもう考えはじめていた。誰かに、例えばイザークにでも相談しようという気はまったくなかった。アスランはもちろん、誰に言ってもきっと止められるからだ。
(何も心配しなくていいから、黙ってじっとしていてくれ、ってそう言われるのがオチだ)
 ここへ来てからずっとそうだった。
 役に立たてるような力がないのはカガリ自身にもわかっていることなので、嫌だと文句を言いたくなる気持ちをぐっと押し込めてこれまで大人しくしていたのだが。我慢の緒は切れかかっていた。
(これは、私にしかできないことだ)
 自分の足で出向いて、アレックスと対峙する。
(今度は負けない……)
 ようやく行動を起こせることにカガリは不謹慎ながらわくわくしていた。
 じっとしていろという言葉に従って、奥まった部屋にいることの多かったカガリにはアスランの下にいる兵と接触することはほとんどなかった。カガリはただひとり顔の判るレイという少年を捜し、彼に眠気を催す作用のある薬を頼んだ。
 本来なら口をきくようなことのない立場の相手からの突然の頼み事に、彼はかなり面食らった様子だったが、意外と従順にカガリの欲しがった煎じ薬を探して来てくれた。少年はそれをカガリが使うものと思っていたようだったが、カガリの目的は他でもない、アスランだった。
 アスランがよっぽどのことがないかぎり夜も熟睡しないのをカガリは知っている。昼間はそこここに人の目があるし、館と里をこっそり抜け出すとなると夜しかない。そして、それを実行するにはアスランに深く眠ってもらう必要があったのだ。
「怖いくらい効くんだな、これ……」
 あまり感心してしまったので、カガリは思わず声にだしていた。アスランは一日、忙しく動き回っていたらしく、カガリが再び彼に会えたのは日が沈んでからだった。アスラン達が皇子の軍の進攻を防いだこともあり、次の戦いでは里の者も協力することになったようで、館の中の空気はぴりりと引き締まっていた。
 いくさを何度も経験していた集落といえば由良もそうだったのだが。カガリの記憶にあるかぎりは一度もなく、里を拠点にしたいくさに女や子供までも一丸となるのをカガリは初めて目の当たりにした。炊き出しの準備や、防具の手入れ、救急用品の前準備、家屋の補強と仕事は尽きない。
 館は軽いお祭り騒ぎだった。
(これ以上この里を騒がせないためにも……)
 カガリは寝入ってしまったアスランを見下ろした。
 夜になって館に戻って来たアスランを迎えて、カガリは当たり前のように同室で休んでいた。兵の様子も、これから先のことも、彼は何も語らなかったが、カガリもたずねたりはしなかった。周囲はぴりぴりと緊張をはじめているのに、アスランは変わらず平静なのだ。
 自分が嘘をつくのが下手なことをカガリは十分承知していたので、装っていることがばれるのがなにより心配だったのだが。疲れているだろうから、とカガリが作り差し出した薬湯を、アスランは疑いもせず、嬉しそうに受け取った。その様子に、騙していることがひどく後ろめたくなったが、アスランが器を空にするまでカガリは黙って見守った。
「アスランの寝顔、はじめて見たな……」
 一緒に横になるとすぐにもうとうとしはじめて、アスランは簡単に眠ってしまった。いつもカガリより遅く寝て、カガリが起きるよりも先に目覚めている、彼の寝顔を八年も一緒にいて、カガリははじめて見たのだった。
(子供みたいだ)
 弛緩した表情は年齢よりずっと、彼を幼く見せていた。
 顔を隠していた前髪にさらりと触れて、しばらくじっと寝顔を眺め、カガリは部屋を出た。
 アレックスに会わなければ……。薬を頼むついでにレイから聞いた話によれば、皇子の軍はカガリ達のいる集落から程近い里に、こちらと同じように宿借りをして陣としているらしい。
(馬を飛ばしたら夜の間にはつけるな)
