光学ガラスの瞳
ちょび○つパロ
フライパンをコンロに置いて点火する。
サラダ油を目分量で流し入れてからカガリは冷蔵庫のドアを開けた。
卵をひとつ、ふたつ。手に取ろうとして、ふと疑問が湧いた。
「おまえ、卵って食べられるのか?」
振り向いてたずねた。座卓を前にしてきちんと正座をしていた少年は顔を上げた。
「卵は食べない」
ひとこと、彼は答えた。
「そっか、なら目玉焼きはひとつでいいか」
ひとつだけ卵を取って、カガリは冷蔵庫を閉める。
「じゃあ、パンは? 食パンならあるけど、食べるか?」
フライパンが温まった頃合いで卵を落としながらカガリはまた質問した。
「パンは食べない」
少年はこちらをじっと見つめて答える。
「え、パンも食べないのか。じゃあ白米は? 冷凍したやつあるぞ」
「白米は食べない」
また淡々とした返事が返ってきた。見本のような綺麗な正座を少年は、かれこれ三十分は崩していない。
「ええ! 白米も? じゃあ、どうしよっかな……あ、ハムがあるな、食べるか?」
「ハムは食べない」
間を置かずに返ってきた答えにカガリはつい声を大きくしてしまった。
「おまえ、そんなに好き嫌いあってどうすんだよ。普段、なに食べて生きてるんだ?」
あきれて言ってしまってから、カガリははっとして口を押さえた。
「あ、ごめん、そっか、アレルギーってこともあるもんな」
「アレルギーはない」
また短く答えてから、少年は今度は言葉を続けた。
「普段はなにも食べない。食事はしない。パソコンは人間のように食事をしないのだが、知らなかったのか?」
言葉だけ聞くとどうも喧嘩を売っているような物言いだが、抑揚を押さえた丁寧な話し方だったのでカガリはただ彼が説明しただけなのだとわかったが、わかったからといってカチンとこないはずがなかった。
「知らなかったのか? じゃないだろ。食事をしないのなら卵のことを聞いたときに言ってくれたら早かったのに」
「君がたずねたのは卵を食べるかどうかだったから、俺はそれについて答えただけだ」
少年の口調には詫びる様子もないが、喧嘩がしたいわけでもなさそうだった。ただ事実を述べているだけのアナウンサーのようだ。いや、アナウンサーのほうがまだ彼より温かみがあるかもしれない。
(つまり、これがパソコンなのか……)
少年が人間となにひとつ変わらない外見をしているので、カガリは学部の同級生に話しかけるようなつもりで会話していたのだが、それでは噛み合わなくて当然なのかもしれない。
つい、苛立ってしまったカガリが次には呆れて、さらに今は珍しい機械に感心する気持ちになったというのに、少年は眉も動かさず最初と同じ顔でこちらを見ている。
(人間そっくりじゃないか、と思ったのは訂正だな。人間はこんなにずっと同じ表情を続けたりはしない)
紺色の髪の一本一本に微妙に癖がある様子も、やや色白の肌の若い男性らしい張りも、人間そのものなのに。
彼は人間ではなくパソコンと呼ばれるアンドロイドだった。もともとは政府や企業の情報処理のために開発されたものが、いまでは一般家庭に家電として広く普及している。ただ、家電といってもかなり高価なものなので国内での普及率はまだ三割ほどだった。
「おまえさ、食事はしないって言ったけど、だったらどうやってエネルギーを得てるんだ? まさかコンセントで充電するとか言わないよな」
「そのとおりだが。家庭用のコンセントからの充電は可能だ」
「うそだろ……」
カガリは出来上がった目玉焼きを危うく落とすところだった。
「俺は嘘は言わない。ただ、コンセントからの充電を必要とすることはまれだ。一般的なパソコンはほとんどの場合、外出時に太陽光を浴びることで自家発電している」
「……そうなのか」
カガリは一人分の朝食を座卓に並べながら向かいに座る少年をじっと見た。この彼がまるで機械のようにコンセントにプラグを刺して充電する様子などとても想像できなかった。
「人間にしか見えないもんなあ」
「そういうふうに作られているだけだ」
