朔夜に満ちる

中世?パロ



開け放した窓から夜気が入り込んでくる。
秋の初めの宵の空気は澄んで、冷たく、這い上がるような寒さを感じさせる。
しかしテラスに面したその大きな窓を彼女は閉めない。ひらひらと舞うカーテンのそばで、薄いナイトドレスにショールを羽織り、寒さを防ぎながら長椅子で本を読んでいる。

淡い色の髪の美しい少女。
名をカガリという。古くは王家からの血を引く、由緒正しい侯爵家であるアスハ家の一人娘だ。
夜も更け、広大な邸内を静けさが満たした今、カガリは眠る前のひとときを一人自室で過ごしていた。
いつもならば、早々とベッドに潜り込み眠ってしまうのだが、今夜はそうはしなかった。いつまでも、ランプの明かりを頼りにひたすらページをめくる。
しかし、実際は本の内容などひとつも頭に入っていなかった。ずっと、カガリの頭を占領しているものがあったからだ。
そのことを考えると胸が高鳴って苦しいくらいで、それをなんとか鎮めようと哲学書などひっぱりだしてきてみたが、一向に効果がなかった。
「はぁ……」
カガリはため息をついて本を置いた。
今夜は新月である。月がないため、星がいつもよりも輝きをましていた。
しかし、どんな輝きよりも今カガリが欲しいのは、ただひとつの翡翠輝石だった。どんな輝きよりも魅惑的なあの輝石。
それを思い浮べようとカガリは瞳を閉じた。
「アスラン……」
密かに呼んでみる、その名前。決して呼んではならないその名前を。
カガリがしばらく、そうして目を閉じていると、ふいに音もなく唇にあたたかく柔らかいものが押しあてられた。
驚いて目を開けると、そこには今まさに思い浮かべていた翡翠輝石があった。神秘的で透明な翠緑色。
「姫……体が冷えてしまっていませんか?」
その瞳に心配の色を浮かべて、彼はカガリの頬に触れた。
「ザラ殿……今はその呼び方はなしにしてくれないか?」
彼に姫と呼ばれるのは好きではなかった。
「では、姫もその呼び方はしないで頂けますか?」
「私だって好きで呼んでるわけじゃないぞ」
彼の名前を、本当は何度だって呼びたいのだ。月のない夜にだけ呼ぶことの許される、その愛しい名前を。
「アスラン……」
「ん?」
カガリは見返してくる瞳に少しばかり怒りを含んだ視線を向けた。
「……入ってくるときは一言声をかけてくれないか?」
いきなりキスなどされては心臓に悪い。
「いや、カガリが俺を呼んだから。入って来たのが分かってるんだと思ったんだよ」
「んなっ、お前聞いてたのかよ!」
カガリは瞬時に赤くなった。
「じゃあ、あれは独り言だったのか……」
分かっているくせに、アスランはもっともらしく驚いてみせる。カガリは怒りと恥ずかしさで体が震えた。
「さすが騎士団員だなッ!諜報活動もするというのは本当らしいな!!」
カガリは立ち上がり、ぷいっと背を向け逃げようとしたが、素早く腕を掴まれ抱きすくめられた。
カガリを腕の中におさめて、アスランはその耳元で囁いた。
「独り言で、俺の名前呼んだりするんだ?」
その声で、見えなくてもアスランが笑っているのがわかった。
「よ、呼ばない!呼んだりするもんか!」
カガリは必死に首を振るが、アスランにはもうばれてしまっている。
「俺も、よくカガリの名前を呼ぶよ」
秘密を打ち明けるように囁く声にカガリの動きが止まった。
「……カガリ」
頭を痺れさすような甘い声を耳に吹き込んでくる。
そんな声で名前を呼ばないでほしい。背中をぞくぞくと何かが走って震えてしまう。
「やっぱり、体冷えてるな……ごめん、待たせて……」
アスランはひんやりとする金糸に優しく口付けて、闇色の外套の中にカガリをすっぽりとくるんだ。
月明かりのない闇夜に溶け込むような黒い上着に黒いブーツ。この新月の夜の密会に、いつもアスランが身につけてくる衣装だった。
ひと月に一度だけ、二階にあるカガリの部屋にテラスから忍んできては、二人は逢瀬の悦楽に浸っているのだった。
「アスラン」
カガリはもう一度、名前を呼んだ。
「ん……?」
返事が返ってくることが嬉しかった。独り言で何度名前を呼んでも決して返ってはこないから。
