Calling Me

運命後



 冊子ほどの厚みがある報告書の最後の一枚を読み終えた。
 アスランはペンを取り上げサインすると、椅子にもたれて息を吐いた。数時間はデスクワークを続けていたので、白い壁を眺めていても文字が目の中をちらついている気がした。少しの間まぶたを閉じてから、外へ目を向ける。執務室の窓から見えるのは深い闇だけだった。
 続けて卓上の時計に目をやると、時刻は十時を過ぎたところだった。次に片付けるべき仕事のことに考えを移しながら、アスランは立ち上がった。
 コーヒーを淹れようと思いついて隣室に向かう。准将という地位には執務にあたるための個室が与えられており、執務室にはミニキッチンと仮眠室も隣接していた。休憩も兼ねてハンドドリップでコーヒーを淹れることにして、湯を沸かす。
「失礼します、准将」
 カップの用意をしていると、ノックの音がした。
「どうぞ」
 ドアの向こうに声をかけると、きびきびとした動作で男が二人、入室してきた。二人ともアスランの直属の部下だった。
「明日の予定の確認に参りました。お時間を頂いても……」
 一礼をして顔をあげた先のデスクにアスランの姿がなかったので、挨拶の途中で部下は口をぽかんと開けてしまった。
「すまない、こっちだ。予定の確認ならこのまま聞こう」
 ちょうど湯が沸騰したところだった。ちょっと数分は手が離せない。
「また、ご自分でコーヒーを用意されているんですか? そういう雑用は私たちがいたしますからお呼びくださいと申し上げているのに」
「その必要はないと前にも話しただろう。これはこれで気分転換にいいんだ」
 アスランはケトルからそっとドリッパーに湯を落とす。
 この議論はじつは何度もされているのだが、その度に平行線で終わっていた。
「上司のコーヒーにいちいち呼び出されたら憤慨してもいいくらいだと思うぞ、特にいまは。皆、ろくに休暇もとれていないのだから。現に君たちもこんな時間まで仕事をしている」
 労いを込めて二人を見ると、彼らは苦い表情でうつむいた。
「それを言うなら、我々の中で一番休暇の取得が少ないのは准将ですから」
「それは問題だな。上層部が率先して休まなくては全体の休暇取得率は上げられない」
「また他人事のように仰る……」
 部下の一人は嘆くように眉をひそめた。
 彼は戦後すぐにアスランの下に配属された人物で、スケジュール管理や事務処理の下準備など秘書のような仕事もこなしてくれている。数年の付き合いになるだろうか。年齢が近いせいもあり近頃は少し気安くなってきて、たまに愚痴めいた呟きも口にするが、慇懃な態度は崩さない。真面目なオーブ軍人だ。
 その彼の隣に付き従っているのは、先月から配属された新人だった。
「明日の予定の確認だったな。聞かせてくれるか」
 小言が増える前に本題に入ろうと、アスランはデスクに戻った。机に置いたカップから淹れたてのコーヒーが豊かな香りを漂わせている。
 促された部下は背筋を正すと、手に持っていた資料を読み上げ始めた。

