燃える星
種後
「死なせないから、お前」
それは、絶対の誓いだという気持ちで口にした言葉だった。アスランには生きて返るつもりがないのだと気づいたから。戦場への道を片道だと決めて帰ることはすでに無いと考えているアスランを断固として連れ帰ると自分に誓った。
その一方で、実際としてそれが難しいことだとわからないほど、カガリは無知ではなかった。悲観でも感傷でもなく、現実的な未来の仮定として生還できる確率は低かった。かつてない激戦の渦中に飛び込むのだから、無事でいられることの方がずっと難しいのだと頭の奥では理解していた。だとしても、どうして諦められるだろう。
アスランが自爆しようとしていると気づいたときは、おそろしさに心臓が凍りついた。どうしようもないのかと冷たい諦観に足を取られそうになったが、それでもカガリは自分の誓いを諦めなかった。そうして懸命に勇を奮わせていたカガリにとって、五体満足で帰艦を果たせた瞬間は気を失いそうなほどの安堵の瞬間だった。
「カガリ!」
張りつめていた糸がふつりと切れるように、腰が抜けてしまったカガリをとっさにアスランが支えた。
「大丈夫か?」
「あ……ありがと、う」
アスランの腕にすがりながら、カガリは体勢を整えた。
「わるい……なんだか、ほっとしたら気が抜けちゃって」
ルージュに回収するなり気絶してしまったキラを、救護班と共に雪崩れ込むように医務室に運び、医師の診断とバイタルを確認するまで生きた心地がしなかった。フリーダムから投げ出された衝撃と深い疲労で彼の体は困憊しきっていたが、命に別状はないと、聞くなり、カガリは足の力がすとんと抜けてしまったのだった。
「カガリもひとまず休まなくては。君の居室は?」
「……ブリッジの近くだ」
「わかった。少し待ってくれ、誰か呼ぶから」
世話を女性に頼むつもりなのだろう、看護師に声をかけようとしたアスランの腕を掴んでカガリは言った。
「アスランと一緒がいい……一緒にいてくれ」
パイロットスーツを震える指でぎゅっと握った。離れないでほしい、どこにもいかないでここにいてくれ、と願いながら指に力を込める。彼を失うかもしれないという恐怖がまだカガリの中に残っている。
「……わかった。立てるか?」
アスランはいたわるようにカガリの手を包んだ。断熱材の手袋ごしではわずかなぬくもりも伝わらなかったが、彼の手の感触にほっとする。それから、お互いに無言で艦長室を目指したが、アスランも同じ安心を感じていることは黙っていても伝わってきた。部屋に向かう中途でブリッジに立ち寄り、無事に戻ったことと怪我のひとつもしていないことをキサカに伝えたときには、カガリは自立する気力を取り戻していたが、アスランの手を離すことはできなかった。
格納庫や医務室が騒然とする一方で、艦橋はすでに半舷体制だった。緊張の解けた空気の中で、キサカも表情を緩めて「後のことはいいから、まず休め」とカガリに言った。極限の戦闘でぎりぎりに引き絞られていた弦がようやく緩められたのだ。事態の収拾と救護活動への最大限の尽力は続いていたが、死と隣り合わせの戦いはもうここにはない。
自分の部屋のベッドに座り込みながら、カガリは深いため息をついた。
「大丈夫か? 気分は?」
カガリの前に膝をついたアスランがドリンクパックを手渡す。気遣う声は優しかったが、彼もどことなく顔色が良くない。
当然だ。心身ともに疲弊しきっているのだ、彼もまた。アスランが疲労も、悲嘆も、後悔や苦しみも優しい表情の下に押し込めてカガリに精一杯の優しさを注いでいるのだと気づいて、胸がいっぱいになった。
「おまえこそ……」
言いかけて、言葉に詰まった。彼に言いたいことはそれこそ山のようにあった。目の前で父を失ったことを悼み、掛けたい言葉もあったし、一人でジェネシスの深部に行こうとした彼に張り裂けそうだった胸の内を伝えたくもあったし、それでもこうして生きて再び向かい合えている安堵をただ共感したくもあった。けれども、何も言えなかった。
アスランへ腕を伸ばし、肩を抱きしめ息を吸い込んだ。
ああ、ちゃんと、ここにいる。幾百の言葉にも勝る。腕の中の彼の確かさがすべてだった。
「よかった……おまえが死ななくて」
声に出した途端に涙があふれた。ルージュのなかでも喉が嗄れるほど泣いたのに、心から安心できたのは今が初めてだった。
「……カガリ」
アスランの腕がカガリをきつく抱き返した。名前を呼ぶ声に語り切れない感情がこもっていた。背を撫で、上ってきた手がカガリの髪を撫でた。パイロットスーツの硬い感触。彼の手だけど、そうじゃない。形がよくてしなやかな、あの手じゃない。急にたまらないもどかしさを感じて、カガリはおもむろに自分のスーツのファスナーを下ろした。
「どうした……」