「アスラン……」
嬉しくて何度も呼んでみる。
「カガリ……」
呼ぶ声に一度だけ応えると、アスランは静かに腕を解いた。そして、その手でカガリを上向かせ、そっと唇を重ねた。
伯爵家の令嬢と、その家に仕える騎士団の一員。
カガリとアスランの間には明確な身分の差があった。本来なら、こうして触れあうことはもちろん、互いを名前で呼びあうことなど絶対にありえないことだった。
それどころか言葉はおろか、視線を交わすことすら許されないのだ。
この密会が知れれば、二人を待っているものは死だった。そのことを、とうに二人は知っていた。
それでも、止めることなどできなかった。
「ん……ふっ……ぁ」
ひと月ぶりの口付けに、息をするのも忘れて互いの唇を貪る。
唾液がこぼれ頬を伝っても二人は舌を絡めつづけた。
「はぁ……ふ、あす……」
とうとう息が続かなくなりカガリはアスランの服を掴んで訴えた。
ようやく、アスランが唇を離す。二人とも荒くなった息を整える。
カガリの頬に流れたキスの跡を、アスランが舌でやさしく舐めとった。
「カガリ……ベッド、行かないか?」
アスランはカガリの髪を梳きながら言った。
「……うん」
カガリはほんのりと頬を染め、アスランの胸に額をのせた。同意を告げるのはやはり少しだけ恥ずかしかった。
自分に体を預けたカガリの背中と太股に手をかけて、アスランはカガリを抱えあげた。
そうして、ベッドに向かいながらもアスランはカガリの首や鎖骨にキスを降らせていった。夜明けまでの限られた時間、少しでも多くカガリに触れられるように。
広いベッドにカガリを降ろしてから、アスランはその上に覆いかぶさった。
アスランの端正な顔が眼前にせまり、カガリはゆっくり瞳を閉じた。
アスランはそのまぶたに、金のまつ毛に、ひとつひとつ唇を落とした。
額にかかる前髪をかきあげてひとつ、小さな鼻先にひとつ、柔らかな頬に、口元にひとつ、丁寧に、まるで儀式のようなキスをしていった。
いつも、愛し合う前にこうしてアスランはカガリにキスを送るのだった。
許されない行為の、許しを請うように。
その切ないキスにカガリはいつも泣いてしまいそうになる。二人でいるときは、幸せにだけ浸っていたいのに。
「アスラン、ここにキスして」
押しよせる不安を打ち消すために、カガリは早く行為に溺れてしまいたかった。
「カガリ」
アスランの声にも苦しさがにじんでいた。
一度、噛み合わせるように唇をあわせてから、どちらからともなく口を開き舌を絡めあった。
互いの舌を、口内を味わうように何度も何度も唇を交わす。すでに二人は口付けに夢中になっていた。
「ふぁ、ん……はぅ」
次第に熱くなっていく吐息と体に、二人の不安も恐怖も、にじんで溶けていった。広い部屋に二人の息遣いと、唇からもれる水音が吸い込まれていく。
ほとんど真っ暗といっていいほどの部屋。
先程までカガリの手元を照らしていたランプの明かりだけが、かすかに互いの姿を見せてくれている。開けたままになっている窓から、外気がカーテンをなびかせ絶えず流れ込んでいた。
気温は下がり続けていたが、二人は気付かなかった。
「はぁ……っ」
長い口付けをようやくやめ、アスランは体を起こすと、カガリのナイトドレスを脱がしにかかった。
いくつも並ぶ小さなボタンを器用に外していく様を、カガリは、ぼぅっと眺めた。
すべて外しおわるとアスランは前合わせの隙間から手を差し入れて、乳房を撫で上げるようにして胸元を開き、はだけさせた。薄闇に白い双丘が浮かびあがった。
形の良いたっぷりとした豊満な乳房。アスランはそれをゆっくりと揉みしだいていった。
「は……んっ」
アスランの緩やかな愛撫に、カガリの口から甘い吐息がもれだす。手のひらの中でやわやわと容易に形を変えるふくらみを楽しむように、アスランは執拗にそれを撫でまわした。
「ん、ん」
しかし、いつまでもそれを続けるアスランに、カガリはだんだんとじれったくなってきて自分の胸を弄る手に触れた。
「ね、アスラン」
