夜明けの名

Athrun



 ひどい旅になったな、とアスランは胸のうちで呟いた。木々のあいだを縫って走る馬車は、まともに座れないほど揺れている。
「大丈夫か? 顔色がひどいぞ」
 向かいに座る同乗者はうなずいたが、真っ青な顔には絶望の色が濃い。
 物見遊山のような、安穏とした旅にはならないという覚悟は初めからあった。道中どこかで、問題や事件が起こる可能性は親衛隊からも指摘があり、安全への対策は何重にも行っていたはずだった。けれども、いまアスランは命の危機に追い詰められていた。
(敵がこちらよりうわてであることを認めなくてはならないな。非常に優れた精鋭部隊だった)
 疾走する馬車の中で、アスランは直前の戦いを分析していた。
 黄昏どきの薄闇にまぎれて街道脇の林から躍り出てきた集団に、旅の一行は完全な不意打ちを食らった。隊列は乱れ、統率をとる間もなく防戦を強いられたのだった。国王軍からの選抜部隊にその場の応戦を任せて、アスランを乗せた馬車は離脱することを優先した。いまは親衛隊の騎馬が隊列を組み直し並走している。
「やはり今回のことは殿下を誘い出す罠だったのですね。なんという卑劣な手を」
 向かいの侍従が悪態の口調でつぶやいた。
「まだそうとは決まっていないだろう。敵の正体がなにかはわからないんだからな」
「ですが、奴らが身に付けていた甲冑はオーブ軍のものでした!」
 吐き捨てるように侍従は言った。握りしめた拳が震えている。
「たとえ奴らがオーブ軍所属の兵卒だったとしても、この襲撃がオーブ国王陛下の指示だとは限らないだろう」
「殿下はお優しいからそのようにお考えになるのです」
「情けをかけて言っているんじゃないぞ。オーブの国王はこんな合理性を欠いた方法で俺を消そうとなんかしないし、まして新たな戦争の火種を作るような浅はかなことはしない」
「そうでしょうか……」
 冷静に説明すると侍従は少し落ち着きを取り戻したようだった。安心させるように笑いかけてやりながら、アスランは付け足した。
「それに、もしも俺を殺したいのならオーブの王宮に着いてから暗殺するほうがよっぽど簡単で確実だとは思わないか?」
 言い終わる前に、何かにぶつかるようなひどい衝撃があり、馬車が止まった。とっさに窓枠につかまっていなければ体を投げ出されていたところだった。実際、反応の遅れた侍従は前のめりに壁に体をぶつけ、すでに気絶していた。
「おい、しっかりしろ!」
 助け起こそうとする前に馬車の扉が開いた。
「殿下、申し訳ありません! 馬車馬をやられました」
 敵が飛び込んでくる可能性を考えて身構えたが、叫びながら乗り込んで来たのは親衛隊の若い隊員だった。
「殿下は私の騎馬をお使いください! 動ける者数名が共に参ります」
「わかった。ではこの者を頼む。戦闘員ではないんだ」
 頭を打ったのか、侍従は目を開ける様子もなくぐったりとしている。
「なるべく戦わず、かわして逃げろ。俺がプラントかオーブの政府と連絡をつけるまで辛抱してくれ」
 アスランが希望を込めて言うと、隊員はにっと笑った。
 馬車を出るとあたりはもはや乱戦状態になっていた。急を知らせてくれた隊員のものなのだろう、空の馬をそばに見つけて、アスランは迷わず飛び乗った。とにかく走れと馬の横腹に合図する。途端、馬は跳ねるように地面を蹴り、全力で駆け出した。
 敵の何人かがアスランに気づき追うそぶりを見せたが、親衛隊が噛みつくようにそれを阻止するのを、一度だけ振り向いた時に見た。
 あとは、前だけを見て身を屈め、アスランは馬を走らせることに集中した。
(動ける者が供をすると言ってはいたが……)
 背後から迫ってくる馬の足音はしばらくたってもない。敵も追ってきてはいないようだが、おそらく味方の誰もが戦闘を抜けられなかったのだ。
(……戻るか)
 一瞬だけその言葉がひらめいて、けれどもアスランはすぐに頭をふって打ち消した。アスランが戦闘の場に戻ることを、親衛隊の誰もが望まないだろう。ならば、自分のするべきことは、一刻も早く然るべきところへ事態を知らせ、救援を送ってやることだった。

 念のため、背後に追手のいないことを確かめて、アスランは最大の速度で駆けさせていた馬の脚を緩めた。街道を進んでいた馬車は敵に遭遇して林へ逃げ込んだ。それからは、最短でたどり着ける街に向かって走っていたはずだ。
 親衛隊ならばとっさにそう判断しただろう。
(ひとまず、方位を確認した方がいいな)
 万全を期して、地図を一枚ほど携帯しておくべきだったな、と苦く思ったが、後悔していても先には進めない。出立前になんども広げていたオーブ国内の地図を頭の中に呼び出しながら、アスランは開けた場所を探した。
 しばらく行くと林の切れ間に光る水面を見つけた。透き通った水をたたえた緑の湖だった。馬の呼吸が荒いのが鞍ごしにもわかっていたので、先を急ぐならまず休むべきだと考え、アスランは湖畔で馬を降りた。走り通しだった馬に水を飲ませながら、方位磁石を取り出す。沈みかけた太陽と影も見比べながらこれからの進路を考えた。
 じきに夜が来る。
 日が落ちてからの移動で進める距離は知れている。最適な方策はなんだろう。諸侯が治める街を目指して領主へ取り次ぎを要求するべきか、王都まではまだ遠すぎるが。
 思考を巡らせていたため、気づくのが遅れた。すぐ背後に人影が迫っていたのに、気配を察することができなかったのだ。その人物が派手に枝を踏む音をたてて初めて、アスランは仰天して振り向いた。
(追手か!)
