夜明けの名

Cagalli


 たいていのことが、自分の思い通りになると思っていた。
 実際そうだったし、王女という立場を抜きにしても、カガリにはできることが多かった。恵まれた身体能力のおかげで、親衛隊の新人を闘技で負かすくらいのことはできたし、家庭教師にも褒められたことしかない。気分を保つのも得意だったから、いたずらをして父に思いっきり叱られても、慰めにマーナが菓子をくれるだけでころりと元気になれた。
 だから、ひどく動揺する、ということが経験になかったのだ。
 ないから、余計に動揺した。
(なんで、キスなんかするんだ)
 普段通りのカガリならすんなり尋ねられる言葉が喉から出てこなかった。口に出せなかったせいで、今も頭の中をぐるぐる回っている。
「まだ寝ないのか」
 ふいに声をかけられて、わっと声を上げそうになったのを、カガリは寸でのところで飲み込んだ。
「……まだ、ちょっと考え事したいんだよ」
 地図に目を落としながら、そう答えた。もう地形も道も頭に入っているのに。下手な言い訳だ。
「そうか……明日もずっと移動だろ。早めに寝たほうがいいぞ」
 当然だ。いまもすでに眠たい。温かいベッドに潜り込みたいのは山々だが、渋る理由ができてしまったのだ。
「……だって、ベッドがひとつしかないじゃないか」
 自分だけさっさと寝室に向かおうとするアスランに、たまらず文句を投げた。彼が立ち止まってこちらを見下ろす。
「そうは言っても、この部屋を取ったのは君だろう」
「おまえがあんなことをしなければ、ベッドがひとつだろうが、問題はなかったんだ」
 そっぽを向いたままで言うと、アスランはしばらく黙ってカガリの背中に視線を注いでいた。
「ベッドがひとつでもふたつでも大差ないよ。べつになにもしやしない」
 なだめる口調ではない。なげやりに言い放って、今度こそ寝室に行ってしまった。閉まる扉の音まで素っ気ない。
(なんなんだ、あの言い方は)
 ぱっと頭に血が上って、手にしていた地図を床に投げつけた。ぐるぐると渦巻いていたのは疑問ではなく怒りだったのだろうか。怒っていいはずだ。よく知りもしない相手からいきなり、ほとんど無理やりに口づけられたら、殴ったって気が済むものではない。よく知りもしない相手なら。
 だが、彼はカガリの婚約者だ。
(でも、だって、私はあいつを知っているとは言えない。まだ、なにも知らない。知っているのは名前くらいじゃないか)
 それならやはり、あれは憤慨すべき出来事なのだ。明日は口をきかないでいてやろうか。彼も怒っていたし、ちょうどいいかもしれない。
(あれ。でも、なんでだ……)
 そういえば、彼は何に対して怒りを覚えたのだろう。
(そもそも、なんで怒ってると感じたんだ。私は)
 彼の口調、表情、まなざし、ひとつひとつを思い返してみた。
『べつになにもしやしない』
 突き放すような言い方だった。アスランというあの男は、ああいう話し方をする男ではない。もっと、優しげで、温厚な、心のある話し方をする。いつもちゃんと目を見て会話をする。そういう男だと、よく知りもしないくせに断言できた。
(でも……いつも、どこでも、そうだった)
 一緒に過ごした時間は合わせても二日あるかどうかなのに、彼がそういう人なのだということは、十分にカガリに伝わっているのだ。
 彼のことを何も知らないわけではない。
(じゃあ、あいつ、なんであんなに怒ってたんだ? 怒ってたからキスしたのか? 男ってのは怒ったらキスするものなのか)
 また疑問がじわじわと回転を始める。それ以上は考えても答えが出るものでもなかったが、膝を抱えて椅子にもたれて考えているうちに、疲労がカガリを眠りに引きずり込んでいた。

 はっと次に目を開けた時には、カガリは毛布にくるまって横になっていた。移動した覚えはまるでないのに、なぜかベッドで眠っている。目の前にある窓がほんのりと明るい。カーテンの向こうに夜明け前の空があるのだと思った。
 なるべく音をたてないように身じろぎして、カガリは体の向きを変えた。隣にアスランがいると思ったからそうしたのだが、ベッドにいるのはカガリ一人きりだった。彼は、もう起きているのだろうか。
 そろそろとベッドを降りて、そっと隣室に続く扉を開けた。小さな窓がひとつきりの居室はまだ薄暗い。目を凝らしてみると、長椅子に眠るアスランを見つけた。
 裸足のまま、足音を忍ばせてそばまで近づいてみた。外套で身を包むようにして、彼は眠っている。
(……こいつ、私を抱えてベッドに運んだのか)
 ベッドは二人が並んで寝そべっても余るくらいの広さがあった。隣で眠っても朝まで気づかなかったかもしれないのに。カガリが文句を言ったのを律儀に聞き入れたのだろうか。
「……変なやつ」
 なんとなく頬を小突きたくなる。すうすうと寝息を立てているのを間近で観察して、ふいにカガリはくるりと寝室に戻った。戻って、ベッドの上の毛布を一枚抱えて、また長椅子のアスランのところへ行く。早朝の冷気で裸足の足がじんじんするくらいなのだから、外套だけでは風邪を引きそうだと思ったのだ。
