夜が来るまでおやすみ

『これは恋ではなくて』後日談




「すごい! 部屋から海が見えるぞ」
 仲居に案内された部屋に入るなりカガリは窓辺に駆け寄った。軽やかな駆け足にワンピースの裾がひらりとなびく。
「今日はよく晴れてますから、夕日がきっと綺麗ですよ」
 淡色の着物を着た仲居がカガリの背中に声を掛ける。
「夕日かぁ、いいな」
「海に沈む夕日をお部屋から眺めて頂けるのも当館の自慢なんですよ」
 運んできた二人分の荷物を置くと、仲居の女性は机の上のパンフレットを広げた。見開きで掲載されていたのは朱色のインクを溶かしたような鮮やかな色の海と、そこへ沈もうとしている夕日だった。
「この部屋からも見られるのか?」
 カガリは背伸びして窓の外を眺めている。
「はい、もちろん。こちらのお部屋には専用の露天風呂もご用意がございますので、温泉を楽しみながら夕景を眺めることもできますよ」
「え?」
 仲居の言葉を聞いてカガリが丸い目で振り向く。
「この客室、露天風呂がついてるのか?」
「左様でございます」
 茶器の用意をしながら、仲居はにっこりと笑った。
「そちらの扉の先が脱衣室、さらに奥にお風呂がございますよ」
 聞くなりカガリはほとんど飛んでいってしまった。
 扉を開ける音が聞こえたかと思うと続けて歓声が上がる。
「アスラン、アスラン、すごいぞ。部屋に露天風呂がある! 入ろう!」
 座椅子に座るアスランをめがけて飛び込むように戻ってきたカガリは目をきらきらさせていた。
「そうだな、カガリ、ひとまずお茶を頂いて落ち着こうか」
 卓上には湯気の上がる煎茶がすでに二組用意されていた。
「よろしければお茶菓子もお召し上がりくださいませ」
 仲居も菓子が載った漆塗りの器を差し出してくれた。
「そっか、うん……頂きます」
 カガリは我に返った様子で興奮をおさめると、うなずいてアスランの向かいに正座した。
「つい、はしゃいでしまって……恥ずかしいな」
「俺はカガリが楽しんでくれて嬉しいよ」
「だって、私このところずっと楽しみにしてたんだ」
 二人での旅行を計画したのは一ヶ月前のことだ。
 アスランとカガリが交際を初めてから三ヶ月目になる日がちょうど土曜日だったので、記念の意味も込めて温泉にでも行かないかと、そう提案したのはカガリのほうだった。どうやら記念日デートという単語をどこからか仕入れてきたらしく、せっかくなら遠出がしたいと企画のときからテンションが高かった。
「アスランに宿選びをお願いして正解だったな」
 食事や風呂の案内を終えた仲居が退出すると、カガリはくつろいで大きく伸びをした。
「この部屋、気に入ったか?」
「うん、すっごく」
 座卓に頬杖をついたカガリは満面の笑みだった。
 その姿勢が体の線を強調していることにカガリが気づいているはずもないのは、幼さを感じるほど屈託のない表情でわかる。
「部屋に露天風呂が付いてるのがよかった?」
「そうなんだよ。友達……ラクスたちともけっこう温泉旅館に行ったりはしたけど、露天風呂付きは初めてなんだ」
「まだ夕飯までは時間があるぞ」
「だよな? さっそく入ってこようかな」
 湯呑みのお茶をちびちび飲み干してから、カガリはすぐに立ち上がった。自分の荷物を解こうとしてから、ふとアスランを振り向く。
「あ、私が先に入っちゃってもいいのかな? アスランも露天風呂、気になるよな。じゃんけんする?」
「順番を決める必要なんかないだろう。一緒に入ればいいんだから」
 カガリと視線がはちあった。琥珀色の瞳が何度もぱちくりとまばたきする。
「一緒に露天風呂に入るのか? なんで?」
「俺とカガリは付き合ってるじゃないか」
 首を傾げていたカガリがとたんに吹き出し、笑いはじめた。
「付き合ってたって一緒に入浴はしないだろ! おかしなこと言うなあ。私、キラとだって一緒に風呂入ったりしないぞ」
 笑いながらさっさと入浴の用意を調えてしまう。よほど露天風呂が楽しみなのだろう。
「で、どうする? じゃんけんするか?」
 カガリはちょっと真剣な表情をしてみせる。
「いいよ、こういうのはレディーファーストじゃないかな」
 なにかしらの勝負をするつもりでいたらしいカガリはそんなのはつまらないとまで言ったが、アスランは部屋でくつろぎたいのだと説明した。カガリがスキップするように脱衣所に向かう背中を見送って、アスランは深くため息をついた。