 ひとりの小柄な兵士だった。相手がオーブ軍の兵卒だと認識するのと同時に、アスランは短剣を抜いた。そのまま切りつけるつもりで飛びかかったが、敵の反射も早かった。
そばの茂みに素早く姿を隠されたので、軽率な深追いはやめて、アスランは馬を気づかいながら後ずさりした。いま、騎馬を失えば完全な敗北となる。敵の漏らすわずかな音も、木の葉の揺れも逃さずとらえようと感覚を研ぎ澄ました。
(いま見た兵士一人だけだろうか。他にも追手が隠れているのか)
 追われていたことにまったく気づけなかった自分に舌打ちする。しかし、短い間に、アスランの目は兵士の姿をしっかり確認していた。簡素な鎖の胴着だけで冑もないようだったから、下位の兵士だろう。目立つ金髪をしていた。
 木々の緑の中に隠しようがない金色の髪。
 じっと対峙する時間が続いたが、ある一瞬にその色が枝葉のすきまにきらめいたのをアスランは見逃さなかった。迷わず地面を蹴った。敵が動いたのは逃走のためか先手を打つつもりだったのか、どちらにしても仕留めなくてはならないと思った。
 低木の奥でじりじりと後退していた兵士は不意をつかれた様子で、はっとこちらを見たがアスランの攻撃の速度になすすべもなかった。相手が予想外に小柄だったことに驚きながら、アスランは利き手を拘束し組み伏せた。掴んだ腕が頼りないほど細かった。
(まだ、子供か)
 ためらいがよぎったが、情けをかけられる状況ではない。柄を持ちかえ、振り上げた。
「きゃあああああ!」
 高音の悲鳴が戦いの緊張を突き抜けて響いた。子供の声でも、男の声でもない。
 唖然としてアスランは手を止めていた。
「女……?」
 乱れた金髪の間から、淡い色の瞳がこちらを見ていた。潤んだ目を囲むまつげが長い。それを見て右腕をねじり上げていた手が知らずに緩んだ。
「おまえ……」
 兵士の格好をした少女が声を出した。肩で息をするほど呼吸が荒い。
 少女の体を押し潰すようにして拘束しているアスランに息づかいが直に伝わってきた。圧倒的に不利な立場にありながら、少女は瞳を燃やしてこちらをにらんでいた。
「いいかげんにしろよな! おまえ!」
 次に叫んだ声は負けん気たっぷりだった。あきれるほどの威勢に戦闘の気力を抜かれて、アスランは短剣を下ろした。
「……おまえ、オーブの兵士か?」
 オーブに女性の徴兵があるという話は聞いたことがなかった。
「違う」
 少女は短く答えた。
「だったらなんだってそんな格好を」
「旅をするのにこれ以上便利な服装がないから着ているだけだ」
「女なのに?」
「女だからだ」
 ぶっきらぼうに言ってから、少女はさらにきつい目をしてアスランを見上げた。
「いいかげんに離せよ。おまえ、重たい」
「つまり、兵士の姿をしているが兵士ではなく、俺に対して害意はなかったんだな」
「今はあるぞ、不当な暴力を受けたからだ。湖の水を汲みにきただけなのに、短剣だして襲われたんだからな。おかげで背中が痛い」
「悪かった……」
 アスランの置かれた状況からすれば仕方のないことだったとはいえ、彼女からすれば完全にアスランは暴漢だった。拘束を解いて助け起こそうとしたが、振り払われた。少女は立ち上がると土や木の葉のついた服をはたいていた。
「すまなかった。オーブの兵士だと思ってしまった」
「おまえは、反逆者か犯罪者か? 兵士を見たら襲いかかるなんて、普通じゃないぞ」
「オーブの兵士に追われていたのは事実だ。正確には兵士の姿をした集団にだが」
「どういうことだ?」
 髪をふるって砂を落としていた少女が動きを止めてこちらを見た。年齢はもしかすると同じくらいだろうか、アスランの目線より少し低い位置に頭のてっぺんがある。一見すると十四、五の少年兵にしか見えない。
 こんな相手にあれほど警戒したのかと思うと、冷静なつもりでいた自分がじつはひどく動転していたのだと気づいた。
「俺はプラントの人間なんだ。目的があってオーブ国王陛下に謁見するためにきた」
「へえ……」
「だが、それを知り、阻止しようとする集団がいたということだ。道程のなかばでオーブ軍の甲冑を身につけた奴らに襲撃された」
「そうか……オーブの国内も一枚岩ではないからな」
 考え込むようにうつむいた少女が口のなかでつぶやくのを聞いて、アスランは目を見開いた。
「おまえ、オーブの内情に詳しいのか?」
「少しな。でなきゃ軍服なんて手に入らないよ」
 少女の身でありながら正規の手段で軍服を手に入れたということだろうか。
「どういうやつなんだ、おまえは」
「それで? おまえの他にもプラントから来た者達がいたんだろう? まさか、ひとりで旅してきたとは言わないよな」
 少女に尋ね返されて、アスランにふたたび焦りがわいてきた。
「俺を護衛してきた兵士や親衛隊は、俺だけを逃がして敵を食い止めて戦っていた。プラントでも有数の精鋭たちだ、簡単にはやられたりしないが、彼らのために手を打たなくては」
「王宮に行くのか?」
「王都までは休まず馬を走らせても二日はかかるだろう。それでは時間がかかりすぎる。今いるこの土地を治めている諸侯に救援を要請しようかと考えていたんだが」
「わかった、案内しよう」
 少女はきっぱり言うとアスランの乗ってきた馬に向かって歩き出した。
「な、ちょっと待てよ、一緒に来るってことか」
「私はオーブ国民だぞ、それに旅慣れている。おまえよりははるかに道に詳しいからな」
「だが、馬は一頭しかないぞ」
「二人で乗ればいいだろう。幸い私は軽いんだ」
 腰に手をあてて、彼女は自慢げに笑った。
 緊迫した表情ばかりだった少女が見せた笑顔にアスランは息を飲んだ。一瞬、言おうとしていた言葉が浮かばなくなる。
「なんだよ、文句があるのか」
 アスランが呆然と黙っているからだろう。少女がむっとくちびるを尖らせたので、アスランはつい吹き出して笑った。
「いや、そうじゃないんだが。正直に言うと地理には確実な自信を持てなかったから道案内はありがたい」
「なら、行こう。方角は真東。領主の城は馬を潰さないくらいに夜通し走らせて夜明け前には着くくらいの距離だ」
 言いながらもう鞍に手をかけていた少女が、ふとこちらを振り向いた。
「おまえ、名前は?」
 じっとアスランを見つめる瞳は琥珀のような色をしている。
「アスランだ……アスラン・ザラ」
 少女の瞳がゆらいで、大きく見開かれる。
「アスラン……」
 名前を復唱した声が震えたように聞こえたので、アスランは怪訝に眉を寄せた。
「もしかして、俺を知っているのか?」
 オーブの国民に、自分の名がどのくらい認知されているのか検討がつかなかったが、いまは市井の話題になっていてもおかしくはない。けれども、少女は首を横に振った。
「いや、知らない」
 そのままあぶみに足をかけるとひらりと馬に乗ってしまった。乗馬に慣れた者の身のこなしだった。
