月で待ってる

02




 基地から最も近い市街地までが約二キロ。徒歩で行けない距離ではなかった。
 外に出てから気付いたのは失敗だったのだが、カガリが裸足のままでいるのを見てアスランは焦った。しかしカガリは、靴は窮屈で嫌いだから問題はないのだとあっさり言った。枯れ木や木の根ばかりの森や、硬いアスファルトの上を歩かせるのは、やはり忍びなかったが、カガリはまったく気にしていないようだった。
 ところが、それが街に着いてから一転した。すれ違う同年代の女の子が一様に履いているヒールの高い靴に、カガリの目が輝きだしたのだ。あれはどこにあるんだ、あれが欲しいとせがまれた結果、えらくかわいらしい靴屋にまずは足を運ぶことになったのだった。
「なるほど、こんなきらきらしたものだったら窮屈でもちっとも構わないな」
 親切な店員に綺麗に拭いてもらった足を華奢なヒールの靴に差し入れて、カガリは鏡の前で完璧なターンを決めてみせた。
 ガラス棚も鏡も一点の隙なく磨きあげられた店内と、常に笑みをたたえている女性店員ばかりの靴屋は落ち着かず、居心地が悪かったが。バレリーナみたいに綺麗な姿勢で靴を操るカガリの姿を見ているのは悪くなかった。
「研究所の女の人が履いてるのは黒くてつまらないやつばかりだもんな。こんな素敵なものだと思わなかった」
 カガリが選んだのは林檎のような赤の靴だった。いろんな角度を鏡で試して、感想を求めるようにつま先を揃えてアスランの前に立った。
「……ぴったりだと思うぞ」
「うん、そうだろ!」
 もっと良い形容詞があるだろうに、見つからなかった。が、カガリは満足したようだった。
「よし、これに決めたぞ。これくださいな」
「かしこまりました。ではお会計をしてまいりますので少々お待ちくださいませ」
 うやうやしく頭を下げて奥に引っ込んだ店員を見て、カガリは不思議そうにまばたいた。次に聞かれることがなんとなく予想ができて、アスランは身構えた。
「なあ、オカイケイってなんだ?」
「お金を支払うってことだが……って、やっぱり」
「オカネ……?」
 さっと過ぎった疑いが的中していた証拠に、カガリはますます眉を寄せた。
「……変わってるとは思っていたが、金銭感覚がないなんてな」
「おまえ、今なんだか私のこと馬鹿にしてるだろ。顔でわかるぞ」
「そんなわけないだろ。しかし、困ったな」
 カガリはもちろん金銭を持たないのだろうし、アスランも持ち合わせはなかった。
「何が困ったんだ?」
「そのお金というものがなければ、あの靴はカガリのものにはならないんだよ」
「ええ! なんだよそれ」
「世の中の仕組みなんだよ。お金は一般的には労働の対価だ」
「それって働かなくちゃならないってことか?」
「あの靴を買うには一週間は働く必要があるな」
「そんなの、無理だ」
 絶望的につぶやいて、急に冬がきたようにカガリはしょげてしまった。
 名残惜しそうに赤いパンプスを脱いで、またうなだれる。小さな子供のように感情表現がストレートなのだ。あんまり悲しい顔をされると、手を差し延べずにいられなくなるのは人情だろう。
「わかった、今回は俺が買ってあげるよ」
「そんなことできるのか?」
「軍の認識IDがあればクレジットの代わりになるからな。買えるよ」
「うわあ、嬉しい!」
 クレジットの意味はよくわかっていないようだったが、ぜんぶ引っくるめて、カガリはアスランに飛びついた。感情表現が素直なのも、よいことばかりとは言えないかも知れなかった。驚いた表情でこちらを見る店員たちに説明するのは、アスランには難題だった。
 一生に一度のお気に入りを手に入れたように、カガリはご機嫌だった。
 まるで重さを感じさせない足どりで彼女が歩くたび、ヒールのかかとが石畳の路地に音をたてる。それは木琴を奏でる軽やかな動作に似ていた。
「ふふ、この音が気に入ったんだ」
「こけるんじゃないぞ。ヒールの高い靴、初めてなんだろう」
「そんなまぬけするわけないだろ、私が」
 ひらりとひるがえって見せる。
「おまえはよく働いてるから、たくさんオカネ持ってるんだな」
「まあ、そうかな。軍人は給料だけはいいからな」
「いいなあ、私もキラに言ったらもらえないかな。それなりに仕事してると思うんだけど」
(仕事?)
