藍色秘抄

08



 帰らないつもりで、アスランのもとを発ったのではなかった。アレックスを説得し、決着をつけて、もちろんカガリは戻るつもりでいた。早ければ朝になる前にでもと。
それなのに、説得どころか肝心な話もろくろくできず、朝になってカガリが目を覚ましたのは、なぜかアレックスの部屋のアレックスの隣だった。
(寝てる……)
朝の光で眠りから覚めて、カガリが隣の夜具を覗き込むと、静かに寝息をたてるアレックスがいた。
(なんなんだよ、もう)
カガリがどうにか話を説得の方向にもっていこうとしても、アレックスは上手くかわしてしまい、昨夜は話し合いにすらならなかった。会話の主導権は完全にアレックスのものだったのだ。
彼はカガリの目的を察しているのだろう。もどかしくなってカガリが話を聞けと大声をだすと、アレックスは計ったように微笑み、条件をだしてきた。
「もしも、朝になるまでここにいて、俺のそばにいるなら」
 そしたら、まずは黙って話を聞いてやると言うのだ。当然カガリはとんでもないと拒否したが、アレックスのほうもそれ以外は聞かないと退かなかった。かなり迷ってカガリは歯を食いしばる思いでうなずいたのだが。
(一体なにがしたかったのか……)
 カガリの返事を得るやいなや、アレックスは夜具を用意し、カガリに隣に眠るように指示をするとさっさと眠ってしまった。そして、今もって熟睡したままなのである。
「わけわかんないな……こいつ」
 整った寝顔をにらんでカガリはひとりごちた。
 怖い人だと思っていたのに、駄々っ子のようにすねてみたり、わがままを言ったりする。そのうえカガリを手のひらで転がすように扱って、結果としてアレックスの望むようになっている。アスランもカガリの扱いが上手いが兄より弟のほうがどうにも悪質だった。
「まだ起きないのかな」
 すっかり目覚めてしまってから、カガリはしばらくアレックスを待ってみたが、少年のまぶたが開く気配はない。カガリは時間を惜しく思い、とにかく敵軍の誰かに接触してみようと部屋を出た。
音をたてないように簾をくぐって、誰もいない廊下に出る。あたりを見回して思い出し、昨夜来た方向にまずは足を進めようとした。
「どちらへお行きですか?」
 しかし、そこへ見計らったように声がかかり、カガリはぎくりと足を止めた。
「……ハイネ」
 澄ました口調だったが、声色には聞き覚えがあり、カガリは振り向きながら名前を呼んだ。カガリが振り向くと、その顔を見てハイネは軽く吹き出した。
「そう、露骨に嫌な顔をしないでいただきたいですね」
「仕方ないだろ、私は正直なんだ」
 カガリは徹底的に不機嫌な表情を作ってやった。
「おまえ、やっぱりアレックスの味方だったんだな」
「味方といえば味方かな。報酬と引き換えに従属している、そういう仕事ですよ、姫」
「私は姫じゃない。ただのカガリだ」
 カガリは胸を張った。
「そうですか……ではカガリ様。それで、どちらに行かれるおつもりですか?」
 ハイネは慇懃に礼をした。
「どこでもいいが、交渉のできる人間のところだ。私は、このばかばかしいいくさをやめさせに、ここにきたんだ。それなのに皇子じゃさっぱり話にならないからな」
「それはそうでしょうね。あの方がそんな話に耳を貸すわけがありませんから。でもここには殿下以外に交渉のできる者などいませんよ」
「でもその殿下が寝ちゃってるからしかたないだろう」
 あれは絶対話をするのが嫌だからわざと眠ってるんだ、とカガリは文句を言ったが。ハイネはそれが耳に入っていない様子だった。彼にはめずらしく取り繕うのを忘れるくらい驚いていたのだ。
「寝ているって、殿下が?」
 ハイネの驚きように反対にびっくりさせられて、カガリは目をぱちくりした。
「ああ、そうだぞ。いい気なもんだよ、寝坊じゃないか」
 しかし、ハイネに納得した様子がないので、カガリは首をかしげた。
「なんだよ。どうしてそんなに驚くんだ。皇子ってのはもしかして眠らない人間だとでもいうのか?」
「それに近いところはありますね」
 ハイネは簾の向こうを見遣って笑った。
「アレックス様がきちんと眠ったところを私ですら見たことはないのです。仕事をしながらうたた寝するくらいがいい方で、夜具に横になったことなどよっぽど子供だった頃にしかありません」
「そんなわけないだろう」
 だったら昨夜、さっさと布団で寝入ってしまった彼は何だというのだろう。
「おそらく夢を見るのが嫌だからなのだと私は思いますが」
 ハイネの表情が重くなる。彼の滅多にしない真面目な顔だった。
「悪夢です。都の奥の薄暗い宮殿の。血縁にも、配下にも、親にすら命を奪われかけた人ですから」
「なんだよ、それ」
 カガリは顔を歪めた。宮の中がただ美しいところではないと、ラクスに聞かされたことはあったが。
「そういうところなんですよ、あそこは」
 カガリが深刻になると、入れ代わりにハイネはいつもの笑顔に戻った。
「だから殿下は自分以外の誰も信じていない。もちろん俺のことも。だから俺は殿下の味方なんかじゃないんですよ」
 口の中でつぶやくと、話している内容の重さにそぐわぬ調子のよさで彼は続けた。
「あなたは、よっぽど素晴らしい子守唄の歌い手なんですね。あの殿下が手放しであなたを信じているんですから」
「子守唄……?」
 カガリは唇に手をやって考えた。なにかした覚えはどこにもないのだが。
「そこなんだよな、私がわかんないのは。アレックスはどうしてあんなに私に執着するんだ?」
「執着?」
 好き、という言葉が言いにくくてカガリは言葉を選んだ。飲み込めなかったのだろう、ハイネは眉を寄せていた。
「一度も会った覚えもないのに、私に固執する理由がわからないんだ。わざわざ由良から私を妃に選んだことも」
「会った覚えがない……」
 ハイネは腕を組んだ。いったん黙り込み、どう話そうかと考えているようだった。
「覚えてはいるはずですよ。カガリ様の記憶力がそこそこよければ」
「なんだよ、その言い方」
 どうもさっきからいちいち引っ掛かる。
「おまえな、その馬鹿丁寧な喋り方、逆に失礼だと思うぞ」
「じゃあ、やめようか?」
 ハイネはあっさりと態度を手放した。まったくもって馬鹿にしていると、カガリは憤慨するより呆れた。
「会ったことがあるのは間違いないぞ。殿下は由良に行ったことがあるからな。一度だけなんだが」
「え……?」
 ハイネがこんなことで嘘をつくとも思えないが。カガリの記憶にあるかぎりでは、都から人が、しかも皇子なんて人物が由良の里に下ってきたことはないはずだった。
「もちろん、正式に訪れたわけじゃない。十くらいのときだったか。帝にも忍んで、近衛の隊に同行したんだけどな……」
 ハイネは憂いを吐くようにため息をついた。
「そのときのことが強烈に焼きついているのかもしれないな……」
「由良に……」
 都の整然とした美しさとは違う、奔放で生き生きと美しい由良の里。カガリの心を懐かしい景色がかすめた。
「用向きは由良にでなく別でな……殿下の兄君を捜索に行ったのさ。大王の勅命で」
「捜索って……大王はアスランを捨てたんだろう?」
「捨てるだけでは安心できなかったから完全に処分するか、管理下に置くかしたかったのだろうな」
「そんなの……」
 カガリはゆっくりと首を振った。
「皇家の親子なんてのはそんなものさ。殿下も大人しく大王の駒になるような皇子に育たなかったからな、権力をひっくり返されては困ると、いつでも父君の刺客にさらされてるんだぜ」
 カガリには何も返す言葉が見つからなかった。
「だからなんだろうな、兄の居場所にめどがついたと俺が話すと、殿下がついて行きたいと言い出したのは」
 それは意外な気がした。
「……アレックスはアスランのことを本当は好きなのかな」
