酔ったふりをするから
運命後
夜に溶けていきそうなピアノの音色が流れている。
それを片方の耳で聞きながら、彼の話を聞いていた。手元に視線を落として、彼はゆっくり話を続けている。グラスの氷を揺らすしなやかな手つき、指先、爪のかたち。仄明るい照明を受けて睫毛の影が頬に落ちている。
「前回プラントに出向したときの話はしたよな。じつはそのとき、シンに言われたんだが……」
カガリは隣に座る男の横顔を、瞬きせずに見つめていた。他愛ない日常の話をする彼の容貌は非日常的に美しいと思えた。いつもはあまり考えないことだが、やはり人種が違うのだなあと実感する。
「どうかしたのか?」
あまりにまじまじと見つめてくるので、何ごとかと思ったのだろう。彼は不思議そうな目でこちらを見た。
「いや、なんでも」
そっけなく答えながら、カガリは瞬きをした。そうして改めて相手の両目を見る。
「アスランの目って緑色なんだよな」
「ん? ああ、そうだが。もしかして今それに気づいたのか?」
アスランはちょっと不満げに眉を寄せていた。
「まさか、最初に会ったときから知ってたよ」
笑い飛ばす調子でカガリは言った。
「ただ、改めて綺麗な色だな、と思ったんだ」
エメラルドも、トルマリンも、ペリドットも身につけたことはあるが、そのどれよりも綺麗に思うと、それは言わずに唇を閉じたが。緑色を纏うたびに思ってきたことだった。
「それは……ありがとうと言うべきなのかな」
戸惑いながら、アスランはその翠眼を細めた。そうして、考えるように沈黙してから切り出した。
「もしかして、今日、俺を呼び出したのは何か考えごとでもあったからなのか? いつもと様子が違うように思うが」
手にしていたグラスに口をつけてから、今度は彼がこちらの目を覗きこんできた。
「そうか? いつもと同じつもりだけど」
「いつもは、俺の話を上の空で聞いたりしないよ。何でもない話でもカガリはちゃんと聞いてくれるだろう」
カガリは心の中で小さく唸った。隠していたつもりのことを容易く暴かれている。敵わないな、と思いながらのんびり飲んでいたカクテルを水のように喉に流した。
「もうひとつ、同じものを」
顔馴染みのバーテンは無表情でひとつうなずいた。
「そんな勢いで飲んで大丈夫か?」
「いいんだよ、今日は」
カガリにとっての飲酒は会話を楽しくするスパイスであって、酔いが回って困るような飲み方はしない。だけど、今日はたぶん、違う。会話を楽しもうと思って彼を呼び出したのではないのだから。
いつもの店のいつものカウンター、その一番奥の席。柱の陰になった場所。アスランとカガリが職務の後に時々二人で待ち合わせするのは、決まってこの席だった。カガリが気の向くまま、ふいに来店するので、店主が最奥の二席を永久指定席としてくれているらしい。
積もり積もった愚痴が溜まったとき、嬉しくて話したくてたまらないことがあったとき、何となく会話をしたくなったとき、カガリはアスランをここへ呼び出すのだ。その逆にアスランがカガリを誘い出すこともある。唐突に呼んでも、都合のつくときはお互いに付き合うことにしている、彼は誰より気のおけない友人だ。いまのカガリにとっては。
「何か嫌なことでもあったのか?」
柔らかな声でアスランが囁く。
「ううん、むしろ逆かな……」
髪をくしゃりとかきあげながら、カガリは呟いた。
一般的には喜んでいい出来事だったはずなのにな、と皮肉げに笑いながら今日の午後のことを思い出していた。
その場面を見ていた秘書官たちは『美男美女が頬を寄せあって、なんだか映画みたいでした』などと騒いでいたし、若い女子たちは感性が豊かだなぁと感心しながら、カガリもそれなりに楽しんでいた。相手はスカンジナビア王国の王子だったし、夕方の報道番組でもまるでプライベートな逢瀬か何かのように報じていた。
実際は王子のほかに数人の官僚も同行しており、オーブの国営企業を視察しただけなのだが。つまりはただの公務だ。精密機器の仕上がりを並んで眺めたときは確かに二人の距離は近かった。間近で目があったのはその瞬間だ。彼の瞳が緑色だと、カガリはそのとき初めて気づいた。
