彼のすべて

現パロ



耳に懐かしい音楽が聞こえた気がして、アスランはふと手を止めた。
キーボードを叩く音がやむと、たしかに音楽が鳴っているのがわかる。ノートパソコンの駆動音の向こうにかすかに聞こえる音があった。
立ち上がって窓を開けるとゆるい風が吹き込んできて、アスランの髪を揺らした。
(意外に涼しいな)
夏が終わりに近づいているのを、風の温度で知った。
日中の肌を焦がすような強烈な陽射しは相変わらずに思えても、日暮れにさしかかると真夏とは空気に残る熱気が違った。エアコンの作る冷気とは違う爽やかさを頬に感じながら、アスランは耳を澄ませた。
気になった音楽の正体は、遠くのスピーカーから流れる時刻を知らせるチャイムだった。部屋の時計を確認しなくても夕方五時なのだとわかる。
子供達に帰宅をうながすためのメロディだ。
アスランも高校を卒業してこの街を出るまで、ほとんど毎日聞いていたのだ。
(高校の頃ということは……十年は昔のことなのか)
年数を数えると、ずいぶんと過去のことに思えたが、連想して思い出した高等学校の校舎の様子や制服のデザイン、当時の友人たちの顔も不思議と鮮明に思い出せた。
同時に、必然のように脳裏にひらめいた少女の姿——
まぶしい夏の花のような笑顔、アスランを呼ぶ明るい声、柔らかな手のぬくもりまでも。
まるで、ついさっきまでそばにいたのだと錯覚するほど鮮やかな思い出に、アスランは息がつまった。
(帰ってきたら、どうしても思い出してしまうだろうと思ったが。これほどはっきりとまだ記憶があるのか)
自分が努めて思い出さないようにしていたことをアスランは悟った。
時間が積み重なれば古い記憶は埋もれて、もう浮かんではこなくなるだろうと思っていたのだ。
それなのに、風化もせずに瑞々しいままで、少女はまぶたの裏に現れてアスランの胸を再び締めつけている。
「アスラン。お夕飯はどうしようかしら?」
階下からの母の呼び声で、アスランは我にかえった。記憶をまた胸の奥にしまうつもりで窓を閉める。
階段を降りると、アスランの姿を見た母は嬉しそうに微笑んだ。
「なんだか、あなたが高校生だった頃に戻ったみたいね。夕食に声をかけたら階段を降りてきてくれるなんてあの頃は毎日のことだったけれど。こういうの、いつぶりかしら?」
「すみません、母上。ずいぶん留守にしてしまって」
「謝ることではないのよ、あなたがとても忙しいのは十分承知していることですもの」
大学に進学してから、今の年齢になるまで一度も実家に帰らなかったことへの恨み言はいくつでも聞く覚悟でいたが、母の言葉はむしろ誇らしげだった。
「ねえ、アスラン。今回、帰ることにしたのは、やっぱりお父様にお話があるからなの?」
「話……ですか?」
「パトリックも昨夜からそわそわしていらしたのよ。アスランがザラ総合病院を継ぐ決心をしてくれたようだって」
「いえ、そうではないんです……俺はまだ父上のもとで勤務医になるのは自分には早いと思っているので、まだ数年はうちの大学病院で学ぶつもりです」
「そうなの……?」
母は目に見えて気落ちした。
今回の久々の帰省はふいに三日以上の連休が手に入り、なんとなくで決めただけなのだ。
母を不必要に喜ばせ落胆させてしまったことをアスランは申し訳なく思った。
旅行を計画するほどの行きたい場所もないアスランには遠出するとしたら実家くらいしか思いつかなかったのだ。
しかし、今年はアスランにとっては、後期研修を終えて晴れて研修医を卒業する年でもある。
母としては人生の節目にいる息子が勤務医として地元に戻る選択をしたのではないかと、想像し浮き足たつ気持ちだったのだろう。
「母上、そういえばさっき夕食のことを話してましたよね」
これ以上の親不孝をするわけにはいかないと、アスランは明るい声で話題を変えた。
「夕食の支度、俺も手伝いますよ。独り暮らしの成果もあります。少しですが料理はできるようになりましたから」
アスランがキッチンに入ろうとすると、母はぱっと顔をあげた。
「あ、違うのよ、アスラン。今日はお夕飯は作らないつもりでいたの」
「え? そうなんですか」