 カガリがぼそりとたずねると、ハイネは肩をすくめた。
「さあな、それはわからないけど」
 そして、彼はカガリに笑いかけた。
「そのときに殿下が「カガリ様」に出会ったのはたしかだ」
「私に……?」
 カガリは懸命に記憶をひっくり返してみたが、やはりアレックスという名も、アスランに瓜ふたつな誰かも見つからなかった。
「本来なら接点なんかあるはずないんだが……」
 ハイネは話を続ける。
「あのとき、俺がウズミ殿と交渉している間、殿下のことは近衛に任せていてな、やつらが目を離した隙に殿下にどこかへ行かれてしまったんだ」
 どういうやりとりがあったのかはわからないが、その交渉でウズミはアスランを譲らなかったのだろう。
「どこかへって、大騒ぎになったんじゃないのか?」
「近衛はみっともないくらい騒いでいたけどな。正直俺は心配していなかったよ。あの皇子様のことだからな」
 アレックスのことだから、きっと子供らしくない子供だったのだろう。
「案の定、何もなかったように帰ってきたしな。聞けば里の子供と遊んでいたと言うじゃないか」
「じゃあ、その子供って……」
 言葉半分に問うと、ハイネはカガリを見つめて意味ありげに笑った。
「殿下が俺に帰りの道中で、ぽつりともらしたことがある」
「光のような子供がいた」と、幼いアレックスは言ったらしい。
「里長の娘の髪と瞳がめずらしい色をしていると聞いていたから、そのことを言っているのだとすぐにわかった。その当時はそれだけだと思っていたんだけどな……」
 ハイネの語りが独り言めいてくる。
「思えばあの殿下が人に対しての感想を口にしたのは初めてだったんだよな」
 そこまで聞いても、カガリに思い浮かぶ記憶は何もなかった。
(どうして……)
 疑問は次から次へと浮かび、たずねようとカガリは口を開いたが、声を発する前に飲み込んでしまった。カガリの背後で竹作りの簾が勢いよく跳ね上げられたのだ。
「なんの内緒話をしているんだ」
 部屋の中から現れたのは、夜着姿のアレックスだった。
「内緒話ではなくて立ち話にございますよ、殿下。内緒話をするならもっとこっそり、それこそ小部屋にでも入ってしますよ」
「できるものならやってみていいぞ。内緒話も立ち話も二度とできなくしてやるから」
「アレックス、おまえ、そんな言い方ないだろう。口悪すぎだぞ」
 カガリの鋭い一声で、怒りをたぎらせていたアレックスが急変したので、カガリはハイネの嫌味な言い方もよくないけれど、と付け足した。
「君には部屋を出ないでもらいたかったな」
 怒りをそがれて、アレックスは盛大にためいきをついた。
「私は囚人じゃないぞ。部屋を出るくらいいいだろう?」
「囚人ではないが、客人でもあり、人質でもある。軍人ではない人間にここでの自由があると思うか?」
「人質って、私は……!」
「抗議があるなら中で聞くよ」
 さらりとアレックスがカガリの二の腕をとると、どうひっぱったのか、カガリはさして強くも引かれていないのに、部屋の中に連れ込まれていた。
「なにを怒ってるんだよ」
 明るい廊下から薄暗い室内に入ってカガリは少しばかり目がくらんだ。部屋には明かり取りの小窓ひとつきりしかないのだ。
「怒ってなんかないさ」
 暗がりの中でアレックスは笑って振り向いたが。笑っているのではない。笑顔の形を作っているだけで、彼の翡翠色の瞳は動いていなかった。
「怒っているのは君のほうだろう?」
「ああ、そうだぞ。あんなことを言われて怒らずにいられるか」
 腕にかけられていたアレックスの手を振りほどく。
「人質だって? 私はそんなものになった覚えはないぞ。私は交渉しにここへきたんだ。おまえの囚われになるなんて取引もしていない」
「でも、残念だけど現状はそうだ。ここで君に何ができる? 君が頑張ったところでせいぜい俺にかすり傷を負わせるくらいだろう」
 反論できずに、カガリは唇を噛んだ。
「カガリは何か思い違いをしているみたいだから教えてあげるけど、君から俺の元へ来たからには、もう帰してやる気はないよ」
「な……」
「当然だろう、そんなこと。どうしてあいつなんかに返してやらなくちゃならないんだ?」
 アレックスはさも当たり前のように言ったが、冗談ではない。
「カガリがこちらにいる以上アスランは下手に動けないからな。簡単に潰せてしまうぞ、あんなやつは」
 あまりのことにカガリは震えた。その震えるこぶしをにぎりしめて言った。
「あんなやつなんて、アスランはおまえの兄さんだろう」
「血の繋がりが何だっていうんだ? あって何か他の人間と違うところがあるのか」
 かっとなると、口より先に手が反応してしまうのはカガリの治さなければならない性格のひとつだが。この時ばかりはカガリは手をあげたことを悪いとは思わなかった。
「乱暴なお姫様だな。短刀を振り回したり、平手を使ったり」
 打たれた頬に手をやり、アレックスはくすくすと笑った。
「笑うな。私は本気だぞ」
 カガリは一喝した。
「どうしてそんなひねくれてるんだよ、もう」
 くしゃりと前髪をかき上げてため息をつく。この皇子様をどうしたものか。彼のふてぶてしさをどうにかしてぶち壊してやりたいのだが。
「そうだ、アレックス。ちょっと来い」
「え?」
 カガリがぐいと手首を引っ張ると、アレックスは意表を突かれたような声を上げた。アレックスの腕を引っ張って部屋の外に出る。簾の外は昼の明るさだった。
「あんな暗い部屋ばっかにいるからいけないんだ」
 カガリは皇子の腕を引いて屋敷の外を目指した。
 白い麻の夜着だけ着たアレックスを引っ張って、カガリは屋敷の庭に出た。この里長の屋敷は小高い山を背負う形で立っている。山あいの小さな平地にできた里なのだ。その形がカガリの生まれ育った場所に似ていた。
「どこへ連れていくつもりだ?」
 屋敷の敷地を出て、裏山に入ったところでアレックスはたずねたが、カガリは答えなかった。
ただ黙々と枯れ葉を踏んでいく。まばらな雑木林がだんだんと密になっていって、森の空気が濃くなっていく。身に馴染んだ空気にカガリは思わず深呼吸していた。
「そういえば、似たようなところに連れて行かれたな……」
 辺りの風景に目をやり、つぶやいたのはアレックスだった。
「え……」
 カガリは足を止めて振り向いてしまった。アレックスは木漏れ日の降ってくる空を見上げていた。
「俺の手なんて怖がって侍女も握らないのに、痛いくらいににぎりしめてこんな里山に引っ張って行かれたっけ」
 眩しいのか、アレックスは目を細めていた。
「また同じだ。変わらないな、君は。なにもかも」
「何の話だ……?」
「昔話だよ」
 アレックスの視線がカガリに移る。彼は柔らかく微笑んでいた。
「ハイネが話したんだろう、俺が由良を訪れたときのことを。そのときに、君は今みたいに俺の手を引いて里山に連れていったんだ」
「そんな、でも……私は」
 カガリが繋いだ手を離しかけると、それを見計らってアレックスはカガリの手を握り返した。
「知らないのでも、覚えていないのでもなくて、カガリは勘違いをしているんだよ」
 小さな手を引き寄せ、アレックスはカガリに近づいた。
「あのとき、カガリは俺のことをアスランと呼んでいたから」
「え……」
「アスラン、アスランと呼びながら、俺の手を引いて……間違えるのも仕方ないとは思う。幼い頃の方が俺と奴は見分けがつかなかったから」
 ざわざわと風が二人の頭上の木を揺らした。
「そんな……」
 カガリは言葉が出てこなかった。思い出せないのも無理のない話だった。カガリがアスランをともなって里山で遊ぶのはいたって普通の日常だったからだ。
「ごめん」
 カガリは小声で謝った。人違いをしていたこともだが、アレックスの存在を完全に記憶に埋もれさせてしまっていることは、やはり悪いと思った。