 小さなぼやきだったが、アスランは見逃さなかった。カガリの口から初めて彼女の生活の断片がのぞいたのだ。
 いい機会かもしれないと、言葉を選びながら保留にしていた質問をしてみた。
「カガリ、君がいったいどういう理由であの研究所にいるのか、聞いてもいいか?」
「理由なんて、あそこが私の家だからに決まってるだろう」
 何を当たり前のことを聞いてるんだ、という答え方だった。
「じゃあ、君はやはり研究員の一人なのか」
「まさか、研究員に見えるか? 私が」
「でも軍の関係者でなければ基地の敷地内に居住することはできないはずだ」
「関係者だぞ。私だって戦争をしているんだから」
「なんだって?」
 耳を疑った。
 カガリの口調に嘘は感じられなかったが、同時に戦争という言葉の持つ重みも感じられなかった。
「君が軍人だっていうのか? 嘘だろう?」
「彼女は嘘はつかないよ」
 ふいに背後で別の声が答えた。最近聞いた覚えのある、柔らかい声だった。
「大佐……!」
 予期しないタイミングで現れた上官にアスランは素早く警戒したが、大佐のほうは両手を背中で組んで、驚くほど無防備に立っていた。とはいえ、ガードの一人もつけていない様子なのは異常ではないだろうか。
「大佐がなぜここに……」
「家出娘を連れ戻しにね。カガリ、もう十分楽しんだだろう? そろそろ帰りなさい」
「もう見つかっちゃったのか。半日も続かなかったな」
 カガリは宿題をしろと言われた子供のようなため息をついた。
「半日もかかった、て言うんだ。完全に出し抜かれてしまったからね。今回の護衛はちょっと優秀過ぎたかな」
 大佐はアスランに友好的に微笑みかけた。
「君が作ったダミーの回路は完璧だったよ。通風孔の鉄格子に仕掛けていたセンサーがしっかりだまされた。係が昼の食器を下げに行くまでカガリがいないことに、残念ながら誰も気付かなかったんだからね」
 大佐の微笑みが仮面めいて見える。
 いつでも笑みが崩れないので、考えが読み取りにくいのだ。
「私は軍法会議行きですか?」
「どうして? とても立派に職務に務めてくれてるじゃない」
「軍の施設を破壊して勤務中に外出したことがですか」
「君の仕事は彼女の相手をすることだって言ったでしょう。君ほど立派にカガリの遊び相手を務めた人は初めてだよ」
「私もこいつといるのおもしろいぞ。からかうと楽しいんだ」
 カガリは大佐の腕に絡みながらアスランを見て小生意気に笑った。
「じゃあ、彼にもついてきてもらおうか?」
 なにかの合図のように大佐がカガリの肩に手を置くと、それまでくるくると自由だった少女の表情が静かになった。
「ああ、それで、呼びに来たんだな」
「うん、出撃だ。カガリ」
 大佐が右手を上げて合図すると、今まで待機していたのだろう、黒い車が吸い付くように寄ってきた。その後部座席にカガリと大佐が、続いてアスランも、着いてくるようにという大佐の指示に従って乗り込んだ。
 とんぼ返りした基地には高速輸送機がエンジンを暖めて待機しており、見本のように手際よく一行は出発した。
(これらが皆、カガリのためのものなのか?)
 搭乗した輸送機が、まず普通ではなかった。
 高高度輸送機なので小さめではあるが、通常なら積載物用に広く空いているはずのスペースがさまざまな機械でみっちり埋まっており、搭乗員は操縦者とアスラン達を除けば白衣の研究員ばかりだった。彼らは無言で計器を操作している。
 異様な光景だった。
(北太平洋に向かっているのか)
 一時間も飛んでいたら行き先が読めてきた。向かっている先は、おそらく現在の海軍の最大警戒区域、ハワイ沖だ。
(出撃ということはどこかで作戦が始まったのか?)
