晴れた日に
運命後
「すごい……こんなにきれいに晴れるなんて」
ぽかんと空を見上げてカガリはつぶやいた。アスハ邸のエントランスを出ると、頭上は一面の青だった。降り注ぐ太陽光を受けて緑の庭園は瑞々しく輝いている。
「この時期にこんな晴天を引き当てるなんて、おまえついてるぞ、アスラン」
リムジンの傍らに立つアスランに笑いかける。生真面目に姿勢を正していた彼は、カガリの笑顔に応えて頬を緩めた。
「なんとなく、晴れるような気はしてたんだ」
「ふうん?」
「さあ、もう行こう、時間だ」
促すアスランの声に頷いて、運転手は恭しく後部座席のドアを開けた。今日ばかりは彼もきっちり正装している。アスハ邸のメイドも、執事も、庭師も、料理人までもが衣服を正してエントランスに集まっていた。マーナも美しいアフタヌーンドレスに身を包んでいる。
彼女のこんな格好を見たのはいつぶりだろうか。いつもカガリを着飾らせたがってきた彼女の正装を見るのは不思議な気分だった。
「姫様、お足元にお気をつけくださいよ」
「わかってるよ。こんな時まで子供扱いしないでくれ」
アスランに続いてカガリもリムジンに乗り込む。長い裳裾をマーナがふんわりと飾るように座席に流してくれた。
「ありがとう、マーナ」
その一言に、言葉以上の心を込めた。マーナはすでに泣きそうだった。
「まだ泣くな、早いぞ」
「姫様は……カガリ様はいつまでも、マーナにとっては子供のままなんですよ」
こらえきれずうつむき涙をこぼした彼女の肩に手を伸ばして軽く撫でた。マーナのことは覚えてる思い出を数えても、たくさん泣かせてしまったし、たくさん怒られてもきた。でもこんな幸福が溢れるような涙はいいな、とカガリはそっと考えた。これからはこういう気持ちばかりをあげたい。
運転手によってドアが閉められると、車は緩やかに走り出した。
「なんだか、ずっとにこにこしてるな」
「ん? 私が?」
カガリは肘置きに軽くもたれて頬杖をつきながら言った。広々とした向い合わせの座席に、乗客は二人きりだ。
「ああ、リラックスしてるというか、上機嫌に見える」
「おまえは、緊張してるだろ?」
にんまりと唇を曲げながら言うと、アスランはやっぱりわかるか、と眉を下げた。せっかくの絹張りのシートなのに、アスランは背も預けずきれいな姿勢で腰かけている。
「大勢の人前に出るのはだいぶ慣れたつもりだったんだがな。今日は、それだけではないし」
「プラントでも中継されるらしいからな。確かに観客は桁違いだ」
カガリは肩をすくめてみせた。
「何か飲むか? この天気だ。タキシードは暑いだろ」
手袋を取り去ってから備え付けのミニバーを開き、ボトルをひとつ取り出す。
「貸して、俺がやろう。ドレスですることじゃないだろ」
「そうか、ドレスだったな。道理で動きにくいわけだ」
グラスに注がれたレモンウォーターを受け取って、カガリは自分の纏っているものを見下ろした。
「動きにくいけど、重くはない。楽ではないけど、窮屈ではないんだ。今回のドレスは」
「今回のは?」
「前回のは引き裂いて捨てて逃げたいって思うくらい嫌だった」
「……本当にそんなことになってたら世界中で騒がれただろうな」
「実際は引き裂く前にフリーダムにつまみ上げられたんだけどな」
くすくすと笑うカガリにつられて、アスランもこわばっていた表情を解いた。
何もかもが笑い話にはならないけれど、苦しい気持ちで過去を思うことが、少しずつ減っていくといい。
車がアスハ家の敷地を抜けたところで、わっと沿道を埋めるほどの人々が現れた。誰もが笑顔で歓声を上げている。手にした旗を一生懸命に振る子供達、まぶしそうにこちらを眺める老人。オーブ国旗とカガリの紋章旗がいくつもはためいている。覚えのある光景だ。否が応でも、十八歳の自分が暗い目で眺めた車窓の景色が、目の前の国民の様子に重なる。十八歳のカガリは、彼らが喜び明るい歓声を寄越してくれるたびに、自分の心が黒々とした深い淵から戻れなくなるのを感じていた。
誰もが喜んでいるのに、カガリ一人だけが身の内をえぐられるような痛みに耐えていた。
「明るいなぁ」
くつろいでいた姿勢で沿道に手を振りながら、カガリはしみじみと言った。
「それは、まあ、昼間だから……」
アスランの返答にはなんと返そうか迷った様子があった。こういう優等生みたいなあいづちを聞くと真面目なやつだなあとあらためて思う。代表専用車の窓ガラスは防弾仕様なので、外の景色がやや暗く見えるものなのに、今日はどうしてか眩しいくらいなのだ。それがなぜなのかを説明するのが馬鹿らしくなって、カガリはため息と一緒に笑ってやった。
「なぁ、晴れるような気がしてた、てのはなんでなんだ?」
「さっきの話か?」
「うん」
オーブの三月はちょうど雨季なのである。雨季といっても毎日毎日雨が降り続くというものではないが、それでも晴天になる確率の低い時期なのは確かだ。
「式の日程を決めるとき、アスランが今日のこの日が良いって言ったのも、その予感があったからなのか」
「予感というほどのものでもないが……」
アスランは少しだけ視線を外して考えて、やがてカガリにたずね返した。
「三月八日という日付にカガリは少しも心当たりはないのか?」
「ええ? 今日ってなんかの記念日だったのか? 悪いな、全然わからんぞ」
「記念日というか、事件日というか」
「事件?」
「俺も、君も、南海の無人島に不時着したことがあっただろう。それが三月八日だったんだ」
「日付を覚えてたのか? 大したもんだな」
「俺は軍人だったから、日誌にも記す必要があったし、後に報告書にも書いていたから」
「でも、それは、なんというか殺し合いをした日でもあるんじゃないのか」
運転席とは完全に別室になっているので聞こえるはずもなかったが、カガリは小声で言った。
「だから、いいんじゃないかと思ったんだ。あんな出会いをした者同士がこうしてリムジンで結婚式常へ向かい合うなんて、そうそうないと思うぞ」
「なるほど……それは、私達らしいかもな」
ふと向かいの男の顔をカガリは眺めてみた。記憶の中にいる赤いパイロットスーツの少年が携えていた幼さは、もうそこにはない。ここにいるのは白のタキシードがすんなり似合う大人の男だ。
「あ、話をしているうちに到着してしまったな。無駄話をせずに少し打ち合わせでもしておくべきだったか。俺はまずなにをすればいいんだっけ」
「大丈夫、なんとかなるって」
車がスピードを緩め、止まり、ややあって後部座席のドアが開けられた。射し込んできた太陽の光に、カガリは目を細めた。ヒールの足元を確かめながら地面を踏む。顔を上げたら、アスランがこちらへ手を差しのべていた。
ふわりと吹いた風に純白のドレスが揺れ、ベールがはためいた。
ようやく、ここまで来たのだという感慨が胸にじんわりとみてきた。ここまで来た、そう、ここはスタート地点だ。この先ずっと、病める時も健やかなる時も二人はずっとお互いの隣にいると、これから誓いを立てに行くのだから。
「行こう、カガリ」
何度となく触れ、繋いできた彼の左手を、初めて握る気持ちで、カガリは手を置いた。