secret of my life
運命後
どうして彼女がこんなに僕をかまってくれるのか。それを深く考えたことはこれまで一度もなかった。
誕生日はかならず顔を見せ、プレゼントを手渡しにくる。どんなに忙しい時期でもそうだった。一度、月から駆けつけたのだと言って夜中にやってきたときはほんとうに驚いた。冗談なのかと思ったけれど、翌朝のニュースに月面の連合基地で演説する彼女の姿が映っていたから冗談のような真実なのだ。
ものすごくおかしな変装をして授業参観に来たことも二度だけある。顔を隠すためにつばの広い帽子をかぶって、色の濃い大きなサングラスを掛けていた。目立たないようにしたかったらしいのだけど、彼女はとても目立っていた。帽子とサングラスで顔はほとんど見えなかったのに、僕は一目で彼女だとわかったし。クラスのみんなもたぶん気づいていた。廊下に屈強な護衛が二人もいたからだ。
彼女の名前はカガリ・ユラ・アスハ。僕の父の姉。つまり叔母だ。叔母は僕の住む国の国家元首をしている。この国で一番忙しい仕事に就いているというわけだ。それなのに、彼女は半年ごとに変わる僕の靴のサイズまできちんと知っていて、総合テストで学年一位を獲ったときなんかには友達みんなが羨望するようなスニーカーを送ってきてくれるのだ。
両親には僕しか子供ができなかったから、つまり彼女の甥っ子も僕だけなので、彼女がかまうべき血縁の子供は僕だけなのである。そのおかげで彼女の情愛が一点集中したのだろうなと、僕はずっとそんなふうに思っていた。
だから、十八の誕生日プレゼントはなにがいい? なんでもいいぞ? と電話で訊かれて、なんでもいいなら俺は雪が見てみたいとふざけて答えたリクエストを彼女があっさりかなえてくれたときも、国家元首ってほんとにすごいんだなという驚きしかなかった。彼女がどんな気持ちでいたのかなんて、想像もしなかった。
「そんなに走らなくても雪は逃げないって」
おおい、と呼ぶ声が追いかけてくる。僕はガラスドアの向こうにある景色に夢中になっていた。
「すごい! ほんものの雪だ」
空港の外はなにもかもが雪まみれになっていた。植え込みは真綿をまぶしたよう。道路の端にも建物の屋根にも、車の上にまでこんもり雪が積もっている。空からもふわふわと砂糖のつぶみたいなものが降ってきている。思わず手を伸ばして触ってみたら、砂糖菓子のように見えていたものは手のひらの上ではらりと溶けた。
「雪だ」
「そんなに雪が見たかったとはな」
やっと追いついたカガリが吐く息も真っ白だった。ふわふわの金髪が冷たい風になびく。白いポンチョコートを着ているおかげで雪の妖精みたいだ。
「カガリはスカンジナビアなんて何度も来ているから見慣れているかもしれないけど、オーブで暮らしていたら一生見ることができないもののひとつだよ。雪は」
「それはそうだ」
「小さいころ、カガリがくれた絵本のなかに雪国の話があったよね。あの本がすごく好きだったんだ。いつかぜったい行きたいって思ってた」
ぜったいに行きたいと思いながら、たぶん行くことはできないんだろうなとも思っていた。両親に海外旅行をねだって、首を縦に振ってもらったことは一度もないからだ。オーブの中ならどこへでもほいほい連れて行ってくれるのに、わずかでも国境を越えた場所に行きたいとせがむと、父も母もとたんに悲しげな顔をして首を横に振るのだ。父も母も、蜂蜜漬けにするみたいに僕を甘やかすのに、海外旅行だけは許してくれなかった。だから母の故郷であるプラントも、僕は映像でしか見たことがない。
「父さんと母さんは有名人だから旅行したがらないのかな」
「そうだなあ……」
カガリは真っ白な雪を降らせている灰色の雲を見上げて、あいまいに返事する。
「父さんも母さんもこんなすごい景色を見ないでいるなんてもったいないと思う」
「キラは案外、世界をあちこち見ているよ」
背後から声がして、僕とカガリは同時に振り向いた。
「あ」
「アスラン」
名前を呼んで、カガリはにっこり笑っていた。はぐれたのかと思ったぞ、とからかいまじりの声で言っている。
「ラウンジにいるかと思ったら急に走り出すからなにごとかと思ったよ。雪に夢中になっていたとは」
アスラン・ザラが「まだまだ子供だな」というような目で僕を見下ろしてきた。なんとなくムッとして睨み返す。
「足がなまってるんじゃない? 准将って座ってばっかりっぽいし」
「お前、キラみたいな物言いするようになってきたな」
