夜の爪先
原作軸
「パチン」と音がした。
小さな、でもはっきりとした音だ。カガリは雑誌のページを繰る手を止めた。
一呼吸おいて、またパチン、パチンと続けて同じ音が聞こえる。ゆっくりと確かめるように、そしてリズミカルに音は続く。
洗面室から聞こえてきたその音を聞きながら、カガリは再び雑誌の記事に目を落とした。オーブ国内のリゾートを特集した記事は写真も文字も十分に魅力的だったが、すべて頭を素通りし始めていた。頭の中は別の考えでいっぱいになってしまっていた。
脳裏を占めていたのは十日ほど前の出来事。仕事の後、アスランの部屋を訪れたときのことだ。
議会での発言が思うように通らず、苦い気持ちで一日を終えた日だった。その日の公用車は近場だからとアスランが運転していたため、議場からアスハ邸に向かうあいだはアスランとカガリの二人きりだった。彼と二人になってもカガリはくつろぐ気分にはなれず、車内の沈黙は重たく肌にまとわりついた。その車のハンドルをアスランが唐突に方向転換した。
議場の空気を引きずっていたカガリは驚いて顔を上げた。彼が理由もなくルートを変更するとは考えにくかったので「なにか、まだ予定があったか?」とたずねると、アスランは一言「海に行かないか」と提案とも誘いともつかない答えを返して、ほんとうに海に行ってしまった。
アスランなりの気晴らしの勧めだったのだろう。夜の色に染まった海は穏やかにさざめいていた。その海辺を二人で特別な会話もなく、ただ歩いただけだったが、カガリの心は不思議に落ち着いた。カガリの憂鬱を察して、気づかってくれるアスランの優しさが嬉しかった。
それで、つい甘えてしまいたくなって、彼の袖を引っ張り呼び止めたのだ。
「今日さ、もう少し一緒にいられないか?」
今思うと、それがアスランのなにかのスイッチを押したのだろうか。海辺から彼の部屋に移り、ベッドに倒されるまでの出来事は流れるようにすべらかだった。
気づくとシャツのボタンもほとんど外れていて、カガリはあわてた。そのような展開を予想しないわけではなかったが、心の準備くらいはさせてほしかった。アスランはこういう行為にはもう慣れてしまっているように見えたが、カガリはまだまだ初心者の気分なのだ。
シャワーくらい浴びさせろとバスルームに逃げ込んだ。アスランが引き止めようとして手を伸ばしたのを背中に感じたが、カガリは構わず扉を閉めた。この頃ずっと思っていたことだが、普段堅物とからかってもいいくらいに真面目で慎重なくせに、何かのきっかけで留め金が外れたようになる。アスランという青年の側面も内面も少しずつわかってきたのはくすぐったいような幸福だったが、彼のふいに見せる情熱は心臓に悪いとも思う。
白を基調に作られたタイル張りのバスルームだった。アスランの部屋のシャワーを使うのは何度目かになるが、馴染みのような落ち着かないような、どちらともつかない気分になる。息を整え心を決めて、カガリがシャワーのバルブをひねろうとしたときだ。
「パチン」と音が聞こえた。
はっとして耳を澄ますと、続けてまた同じ「パチン」という音。音を鳴らしているのは、アスランだ。
なんのことはない、爪切りの鳴らす音である。
それは、特別なことはなにもない音だったが、カガリは体の熱が一気に上がるのを感じた。アスランがカガリとの情事の前には必ず爪を整えていることを知っているからだ。そのことに気づいたのはつい最近だった。出張先のホテルの部屋でも、カガリの部屋に二人でいるときも、カガリがシャワーを浴びたりそばを離れたタイミングで「パチン」と音が聞こえることがあった。その意図に気づくまでは気にも留めなかった音である。手が空いたから身支度でもしているのかな、などと思ったこともあったが。爪を切ることと、その後に必ずする行為とを初めて関連づけて考えたときに、カガリは体内が燃えるような思いをした。
アスランはカガリを想って爪を切っているのだ。
だらしないという言葉とは無縁の彼は、いつもきちんとそれこそ爪の先まで整えていて、伸びっぱなしになっている様子など見たことがないくらいだったが。その彼が、あえて身支度をしている意味。
行為の最中にカガリを傷つけてしまわないようにという気遣い、それとたぶん行為そのものを存分に味わうため。爪の先で軽くひっかくように触れられることもあるので、たぶんそれも考えて彼は身支度をしている。
そういうことに気が付いてしまってからというもの、この「パチン」という音を聞くとカガリはいやおうなしに体温が上がってしまうのだった。
だけど、いまのこれはたぶん全然関係ない。
十日前の夜の出来事で考えがいっぱいになっていたカガリは、その思い出をふり払うように思いきり頭を振った。
と、またひとつ、アスランの爪切りの音が洗面室から聞こえてきた。
今は、休日の昼下がり。カガリはソファで寝転がりながら雑誌を眺めていただけで、アスランは書斎で本を探していただけだった。そのアスランが洗面室に入ったな、と思ったら爪を切る音が聞こえてきたので、ふいに記憶に引き込まれてしまった。おおかた、手を洗うときに爪が少し伸びているのに気付いたから切りはじめたというところなのだろうけれど。カガリは爪を切る音などに過剰に意識してしまう自分の頬をつねってやりたくなった。つねろうと触れた頬が熱い。
目的をもって身支度をするのは、肉食の獣が獲物を狙って爪を研ぐさまに少し似ている。その例えでいえば、獣は誰で獲物は誰にあたるのか。
洗面室の扉が開いた。
「……カガリ、どうかしたのか?」
アスランはカガリの顔を見るなりきょとんとした顔になっていた。その様子で自分がどんな顔をしているのかわかってしまった。
「どうもしてない!」
怒った声で返事をした。
整合性のない行動なのはわかっていたが、顔が赤くなっているのも自覚していたし、なによりアスランの顔を正面から見ることができなくなってしまい、カガリは足を鳴らしながらベッドルームに向かった。
「ぜんぶ、アスランのせいだぞ」
ベッドにうつぶせに倒れ込んで、カガリは盛大にため息をついた。ほとんど八つ当たりのようなことをしてしまったので、後で謝らなくてはならないのはわかっていたが、自分の不可解な態度の言い訳を探すのは難しそうだった。
リビングに残されたアスランはカガリが大きな音を立てて閉めた寝室のドアを見て、目をしばたいていた。
「……俺、なにかしたかな」
ゆっくりと髪をかき上げて、考え込む表情をする。
「女性を怒らせてしまったときはキスでもすれば機嫌がとれるとか言っていたのは、あれはディアッカだったか」
だとすると、あまり信用のできる手段ではないかな、などと口の中でつぶやきながらアスランは寝室の扉をノックした。