「だって今日は花火大会じゃない。私はお父様とふたりで花火鑑賞に出かけようと思っていたの。あなたもキラくんからお誘いを受けてるんでしょう?」
「キラから……誘い、ですか?」
「さっきキラくんからお電話があったわよ。六時前にはアスランを迎えに行きますねって。あなたたち二人、あらかじめ約束をしていたのね。相変わらず仲良しで私も嬉しいわ」
キラはたしかに幼稚園から高校までの間、アスランがもっとも親しくしていた友人だった。しかし、高校を卒業してからお互いに一度も連絡をとっていないのだ。
あらかじめの約束などあるはずもなかった。


「アスラン、すごいね、なんだかぜんぜん変わってない」
呼鈴に応じて玄関を開けたとたんに弾んだ声を浴びせられた。
「十年ぶりなんだぞ。ふつうは挨拶が先じゃないのか」
アスランはため息をつきながら言ったが、相手は愉快そうに笑った。
「いまさら挨拶なんか必要ないでしょ? 十年会わなくても十日ぶりでも、僕らは変わらないよ」
「まあたしかに、キラも十代の頃と見た目はそんなに違わないように思えるな」
アスランは一歩下がって幼なじみの姿を眺めた。
柔和な笑顔も好奇心をひそませた瞳の輝きも、記憶の中の彼にそのまま重なる。 しかし、力強さのある骨格や、流れた年月の浮かぶ肌の質感は、やはり年相応のものだと思わせた。 十八歳のキラはごくたまに女性に間違われることもあるくらいに華奢だったのだ。
「しかし、キラの場合はどうやら中身も十代のままらしいな」
「若々しいんだよ、僕は。カガリにもよく、キラはぜんぜん老けないな、て言われるし」
「カガリに……?」
カガリ、その名前をアスランは頭のなかでもう一度つぶやいた。
名前を思い浮かべることすらも、高校を出てからはしてこなかったことに気がついた。
「カガリも昔とあんまり変わらないからさ、お互い様だとは思うんだけどね」
「彼女には、よく会っているのか?」
彼女、カガリはキラの双子の妹だ。
たずねながらアスランは、キラに会うということは、すなわちカガリへ繋がる糸に触れることだったのだと考えた。
それがわかっていたから、キラが家を訪ねてくると連絡を寄越したことに心が騒がないわけがなかった。
「ううん、最近は年に数回会いに行くくらいかな。僕が帰国してしまったし、今はカガリのほうが忙しくてね。なかなか会えないから寂しいよ。たった一人のきょうだいなのに」
「帰国……ということは」
「ほんとうは、ずっとカガリと同じ国に住んでいたかったんだけどね。さすがにそろそろ本社に戻れって会社から怒られちゃったからさ。僕だけ数年前に帰国したんだ」
そこで、アスランの動揺に気づいたのだろう。キラが急に顔をのぞきこんできた。
「あれ? アスランは知らなかったっけ? カガリが国内の大学にはいかなかったの」
「国内の大学を受験する気がないという話は直接本人から聞いてはいた。でも、その後の様子はまったく知らなかったから」
「うそ! そうなの? 僕はてっきりカガリとアスランは頻繁に連絡しあってるんだとばかり思ってたよ」
「まさか。彼女とだけでなく、大学が始まってからは高校の友人とはほとんど連絡をとっていないんだ、俺は」
高校の卒業式の後も友人とメールのやりとりをしていた時期はあった。 しかし、大学生活に忙殺されて連絡を後回しにしてしまっているうちに、友人たちはアスランとコンタクトをとるのを諦めたようだった。
「そうだったんだ……。それは、なんていうか意外だな。カガリとは向こうで会うときはいつもアスランの話をしてたからさ」
「俺の話を?」
「昔ばなしばっかりね」
キラはふっと目を細めた。
「話すことは尽きないよ。なんてったって僕たち三歳から幼なじみやってたんだから。幼稚園のときの笑い話をカガリがよく聞きたがるんだよ。高校のときの旅行の話も……ほら、夏休みによく三人で電車に乗ってあちこち行ったよね」
キラとは幼稚園からの付き合いだったが、その妹のカガリに出会ったのは高校の入学式が初めてだった。
家庭内の事情だという話だったが、幼い頃のキラとカガリは別居していたのだ。