たしかに容姿は整っている。人間というのはそもそも生き物なのだから、不完全な部分は誰にもある。だが、この少年は完璧だった。
カガリはもぐもぐと口を動かしながらじっくり少年を観察したが、彼にはほくろもなければ小さな吹き出物ひとつ見つけられなかった。エメラルドのような瞳はカガリの無遠慮な視線を澄んだ色のままで受け止めていた。
「すごく綺麗だな、おまえ。わたし、芸能人って本物を見たことないけど、テレビの中に出てくる人みたいだって思うよ」
「……そうか」
「謙遜したりはしないんだ」
「……プログラムにない」
アスランは少し間をおいて返答してきた。
「いまのは答えに迷ったのか」
「迷ったというか、正しくは返答を検索していた。君はパソコンにあまり接したことがないのか?」
「さっきもそれ質問したな」
「所有者の情報を収集しているんだ」
「所有者……って、まさかわたしか?」
「そうだ」
率直な言い方にカガリは思わず身を引いた。
「ちょ、ちょっと待て、私はおまえの所有者になんてなった覚えはないぞ」
「だが、すでにそう設定されている」
「それは……変更できないのか?」
「変更するには初期化するしかないな。ただし、初期化の方法を俺は知らない」
「なんでだよ、知っとけよ。パソコンなんだろ」
カガリは両手で顔をおおった。
「俺を所有することになにか不都合があるのか? 俺を起動させたということは使用する意志があったのだと推察するが。起動させたのは君だろう?」
言いながら少年はカガリへ手を伸ばした。彼の手が彼のひざを離れたのはそれが初めてだった。すらりとした中指がそっとカガリのくちびるに触れる。
体温が瞬間的に上がるのを感じた。
アスランの指はたぶん正確にある一点に触れている。カガリが彼にキスをしたときに触れた場所だ。
少年はカガリのアパートのリビングに突如現れた。現れたというか、倒れていたのだ。死人のように倒れていた。
バイトを終えて帰宅した夜更けの一人暮らしのアパートに、自分以外の人間を発見してよく悲鳴をあげなかったものだと思う。
喉を鳴らして息を飲んで、なんとか大声を出さずにがまんしたカガリは、リビングのカーペットに堂々と倒れている人物をまずは観察した。
死んでいるのだと思った。生きている気配がまるでなかったのだ。いま思い返せば倒れていたのが電源の入っていない機械なので生気を感じられなくて当然だったのだが。
サスペンス映画の場面を思い出しながら、相手に触れないように、けれどもできるだけ近づいてみた。よくよく見分すると死人の襟足に白い人工的な突起物がくっついているのに気付いた。
(これって……パソコンについているやつ?)
大学内でも、街中でもパソコンは人に交じってふつうに行きかっていたが、その見分けは簡単についた。パソコンには首のうしろのところにこぶし大の機械が必ずついているのだ。
おそらくそれは義務かなにかなのだろう。外見をあまりに人間と同じにしてしまうとなにかしらの不都合が出てくるのかもしれないとカガリは想像していた。
「あ、ミーア。遅くにごめんな。ちょっと相談したいことがあって、いま大丈夫か」
カガリは少し迷ってから友人に電話を掛けた。
カガリの部屋に侵入したのか迷い込んだのか、はたまた運び込まれたのか、倒れているのがパソコンだとわかったので少しだけほっとしたが、新たな問題もあった。カガリはパソコンを扱ったことがないのだ。
「おまえ、パソコンに詳しかったよな? あのさ、電源の入れ方ってわかるか」
たずねたいことだけ聞こうとしたが、逆に友人はあれこれと詳しく知りたがって質問を浴びせてきた。
「いや、詳しいことは明日授業の時に話すからさ、とりあえずパソコンの電源の入れ方が知りたいんだ。ちゃんとぜんぶ説明するから」
パソコンならばちゃんと動かして、カガリの部屋にいる理由をたずねて、もしなにかの間違いだったのなら大事に発展する前に解決したいと思った。部屋を間違えただけだという可能性もないとは言えないのだ。
「だから、起動させる方法だけ教えてくれたらいいから。明日ちゃんと話すって」