 暇だった昼の間にカガリは館をあちこち探索して回り、拝借する馬にも目星をつけていた。
(アスラン、怒るだろうな……)
 幼い頃、小鳥を見たくて屋根に登った時よりも、再会してアスランに向かって自分を殺せと叫んだ時よりも。きっと彼は怒るのだろう。
 それだけが、敵に挑むすがすがしさのあるカガリの胸を痛めていた。夜風をきると、少しばかりひんやりとしていて、カガリの火照った頬を冷やしてくれた。小さな山を一つ越えると、すぐに隣の里だった。
 山道を下りて、里の入口に続く道を馬で駆けていくと、丸太を組み立てただけの簡素な門があり、その下には明るく燃える篝火と見張りがいた。

「お、おい、貴様」
 二人の見張りを無視して門をくぐろうとしたカガリに、さすがに兵は慌てた。
 そのうちの一人が引き止めようと、剣を抜く仕草をしたので、馬を傷つけられてはたまらないと、カガリはひづめを止めた。
「まったく、なんのための門だと思ってるんだ、小僧。殿上のお方の命でな、許可がなくてはここは通れんのだぞ」
 不遜な物言いだった。腕を組んで、見張りはカガリを斜めに見上げた。
「まずは名乗ってもらおうか。それから、何用があってここを通るのかと……」
 カガリは目を細めて二人を見下ろした。先ほどの、とっさに剣を抜こうとしたときの身のこなしからして、カガリは二人の兵を弱いと判断していた。二人がかりでこられたとしても、簡単に返り討ちにできる。
(簡単にできるけど……)
 カガリは背筋を伸ばして答えた。あるだけの気迫を込めて。
「そなたらなどに聞かせる名はない」
「なんだと」
 見張りは噛みつこうとしたが、カガリの凛然とした声に明らかにひるんでいた。カガリはすかさず続けた。
「まずは、ひざをついて頭を垂れたらどうだ? 皇妃の顔を見たとあったら目を潰されても文句は言えないぞ」
「皇妃……様?」
 見張りの声が裏返った。皇妃であることの証明になるようなものは何ひとつ身につけていなかったし、皇妃といえる身なりをしていなかったので、これはカガリのはったりだったのだが。
 この二人には効いたようだった。かしずかれることに慣れたカガリの態度が幸いしたのだろうか。
「殿下のところへ案内せよ。それができたら非礼は許してやってもよい」
「は……っ」
 射抜くように、よく通るカガリの声に見張りはびくりと応じた。
 その後は、苦労しなかった。兵の一人はうやうやしく手綱をとると、カガリを里の中、さらには里長のものとおぼしき屋敷に案内した。
 そこで馬を降りる。すると案内は別の兵に引き継がれ、見張りより数段上等な着物の兵によって、カガリは屋敷の奥に通された。
「こちらでございます」
 それだけ言うと、体を折り曲げて礼をして、その兵も下がった。最終的にたどりついたのはある部屋の前だった。入り口は簾で閉じられていたが、その中はほのかに明るく、人の気配がした。
(なんでだろう……、一揉めくらいあると思っていたけど)
 最後に案内した兵も、もう見当たらなかった。
 自分の心臓の音が聞こえるほど、冷たく静かな廊下でカガリは深呼吸をした。どきどきと、鼓動は速くなっている。
(負けられない……今度は)
 今度は、アスランの助けはないのだ。声をかけずに、カガリは無言で簾を開いて、部屋に入った。
 しゃらりと、乾いた音をさせてカガリの背後で簾が揺れた。
 板張りの部屋はただ広く、調度品のひとつもない。その中央で、アレックスはゆったりと脇息にもたれ、油皿の明かりで書簡に目を通していた。時刻は夜明けに近い夜中だ。
 なんとなく彼が起きていることは予想していたが、この時刻で眠らずにいるということは、おそらくアレックスはカガリを待っていたのだ。
「早かったな」
 アレックスは緩慢な動作で顔を上げた。目が合い、カガリがぐっと唇を噛むと、彼は頬を緩めて笑った。