さらに、カガリは中学校まで全寮制の女子校に通っていたので、アスランはキラに妹がいるということも彼女に出会う直前まで知らなかった。
そのカガリが、どうしても高校は兄と同じ学校に通いたいと両親に談判したことで、アスランの高校生活はおそらく運命的に変わった。
今も、すべらかに思い出すことができた。
入学式でキラから妹だと紹介された少女の姿を。
きょうだいと同じ学校へ入学することへの嬉しさから桜色に上気した頬。紹介に応えてアスランへ向けた笑顔は親しみが込められていた。
春の陽射しのもとできらきらと輝く彼女の瞳からアスランは目が離せなくなった。
「カガリだ。よろしくな、アスラン」
颯爽と右手を差し出されてどぎまぎしたのも覚えている。
一目惚れをしたのだと、自覚をしたのはずいぶんと後のことだったが。
「キラからアスランの話をたくさん聞いていたんだ。なんだか初めて会った気がしないな」
握手をした手を上下に振りながら、カガリはアスランの顔をまじまじと見つめた。その視線を受け止めきれず目をそらしてしまいたくなるが、それもできないアスランは蜂蜜色の瞳を見返した。
「双子と聞いたけれども」
「うん! 正真正銘の双子だぞ。キラと私、よく似てるだろ」
似ているとはとても思えなかった。
いつもゆったりと構えて穏やかなキラに対して、カガリは元気な子猫のようだった。生き生きとしたエネルギーを全身から感じる。
だから、輝いて見えるのだろうか。
「高校に無事に入れたら、キラとアスランと三人で友達になりたいとずっと思っていたんだ」
たくさん楽しもうな、と言ってカガリはまたぱっと笑顔になる。
カガリのその言葉通りの三年間の高校生活だった。
取り出した思い出はどれもただ輝いている。
十年以上も開けずにしまい込んでいた記憶の箱の中で鮮やかな色を保ち続けていたのだ。


放課後のほとんどの時間を決まって三人で過ごし、長期休暇のときは遠出もよくした。
初めはカガリと接するときに構えるところのあったアスランも、春がふたたび廻ってくる頃には、双子と過ごす時間が一番の楽しみになっていた。
いつもいつも三人で一緒にいるので、団子のようだと友人にからかわれたほどだった。
カガリの交友関係は広く、出身中学校ごとになんとなくグループを作っている級友たちの垣根などないもののように誰とでも仲良くなっていた。
けれども、カガリが自分に特別な信頼と親愛を寄せてくれている自覚がアスランにはあった。
うぬぼれではないはずだ。
カガリは誰のことよりキラとアスランのことをいつも優先していたのだから。
それで十分だと思っていたのが無欲すぎたのかと、後悔したのは三年の春だったから、けっこうな呑気だったのだ。


「アスランは大学はどこにいくか、だいたい決めたのか」
模試の結果を眺めていたときに後ろから声をかけられた。
三年生に進級し、立て続けに模試を受ける段階になり何人もの友人に同じ質問をされたが、カガリにたずねられたのはそれがはじめてだった。
「父の姿にずっと憧れていたから、医大か医学部に進むことは決めているよ。たぶん都内にある大学にすると思う」
「そっか……じゃあこの街を出ていくのは決まってるのか」
カガリはアスランから目をそらし、窓の外を眺めた。
考え込んでいる様子の横顔を見上げながら、アスランはふいに思い知った。
カガリと、ほとんど毎日一緒に過ごせているいまの日常は期間限定のものなのだ。
住む場所も通う学校も遠く離れてしまったら、いくら仲の良い友人でも繋がりは薄れていくだろう。
ただの友人ならば。
「カガリは進学先は固まってきたのか? 大学もキラと同じところを希望していたり」
「まさか! キラと一緒にいられたらいいに決まってるけどこればっかりはそういう基準で決められないな」
たしかにそうだと笑ったが、アスランは少しだけ期待を持っていた。キラの第一希望はアスランの大学と同じ都内にある学校だったからだ。
「たったひとりの兄弟だし、できれば一緒にいたい、離れたくないよ。いま毎日がすごく楽しいからよけいに」
アスランは自分も同じだと言いたかったが、その思いはすでに軽く言葉にできるようなものではなくなっていた。少しの沈黙の後、カガリが切り出した。