「いいさ、べつに。今はもう間違えたりしないだろう」
 ふっと笑ったあとに、アレックスの表情が翳った。
「でも間違えていてくれた方がよかったかもしれないな。あの時カガリは俺にたくさん笑ってくれていたし」
 握られた手にぎゅうっと力が込められた。
「わかっているんだ、本当は。もしもこのままカガリを手に入れても君が絶対に俺には笑ってくれないことも、心をくれないことも」
「あ……アレックス、痛い」
 何かが「いけない」と警鐘を鳴らしたのに、アレックスから目がそらせなかった。
「いろいろ言ったけど、本当はカガリが絶対に俺を好きにならないことはわかっているよ……」
 わかっているけど、とアレックスのもう片方の手がカガリのそでにすがりついた。
「だったら、こんなに君を好きな俺はどうしたらいいんだ」


 泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑い、怒るときには全身の感情をぶつけて、心を偽ることを知らないのが子供である。
 カガリは十六になった今でもそれに近いところがあるが、幼い頃はもっと遠慮がなかった。頬をふくらませて、足を踏み鳴らし、里の小道を少し早足で歩いていく小さな姫の姿を見たときなど、「またウズミ様の雷が落ちたのだな」と由良の者達は顔を見合わせ、姫のやんちゃぶりに微笑みあったものだった。
 その日もそうだった。
 朝から一滴の水気もない、からりと気持ちのよい晴れ空だったその日、カガリは前々からの約束だった木いちご狩りに父を誘おうと、起きたときから決めていた。決めていたからには、そうしなくては気が済まないのに、父のところへ行く前にマーナに止められてしまったことからカガリの不機嫌は始まった。
 今日は大事なお客様が来られているから、ウズミ様はカガリの遊びに付き合えないというのだ。もちろんカガリはただをこねたが、しかしマーナも頑なで、結局はカガリが不機嫌を爆発させて屋敷を飛び出すはめになった。アスランを探して、木いちご狩りに付き合わせようと思ったのだ。
 すると彼はひとりで屋敷の中庭をうろうろしており、見つけたカガリは背後から近づくと呼びかけもせず乱暴に手を握った。
「アスラン、今日は山に行くぞ」
 うん、とも、いやだとも言わない彼をカガリはぐいぐい連れ出した。もとより、アスランはカガリの行動に異を唱えたりはしないのだが。
「木いちごいっぱいいっぱい摘んでやるんだからな。それで持って帰れなくなるくらい摘んでもマーナには一個もやらないぞ」
 カガリの忠実な弟は、いつもどおり黙ってカガリに手を引かれていた。ここで彼が一言でも嫌だと言っていればおそらくすべては違っていたのだが。カガリの連れていこうとしているのが、アスランではなく、アレックスで、カガリの知らない人なのだと気付いていれば。
 しかし、アレックスも考えて黙っていたのではなかった。彼は彼なりに驚いていたのだ。皆が怖々触れてくる小さな皇子は、手を引かれた経験もなかったから。
「カガリ……」
 ハイネから聞かされていた由良の姫の名前をアレックスは小声で呼んでみた。里のあぜ道から里山に入ったところ、道のなくなるところだった。
「なんだ?」
 カガリは振り向かずに問い返す。
「木いちごって……」
「去年も取りに行っただろう。甘くておいしいものだ。忘れたのか?」
 カガリの気分は春の天気のようにころころと変わる。山に入ると次第にわくわくする気持ちが強くなってきたのか、カガリはもう怒りを忘れていた。
 山の裾野に近い、低木の茂ったあたりにカガリの目的の木はあった。みずみずしい赤い果実が春の陽光を受けて、貴石のようにきらきらしている場所だった。それを探し当てるまでのしばらくの間、アレックスはカガリを興味深く観察していた。
 不思議だったのだ。アレックスに対する腹心を何も感じさせない。ただアレックスと一緒に春の果物を摘むためだけに、彼の手を引く少女が。
「どうしたんだ? アスラン。食べないのか?」
 深い赤色をした木の実を指先で摘んで、カガリはじっと自分を見つめるアレックスに差し出した。人差し指の先くらいの大きさをした可愛らしい実だった。
「甘い……」
「だろ? 春の楽しみだ」
 アレックスの感想を聞いて、カガリは心底嬉しそうにまたひとつ木いちごを手渡した。誰かのそんな素直な笑顔を見たのも、アレックスは初めてだった。大人達の礼儀としての微笑と、愛想笑いくらいしか知らない子供だったのだ。
「なあ、アスラン。こんなにいっぱい生ってるんだから、二人で皆が食べ切れないくらいたくさん持って帰ろうな」
 カガリはまた、まぶしくアレックスに笑いかけた。
「お父様と、マーナと、兄様達と、それから……」
 まばたきをして考えながら小さな指を折る。
「皆きっと喜ぶよな」
「……ああ」
 すっかり上機嫌なカガリに、アレックスは曖昧なあいづちを打った。なるべく口数を少なくしていようと思ったのだ。彼女は自分を双子の兄と勘違いをしている。人違いが知られてしまえば、きっと今のこの時が崩れてしまうから。
「ほら、おまえもぼーっとしてないで手を動かせよ」
 カガリはアレックスのそでをくいくいと引いてうながした。せめてもう少し彼女といたいと思って、アレックスは黙ってうなずくとカガリを真似て木の実を摘んだ。
 静謐な都を出た兄がどんなところにいたのか。アレックスには想像もつかなかった。思いもよらなかったのだ、こんなに広くて明るい場所にいるなんて。
 山を登ったアレックスの白い両足は春の柔らかい土に汚れ、絹の着物もすっかりほこりを含んでいたが、アレックスはそれが嫌ではなかった。自分の足で歩くこともない宮では、着物も履物もまっさらで、まるで飾りものだった。
 鍛練のために体を動かしても、結局それは彼の仕事のようなもので、山歩きをしてきた今の両足の疲れのような心地よいものも感じたことはなかった。そして、なによりアレックスの心を掴んだカガリが、彼にはどれほど眩しかったか。純粋に透き通った、無垢なものの結晶のようで。
 自分にはかしずく侍従が数え切れないほどおり、不自由な思いとは無縁であることが保証されているというのに、それでもアレックスはアスランをうらやましく思った。カガリの着ている着物や屋敷の様子から裕福とは言い切れない暮らしをしていることはすぐにもわかったが。
 それでも由良は輝いて見えたのだった。


 風が通るたびに、森の天井がざわざわと静かに騒ぐ。
 それにあわせて、目の前で藍色がかった黒髪がさらさらと流れるのを、カガリは黙って見ていた。朱色のそでにすがりついた手を振り払うこともできなくて、ただじっとしているしかなかったのだ。
 同情といえば、そうなのだろう。
(だからって……でも)
 どうすることもできないのはわかっている。アレックスに応えてやることは、彼自身も言っていたとおり、できないのだ。うつむいたアレックスがいつまでも動く気配がないので、カガリはためらいながらも顔をうかがおうとした。
「なあ……」
 口を開こうとした途端、すっとアレックスの手がカガリの口を遮った。カガリが面食らっているのをよそに、アレックスは背筋を伸ばし、さっと後ろを振り返った。
「騒がしいな……」
 アレックスの目線の先は山のふもと、里のある方角だった。言われてカガリも耳を澄ますと、木々のざわめきに混じってかすかに別の音がする。
 大勢の人波の音。聞き覚えのあるこれは戦場の音ではないだろうか。
「アスラン……?」
「あいつはもっと賢いと思っていたんだけどな」
 アレックスは苦々しく舌打ちをした。
「それ、どういうことだ?」
「まともにぶつかって、万に一つも向こうが勝つ可能性はないぞ」
 カガリもアレックスと同じ方角を見た。雑木林の中から里が見えるわけではないのだが。
(アスランが来たのか……?)