押し問答をしばらく電話口で繰り返して、折れたのは相手の方だった。しぶしぶ、わかったわ、と言うと電源を入れるパソコンは男か女かとたずねてきた。
「……男だぞ。たぶん私と同じくらいの歳の。って、パソコンには性別はあっても年齢はないのか」
カガリの答えを聞いて、電話の向こうで友人が笑ったような気がした。
『電源を入れるなんて簡単よ。キスするだけでいいんだから』
「おまえ、まさか、昨日の夜、起動した時のこと覚えてるのか」
カガリは正座のまま後ずさりした。カガリのくちびるに触れていた指は支えをなくしたように宙を掻いた。その指先をじっと見ながら少年は言った。
「もちろん、覚えている。システムの起動に時間がかかったから電源が入った直後はなにもできなかったが、周囲で起こったことは把握していた。情報収集のために君の言葉もすべて録音している」
「え? ええ?」
深夜の部屋を十周くらい歩き回りながら迷って、結局カガリは友人の助言どおりに、この少年のかたちをしたパソコンを起動させた。キスをするのが人生で初めてだとか言っても相手は機械なのだと自分に言い聞かせながら。
重さに少し苦労しながら少年を仰向けにして、心の中でえいと掛け声をあげると、くちびるにくちびるを重ねた。
次の瞬間にいきなり少年は目を開いた。モーター音のような起動の音が聞こえて固くつむっていた目を開けたカガリの前に宝石のような瞳があった。
わっと声をあげて撥ねのいたが、次に見たときには少年はまた目を閉じていた。それからはどう声をかけても叩いても揺すっても彼は動かなかった。
ただ、低音でうなり続ける駆動音が彼の内部から聞こえ続けていたので、とりあえず待つことに決めて、カガリは入浴を済ませ、寝転びながら予習しているうちに眠ってしまったのだった。
そうして翌朝に目覚めたときには、もう少年は今と同じ場所に同じように座っていた。
「パソコンって、そんななんでもかんでも記録するものなのか?」
「現在蓄積しているデータは所有者の分析用だ。解析が終われば自動的に破棄される。所有者である君の個人データが不足しているとシステムが要求しているんだ」
「なんだよそれ、やめてほしいな。勝手に情報を記録されるなんてあんまり気分のいいものじゃないぞ」
「しかし、人間も接する事象や人物の情報を自動で記憶するものだろう」
「記録と記憶は違う。おまえ、そんなに記録が得意なのにここに来る前のことなんにも覚えていないのか? 名前しかわからないなんてまるで記憶喪失じゃないか」
「君はそれと同じ趣旨の質問を四十七分前にしている。何度たずねても答えは変わらないぞ」
「丁寧にどうもありがとう」
わざと笑顔で言ってからカガリは立ち上がった。
「名前、アスランって言ったな」
「そうだ」
「アスラン、おまえはこれからどうするんだ?」
「どうというのは……」
「わたしはそろそろ学校に行かなくちゃならない。アスラン、おまえは前の持ち主のところに帰るべきだと思うぞ」
「それは不可能だ。俺はこの場所しか知らない」
「そうは言ってもわたしはおまえの所有者にはなれないよ。ちゃんと買ったわけでもないし、それに、いちいち記録されまくるのがまず性に合わない。もしも、いま出ていくなら無断侵入した件は不問にしてやるぞ」
見下ろしながらカガリはまっすぐアスランというその少年を指差した。指先を突きつけられて、初めて彼は表情を変えた。信じがたいことを言われたように目を見開き小さく眉をゆがめた。
「俺の所有者は君だ。君から離れるなんてことはこの先ありえない。これからどうするか、という質問なら君からの命令や指示がなければここで待機していると答えるが」
このタイミングで表情を動かすなんてずるすぎる。まるで置き去りにされる子犬じゃないか、とカガリの心は揺れた。しかし、パソコンほどの高価なものを軽々しく手に入れるわけにはいかず、彼の言うまま所有者になどされては困るのだ。
毅然とした態度でカガリはアスランに背を向けた。
「じゃあ、好きなだけ待機しててもいいけど、出て行ったって文句は言わないから安心しろよ」
