水面で眠る
種45話後
人気のない廊下を進んでいると、角を曲がったところでラクスを見つけた。長い髪が無重力の中で浮かび、桃色の雲のように揺れている。
「ラクス!」
通路の奥に向かう彼女を呼び止めた。
「あら、カガリさん」
こちらを振り向いた彼女はにっこりと微笑んだ。見る人をほっとさせるような笑顔だ。ああ、運よく彼女に会えてよかったと、カガリも顔をほころばせた。
「よかった、ラクスに会えて。誰ともすれ違わなかったからどうしようって思ってたんだ」
いまのエターナルは艦を動かすための最低限の人員しかいない。志をもって集まった仲間だけで作り上げた義勇隊のようなものなのだ。正規軍のようなゆとりはないため、平時の艦内はいつもひっそりとしていた。
「こちらにいらしていたんですね。やはりキラのことを気にして……?」
「そうなんだ。今はまだそっとしておいたほうがいいとはわかってるんだけど……様子だけでも知りたくて」
「お気持ち、よくわかりますわ」
ゆっくりうなずいてラクスはじっとカガリの目を見た。
「キラは今はちょうど眠っていますから、よろしければ起きる頃にお部屋に行きませんか?」
「いや、でも私は……」
口ごもり、カガリはうつむいた。意識が戻ったキラと目が合ったときの、彼の動揺を思い出していた。メンデルから帰還したキラは心身ともに疲弊しきっていた。もし重力があったなら一人では立てないのではないかと思うくらいに。何があったのか、詳しいことはわからない。わからないが尋ねるべきときではないのだろうと、カガリはこの数日気を揉むばかりだった。
「食事をとれるようになってからはキラもだいぶ落ち着いていますから、大丈夫ですよ。キラ自身もカガリさんのことを気にかけてました」
「ほんとに? あいつちゃんとご飯食べれてるのか?」
「ええ、大丈夫ですよ。食事はわたくしもご一緒しましたから。しばらくしたらお部屋に伺おうと思っていたので、カガリさんもいらしてくださいな」
カガリの心配をなだめるように、ラクスは笑顔で答えた。先の戦闘から数日が経って、キラも少しずつ回復してきているのだろうか。カガリはようやくほっと息をついた。
「そっか、じゃあキラの顔を見てからクサナギに戻ろうかな。少し艦内で待っていてもいいか?」
「ええ、もちろん」
ラクスもぱっと明るい顔になって両手をあわせた。
「ラウンジに行かれますか? お飲み物でもいかかです」
「あ、いや、ラウンジもありがたいんだけど。それより、アスランがどこにいるか知らないか?」
「アスラン、ですか……?」
ラクスはきょとんとして瞬いた。
「ああ、ここに来るまで探しながら来たんだけど、見つからなくて」
「アスランでしたら、たぶん……」
答えようとしながら、ラクスははっとした様子で口を閉じた。そして、言葉の続きを待つ顔のカガリを少し見つめると、ふんわりと目を細めた。
「アスランなら、先ほど格納庫に向かうのを見かけましたよ」
「格納庫? モビルスーツの調整でもしてるのかな……」
「アスランのことも心配ですか?」
ラクスがカガリにそっと近づく。重力のない空間で長い髪がゆらりと漂った。
「うん? 心配……心配ではあるかな。だから探してたんだし」
自分自身にたずねるように呟いた。呟きながらよくわからなくなってきて右に左に首をかしげる。
「心配というより『気になる』のでは?」
「気になる、って心配とどう違うんだ」
カガリはラクスの言葉を繰り返してまた首を傾ける。
「言葉で説明するのは難しいですわね……心が教えてくれるものですから。行動にはいつも理由があるものですわ。その理由は心が知っているもの……」
静かで柔らかなラクスの声をカガリはじっと聞いた。言葉が耳の奥で反響する。
「ううん、よくわかんないけど、私には」
眉をきゅっと寄せて呟いてから、ぱっと顔をあげた。
「ありがとう、ラクス! ちょっとアスランのところに行ってくるよ」
後でまたキラに会いにくるから、と言い終わらないうちにカガリは体を反転させていた。音もなく廊下を泳いでゆく赤いジャケットの背中を見送りながら、ラクスはぽつりと言った。
「あらあら、アスランにもカガリさんの様子を尋ねられたこと、お伝えする間もありませんでしたね……」
アスランの姿はすぐに見つかった。まず格納庫で作業をしているのが彼一人だったし、鮮やかな赤の服は目立っていた。
「なにしてるんだ?」
広い空間をふわふわと移動しながら声をかけると、アスランはすぐさま顔をあげた。
「それはこちらの台詞だ。エターナルに来ていたのか」
彼の目がカガリの目を見る。綺麗な形の目が少しだけ大きくなる。
「うん、キラの様子が気になってさ。こちらに荷を運ぶ便があったから乗せてもらったんだ」
「そうか……キラには会えたか?」
「いや、いまは寝てるみたいだから待つことにした」
「待つって、時間はあるのか?」
「大丈夫。私の休憩時間はまだ五時間はあるからな」
ジャスティスのコックピットにたどり着くと、カガリは機体に手をついて得意気に胸を反らした。
「五時間って、それは仮眠のための時間じゃないのか?」
「眠くなったらどこかで寝るよ」
「どこかでなんて、適当な……」
アスランは呆れたようにうなっている。なんだかお説教がきそうな雰囲気を察してカガリはとっさに言い訳をした。
「だって、わたし、アスランに会いたかったんだ」
慌てたおかげで心に浮かんだままの言葉が口をついて出ていた。それは事実に違いなかったが、アスランの瞳が見開かれているのに気づいて、なんとなく気恥ずかしくなった。