 長椅子ごとくるむように毛布をかけると、カガリは満足げに小さく笑った。そうしてまたベッドに戻ると、まだぬくもりの残っていた自分の毛布に潜り込み、朝寝をしようと目を閉じた。

「少し、馬を休ませよう。どこがいい?」
「……それなら、次の街がもう少しだ。店もある」
 これがその日、初めて二人が交わした会話だった。
 すでにカガリの方の怒りは薄れて消えていたが、一度強硬な態度をとったのを易々と崩せるものでもない。頑固で意地っ張りなのは持って生まれた性格なのでどうしようもない。
 朝からずっと、アスランが話しかけるのにも、問いかけるのにも、首を縦に振るか、横に振るかでしか返事をしていなかったのだ。
「やっと口をきいたな」
 アスランは笑いを含んだ声で言った。彼の方は朝の挨拶の時から昨夜の出来事など、どこにもなかったような様子で、いつもと変わらない。穏やかな彼に戻っていた。
「……もしかして、わざと答えが必要な聞き方をしたのか」
「ちょっと、声が聞きたかったんだ」
 馬には二人乗りをしていたので、カガリの背後にいるアスランの顔はわからなかったが、彼が笑っているのはなんとなくわかった。
「……変なの」
 声が聞きたくなる心境とはどういうものだろうか。よくわからない。この男はわからないことだらけだ。

 休憩地として立ち寄ったのは、セイラン家の所領の入り口にある関所に付随する町だった。ここまで進めていたら、夜には目的の屋敷にたどり着ける。
 昼食をとった店で馬を休ませる間に備えをしておこうということになり、アスランとカガリは連れだって町を歩いた。小さな町だが、宿や食堂、様々な小売店がぎゅっとひしめいている。人通りもオロファトの城下と変わらないくらい賑やかだ。関所の町が栄えるのは交易が盛んな証拠でもある。店先をあれこれ覗いてみると、並ぶ品物に国外産のものが目立っていた。町歩きの楽しくなるところだった。
 アスランの提案で、カガリは再び男装し、アスランの従者としてセイラン家の門をくぐろうということになったので、今度は少年の服が必要になった。上等すぎず、でもそれなりに小綺麗な衣装を探して回っていたのだが、ふっとのぞいた路地の奥に控えめだが品のよい店構えの古着屋を、カガリは見つけた。
(……よさそうだな、あの店)
 振り返ると、アスランは露店の外套を品定めしていた。少しだけ行ってみようか。なんだかひっそりしているし、店が開いていることを確かめようか。つい好奇心が勝って、カガリは小走りで路地に入った。裏通りには人通りがまるでなかったが、近づいて見てみると店の入口にはオープンと書いた小さな看板が下がっていた。
 アスランを呼んでこよう。よさそうな店があると、引っ張ってくるつもりで大通りに戻ったら先ほどの露店にアスランの姿はなかった。
(……いない)
 通りを行き交う人を急いで見渡した。手を繋いで歩く親子、野菜を物色している老夫婦、荷馬を引く隊商の列、若い恋人たち、誰もが戸惑うカガリに目も向けず通りすぎていく。
「はぐれた……」
 口に出したら、心許なさに胸が騒いだ。
 アスランとはぐれてしまった。一人きりだ。
 いや、だけどそれがなんだ。一人には慣れている、ここまでだって一人で来るつもりだったのに、何を慌てることがあるのかと、自分に言い聞かせてみるが、どきどきと鳴る心臓はどうにもならなかった。
 走り回って、声を上げて、彼を探そうか。遠くには行っていないだろうし、小さな町なのだから。
(いやいや、そもそも店に馬を繋いだままじゃないか)
 唐突にひらめいて、カガリは脱力して息を吐いた。どうして忘れていたのだろう。動揺したのがばかばかしくなってくる。昼食を食べた店に戻って待っていればいいのだ。
(でも、あいつは私を探してる気がするな)
 大通りを引き返して、馬を預けた店に向かいながらカガリはついあちこちに目を向けていた。その様子が迷っているように見えたのだろう、ふいに後ろから肩を叩かれた。
「何か探してるのかい? お嬢さん」
 二人組の若い男だった。
「……なにも探してないからおかまいなく」
 露骨な不愉快を顔に出していた。肩に置かれたままの手を振り払ってカガリは先に進もうとしたが、男たちはカガリの正面に回ってきた。
「待って待って、そうでなくても一人歩きは危ないよ?」
「ご心配なく、連れがいるからな」
 真に親切心から声をかけているのかもしれないが、気を許してよい結果が得られた試しがない。女の格好で旅をすると厄介ごとが十倍に増える。ドレスは、アスランと連れ立っているからこそ意味のある装いだったのだ。
「カガリ?」
 呼び声を聞いて、カガリは弾かれたように顔を上げた。人波の向こうにアスランがいた。カガリを見つけた緑の瞳を、カガリもまた見つける。
「俺の連れになにか?」