アスランが驚いているうちにスーツの上半身を脱ぎ去った。分厚い殻で覆われていたようだった素手を取り出し、アスランの頬に触れた。やわらかな肌の感触が手のひらに触れる。命ある者のぬくもり。肌の下を流れる血潮。失われていない。ちゃんとここにある。
「あったかい」
彼のまるい頭を胸に抱えた。
「あったかい……生きてるな、アスラン」
やっと実感できた。安堵と喜びがこみ上げるほど涙が止まらなくなる。
「カガリ」
こちらを見上げた彼と視線が合わさると、どちらからともなく唇を重ねた。目を閉じるとまつ毛から涙が滴り、アスランの頬にぽつりと落ちた。カガリの目から次から次にあふれてくる涙をぬぐおうとして、アスランは手を止めた。短い静止の後、思い直した様子で自分のスーツに手をかけて片袖を脱いだ。硬い手袋を取り去った手がカガリにそっと触れる。アスランの指先、手のひらがカガリの頬を撫でる。彼の手ははっとするほど冷たかった。
「アスラン、手が」
「……怖かった」
カガリの顔かたちを確かめるように触りながらアスランが言った。
「ジャスティスのパスワードを入力しようとした時に、君の声が聞こえて心臓が凍りつくかと思った。カガリを巻き込む寸前だった。あのまま気づかずボタンを押していたら君を死なせてしまうところだった」
「それを、おまえが言うのかよ」
「そうだな……ごめん」
こつんと額を寄せたアスランが言葉の代わりにキスをする。
「謝ってほしいんじゃない……もう」
カガリからも唇を寄せた。生きている。温かい。息をしている。ジェネシスの核爆発に飲まれていたら骨の一片も残らなかっただろう。だけど、アスランは何も欠けずにここにいる。
「アスラン」
何度も何度もくちづけた。角度を変え深く唇が合わさった時に、舌に舌が触れた。ぬくもりに誘われるように口を開いたら、アスランの舌はカガリの口内をいとおしげに舐めた。
「はぁ……」
こういうキスがあるのか。舌を互いに絡ませ舐めあい、とろりと合わさる。唇から溶けてひとつになるような錯覚に落ちそうになる。
「……カガリ」
アスランの手がうなじを通り越して、肩から鎖骨へ下りて探るように撫でた。カガリの形を確かめるような手つきだ。
お互いにお互いの命を、息吹を、体温を実感したかった。余すところなく合わさるようなキスをしても、まだ足りない。埋めても埋めてもまだ隙間があるようで、もどかしい。
スーツを着たままだったアスランの左袖を脱ぎ落として、カガリは彼の両手を握った。触れたところから安心感が沁みていく。
もっと触れていたい、と思ったときだった。アスランがふいに身を引いた。
「どうか……したか?」
「いや……」
言い淀んで彼は曖昧に微笑んだ。
「その、これ以上は」
なにが、とは言わずに彼がほのめかしたことをカガリはしばらく考えてから理解した。これ以上、とは何を指すのか。このまま進めば、二人は一線を越えることになる。
どういう行為であるかカガリだって知らないわけではない。学問のひとつとして習ったその行為のすぐそばまで二人は来ている。そのことに気づかなかったのは、学習したこととあまりにかけ離れていたからだ。図説と共に習った行為には何の温度もなかった。
似て非なるものだ、と思った。いま、カガリが求めている触れ合いは、もっと差し迫ったものだ。
「いいんだ」
囁いて、カガリはアスランの唇をついばんだ。
「止めないでほしい。私も、アスランも生きて戻ってこれたんだと実感したい」
泣き出しそうな顔をしたかと思った次の瞬間、アスランは噛みつくようなキスでカガリをむさぼった。
きっと、彼も自分と同じような気持ちでいるのだろうと、感じていた。おびただしい死と破壊に満ちた地獄を二人で見てきたのだ。兵器の残骸が漂う暗い宇宙をルージュのコックピットから二人で眺めたとき、二人の心に広がったのは終戦の感慨などではなく底のない虚無だった。
無言で抱き合うしかなかった。
それでも私たちは生きている。
無音の、無重力の、灼熱でありながら凍てつく寒さの、およそ生命の居場所とも思えない宇宙空間で、二人だけが生きているんじゃないかと、思えるほどだった。
舌先が溶けるようなキスを繰り返しながら、アスランはカガリに触れた。やがてアンダーシャツの下に入り込んできた手は温かく、カガリのしっとりと汗ばんだ背中や胸を丹念に撫でた。
冷水に濡れたようだったアスランの手がいつの間にか熱を持っている。その手で触れられたところから、カガリの肌も熱を取り戻すようだった。夢中でお互いを求めるうちに息まで上がってくる。
「……んっ」
感じやすいところを触られると喉の奥から勝手に声が漏れた。自分の声に頬が熱くなる。顔をおおいたいような気もするのに、もっと欲しいと思う。自分の中にこんな欲があるなんて。
身体の奥に火が灯る。命ある限り限り熱を発し続ける生命の、もっとも熱いところ。どちらのものかわからないくらい混ざり合った体液の雫のように、溶け合ってひとつになる。