アスランが緑色の目をまんまるにして笑う。アスラン・ザラは父の幼馴染で、親友らしいのだけど、僕のことをものすごく小さな子供だと思い続けているみたいで、家にやってくるたびに背が伸びていることに大げさに驚いたりする。心ここにあらずといった顔で呆然と僕を見るのだ。子供という生き物がどういうスピードで成長するものなのか、まるでわかってないのかもしれない。
「それで『キラは案外、世界をあちこち見ているよ』ていうのは? 僕の知らない間に父さんが海外を飛び回ってるとかそういうこと?」
腕組みしながら見上げると、アスランは目元にほんのり皺を寄せた。
「アフリカの砂漠や、夏のアラスカ、地中海の海をキラが見たのは十代の頃だけどな」
「それってつまり……」
戦時中のことか、と合点がいったのであえて言わなかった。アスランも言い出したくせに詳細を説明する気はないようで、結果黙った二人を見ていたカガリが横から話題を変えようとしたところに、するりと助け船のようなリムジンが現れた。ホテルからの迎えだった。
キラ・ヤマトほどのMS乗りは世界のどこを探してもいないんだよ、とすごく酔っ払ったときのムウさんが一度だけ僕にこぼしたことがある。けれどもプラントと地球連合が戦争をしていた頃の話を、父から直接聞いたことはない。それなのにキラ・ヤマトに関する記事は無限にあるのだ。ネットの海を探れば、モビルスーツ一機で一連隊を壊滅させたなんて嘘かほんとうかわからないような話がごろごろしている。僕の父はそういうひとだったらしい。父も母もむかしの話を僕には一切しないから、ネットの記事の真偽はたしかめようもなく、あまり信じてはいなかったけれど。
アスラン・ザラが言うならほんとうなのだろう。オーブの内側しか知らずに生きてきた僕とは比較にならないほどの壮絶な経験をしてきた父、そして母。僕をオーブに押し込めていたのはその反動なのだろうか。おかげで十八にもなって雪にはしゃいでしまう、情けないくらいの世間知らずだ。
誕生祝いの旅程は一泊。一泊が限度なのだと、カガリはすまなそうに言っていたが、十分だと僕は思った。プライベートの旅行なのにカガリには護衛が十二人もついてきた。僕が見たのが十二人だというだけなので、裏方にはもっといるのかもしれない。ホテルでもフロアをまるごとおさえてある。やりすぎじゃないかと僕が驚くと、カガリは三部屋しかないフロアだからたいしたことではないよと笑っていた。その上夕食のためにホテルのレストランを貸し切っているし、こんなおおげさな旅行を何日も続ける気力は僕にはない。
「どうした? あまり口に合わないか」
じっと下を向いて魚料理を咀嚼していたら、カガリに心配されてしまった。
「いや、ちょっと考え事してただけ」
「そっか、大丈夫か? おまえ、考え出すとぐるぐるしちゃうだろ」
「そんなたいしたこと考えてないよ。静かだな、とか思ってただけ」
答えてからぐるりと周囲を眺めた。夜景が望めるホテル最上階のレストランだ。巨大な窓の向こうでは街の明かりがひしめいている。ゆったりと並べられたテーブルにはそれぞれ花とキャンドルが置かれているが、どれもからっぽだ。真っ白なテーブルクロスで整えられた無人のテーブルは客を待っているわけではない。今夜の客はカガリと僕だけなのだ。
「もしかして落ち着かないか? だだっ広いしな。個室もあるらしいんだけど私は広い方が好きだからこっちにしてもらったんだ」
「僕も広いほうが好きだから個室で食事するよりフロアの方がずっといい。欲を言えばにぎわってるフロアも見てみたかったけど」
「そっか……ごめんな」
カガリが申し訳なさそうに眉尻を下げる。僕はあわてて首を横に振った。彼女の警護のためにレストランはからっぽになったのだとしても、謝る必要はどこにもない。
「謝らないで。カガリが連れてきてくれなかったら、ほんものの北欧料理を食べることはできなかったよ」
「うまいか?」
「うーん、母さんの料理ともオーブの料理とも違う」
「あいまいだなあ」
カガリは楽しそうにくすくす笑っていた。
「世界にはびっくりするくらいいろんな料理があるんだ。死ぬまで旅を続けてもすべてを味わうことはできない、一生をかけてもすべての本を読み切れないのと同じだ。でも、私が食べて美味しいと思ったものはいつかおまえに食べさせてやりたいよ」
しんみりと言う。まるで叶わぬ夢の話をするみたいにカガリは僕を見ていた。それが不思議だった。
