ブーゲンビリアのある庭

運命後



 車窓の外はまぶしい晴天だった。
 空の鮮やかな青と白い雲のくっきりとしたコントラストがどこまでも続いている。その下に広がる宝石のような海の瑠璃色、みずみずしい草木の緑、カラフルな花々。南国の風景は色彩豊かだ。
 それらの風景を見流しながら、アスランはハンドルを切っていた。
 助手席のカガリはいまは黙って窓の外を眺めている。ちらりとうかがい見たかぎりでは眠ってはいないようだった。
 車に乗りこんでからのカガリはとてもおしゃべりだった。日常のちょっとした出来事や身の回りで起きた笑い話などをずっと話していた。時折ころころと笑い声をあげて話をするカガリの声を聞いているだけで十分に楽しかったので、アスランはただ聞き役に徹していた。
 いまはエンジンの低くうなる音だけの静かな車内となっていたが、カガリと二人きりでいる空間は心地よかった。彼女のにぎやかなおしゃべりは心を弾ませてくれるし、いまの沈黙はゆったりと落ち着くものだった。
「どこかで少し休憩するか?」
 無言を続けるカガリが疲れているのかもしれないと思い声をかけたら、彼女は外を見たままで首を振った。
「ううん、このままがいい」
「そうか? 考えてみたらアスハ邸を出発してから軽く一時間は経っているが」
「アスランこそ疲れてないのか? ずっと運転してるし」
 ふとカガリがアスランを振り返り気遣わしげな表情をした。
「俺は心配ないよ、このくらいの運転はなんでもない」
「そっか、ならよかった。どう言ったらいいのかな、私、なんだか居心地がよくてぼんやりしちゃってたんだ」
 カガリはひざの上の手を組み直しながら言った。
「あったかいお湯に浸ってるような気分で……アスランとこうしていると、のんびりできるような楽しいような、不思議に落ち着くんだ」
 お互いに似たことを同時に考えていたのだと知って、アスランはあいづちを飲み込んだ。
「こうして二人で出かけるの、何年ぶりってくらいなのに、不思議だよな」
 しみじみとした口調だった。
「ラクスともちょっと前にプライベートで会う機会を持てたんだけど、それも五年ぶりくらいだったかな? でも過ぎた時間なんて少しも感じなかった」
「オーブ国内も国際情勢もだいぶ落ち着いてきたから、これからはそういう機会ももっとたくさん作れるよ、きっと」
「アスランともまたたくさん出掛けられるな」
「プライベートで行きたいところがあるのなら、運転手くらいにはなれるつもりだが」
「運転の得意な友達がいるとありがたいな。おまけにアスランの道案内は正確だしな」
 弾む声で言って、カガリはアスランの肩を気安く叩いた。
「……そうだな」
 応えながら助手席を見るとカガリは鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌に見えた。
 この二人きりの遠出を心底楽しんでいるのだとわかる。
「ところで、カガリはどうしてまた突然二人で出かけようなんて言い出したんだ?」
「突然? 突然だったかな? 私はけっこう前から旅行したいって思ってたぞ。時間がとれたのが今になったというだけだ」
「俺と旅行なんかして楽しいのか?」
 自虐的な発言をするつもりはなく、正直な疑問だった。自分が人を楽しませる会話のスキルや旅先のプランを作る能力などを持ち合わせていない自覚があった。
 それをカガリは明るく笑い飛ばして言った。
「そんなの、楽しいに決まってるだろ」
 こういうときに、カガリは自分とはなにもかも対照的なのだとアスランは思うのだった。笑顔でいると彼女の周囲までも明るく見える。素直で屈託のない性格は政治家向きとはあまり言えないのかもしれないが、その純粋さが持つ光に強く惹かれる者は多い。カガリが日々対面する国内外の要人からも好意を寄せられることが少なくないだろうと簡単に想像できる。
(だから、これまでカガリについての小さなスキャンダルすら皆無なのが不自然だと言われたりするんだ)
 先日、ゴシップ誌に代表の身辺が清廉潔白すぎるのではないかと、政府による情報の握りつぶしを仄めかす記事があったことが話題になったばかりだ。
 そんな根も葉もない記事が書かれるほど、カガリには色めいた噂がない。それは、カガリ自身が恋愛問題に無関心なのがその一因なのではないかと、アスランはひとつの結論を出していた。友達という位置づけでアスランを二人きりの外出に誘うあたりがその証拠だった。
 アスランとカガリが恋人として過ごした時期は「過去の思い出」として懐かしむことができるほど昔の出来事ではないのだ。少なくともアスランにとっては、まだ温もりの残る記憶だった。先の大戦の終わりに、お互いの役割を果たす場所は違っても、同じ夢を持っていようと、未来で再び彼女の手をとるつもりでそばを離れた。恋人として別れよう、などとはひとことも言っていない。ただ、ふつうの恋人たちがするような頻繁な連絡や、週末のデートなどよりもずっと優先すべき責務がお互いにあった。だから、一般の視点からは恋愛関係にあるとは見られなかったとしても、アスランとしては以前と何も違わないつもりだった。
 アスラン自身の気持ちが変わっていないのだから。
(……だが、カガリはちがっていたんだろうか)
 アスランを朗らかに友達と呼んだカガリの指に、以前送った指輪は今日もない。


