夕日と特等席
運命後
──彼女はなんて愛らしいんだろう?
──ほんとうに彼女は素敵だと思わないかい?
──彼女はなにより大切なもの、そうだろ?
のびやかな歌声に吸い寄せられるように意識をとられた。歌の流れてくるほうを見ると、ラウンジのテレビに人気の歌手が写っていた。人気なのは知っているが名前すら知らない。アスランの音楽への興味はそのくらいのものだった。
それなのに、そのメロディには強烈に引きつけられた。フォークを手にしたまま、気づいたら壁にかかったモニターを見つめていた。記憶の水底を揺らされるように、なぜか気分がざわめく。
「この歌、お好きなんですか?」
ふいに後ろから声をかけられた。振り向くと、食事の乗ったトレイを持った部下が立っていた。
「だいぶ古い歌ですよね、これ」
「……知っているのか?」
向かいに座るか? と促しながらアスランは尋ねた。
「わりと有名だと思いますよ。前時代の曲ですけど、こうして今もカバーしてる歌手がいるし」
部下が視線で示した画面の中では、若い歌手がはつらつと歌い続けていた。
「准将もこの歌、お好きなんですか」
もう一度尋ねられて、アスランは少し考え込んだ。
「いや、初めて聞いた……と思う」
「そうなんですか? 珍しくずいぶん熱心にテレビを見ておられるから、好きな歌なんだとばかり」
目を丸くする彼に、アスランは苦笑いを返した。
「初めて聞いた曲だと思うんだが、不思議に聞き覚えがあって、どこで聞いたのか思い出そうとしていたところだったんだ」
「なるほど、そうでしたか」
合点がいったのか、部下は話を切ると皿に盛られた魚にナイフを入れはじめた。
「古い歌ですけど、今もよく聞かれているので、どこかで耳にしたのかもしれないですね」
どこかで耳にした程度なら、こんなに気にかからなかったはずだと、確信しながらアスランは黙った。
自分の記憶力を信頼しているし、考えたら思い出せそうなものなのに。いくら記憶をひっくり返して探しても答えは見つからなかった。
思い出せないことが悔しかったのか、歌は翌日になっても耳の奥で鳴り続けていた。
コーヒーカップに口をつけるときも、頭からシャワーを浴びながらも、ふと気づいたらその曲が頭の中に響いている。
耳に心地よいメロディなので、それが気に障るわけではないが。どうしても頭から離れなかった。
どこかで聞いたはずなのに、どこで聞いたのか思い出せないというのはどうにも具合が悪かった。こうなったら部下に曲名を尋ねて音源を探そうかとも思ったが、こういう時に限ってその彼が連休を取得していたりするのである。
気にしないでおけばそのうち音も消えるだろうか。
そんな思慕が募るようなもどかしさが解決したのは、数日後のことだった。
「代表、失礼します」
声を大きくして呼んでみてから、アスランは装飾の彫られた扉を見上げた。
二度目のノックにも呼び掛けにも返事がないので、どうしたものかと考え始めていた。
「よろしいでしょうか? お開けしても?」
もう一度、ノックを鳴らしてから少しだけ扉を開けた。
「やっぱり開いてるじゃないか」
解錠されているからには執務室に在室しているはずだと思いながら部屋を見渡すと、夕刻の茜色の光に満ちた窓辺にカガリが立っていた。
「歌……?」
それでノックに気づかなかったのだろうか。かすかな歌声が聞こえてくる。
「カガリが歌っているのか……」
それは、この数日の間アスランの耳に残っているあの歌だった。子守歌のようなやわらかさでメロディを口ずさんでいる。部屋に入ってきたアスランに気づくと、カガリはこちらに微笑みかけてから歌うのをやめた。
アスランが問いたげな目を向けたら、肩をすくめる仕草をしてから手まねきした。
「これを探しに来たんだろ?」
カガリは執務椅子を指差した。逆光になっていてわからなかったが、革張りのゆったりとした椅子にうずくまる小さな影があった。
「こんなところにいたのか……」
やれやれとため息をつきながら、アスランは椅子の中で寝息をたてている子供を眺めた。
「マーナさんが血相変えて探し回ってたんだぞ。連絡してやらないと」
「かくれんぼといたずらは子供の仕事だ。真剣勝負なんだぞ」
「また、そんなことを言って。いたずらの先輩を君がしてどうする」
「大丈夫、マーナは優秀だから、きっともうすぐここに気づくさ」
カガリはくすくす笑いながら、猫のように丸まって眠る子供の髪をすいた。細い髪が夕日を浴びて赤銅色にきらめいている。
すうすうと寝息をたてる横顔を、アスランもしばらく無言で見つめていた。
「カガリ、さっきの歌なんだが……」
「ん? ああ、聞いていたのか。つい最近テレビで聞いたから耳に残っててさ。なんだか歌いたくなったんだ」
言いながらカガリはメロディをハミングで奏でてみる。
「我が子の誕生が嬉しくて嬉しくてたまらない。子が可愛くてしかたない、ていう歌なんだよな、これは」
「そうなのか。テレビで流れたときにちゃんとは聞かなかったから、てっきり恋人へ向けた歌なのかと思っていた」
「なんだ、あの番組アスランも見てたんだな。それなら歌をぜんぶ聞いたらよくわかるよ」
呼吸を整えて、カガリは囁くように歌い出した。
──Isn't she lovely?
──Isn't she wonderfull?
──Isn't she precious?
呼び掛けるような、語りかけるような歌い方に、今度こそ聞き覚えがあった。
そうか、記憶にあったのは卓越した声で歌う歌手のものではなかったのだ。子守歌がわりに、気ままに歌われたものだ、アスランが聞いたのは。
記憶の中にある歌声がよみがえり、カガリの声に重なる。どこにしまいこんであったのだろう。歌声と一緒になって記憶がどっと溢れてきた。
歌を歌う母はキッチンに立っている。それを見下ろしている自分。
芝生の公園を歩きながら楽しげに歌う母と、それを見下ろしている自分。
歌いながら母は時折いとおしげにアスランを見上げては頬を撫でるのだ。そしてその隣に微笑みかける。情景はどれも夕暮れ時だ。
母がアスランを見上げるのは、アスランが大人に抱き上げられているからだろう。アスランを抱いているのは父に違いないのに、頬を寄せるように抱かれていて顔がちゃんと見えない。
父の手は温かかっただろうか、どんなふうにアスランを抱えて、どんなことを話していたのか、何も覚えていない。
けれども、ようやく思い出した母の笑顔と幸せがこぼれたような歌声はいま見たことのように色鮮やかだった。
──この子はなんて愛らしいんだろう?
母の好きな歌だったのだろうか。
両親のことは、努めて記憶を呼び起こさないようにしてきたように思う。とりわけ母との思い出は心の深いところに沈めていたのか。亡き人のアルバムを見返せないのと同じだ。
そうして、思い出をしまいこんでいるうちに、忘れてしまったことがあったのかもしれない。それをいま見つけることができたのは、巡り合わせだろうか。
カガリがいとおしそうに子供の頬を撫でるのを、アスランはただ見つめていた。