「まいった。先が思いやられるな……」
 一緒に入浴してはどうかという誘いにはカガリの動揺を試す狙いも込めていたのだが、それを笑い飛ばされるとは思わなかった。それほど遠回しな表現ではないと思ったのだが、カガリに意図を伝えるには不十分だったということだ。
 良く言えば純真だということなんだろうが、カガリには駆け引きが通用しない。この三ヶ月でアスランは身に染みるほど思い知らされていた。婉曲的な言い回しではカガリは言葉の通りに受けとるのだ。アスランのアプローチも、ほとんどがまるで霧に向かって投げかけているようだった。
 だからといって、つまるところアスランががカガリに何をしたいと思っているのかをはっきり言葉にしたら、それはそれで上手くはいかないだろう。カガリの動揺は簡単に想像できる。
 じつは二人が交際を始めた経緯は少々特殊なのだ。恋愛初心者というカガリの不安を酌んで、三ヶ月目までは試用期間という扱いになっている。そしてその試用期間中は一線を越えないという規約があるのだ。その規約がこれまでのブレーキになってくれたところは多分にあった。
 しかし、その試用期間も今日で終わりだ。もしかしたら、カガリが温泉に誘ってきたことにはなにかしらの真意があるのだろうかと、ほのかに期待したアスランだったが。さっきのやりとりでその期待もきれいに流されてしまった。
 どうしたものかと、アスランは湯呑みに残った煎茶を揺すりながらぼんやり考えた。浴衣姿のカガリがすぐ隣の布団で眠るなどという状況は、我慢を強いる罰のようですらある。散歩ができる気候なら夜中に海岸を歩いて過ごしてもよいのだが、旅館へ来るまでの道中も厚手のストールと手袋を外すことはできなかったのだ。深夜の海辺はいかほどだろうと考えながら立ち上がり、アスランは窓辺に近づいた。
 部屋から見える夕日が自慢だというだけあって、客室の窓は大きく、天井から床までがガラスになっていた。眼下の景色はすべて海と空の青一色である。
 穏やかな波は午後の陽射しを乱反射してきらめいている。潮騒が聞こえるほど、海はほとんど目の前にある。室内では寒さを感じないが、海風は容赦なく冷気をぶつけているのだろう。露天風呂はもしかすると寒いんじゃないだろうか。アスランはふとそのことに思い当たった。温泉に浸かっても海風は冷たいはずだ。
 なかなか戻らないカガリが気にかかり振り向くと、ちょうどそこに彼女がいた。
「あっ! 驚かそうと思ったのに。なんで振り向いちゃうかな」
 カガリは悔しそうにくちびるを尖らせた。
「いや、驚いたよ。いると思わなかった」
「ほんとかあ?」
 こちらを見て面白半分で探る目をする。
「露天風呂はどうだった?」
「うん、楽しかったぞ。景色がすごくよかったんだ。アスランも海を見てたのか?」
 アスランの隣に立つとカガリは窓に手をかけて外を見た。
「綺麗な海だよなあ。夏なら泳げたのにな」
「それなら、夏にまた来るか?」
「また来てもいいけど、次に旅行するなら他の場所に行ってみたいかな。色んな場所にアスランと一緒に行きたい」
 アスランを見上げるカガリは夏休みを待つ子供のような目をしていた。
「夏になったらどこか行こうよ! 国内でも海外でも」
「行きたいとこならどこだって連れていくよ」
「おまえはすぐそういう大げさなことを言うなあ」
 くすくすと笑う頬が色づいていた。彼女の肌が熱を持っているのがわかる色だった。カガリが髪を少しゆすっただけで、水を含んだ甘い香りがして、入浴の直後なのだと唐突に意識させられた。
(……髪にしずくが)
 忘れていたわけではないのだが、気づくとよけいに目が離せなくなった。浴衣の襟元からのぞく鎖骨も、締めた帯でなぞられた腰も。
「アスラン?」
 首を傾げると、髪のしずくがぽたりと肩に落ちた。薄い綿の浴衣はそれをさらりと吸い込む。素朴な布地の着物に帯紐を締めただけ。衣服の繋ぎ目が蝶結びだけなどという格好でカガリはそこにいるのだ。
 これも無意識なのだろうかと、アスランは目元をおおった。
「大丈夫か? もしかして頭でも痛いのか」
 顔をしかめたアスランを見て、カガリはあわてて腕にすがってきた。
「このところ寒かったし、風邪でもひいちゃったかな?」