 走り続けた車を止めたのは、海岸のそばにあった小さなレストランだった。
 海の青によく映える真っ白な外壁と赤い屋根をしている個人宅のようなたたずまいで、色とりどりの花が咲く庭もあった。街道沿いにぽつりとあり目立つ建物ではあったが、客は少なくひっそりとしていた。通り過ぎようとしたとき、カガリが「そこに入ろう」といきなり声をあげたので、アスランは少々無理な右折をすることになったのだった。
いかにも行き当たりばったりで決めた昼食だったが、店の料理は意外に上質だった。テラス席で庭越しに海岸を眺めながら食事をするなど、見本的なデートそのものだとアスランは内心で笑った。カガリにデートをしている意識はない様子なのに、彼女をいま独り占めしているのはアスランなのだ。
(穏やかで温かい、ぬるま湯のような関係か)
 彼女と共に過ごす時間の心地良さは、人と交わることが得意ではないアスランには貴重な財産と言える。だが、それだけではすまなかった十年前の恋人のことを会話の間に何度も思い出していた。
「すごいな、ブーゲンビリアのアーチだ」
 食後に店の庭を散策していると、カガリが感心した声で言った。
「ブーゲンビリア、名前だけは聞いたことがあるな。この花がそうなのか」
 鮮やかな赤の花がたっぷりと咲きこぼれていた。金属製のアーチに蔓が奔放に絡まり、ちょうど花の門になっている。
「カガリは花に詳しいな、前にも名前を教えられたことがあった」
「好きな花の名前を知ってる程度だよ」
 話しながらカガリは誘われるように赤い花に近づき、蔓のひとつをそっと指に絡めた。
「ブーゲンビリアは昔から好きなんだ」
「地球に咲く花は力強いかんじがするな、生き生きとしている」
 意思を感じるほど強い赤色をした花から、カガリの横顔に目を移した。カガリのくちびるにも今日は赤い色が重ねてある。
 ふいにその顔が跳ねるようにアスランを見た。
「アスラン、ちょっと浜辺に行ってみないか?」
 ブーゲンビリアのアーチのすぐ向こうには海岸が広がっていた。
 じつは日帰りの小旅行に行こうとカガリが誘ってきたのはつい昨日のことだった。しかも、アスランは午前中にアスハ邸まで迎えに来るように指示されただけで、こちらが質問をする前にカガリはさっさと電話を切ってしまった。ここまで行き先も日程も知らずにきたアスランだったが、どうやらカガリ自身も無計画なのだとようやく理解した。