スカンジナビアはオーブとの国交が最も盛んな国のひとつだ。同国の王子とも当然会う機会は多かった。年齢も近いこともあり、レセプションなどでも一番よく会話する相手だった。そういう場面での会話もビジネスのうちとして臨むカガリに対して、彼がカガリへの個人的な好意をにじませることはこれまでにもあった。好意を持たれているというのは都合の良いことだ。そういう感情も交渉に有効に使えるだろうか、などとカガリは捉えていたのだが。
そういう自分の頬を思いきりぶたれたような気持ちになった。距離が近づいたその隙に、お慕いしていますと囁かれたとき。純粋な慕情をたたえた瞳、小さな火が灯ったような緑色の瞳を見たときに。
それが今日の昼間の出来事だ。
「次はちょっと甘めのを飲もうかな」
空色のカクテルをさっさと飲み干してから、カガリは手をあげてバーテンを呼んだ。
「大丈夫か、カガリ」
「平気、平気、明日の午前は休みにしてあるし」
ひらひらと手のひらを振る。
体の内側がずいぶん熱い。喉が乾いてしかたがないような飲み方でアルコールを入れているのだから当然かもしれない。
「今日はね、無性に会いたくてたまらなくなったんだ、アスランに」
ため息をまぜながら白状した。
「……今までは会いたくて会ってたわけじゃないってことか」
「『会いたい』と『会話がしたい』は別物だと私は思ってる」
「なんとなくわかるが」
「ただ、会いたかったんだ」
注文通りの甘い酒を、またするすると飲んでしまう。酔いが連れてくる心地よい浮遊感がカガリの自制心をほどいていく。
「カガリは俺のことを友人のひとりだと思ってるんだよな」
「友人だよ、数少ない本音を漏らせる相手だ。私にはそんな友人、何人もいない」
彼が大切な人であるのは、ずっと変わらない。ただ、抱く情が変わったのだと。そう思っていた。そう思っていたのに。
「だから、こうして会って会話して愚痴を聞いてくれたりしてくれて、いつもありがとうな」
アスランが口を開こうとした瞬間に差し込むように言った。なにごとかを話そうとしていたらしいアスランは無言になった後に、諦めたように息を吐いた。
「今の会話がそこに着地するのか?」
「だって、そろそろお開きの時間だろ」
左腕の時計を掲げつつ、カガリは笑った。
「たしかに、けっこういい時間になってたな。じゃあ、車を呼ぼうか」
「うん、お願い。やっぱりだけど、けっこう酔ってるみたいだ」
くにゃりとカウンターにもたれると、アスランの携帯端末を操作する手が止まった。
「やっぱりか。なんだか舌足らずな感じになってきたな、とは思ってたんだ」
「なんだかふわふわするな、気持ちいい」
「気分がいいくらいで済めばいいが、立てそうか?」
「んん、どうだろ」
ちゃんと歩ける自信はあったが、カガリは気分に任せて曖昧に答えた。
酔ってはいる。でも、歩けないほどでも、思考が混濁するほどでもない。けれども、甘いアルコールが頑なな普段の自分をとろかしている。そんな自分を甘やかしたい気持ちに勝てない。
「手を貸そうか」
ほら、と右手を差し出す様子がなんだか貴公子みたいだった。今夜、何度となく眺めた右手。
無性にアスランに触れたくなったのだ。
昼間、あの若者の緑の瞳とはちあったときに、これじゃない、と全身で感じた瞬間に。会いたくてたまらなくなってしまった。どうして今まで平気でいられたのか、もうわからない。胸の奥にしまっていた小箱の蓋が弾けるように開いたのを感じた。
たぶん、ずっと言い訳を探しているのだ。
彼に触れる口実、彼の肩に寄りかかっても許される状況、理性を持ち出してきそうな自分を黙らせる方法を。
「もうじき車が来るから、まっすぐアスハ邸に向かわせるよ」
地階に向かうエレベーターの中で二人は握手の形で手を繋いでいた。
「……アスランは?」
「君を送り届けてから宿舎に足を伸ばしてもらうから大丈夫だ」
「そうか……」
華奢なヒールの靴がよろけないようにと繋がれている手の指を、カガリは黙って滑らせ指と指の隙間をなくすように繋ぎ直した。
アスランの目がちらりとこちらを見たが、彼は何も言わなかった。
長年、酒興を共にしてきたアスランはカガリがどのくらい飲んだらどのくらい酔うのか、よく知っているはずだ。胸に額を寄せてきたカガリが酩酊してもたれてきたわけではないとおそらくは知っている。知りながら、介抱が必要な相手のようにカガリを扱う。
家まで送るふりをしている。
車の中で眠ってしまったら、ベッドまで肩を貸してくれるだろうか。
エレベーターのドアが開くまで、カガリは黙ってアスランの鼓動を聞いていた。