それからカガリが出発の準備を整えるまで、彼は座卓に正座した姿勢を崩さないでこちらをじっと見ていたが、カガリは努めて彼の方を見ないようにした。
「それで? キスはしたの?」
朝のあいさつがこれだった。
ミーアという名前の友人は腕組みして扉にもたれる格好でカガリを待っていた。電源すら入れられないほどパソコンの操作に無知なカガリに、助け舟をよこしてくれたありがたい友人だったが、同時にめんどうな野次馬でもあった。
「したよ。べつにキスくらいどうってことないし」
ミーアの視線から目をそらしながらカガリはそっけなく答えた。からかうつもりなのだろうが、そうはいくかという気持ちで胸を反らした。ところが、友人は吹き出し、体をくねらせて笑いはじめてしまった。
「カガリ、ほんとに何も知らなかったのね!」
長い桃色の髪が揺れる。今日も豊満な体つきを強調するような露出の多い服装をしているミーアが、肩を揺らして笑い転げる様子はカガリから見ても色っぽい。男子が何人も教室内からこちらを気にして目を向けていた。
「そんなに笑うってことは、おまえなにか私に嘘を教えたな……」
「そうなの、ごめんね。キスが起動のスイッチになるってのは嘘なの」
「え!」
カガリは思わずくちびるを押さえた。
「ほんとはパソコンのくちびるに指で触れるだけでよかったのよ。嘘ついてごめんね。だってほんとにすると思わなくって」
謝りながらミーアはまた笑いをこらえきれなくなっていた。
「おまえな……! わたしがパソコンを扱ったことないって知ってたじゃないか! どんな説明でもまるごと信じるに決まってるだろ」
カガリは耳まで赤くしてミーアの二の腕をつかんだ。
「わかった、わかった。笑わせてもらったお礼に今度なにか奢るから、ね」
「お礼じゃなくてお詫びだろ、ばか」
「それで、とうとうカガリもパソコンを買ったのね」
「買ったというか、拾ったというか……勝手にやってきたというか……」
「なにそれ、どういうこと?」
首をかしげるミーアに、カガリは昨夜のできごとやパソコンとのやりとりを詳しく説明した。彼女はところどころ興味深そうにうなずきながら聞いていたが、話が終ると、うーんと唸りながら言った。
「部屋に倒れていたってのがすごく引っかかるけど、単純に家族からの贈り物とかいう可能性はないの?」
「うちにパソコンを買うほどの余裕はないよ。母が私の学費を払うためにかなり自分を犠牲にしているのは知ってるし、家族からっていうことは絶対ないぞ」
数日前に電話した時の母の声を思い出して、カガリは両手を胸の前でぎゅっと握った。
「そっかあ……初期化されてるみたいだから前の持ち主がいたかどうかもわからないのね」
「あ、わたし、その初期化ってのしたいんだけど、ミーアはやり方知ってるか?」
「パソコンを初期化したいの? なんで?」
「私が起動させちゃったから、私を所有者として登録したとか言うんだよ、あいつ。でも、わたしとしてはちゃんと購入したわけでもないパソコンを使うわけにいかないって思って。然るべきところに届けようと」
「いいんじゃない? 持ち主が現れるまで使っちゃえば」
「そういうわけにいかないだろ」
カガリが憤然として言うと、ミーアは肩をすくめて笑った。
「カガリは真面目ねえ。でも、初期化の方法は私にもわからないわよ。家庭用のパソコンってね、起動は誰でもできるように統一した操作にしてあるんだけど、初期化は他人にほいほいされてしまったら大問題でしょ? だから購入者にしかわからないようにしてあるのよ」
「……説明書とかに書いてある?」
「それか起動時にパソコンから直接説明があったりするわ」
「あいつ、知らないって言ってたな……」
「それなら初期化はひとまずあきらめることね」
きっぱりと言われては、カガリはうなだれるしかなかった。自宅にパソコンを数台も所有しているというミーアになら何か解決策をもらえるのではないかとかなり期待していたのだ。
「大丈夫よ。その男の子のパソコンのことが詳しく知りたいならメーカーとか製造番号とか本体を調べたらわかるはずだし。今度、見に行ってあげるから」