カガリは甘い色の瞳で訴えかけた。それが嬉しいのか、アスランはふっと笑みを見せると胸の頂きに舌を這わせた。
「ん……っ」
希望した通りの刺激を与えられて、カガリはわずかに体を震わした。でも、それよりももっと強いものが欲しくて、アスランの髪に触ってねだった。
それに素直に応えてアスランは硬くなった乳首を吸い上げた。
「あぁっ」
ひと月ぶりに得られたアスランの唇にカガリは過敏なほど反応する。
いつだってそうだった。いつだって、次の新月までの二十八日を焦がれるような思いで待つのだ。
恋人の姿、手触り、熱、重み、その声を、夜が来るたび思い返しながら、想うことしかできない現実に気が狂いそうになる。
「は、アスラン……もっとっ」
カガリは抱いた頭を胸に押しつけた。アスラン自身も、やっと聞ける声、やっと触れられる体に自制心を奪われているのだろう。
「あっ、はぁ……んっ、あ……ッ」
激しく責めたててくるアスランにカガリが甘く鳴く。冷たい空気の満ちた部屋で、二人の熱はどんどん上がっていった。
体は火照り、うっすらと汗がにじむ。アスランがドレスをすべて取り去ってしまっても、カガリは肌に感じる夜の空気を心地いいとすら感じた。
真っ白なドレスがシーツに落ち、一切の下着を付けていなかったカガリは、簡単に素肌のすべてをさらけだされた。
「カガリは、ほんとうに綺麗だな」
アスランは感嘆するような息をついた。
そんなふうに言われてすごく嬉しいのに、なんだか涙が出そうな気持ちになる。どうして幸せだけに浸っていられないのだろうか。
裸で横たわるカガリの滑らかな肌を愛おしむように撫で、胸の中心にキスを落とすと、アスランもまた、自らの服を解きにかかった。
外套、上着、シャツと、脱ぎ捨てていくアスランを見上げながら、カガリは今朝のことがふいに頭に浮かんだ。
広いこの領内で二人が顔を合わせることは月に数えるほどしかない。今朝はその貴重なひとときがあったのだ。
カガリが母に朝食前の散歩に誘われて、庭園に出るとなったとき、その護衛につけられたのがアスランだった。
整然とした広い園内を歩く二人を遠くから見守る騎士。自分に注ぐ視線はひどく事務的なものだった。
それが怖かった。
にこやかに話し掛ける母を振り切って、彼の名を呼び、駆け寄って抱きついてしまいたかった。けれども、ほんの百歩の距離は決して越えられないものだった。
そして、今朝、あんなに遠かったアスランが、今こうして目の前で自分を抱こうとしている。どちらを本当だと思えばいいのか、ときどき本気で分からなくなる。
「アスラン……」
何をどう言えば暗い不安を拭い去れるのか。
「……アスラン……」
言葉が思いつかなくてカガリはただ名前を呼んだ。アスランは、自分の名前をうわごとのように繰り返すカガリを、言葉をなくして見つめた。
カガリはそれを見て起き上がると、シャツを脱ぎかけたところで止まってしまっているアスランの手に、自分の手を重ねるようにしてボタンをはずし始めた。
「カガリ?」
動揺した声をあげるアスランを無視してカガリは次々ボタンを外していった。
早く。早く、飲まれてしまいたかった。
たぶんそれしか方法はないのだ。
目の前に開かれたアスランの胸にキスをする。綺麗についた筋肉の上に指を滑らせて、カガリは薄く色付いた乳首をそっと指先で撫でた。
「んっ」
アスランは思わず声をもらした。わずかにもれたその艶めいた声に、カガリの胸も震えた。
乳首を舌で擦る。アスランはぴくりと敏感にそれに反応した。
アスランが自分の愛撫に感じていることがはっきりとわかって、カガリは自分自身じわりと熱を持ち始めるのを感じた。
「カガリ……どうし……っ」
こんなふうにカガリからすることは初めてだった。カガリはいつもアスランが自分にしてくる様々なことを、ひとつずつ試してみた。すでに不安は頭になかった。
「く、……は……」
アスランが押し殺した声をもらして、かすかに身をふるわせる。カガリの与える快感に堪えるように。
勃ちあがっていたものへ布越しに触れ、唇で噛むようにして刺激し、舌を這わせてみる。
そのたびに官能的な表情を見せるアスランに、カガリはだんだん堪らなくなってきた。