「しめたぞ、アスラン。だれもいない」
 海岸に下りると、あたりをぐるりと見渡してカガリははしゃいだ声で言った。
 小さな入り江だった。どうやら遊泳の禁止されている海岸のようで、アスランとカガリの他に人の姿は見当たらなかった。
「これなら、裸足になって遊んでもいいよな?」
 言うなり、カガリはサンダルを脱ぎ捨て、パンツの裾をひざまで捲り上げた。アスランが止める間もなく海に駆けていった。白い足が波を蹴り、きらきらとしずくを飛ばす。
「最初から海に来るつもりだったのか?」
 砂浜を踏みしめアスランも波打ち際に近づいた。
「水に濡れるという可能性は考えてなかったから俺はタオルすら持ってきてないぞ」
「いいよ、ハンカチがあるし」
「転ばないようにな」
「大丈夫、子供じゃないんだし」
 ほら、と言ってカガリはアスランの方へしぶきを飛ばしてきた。反射的によけるアスランを見ていたずらっぽい笑い声をあげる。
「海で遊んでそんなに喜ぶのは子供くらいだと思うんだが」
「楽しいことに大人も子供もないだろ」
 冷たくて気持ちいいな、とカガリは水をすくっては弄ぶようにこぼしていた。陽の光がまぶしく反射する海を眺めながら、アスランは記憶のなかに仕舞ってあった十年近く前の光景に重ねていた。
 あの頃の自分はたしかに子供だった。初めての恋人に時折我を忘れて夢中になった。駆け引きができるような器用さのない少年だったから、いつも想いを率直に伝えることしかできなかったが、カガリはいつもそれを笑顔で受け入れてくれていたのだ。今の二人はなにか変わったのだろうか。
 それなりの年月が経っているのだ。身体的な変化は当然ある。十六歳のアスランに残っていた幼さの名残は今はもうなく、大人として完成されたという実感がある。渚ではしゃいだり天真爛漫にふるまうカガリは、知り合った頃と本質的には変わらないように思えるが、アスランが肉体的に大人びたようにカガリもまた少女ではなくなっているのだ。ミントグリーンのシャツのなかで動く身体のまろやかな線と豊かさを感じる重みをアスランは意識せずにはいられなかった。
「海なんてずいぶん久しぶりに来たな」
 カガリに注いでいた視線を水平線に向ける。
 島国であるオーブでは海水浴はもっとも盛んなレジャーのひとつだったが、アスランにとって海は必要がないかぎり足の向かない場所だった。そもそもレジャー自体が縁遠いものだ。
「私もたぶん十年ぶりだな。前に海水浴をしたのはアスランとキラとラクスと四人で遊んだときだから」
「よく覚えてるよ」
「あの日はとにかくたくさん泳いだなあ、みんな子供だったし疲れ知らずだった」
「今から泳いでもいいんだぞ」
「まさか、水着はさすがにないよ」
「水着でなくても俺はかまわないが」
 言って、波の中に立つカガリに近づくと彼女は笑顔をやめてこちらを見た。
「アスランがそういう冗談を言うなんて、意外だな」
「それはそうだ、本気で言っているからな」
 アスランは揺れる金色の瞳を見つめながら、更にカガリへ距離をつめた。
「なにを……」
 後ずさろうとしたカガリの足がゆるい砂浜にとられてよろけた。体勢を立て直そうとした彼女の腕をそれより先につかんで止める。
「あ、ありがとう」
 つかんだ二の腕はやわらかいが、その腕から彼女が驚いて身をこわばらせているのがわかった。
「えっと、放してくれて大丈夫だから」
「このまま放すとバランスを崩して海へ倒れるぞ?」
 中途半端に止められた姿勢のカガリはアスランに支えをゆだねてしまっていた。
「それともいっそ服を濡らしてしまおうか」
 自分の表情が微笑んでいるのを自覚しながらアスランは言った。
「おまえ……」
 カガリが浅く息を吸い込む。
「カガリも明日が公休だというのをじつは知っているんだ。つまり服が濡れたなら近くのホテルに泊まれば問題ない」
 カガリの表情がゆらぐのを見届けて、腕をつかんだほうの手を引き寄せた。腰を支えて起こしてやれば、あとはカガリが自分で姿勢を元に戻すだけだった。
「なんて、いまのは冗談だ」
 透き通るように淡い色のまつげを見下ろす近さで囁いた。
「アスラン、なんだか少し変わったな」
「そうかな? 俺はなにも変わらないよ」
「うそだ……」
 カガリは目を伏せたままで言う。
「うそならカガリもついているんじゃないか? もう一度聞きたいんだが、今日はどういうつもりで誘ったんだ」
 アスランが明日も休日であることをカガリは知っているはずだ。答えずに黙るカガリの髪に触れる。金髪に指を通すと溢れるように十代の頃の記憶と感覚がよみがえってくる。このまま指を絡めて身動きをとれなくしてしまいたくなる。
 さっき見たブーゲンビリアのつるのように。
 彼女の未来が鳥のように自由であることを常に望んでいるのに真逆の連想をしている。アーチをがんじがらめにして絡まっていた花のつるには小さなとげがあった。
「そういう、ずるい聞き方をするなよな」
「ずるいのはカガリのほうだ。俺のことを友達だなんて呼んでおいて、そんな顔を見せるなんて」
 車の中やレストランで見せていた同性に向けるような親しみの顔は本意を上塗りするためのものだったのか。いま、目前でうつむくカガリはまるで別人に見えるほど、色気が香りたつようだった。
「もう、わたしたちは大人になってしまったから……」
「大人だからこそ上手くやれることもある」
 カガリとアスランとの間には半歩の距離がある。今日これを踏み越えてしまえば、二人には隠さなければならないことがいくつもできる。お互いに公的な立場があるのだから。それをわかっていながら壁を崩すことができるような若さと無謀さはいまの二人にはなかった。
 けれども障壁を壊さずとも隙間からすり抜けるような、ずるいやり方を知っているくらいには大人になっている。
「正直、どうすればいいのかわからないんだ……」
 ようやく顔を上げたカガリの瞳が色づいて見えた。
「……そんな顔をされたら選択肢はひとつしかなくなるじゃないか」
 変わってしまったものと変わらないもの。アスランのくちづけに懸命に応えていたカガリはいまも彼女のなかにいるのだろうか。
 花びらのように赤いくちびるを、アスランは指先でなぞった。





2018/04/13