「心配しなくても僕は自由だから、そのうち世界中を旅するつもりだよ。いまは未成年だから保護者の許可がいるけど、大人になればいくら父さんがダメだと言っても一人でどこへでも行けるからね」
胸を張って展望を語りながら、僕は空港まで見送りに来た両親の表情を思い出していた。二人とも微笑んで手を振っていたけれど、今生の別れのような耐え難い寂しさをこらえているように見えた。ほんの一泊二日の旅行なのに。そんなにも僕を国外へ出すのが恐ろしいのだろうか。
「頼もしいな、おまえは」
カガリが目を細める。
「そうだよ? 砂漠だって山奥だって行こうと思えばいくらだって。カガリの好きなケバブも現地で食べてみたいし、アジアの屋台とか行ってみたいんだ。人でいっぱいのものすごく賑やかなところ」
「静かすぎて寂しいなら、アスラン呼ぼうか?」
だしぬけに言われて僕は目をまんまるにしてしまった。
「なんで、あいつを?」
「暇してるだろうから。アスランは今回仕事で私についてきたんじゃないからな。ああ見えてずぼらだから部屋でルームサービスでも食べてるだろうし」
「仕事じゃないなら何しに来たんだ」
「決まってるだろう、おまえの誕生祝いだからだ」
ほんとかなあ、と僕は首を曲げた。僕が小さい頃、アスランは誕生日パーティーに必ず顔を出していたけれど、それも十歳の誕生日以来途絶えている。今回のスカンジナビア行きに彼が同行したのは、おおかた僕の誕生日にかこつけてカガリとプライベートな時間を過ごすためだろうと推察した。
アスランとカガリが親密な仲なのだということは僕だって気づいている。世間もメディアもたぶん気づいていないけど、さすがに身内なので気づく。おおっぴらにイチャついたりはしないけど、二人でいるときの空気で互いを隅々まで熟知しているのがわかるし、なによりアスランを見るカガリの目を見ればわかる。決定的な事実の話をするなら、小さいころに夜中になぜか目が覚めてぼんやりしながらベッドから出たときに、二人がベランダでキスしているのを見てしまったことがあるのだ。
「勤務中じゃないからあんなラフな格好してたのか」
空港で見たアスランの服装を思い出して納得した。ジャケットは着ていたけど、穿いていたのはデニムだった。
「あ、そうか、いま呼んだらまずいな。寝間着かもしれん」
「それ面白いよ。呼んで、呼んで」
私服も軍服も着崩したりしない、万年隙のないアスラン・ザラのぼさっとした寝間着姿なんて見てみたいに決まっている。がぜん前のめりになってカガリにすぐに呼んでくれと頼んだら、数分後に現われた男はパリッとしたシャツを着ているだけでなく、ウールのジャケットまで羽織っていた。
「残念、寝間着じゃなかったな」
「もー、期待外れだよ」
「なんの期待だ?」
カガリの隣に腰掛けながらアスランは眉を寄せていた。
「部屋でくつろいでいる頃かと思ったけど、違ったみたいだな」
「バーで軽く食べてたから」
「じゃあ、なにか飲むか? 乾杯しよう」
ウエイターが差し出したドリンクメニューを眺めながらアスランとカガリが肩を寄せ合う。そうするのがごく自然であるような仕草で二人はひとつのメニュー表を眺めていた。四十が目前という年頃の二人の会話はドライだけど、食事のためにドレスアップしたカガリの横顔を眺めて頷くアスランのまなざしは恋したばかりのように熱っぽい。こんなにわかりやすくラブラブなのに、この二人は表向きは上司と部下なのだから不思議だ。
メニュー表を指差しあれこれ話している二人を眺めながら、僕はグラスに残っていたジンジャーエールを飲み干した。底に沈んでいたショウガの苦味を舌で味わっていたら、唐突にハッとした。しまった、やっぱりアスランなんか呼ぶんじゃなかった。こうなったら僕がお邪魔虫になってしまうじゃないか。
「僕、お腹いっぱいだから、部屋に戻ってるね」
「え?」
カガリが驚いた顔でこっちを見る。僕は構わず立ち上がった。
「二人でゆっくり飲んでてよ」
「どうしたんだ急に」
アスランは引き留めようと腰を浮かしていた。意外だった。僕がいない方がカガリと二人でゆっくりできるのに。
「もう少しゆっくりしてもいいんじゃないか。お前が俺を呼んだんだろう?」
「カガリのために呼んだんだよ」
「おいおい、ちょ、待てよ」
こちらに手を伸ばそうとするカガリににっこり笑いかける。
「おやすみ。子供は寝る時間だから」