 アスランは駆け寄ってカガリの肩を自分に寄せた。
「ああ、やっぱり迷子だったのか。彼氏が見つかってよかったな、お嬢さん」
 二人の男は安堵した様子でお互いをつつきあっていた。やはり親切で声を掛けてくれていたのだと知ると、剣呑な態度を返したことが申し訳なくなってくる。
「大丈夫か? なにかされたり……」
 アスランはカガリに向き直ると、心配そうに顔をのぞいた。
「ないない。なにもなかったぞ。彼らは私が迷子なんじゃないかと気にかけてくれただけだ」
 手のひらを振って笑い飛ばす。そんな深刻な顔をするなと言おうとしたが、カガリの肩を掴んで離さない彼の様子は笑える雰囲気ではなかった。ずいぶん走ったのか、呼吸が浅い。
「もしかして、私を探していたのか」
「当然だろう」
 きょとんと見上げたら、しばらくこちらの顔をじっくり眺めてからアスランは長いため息をついた。
「……一人で行ってしまったのかと」
 彼の額にうっすら汗がにじんでいた。
「そんなことするわけないだろ。ここまできて一人になるなんて選択を、私はしない」
「だが、俺は君を怒らせた」
 何のことかと一瞬考えて、昨夜のことを言っているのだと気づくと、向かい合うのが急に気恥ずかしくなる。
「きちんと謝罪をすべきだった」
「いいよもう、別に、怒ってないから。私だっておまえを怒らせたんだし」
 そう言いかけて、待てよ、と思った。特別、彼を罵倒した覚えもないし、侮辱した覚えもない、自分の何が彼を刺激したというのだろうか。
「おまえさ、昨日の夜、なにに怒ってたんだ?」
 答えを求めてじっとエメラルド色の瞳を覗きこんでみる。
「怒っていた? 俺が?」
「うん。そうだろ?」
 自覚がなかったらしい。思い返しているのか、まつげを伏せてしばらく黙り込んでいた。
「そうだな、たしかに頭に血が上っていた。怒りを覚えた経験があまりないから、自分でもわかっていなかったな」
「へえ……」
 怒らないというのはすごい。怒らない人というのは見たことがないかもしれない。カガリなんか、意に沿わないことがあるとすぐぷりぷりしているし、キサカは事あるごとに無表情で叱ってくるし、マーナなんか二日に一回は雷を落としてくる。
「君に、役割のために結婚するんだろうと、言われたからだな」
 アスランはとらえどころのない笑みを浮かべていた。
「……たしかに言ったな」
「役目だと、使命だと、そう思ってオーブに来たのは事実だけど、それは君に会うまでのことだ」
「……うん?」
「君を追ってきたのも、君と一緒にここまできたのも、俺自身の意志なんだ。それは覚えておいてほしい」
ゆっくりそう告げてから、彼は視線を外すと一言足した。
「……昨日のことも」
 急に昨夜の出来事が脳裏に湧いた。真昼の雑踏の中で、予期せぬ白昼夢を見たようだった。暗がりで熱心に唇を求めてきた彼の、熱い感触が肌によみがえってくる。
「えっと……」
 声にならない。耳まで熱くなる。きっと、自分が赤面しているだろうと、わかっているのに隠しようがなかった。
 彼の動機はすべて、好意だ。
 優しいまなざしも、心を込めた気遣いも。怒りぶつけるようなキスをしたのに、冷たい長椅子で眠るカガリをベッドに運んだ、その行動の理由も沁み込むように理解できた。
「ぐずぐずしていると遅くなるな。早いところ必要なものをそろえて支度をしよう」
 カガリの様子に気づかないのか、気づかないふりなのか、アスランは自然に手を引いた。

 セイランは、元をたどれば豪農の家である。それが数代前に爵位を得て子爵家になった。蓄財が得意なのか、地主にしては羽振りが良く、じわじわと所領を買い広げ、例の関所の町と、もうひとつ製鉄所を内包する町を得たことが授爵の決め手となった。セイラン家の財はもっぱらその二つで成り立っている。
 子爵と言っても、本来ならば年に数度の式典以外では王家と関わる機会のない家だったが、王都オロファトに隣接する領地と広大な森を持っていたため、鷹狩りを好むウズミをたびたび招いては狩猟に誘っていた。父の鷹が力強く羽ばたくのを見るのが好きだったカガリは、それによくついて出掛けたものだった。
そのたびに森をちょろちょろと歩き回り迷子になろうとするカガリに、兄のような顔をして諭してきたのが、ユウナというセイラン家の後継ぎ息子だった。そもそもカガリにはいつでもキサカが影のように付き添い、常にどこかしらで見守っていたし、ユウナのお説教など鹿の鳴き声ほどにも興味を持っていなかったが、彼はとにかくカガリに関わりたがってしかたなかった。
(雛鳥になつかれたような、そんな気分だったんだよな……まったく、あべこべだ)
 石造りの城門を見上げながら、カガリはそんなことをなんとなく思い出していた。
「どうかしたか?」
 アスランが馬上から声をかけてきた。
「ううん、行こう」
 フードを被りなおして、手綱を引く。ここから先でカガリの演じるものはアスランの従者だ。馬体の陰に潜むようにして、騎馬の口を引いて城門をくぐった。