自分の秘所が熱く、疼いていた。手を止めて、アスランを見上げる。
「アスラン……」
熱っぽく呼ぶ声でアスランはそれを理解したようで、中途半端だった自分の衣服を手早く脱ぎ去ると、カガリの体を再びベッドに沈めた。
「カガリ、本当にどうしたんだ、一体?」
アスランはまだ困惑しているようだった。
「アスラン……早く」
カガリはその問いには答えずにアスランを急かした。瞳を濡らして、切なげに言うカガリにアスランは唾を飲んだ。
「そんなふうに言われたら、手加減できなくなるんだが」
カガリの大腿を開きながらアスランが言った。
「いいぞ、手加減なんかしなくて」
脚をいっぱいまで開かされた、情欲をそそる格好で、さらに煽るように甘い声で言った。アスランの前に横たわる姫君の、その幼さの残る清純な顔立ちからは想像もできないほど淫らな姿だった。
それでもう、抑制が効かなくなってしまったらしく、アスランは噛みつくように口づけながら秘部を指で弄った。
花弁を指先でなぞり、壺口に差し込むと、そこはすでに熱く、蜜でとろとろになっていた。
「すごい……俺にしててこんなになったのか?」
触れてもいないそこが愛液であふれていたことに、アスランは驚いた様子だった。
「アスラン、もう、いいから……早く」
カガリはアスランの髪をひっぱるようにして求めた。
「いいのか、カガリ」
「はやく……」
色付いたからだに、切羽詰まった声で欲しがられて、アスランにためらう理由などあるはずもなかった。いつになく乱れ、積極的に自分を求めてくるカガリにアスランの自身も熱く膨張し、雫をこぼしていた。それを秘部にあてがい、先端に蜜を絡めてから、アスランはゆっくりと腰を進めた。
「ふぁ……ぁ……」
熱く、固いものが押し入ってくる感覚にカガリが悶える。浮き上がりそうになるカガリの腰を掴んでぐっと引き寄せ、アスランはその胎内を確かめるように慎重に奥を目指した。
そうして自身をすべて埋めきってから、深く息をつき、アスランはカガリにこつりと額をあわせた。
「大丈夫か? カガリ」
久しく味わっていないアスランに、カガリの内壁はもうそれを締めつけ始めていた。
「ぁんっ、はぁ……だいじょうぶ……きて」
額を寄せてきたアスランの前髪をさらりと掻き上げて、カガリはその首に腕を回した。
「ふっ、ん……あぅ……っ」
馴らすように、数回緩やかな動きをして、アスランはカガリの肩を抱くと、激しく腰を打ち付け始めた。
「や、……あっ、あっ! んッ」
激しく突き入れられる熱いものにカガリが高く悲鳴のような嬌声をあげた。腕を、脚をアスランに絡ませて、カガリはその快感を享受した。
そうして律動を感じながら、つぶっていた瞳を開いてみると、快楽に顔を歪ませて自分を貫くアスランの艶麗な表情と出会った。カガリはそれを鑑賞するようにじっと見つめた。
これは、本当なのだと。
眼で、耳で、手で、躰すべてで感じている彼は確かに自分のものなのだと。こうしてやっと信じられる。
不自由な自分を見限ることは彼にはとてもたやすいが、こうしている限り、きっと彼を縛っていられる。
「は、っ……カガリ」
強い琥珀の視線に気が付いて、アスランは名を呼び食らい付くようにキスをした。貫く速度を落として、二人は互いの唇をしばらく貪りあった。
「アスラン、もっと」
息継ぎのため唇がわずかに離れたその一瞬に、カガリが言葉を滑り込ませた。ゆっくりとした律動を続けるアスランに体が疼いてしかたがなくなっていた。
「もう……少しだけ」
アスランはそう言うと、じっくりと味わうようにカガリの中を行き来した。
「ふぁ、……あっ」
ぬるま湯のような快感ばかりを与えられて、カガリは堪えきれなくなってくる。
「アスランっ……お願い、もぅ、私」
カガリは喘ぎ、懇願した。
「ん……カガリ……」
アスランはそれを了承すると、カガリの脚を高く持ち上げ自分の肩にかけた。そして両手で腰を捕まえると、勢いよく突き入れ、激しく腰を振りだした。
「あ! は、あっ、あっ、やぁッ!」