僕がひらひらと手を振ると、カガリはそれ以上引き止めなかったが、アスランは言いたいことを呑み込んだような苦い顔をしていた。どことなく寂しそうにも見えた。昼間も反抗的なことを言ってしまったから気にしているんだろうか。両親には反発も反抗もしたことないのに、アスランにはどうしてか対抗心のような気持ちが湧いてしまう。つい文句なんか言ってしまうのだけど、あんな顔をされると反抗しづらいじゃないか。あんまり意地悪言わないようにしようかな、と珍しく殊勝な気分になった。でもべつに同席を避けたんじゃなくて、カガリの話し相手を譲っただけだし、彼が嫌いなわけでもないからそんな顔をすることないのに。
二人だけでいるときは熟年夫婦みたいな距離感で会話をするくせに、一歩でも公な場に出たら代表と准将の顔しかしない。お互いのファーストネームも呼んだことないような顔でしらじらしく予定を確認し合うのを幼い頃から僕は横で見てきた。二人ともあんまり切り替えが上手いから、どこかにスイッチでも付いてるんだろうかと感心する。
レストランを出る前にチラッと振り向いたら、アスランはカガリの向かいの椅子に移動していた。カガリの話にゆっくりとうなずく端正な横顔をほんの少しだけ眺めて、僕はエレベーターホールへ向かった。やわらかなカーペットをのんびり踏みしめ、二人についてぼんやり考える。十日くらい前にクラスメイトがしていた話をなんとなく思い出していた。
「ザラ准将って結婚しない主義なのかな」と休み時間に女子から話しかけられたのは、前日の夜にアスランがテレビの討論番組に出ていたからだ。軍縮を巡る問題について、軍関係者もコラムニストも哲学者もモルゲンレーテ社の広報担当も、それぞれの分野の筆頭者が集まってかなり大がかりな特集番組として放送されていた。すごく真面目で先進的な討論番組だったのに、SNSで一番盛り上がっていた話題はアスランの容姿についてだった。
「しない主義とかじゃなくて、ただしてないだけじゃない? あんたは結婚願望つよつよだから、するかしないかの二択なんだろうけど」
「立場的に事実婚? とか?」
「えー? あの顔に見合う相手がいないだけでしょ。あれだけスペック高かったらなんか理想も高そうだし」
口々に答えたのは僕じゃなくて周りにいた女子だった。僕は、ただしてないのは正解だけど相手がいないは不正解だなあと心の中でつぶやきながら黙っていた。最初に僕に話を振ってきたのはアスランと知り合いだということがクラスメイトには知れ渡っているからなのだが、僕が一言も喋らないでもクラスメイトたちはアスランの結婚についてわいわいと持論を展開していた。ほんとうのことを話すわけにはいかないので、しれっと逃げようと腰を浮かせたら、それを見透かしたようなタイミングで後ろから声をかけられた。
「出自のせいだろ、どう考えても」
後ろの机から身を乗り出してきた男子はやけにきっぱりと言った。
「出自? むしろ名家なんじゃないの?」
「だからだよ、ザラ家の再興を画策している人間はたくさんいる。パトリック・ザラの理念こそがコーディネーターにふさわしい未来と考える人にとっては、第三世代の子供は喉から手が出るほど欲しいんじゃないかな」
クラスメイトたちの会話が耳の中で再生される。訳知り顔で語られた第三世代の子供、という言葉を頭の中でつぶやきながら、僕はエレベーターの呼び出しボタンを押した。
この世にお互いしかいないかのような目で見つめ合うアスランとカガリのことを僕は知っている。それなのに恋人にも夫婦にもならない二人。後継を望まれながら、見合いを断り続けているカガリ。そしてアスラン。ザラ家の再興を切望し続けるネオザラ派のコーディネーターたち。彼らが欲しがる第三世代の子供。
そう、もしもアスランとカガリに子供がいたとすれば、それはザラ家の正当な後継であり、コーディネーターの未来を担う第三世代の子供なのだ。
思考がゆるやかに回転速度を上げていく。何か、ずっと気づかずにいた何かに気づいてしまいそうな予感が僕の背中を冷たく這い上がってくる。もしかすると気づいていないのはなくて、見ないふりをしていたのかもしれない。僕は、たぶん。
リン、と涼やかな音を立ててエレベーターのドアが開く。ぼうっとしたままエレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押そうと指を伸ばして、やめた。今、部屋に戻ると考えが止まらなくなる。思考を止めなければもう戻れなくなる、うっすらとした恐怖が僕を動かした。指をずいっと下げて一階のボタンを押した。街に出るなら今だと思ったのだ。