(それにカガリが関係あるのか?)
 地平の果てまで海が広がる景色を瞳に映していると、疑問ばかりが浮かんで飽和状態になる。
 大佐もカガリも別々に窓の外を無言で眺めていたが、その沈黙は安穏としたものではなく、二人に質問する気は起きなかった。解決しない疑問にはこの数日で慣れていたし、アスランは推測も想像もやめてまた窓の外に目を移した。
 ただの少尉である自分にできることは少ない。知る権利も行動できる範囲も限られているのだから。与えられた任務、下された命令を正確にこなすことが、軍人として最も正しい道なのだ。
「……もうそろそろか」
 カガリがため息のようにつぶやいた。
「うん、そうだね」
 大佐は気遣わしげに微笑んだ。
「大丈夫。海軍司令部からの要請は敵空母二隻の撃沈だけだ。すぐに終わるよ。帰ったらケーキでも食べよ」
「あ、でも私ケーキよりも……」
 言いかけて、カガリは言葉を飲み込んだ。
「よりも?」
「ううん、なんでもない」
「大佐、三分後に目的地上空です」
 運転席の兵が叫んだ。
「カガリ、そろそろ」
「うん、わかってる」
 カガリは立ち上がったが、何かを思いついた顔をして、また座席に腰をかけた。
 すると、履いていた靴を丁寧に脱いでアスランに差し出したのだ。
「汚したくないから、預かっててくれないか?」
「……わかった」
 手のひらにおさまるくらいのサイズの靴を受け取ると、カガリは安心したように見えた。
 それから彼女は貨物室に入ってゆき、戻ってきたのは一時間も後だった。そして帰ってきたカガリを見て、アスランは靴を預かった理由を理解することになるのだった。
「その靴はどうしたの?」
 紫色の瞳がじっとアスランの手のひらを見つめていた。
「あ、いえ、街で見つけまして」
「君が買ってあげたんだ?」
 アスランが無言で肯定すると、大佐はやっと目線をそらした。
「ふうん」
 金色の留め金の赤い靴は差し込む太陽光を反射してきらきらしていた。
「……いつも僕のあげる服はやぶれたって気にもしないのにね」


 アラームが鳴る五分前に目を覚ますのがアスランのくせだった。
 特務に就いてから夜勤がなくなったおかげで、毎日の生活は学生の頃のように規則正しくなっていた。食堂で朝食をとって、顔見知りの同僚や上官に挨拶をする。それから、終業時間まで勤務について一日が終われば、また同じことの繰り返しだった。
 前線にいるときでも基本的に日々は単調で、可もなく不可もなく、舞い上がるようなこともない代わりに不平も不満もなかった。アスランにとって日々とはそういうものであり、人生とはその積み重ねだった。
 夜、眠りにつく前に次の朝が来るのが楽しみだとも、億劫だとも思わないが、それで十分だったのだ。
「カガリー?」
 この一週間ほどで確実に強くなった陽射しを手のひらで遮り、アスランは頭上の木々を仰いだ。
 カガリの部屋にたどりつくまでに十三あるセキュリティをそれぞれ異なる手段で開けることが一日の最初の仕事なら、森さながらの温室でカガリを探すことが、アスランの二つ目の日課になっていた。
「カガリー! 大佐からプリンを預かってきたんだが、いらないのか?」
「いる!」
 どこから返事が聞こえたのかと思ったら、十メートルはある木の上からだった。
「カガ……」
 アスランが止める前に、小さな影が枝を離れて落下してきた。
 氷を押し当てられたように一瞬ぞっとさせられたが、それもばかばかしくなるくらい、カガリはスキップで地面を蹴ってアスランの右手に飛びついた。
「わあ! レ・ガトゥのプリンだ」
 運び手には目もくれず、カガリはプリンの箱を掲げてくるくると回った。小さな女王様のご機嫌をとるには甘いものが一番だった。今日も元気そうだと、そう思ったらほっと肩の力が抜けた。
「木の上が好きなのはもうわかったけど、頼むからほどほどにしておいてくれよ」
「どうしてだ?」