「馬に乗れるうえに、兵士でもないのに軍服を着て、オーブの内情にも明るいなんて、不可解なことばかりだな」
 探るように見上げても、少女は澄まして前を向いていた。
「そういえば、俺の方はまだ君の名前を聞いていないぞ?」
「わたしに名前はない。家出してきたんだ」
「家出? 旅をしているというのはそのためなのか。なんでまた家出なんか」
「私の意志を聞かずに結婚を決められたから怒って出てきたんだ」
「結婚?」
 聞き返しながら、アスランも馬の背にまたがって手綱を取った。
「奇遇だな、俺も最近婚約が決まったんだ」
 つい半時前まで全速力で走らせていた馬を気づかって、速度は上げずに歩かせる。
「知ってるよ、オーブの王女と結婚するんだろ」
「なんだ、やっぱり俺のことを知っているんじゃないか」
「当たり前だろ。王女の婚約はオーブの国民のいま一番の関心事だぞ。よりによって、つい一年前まで戦争していたプラントの王子と婚約したんだからな」
 アスランが手綱を持つと、少女を腕のなかにおさめるような格好になるため、顔は見えない。けれども、彼女がふくれ面をしているだろうと、なんとなくわかった。
「やはりオーブの国民感情は歓迎していないのか」
「それはないだろう。むしろ和平の象徴だと歓迎してるさ」
「だが、俺は襲撃された……」
 アスランは奥歯を噛み締めた。それを気遣ってか、少女はなだめるように言った。
「大丈夫、おまえは歓迎されているよ。ただ納得していない連中がいるというだけだ。それも国事に関わっていながら外交を無視する馬鹿どもだ」
 それを知れてよかったと、少女は言ったが、どういう立場からの物言いなのだろうか。ずっとアスランの疑問をかわし続けているが、この少女はいったい誰なのか。
「君はいったい……」
「さあ、そろそろ急ぐぞ。この速度じゃあ、明日の昼になってもつかないぞ」
 言うなり少女は足を伸ばして馬を急かした。走り出した騎馬を御さなくてはならなくなったアスランは、疑問を置き去りにするほかなかった。

 少女の案内が的確だったのだろう。空が明るくなり始める頃には領主の居城に到着していた。
 身分の証しとなるものを携帯していなかったため、領主への取り次ぎに手間がかかることをアスランは覚悟していたのだが、ここでも少女が不可思議な力を見せた。門番と二言、三言会話するだけで門を開けさせ、応対した執事にもすぐに領主への面会を用意すると頭を下げさせた。
「君は、もしかしてここの領主の令嬢なのか?」
 門番や執事は兵士の服装をしたこの少女へ、貴人に接するような態度で応じていた。
「残念だけど、はずれだ」
 少女は首をすくめた。慌てた様子で下がった執事を見送ると、彼女はくるりとアスランに向き直った。
「わたしが誰かはそのうちわかるよ」
 謎かけをするように笑う。
「どういう意味だ」
「ここの領主に見つかったら、家出はここまでになっちゃいそうだから、わたしはそろそろ行くよ。もう少し一人旅をしてたいんだ」
 話をしながら、彼女は城の玄関に向かっていった。自分の役目は終わったとばかりにあっさりと去るつもりなのだ。
(まだ、なにも……)
 彼女の名前すら聞いていないのに。
 せめて名前をたずねようとして、アスランは声を飲んだ。これから婚約者に会いに行く自分に彼女の名前が必要だろうか。戸惑ったわずかの間に少女はもう玄関の扉を使用人に開けさせていた。
「待てよ!」
 気づいたら呼び止めていた。
「俺が名前を聞いたのに、まだ答えてないだろ?」
 玄関の扉のすきまから朝陽が射し込んだ。すでに訪れていた夜明けの白い光にアスランは目を細めた。
少女は逆光のなかで微笑んだように見えた。
「カガリだ!」
 光を受けて輝く金髪をなびかせながら、カガリと名乗った少女は走りだした。
「カガリ……」
 アスランは口の中で、名前を繰り返した。聞き覚えのある響きのような気がする。
「……カガリ?」
 そのとたん、はっとしてアスランは玄関扉に駆け寄った。急いで少女の後を追おうとしたが、城門までの道にカガリの姿はなかった。
「カガリ・ユラ・アスハ……」
 それは、オーブの王女の名前だ。アスランがプラント国民の平和の希望を背負って会いに来た、婚約者の名前だった。


※ ※ ※



 なるほど、たしかに獅子のような男だと、アスランは思った。
 牡の獅子は静閑な生き物だ。彼らの群れでは、獲物を狩り草原を駆けるのはもっぱら数匹の牝で、それらを従えて群れの中心に座しているのが、百獣の王たるたてがみを持つ牡獅子だ。
 その獣を、眠るように控えているだけなのかと、侮ってはならない。群れを襲うものが現れた時に、咆哮と共に研ぎ澄ませた爪を振るい、無敵の牙を剥くものなのだから。
「遠路の来訪を痛み入る。まずは、よくぞ辿り着いてくれた」
 低く、よく通る声だった。
 オーブ国王、ウズミ・ナラ・アスハは表情を緩めてアスランの目を見た。
「こちらこそ、歓待に感謝を申し上げます」
 屈んだアスランは、さらに膝を折って礼をする。
「重ねて、我が配下の親衛隊と兵士への迅速な救援救護に深謝致します」
「いや、そなたが頭を下げる必要はない。その事案についてはこちらが謝罪しなくてはならないのだ」
 話を始める前にと、ウズミはアスランへ着席を促した。
 こぢんまりとした応接間だったが、調度は上質なもので揃えてある。アスランが腰掛けた絹張りの長椅子も肘おきの細工が美しい。おそらく縁者しか通さない、私的な部屋なのだろう。
 茶器を運んできた給仕も下がらせている。内々の会話をするという合図だった。
「本来なら、ここへ同席すべき者がいるのだが……」
 言い淀むウズミは渋い顔をしていた。首を振って深くため息をつく。
「まったく、困ったものでな……」
「王女殿下にならすでにお会いしておりますので、見合いは不要かもしれませんよ」
 アスランは笑いを抑えきれず口許に浮かべた。
「どういうことだ?」
 当然、ウズミは怪訝そうだった。
「私が生きてここへ辿りついたのは王女殿下のおかげなのです」
 森の中で、花嫁に出会った途方もない偶然を、アスランはウズミに話した。夜明けと共に名前だけを残して去ってしまったカガリが、もしやすると先回りして王城に戻り自分を待っているのでは、と淡く期待していたのだが。
(そんなに甘い相手ではなかったということだな……)
 話を聞いたウズミが額を押さえているのを見て、アスランはこの獅子王の手にすら余る姫が伴侶となることが、どうにもおかしく思えてきた。外遊先で出会ったどの国の姫君にもこんなことはとうていできないだろう。
「やはり、王女殿下は戻られていないのですね」
「その通りだ。文一つ寄越さぬ」
「では、私が目下最優先にすべきは、花嫁殿の捜索でしょうか」
 アスランが真面目な顔で言うと、ウズミは小さく笑い、しかめ面をようやく解いた。