スカンジナビアは古い石造りの建物が多い、美しい街だ。写真や動画でしか見たことのない街のど真ん中に僕はいるのだ。ほんの少しでいいから散歩してみたかった。昼間、ホテルに到着してすぐ、街歩きをしようとカガリを誘ったときは、申し訳なさそうに「ごめんな」と言われてしまった。ホテルの目の前にあるコーヒーショップに入るだけでもいいから、と食い下がったけど彼女は首を縦に振らなかった。これはしかたのないことだ。カガリはおいそれと街を歩いたりできない立場なのだから。だったら一人で行ってきていい? とたずねるとカガリは驚いた顔で反対した。それだけは許可できないのだときっぱり言われた。ええなんで? 僕ひとりならどう行動しても自由じゃない? ただの子供なんだからと食い下がってもカガリはけっして許可を出さなかった。
だったらこっそり出て行くしかないってことだ。エレベーターが小さなモーター音と共にするすると降下し、一階に到着してベルが鳴ったとたんに僕は一歩踏み出した。颯爽とロビーを横切って外を目指すつもりだった。ホテルの目の前に、重厚な石壁に木枠の窓がしつらえられたとても雰囲気のいいコーヒーショップがある。こういうときのためにスカンジナビアの公用語を一通り頭にいれてきたのだ。
そう張り切って歩き出したら、二歩も進まないうちに僕の足は止められた。
「どちらへ行かれるんですか」
いつ進行方向に回り込まれたのかわからなかった。グレーのスーツを着た大柄の男が目の前に立って、僕の行く手をふさいでいた。耳にインカムを着けている。カガリの護衛の一人だ。ロビーにまで人員を配置しているとは思わなかった。
「どちらって、べつに」
さすがに動揺してしまった。遠出しようというわけではない、ちょっとコーヒーが欲しくなったからそこの店に行くのだと説明したが、しどろもどろになった僕の言い訳はもちろん通らなかった。
「コーヒーがご入り用でしたらルームサービスをご利用ください」
言い方はやさしく丁寧だったが、なにぶんがたいがいいので説得に圧力があった。
しかたなく戻った部屋のベッドに僕は勢いよく突っ伏した。シーツの中でつまらないとぼやく。だめだと言われるとよけいにしたくなるのは人の性だろう。頭の中は雪の舞う夜の街を歩いてみたいという願望でいっぱいになっていた。自分がこういうときに我慢ができないタイプだとわかっているからこの願望を抑えるのは大変だった。十八になったんだから衝動的に行動するのは寄せよと自分に小言をちくちく刺した。
そう、長年の夢は果たせているのだ、十分じゃないか。カガリは本物の雪を見せてくれたのだ。オーブから一万キロ以上も離れた場所まで連れてきてくれて、嗅いだことのない新雪の匂いを胸の奥まで吸い込むことができた。それだけで十分だと思わなくては。
「あーあ……」
ぐずぐずと寝返りを打って大きな窓に目を向けるとガラスの向こうで何かがちらちらと光った。雪だ。高層階の窓の外で雪が舞っているのだ。
「きれいだな……」
オーブではけっして見ることのできないもの。結晶となった氷が集まり一塊となったもの。ただの水分子の集合体なのにどうしてこんなに美しいのだろう。予定では明日の昼にはオーブに向かう飛行機に乗ることになっている。夜の雪を見られるのは今だけなのだと思ったら、急に良い子の我慢が消え失せた。やっぱり外に出たい。
妙なスイッチが入ってしまった。僕はベッドから跳ね起き、ルームサービスのメニューを手に取った。
部屋のインターホンが鳴ったのは数十分後だったので、もしやカガリが戻ってきたのかとも思ったが、ドアを開けたところにいたのはすっきりと背筋を正した客室係だった。僕はなにより先に白いクロスが掛かったワゴンを見た。コーヒーに加えてサンドイッチとサラダとスープも頼んだので、部屋にやってきたワゴンはディナーにも使えそうな大型のものだった。
「あの、中へお運びしてもよろしいですか」
僕がじろじろとワゴンの車輪を見ていると戸惑った声で客室係の女性が言った。もちろんもちろん、どうぞ中へとドアを大きく開いて僕はにっこり笑った。客室係がホッとして気を緩めたのがわかった。僕より少し年上だろう、若い女性だ。僕は自分の笑顔がどういう作用を持つのか、経験からよくよく理解している。
「あの、お姉さん、少しだけ時間ありますか」