カガリは思わず背伸びをしていた。その隣でアレックスはしばらく考え、それからよく通る声で言った。
「ハイネ、報告は来ていないのか」
 まさか、と思ったが、そばの木立から赤みがかった短髪の青年が現れたときには、カガリもさすがに驚いた。
「おまえ、いつからいたんだ」
「ずっと、初めからおりましたよ。カガリ様」
 にっこりと礼儀正しくカガリに笑いかけて、ハイネはアレックスに向き直った。
「つい先ほど、伝達が上がって参りましたよ。どうやら突然里に攻め入って来た軍があり、応戦しているとのことですが……」
「なんだ?」
「アスラン殿の軍ではありません」
 ハイネはきっぱりと言った。
「確かか、それは」
「ええ、数が違います。どうやら我々が押されているようです、それも圧倒的に」
 それを聞いて、アレックスはげんなりと肩を落とした。
「そんな数を用意できるのは、まず一人しかいないな」
 ふもとを見下ろして、彼は口許に笑みを浮かべた。
「あの父が、俺に何の用だろうな……」
「父って……」
 アレックスのつぶやきを聞き逃すことはできなかった。大王が相手になってくるなんて。
「こそこそ刺客を使うだけじゃ足りなくなって、一気に潰そうということなのか」
 アレックスは皮肉っぽく唇を曲げたが、ハイネは腑に落ちない様子だった。
「陛下らしからぬ大仰な手段ですが……」
「どちらにしても、俺を潰しにきた連中は歓迎してやらないとな」
 アレックスの言葉に暗い炎が見えた。
「カガリ、木いちごを探すのはまたにしてもらってもいいか?」
「木いちご?」
 カガリは眉を寄せた。アレックスが明るくたずねたので、何かの冗談なのだろうと解釈したが、だとしても意味がわからなかった。顔をしかめているカガリの腕を、アレックスは構わず引いてうながした。
「あのさ、アレックス……」
 ついて行けるからと、手を引いてもらうことは遠慮したが、さらりと無視されてしまった。山を下る方向に歩きだした主人の後に、ハイネも無言で続いた。
「おまえさ、いつもああして盗み聞きしてるのか?」
 カガリはじろりと後ろを振り返った。
「申し訳ないのですが、これが仕事ですから」
 ハイネは少しも悪びれていなかった。
「面白がってるくせによくいうよ」
「退屈しない仕事をいただけてありがたいですよ」
 ハイネは笑っていた。
 里山の裾野を少し登っただけだったので、もといた屋敷にはほどなく戻ることができる。そうして、林を抜けたあたりから喚声が直接耳に響いてきた。戦いが起こっているのだ。
(アレックスも、ハイネも戦況が苦しいように言っていた)
アレックスは無言で屋敷を目指していた。考えを巡らせているのだろうか。降って湧いたような状況に、カガリは頭がついていかなかった。まだ呆然と、遠くの騒ぎを聞いているだけで。
(アスランは……アスランはどうしているんだろう)
森から地続きになっている屋敷の敷地にたどりついて、三人はようやく足を止めた。
「ここに陣を敷いていて正解だったな。わりと造りのしっかりしている建物だから篭城もある程度なら可能だ」
石の土台に支えられた板塀を眺めて、アレックスは息をついた。カガリもつられて緊張を解いたが、落ち着こうとした手前、何かが鋭く頬をかすめて、はっと身を固くした。
「カガリ!」
アレックスが叫んでかばう。頬をかすめたのは弓矢だった。
「近衛か……!」
 アレックスの肩越しに見えたのは屋敷の板塀の上で弓を構える黒い人影だった。
「早く中に」
 片手でハイネに指示をしながら、アレックスはカガリに屋敷の中に入るよう言った。一瞬迷ったが、応戦したとしても足手まといにしかならないことはわかっているのだ。次の矢が飛んでくる前にカガリは高床になっている屋敷の縁側によじ登り、目の前の部屋に飛び込もうとした。
 しかし、カガリが駆け込むより先に部屋の中から腕が伸びてきて、転びそうになっていたカガリを掴んだ。
「えっ、わ」
 力強い腕は明らかに男のものだった。カガリが悲鳴を上げるよりも早くその腕はカガリを部屋に引き込んだ。あまりのことにカガリは悲鳴すらも凍りついてしまった。
(アスラン……っ)
 心でその名を叫んだが、驚いたのはその次だった。
「なんて恐ろしいことをしてくれるんだ、君は」
 ため息まじりの声と同時に懐かしい温もりが体を抱き締めた。
「え……、あす」
 恐怖で張り付いてしまっていたのどは上手く名前を発音できなかったが、間違いない。彼だった。
 腰を抱いた手はそのままに、カガリを捕まえたその人は無事を確かめるように髪や頬に触れた。
「どこも怪我はないか?」
「あ、うん」
 カガリは顔を上げた。暗がりに目が慣れてくると、彼の顔がはっきりと見えた。
(アスランだ……)
 言い知れぬ安心感が胸に広がり、強張っていたカガリの顔は緩んだ。
「おまえ、どうして……」
「そんな子犬みたいな顔してもだめだぞ。わかっているだろうけど君には言いたいことが山ほどあるんだからな」
口では叱っていながらも、アスランの手はカガリの頬を愛おしげに撫でていた。
「でもよかった、無事で。君の顔を弓矢がかすめたときは息が止まるかと思ったよ」
 やさしいアスランの手のひらが心地よかった。カガリになにより馴染んだ、彼の感触、彼の匂い、彼の声だった。
「近衛は目的のためなら見境がないから困るな」
「なあ、近衛ってことは、やっぱり攻めてきたのは大王の手のやつらなのか?」
 いつまでも甘い気分に浸っているわけにはいかず、カガリはたずねた。
「ああ、大王の一の軍だ。ここを占拠するのも時間の問題だよ」
「そんな……」
「心配しなくても大丈夫だ。カガリや俺が捕らえられるわけじゃない」
 アスランはカガリの焦燥を安心させようとしたが、カガリが心配していたのは、自分ではなくアレックスのことだった。アレックスはまだ庭で近衛の相手をしているのだろうか。
 すると、カガリが気を揉んだのを察したかのように、背後から答えが返ってきた。
「やっぱり、あの父をけしかけたのはおまえだったのか、アスラン」
 アレックスが部屋の入り口に立っていた。面白くなさそうに、肩を寄せた二人を眺める。
「そうだと言ったら?」
 アスランは彼を見ると微笑みで挑発した。
「だったら悪あがきはよしたらどうだと、助言してやるよ」
 それに対してアレックスも薄笑いを返した。逆光の中で見えたそれはぞっとするような凄みがあった。
「カガリはおまえのところを逃げ出して、俺のところに来たんだ。みっともない未練はやめて諦めたらどうだ」
 アスランの激昂を誘ったのだろうが、彼にこういう言葉が効果がないことをカガリは知っていた。
「もうやめておけ、アレックス。おまえが俺を許せないなら気が済むようにしたらいいが……カガリだけは譲らないぞ」
「譲るも何もおまえのものじゃないだろう。ただ出会ったのが先だというだけだ」
「だが俺がカガリに会わなければおまえだって由良に来ることはなかったはずだ」
 カガリは黙って二人の会話を聞いていたが、言い合いが終わる様子もないので、とうとう声を上げた。
「もう、喧嘩はまたにしろよ。今は他の話をしてる暇はないぞ」
 アスランの腕をほどいて、二人の間に割り込む。
「早くしないと。ここに攻め込まれたら終わりなんだろう」
 二人ともが口を閉じたので、カガリはまずアスランにたずねた。アレックスの一言がひっかかっていたのだ。
「なあ、アスラン、大王をけしかけたってどういうことだ?」
「けしかけたって、アレックスの言っていたことか? ごめん冗談だ」
 困惑を浮かべるカガリにアスランは笑って見せた。
「俺は大王に援軍を働きかけたりはしないよ」
「嘘をつくな。明らかに父のやり方ではないぞ、これは。奴ならもっと目立たず巧妙な方法を使う」