「私は海外に出ようと思ってるんだ」
カガリは窓の外を見ていた。
「ずっと子供の頃からの夢があるんだ。それを叶えるなら海外の大学に行くのが一番だから」
この高校を選んだのもその下準備だったのだと、そのときカガリは初めてする話を語った。
「お互いに夢に向かってがんばろうな」
アスランを振り向いたカガリは晴れやかに笑っていた。


晩夏の日暮れは余韻が長い。
玄関での立ち話を切り上げて花火大会の会場に向かおうと歩きだしたときも群青色の空はまだ明るかった。
完全に暗くなるまでは時間があるようだ。
「まさか、またこの花火を見に行くことになるとは思わなかったな。それもキラと一緒に」
「アスラン覚えてるんだ? この花火大会のこと」
「当然だろう。子供の頃はほとんど毎年行ってたじゃないか」
「高校の時はカガリも一緒に三人で行ったね」
キラはうちわをふわふわと揺らしながら歩いている。
夏の終わりといっても、歩いていればうっすらと汗ばむ気温だった。
「しかし、なんで俺が帰って来たのがわかったんだ? 短い帰省だから誰にも知らせずにいたんだが」
アスランは意図的に話題を変えた。
「駅前でアスランを見たっていう情報を後輩からもらったんだよ。君は自分がわりと有名人なんだってこと自覚してなさそうだけど」
「有名人? ああ、父の名前が街で知られてるからか」
キラは答えずにあいまいに笑った。
「内緒で帰りたかったんだろうな、とは思ったんだけどね。知らせなかったのは僕に会いたくなかったから?」
「なんでそうなるんだ。高校を出てからメールのひとつもしなかったのはお互い様だろう。俺だってキラがこの街に戻ってきてることは知らなかったぞ」
「あ、そっか、違うな。僕に会いたくなかったんじゃなくて、カガリに会いたくなかったんだよね」
おもわず隣の幼なじみを見ると、キラも観察するような目でこちらを見ていた。
「アスランが僕に連絡するのを避けてたのはカガリと接触したくなかったからでしょ?」
「どうしてそう思うんだ」
「だって不自然だと思うから。高校の友達みんなと音信不通になってさ、この歳になるまで一切帰らないなんて、まるで高校までの出来事を切り離して生きようとしてるみたい」
「それは深読みのしすぎだ」
大通りに出るとすでに花火大会へ向かう人波ができていた。浴衣を着た男女やはしゃぐ子供を連れた家族が、みな同じ方向へ歩いている。
「昔もこんなに人出があったかな。暗くなってきたらうっかりはぐれちゃいそうだね」
ぞろぞろと進む人混みに加わりながらキラは驚いた顔をしていた。
「はぐれてもそんなに問題ではないだろう。迷子になって困る子供でもない」
「そういえば、高校の時にカガリと三人でこの花火を見に来たとき、僕だけはぐれたことあったよね。カガリとアスランが二人してどっか行っちゃって」
「……そんなことあったかな」
「僕はよく覚えてるよ。カガリが白い浴衣を着ててすごく可愛かったことも」
「よく覚えてるな、そんな細かいことまで」
「アスランだって忘れてないくせに」
笑って話を済まそうとした瞬間に、キラは低い声で言った。
「僕にごまかしが効かないってわかってるよね。正直に話してくれないのはけっこう寂しいんだよ。いまも、高校のときのことも」
キラの横顔にはめったに見せないような真剣さがあった。キラはアスランにとってもっとも親密な友人だ。ともすれば両親よりも心理的な距離は近く、彼といるときが一番リラックスしていられるのを、再会して改めて思い知っているところだ。だが、その彼にも話せていないことがあったのだ。
「嘘をつこうとか、ごまかそうとか思ってるわけじゃないんだ。ただ、あんまり情けない話だから」
「ふうん……情けないと思ってるんだ」
「え?」
話しながら、二人はもう会場の中心に来ていた。意識していないと人混みの濁流に飲まれてしまいそうな混雑だった。
「キラ、おまえやっぱり何か知って」
「僕ちょっと飲み物買ってくるよ。アルコール平気だよね」
アスランの返事を待たずにキラはぱっとそばを離れてしまった。
「おい、キラ!」
アスランがすれ違う人を避けているあいたに、あっさりとキラの姿は混雑の中に吸い込まれてしまった。