「なにかご用ですか? こんな時分に」
 アスランを見つけた門番の男が駆けてきた。
「子爵殿に目通りを頼みたい」
「火急のご用件でしょうか? すでに夜半ですし、明日というわけには」
「アスラン・ザラが来たと言えばわかる。取り次いでくれ」
 泰然としたアスランの物言いと、身なりのおかげだろう。門番の男は渋りながらも、屋敷へ伺いに行ってくれた。ひとまず門前払いはされずに済んだが、セイラン家の者たちが簡単に応じるだろうか。
「ほんとにいいのか? 私が顔を出せば取り次ぎはもっと簡単なのに」
 つま先立ちになってアスランに尋ねると、彼は小さく首を振った。
「君を誘拐しようとした連中なんだぞ? まだ出てこないほうがいい」
 ところで、とアスランは話を変えた。門構えからしてずいぶんと豪奢だがセイラン家とはどういう家なのか、と聞いてきたので、カガリの知っていることを話していたら、門番が駆け足で戻ってきた。
「お会いになるそうです。私が玄関までご案内します」
 ずいぶん息を切らせている。慌てた様子だった。
(こんなにすぐ応じると思わなかった……この門番にとっても予想外ということか)
 重たい玄関扉を開けてもらって、目に飛び込んだ景色にカガリは一瞬ぽかんとした。明るい。とにかくぎらぎらと明るい城だった。
 邸内にはランプがいくつもいくつも灯されていて、旅の間に忘れそうになっていた王城を思い出させた。ただし、王城の内部はもっとずっと静謐だ。セイラン家のようにびっしり絵画や彫像で埋め尽くしてもいない。来客は不意のものだったはずだから、日頃からこの明るさを維持しているのだとしたら、相当に懐が豊かなのだろう。関所の町の賑わいも、カガリは同時に思い出していた。
「どうぞ、こちらへ」
 門番に代わって邸内の道案内をしていた老年の執事が、両開きの扉の前で立ち止まった。
「若様、よろしいですか? お連れいたしました」
 扉の向こうから、のんびりと答える男の声が聞こえた。
(ユウナだ)
 子爵との面会を要求したはずだが、その息子が応じるということは、子爵は不在なのか、それとも警戒の表れか。
 考えながらアスランを見上げたら、彼も思考を巡らせているのか前を見据えていたが、カガリの視線に気づくと、そっと笑みを見せてくれた。
(任せていてくれ、と言っていたけど)
 彼は、ユウナと対話をするつもりなのだろうか。揚げ足取りと誘導尋問はユウナの得意とするものなのだということをカガリは知っている。
(手詰まりになったらどうするか……考えておかなきゃ)
 けれども、これだという策を思いつく前に扉は開けられ、カガリは部屋の奥に立つユウナ・ロマ・セイランをフードの陰から見た。
「ようこそ、アスラン殿」
 ユウナは手にしていた紙を机に放ると、こちらへ歩み寄ってきた。
「ようこそか、歓迎されるとは思っていなかったな」
「ふむ、そうかい?」
 ユウナはアスランの前に立つと、顎に手をやりしげしげと彼を眺めた。
「どうやら、本物らしいな。いや、驚いた」
「暗殺しようとした相手がのこのこ訪ねてきたら、まあ驚くだろうな」
 アスランは笑みを浮かべてユウナを見上げていた。
「なんのことでしょうかね? プラントの王子様はオーブでは国をあげて歓迎されている。暗殺など」
「とぼけなくてもいいぞ。暗殺を仕組んだセイラン家の手腕に感心したおかげで、ここへ来たのだから」
 アスランの言葉に、ユウナは一瞬目を見開き、それから吟味するように口を結んだ。
「……まあ、立ち話もなんだし、とりあえず掛けないか」
 つづれ織りの布が張られた派手な椅子にユウナが手を差し向ける。応じてそれに腰かけたアスランの後ろにカガリは無言で控えた。ユウナはカガリには目すら向けない。従者と信じてくれたらしい。
「それで、王子殿下はなにを疑っておられるのかな」
「セイラン家の領地は製鉄が盛んなのだとか。鉄器、主に武具の生産地と聞いた。オーブ国内でも有数なのだそうだな」
「それは事実だな」
「プラントが最も得意とする産物も、鉄製品だ」
「存じていますが」
「プラントとオーブが友好国となると、精度で劣るオーブ国産の鉄製品に苦境が訪れるのは、避けられないことだろう」
 ユウナは相槌をやめて黙った。
「つまり、俺とオーブの王女との婚約がセイラン家にとっては不都合だということだ」
 淡々としたアスランの物言いに、どういう意図があるのか読もうとしているのか、長く沈黙していたユウナは、やがて真顔で一言返した。
「けど、それはなんの証拠にもなりはしないね」
「そのとおりだ」
「憶測と推論に過ぎない。言いがかりにもほどがある」
「だから、手腕に感心したと、そう言っただろう」
 アスランに対面して座るユウナが、じっとりと重たい視線を向けてくる。
「なにが言いたい?」
「協力しようと、提案しに来たんだ」
 微笑みとともにアスランが放った言葉に、カガリは息を飲んだ。
(策のうち、なんだよな?)