 アレックスが兄を見据えが、アスランは冷静に言い返した。
「大王の軍が動いているからといって、それが大王の意思だとは限らないだろう」
 それを聞いてアレックスは再び考え込んだが、カガリは顔をしかめた。
「アスラン、どういう意味だ?」
「大王以外の人間が指揮をとることもあるということだよ。そのうちわかる」
 アスランはさらりと言い切った。
 屋敷の外は相変わらず騒がしい。変わらないどころか、喧騒は次第に近づいて来ていた。
 アレックスは外を気にしているようだったが、アスランには少しの焦りもなかった。何か、彼は知っているのだ。
「アスラン、おまえ一体何をしたんだ?」
 何を知っているのか。
 アスランが嘘をつかないのを知っているカガリは彼がはぐらかさないように着物を掴み、瞳をまっすぐに覗き込んだ。それで逡巡するかと思ったのに、アスランはそのままの微笑みで答えた。
「俺はただカガリを迎えに来ただけだよ」
 胸元を掴む華奢な手をアスランの手が取り上げた。
「それだけだ。他に何がある?」
「でも……」
 思惑とは反対にカガリが答えにつまってしまった。
「私がここにいるってどうしてわかったんだ。何も言って出なかったのに」
「言われなくてもわかるよ。アレックスを止めるつもりだったんだろう。君の考えには君より詳しいつもりだよ。それでも不覚だったのは、君に毒を盛られたことだけどな」
 アスランは笑い話のように話したが、カガリは思い出した罪悪感でさらに言葉につまった。
「まさか毒……だったのか、あれは」
「いや。朝までたっぷり眠ってしまったよ」
 自分の裏切りを思い、カガリは唇を噛んだ。
「……ごめん」
 アスランはやさしい口調を崩さないが、目覚めてカガリがいないことに気付いたときには、きっとひどく心配し、憤ったにちがいないのだ。
「いいよ。カガリを蚊帳の外にしていたのは俺のほうも反省しなくちゃならないことだ」
 そこでアスランは話を切ると、カガリの手を引き寄せた。
「そういうわけで、カガリを迎えにきたんだが。俺は君を連れて帰ってもいいんだよな」
 試すような口調だった。実際、試されていたのかもしれない。アスランが言い切らず問い掛けたことで、カガリは思い知らされていた。
 彼はカガリが首を縦に振ることができなくなっているのを見抜いていたのだ。アレックスをここで見捨てていけなくなっていることを。
「私は……」
 正直なカガリは、アスランの目を見ることができなくなり、まつげを伏せた。
(迷う必要なんてないはずなのに……)
 アスランとカガリの会話をアレックスは黙って見ているようだったが、カガリは入り口の方を振り向けなかった。背中に視線を感じるのに。
「……私は」
 やはり帰るとは言えず、カガリは決意して言った。
「まだ、ここを離れられない。アレックスに借りがあるんだ」
 これが言い訳なのは、きっとアスランにもわかっているだろう。けれども後ろめたいことは何もないのだと。ここにいたいと思うのが、カガリの素直な気持ちであることはわかってほしかった。
「アレックスがいなかったら近衛の弓矢は私に当たっていたかもしれない。あいつに助けられたんだ、私は。アレックスを見捨ててはいけないよ」
 曇りのない瞳で見上げたアスランは怒りも嘆きもしなかったが、一拍おいて、やっぱりというように息をついた。
「そう言うと思ったよ」
 たしなめるような笑みを浮かべるとカガリを見下ろして、彼は腕を組んだ。
「なら、どうする? 君が大王の軍からアレックスを守るのか?」
 突き詰められると、カガリは返答できなかった。
 何かがしたいわけではなくて、ただただアレックスを放っておけないだけのだ。それはつまり危なげな子供をそのままにしていられないのと同じことだった。
「軍から守る? そうじゃないよな、カガリ」
 答えにつまったカガリに重ねて問い掛けたのは、それまで沈黙していたアレックスだった。
「そうじゃなくて、これから先ずっと俺のそばにいて、離れないでいてくれるんだろう? 借りがあると思っているなら俺の希望をひとつくらい聞いてくれてもいいよな」
 外の光を背にして、アレックスは柱にもたれてこちらを見ていた。
「そんなふうにいわれても、私は……」
 その希望には答えられないことはアレックスも知っているはずなのだが。これは彼のよく言う軽口なのだろうか。
「その希望っていうの……他にはないのか?」
「ない」
 即座に返ってきたのはきっぱりとした答えだった。
「他に望むものなんかひとつもないよ」
「でも……それは、私には」
 何と答えたらいいのか。カガリが唇を噛むと、アレックスはカガリの胸を突き刺す言葉をつぶやいた。
「カガリの優しさは残酷だな。哀れみや情けで優しくしないでくれるか」
 アレックスの欲しがるようにはできないが、かといって突き放すことももうできず。カガリは曖昧な選択をしたのだ。
「できないんだろう? 俺のほうに来るのは」
 アレックスの微笑みが歪んだ。
「たしかに君の優しい言葉が欲しいとは言ったけど、こんな苦いものはいらないな」
 アレックスの言うこともわからなくはなかった。本当の意味でアレックスの手をとることはできないのに、それでも振り払えないのだ。酷いことをしているのかもしれないと思うとカガリは何も言えなかった。
「すまない……アレックス、私は」
 弁解を絞り出そうとしたが、なにも思いつかなかった。
「そういう顔をしないでくれるか。俺が悪いことをしているみたいだ」
 アレックスは深いため息をついて、前髪をくしゃりと掴んだ。
「いいじゃないか、もう。帰ってくれ」
 アレックスは彼らしい冷めた笑みを浮かべて、アスランを見遣った。
「こちらには、その侵入者を捕らえるだけの人員も揃っていないし。カガリは盗まれたことにしようか。ここの兵を使えなくしてたのはおまえなんだろう、アスラン。あちこちで兵が気絶していたぞ」
「俺一人ではなくて、ぎゃあぎゃあ文句を言いながらも手伝ってくれる友人がいたからできたんだがな」
 アスランが答えると、それに軽く相槌を打って、アレックスはカガリに向き直った。そして固く冷たい口調で言い放った。
「さよならだな、カガリ。君が止めたがった戦は俺の負けで決着がつきそうだよ」
「待って……待てよ、アレックス。できるわけないだろう」
 固い表情をしているアレックスが痛みに堪えているように見えて、カガリはアスランの隣を擦り抜け、思わず駆け寄っていた。
「おまえは、おまえはどうするんだよ。ここに残って……ひとりで」
 アレックスの着物を掴んで揺する。
 外の騒ぎはいよいよ間近になっていて、時間がいくばくもないことを教えていた。強い太陽の光がアレックスの顔に濃い影を落とす。
「哀れみだからってなんだってんだよ。私はおまえを置いてはいけないぞ」
 カガリはかぶりを振って叫んだ。声を大きくしなくては、聞こえないくらいに戦いの音は近くになっていた。
「やめてくれ……カガリ」
 聞き取れないくらいの声でアレックスは囁いた。
「なんでだよ。目の前で危ない目にあおうとしている人がいて見捨てていられないのは当然のことだろう」
 カガリにとってアレックスはすでに憎むべき敵ではなかった。和解は善いことであるはずなのに、彼と打ち解けたのは間違いだったのだろうか。懸命に自分を助けようとするカガリを見下ろして、アレックスは奥歯を噛み締めるような顔をしていた。
「無意味な期待はしたくないのに……」
「え?」
 聞き取れなくて、うつむいた顔をカガリが覗き込むと、アレックスはゆっくりと黒いまつげを上げた。
「行かないというなら、いっそ、とってしまおうか。こいつの目の前で」