めいっぱいの愛想を口角に乗せた。頼める相手はあなたしかいない。どうかお願いをきいてほしい。
「ちょっと頼みがあるんですけど」
そう念じながら見つめると、たいていの相手は僕の頼みをきいてくれる。
ディナー用のワゴンの下には空の台があった。身体をぎゅっと押し込めば乗ることができる、そのくらいの空間がある。そこに僕を乗せて、従業員の通用口まで連れて行ってほしいと頼むと、客室係の女性は当然驚いた。そんなことは承れません、申し訳ありません、と真っ赤になって頭を下げられた。これは予想していた展開なので、僕は「無理を言ってすみません、もちろんお礼はするから」と紙幣を二枚、彼女の手に握らせた。頼みはあなただけなのだと、目で訴える。熱心に見つめると、彼女の気持ちがぐらぐらと揺れるのがわかった。もう一押し。
「あと、無事に外まで行けたらまたお礼させてもらうし」
「あ、あの……お礼なら私……欲しいものがあって」
迷いながら、おずおずと彼女が言った。
「アスハ代表のサインって、もらうことできますか」
スカンジナビアにはカガリのファンが多いらしい。というのは、同級生から聞いた話だ。彼女自身も熱烈なカガリ支持者で、甥である僕を介してどうにか関わりを持つことができないかと画策しているらしい。冬休みに何をするかと話題になったときにスカンジナビアへ旅行することを話したら、プライベートで旅行などしたらカガリ様ファンに取り囲まれるんじゃないかとずいぶん心配されたことを僕は思い出していた。
「あなたはどうしてカガリのファンなんですか?」
ワゴンの下から僕は小声でたずねてみた。
「どうして……と言われましても」
「友好国だから?」
「お綺麗だから……代表に憧れている女子はこの国に多いですよ。雑誌にファッションの特集が載ったりするくらいなんです」
「へえ、ぜんぜん知らなかった」
ワゴンに隠れて廊下を進み、無事に従業員用エレベーターに乗り込むことが出来た。護衛が等間隔に並ぶ廊下を抜ける間、ひそめていた息を吐き出すとおしゃべりが止まらなくなる。
「女子だけでなくて、老若男女に人気があるから、アスハ代表が公式訪問されるときは必ずライブ放送されるんですよ」
「……すごいな、カガリは」
ワゴンの中で感心のため息をつく。こんなに遠い異国でもカガリは支持されているのだ。彼女が長年、オーブの代表首長を務めていることは当たり前に知っているのに、それがどういうことなのか具体的にはわかっていなかったのかもしれない。僕にとってはただのカガリだから。
「……ファーストネームで呼ばれるんですね。お母様のこと」
「え? お、お母様?」
「あれ? そうですよね。アスハ代表のお子様なんですよね」
「まさか! 子供じゃないよ」
思わず頭を上げたらワゴンの天板に後頭部をぶつけてしまった。
「ていうか、カガリに子供はいないんだけど。そういうことってスカンジナビアではあまり知られてないんですか」
「いえっ、もちろん存じ上げているのですが……だから、その……プライベートな、と申しますか」
だんだん声が小さくなった彼女は最後にすみません、と謝っていた。ああ、つまりいわゆる隠し子だと思われたのか、と僕は納得した。
「二人で泊まりにきたから、そう勘違いするのはしかたないかもね。僕はカガリの甥なんです」
「……そうだったのですね」
彼女がホッとため息をついたとき、エレベーターのベルが鳴った。一階に到着したようだ。人の話し声がして、僕はさっと息を止めた。ワゴンの中で身体を縮める。ワゴンはバックヤードを通り抜けているのだろう。さまざまな言語の話し声がする。
僕の脱走を手助けしてくれた彼女が、すれ違う同僚に挨拶をするのをワゴンの中で聞きながら見つかりませんようにと念じる。そのうちに喧噪が遠ざかり、静かな広い空間に出た。見たわけではないから空間が広いのがわかったというべきか、人一人を乗せた車輪の音と、床を踏むヒールの音が反響して聞こえた。というところでワゴンが停止した。
「今なら大丈夫ですよ。誰もいません」
クロスの外から囁きかけられて、僕は固まっていた身体をそろりと動かした。
「ありがとう……ございました」
「そこが通用口です」
彼女が指差す先には重そうな金属の扉があった。着いた場所はスチールの棚や段ボールの塔がひしめいている倉庫だった。
「あの、ここは死角になってるんですけど通用口の出口にも監視カメラがあるので」
「監視カメラ……格好がこれだから目についてしまうかもしれないなあ」