 これは、演技のはずだ。彼が何かをユウナから引き出すために会話をしているのだと、カガリだけは知っている。それなのに、どちらが嘘か、だんだんわからなくなってきた。
「プラントにも、オーブとの和平を望まない者は当然いる。今回の和睦の条件がプラントにはやや不利だったためでもあるし、単純に戦争を望む者もいる。セイラン家と同じに、な」
 アスランが膝の上で手を組みなおす。こんなにするすると嘘がでてくるものだろうか。どこかに真実が混ざっているのか。
「戦争は需要を生む。深手を負わない程度の戦争は必要だと、論じる者さえいる。セイラン家も、武器が売れる時世のほうがなにかと都合がいいだろう?」
「……なるほど」
「プラントの王子が移動中にオーブ軍に暗殺された、などというのは、同盟を破棄し宣戦布告する理由としては最適だとは思わないか」
 アスランの低い声には、背筋にすうっと雫が垂れるような冷たさがあった。カガリは思わず自分の外套を握りしめた。
「そういう話をしに来られるとは……思わなかったな」
 ユウナは肩の力を抜くように息を吐いていた。
「我々と、王子様はどうやら利害が一致するようだね。プラントに同盟を破棄したがっている向きがあるとはなぁ」
 疑り深いユウナの、緊迫の糸が緩んだ瞬間だった。
「俺は、いま現在行方不明となっている王女殿下を探している最中なんだ。それも独断単独で」
 不敵に、アスランの唇が弧を描く。
「と、そういうことになっている。つまり暗殺には好都合だ。といっても真に殺されてしまうのはごめんだが」
「影武者でも立てるかい?」
「それもいいが、国境付近で暗殺に遭遇できると好都合だ。国境付近で強襲にあったように演じてから、俺はプラントに戻る」
「それなら国境警備の師団を動かすのが手早いだろうなぁ」
「できるのか? にわかには信じられないが」
「まあ、そうだろうけど」
 おもむろに、ユウナが椅子を立った。彼の執務机なのか、父の子爵ものか、机の引き出しの奥を探ってから、戻ってきた。
「手続きは驚くほど簡単なんだよね」
 言いながら布張りの小箱をテーブルの上に置いた。動作を見守っていたアスランへ箱を開けるように顎で指し示す。
「これは……印章か?」
 箱の中には小さな印璽がひとつ入っていた。カガリの皮膚が粟立つ。象牙の色合いまで似ている。いつも父の手の中にある印章そのものだ。
(こんなものを作っていたなんて)
 アスランの肩越しに伺うだけでは詳しい模様や意匠まではわからないが王家の印章を偽造したものと考えて間違いなさそうだった。他の事件と彼らセイランの繋がりを立証できなかったとしても、この偽の印章があれば爵位を剥奪するくらいのことはできる。
(この重大さを理解していないわけではないだろうに、相手がユウナでよかったかもしれない)
 感心し目を丸くして、印章を観察するアスランを眺めるユウナの表情は自慢げで優越感に満ちていた。プラントという大国の王子が自分へ関心と称賛を注ぐのは、さぞ彼の自尊心をくすぐるだろう。それで気をよくして、こんな秘密を持ち出してきてしまった。彼の父、ウナトならここまで簡単ではなかったかもしれない。
「これは……さすがに驚いたな。オーブの国章を正確に覚えているわけではないが、ここまで緻密な細工のできる職人を得るだけでも一苦労だろう」
「父には、まあ特別な人脈があるということさ」
「その父君は? 今夜は不在なのか?」
「それが今朝、王城に呼び出されたきりでねぇ。王女の婚礼についての相談事だっていうから、父さんも一目散で王都に向かったんだけど」
「王女の婚礼?」
「もしかすると、やはり僕に白羽の矢が立ったとかそういう話じゃないかとも思ってるんだよね」
自信をにじませるユウナの言い方に、カガリは思わず笑いだしてしまった。身を屈めて盛大に笑う。
「あれ……いや、まさか」
 ユウナが椅子から腰を浮かせた。
「そのまさかだよ。私だ、ユウナ。ひさしぶりだな」
「カガリ……!」
 外套のフードを外してカガリが顔を出すと、長椅子を倒す勢いで立ち上がって、ユウナは床を踏みしめた。
「なんでここに……行方不明になってるって、そこの王子も言ってたのに」
「村の領主館で縛られたままだと、思っていたか?」
 ユウナが言葉に詰まる。
「おまえさ、協力者はよく選んだほうがいいぞ。私が領主館を逃げ出してから二日目にもなるのに、報告がきてないんだろう。あの領主、私を逃がしてしまったことをどうにか隠蔽するつもりなのかもな。それとも自力で探し出すつもりなのか」
「……何を言っているのかよくわからないけど、王城にいるはずの王女殿下がそんな格好で王子の従者みたいなことをしていたら誰でも驚くよ」
 ユウナは態勢を整え直したのか、もう平然と言い返してきた。
「そうだぞ、こんな格好をしてまでわざわざ来たんだ。用がなければ来やしないさ」
「へぇ、わざわざとは痛み入るね。用ってなんだい」
 ユウナが再び着席したのを見て、アスランは少しだけこちらを振り向いた。会話を止めるのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
「ひとつは、約束を反故にしたことを詫びに」
「……約束?」
 けっこうな決心をして、そのために来たというのに相手は首を傾げていた。覚えていないのか。
「おまえ、私と結婚したいと言っていただろう? 私が五歳かそこらの時分だ」
「五歳って十年は前のことだよ?」