 アレックスの瞳がちらりとカガリ越しにアスランを見たのがわかった。楽しいことを見つけたように、アレックスの唇の端が持ち上がる。彼を怖いとはもう思わなかったが。さっと血の気が引くのと同時に嫌な予感がした。
 カガリが体を反応させて身を退くよりも速く、アレックスは柔らかな二の腕を掴み、よろけて近づいたカガリの唇を自らの唇でふさいでいた。
「ん……!」
 柔らかい感触がカガリに与えた衝撃は大きかった。まさか、ここで口づけをされるとは思わなかった。目を見開くと、深い緑の瞳がいたずらっぽく細められる。
「や……っ」
 思いきり突き飛ばすつもりでカガリは暴れたのだが、アレックスはよろけもしなかった。小さな頭はしっかりと固定されて逃げられない。
(アスランが……)
 唇が重なっていた時間はほんの短い間だったのだが、カガリはその間に唇が離れた後のことを嵐のように考えた。
「よっぽど俺を怒らせたいらしいな」
 そう頭上で声がしたかと思うと、カガリはふわりと後ろに体を引かれていた。
 アレックスの唇も手も、ふっとカガリを手放した。カガリを奪い返して、アスランは少女の体を背中ごと胸におさめる。しかしカガリを連れ戻す柔らかな動作とは対照的に、アレックスの手首をひねり上げている片手は容赦がなかった。
「やっとまともな反応を返したな。どうも、おまえはとろくて困るよ」
 アレックスは挑戦的に微笑むとアスランの手を乱暴に振りほどいた。その動作の流れで、アレックスが腰の剣をすらりと抜いてアスランの首筋に切りつけるまでの動きがあまりに自然で、カガリではきっとよけきれなかっただろう。
「もっと早くにこうしていたらよかったんだよな」
 アレックスの初めの一太刀をかわしたアスランに、アレックスは剣先をちらつかせた。
「な! アレックス、何してるんだよ! ばか!」
 先ほどまでのことをもう忘れて、腕の中から一歩踏み出そうとしたカガリを、アスランも今度は行かせなかった。
「アスラン、離せよ」
 両肩を拘束したアスランを振り向いた矢先、彼は文句が飛ぶより早く、かすめるような口づけをした。
「これ以上、俺を怒らせる気?」
 細く骨張った親指が、カガリの唇をなぞった。
「せめて理性は保っていたいんだけどな」
 返す言葉を奪われてカガリが立ちすくんだのを見て、アスランは肩に置いていた手を離した。
「俺は気が気じゃないよ。君があんまり可愛いから。誰にも見せたくなくなる」
 素早いやりとりで、カガリに動けなくなるよう釘を刺して、アスランはアレックスに対峙した。
刀を抜いて、片手に軽く構える。
「おまえを放っておいたのがそもそもの間違いだったな。そのせいでカガリは迷ってしまうんだから」
 アレックスはせいせいとした様子で言った。
「初めから選択肢をひとつにしておけばよかったんだよな」
 嬉しそうに思いつきを話すアレックスは子供のようにも見えた。
 二人を引っつかんででも、馬鹿なことはやめさせようとカガリは駆け出しかけて、ひるんでしまった。次のアレックスの切りつけが、アスランの胸をかすめた後には、カガリの止めに入る隙はなくなっていた。
 口許に笑みを浮かべて剣を滑らせるアレックスは冗談半分に真剣勝負をしているように見えたが、アスランに繰り出す太刀筋は本気で相手を殺しにかかるときのものだった。攻めるアレックスと、それをそつなくかわすアスランは、見た目には兄のほうがおされているように見えたが、力量はアスランのほうが上だった。太刀が相手に届かなくてはアレックスに勝ち目はないのだから。
「馬鹿だっ、もう」
 屋敷の外から迫る戦いの音がカガリを焦らせた。体当たりするつもりで飛びつけば、とにかく止めることくらいできるだろう。カガリはもう一度足を踏み出したが、誰かに肩をぐっと掴まれて、突撃は止められてしまった。
「お姫様はそういうことをするものじゃないぞ」
 弾かれたように振り向くと、不機嫌そうな空色の瞳とかちあった。
「イザーク……」
「こういう場合、貴様の役割ははらはらしながら見守っていることだろうが。ほんとに大人しくしていられない奴だな」
 そんなに離れていたわけではないのに、彼のどこか居丈高な言い方が懐かしく思えた。
「おまえな、あれを止めないでどうするんだよ。二人とも馬鹿だからどうしようもないぞ」
 カガリはイザークの着物を引っ張って訴えた。イザークなら止めに入ってくれるだろうと思ったのに。わめくカガリの頭をなだめるようにイザークは軽く叩いた。
「心配しなくても殺しあいにはならん。お互いにその気はないらしいからな」
「でも……」
 イザークの言葉でもカガリはまったく安心できなかった。
「でも、アレックスは本気だぞ」
「いや、やつにはアスランは殺せないな。本当の殺意なら見ている人間にも伝わるものだ」
 イザークは目の前の二人を見て言った。
「もしかしたら自分が兄を傷つけられないことに皇子自身も気付いていないのかもしれないな」
「アレックスが……?」
 カガリは藍色の髪の二人を見た。アレックスはさんざんにアスランを憎む言葉を吐いていたが、それが裏返しになったものだったのだとしたら。
(やっぱり、やめさせないと)
 和解ができるのだとしたら、どちらかが傷を負ってからでは遅いだろう。
「カガリ!」
 鋭く叫んだイザークの声も聞かずに、彼の拘束を振り切って、カガリはアスランの背中にがむしゃらに抱きついた。
「かが……っ」
 不意打ちをまともにくらって、アスランの体の重心が揺らいだ。カガリはアスランをかばうように体を張ったが、アスランもまたとっさに彼女を胸に抱えた。その彼の頬を鋭いものがかすめたが、アスランはよけようとはしなかった。
「アスラン!」
 夢中で止めに入って、はっとしたときにはもう遅く、カガリが顔を上げると一拍置いてアスランの右頬にぱっと赤い筋が走った。
「あす……」
 音をたてて血の気が引いて、胸が冷たくなる。次の切りつけを予想して背後を見たが、そこで食らった思わぬ肩透かしに、カガリは唖然としてしまった。
 アレックスは刀を中途半端に持ち上げて、そこから動けなくなっていたのだ。顔色を変えて兄の顔を見つめている。
「アレックス……?」
 カガリはそろりとアスランから体を離した。アレックスから攻撃の気配が消えていたのだ。
「……おまえ」
 ほんの一筋のアスランの傷に、彼は明らかにカガリ以上に動揺していたのだ。
「おまえ、本当はアスランと戦ったりなんか……」
 たぶん、きっと、できないのだ。
 それはカガリにもアスランにもはっきりとわかってしまった。アスランの頬を切った刀にアレックスはゆっくりと目を落し、そして諦めたようにそれを手放した。かしゃんと金属音がして白い太刀が床に転がった。
「最悪だな……憎くてたまらないはずなのに」
 ぼうっと刀を眺め、アレックスはつぶやいた。
「おまえがいなかったせいで俺はずっと独りだったのに……あのだだっ広い家で」
 弟の横顔を深い色の瞳に映して、アスランは口を開いた。
「悪かったと思っている。結果として俺はアレックスになにもかも押しつけた」
 抑えた声で彼は続けた。
「許せとは言わない。しかし、俺達に選べたことじゃなかったんだ。どちらが宮を出ても父には同じだったのだから」
「それでも、おまえはカガリを手に入れているじゃないか」
 けだるそうに顔を上げたアレックスは泣き笑いのような表情をしていた。
「俺にはこの上ない身分も、力も、不自由することのない未来も、何だってあるが、それが何になるんだ」
「おまえには当たり前のものだろうけどな……」
 アスランは少し考えて言った。
「父は俺がどこかでのたれ死ぬだろうと考えて、手をかけるのではなく宮の外に放り出したんだ。そして一歩違えば俺は父の思惑通りになっていたと思う。倒れたのが由良でなかったら。由良でカガリに出会わなかったら……」