「……以上となりますが」
 明瞭な発音で分刻みのスケジュールを説明された。
 将の位になると訓練などはほとんどなく、責任者としての執務や外交的な仕事が主で、毎日の予定はきっちり決まっていた。
 それらの日程をよどみなく告げていた部下が、最後に口ごもるように付け足した。
「ちなみに、これらの予定はすべて今からでも日程変更が可能なものですが……変更はございませんか?」
「……その必要はないが? 明日も九時にはここにいるはずだ」
「ほんとうに、よろしいのですか」
「……というと?」
 部下の目を数秒見つめ返した。上司達の応酬を見守る新人は緊張した様子で唇をきつく結んでいる。
 先に目をそらしたのは部下の方だった。
「了解しました。では、明日の会議前にお迎えに参ります」
 きっちりとした礼をすると彼はきびすを返した。その後を新人が追いかけていく。木製の扉が静かに閉まるのを見届けてから、アスランはコーヒーカップに指をかけた。
『……やっぱり休暇を取られませんでしたね』
 新人の青年がひそひそ話すのが聞こえてきた。
『まあ、そんな気はしていたさ』
『准将、もてそうなのに。立場のせいですかね、そういう相手と過ごしたりしないんでしょうか。だって明日は』
 少し喋りすぎだと新人をたしなめる声がかすかに聞こえた。廊下の小声の会話がアスランに届いているとは思わなかったのだろう。
 コーヒーを一口飲んでからアスランは小さく笑った。
 そういえば去年の今日も休暇をとってはどうかと、彼に遠回しに言われたのだ。そして去年も同じようにその必要はないと答えたのだった。どうしてもこの日だけは休暇をとらせたいらしいのだが、休暇を取る取らないの攻防は毎年同じ結果に終わるのだった。
 部下はアスランの疲労の蓄積も心配なのだろう。それは無用な心配だと何度か話したのだが、ナチュラルの彼にはなかなか納得できないらしい。勤務時間はたしかに長いが根を詰めるような仕事のしかたはしていないので、別段どこにも不調はない。
 つい休暇を取得するのを忘れてしまうのは、休日になにをすればいいのかわからないからだった。
 殺風景な自宅をなんとなく掃除したり、ランニングをしてみたり、思いつくままに色々としてみても、いつも時間をもてあましてしまう。アスランは余暇の使い方がどうも上手くない。休日になると無為に時間を過ごしている気がして、結局、執務室に来てしまうこともあった。
 幸い、仕事は片付けるそばから湧くようにいくらでもあった。こういう仕事のしかたは十代の頃からの習性なので変えることはなかなか難しい。
(……でもあの頃だけは、違ったな。あんまり休まないでいると強制的に休暇を取らされたりした)
 ふと記憶をめくってみながら、アスランは目を伏せた。
 この国の代表首長の専属の護衛を務めていた頃の記憶だ。放っておくと休むことを忘れるアスランの癖を知った代表は憤慨する勢いで休暇を取得するように命じたのだった。「護衛対象が休暇中なら休んだって問題はないだろう」などと言って、合わせて休暇を取ることもあった。
(そうして、キラのところへ訪ねていったり、遠出もしたんだったか……)
 実際は、国家元首である彼女は休暇中でも睡眠中でも何かしらの護衛がついていたのだが。少なくとも休暇の時間は公人ではなく、彼女はただの十七歳の少女として振る舞うことができた。公務の間は眉根を寄せた表情の多い彼女が、オフの時には声をあげて笑っていた。体を動かすのが好きな彼女と、ちょっと本気になってスポーツをしたこともあった。
 そんなふうにして過ごせたのは数えるほどだが、休暇とは楽しいものだった。彼女と一緒なら。
「……もうこんな時間か」
 目の前に積んである仕事を黙々とこなしているうちに、日付の変わり目になっていた。
 十一時五十七分。
 デジタル時計の数字がひとつ進むのを見てから、アスランはモニターに向き直った。そうしてキーボードを叩こうとした指がゆっくりと止まる。
 耳を澄まそうとしている自分に気づいて、アスランはため息まじりに笑った。
(もう待っているのか? 彼女からのコールを)
 たぶん、零時を過ぎた頃に机の上の電話が鳴る。ほとんど確信していた。
 昨年は日付が変わって五分で深夜の執務室にコール音が鳴り響いた。その前の年は十分ほど経ってからだったから、どうやら早まっているらしいのだ。
 時計の表示にゼロが並ぶのと同時にやってくる明日は、彼女が一年に一度だけ自分からアスランに電話をかけてくる日だった。それも決まって公用のラインを使って。政府内の電話は公開できる資料として通話記録が残る。内容録音はなくても、公の通信なのだという意識はお互いにある。たぶんこれは彼女のけじめなのだ。
 無音の室内にベルの音が高らかに響いた。
 はっとして時計を見ると午前零時を二分だけ過ぎていた。なんとなく資料を見返しているうちに時間が過ぎていたらしい。
「はい」
「准将、誕生日おめでとう」
 アスランの応答にかぶせるように相手は話した。
「また、忘れて仕事してたのか」
「……そんなところです」
「そうだろうと思った。もう一度言うからよく聞けよ。誕生日おめでとう」
 耳元を弾む声がくすぐる。機械を通した声だが、対面よりも近い距離で聞けるのは電話の良い点かもしれない。
「……ありがとうございます、アスハ代表。わざわざお電話くださり恐縮です」
「誕生日にも仕事をしてるような将校はザラ准将の他にはいないぞ」
「感覚の違いですよ、私にとっては誕生日と言っても特別な日ではありませんし」