 プランターの縁に腰掛けて、カガリはもうプリンを取り出していた。
「危ないだろう? 万一、落ちて頭でも打ったら」
「どうして頭を打つんだよ」
「いや、だから……」
 言いかけて、やめた。カガリが心底不思議そうな顔をしていたからだ。彼女にとっては、木の上から飛び降りることも、例えば今腰を下ろしているプランターを飛び降りることも大差ないのだろう。
「君はまるで猫だな」
「猫?」
 金色の目がぱちくりと丸くなった。
 彼女の身体機能には単に優秀だというだけでは済まされないものがある。言葉を選ばずに言えば、異常だった。それが、彼女がここにいる理由なのだろうと、さすがに察しがついていたが、アスランはカガリに何も尋ねることができなかった。
 彼女の謎に触れてしまったら、何かが崩れてしまいそうな気がしたのだ。
「おまえ、甘いもの好きか?」
 考え込んでいると、突然たずねられた。カガリはスプーンを口にアスランを見上げていた。
「……ああ、まあ好きかな」
「なら、あげる」
 カガリはプリンをひとすくい取ってアスランに差し出した。
「……は?」
「は、じゃない。この私があげるって言ってるんだから食べろよ」
 カガリはぐいっとプラスチックのスプーンを掲げた。
(……意識する俺がおかしいのか、これは)
 いっそ、プリンは苦手なんだと嘘でも言おうかと思ったが、断れば彼女が機嫌を損ねそうだしと理由をつけて、アスランは少しかがんでスプーンを口に含んだ。
「うまいだろ? ここのプリンが一番好きなんだ」
「……そうだな」
 味なんて正直よくわからなかったが、うなずいておいた。そうだろ、とカガリは嬉しそうに足をぶらつかせる。
「特別にもう一口分けてやる。この靴のお礼だ」
 アスランの買った赤い靴は今日もカガリの足をぴったり包んで飾っていた。よほど気に入ったのだろう、基地に戻ってきてから毎日カガリはこの靴を履いている。嬉しいような、こそばゆいような反面、こんなヒールの高い靴で木の上を飛び回って大丈夫だろうかと、こりずに心配になるのだが。
「いつも木のてっぺんにいるのは高いところが好きだからなのか?」
「だって天窓に一番近づけるじゃないか」
「天窓に?」
「この部屋で外が見えるのは天窓だけだから。変わる雲の形を眺めたり、天窓に打ちつける雨を見たり、雪がしんしん積もっていくのを見るのが好きなんだ」
 少女は背伸びをするように天を仰いだ。
「……やはり、外に出たいのか?」
 聞いても、カガリは天井を見つめているだけで答えなかった。
「これは俺の勝手な推測だが。先日、街に行ったときには大佐からはなんの処分もなかった。君は望めばここから出られるんじゃないのか?」
 カガリの暮らす温室は広いといってもせいぜい三十メートル四方の空間だ。ガラス越しの淡い太陽を精一杯浴びようとする木の葉のように、高いところを、高いところを求めるカガリの姿は胸に痛かった。たとえば、眩しいくらいの陽射しの下で、無人の砂浜のようにどこまでも広い場所に彼女を放てたなら。
 檻で飼われる猫のように、しなやかな足をいつだって持て余している彼女の、息が切れるまで走る姿を見てみたいと思った。
「俺は……」
 数日前に輸送機の中で見たカガリの姿が頭に焼き付いている。もしも、彼女が何かに囚われているのなら、救いたいと思った。
「俺は、君が行きたいというなら連れていくよ、どこにだって」
「じゃあ、月にも?」
「月?」
「行ってみたいとしたら月くらいだな。ほら、無理だろ?」
「いや、軍用船でなら連れていけるよ。あと二十年もすれば居住基地も完成して、行き来はもっと一般化するだろうけど。なんとか作業員として潜り込めたら月に行くのも可能だ」
 真面目に答えると、カガリは声を上げて笑った。
「冗談だよ。ここから出るつもりはないから、月は眺めるだけでいいんだ」
「でも、君は」
「ここに私がいるのは他の誰かではない、私の意思なんだよ」