「悔しいのか。まあ、カガリはかしこいから気付くだろうと思ってたけど……」
 話しながら書簡をたたむ。
「そんなに、怒るなよ。俺の前じゃあ、そういう顔ばかりじゃないか」
「べつに怒ってなんかない。ただ、私が嫌いなやつの前でへらへら笑えるほど器用じゃないだけだ」
「なるほど、嫌われたものだな……」
「当たり前だ。私はおまえが世界で一番嫌いだ」
 それを聞くと、アレックスは上手い冗談でも聞いたようにけらけらと笑った。
「へえ、それで? 世界で一番好きなのがアスランなのか?」
 小ばかにされたようでしゃくに触り、カガリは肯定しなかった。
「そうか、だからまんまと、俺のところに来るはめになったんだもんな」
「私は騙されたつもりも、罠にはまったつもりもないぞ」
 見栄でなく、カガリは言った。
「罠にはまったのはたぶんおまえのほうだぞ、アレックス」
 きっぱりと宣告したのに、アレックスは楽しそうにカガリの言葉の続きを待っていた。
「私をこんなところまで招き入れることを、少しも危険だと思わなかったのか? さっき確認したけれど、この部屋の周囲は誰も控えさせてないだろう」
「そばに誰かいるのが嫌いなんだよ、俺は」
「それなら、呼んだって誰も来ないわけだ」
 カガリは着物の透き間に隠していた短刀を取り出した。重みはないが、鋭く、手によくなじむ護身用の刀だ。
「カガリはかしこいのに、馬鹿げた無茶をするんだよな。らしいと思うけど」
「私は私のことを片付けに来ただけだ。由良のかたきは差し違えてでもとる。無茶でも」
 アレックスが脇息にひじをついてカガリを見上げたまま動こうとしないので、カガリは静かに距離をつめていった。
(アスランの弟……)
 姿形は少しも違わずそっくりなのだ。
 小さな炎で照らされた皇子の顔がはっきりしてくるにつれ、カガリは呼吸が浅くなってきた。憎まなくては、憎まなくては、と頭の中で唱える。激昂で突っ走れば、後先考えずにできるのに。
 頭が真っ白にならない。余計なことばかりで、思考が止まらず、感情的になれなかった。
「やめたほうがいい、カガリ。君にはできないよ」
 思いやりが込められたように、アレックスの声はじんわりと響いた。
「うるさい、わかったようなこと言うな」
「カガリは甘いんだよ。アスランと俺が双子だって聞いたんだろう? それだけで、迷ってる」
「違う」
「違わない。俺を殺すことを怖がっている。手が震えてるぞ」
 手だけではない。体の内側からおびえて震えていた。それを払いたくて、カガリは強くかぶりを振った。
「違う! 私は……」
 短刀の届く間合いまでの最後の一歩を、叫んだ勢いで踏み越えた。カガリが手を挙げたところまで見て、それまで指の一本も動かさなかったアレックスが、カガリを追って体を浮かせた。
 それに驚かされて踏み込みが甘くなったといえば言い訳になるだろうか。カガリは攻撃しきれずに短刀を握った右手を止められた。流れるように、勢いをそらされ、体の重心をアレックスにとられて、またたく間にカガリは床に組み伏せられていた。
「無茶だって言ったじゃないか」
 アレックスの影がカガリに覆いかぶさる。短刀はすでに取り落としていた。カガリは声を発することができなくなってしまった。
(いや、……嫌)
 思い出した手触りがあって、一瞬で恐怖が体を支配しそうになったが。負けないと決めたのだと思い出し、カガリはそれを跳ね退けて大声を上げた。
「おまえなんか、大嫌いだ」
 琥珀の瞳を燃やす。負けないとは、決して折れないことだった。
「無茶だなんて言われなくてもわかってるさ」
 両手首を床に押しつけられ、手足の自由を奪われても、カガリは意気地の炎を消さなかった。