「十年前でも何年前でも時効がないのが結婚の約束なんじゃないのか。おまえが結婚のことをしつこく言うから、じゃあ好きにしろと答えたのを私は覚えているぞ」
 一気に喋ると、反対にユウナは黙り込んだ。髪をいじりながら考えている様子だ。
「でもな、それを思い出したのはつい昨日のことなんだ。当時の私はうるさいのをやっと黙らせたくらいにしか思ってなくて、その意味を少しも理解していなかったからな」
「で、それを反故にしたことを謝りに来たというのかい? そこにいる王子様と婚約したから?」
 小馬鹿にするような笑みを浮かべている。
「そんな証文もないような子供の言葉なんか、なんの価値もないよ」
「まあ、要するに私がすっきりしないんだ。鏡に一点だけ曇りがあるみたいな感じなんだよ」
「その例えは気分が悪いなぁ」
「それに、あのときの約束を理由に、また誘拐されたんじゃかなわないからな」
 言ってやると、ユウナの表情に暗く影が差した。
「そのおかしな言いがかりをやめてくれないか」
「言いがかりがどうかは、これからはっきりしてくるだろうな」
 アスランがついに口をはさんだ。
「例の領主館に拉致された王女殿下を救い出したのは、俺だ。関わる者の人数を極力減らしたいために警備を最小限にしていたのだろうが、裏目に出たな」
 象牙の印章を手の中でもてあそびながら、彼は淡々と話した。
「見張りの男たちか、それとも領主自身を問い詰めれば、誘拐を指示した人物の名前くらいはわかるだろう」
「ウナトが王城に呼ばれたのも、お父様のほうで追及する算段がついたからじゃないのか。残念だが、八方ふさがりだぞ、ユウナ」
 だが、子爵の息子は意気を失ってはいなかった。
「八方ふさがりなんてへまをするもんか。君たち、僕がなんの用意もしないで、アスラン・ザラなんて名乗るやからを邸内に入れたと思うのかい?」
 ユウナはさっと執務机に向かうと、そこに置かれていた呼び鈴を鳴らした。甲高い金属音がつんざくように部屋に響く。
「カガリ!」
 短く名前を呼んでアスランがカガリの手首を掴んだ。そのまま部屋の窓際に駆ける。カーテンを素早く開いて、彼は窓を開け放った。まさか、ここから逃げるのか。ここは二階だぞ、と叫ぼうとした瞬間に抱き締めるようにして壁に押し付けられた。
 次の一瞬、開いた窓からどっと、数本の矢が飛んできた。そのひとつがまだ長椅子に座っていたユウナの靴先に届いた。
「キサカ殿だよ。城門に彼の部下のひとりが控えているのを見つけたんだ。例の誘拐現場にも来ていた男だから間違いない」
 なにが起きたのかと混乱していたカガリにアスランが小さく耳打ちする。
「キサカが来ているのか……!」
 ふいに手足に力が戻るようだった。彼がこの近くにいるのならなにも怖がる必要がないくらいだ。現にユウナはキサカの名前を聞いて書架の隙間に身を潜めていた。
 そのユウナを注意深く見据えながら、アスランはカガリに囁いた。
「ここの屋敷に着目していたのか、それとも俺たちが補足されていたのかはわからないけど、親衛隊がすぐそこにいるなら、子爵の私兵など問題ではないよ」
 騒がしい足音が押し寄せてくる。武具を鳴らしているからセイラン家の私兵はすでに武装していたということだ。
 窓の外でも複数の人間が移動する気配がした。親衛隊が門から突入してきたのだろう。こちらはほとんど足音がしない。
「もしかして、おまえ、親衛隊と通じていた?」
「……どうしてそう思う」
「さっきの矢、示し合わせたようだったじゃないか」
「あれは君の親衛隊の判断に賭けたんだ。この度を越した照明があれば、弓兵にはこちらがはっきり見える。俺が姿を見せて引っ込めば合図になると思ったんだ」
 追手を足止めするときに使う手だてのひとつにあるらしい。カガリは聞きながら心に書き留めていた。
「なんだ、ずいぶん睦まじいんだね」
 部屋の端からユウナが揶揄する。同時に入り口の扉が音を立てて開かれた。武装した男が十数人、部屋になだれ込んでくる。
「賊はそれだ。殺すなよ」
 窓際に立ち尽くしていた二人を、私兵たちは素早く取り囲んだ。長剣や短槍を手にしている者もいる。こちらは二人分の短剣だけだ。
「さあ、二人とも、跪いて詫びるなら今だぞ」
 兵の囲みの向こうから、ユウナがこちらを見下ろしている。
「じきに親衛隊が来る。優勢なんて一瞬だぞ」
「じゃあ、それまでの間にせめてそこのプラントの王子の首はもらおうかな。セイラン家はおまえのせいで潰れたも同然だ」
 こちらを見据える瞳に黒々とした嵐が逆巻いていた。
「おまえな……自分たちの悪事を棚に上げて」
 カガリの声を無視してユウナは手を上げた。
「背の高い方を始末しろ」
 一人をめがけて数人が武器を振りかぶる。体格のよい男ばかりだ。腕力では勝てない。数人相手でも難なく戦えるアスランの立ち回りは一度見ているが、これは敵が多すぎる。
「アスラン……!」
 とっさに彼の前に出ようとした。ユウナでも王女であるカガリは殺せないだろう。どんな恩赦でもってしても死罪を回避できなくなるからだ。それなら、カガリがアスランの盾になるのが一番確実だ。
 その動きを、アスランの腕が阻んだ。
 カガリを背中にかばうように左腕を伸ばしながら、右手は短剣を抜いていた。
 迎え撃つつもりなのか。無茶だ。思わず悲鳴をあげそうになったカガリの目の前で兵の一人が吹き飛ぶようにして包囲網に突っ込んだ。アスランの蹴りが腹部に命中したのだ。続けざまに別の兵の利き手に彼の短剣が向かう。ひらりと弧を描いた斬撃の後、兵士はうめいて持っていた長剣を取り落とした。一瞬の出来事に足を止めた兵士の隙を逃さず、ひねるようにして短槍を奪うとその柄で相手の頭をしたたかに打った。まともに衝撃を受けて、兵士は床に倒れ込んだ。