 カガリは思わずアスランを見上げていた。視線に気付いて、アスランは大きな瞳を見開いたカガリに少し笑いかけた。
「アスラン、それってどういう……」
 困ったような笑みがカガリに、由良にやってきた頃のアスランを連想させた。
 ぼろぼろでカガリの屋敷にやってきた見知らぬ少年だ。それはいやがおうでも幼いカガリの好奇心を掴む存在だった。歳の近い兄弟のいないカガリには絶好の遊び相手だったからだ。
 しかし、彼はカガリの期待を見事に裏切ってくれたのだった。
 アスランはカガリの元気のほんのかけらも持ち合わせていない少年だった。新しい友人を手に入れた喜びを抑えきれないカガリが弾む声で名前を聞いても、彼はぼうっと長いまつげを動かすだけだった。
 ただの無口よりもひどい。食事もろくに摂ろうとせず、少年には生きようとする意志が見えなかった。そんな相手をカガリが放っておけるはずかなく、彼女はアスランを外に引っ張り出した。
 マーナの用意した食事に手を付けなければ無理矢理にでも食べさせたのだった。
「アスランは、あの時、やっぱり生きるつもりがなかったのか?」
 聞くのが怖い気がしたが、たずねておきたかった。
「そんな顔をするだろうから掘り返したくなかったんだけどな……都を出てからしてきたのはろくでもないことばかりだったから」
 アスランの微笑みに自嘲の色が混ざる。
(下里の子供達が汚れたよそ者だと言っていた理由が、単なるひがみじゃないことはなんとなくわかっていたけど……)
 大人達が腫れ物のように扱っていたアスランを、カガリは光の中へ、がむしゃらに連れ回した。
 透き通るようだったアスランの肌が、やがてカガリと同じあたたかな色を帯び、表情と声が豊かになって、そして初めて笑顔を見せたときのことをカガリは今でも忘れていない。
 やわらいだ翡翠の瞳が、どれほど嬉しく思えたか。
「おまえにだって、誰にだってカガリは譲れないよ。アレックス」
 カガリの肩に置かれた手に力が込められた。
「カガリから俺の手を離さない限りは」
 アレックスは何も言わずにアスランを見つめた。
 アスランもそれ以上には何も語らず、アレックスの出方を待っていたので、沈黙ばかりが続いた。カガリも身じろぎすらできないでいたが、初めにそれを破ったのはアレックスだった。
「諦めてやるのは、しゃくだけど、あいにくと時間切れみたいだ」
「え……」
 屋敷の外のほうへアレックスが目をやったかと思うと、大きな破壊音がした。
「まさか」
 カガリの体を戦慄が走った。
 破壊音に続いて、複数のひづめの音と、騒音が雪崩のように近づいて来た。屋敷の門が破られ、敵軍が侵入して来たのだ。
「アレックス、逃げなくちゃ……!」
「いいよ、もう」
 アレックスは面倒そうにため息をついた。ひづめの音がもう間近に来ていた。
「馬鹿! 何言ってるんだ、殺されても知らないぞ」
「嫌ですわ、カガリさん。そんな野蛮なこといたしませんわよ」
 騒音に混じって聞こえたのはよく通る声だった。
 聞き間違いかと思って、庭のほうを見ると、鮮やかな桃色が目に飛び込んで来た。武装の集団がすでに屋敷を包囲しており、地味な色の中でその色はかなり目立っていた。
「ラクス……?」
 騎兵と歩兵を背後に従えた、一番立派な鞍を着けた馬に乗っていたのはカガリのよく知る少女だった。
「ラクス、どうして……」
 カガリが言葉を失っているうちに、ラクスは器用に馬を寄せ、縁側にふわりと飛び降りた。
「まあまあ、お二人ともそんな危ないものを持ち出されて。カガリさんが怪我でもされたらどうするんですの?」
 まるで重みを感じさせない足どりでラクスは近づき、床に落ちていた刀を拾いあげると、アレックスに手渡した。
「さて、思いきり駄々をこねて満足しましたか? お兄様」
 刀を差し出されて、アレックスは何かいいたげな様子だったが、大人しくそれを受け取った。
「駄々をこねたつもりもないし、満足どころか不満は募るばかりだな」
 言いながらアレックスが刀を鞘に納めたので、抜き身を下げたままだったアスランもそれに応じた。
「でも、わりとすっきりしたかな」
 アレックスは笑って言った。
「それにしても、おまえが来るとは思わなかったぞ。相変わらず破天荒なやつだな」
「わたくし、お迎えに参りましたの。と言っても、まあ、お兄様に帰る気がおありならですけれども」
 伺うようにラクスは小さく首を傾げた。
「なんだ、それは? 帰らなくてもいいということか」
「だって、お兄様は家出なさったのでしょう? お父様が遠征にかこつけた家出だから放っておけとおっしゃっていましたから」
「戻ってくると踏んでるんだな。子供の家出なんて、はしかみたいなものだって言いたいんだろう」
 アレックスは緩くため息をついて髪を乱した。
 兵を引き連れての家出なんて聞いたこともないとカガリは思ったが、口は挟まないことにした。
「でも、俺が戻らなかったとしてどうするんだ? 父もいつかは帝位を譲るだろう」
「あら、譲る相手がお兄様だけとは限らないですわよ。わたくしは女帝というのも悪くはないと思いますけれども?」
 ラクスは発言にそぐわない軽やかさでくすくすと笑った。
「今回で、わたくしお兄様に勝ってしまいましたし」
「冗談もたいがいにしろ。何の意図があって父はラクスに軍を与えたんだ? 理由などひとつしかないだろう」
 アレックスが声色を変えると、ラクスは笑うのをぴたりとやめた。しかし顔を上げた彼女は、微笑みをたたえたままだった。
「そうですわね、お察しのとおりですわ」
 間をおいて、彼女は名乗るように丁寧に言った。
「わたくしはお父様からの刺客ですわ。たぶん最後の。わたくしを将にすえて、お兄様を軍ごと消してくるようにと……お父様のお言い付けなのです」
「な……ラクス、何を言ってるんだよ。嘘だろう」
 カガリが走り寄ろうとすると、ラクスはそれより先に振り返り、カガリの両手を羽根のように包み込み、握った。
「わたくし、カガリさんに嘘は申しませんわ」
 いやいやするようにカガリは首を振った。
「ラクス……だめだ、アレックスを」
 続きが言えなくて、唇だけが震えた。ラクスの笑顔に、逆らいがたいものを感じたのだ。ラクスが一声命じれば庭に控えている兵が押し寄せてきて、きっと一瞬ですべてが片付く。
「そんなの……」
「カガリさん、お兄様のこと、少しは好きになっていただけました?」
 ラクスは突然問いかけた。
「え……」
 カガリがずいぶん経ってから聞き返したのでラクスは言い方を変えた。
「もしかすると、わたくしがお兄様を弑することが、カガリさんのお心を痛めてしまいますでしょうか?」
 今度は考えるまでもなかった。
「当たり前だろう、そんなこと」
 カガリが力強く言うと、ラクスはぱあっと花が咲くような笑顔になった。そして兄を振り返ったラクスにアレックスは注釈を付けた。
「カガリはやさしいからな」
「でも、嫌われているよりずっとよいでしょう? やはり、他の者ではなくわたくしが来てよかったですわ」
 ラクスはカガリの手を強く握った。
「わたくし、お兄様の中にいる皇子殿下のお命をいただきに来ましたの」
「皇子の……?」
 桃色のまつげをまたたかせる友人をラクスは嬉しそうに眺めた。カガリの疑問に答えたのは、それまでやりとりを見守っていたアスランだった。
「彼女には初めからアレックスをどうにかするつもりはないんだよ。大王の命は皇子を始末することだからな」
「なんのことだかわからないぞ。皇子はアレックスだろう」
「ここで、わたくしが起こした行動をどうしてお父様に関知できますでしょうか?」