「あれで、それなりの分別はある娘なのだ。だから、アスラン殿との面会には戻るだろうと思っていたのが帰ってこなかった。その理由がようやくわかった」
「いまの私の話を聞いて、ですか?」
「ああ、カガリはアスラン殿を襲った連中の背後にいる者が誰なのか、見当がついてしまったのだろう」
 ウズミはまた深々とため息をついた。今回の事件の深部にいる者を見定めたというのか、あれだけの会話で。だが、たしかに交わした会話を一つずつ思い出してみると、彼女にはなにかを確信している様子があった。
「……襲撃者はオーブ軍の紋章を掲げていましたが、見たものが真実とは限らないと考えています」
「そうだな、結論から話してしまうと、そなたを襲撃したのはたしかにオーブ国軍の師団のひとつだった。捕らえた者共の甲冑も旗もまぎれもない本物であった」
 アスランは返事の代わりに浅く頷いた。よく訓練された兵士だったから、正軍だろうとは思っていた。
「捕らえた兵の話によると、将軍ひいては国王からの正式な命令を受けた作戦なのだという。彼らはそう信じきっておった。だが、おかしなことに将軍……これはトダカという男なのだが、その将軍も国王である私も、そのような命令には一切覚えがない」
 ここは、そなたにとっては確証の持てない話かも知れぬが、とウズミは口許に笑みを乗せた。どうか信じて欲しいと乞うわけでもなく、しらを切り通すのでもなく、事実をありのまま伝えて、あとはアスランに委ねている。有無を言わせない自信を感じた。
「いえ、確証ならすでに持っています。まずもって、あのような方法で私を葬り去ろうとするのは無駄が多すぎる」
「理解が早くてよいな」
 ふっと目を細めたウズミの表情に初めて親しみが浮かんだ。笑い方は、似ているかも知れないな、とアスランは思った。
 髪の色も、顔立ちも、記憶の中のカガリとはほとんど重ならないなと考えながら、ウズミの顔を観察していたのだが、笑い方だけはどことなく似ている。
「命令を正式なものと信じてしまったことに師団長は自害して責任をとるなどと騒いでおるが、彼ばかりを責められぬ事情もあってな。命令書の封蝋の印璽も、書状の印章も、王家のものそのものだったのだ。つまり、精巧に作られた偽物だ」
「……王族の印章を偽造したということですか」
「うむ、それだけで死罪にあたる」
「王女殿下はその大罪人に心当たりがあったということでしょうか」
「反逆の火種がくすぶっている場所は幸いにも多くはない。あの娘にもひらめくものがあったのだろう」
「それで、姫はなにをしようと」
 アスランがわずかに身を乗り出したとき、ノックもなしに部屋の扉が勢いよく開いた。鳴り響く足音と共に入室してきたのは大柄の男だった。
「何事だ、キサカ」
「御無礼お許し下さい」
 略式の礼をしてから、キサカと呼ばれた男はアスランを一瞥した。
「よい、彼はすでに事情を得ておる」
 察したウズミが先回りで答える。キサカは、アスランが何者であるかすぐに理解したようで、こちらに向かって一礼するとウズミに向き直った。
「親衛隊をお借りしに参りました」
「ふむ、かまわんが……理由を聞こう」
 キサカは動揺も悲観も見せずに言った。
「カガリ様が誘拐されました」

 オーブの首都オロファトの城下は美しい町だった。色彩の豊かな町でもあった。南方の国らしく、色の鮮やかな花があちらこちらで咲いており、それらが濃い青空によく映える景色も目を楽しませたが、なにより人々の装いが多様で多色だった。
 海洋交易が国内経済の基盤となっているため、大通りでは道行く者の民族文化が入り乱れている。海を持たない技術大国であるプラントで生まれ育ったアスランには、まさしく異国の景色だった。
「物珍しいですか?」
 並べて馬を歩かせているキサカが尋ねてきた。
「そうだな、違う国に来たのだと実感していたところだ。オロファトに到着したのは深夜だったから、こんなに町が賑やかだとは知らなかった」
「私も、出身はオーブではないので、初めてこの町を見たときは驚きました」
「これは、あちこち見てみたくなるな」
 何の気なしに呟いたら、キサカはぞっとしたような顔をした。
「変な気を起こさんで下さいよ。夫婦そろって家出して町に繰り出されたら敵わない」
「……おかしなことを言うな」
「そのとおり、おかしなことに我が国のお姫様は城を抜け出すのが大変お得意でね。さらに城下をよくよくご存知なんですよ。今回だって目付役を巻いてしまわれた。おかげでこの始末です」
 なるほど、とアスランはひとり合点した。ならば森の中で出会った彼女は、その目付役の監視を逃れた後だったのか。
「キサカ殿。打ち合わせもそこそこに出てきてしまったから、いま少しこちらの状況も話しておきたいのだが」
 そう前置きして、アスランはカガリとの出会いのことをキサカに話した。森の中でのカガリのふるまいは、一国の王女のしたことと知れば仰天するようなことばかりなのだが。キサカは、なるほど、そうか、と頷きながら聞いていた。
「誘拐の報を聞いてから考えていたのだが。拐われたとするなら、その後だろうかと」
「なるほど……」
 キサカは手綱を繰りながらしばらく考え込んでいた。
「一度見失ったカガリ様の居所を掴んだと、私に報告が届いたのは、昨日の昼でした。王子が立ち寄られた館のあるじのおかげです。王女の親衛隊に向けて早馬を飛ばしてくれまして、それで私の配下の一人がようやくカガリ様を捕捉できたのですが」
「誘拐されたと断言するのは、つまり、拐われた場に居合わせていたからだろう?」
「ええ。カガリ様が馬車に押し込まれるのを部下が見ていました。なかなか立派なクーペだったらしいので、一見すると少年兵にしか見えない相手が王女だと、恐らくわかって誘拐している。追跡はできています」
「なるほど、それで目的地が確定しているのか」
「まあ、逃げ回ってる姫様を探し回るほうがよっぽど手がかかるので、いっそ楽なくらいですがね」
 王女に対して、なかなかに不遜な物言いをする、この男はカガリの親衛隊長なのだという。おてんばな姫に、相当に手を焼かされているのが容易に想像できた。
「行き先が決まっているのなら、まずは急ごう。ちょうど人波が切れた」
 城下の混雑を抜けたところで、二人は同時に馬の腹を蹴った。蹄が地面をえぐって土煙をあげる。駆け出した二頭の葦毛の馬は、あっという間に城下の賑わいを後にした。

 陽の傾きがさほど変わらないうちに、目的の屋敷に着いた。キサカが地図で示した建物は、小さな村の奥に鎮座するように建っていた。様子から地主の屋敷だろうと予想できる、大きな二階屋だが質素なたたずまいだった。
 走らせ続けた馬を労いながら、アスランはもう一度屋敷を観察した。陽の高い時間の農村は畑のほうが賑わっており、屋敷の前の通りには人通りすらない。そばの木立に身を隠してしばらく屋敷を見ていたが、人の出入りは今のところなかった。