「力で弱い者を追い詰めて、人を思うとおりに動かして、さぞかし楽しいんだろうな。私もアスランもこうしておまえの思惑通りになってるんだから」
 にらみつけるカガリを、アレックスは無表情に見下ろして何度かまばたいた。そういう表情をすると、少年は不思議なほど無垢だった。
「でも、だからって勝ったと思ったら大間違いだぞ。おまえの思い通りにならないことだってあるんだ」
「たとえばカガリの気持ちとか?」
 言うなり、手首を拘束していたアレックスの手が、するりと上り、指に絡まった。
「たとえば、カガリからの優しい言葉とか、笑顔とか……」
 アレックスの顔が下りてきて、闇色の髪がさらりとカガリの頬にかかった。
「ぜんぶ俺が一番欲しいものだよ」
 弱く、ため息のようにアレックスは囁いた。がむしゃらに暴れればアレックスを動かすことくらいできたはずなのだけれど。どうしてか、それができずにカガリはただ息をつめていた。
 吐息が唇をくすぐるほどそばでアレックスはカガリを見つめ、やわらかく頬に触れた。次にくるものを覚悟して、カガリは手足を強張らせたが。アレックスはそれをせず、手を離した。
「そんなにおびえなくても、べつに何にもしない」
 カガリを床に置いたまま、彼はため息をついて体勢を戻した。ふいに自由を取り戻したカガリは、拍子抜けしてしまった。まさか離してくれるとは思わなかったのだ。
 ひじをついて体を起こし、カガリはアレックスの背中をぼんやりと見た。
「おまえ……嫌がらせするためにあんなことしたんじゃないのか?」
 カガリが嫌がるのを、おびえるのを、彼は楽しんでいるのだと思っていたのだが。
「カガリが嫌がるから嫌がらせなんだろう」
 アレックスはつまらなさそうに言った。なぞなぞのような返答を咀嚼するのに、カガリには少し時間が必要だった。
(アレックスがあんなことをしたのは……)
 ふっとある答えがカガリの思考に点灯した。
(アレックスは……)
 つい、口走りそうになって思い止まった。
 よくよく考えるとたずねるのがためらわれたのだ。カガリはぼやくように言った。
「アレックスは……私のことが好きなのか?」
 自惚れているようで恥ずかしく、カガリは赤くなってアレックスの横顔をちらりと見た。カガリとしては一番妥当な答えをひらめいたつもりだったのだが、彼は意表を突かれたらしく吹き出した。
「今、気付いたように言わないでくれよ」
 何がそんなにおかしかったのか。アレックスは前のめりになると、声を殺して笑った。
「君の鈍さは、ひどいな」
 カガリがむっとして見ている前で彼はさんざん笑い、目尻の涙を払うとカガリを見た。
「それに、そんな顔して怒らないでくれないか。押し倒したくなる」
「な……」
 カガリが真っ赤になると、アレックスはしたりとばかりににやりとした。
「いまだにわかってないなら、俺が君のことを好きだって、骨身に染みるくらい教えてあげるけど」
 言いながら、アレックスがにじり寄って来たので、カガリは両手を振って断った。
「い、いい! いらない!」
 アレックスはまたくすくす笑う。カガリは早口に言った。
「違う、そうじゃなくて、ただ私はなんでだろう、って思っただけだ」
「なんでって何がだ?」
「いや、だって……」
 アレックスがまだ近寄ってくるのでカガリは床を後ずさった。
「だって、おまえ、どうして私のこと好きだなんて……会ったことだってなかったのに。お互い顔も知らなかったじゃないか」
 そこまでカガリが言い切ると、なぜかアレックスはぴたりと動きを止めた。彼の表情から余裕のある笑みが立ち消えて、無表情にカガリを見つめた。
「な、なんだよ。私なにかおかしなこと言ったか?」
「いや、べつに。ただ少しむっとしただけだ」
 なにか悪いことを言っただろうかとカガリは思い返してみたが、気がつくとアレックスはもういつもの顔に戻っていた。