「ほんとか?」
カガリは急いで顔をあげた。真っ暗になっていた顔が、ぱっと日が射したように明るくなる。
「パソコンの体には必ずメーカーや型番の記載があるはずよ。今日はパソコン、家に置いてきたの?」
「そうなんだ、留守番させてきちゃった。連れてきたほうがよかったかな」
「いろいろと便利なのは確かよ。パソコンの持ち込みができる授業もけっこうあるし、明日は一緒に来てみたら?」
「そっか……連れだって歩くのはなんだか気恥ずかしいと思ったけど、家にずっと留守番させとくのも可哀想だもんな」
独り言のようにつぶやくカガリを、ミーアは大きな瞳をさらに見開いて見つめていた。
「気恥ずかしい? 可哀想? カガリの感性って不思議ね」
「可哀想って思うのが変ってことか? だってずっと家に一人きりじゃ寂しいだろ」
「それは人間の話でしょう? パソコンに感情はないのよ」
帰りの電車に乗ったときには、もう日が暮れていた。
午後にひとつ授業に出たあとはまっすぐ帰宅するつもりだったので、カガリは少しそわそわしていた。
バイト先から電話が来たときに居留守を使えばよかったのだと、気づいたのは電話にでた後だった。急遽欠員が出たから出勤できないかと、弱りきった様子で頼まれて断り切れなかったのだ。カガリが断れないことを知っているから店長も電話をしてきたのかもしれないが。
(大丈夫かな、あいつ……)
バイト先のカフェでくるくる働いているあいだも、パソコンの少年のことがずっと気がかりだった。朝に会話した通りに彼が待ち続けているならカガリのアパートでもう十時間は待ちぼうけているはずなのだ。
出かける前に彼が見せた寂しそうな顔をまた思い出してしまう。ミーアにそのことも話したらパソコンが感情的に表情を動かすことはありえないから、顔をゆがめたのは別の理由からだろう、と言っていた。
(人間的なほうが好まれる傾向があるから、家庭向けのパソコンは表情が豊かに動くよう作られているとも言ってたけど)
そういう割り切り方はカガリにはまだできなかった。
停車駅をのろのろと出発する電車がもどかしい。窓の外のまぶしい街明かりを眺めながら、彼は今日一日をどう過ごしたのだろうと考えた。
真夜中でもこの街は明るい。日が沈めば月明かりを頼りにして歩くしかないような田舎でカガリはずっと暮らしてきた。
その田舎ではパソコンなんてものはテレビの中にだけ登場する遠い世界のものだった。もしかしたら近所の老人たちはいまもパソコンなんて映画の中の空想だと思っているかもしれない。人間そっくりの有能なアンドロイドはカガリにとっては未来の機械だった。
「ごめん、遅くなった!」
駆け込むように玄関を開けてカガリは真っ先に謝っていた。部屋は真っ暗だった。
「あれ? いないのか……」
「おかえり」
電気をつけるのと同時に返事が帰ってきた。アスランは今朝と同じ場所に同じ姿勢で正座していた。
「おまえ、まさかずっとそうしてたのか」
「指示がなかったので待機していただけだ」
緑色の両目でじっとこちらを見ながら、やはりアスランは姿勢を崩さない。
「……テレビとか見ててくれてもよかったんだけど」
「時事に関する情報収集を能動的に行うようプログラミングされていない。指示があればそのように動くが、テレビの情報が必要か?」
変わらず平坦にしゃべる声をカガリは呆れながら聞いていたが、途中からいっそ愉快になってきた。
「あのなあ、テレビはたしかに情報を得るためにも見るが、たいていは娯楽のために見るものだぞ。おまえはちょっと娯楽に親しんだほうがよさそうだな」
「娯楽?」
彼は眉を寄せていた。初期化されたばかりのパソコンは生まれたてのようなもので、まだ会話も表情も乏しいのだという。
これから得るさまざまな情報を経験として蓄積していくことで受け答えも行動も多彩になる。それを生物的な個性のように感じることもある、とミーアは言っていた。
ならば、この恐ろしく生真面目な機械と一緒に過ごしてみて、彼がどう変化していくのか見てみたい気がしたのだ。