「えっと、だってさ、おまえ放っとくと休息とらなくなりそうだし、仕事があると食事も後回しにするだろ」
「心配して様子を見に来てくれたのか」
「うん……たぶん……」
アスランに顔を覗きこむようにされて、おずおずと頷いた。頭の中にさっきのラクスの声が響いていた。
「たぶん、なのか?」
アスランはおかしそうに眉をさげると、コックピットのキーボードを再び叩き始めた。
「俺は大丈夫だよ。前にカガリに言われて睡眠をとるようにしてからは体調も良好だ」
モニターの文字を忙しく追いながらも声は優しかった。口許が微笑んでいる。
「それなら、いいんだけど」
連続してキーを叩く音を聞きながら、カガリはしばらく黙ってアスランの仕事の様子を見下ろしていた。
アスランのタイピングは恐ろしく速かった。プログラミングをしているはずなのだが、迷いが少しもない。このような速度でプログラムの修正を行う者を見るのは初めてだった。
すごいなあ、と思ったままの言葉が口をついて出そうになるが、彼の集中の邪魔をしたくなかったので、感嘆の声は胸のうちにとどめておいた。アスランの冷静な視線や美しくもある指の動きを眺めているだけで、不思議に満たされる気持ちがあった。
彼がきちんと食事をとっているか、休息をとっているのか、見に来てやらないと、などという使命感が自分を動かしているのだと思っていたが、もしかするとただアスランの顔が見たかっただけなのかもしれない。
心配ではなく『気になる』ということか。
たしかに、彼のことがいつも心のどこかで気になっている。何をしているのかな、と無意識に考えていることがこの頃増えた。なんとなく顔を見たくなる。会えば胸の中が温かい空気でいっぱいになるような安心感がある。ああ、そうか、つまり、自分のためにアスランを探してたんだのだと、ふいに、疑問が納得に変わった。
納得すると、なぜか笑いがこみ上げてきそうになって、カガリはアスランに見えないように小さく口角を上げた。導きだした答えがじんわりと心に浸透してくる。
格納庫に反響してリズミカルに鳴るタイピングの音を黙って聞く。沈黙が心地よい。ずっとこうして彼を眺めていたいような気さえする。
だけど、そんなことはできないんだよな、といつ訪れるかわからない戦闘の足音を思った。ぼうっとただアスランを観察していると、待ち構えていたかのような眠気がやってきた。
意思に反してまぶたが重くなる。急速にうとうとし始めたカガリの頭が、かくん、と揺れたのをアスランはすぐに気づいて手を止めた。
「眠くなってきたんじゃないのか?」
「ん……なんでだろ。さっきまでぜんぜん眠くなんかなかったのに」
「まあ、こんな作業を眺めていたら眠くもなるだろう。仮眠室に案内しようか」
アスランが立ち上がろうと腰を浮かせた。
「うん……そうだな……」
彼と一緒に格納庫の中を泳いでゆくのもいいかもしれない。ああ、でも仮眠室に行ったらもうアスランと一緒にはいられないのだ。眠気の混じった頭で考えて、カガリは急いで首を横に振った。
「いい! 仮眠室はいいから」
コックピットを出ようとしていたアスランの袖をきゅっと掴んだ。
「ここにいたいんだ……ハッチに座ってちょっとだけ寝てちゃだめか」
ハッチの枠にとろんと頭を寄せるとアスランはしばし沈黙した。
「……それは構わないが」
困惑した様子だったが、彼は断りはしなかった。
「でもなにかで捕まえておかないと、寝入ってしまったら浮いてどこへでも漂ってしまうぞ」
「あ、そうか……そうだな」
無理なことだったかとしょげて、掴んでいた赤い服を手離した。反動で身体もアスランから遠ざかる。ふんわりと漂い離れていくカガリの手を、ぱっとアスランが引き戻した。
「こうすればいいかもしれないぞ」
どこか悪戯めいた顔をして、アスランはぎゅっとカガリの手を握った。まだ眠気の中にいた頭が一度に目覚めてしまった。
「俺が手を握っておいたらふわふわ浮いてはいかないだろう?」
「ええっ、でもそしたらタイピングができないじゃないか。私はアスランの邪魔はしたくない」
「キーボードで打ち込む作業はだいたい終わったから後は確認だけだ。片手でできるよ」
アスランは繋いでいない方の手を挙げてみせた。
「ほんとに?」
「ああ」
「嘘じゃなくて?」
「嘘なんかつかない」
あんまり念を押されるのが面白かったのか、アスランは小さな声で笑った。彼の言うことが真実かどうかはカガリにはわからなかったが、彼が笑顔でここにいていいと言ってくれたことがただ嬉しくて、それ以上尋ねるのはやめにしておいた。
「じゃあ……ここに座ってる」
ハッチに座る格好をとると、靴底がかつんと金属音を立てた。手と手は繋いだまま。アスランは言った通りに、今度はキーボードではなく画面やレバーを操作してなにやら記録を取っている。
カガリは繋がっている手の先を目でたどって、アスランを一通り眺めてみた。群青色の長いまつげ。彼が顔を下げるとつむじが見えた。うつむくとさらりと髪が頬に落ちる。繋いだ手が温かい。
陽だまりの中にいるように身体の奥まで温まってくる。触れるだけでこんなに安心するものか。
アスランは、他の誰とも違う。
彼が特別なのか、彼を特別だと感じる自分の気持ちの成せることなのか。そのどちらもあるのかもしれない。心は凪いだ海のように穏やかなのに、いつもより少しだけ鼓動が早いのはどうしてだろう。
安心と、緊張と、そのどちらも同居しているのを不思議がりながらカガリは瞳を閉じた。