 ラクスはいたずらを告げるように囁いた。
「わたくし、カガリさんには決して嘘はつきませんけれども、お父様をだますことなら簡単すぎて笑ってしまいますわ」
 ようやく理解ができると、呆気にとられカガリは何も言えなかった。つまりラクスはここでアレックスを亡きものにしたふりをするつもりなのだ。彼を皇子からただのアレックスにして。
「そんな、大王をだますことなんてできるのか……?」
「ラクスならできるだろう……徹底的に父に忠実だったからな。ラクスなら、と思わなくては父も軍を任せたりしないよ」
 アレックスは答えて言ったが、ラクスの発言にアレックスが一番驚いているように見えた。
「しかし、おまえが父に背くなんてな……」
「わたくしの唯一やってみたかったことですの。こっそりですけれども、とんでもない反抗でしょう?」
 彼女のわくわくする気持ちが、手のひらの熱さからカガリにも伝わってきた。
「こんなに楽しいことをする機会をいただけたのですから、お兄様には感謝をしなくてはなりませんわね。アスラン殿にも」
 首を傾けて、ラクスはアスランに会釈をした。
「では、お話も終わったことですし、皇子殿下のお命をいただいて、わたくしは都に戻りましょうか。馬はほこりっぽくてたまりませんもの」
 そっと、カガリの手を離すと、ラクスはアレックスの正面に立った。
 アレックスが腰に携えていた刀は皇家の所有する古いものだった。刀身に淡く飾りの彫られたその刀に同じものはふたつとなく、それをラクスが持ち帰ることは、皇子が武器を手放したこと、すなわち死を意味していた。
「でも俺がここで嫌だと言ったらどうするんだ? 俺もなんていったって、権力と地位にあさましいほど固執する父の子だからな」
 刀を要求したラクスに、アレックスは試しに言ってみた。
「断られたら、わたくしは兵に命じて、お父様の言い付けを果たすだけですわ。言いましたでしょう? お兄様に帰るおつもりがおありなら……と」
「帰るくらいなら今回の遠征で英雄的に散ったほうがいいなあ」
 冗談めかしてアレックスは笑った。それから片手を上げて降参を示すと、彼は刀を柄ごと抜き取った。
「お礼を言ったほうがいいのかな……ずいぶんと荒っぽい解放だが」
「いいえ。十分に楽しませていただきましたから、お礼はわたくしが言いますわ」
 ラクスも笑顔で返して、二人が言葉を交わしたのはそれが最後になった。最後まで、兄と妹の会話であるというのに、どこかに他人行儀で距離を感じさせるやりとりだった。
 兄弟とはいっても、二人にはじゃれあって、けんかしあって共に育ってきたような子供時代はなかったのだろう。血の繋がりはなくても、アスランとカガリのほうがよっぽど兄弟みたいなものなのだろうかと、カガリはそんなことも思い、後からアスランに思ったままを話したのだが、なぜだかアスランは兄弟は困るけどな、と嬉しくなさそうにしたのだった。

 兄とは礼儀正しく別れの挨拶をしたラクスだったが、カガリとはぐずぐずと離れたがらず、カガリは嬉しい半面弱ってしまった。ぎゅうぎゅうとカガリの体を抱きしめ、また会うことを何度も約束させて、やっと彼女はカガリを離した。
 桃色の髪を風になびかせて、再びふわりと馬の背に戻る皇女の背中を見送る時になって、カガリは初めてラクスの着物に目がいった。彼女の桃色の髪によく似合う薄紅の男ものの装束だった。
(自由に憧れると、男の子の格好をした私をうらやましそうに見ていたけど……)
 慣れた様子で馬を操るラクスはなんとも優美な乗り手だった。
「しかし、面白いくらい似てない兄弟だな」
 ずっと見物人を決め込んでいたイザークは、ラクスが去り静かになった頃にぽつりと一言感想を言った。嵐の後に四人が残された部屋はそれほど広くはないのに、不思議とがらんとして思えた。
「似てるところもあるぞ。性格的にな」
 どことは言わず、カガリは笑って双子を見比べた。
「でも似てないように思えるかもなぁ。アスランとアレックスがすごく似ているから」
「似てない」
 すかさず否定されてしまったが、アスランとアレックスの声があまりにぴたりと重なっていたので、カガリは吹き出してしまった。


 ずいぶんと、遠いところへ来たようだった。
 幼い頃には里の山ですらとても越えることはできなかったのに。子供の足で外を目指して、痛めた足に泣いた日のことがなんだか懐かしかった。
 思い描き、憧れていた都も、様々な土地も、どこにでも行ける足を今のカガリは持っていたが、やはり最後に選んだのは懐かしい山あいの小さな里だった。
(結局、私は約束を果たしたんだな)
 十数日の道程を経て、再び帰って来た由良を丘の上から眺めて、カガリは胸のうちでつぶやいた。
(お父様との約束も、アスランとの約束も……)
 立ち尽くしたカガリの髪を風がやわらかくさらった。その薫りは、訪れたどことも違っている。由良にしか吹かない風だ。
(他のみんなもどこかでそれぞれ風を感じているのかな)
 カガリとアスランは由良に、イザークは都へ、それぞれ帰る場所は決まっていた。
 行き先のないのはアレックスと、ハイネだけだった。やはりカガリは迷わず二人に由良に来ないかと誘ったが、アレックスは悩みもせずにそれを断った。
「俺は由良には住めないよ」
 住んではならないのだと、アレックスは言った。それがなぜなのか、彼の重い口調から察したカガリはそれ以上は誘わなかった。
「もう、刺客は来ないから、たぶんどこでも安眠できるさ」
 そういって、アレックスはどうせなら一所にとどまらずにいてみたいのだと話した。
もう縛られるのは嫌なのだと。そしてハイネは旅暮しをしようというアレックスに、異もなく着いていくことに決めたのだった。
 決めたといってもすぐすぐ身軽になれるわけではなく、片付けなくてはならないことはいくつかあった。
 戦いには敗れたが、アレックスの兵達はほとんどがラクスによって捕虜にされていたのだ。それはラクスの卓越した軍配を伺わせるものだった。皇子でなくなったアレックスは彼らを兵役から解き、アスランの預かっていた兵士も皆、それぞれの里へ帰っていった。
 戦の後片付けが済み、落ち着きを取り戻した里を後にして、そうして、カガリが由良にたどりついた頃にはすっかり春になっていた。
 芽吹き始めた森と里が美しい、命の始まる、カガリの大好きな季節だった。
「由良は綺麗だな」
 カガリは、隣に立つアスランに言った。
「いつか、アレックスとハイネが来たときに、あちこち見てきたたけど由良が一番綺麗だって言わせてやりたいな」
「いつか……か」
 若葉色の由良を眼下に眺めて、アスランはぽつりと言った。
「いつか、なんて遠い先じゃなくて、たぶんすぐにあいつは来るぞ」
「そうかな? よくわかるな、アスラン」
 きょとんとまばたきをしてアスランを覗き込むと、彼は困ったような複雑な顔で息をついた。
「似ているからな……」
 ちらりと、翡翠の瞳がカガリを向く。
「諦めの悪いところが俺にそっくりだ」
「……ふうん、やっぱり似てるのか」
 よくわからなかったが、カガリはとりあえず納得しておいた。
 里に下りたくて、そわそわしだしていたのだ。
「まあ、いいや。早く行こう、アスラン」
 八つの時からそうしていたのと同じように、カガリはアスランの手をとった。いつのまにかカガリの手よりも一回りも大きくなっていたアスランの手は、それでも昔と変わらず温かかった。







大好きな児童文学を下敷きに書いた話でした
十年以上ぶりに読み返して、
こんな自由すぎるパロを書いていたんだと
自分で自分に驚きました
読んでくださってありがとうございます

2008/09/20(初稿)
2024/10/23(移設)