「キサカ殿」
 どこからともなく聞こえた囁き声に、アスランはぎょっとした。振り向くと、林の奥から影のような男が現れていた。
「およその見取り図ができました」
「そうか、早かったな」
 手渡された紙をキサカはさっそく検分していた。男はおそらくキサカの配下なのだろうが、そこらの農民のような身なりをしていた。凡庸な人相で記憶に残りづらい。密偵だろうと想像できた。
「使用人の言を総合すると、姫は二階の奥の部屋なのではないかと。やはり、下働きの者には事態は知らされていないようでしたが、昨夜遅くに若い女の客人があったと馬屋の男が話しておりました」
「では、間違いなさそうだな」
「まさか、これだけの人数で踏み込むのか?」
 アスランが思わず尋ねると、二人が同時にこちらを見た。
「キサカ殿、こちらは……」
「例の王子様だ。姫の夫君であるぞ」
 慇懃に紹介するキサカに向かって、アスランは手を挙げて訂正した。
「まだ夫ではない。挙式は来月だ」
「これは失礼いたしました」
「それで、先ほどの質問の答えは? 俺が思うに屋敷の規模に対して手数が足りないように思うのだが。もう少し戦力が必要だろう」
「それは、当然です。姫の救出が目的ではありませんから」
 平然と言うキサカに、アスランは一瞬言葉の意味が理解できなかった。
「どういうことだ? 王女はたしかにこの屋敷に囚われているんだろう」
「それについては、ほとんど確実かと。昨夜、姫を誘拐した馬車が、今もまだこの屋敷の敷地内にあります。敵も我々の動きがここまで早いとは予測していなかったのでしょう」
「それで、なぜ救出を急がない」
「姫を逃がさないことが、我々にとっては最優先だからです」
「……すまない、よく理解できないのだが。オーブ王室の特別な事情かなにか、ということか」
 アスランが困惑しているのを、キサカもその配下も無理からぬことと思っているようで、二人は視線を交わしてうなずきあっていた。
「事情、といえば事情かもしれませんな。我が国の王女は家出と放浪を趣味とする上に、向こう見ずな正義感をお持ちなのでね」
 謎かけのようなことを言われて、アスランはますます顔をしかめた。それのどこに助けない理由があるのだろう。この者たちはカガリの側近ではないのか。
「……どんな事情があるにせよ、一刻を争う事態だろう。すぐにでも人員を集めて任意捜索、あるいは強硬突入すべきだ」
「キサカ殿、なぜ王子殿下を同行してきたんですか」
 それまで、黙ってなりゆきを見ていた諜報員の男が、いきなり口を開いた。
「王子ご自身の希望と、ウズミ様のご意向のせいだ」
「……なるほど。ですが、これでは作戦の本意を理解して頂くには難があるかと」
 どうやら、オーブ王室の事情とやらに関わっていないアスランは、ここでは異分子となるようだ。それは当然のこととしても、カガリの救出を先伸ばしにする理由には決してならないだろうと、アスランは断言できた。
 誘拐なのだ。生命と心身の危機以外のなんというのか。
「わかった」
 きっぱりと声を張った。
「それなら、ここからは俺は俺自身の意志でこの件に介入する」
 カガリの騎士とその部下はおおいに慌てた。単独行動は非常に困る、一から説明するからお待ちくださいと、止める声をさらりと聞き流して、アスランは馬に跨がった。
「堅牢な要塞というわけでもないだろう。田舎の地主屋敷で、人質がひとりなら容易いことだ」
 笑みながら言い放って、アスランは馬の歩を促した。

 後を追うか、王女の親衛隊たちが決めかねているうちに、彼らを背後に残して、アスランは屋敷の正門を堂々とくぐった。蹄の音を聞いて飛び出してきた家僕に、取次ぎを頼めるかと言うと、ほどなくして現れたのは屋敷の執事と名乗る男だった。
「はぁ、旦那様のお客様とおっしゃいますと?」
 白髪の執事は、はてと首を傾げていた。自分の侍従に対するつもりで、アスランは尋ね返した。
「聞いていないのか? ご主人はご在宅では?」
「それが、今朝早くから出掛けておられまして……」
 それを聞いて、やはりそうかと内心うなずいた。
(王女を誘拐するなどという大それたことを、農村の地主が企てるのは不自然だ。黒幕はおそらく他にいる)
 国政に関わるような権力者が背後にいるはずだ。館の主人はその権力者の元へ、報告か指示を仰ぎに出掛けたか、もしくはその権力者を迎えるために出掛けているのでは、とアスランは踏んでいた。
「早朝から出掛けておられたとは。参ったな。今日、訪問すると伝えてあったはずなのだが……」
 途方に暮れたような顔をしてみると、人の良さそうな執事はほろりと引っかかってくれた。眉を下げて何度も詫びる。
「申し訳ございません。今朝の出立は予定にはなかったものでして、ご主人様もかなり慌ただしく出られていたので、お客様のご訪問を失念しておられたのかもしれません」
 どうぞ、応接間でお待ちください、とすんなりアスランを邸内に招き入れた。武器でもって押し入るまでもなかった。
 身なりがものを言うのだ。アスランの纏う上等な毛織物の外套、絹の上着、ベルトの宝飾などは、そこらの地主くらいではけっして手に入らないものばかりだった。どこかの貴族の子息とでも思わせ押し通そうかと考えていたアスランは、身に付けている品々の効果の絶大さを改めて知った思いだった。
 執事は疑う様子すら見せなかった。これほどの上等品で身を固めた者が、まさか侵入者であるとは思いもしないのだろう。
 通された応接間で、飲み物を勧められるまでは待って、アスランは「待ちぼうけても仕方ないから、少し歩き回ってもいいだろうか」と申し出て、自由を得た。
(順当に行き過ぎて拍子抜けするな)
 屋敷の警戒がこの程度なら、少人数でも姫の救出は可能だったかもしれないのに。あの親衛隊長はなにをためらっていたのだろうか。
 キサカの見ていた見取り図はアスランも横目で見て、記憶している。カガリのいると予想されている部屋は応接間から一番遠い、屋敷の最奥だ。さすがにその周辺には傭兵か、なにかしらの見張りが置かれているだろうと思っていたら、背の高い男が、ある扉の前に腕を組んで立っていた。
 一目で傭兵だとわかる風体だった。戦いの経験のある者は、身の回りに漂う空気が違っている。
(これは体格では、勝てないな。力業では押し切れない……)
 冷静にそう判断した。剣を抜くなら、負ける気は少しもなかったが、肉弾戦は不利だ。邸内の無罪の者まで巻き込むような流血沙汰は、今は避けたかった。
(演技は正直、得意ではないんだが)
 廊下の端で立ち止まって思案していると、向こうから声をかけてきた。
「なにか御用でも?」
 この男もアスランを見た目で上流の者と判断したのだろう。ぬっとこちらを見下ろしながら、しゃがれ声の口調は丁寧だった。これは好都合かもしれないと、すぐさま考えた。