「ところで、君は少し発汗しているな。体温も少々高いようだが」
「なんでそんなことわかるんだよ」
カガリはぎょっとしてシャツの襟を寄せた。
「俺には赤外線センサーがついているからな。視認能力も人間とは比較にならないくらい優れている。いま、君の頬が少し赤くなったのも確認した。もしかすると風邪の症状ではないか」
「その目、どのくらいよく見えてるのか気になってきたな……」
カガリはカバンを置くと彼の向かいに膝をついて長いまつげに縁取られた緑の瞳をじっと見た。
「私が汗かいたりしてるのは駅から走って帰ってきたからだよ。おまえが寂しくしてないか気になって」
「俺が、寂しくしてないか?」
「寂しいとか思わないもんなのか?」
ミーアに言われてもまだカガリは彼をただの家電のようには思えなかった。カガリの質問の答えを検索しているらしい彼は、考え込む人と変わらなく見える。不思議そうに何度もまばたいていた。
「そういう質問が想定されていないようだ。答えがない」
「じゃあおまえ自身はどう思うんだ?」
「俺自身?」
アスランはカガリから目線をはずしてうつむいた。本当に考え込んでいるようだ。沈黙は長かったが、再び顔をあげたときの彼の両目はどこか輝いて見えた。
「じつは君が戻ってきたときに、瞬時に君のいなかった部屋といるときの部屋を比べたんだ。そしたら後者のほうがよいと俺は判断した」
「なんだよそれ、堅苦しいなあ」
言葉の意味は嬉しいものだったが、カガリは半分苦笑いした。
「つまり、君と一緒にいるほうがよい、ということだ」
いきなり、アスランはカガリの手を握ってきた。
「君と一緒にいたい」
他愛ない話の続きだと思っていたのに、真顔で言われてはさすがにどぎまぎするよりなかった。
「わ、わかった。それはよかったな。明日は一緒に学校に行こうと思ってたし……で、この手はなんだ?」
「握手のつもりだが」
「あくしゅ?」
カガリの声が裏返った。続けて笑いが込み上げてくる。
「なんだって、いま握手なんだよ。それにこれは握手とは言わないだろう」
「親愛を表すときに手を握るのが握手だと俺の行動プログラムではそう定義されているが、違うのか?」
「普通はこうだ」
カガリは手をひねって彼の手を握り返した。
「ひとまず、よろしくな、アスラン」
「ああ、こちらこそよろしく、カガリ」
穏やかに見つめあったのもつかの間だった。カガリは違和感にはっとした。
「おまえ、なんで私の名前知ってるんだ。まだ名乗ってなかったと思うんだけど」
「今朝、玄関を出たあとに隣人と会話していただろう? そのときにカガリちゃんと呼ばれているのを聞いてインプットしたんだ」
「今朝……?」
記憶を掘り起こしてみて思い出した。同じ階に住むOLと短い挨拶を交わしたのだ。
「……でもあれは階段の前でしてた会話だぞ、聞こえるはずが」
「視認能力だけでなく、集音能力も人間のものとは比較にならないからな。あのくらいの距離でも君が会話する声は聞き分けるよ」
アスランが少し得意げに見えたのはこちらの気のせいだろうか。カガリはげんなりして息をはいた。
「パソコンの所有者ってみんなこんな目に遭ってるのか? このしつこい情報収集にもそのうち慣れるのかな」
「安心していいぞ。プライバシーに関するセキュリティは完璧だから、他言することは絶対にない」
「あたりまえだ!」
アスランの記録癖ともいえるこの情報集めはもちろん、やむことはなかったのだが。そのうちに、カガリの単なる言葉だけでなく食べ物の好みや、好きなドラマも、苦手な教科の苦手な設問のパターンも、思案するときにくちびるに触れる癖、エスカレーターには必ず右足から乗ることまでも、アスランはすべて記録していった。
それらはたぶん所有者であるカガリのためだけに集められた情報だった。情報を蓄積することでパソコンは徐々に変化していくのだと、ミーアが話した通りにやがてなっていった。そうして、ほんとうに変わったのはアスランだったのか、それともカガリだったのか。
のちに答えを求めてもがく自分を、カガリはまだ知らない。