やっと得られた激しい律動にカガリは思いっきり喘いだ。アスランは大きく腰を動かし、自身を擦りつけ、カガリを突き上げ続けた。
「あっ、あぁっ、あすらっ!……はぁんッ」
カガリは途切れ、途切れに何度もその名前を呼んだ。次の新月までの間、口にできないぶんの埋め合わせのように。
「カガリ……カガリ……っ」
切れた息のなかでアスランも何度もそれに応えた。
喘ぎ、息を切らせて二人は互いに体をぶつけ続けた。
しかし、深く愛し合う二人にも、しだいに甘い時間の終わりが近付いてきた。それを互いに感じとると、終焉に向かって加速していった。
そうして、二人は昇りつめる。
「あっ!あっ、やはッ……ああああぁっっ」
絶頂に達したカガリが叫んだとき、胎内のアスランもふるえ、そこに熱い想いを吐き出した。すべて吐き出して自身を引き抜くと、アスランはカガリの傍らに倒れこんだ。
カガリは荒い息を吐きながら、けだるい体をその胸に寄せた。まだ、終わりにしたくはなかった。
ためらいなく、こわばりの緩みかけたアスランの自身に手を伸ばした。それを両手で握り込む。
「カガリっ?」
まだ整わない息のなかでアスランが驚いた声をあげた。
「いやか? アスラン」
カガリのほうもまだ平常な息遣いにはなっていなかった。絶頂の余韻もまだ胎内に響いていたが、一瞬でも暗澹としたものを思い出したくはなかった。
「いやだなんて、それは嬉しいけど」
アスランは言い淀んだが、カガリはその言葉を切った。
「じゃあ、いいだろ?」
短く言って、カガリは手の中のものを扱きだしたが、その手をアスランが掴んだ。
「カガリ、本当に、どうしたんだ?」
翡翠の瞳が探るようにカガリをうかがってきた。
「別に、何もないぞ……」
その瞳には簡単に見抜かれてしまいそうで、カガリはそれを見ないようにした。
視線をそらし、まつ毛をふせたカガリを、アスランはただ見つめていたが、深くため息をつくと、その体をやさしく抱き締めた。
「今朝のことだろ? カガリ」
カガリの心を見事に見透かす、アスランのやさしく鋭い翠緑の双眸。それでもう、カガリは何も言えなくなってしまった。
アスランは小さな体を抱く腕に力を込めた。
「俺は、悔しかった」
ぽつりと独り言のようにアスランが言った。
「朝、カガリがずっと前を歩くのを見てて、どうしようもなく悔しかった。カガリがあんまり遠くて、手なんか届かないように思えて」
カガリは黙ってそれを聞いていたが、そのアスランの告白は強く胸に響くものだった。あのときアスランもまた、自分と同じような気持ちでいたのか。
恋人との絶対の距離への恐れが、自分一人のものではなかったのだと思うと、胸にしみるような安心感が広がっていった。どんな不安も、二人で感じるのなら怖くはなかった。
アスランは噛み締めるように言葉を続けた。
「俺にもっと力があったら、カガリをさらって行けるくらいの」
「さらって、アスラン」
カガリは願いをこめて、そう言った。
重たい家に縛られた、自分の鎖を解くことはきっと誰にもできないだろう。けれども、アスランが自分を愛してくれるのならば、心は自由になれるのだ。
アスランのものだけになれる。たとえ、それが刹那でも。
「朔の夜だけでいい、私をさらって。アスラン」
それはカガリの、今、唯一望むものだった。いつか終わりのくる幸せでも、浸れるならばそれでいいのだ。
いつか二人を分かつものが、死か、別れか、それが訪れるまでは。
「アスラン……」
カガリはもう一度、恋人を呼んだ。
「カガリ」
二人は互いに、互いの名で呼びあった。今だけ呼べる甘いその名前を。
その甘さに満ちていく気持ちにアスランとカガリは唇を交わした。
そうしてまた、二人は溺れていった。
恋するがゆえに繰り返し生まれる不安も恐怖も、恋の熱で溶けていく。欠けた気持ちも、恋人によって満ち足りる。
無の月ですら満ちて輝く。
禁じられた二人は朔夜に満ちるのだった。





生まれて初めて書いた小説です
アスカガに出会わなければ物語を書こうなんて
思い立つこともなく生きていたと思います

お恥ずかしい文章ですが、ほぼ初出のままです

初出 2006/06/08