 ほんの一呼吸の間にアスランは三人も床に転がしてしまった。
(なんてやつだ)
 これほどの体術も剣術も王族であるアスランが身に付ける必要はないだろう。親衛隊並みの訓練を受けてきたのか、才能なのか。これでは戦うことを生業にしている私兵が形無しだ。
「部下の負った傷の礼をしなくては、と思っていたんだ」
 奪った短槍をくるりと振って、構えなおしてアスランはユウナを見た。
「好都合だ。防衛のついでにうっかり刃が届いてしまっても、これなら仕方ないな」
 ユウナはすでに後ずさっていた。カガリが伺い見たアスランの横顔はなかなか本気に見えたが、実際どうするつもりでいたのかは、わからずじまいになってしまった。
 アスランが切りかかる前に、カガリの親衛隊が到着したからだ。セイラン家の私兵も、ユウナも、もはや抵抗はしなかった。最後は、兎を狩るよりも手ごたえのない捕り物だった。

「なんだよ、その顔は。結果としては大団円だろ」
 騒動の後片付けが終わり、空っぽになった部屋で、最後に残ったのはキサカとカガリとアスランだった。
「べつに、まだ何も言っていないぞ」
 キサカは腕を組んでカガリを見下ろしている。およそ主君に対する態度ではなかったが、彼が膝をついて無事と再会を喜ぶようなことをしたら、それこそ天地がひっくり返るように驚いてしまいそうだから、これはこれでよいのだが。
「言わなくても顔を見たらわかる。おまえのそれは小言を言おうにもあんまり言いたい文句が多いから、いっそため息しかでないような時の顔だ」
「よくわかっているじゃないか」
「ずっと後をついてきていたのか?」
 一番の疑問を真っ先に尋ねると、キサカは首を振った。
「今回はこれまでで最も上出来な逃走だったな。足取りが掴めないから、ここで張るしかないと、仕方なくセイラン家に先回りするはめになった」
 眉間を押さえて、やはりため息をついたキサカを見て、カガリはつい笑顔になっていた。
「そうだろう。完璧だったろう。やっぱりな、追われている気配がないと思っていたんだ」
「アスラン殿がまさか家出に加担するとは思っていなかったからな」
「いや、俺は王女殿下にただ付いていただけだ。キサカ直伝の行方のくらまし方はなかなか見事だったぞ」
 話を振られて、アスランは笑いをこらえきれなくなったようで、小さく肩を揺らして笑っていた。
「夫婦で家出しないでくださいよ、と言ったそばからこれでは先が思いやられるな」
「そんな話、いつしてたんだ?」
「とにかく、早いところ城に戻ってもらうぞ、カガリ」
 キサカは話を急いだ。
「……お父様、怒ってた?」
「それは戻ってから自分で尋ねるんだな。俺はもう知らん」
「ええぇ! なんだよ、それ。私だって遊び回ってここに来たんじゃないぞ。ユウナから物証を引き出したんだから、誉めてもらってもいいくらいだ」
「物証?」
 眉を寄せるキサカに、アスランが内ポケットから取り出したものを見せた。
「ウズミ殿が言っていたのはこれだろうな」
「なるほど、偽の印章か……」
「私のおかげだぞ? 隠滅されてたら裁判の進みが倍は遅れた」
 カガリが胸を張ると、向かいでアスランがぽつりと言った。
「……あの子爵の息子を誘導したのは俺だけどな」
「あっ、おまえな、そういうことは黙っておくものだろ」
「俺もウズミ殿の信頼を得ておきたいからなぁ」
「私だってお父様に怒られるのはいやだ」
「……それは、自業自得じゃないのか」
 ぽんぽん言い合っていると、キサカはどうやら驚いた様子で、しばらく喧嘩を放って眺めていた。
「ずいぶん、仲が良くなったんだな」
「仲良くないだろ! 何を見て言ってんだ」
「まあ、有意義な数日だったな」
 二人に同時に口を開いて答えられた親衛隊長は、笑いをこらえるような顔で、よくわかった、と呟いていた。
「それで、帰路についてなんだが」
 仕切り直しに咳ばらいをしてから、彼は言った。
「馬車の用意がある。明朝早くに出すつもりだから」
 その説明をみなまで聞く前に、カガリは声を上げた。
「明朝? てことはそれまでこの屋敷にいなきゃならないのか? 冗談じゃないぞ、こんな趣味の悪い屋敷、もう少しもいられるもんか」

 幸い、月の明るい夜だった。
 なかなか折れないキサカを説得して単独、馬で出発したのはすでに夜明けの間近に迫った時間だった。蹄の音は二頭分。並んで街道を走る二頭の馬は、沈黙したままの騎手を乗せて、ひたすらに駆けていた。
 キサカがカガリのわがままを渋々ながらも聞き入れたのは、アスランが同行すると口を添えたからだった。王子殿下がついて行かれるのなら、と承知してもらえたのは喜ぶべきなのに、どうも釈然としなかった。アスランだってカガリと共に親衛隊から遁走していたというのに、どことなく信頼を得ているようなのが、なんだか納得いかない。
 馬を走らせれば王都までは丸一日あれば足りる旅程だ。乗騎の様子を見ながら乗り手も休み時を考える。今度は逃げているわけでも、隠れているわけでもないから、これはなかなか気ままな旅かもしれなかった。
急がせるでもなく軽く馬を走らせ続け、林の中で湧き水の泉を見つけたところで、アスランはカガリに声をかけてきた。
「少し、休ませようか」
 それを聞いて、カガリは答えるより先に手綱を引いて馬の脚を止めさせた。