カガリの護衛たちはどこまで目を光らせているのだろう。あの店でコーヒーを買って雪の中で一服するくらいはしたいのだけど。
「お客様は……ほんとうにアスハ代表のお子様ではないのですよね」
ふと差し迫った口調でたずねられた。振り向くと客室係の彼女は青白い顔をしていた。
「私、もしかしたらとんでもないことをしてしまったんじゃないかと思って。アスハ代表のお子様だったら、誘拐とか、テロとか……」
「ないない! 僕はただの学生だから」
「ほんとうに? 髪の色がアスハ代表とあんまりそっくりだから、もしかしたらって」
「この金髪? ああ、これは隔世遺伝らしいんです。カガリの実父がブロンドだったんだとか」
「でも、お顔立ちも驚くほど似てらっしゃる……」
「まあ、叔母だから」
「あっ……でも、そういえば」
倉庫の薄暗い照明の下、正面からまじまじ顔を見られた。彼女はじっと僕の目をのぞき込んでいた。
「代表とは違いますね、瞳の色が」
客室係の黒い瞳に僕の顔が映っていた。幼い頃はよくカガリに瓜二つだと言われた僕の顔。やわらかく跳ねたハニーブロンドの髪。同じ色の眉。そして瞳の色は。
「……エメラルドグリーンなんですね」
荷下ろし用のぶ厚い鉄のドアを押し開いて、外へ出て、僕は初めて自分の失敗に気づいた。
「さむ……い!」
雪国では戸外へ出るときに上着が必要なのだということをすっかり忘れていた。ディナーの服装のままだったからジャケットを着てはいるけど、それでどうにかなるような気温ではない。冬のスカンジナビアって夜は氷点下になるんじゃなかったか。
「やばい、凍死しそう」
ジャケットの襟を寄せて走った。雪を乗せた風がみるみる体温を奪ってゆくのがわかる。動いていないと肌が凍りそうで、とにかく少しでも早く目的の店に入りたかった。裏口を出て、ホテルの周りをぐるりと一周して、大通りに出ると、僕は脇目もふらずにコーヒーショップへ駆け込んだ。雪の中を駆け抜けたので睫毛にも髪にもジャケットにも雪がびっしりついてしまっていた。
店のドアを開けると、数人がこちらを見た。カウンターに座っている中年の男、店の最奥にひっそりと座るビジネスマン、そして店主。三人とも、僕を一瞥するとそれぞれ手元に目線を戻していた。ただの観光客だと思ってくれたみたいだ。ビジネスマンなどは仕事に戻り、ものすごい勢いでタイピングしている。店内をさらりと見回したが、ウエイターはいないようだった。店主に直接注文するシステムらしい。温かいコーヒーをたっぷりもらうつもりで、店主に挨拶をした。にこにこしながら注文したのに、ぶっきらぼうに金額だけ返答されたのはよそ者だからだろうか。発音が上手くなかったのかな、と首を傾げながらポケットを探って僕は青ざめた。身体は嫌というほど冷えきっているのに、さらに冷や汗まで出てくる。
財布がない。ポケットの中は空だった。
そうだ、必要ないからとベッドサイドに置いてしまって、そのままだ。ああ、どうしよう、注文を取り消させてくれなんて言ったらこの店主は憤慨しそうじゃないか。無銭飲食で警察を呼ばれるかも。
そのときに現れた人物は、まさしく助け船だった。
「いた!」
店のドアが蹴破る勢いで開けられた。乱暴な音と、雪交じりの風と共に店に入ってきたのはアスランだった。強い北風のせいか髪が乱れている。
「こんなところに……!」
「アスラン! やった! ちょうどよかった、ねえちょっとお金貸して欲しいんだけどさ」
「部屋を勝手に抜け出しておいて何を言ってるんだ。帰るぞ」
アスランが僕の腕を掴んで引いた。ぎょっとするほど強引で荒々しかった。声も表情も知らない人のようだった。唐突に僕は思い出した。彼がいくつもの戦場を駆けてきた軍人なのだということを。彼が放っているのは殺気だ。触れたら切れそうなほどの鋭い視線で店の内外を警戒している。
「ちょ、なんでそんなに焦んの」
「おまえは……! 自分のしたことがわかっているのか」
「や、だって、あんなにガチガチに見張られてたら脱走でもするしかないし」
「脱走って……そんなところ似なくてもいいのに」
眉間に深い皺を寄せてため息をついている。
「僕が一人で外出するのはべつに問題でもないだろ。そりゃ黙って出てきたのは悪かったけど」
「問題大ありだ。居場所が知れてしまった」
「……居場所って、カガリの?」