 心配そうにアスランの額に手をあてる。浴衣の内側を強烈に意識させられている今、体に触られるのはだめ押しと同じことだった。
「なんだか、我慢してるのがばかばかしくなってくるな」
 愚痴るようにつぶやくと、カガリははっとして目を光らせた。
「我慢なんてするなよ。もしかして、せっかくの旅行だから体調悪いの隠してたのか? だったら……」
 言葉の途中でアスランはくちびるをふさいだ。カガリは当然、目を丸くして反射的に体を離そうとしたが、先回りして抱きすくめる。浴衣の下の彼女の肌がいつもより温かい。ほのかな汗でしっとりとした布地一枚だけがその体を包んでいる。
(これは、まずいな)
 制止をかけようと心のなかで言ってみても、あまり役には立たなかった。くちづけはいつのまにか深くなっていた。カガリの呼吸が不規則になる。はじめは押し返そうとしていた手もいまはアスランの肩に置かれていた。
 抵抗の気配がないのをいいことに、アスランはほとんどなしくずしに彼女の重心を奪うと窓辺に置かれていたソファに押し倒した。
「あすら……」
「我慢しなくていいと言ったのはカガリだぞ」
 くちびるが離れた瞬間に素早く囁いた。
「え、違う、それは……あっ」
 返答する間もなくカガリはびくりと震えて声をあげた。アスランが脚を撫で上げたからだ。ソファに倒れこんだ拍子に浴衣の裾は大きくはだけていた。
「こんな格好のカガリを前にして耐えろというのはさすがに無茶だ」
 カガリの体を手のひらでゆっくりなぞって胸に触れた。風呂上がりだからか浴衣だからか、カガリは下着を着けていなかった。煽られるより呆気にとられて、アスランは手を止めた。
「……君は俺を試してるのか?」
「な、なんのこと……」
 カガリの声はうわずっていた。琥珀色の瞳は大きく揺れている。アスランの手に感じる鼓動は追い詰められた獲物そのものだった。
「カガリ、びっくりしてる?」
「あ、当たり前だろ! だって、おまえ」
「心臓がすごい鳴ってるぞ」
「やっ……」
 手のひらに含んだところを押し上げるように触った。
「いや?」
 たずねてから、じっと見下ろして答えを待った。カガリは恥じらいを飲み込むように息を吸ってから小さく言った。
「いやっていうわけじゃない……けど」
 言質をとっているような気分だったが、これは逃せなかった。
「それはこの先に俺がしようとしてることをわかって言っていると思っていいんだな」
「そ、そ、その言い方はなんかずるいぞ」
「じゃあ、どう言えばいいんだ? 具体的に説明しようか」
「そうじゃなくて、うう、もう……ばか」
 カガリはほとんど泣き出しそうな顔だった。
「ていうか、なんでいまなんだよ……普通に話していただけなのに」
「これも詳しい説明いるか? じつは手を止めたままなのが辛いんだけど」
「いや、だってさ、日が暮れたらせっかくの露天風呂が」
 まさか彼女が景色の心配をしていたとは思わず、アスランは思わずまじまじとカガリを見た。情事のさなかにあってもカガリはどうやら変わらないらしい。どこまでも少女のような彼女につい気抜けしてしまいそうになる。
 色気のある方向へに思考が向かわないのは、たぶんそれがカガリにとって未知のことだからだ。快楽の味を覚えたら、彼女はいったいどうなるのだろうか。
「無理強いしたいわけじゃいんだ。でも、俺はカガリが欲しい」
 熱意を込めて囁くとカガリの瞳に小さな炎のような熱が見えた。幼さの内側にひそむもの。
「カガリ……」
 額をよせてキスをしようとした直前に、カガリははっと我に返った様子で声をあげた。
「あ! ちょっと待った! もしかしたら」
 カガリが言うより先に部屋のドアがノックされた。
 苦々しい気持ちでアスランは動きを止めた。
「誰だ? 夕食には早すぎるだろう」
 いぶかしんでドアを見ると、再びドアをこつこつ鳴らされた。
「部屋を間違えられているのか」
 いっそ無視しようかとしたところで、三度目のノックが響く。
 さすがになんらかの要件があるのかもしれないと思い、アスランはカガリの浴衣を軽く整えるとドアに向かっていった。扉を開けた先にいる人物を知っていたら開けずに済ませたのかも知れないが。
「なんだ、いるんじゃない」
 四度目のノックをする構えで出迎えたのは、キラだった。まんまるになった紫色の瞳と鉢合ってアスランは思わずのけぞった。