「飲み物買ってくるって言ったって、待ち合わせも何も決めずにどうやって落ち合うつもりなんだ」
とりあえず集合場所を決めようと携帯を取ろうとしてアスランは手を止めた。盛大にため息をつく。いまのキラの連絡先を知らないままだったのだ。
(まったく、あいつは……)
ふり仰いだ空は深い夜の色に変わっていた。並ぶ屋台の明かりが煌々とまぶしい。会場の人々もそれぞれに場所を落ち着けて、花火のはじまりを待つ様子だ。そばに立つ人の顔も薄闇にまぎれるようになり、暗さが増していることに気づいた時だった。
「なにきょろきょろしてるんだ。もう少しで始まるぞ」
ふいに隣に立っていた人から声をかけられた。
その声音にアスランは心臓を突かれたように驚いた。聞き間違いかと思ったが、アスランのすぐ横に立っていたのはたしかにカガリだった。
「どうして……」
「アスラン、おまえまた背が高くなったな。おかげですぐに見つけられたぞ」
カガリはアスランの身長を見定めるように首をかしげて笑った。
時間を飛び越えたような錯覚を起こしそうだった。カガリの笑顔は十年前と少しも変わらない。それだけでも十分なのに彼女が着ているのが白い浴衣だったので、息が詰まりそうだった。白地に薄紅の花が描いてある。
「カガリ」
名前を呼ぶと思い出が津波のように押し寄せてきた。
「……ひさしぶりだな、カガリ。ここで会えるとは思わなかった」
「ほんとにひさしぶりだな。なんてったって十年ぶりだもんな。おまえ、同窓会ぜんぜん来ないんだもん」
「都合が合わない日に開催されてたから仕方なかったんだ。カガリは出席してたのか?」
「二回くらいは行ったぞ」
カガリは偉ぶるように胸を張った。そういう仕草まで十年前と変わらなく思えて、夢を見ているような気がしてくる。
「カガリも変わらないな。高校の頃と」
「まさか! もう三十手前だぞ」
けらけらと声を上げて笑う。すくめた肩が緩やかに丸い。
「その浴衣……」
「あ、もしかして覚えてたか? 一緒に花火を見に行った時に着てたのが実家に残ってたんだよ。柄が若い感じだから迷ったんだけど」
「似合ってるよ、すごく」
当時、テニス部に所属していた彼女の細い鋼のようだった体にふんわりと花をまとわせたようだった白い浴衣は、カガリが異性であることを十七歳のアスランに強く意識させた。
「ありがとう、あの時もそう言ってくれたよな」
カガリは微笑んだ。上品な大人の表情だった。浴衣に包まれた体の曲線や、ほのかな香水の匂いは十年前の少女にはなかったものだ。会話をしながらアスランは十年の歳月がそこに折り重なって積もっているのを感じた。
「ついさっき、キラに聞いたんだ、カガリは海外で働いてると」
「ああ、昨日帰ってきたばかりなんだ。ちょっと用事があって一時的に帰国しただけなんだけど」
「俺も、昨日帰省したばかりだよ。偶然にしてはよくできてるな」
「私、ここの花火好きなんだよ。だから夏に帰れるときはなるべく来るようにしてたんだ」
カガリは夜空に花が咲くのが待ち遠しいように空を仰いだ。
「ということは、よく来ているのか?」
「うん、去年はキラと二人で来たぞ」
「俺は十年ぶりだな……」
アスランは一呼吸おいて決心をしてから言った。話すなら今しかないと思った。
「……じつはずっと謝りたいと思ってたんだ。いや謝らなくちゃならないことから逃げていたんだな、俺は」
「謝る? なにを?」
カガリはアスランを見上げてまばたいた。たしかに高校生の頃と目線の位置が違う。アスランの身長もあれからさらに伸びたのだ。十年前にこうして並んだときは、少しかがめば彼女に届く高さだった。
「あの時、俺の気持ちを一方的に押しつけるようなことをした……きちんと話をしていなかっただろう」
「気持ちって?」
首を傾けてカガリは重ねてたずねた。その仕草ににじむ余裕を感じてアスランは苦笑いした。彼女はわかっていて言っている。
「好きだったよ、カガリ」
最初の花火が上がって弾けた。一瞬の光にカガリの瞳が輝いて見えた。
「いや、だったというのは間違いだな。この十年、ずっとカガリは心の中にいたから」