「いや、部屋はここであっていただろうかと考えていた。例のものは、そこに?」
 含みを持たせて言ってみると、男の顔色がさっと変わる。大男はアスランを観察するように上から下へと眺めた。
「そちらさんは、どなたで?」
「代理の者だ。彼女を迎えに来た」
 アスランはひるまず演じる。演技については不得手を自覚しているが、内政も、外交も、演技とはったりの応酬だ。必要な役割を演じるのは幼い頃から躾けられ、身に沁みついていることだった。
「ずいぶん早い気がしますがね」
「王都にいた私に早馬が立てられたのだ。王家に気づかれる前に移動するべきと。迎えを待っているのでは初動が遅れるだろう」
 よどみなく嘘を並べると、男は合点したようで、そういうことかと肩をすくめた。
「お迎えだそうだぞ」
 四度、扉をたたいて男は合図した。部屋の中からぼそぼそと返事があり、やがて扉が開く。手招かれてアスランが入室すると素早く扉を閉められた。やけに暗い部屋だった。分厚いカーテンが引かれた部屋は夜かと思うほどだ。
「もう迎えか? 変だな。ここのあるじは今朝、迎えを要請しに出立したばかりだと思ったが?」
 暗さに目が慣れる前に、声がした。低い男の声だ。
「先手を打つのに悪いことはないだろう」
 答えながらアスランは目を凝らす。そのうちにぼんやりと物の輪郭が見えてきた。小さな部屋だ。物置なのか、床には雑多にものが転がっている。カーテンのわずかな隙間から部屋に線をひくように一筋、光が伸びている。その光の線上に姫はいた。
(……こんな、こんなことを)
 拘束されたカガリの姿を認めたとたん、背筋に雷電が走った。
 馬に飛び乗る軽やかな身のこなしの、外套をひるがえして朝日に溶けて消えたあの自由な少女を、まるで罪人のように縛るなど。許し難い光景だった。
 椅子に座らされ、背もたれに繋がれていたのは一見、兵士の少年だったが、アスランには一目でそれがカガリだとわかる。しかし、知らない者なら女性とは気づかないかもしれない。王女だと分かった上で攫い、拘束したのなら、この暴漢たちにも相応の覚悟があるということか。
 彼女は、声を上げなかった。口に布を噛まされている。だが、消沈したり怯えたりしている様子ではなく、アスランを認めると、炎のともった目を見開いた。なにごとか訴えるような視線だ。だが、その視線に応えたらここまでの嘘はおそらく崩れてしまう。アスランはカガリを軽く眺めるだけにして、彼女の隣に立つ男の方を見た。
「拘束を解け、すぐに出立する」
「迎えって、あんた一人か? 馬車で連れていく手はずだと聞いていたが」
「彼女は私が単独、馬で連行することになった。じつは王家の手の者がすぐそばに迫っている。足が遅くては早晩捕まる」
「なるほどな、それはもっともだ」
 この場の頭領であるらしい男は、数回頷いた。頷き、そしてにんまり笑いながら顔を上げた。
「もっともらしい話だが、無駄話でもあるな、王子様」
 アスランは、反射的に剣の柄に手をかけた。
「森の中で見たぞ、その顔は。殿下と呼ばれていたのも聞いていた」
(この男——)
 この男は旅路のアスランを襲った者たちのひとりだ。師団は正軍だったというから、このならず者は紛れていたのか、軍を脱してきたのか。
(なぜこんなところに、あの時の襲撃者が)
 まだ、ごまかしが効くだろうかと、わずかに迷ったが、逡巡は命取りだ。室内には男が二人。どちらも扉前にいた男よりは小柄だ。
 帯剣はしているが胴着を身に付けていないのを見て、アスランはすぐさま間合いに踏みこんだ。早さにひるんだ相手のみぞおちに剣の柄を叩きつける。うめき声を漏らして倒れる男が膝をつくより前に、アスランは身をひるがえした。もう一人の男がすでに迫っていた。
 男がアスランの首をめがけて短剣を振りかぶる。薄明りに一瞬、鈍く発光した刃を剣身で弾き飛ばし、続けざま男の首に向けてかかとの棒拍を振り下ろした。
(……音が……)
 ほとんど声を上げさせずに倒したが、大の男が床に倒れ込む音はさすがに防げなかった。大きな粉袋を投げ置いたような音を見張りの大男が聞きつけただろうか、としばらく身構えたが、踏み込んでくる気配はなくアスランはようやく息をついた。
 床に転がった男が二人とも気絶しているのを確認してから、カガリに歩み寄る。
「怪我はないか?」
 真っ先に口をふさいでいた布を取り去る。カガリは少しの間、あっけにとられた様子で目を見張っていたが、はっと瞬くと、いきなりアスランの胸倉を掴んだ。
「おまえ、なんてことしてくれんだよっ」
 小声で、吠えるように言われた。彼女が涙をこぼして縋りついてくるようなことはないだろうとは思っていたが、罵倒されるのはさすがに予想外だった。
「それは……二人を昏倒させたことについてか? 乱暴が許せないと」
「違う、ばか。私の計画が丸つぶれだ」
「計画?」
 唖然としながらも、アスランはカガリを椅子に縛り付けていた縄をほどいた。自由を取り戻したカガリは縛られていた腕をさすり、大きく伸びをしてから椅子に座りなおした。
「私はな、奴らが言う『迎え』とやらが来るまで待つつもりだったんだよ」
 伸びている男二人を見やりながら脚を組み、頬杖をついた。金色の目が冷たく暴漢を眺める。
「こいつらは末端の手先に過ぎない。私を攫えと指示した者に辿り着くまで黙って縛られておくつもりだったのに」
 じろりとカガリは視線をアスランに向けた。
「おまえが助けに来ちゃうから計画が台無しだ」
「……一人で黒幕と対峙するつもりだったのか」
「私自身が黒幕を押さえれば言い逃れはできないだろう。最高の証拠だ。それをせっかく掴もうと思っていたのになぁ」
 わざとらしく首を振って見せる。だが、アスランはそれは悪かったなどとはとても言えなかった。彼女がそんな危険に晒されるなど、想像しただけで心臓が冷たくなる。
「ほんとうに一人きりで敵地に乗り込むつもりだったのか?」
「敵地といっても、よく知った相手だ。負けない自信ならある」
「……敵の正体に当たりがついているのか」
「捕まる時に乗せられた馬車にな、見覚えがあったんだ。そのうえ、この二人が小声で話すのを聞いて確信した。誘拐の指示者はセイランという子爵家だ。父も懇意にしていたから、小さい頃によく遊びに行っていた。私を侮って攫おうなんてしたことを後悔させてやるつもりだったんだからな」
 カガリは余裕たっぷりに目を光らせる。単独潜入など、よほどのことがなければ親衛隊でもしない。それを、なかば面白がるように企てる女の子がいるとは。
「まったく、君はどういうお姫様なんだ」
「残念だったな、こういう姫だ。おとなしいのがお好みなら他を当たるんだな」