「夜明けが近いな」
 鞍から飛び降りながら、空を仰いだ。それまで足元を照らしていた月がいつの間にか沈んでいる。東の空が闇の黒から、朝焼け前の群青に変わっていた。
 馬を水辺に促してアスランの隣に立ったら、なぜかいきなり手首を掴まれた。
「な、なんだよ」
「いや。なんとなく。また、逃げるんじゃないかと思って」
 アスランは微笑みながらこちらを見下ろしていた。日の出前の暗さでは、その表情の意図が読み取れない。
「逃げるってなんだよ。私がおまえから逃げたりするわけが」
「初めて会ったときは朝陽に姿をくらませただろう」
 ああ、そんなこともあったな、となんだか懐かしく思い出した。まだ十日も経っていないというのに懐かしいというのも変だが。あれから起きた出来事が多すぎたのかもしれない。
「それに、君は逃げてはいなくても、向き合ってはいないじゃないか」
「向き合っていない? いまこうして睨み合っているのに?」
「俺に『親衛隊と通じていたのか』と聞いただろう」
「言った……かな?」
 カガリは自分の発言をあれこれ思い出して、思い当るものを見つけたので正直にうなずいた。
「言ったな」
「直前に『親衛隊の動きは俺の知るところではない』という話をしていたにも関わらずだ。君は俺を疑った」
 アスランの表情に、ひやりとするものを感じてカガリは黙った。本来のカガリは情にもろく、ほだされやすい。そんな自分をいやというほど知っているから、疑うことから始めるのは王女としてのカガリの性質になっていた。
 彼が夫になる相手だからと、簡単に受け入れて手放しの信頼を寄せることができないのは、たぶんそのためなのだ。
「たしかに……そうだな。疑っていたと思う」
「俺は、君にだけは嘘をつかないと決めた。それはもう伝えてあるはずだ」
「ひとつ、弁解させてもらうと、少し不安になってしまっていたんだと思う。あんまり、おまえがすらすらと演技するものだから。どこから嘘なのか、ちょっとわからなくなった」
 ユウナをすんなりと信用させた、彼の仮面は冷たく硬質な陶器のようだった。
「でもな、私はわりと初めからおまえを信じてはいるんだ。でなくちゃ、一緒に旅なんかしないでとっくに逃げてるよ」
「なるほど、それはそうかもしれないな」
 合点したように目を丸くしてから、アスランは少し笑った。彼は笑うと目元が緩んでどことなく幼く見える。仮面ではない、本当の笑顔だ、と思った。
 彼の笑顔は思えば多彩だ。心底から嬉しそうな微笑みも、なんとなく企むような笑みも、感情をひそませ細めた目も、短い時間の中で幾度となく彼はカガリに微笑みかけていた。
「アスラン」
 彼の外套を少し引っ張って背伸びをした。つられて近づいたアスランの唇に触れるだけのキスをする。
どう反応するかな、といういたずら心もあったのだが、彼はこちらがあっけにとられるくらい無反応だった。
「いや……なんというか、ちょっとお礼のつもりというか」
 ついにカガリのほうが言い訳のために口を開いてしまった。
「……ああ、そうか、礼なのか」
 アスランはぼんやりと呟いた。
「君に名前を呼ばれたのは二度目だな」
「ん? そうか?」
「いつも、おまえとばかり呼ぶだろ」
「おまえだって、私のこと名前で呼ばないじゃないか」
 売り言葉に買い言葉だったが、思い返してみれば名前を呼ばれたのはほとんどない気がする。カガリの周りには、カガリを敬称で呼ぶものばかりだ。姫様、殿下、王女様、ほんとうは名前を忘れてしまっているのじゃないかと思うくらい。
「カガリ」
「ん?」
「キスが御礼になるのなら、俺からもしていいかな」
「それは……」
 いいとも、だめとも答える前に口をふさがれる。唇を確かめるような動作でついばんで、アスランはカガリを離した。
「これ……は……なんの礼だ」
「初めに、湖のほとりで会ったときに、俺を助けると決めたことをまだ、ありがとうと言っていなかったから」
「そうだっけ」
「まあ、半分は口実だけど」
 くすりと笑ったように見えた。彼は今度は断らずに頬に手をかけ、キスをした。
「カガリ」
 名前を囁いて、耳の縁にもくちづけを落とす。
「わぁ」
 思わず押し返そうとしたのに、すでに抱きすくめられた後だった。
「……カガリ」
 また、名前を呼んで今度は頬にキスをする。
「も、もういいって、名前は」
 声も、唇も、くすぐったくてたまらなくて、カガリは身をよじった。
「気づいたんだ、今更だが。名前を呼べるのは身内の特権なんだって」
 背の高い針葉樹の葉の間から、真っ白な朝陽がこぼれて二人へ差し込んだ。思わず見上げたら、空はすっかり淡い青になっていた。
「あ、日の出だ」
 照り返しで光る泉のそばでは、馬たちがこちらへ関心をなくしてそれぞれにくつろいで草を食んでいた。
「先を急ごう。馬も十分に休めただろう」
「そうだな、キサカも早く帰れって言ってたし」
「……それだけじゃないけどな」
「なにがだ?」
「なんだと思う?」
 少し首を傾けて笑んだ、アスランの表情になぜだが心がうずく。気恥ずかしさを吹き飛ばそうと、カガリは息を吸い込んだ。
「アスラン!」
 もう一度、大きく名前を呼んでカガリは朝陽のほうに駆けた。
 数カ月前、婚約者の名前を聞かされて、まず初めにその由来を本で調べたときのことがよみがえってくる。
 夜明け、黎明、朝が来ること。
 彼の名前を呼ぶのは、始まりの朝に相応しいのかもしれないと、暁光の中でカガリは思った。




アスカガオンリーにて発行
2020/03/08