カガリのことを追憶するのを避けていたのは、つまり彼女とのできごとが思い出になりえないからだ。触れた感触も生々しいくらい、アスランのなかに十八のカガリが息づいている。
我ながら情けないな、と思う。彼女に触れたたった一度の記憶を未練と一緒に大事にしまいこんでいたのだ。
大学で頼まれて交際した何人かの相手を泣かせてしまったのはそのせいだとわかっていながから、それでも抱え込んでいたもの。
「振られたっていうのに、俺はあきらめが悪いらしい」
二人は次々と上がる花火を見上げた。体に響く大音響と開花しては消えていく鮮やかな火花。
「そうか……」
ひとりごとのようにカガリがつぶやいた。
「そうか、私はおまえを振ったことになるんだよな」
「もしかして覚えていないのか? カガリにとっては些細なことかもしれないが」
「些細なわけあるか。ファーストキスだったんだぞ。純朴な女子高生にとっては大問題だ」
高校生最後の夏休みにアスランはカガリにキスをした。ちょうど十年前の今日と同じ花火大会の日のことだ。
キラと三人で来たはずだったのに会場ではぐれてしまい、キラはいったいどこへ行ったんだろうなと言い合いながらアスランとカガリは並んで帰った。
祭りの屋台と花火の興奮がさめないカガリは饒舌で、アスランは会話に答えながら彼女に合わせてゆっくり歩いていた。
話すことは夏休みの思い出のことでカガリはしきりにいい夏休みだった、最高に楽しかったと言った。
過去の話ばかりで未来のことをなにも話さないのは先に待つのが確実な離別だからだろうか。わかっていて、あえてカガリは触れないようにしているのか。そこに気づいてしまった。
来年も一緒にこの花火を観れたらいいのにな——試すつもりで、そうアスランが口にしたら、カガリはふいに足を止めた。
こちらを見上げたカガリの顔が寂しいと叫んでいるように見えて、アスランは後のことを考えずにくちびるを寄せていた。


「それについては、すまなかったと思う。でも俺にとっても大問題だったんだ」
「ほんとうかなあ。知ってるぞ、研修医やってるんだろう。エリートの代表じゃないか。高校生のキスなんて数にも入らないんじゃないのか」
「……そうなれたら楽だったんだろうけどな」
どうして彼女だけがこんなに特別なのだろう。肖像画を布にくるんで封印するようにして、十年、彼女の面影をしまっておかずにいられなかった。そうしなければ度々恋しさに襲われていただろう。
勉強と研究にひたすら打ち込んだ学生時代はその反動だったといえるので、カガリのいうエリートの代表には、すんなりなれていなかったかもしれない。
「カガリはいま、どうしてるんだ? 国外にいるとキラから聞いたが」
「大学の研究室にいるよ。講師だぞ、すごいだろ」
カガリは腰に手をあててポーズをとった。
「古生物学だったな」
「うん、楽しくやってるよ。自分のほんとうにやりたいことができて毎日が充実してる」
「プライベートも?」
さりげなくたずねようとしたのに、カガリはおもいきり意外そうな顔をした。
「へえ、アスランがそういう質問するなんてな」
「言っただろう。俺はあきらめが悪いんだ」
アスランが視線をそらすと、カガリはたくらむような笑みを浮かべて顔をのぞきこんできた。
「プライベートなあ……まあ、いまは独身を楽しんでいるけど、私もそれなりに大人なので実家の母なんかは早く結婚して欲しがって縁談をじゃんじゃん寄越してくるよ」
「縁談?」
親が縁談を持ってくるということはカガリには特定の相手がいないということだろうか、と瞬時に予測をたててしまった。
「古生物学がやりたいために海外に出た私が戻ってきて専業主婦をやりたがると思っているんだからまいっちゃうよ」
「親としてはそばにいてほしいんだよ」
「それはわかってるよ……申し訳ないとも思ってる」
遠くの鮮やかな火花を見つめてつぶやいてから、カガリはぱっとアスランに向き直った。
「おまえ、さっき『縁談を持ちかけられるってことは、カガリには彼氏がいないんだな』て考えただろう」
「……そこまで考えなかったな」
「うそつけ」
カガリは指先でアスランをこづいた。