 執着なく言う。かつて、彼女は勝手に結婚を決められたことに憤慨して家出したと話していたが、彼女にとってアスランとの婚約は意志に反したもので、できるなら反故にしたいものということなのか。
(これは……なかなか手ごわいな)
 そっぽを向いた許嫁を見下ろしてアスランは苦笑いした。こちらは、すでに彼女に向けて気持ちが駆け出している。それが、アスランがここへきた理由のすべてなのだ。
 どうしたものかな、と考えながらカガリの前に膝をついた。
「俺は、君が傷つくのが嫌なんだよ。だから、敵地に潜入したいなんて聞いたらさすがに黙っていられないが。おとなしくしていて欲しいというのとは少し違う」
「それなら、私は私の臣下が傷つくのが嫌だ。民が傷つくのが嫌だ」
「だから、自ら黒幕を捕えようと?」
「それもある。でもそれだけじゃない。私自身が当事者だから私が始末すべきことなんだ」
 カガリは間近で見つめるアスランの目を見返した。
「そして、おまえとおまえの配下の者たちへの義理がある」
「……義理というと?」
「森でプラントの王子一行が襲撃を受けた事件と、私を王女と知って攫ったこの誘拐、二つの事件の根は同じだ」
「同じ者が企てたことだというのか」
 注意深くカガリの言葉を受け取り、眉をひそめた。すぐに思い当ることはあった。アスランの倒した男の一人は、自らが森の中の襲撃者であったとほのめかしていた。
「二つの事件の目的は同じところにある。黒幕連中が目指すのは王女と婚姻関係を結び、オーブの玉座に座ることだ」
「だから、俺を弑して、君を攫ったのか。なんとも短絡的だな。そんなことで王家との婚姻が成ると思っているのか」
「口八丁な一族なんだ。私を誘拐したのも何か理由をつけるつもりだったんだろう。たぶん、この館のあるじを犯人に仕立ててそこから救出したのが自分たちだとか言うつもりだったんじゃないかと、私は思ってる」
「なるほど……」
 頷いて、後ろを振り返った。事件の全容も気がかりだが、彼らが気を失っている間に逃走の算段をつけなくてはならない。
「だが、そこまで疑惑が固まっているのなら、やはり王へ助勢を求めるべきだと思うぞ。軍を動かしたほうが早く、確実だ」
「今あるのは疑惑だけなんだ。証拠がない」
 カガリは思いっきり髪をかきむしった。
「ああ、もうっ、だから私が自分で証拠を掴もうと思ったのに」
 うらめしそうにアスランを見てくる。
(証拠……二つの事件を企てた者であると断定するための確証か)
 ゆっくりと、この数日の出来事と、交わした会話を思い返してみる。アスランを旅路の途中で強襲したのが、そのセイラン家の意図によるのなら、彼らこそが部下の仇だ。幸いにも命を落した者はいなかったが、深手を負わされた者もいる。
 しかし、ただの子爵家が国軍の一師団を動かすなど、できることだろうか。そう考えて、アスランは唐突にウズミとの会話を思い出した。
「ああ、そうだった」
「な、なんだよ。いきなり」
 思わず声を上げると、カガリがびくりと肩をすくめた。
「証拠だ。証拠なら、おそらくその黒幕の一族とやらがまだ握っている可能性が高い」
「心当たりがあるのか」
「印章だ。奴等は師団を動かすために国章を偽造している」
「印章か……まあ、あり得るな」
 ふうん、とカガリは目を細める。それなら師団が動いたのも説明がつく、せっかく作った印章を軽々捨てることはできないだろうし、まだ手元にあるのは間違いないな、などと早口に呟いて、いきなり立ち上がった。
「その印章の話、確度はどのくらいだ?」
「……ウズミ様から聞いた話だから、かなり確実だと思うが」
「そうか、ならいい。私は行くことにするよ。おまえは王城に帰れ」
 一人で納得して立ち去ろうとするので、アスランは急いでカガリの腕を掴まえた。
「ちょっと待て、どこに行くって言うんだ? こうなったら君も王宮に戻って国ごと動くべきだろう」
「さっきも言っただろ。これは私が自分で片付けたいんだ。けじめだからな」
「だが……」
「止めたって無駄だからな。私は逃げるのは得意なんだ」
 カガリはにやりと笑った。研鑽を積んだ親衛隊ですら、彼女を取り逃がすのだ。本気で撒かれたらアスランにはきっと捕まえられない。いま、掴まえた手を放してはだめだと思った。
「わかった。それなら俺も一緒に行く」
「へ?」
「兵を動かさずに解決したいんだろ。協力するよ」
 カガリは珍しい生き物でも見るように、アスランをまじまじと見つめた。
「おまえ、私を連れ戻しにしきたんじゃないのか? お父様に言われたとかで」
「連れ戻す、というより助けるつもりで来たんだが」
「一人で? おまえの親衛隊も連れずにか?」
「部下に無傷の者がひとりもいないのでね。ここまでは君のキサカと一緒だったが。俺は俺の臣下達の受けた傷の返礼もしなくてはならないからな。君に同行する道理はある」
 しばらく考え込むように顎を指先で撫でていたカガリは、まあいいか、と呟くと掴まれていないほうの手を差し出した。
「それなら、いまからは協力者だな」
 握手を交わす。これから結婚する相手に協力者という肩書をつけるのもおかしいし、握手で挨拶するのもなんだかおかしい。ここは、約束のキスのほうが相応しいのでは、と思ったが思うだけに留めておいた。カガリの反応がよいものではなさそうだったからだ。
「それで、ここから出るなら扉か、窓からかの二択になるんだが。扉にはなかなかの強敵が張って……」
 アスランが話すのを指先で合図して遮って、カガリはいたずらっこのように笑った。
「甘いなぁ、この部屋には三つ目の選択肢があるんだぞ」

 三つ目の選択肢とは、部屋の壁に作られた隠し通路だった。その部屋にその通路があるために、自分はあの部屋に囚われていたのだと思うとカガリは言った。隠し通路があれば、もしも、軍や親衛隊に踏みこまれても、確実な逃げ道がある。
 カガリは自分を監視する者の人数があまりに少ないこと、わざわざ二階の奥に移送したことから、隠し通路の存在を予想したのだと、外に出られてからアスランに得意げに語った。
「君の、そういう知恵はどこで得たものなんだ?」
「キサカだ、キサカ。あいつが、私が誘拐されたり危険な目に遭ったときのためにって、護身術も縄抜けも破縄も追手の撒き方も私に教え込んだんだよ。おかげで私は家出の名人だ」
 服の砂を払い落としてから、また得意げに胸を張る。
「ほんとうにいいのか? キサカ殿はすぐそこに来ているんだぞ」
「あいつに見つかったら毛玉にする勢いで縛り上げられて城に連れ戻されるにきまってるんだ。私は今回の敵よりキサカのほうがよほど怖い」
「……王女と親衛隊長の関係とは思えないな」
「安心しろ、私もそう思う」
 青空の下に出たら上機嫌になってきたようで、カガリは声を上げて笑っていた。軽やかに鍵盤を鳴らすような、耳に心地よい笑い声だった。こういう笑顔を見てみたかったのだと、思い知りながらアスランは会話を忘れて見入っていた。