「キラ、おまえどうして」
「どうしてじゃないよ。なかなか返事がないから部屋にいないのかと思ったよ」
「早かったんだな、キラ!」
 アスランの背中に飛びつくようにしてカガリがキラに顔を見せた。
「うん! 予定より早く仕事が片付いたんだ。浴衣着てるてことはカガリはもう温泉入ってきたの?」
「あのな、この部屋露天風呂が付いてるんだ。今からなら海に日が沈むのも見れるぞ」
「ほんと? タイミング良かったなあ。僕もさっそくお風呂にしようかな」
「いや、ちょっと待てよ」
 靴を脱いで部屋に上がろうとするキラをアスランは手を向けて制止した。
「なんでキラがここにいるんだ? 二人の会話を聞いてるとカガリが呼んだように聞こえるんだが」
 混乱するアスランを見るキラがいかにも楽しそうに笑っているあたりに悪い予感しかしない。
「え? キラ、おまえ、もしかしてアスランに言ってないのか? アスランには僕からうまく話すからなんて言ってたのに」
「ごめんね、うっかり忘れてたみたい」
 キラはカガリに向けて詫びる仕草をしていたが、変わらず笑顔なので反省はどうもなさそうだった。カガリはむっと眉を寄せて弟を小突いてからアスランに説明した。この旅行の計画のそもそもの発案者がキラなのだということを。
「最初はアスランと二人で旅行しようとしてたんだぞ。でも、後からキラも参加したいって言い出してさ。旅行なら人数が多い方が楽しいよねって言われて、私もそうだなって思ったんだ」
「大人数の方が楽しい……か」
「楽しいでしょ?」
 キラは茶菓子をつまみながら言った。
「いま一番楽しんでいるのは間違いなくおまえだな。それより、俺の記憶が正しければこの旅館は俺が二名で予約したはずだったんだが」
「後から僕が三名に変更しておいたんだよ。連れとして少し遅れて到着することも伝えてあるから心配ないよ。お祝いのサプライズだって説明したら配慮もしてもらえたし」
「まったく、なにがお祝いだ」
「お祝いだよ、楽しめたんじゃない? いろいろと」
 キラは含みのある目配せをする。
「アスランとのふたりっきりの時間はどうだったかな、カガリ」
「どうって言ってもいつもどおりの……」
 答えかけてカガリは急に火がついたように真っ赤になった。目をそらして黙ってしまう。
「え? うそ、なに? もう? えええ、それはちょっと早すぎるんじゃない」
「……俺はなにも言わないからな」
 詳細を求める目をするキラにアスランはむっつりとそっぽを向いた。
 盛大ないたずらをしかけてくれたキラにはそのうち必ず礼をさせてもらおうと、ふつふつと腹の内を煮やしていたが、その一方でほっとする気持ちがどこかにあった。カガリを真綿で幾重にもくるむように大切にしたい気持ちと、抑えのきかなくなりそうな衝動がいつも体の中にある。カガリの肌に触れたときに果たして自分が理性を保っていられるだろうかと、じつのところ自信を持てないでいる。
 かなり不本意ではあるが、キラの登場のおかけで自分を見失わずに済んだと思う部分もじつはあるのだ。
「陽が傾いてきたね、天気がいいから海に夕日が沈むとこ、見られそうだね」
「そうなんだよ! 部屋の露天風呂からも海が見えるから行くなら今かもしれないぞ」
「露天風呂付きの部屋なんて、アスラン、張り切ったんだねえ」
キラがにやにやした顔でアスランを振り向く。
「キラ、おまえ本気で楽しんでるな」
「もちろん! カガリとの旅行なんて久しぶりだもん」
「……俺は初めてなんだけどな」
 恋人との初めての温泉旅行が彼女の弟同伴の上、三人で川の字になって眠ったなんて笑い話にしても信じてもらえないだろう。次回のカガリとの旅行のときには、二人きりであるかを確認する必要があることを、アスランは脳裏に書き付けた。
 さっきまでの会話で、行きたいところがあるのならどこへでも連れていくよ、と答えたのは本心だ。カガリと一緒に出かけるならばどこでも楽しめる場所になる。
 キラと話すカガリがのびのびとはしゃいでいる様子を見ながら、今日はこれでよかったのだと思った。カガリの内側で、少女の姿をしたままずっと眠っていたものを起こすには、まだ時間が早いのだろうから。




2018年に書いたものなんですが、
書いてそのままになっていたので

2024/10/30