「私もな、じつは未練がましいんだ。ずっと思い続けてる人がいるからなかなか彼氏ができないんだよな」
「そう……だったのか」
カガリの指先が触れた腕がくすぐったい。その一方で初めて聞く事実にはしびれるような痛みがあった。カガリはしばらく間をおいてから話した。
「もう十年は経つのにまだこんなに好きだったんだって。今日、思い知ったところなんだ」
「……ということはそいつのために帰国したのか」
「まあ、帰国したのは仕事の用事があったからだけど、会えたらいいなとは思ってたよ」
「それほど長く思い続けてるなんて、すごいな」
「だって、私のファーストキスの相手だぞ。忘れられるわけがない」
アスランは思わず目を見張った。カガリはすかさずたずねてきた。
「驚いたか?」
「驚いたというか……」
からかわれているのではないか、と思った。にわかには信じられないのは以前にカガリの言ったことと矛盾するからだ。カガリはアスランの告白を断っている。
「俺の気持ちは受け取れないってきっぱり言われて、あきらめた俺は馬鹿正直すぎたということか?」
「ほんとに受け取れるわけがなかったんだよ。だって私は何年も海外で暮らすつもりだったんだから。飛行機を何時間も飛ばさないと会えない恋人なんてどちらにとっても辛いだろう」
「……物理的な距離は問題じゃないと俺は思っていたよ」
「私もそれでもいいと思った。だから花火を見に行ったあの日、すごく迷った。迷って、アスランの未来を私のために縛れないと思ったんだ」
花火を眺めるでもなく過去を見つめるようにカガリは前を向いていた。
ずいぶんと回り道をしていたのだろうか。
けれども、また同じ高校時代を繰り返したとしても同じ選択、同じ言葉を選ぶように思えた。
「カガリがあの時どう答えても、結局俺はカガリにとらわれたままだったよ」
アスランの言葉を受けて振り向いたカガリはしばらくじっとこちらを見つめていた。
「いいのか? わたしで。また数日したら飛行機に乗って出てっちゃうんだぞ」
「それなら次は俺が休暇をとって会いに行くよ」
自分のためだけに休暇をとろうという気がおきず、なんとなく後回しにしていた有給休暇のこれ以上ない使い道ができるのだとしたら。アスランが晴れやかに言うとカガリは含み笑いをして両手を背中で結んだ。
「あれ? わたしは来てほしいなんて言ってないぞ」
「またそんなことを言って、もう逃がす気はないからな」
肩に触れようと手を伸ばしたらそれより先にカガリの指がアスランの胸を押した。
「アスランが飛行機に乗る必要がなくなるってことだよ。わたしな、こちらの博物館に勤めないかって話をもらったんだ……今回の帰国はそのミーティングのためだったんだ」
打ち明け話をするようにカガリはアスランに身を寄せた。浴衣の襟からのぞく肌が見下ろす位置にある。
「……それはすぐの話なのか」
「うん、すぐだ。年内にはこっちで仕事を始めるつもりだよ」
「それはすぐとは言わないな」
ぼやくようにつぶやいて、アスランはカガリの髪に鼻先をつけた。同時に腰にも手を回してしまう。数日したらカガリはまた海の向こうに行ってしまうのだという。ただぼんやりと過ごしているのはあまりに惜しいのではないか。
「カガリは花火、まだ見たいか?」
「え? そりゃまあ、最後の一番大きな花火はまだこの後だし」
腕の中にいるカガリが少し緊張しているのがわかる。高校生の時でも性別にかまわず気安く体に触れるところのあったカガリが肩をこわばらせているのは、相手がアスランだからだろうか。こんな薄暗い場所では表情がはっきりしない。
「……今は俺は花火よりカガリが見たい」
光の花が次々と開き、地面を揺らすような開花の音が鳴り響く。
飲み物を調達してくると言って別れたキラが故意にか、それとも偶然にかはぐれてしまったままなのだが。帰宅の方向が同じだから花火が終われば会えるだろうと緩く考えていたのを、ついに確かめないままになってしまった。
花火が輝き続ける空の下に、すでにアスランとカガリはいなかったのだから。





若者のすべてを聞きながら
みいるさんのために書いたものでした

2018/06/22