 これは数年前までのアスランの考え方だった。実際、自分の誕生日を忘れて過ごすことはよくあったし、この日のためになにかをしようと考えたことすらなかった。
「特別な日に決まっているだろう。自分の由来を思い、両親に感謝する日だぞ。だから休暇を取得しろと毎年言っているのに」
 彼女の口調は目下のものを諭す大人のようだった。親しげだが踏み込ませない距離を感じる。
「恐れ入ります」
 アスランも、自分が上官である彼女に従う立場なのだと意識しながら答えた。
「そちらは近頃はどのような感じだろう? 軍務について報告は受けているんだが、しばらく視察にいけていなかったから気にかかってたんだ。このところ国際会議が続いててな」
「昨年に比べると確実に状況は落ち着いてきています。各地への復興支援の要請は格段に減りましたよ」
「そうか……それを聞いて少し安心した」
 彼女の声が和らいだ。心からほっとしたようだった。
 おそらく、心配ごとは尽きないのだろう。国家元首である彼女の細い肩にはあまりに多くの憂いがのし掛かっている。それらがひとつずつ下ろされるたびに、彼女はこうして安堵の息を吐くのだろうか。
「みんなにも少し余裕ができただろうか。前回訪ねたときは休みがなく疲れた様子に見えたから」
「今年は交代で長期休暇が取得できるくらいにはなりましたよ」
「そういえばネオ一佐もバカンスに出掛けたとか聞いたな」
 ふふっと笑う声が電波に乗ってアスランに届く。いま、この笑い声は自分だけのものだ。誕生日の夜更けに彼女の声と時間を独占している。
 これを贅沢と言わないはずがないだろう。
「だけど准将はろくに休まず働きづめなのだそうだな」
「それは言い過ぎですよ」
「今日は誕生日だぞ?」
「こだわりますね」
「すまない……プライベートに口を出すつもりはないのだが」
 たぶん、部下と同じでアスランの健康を気づかってくれているのだろう。
 健康と、そしてアスランの個人的な幸福について、彼女は考えている。彼女はおそらくアスランが特定の人物と休暇を過ごしたりすることを望んでいるのだ。余暇の過ごし方が下手で、放っておくと仕事ばかりしてしまうアスランに楽しみをわけてくれる誰か。
 十七歳の彼女がしていた役割を。
「三年前はたしかちゃんと休暇をとっていただろ? あのときは誰かと一緒に祝ったり……」
「残念ながらしていません」
 ただの否定以上の意味を込めて言いきった。
 准将として受けているこの電話では選べる言葉は限られている。アスランは役割を演じなくてはならない。ザラ准将も、アスランも、どちらも自分だが、その境目はどこにあるのだろうか。
「三年前のことなど、よく覚えていらっしゃいますね。一軍人のことにも代表は律儀で驚きます」
 言葉に含めていたものに彼女は気づいたのだろうか、少しの沈黙があった。
「……まあ、それは、大事な軍の要人のことだからな」
 電話の向こうの声がゆらぐようにつっかえる。アスランがオーブ軍人となってから、毎年かかってくるこの電話が三年前だけは鳴らなかった。そのことの意味を悟ってからは、誕生日の前後に進んで仕事の予定をいれてきた。
 今の二人にあるのは国防軍の将軍と部下という立場のつながりだけでも、言葉にしない想いはいつも胸に抱いている。きっとお互いに。
 零時二分に電話を鳴らした、彼女の意思に潜んでいる感情を思いながらアスランは端末を握り直した。
「ご心配は無用ですよ。休暇こそ取ってはいませんが、孤独な誕生日を過ごしたりはしていません。今、こうして代表にご一緒して頂いてますから」
「……一緒って、これは電話じゃないか」
 少し声がかすれた。
 弱々しく消える語尾にアスランはほのかな驚きを感じながら聞き入った。軍の会議に将軍として参加する彼女の、白百合のように凛とした姿を先週見たばかりだ。少し低く良く響く声は覇気に満ちていた。
 いま、自分と同じように執務室でひとり電話を手にしている彼女は、どんな表情をしているのか。見えないことが急にもどかしくなった。
「カガリ、ありがとう」
 ひとりごとのような声も電波になって、あっというまに届く。くちびるから漏れたアスランの囁きに、息を飲む音だけが返ってきた。
「俺は、来年の今日もたぶんここで仕事をしていると思うけど」
 通信端末の向こうにいるカガリに微笑みかける。
「この日の残業は楽しみでもあるから、許してほしい」
 名前を呼ばずにいられなかった。
 訂正して詫びるべきだろうかと、少しだけ思ったが実直な軍人としての自分の声は無視することにした。しばらく黙り込んでいたカガリは、やがてぽつりと一言だけぼやいた。
「……じゃあ、また私も居残りしなきゃならないじゃないか」
 不満を言う口調に交じる愉快そうな響きだけで、アスランの胸に温かいものが満ちる。
「申し訳ありません。お忙しいのにお時間を頂いてしまって」
「まったくだぞ」
 顔も合わせていないけれども、これは密会に他ならないだろう。立ち入り禁止のカーテンの向こうに踏み込んだような、自責と背徳の高揚を体の奥に仕舞いながら、アスランは時計を見た。
「お祝いの電話をありがとうございました。代表は明日も公務が控えておられますし、今日はこのあたりで」
「そうだな、では、准将も仕事をしすぎないように」
 部下を労うことを忘れない代表の声だった。今はまだ、代表首長と准将だ。今は、まだ。
 彼女が電話を切るのを待っていたアスランの耳に、ふいに甘い匂いを含んだ風が吹いた気がした。最後に一言だけ言い残して電話はふつりと切れたが、それは懐かしい声色だった。
「誕生日おめでとう、アスラン」




2018年、アスランの誕生日に寄せて

2018/10/29