アスランは店内の客をひとりひとり観察している。怖々こちらを伺っているカウンターの中年男、熱心に携帯端末を叩いている少女二人組はこちらを見向きもしない。それからソファにもたれて本を読んでいる老婆、そして。そこで僕は異変に気づいた。店の最奥に座っていたビジネスマンがいない。おかしいな、店から出て行くタイミングなんてなかったはずなのに。
「カガリには護衛があれだけたくさんいるから大丈夫だよ、アスラン。そんなにおおげさに心配しなくても」
「あの護衛はほとんどおまえのためのものだ」
店の大通りに面した壁は一面窓になっている。ガラスの向こうを睨んで、アスランはジャケットの中に手を伸ばした。僕を背中に隠すようにして立つ。
「僕に……? なんで護衛が必要なの」
「ほんとうは、今日話すつもりだったんだ」
「話すって」
なにを? と訊こうとしたのに声がでなかった。耳の奥で心臓がごうごうと音を立てている。気づくのが怖いのに、気づいてしまった。ああ、僕は、たぶんわかっている。アスランの言葉の意味を、ぜんぶ。もっとずっと前からわかっていはいたのに。
「アスランッ」
背後からなぜかカガリの声がした。そんなバカなと思って振り向いたら本人がカウンターの中にいた。代わりに店主がいない。店主といい、ビジネスマンといい、いったいどこへ消えたんだ。
「カガリ! どうして現場に下りてきたんだ」
「この状況で私がおとなしく待てると思うか」
「それは、そうだけど……まったく君ってひとは」
「お前だって、准将が切り込み隊長やってどうするんだよ」
「最終的な文句ならこいつに言ってくれ。君に似てじっとしていられない性分らしいから、困ったものだ」
「私のせいかよ」
「……ねえ、ちょっと、二人ともいったいなんなの?」
カガリは僕を見てちょっとだけ笑った。
「ひとまずここを出よう、アスラン。裏口にルートを確保できたから」
カガリの笑顔がそのまま凍りついたのと、アスランがすぐそばのテーブルを蹴飛ばしたのはほとんど同時だった。二人が僕の名前を呼んだのも、ユニゾンのようにきれいに重なっていた。
生まれて初めてマシンガンの音を間近に聞いた。すさまじい轟音だった。僕のすぐ横を通った弾丸が店の椅子を弾いて転ばせた。アスランが蹴飛ばしたテーブルの陰に僕は無理矢理押し込まれた。それは戦場で研ぎ澄まされた感覚なのだろうか、アスランは銃撃が始まるより一瞬早くテーブルをバリケードにして、僕の頭を胸の中に抱えた。
「まっ、て、僕より」
僕よりカガリじゃないのか。僕を置いてでも、カガリを守るべきなのは僕にだってわかる。けれどもアスランの動きは本能そのもので、たぶん考えるよりも先に手が動いて僕をかばったのだ。オーブの軍人としての責務だとかそういうものが吹き飛んだように思えるくらい、とっさに僕を呼んだ声は感情的だった。
「とう……さん」
「大丈夫だ、必ずキラの元にお前を返す」
嵐のような銃声がほんのわずかに途切れた瞬間に、アスランはテーブルの端から拳銃を二発撃った。店内に響いていたマシンガンの音が止まる。敵に命中したんだろうか。他の客はどうしているのだろう。店の照明は攻撃の最初にぜんぶ壊されたらしく、あたりは真っ暗だった。カガリは? カガリはどこにいるんだ。
「無事だな?」
きょろきょろと暗闇を見渡した僕の頬を誰かが両手で包んだ。弾丸の雨がやんだ隙に、カガリはすぐそばに駆けつけていた。
「相手はネオザラ派の連中だ」
カガリがアスランに耳打ちするのが気配でわかった。
「とすると、目的は誘拐か」
「だから様子をうかがっているんだろう。射撃も威嚇だ」
「ねえ、カガリ、ネオザラ派って……なんで」
目の前のものも見えないくらいの闇の中、カガリは手探りで僕を抱きしめた。
「ごめんな。こんなことになるなんて。もっと早くに話しておくべきだった」
「話すって、なにを……」
声がかすれた。カガリはいっそう強く僕を腕の中に押し込めた。小さな子供にするみたいにぎゅうぎゅう抱きしめる。カガリに抱きしめられたのはいつぶりだろう。懐かしくてたまらない気持ちになる。ずっとずっと前に、ある限りすべての記憶の根源に、彼女の腕がある。
「話すよ、お前が生まれたときのこと」
カガリの肩にはアスランの手が置かれていた。幼い頃、カガリにそっくりだと言われるばかりだった顔立ちは、成長するにつれ、べつの誰かのものになってきた。それが誰なのか、わかっているから、僕は反抗ばかりしてしまっている。
「ねえ……カガリ」
僕の、エメラルドグリーンの目は、誰のものなの。