「さてと、まずは服をどうにかしないといけないな」
 仕切り直しに手を叩いて、カガリは言った。
「服? 俺のか?」
「いやいや、私だろ。誰がどう見たって私たちが並んで歩くのはおかしいぞ」
「なるほど、そうだな……」
 いかにも貴族という服装のアスランと、下級兵士が連れ立って歩くのはとてもちぐはぐだ。
「まずは隣の所領にある街を目指そう。大きな街のほうがそれなりの服も手に入る」
(旅慣れている、と自分を評していたな。たしか)
 カガリの采配にそれを納得していたが。彼女の知識や行動は、旅慣れているというよりは、逃亡し慣れている、と言ったほうが正しいかもしれなかった。館の厩舎に繋がれているはずのアスランの馬は取りに戻る時に確実にキサカに見つかるから、諦めて村の中で走れそうな馬を見繕って買ったほうがよいとか。人目につくと聞き込みで追跡される可能性があるから、森を抜けていったほうがよいだとか。カガリの機知はどうも逃走に特化しているようだった。

 さすがに、地理も仔細に知り尽くしているカガリの道案内のおかげで、最初の目的地の街には日暮れ前に着くことができた。
 馬を御し続けていたアスランに比べ、カガリのほうは元気がだいぶ余っていて、夕暮れの食事時に活気づく街を彼女は軽やかな足取りで歩き回った。
 最初の目的はカガリの衣装の調達だったので、ドレスを扱う店を次々覗いていく。店の者たちも、まさか自国の王女を相手にしているとは夢にも思わないだろう。富裕層を客としているような店にも平気で入っては、慣れた様子で品物を出すよう指示をする少年兵に、困惑しながらも従っていた。命じることが身に染みついている。
「アスラン、こっち向いてみろ」
 着替えを待つ間にまどろみ始めていたアスランは、呼ばれて顔を上げた。何軒も巡り歩き、疲れたところで入った店に、なかなか座り心地の良い椅子があったために気づかず目を閉じていた。
「なんだ、寝てたのかよ」
 少し離れたところから、ドレスを着た女性がこちらをじっと見ていた。得意の腕を組んだポーズをしているが、カガリではないのか。見間違えたかと考え、またすぐさまそれを取り消した。うたた寝に見ていた夢が、うつつとまざったのかと思った。
「どうだ? けっこう似合ってるだろう?」
 くるりとダンスのようなターンをしてみせる。スカートの裾がふわりと広がって、またふんわりと細い足首まで覆う。カガリはグラスグリーンのドレスを着ていた。
「……ああ、驚いた」
 褒めればよかったと気づいたが、ずれた感想を返してもカガリは楽しそうに笑っていた。
 壁のランプの灯が揺れて彼女の髪を輝かせる。店の者が結ったのだろうか、奔放に跳ねていた金髪が綺麗に編み込まれて冠のように彼女を飾っていた。まぎれもない淑女だった。
(なにを、言えば……)
 カガリが王女であると、散々口にもしていたし、それをたしかに理解していたはずなのに、何をこんなに動揺しているのだろうか。
「じゃあ、夫も文句なさそうだし、これにするよ」
 カガリはドレスの裾をひらひらと摘まみながら、店員に声をかけていた。
「それと、支払いは夫によろしくと」
 含みのある目配せを受けて、アスランは立ち上がった。夫、夫と呼ぶのはアスランのことなのか。いきなりどうしたと聞くより先に、カガリが素早く近寄ってきて耳元で囁いた。
「わけあって兵卒の姿をしていたが、実は旅行中の夫婦だと説明したんだ。きょうだいと名乗るには、私たちは似ていなさすぎるし、これが最適だろう」
 最適もなにも半分以上事実のようなものだったが。カガリの方にはその実感も予感も、少しもなさそうなのが、どうにももどかしかった。
 そこから、カガリは夫婦を演じることを決めたようで、始終アスランに寄り添っていた。夕食をとった店でも睦まじげに会話をし、選んだ宿でもそのようにふるまったので、当然部屋はひとつしかとらなかった。
「当然だろ。部屋が分かれていたらリスクが上がるじゃないか」
 荷をほどきながらカガリは言った。
「協力者、なんだからな。協力し合うためにいるんだろ。キサカも私達のことを夫婦者として探してはいないだろうから」
「俺は君の婚約者だよ」
 話の途中でわざと口を挟むと、カガリは手を止めてこちらを見た。
「そんなのわざわざ言われなくてもわかって……」
「いや、わかっていないな」
 窓辺の長椅子から立ち上がった。三灯の燭台はカガリの手元にある。揺れる炎が彼女の片頬を照らしていた。
「私を馬鹿にしてるのか? オーブとプラントの和睦は両国民の望みだ。問題が片付いたら、私だってちゃんと城に戻るつもりだぞ」
「婚約が体面だけのものだとか、形式的なものだとか、そういうふうに思っているのか?」
 こういう言い方をすれば彼女は怒るだろうとわかっていて、言葉を選んだ。じりじりと心が焦れていくのを感じていた。婚約に対して、アスランに対して、彼女はまるで関心を向けていないのだ。
「おまえだってそうだろう? 役目としてアスハ家の婿になるためにきた——」
 言葉の途中で口をふさいだ。目を丸くするカガリを抱きすくめて、唇に唇を押し当てる。質問の答えのつもりで深くくちづけた。
 体面を保つなら、彼女の意志など無視してさっさと城に連れ帰っている。それができなかったのは、カガリの心に近づきたいと思ったからだ。
 声にならない声をあげるカガリの舌を押さえて絡めとる。上あごを舌先でなぞると、ぴくんと背筋が跳ねた。突き飛ばされるかと思いながらキスを続けたら、唇を離すまでカガリはずっとアスランの服を掴んで縮こまっていた。
 ふと、どんな顔をしているだろうかと様子を伺うと、未知に戸惑う子供のような目をした彼女がそこにいた。仕草は幼いのに、濡れた唇は赤く、欲望を刺激する色をしている。火照った吐息がかすかに聞こえた。
(これは……)
 まずいな、という自制心の声と、同時に隣室のベッドを思い浮かべたら、頬に鋭い打撃が飛んできた。
「おまえ……っ」
 カガリは耳まで赤くなっていた。
「この! 止めるなっ、殴らせろ」
「すまない。つい、反射で手が出た」
 謝りはしたが、平手を受けた手は少々痛んだので、殴られてやろうという気にはなれなかった。
「でも、平手打ちされる筋合いはないと思うんだがな。俺と君は夫婦なんだろう?」
「人前ではそう演じるってだけだろ」
「でも実際は婚約者だ」
「婚約者だって、こんな……」
 カガリは口許を押さえて瞳を震わせた。
「俺には、演じているつもりはこれっぽっちもないよ。君に対して演技はしない。言ったことも全部、本心だと……」
 信じてほしいと言葉でいうのはすぐにでもできる。だが、それで信頼を得られるわけではないのだ。彼女が心底から言葉を受け入れ、納得し、心を動かしてくれるにはどうすればいいのか。
 手の中を探しても、その手段は見つからなかった。