トロイメライ

03



 どちらかというと世話焼きとは真反対の性格をしているのが、アスランだった。
 人と積極的に関わりたがらないところもあるため、他人にわざわざ必要もないお節介をすることは、彼の行動範疇にはなかった。それだから、カガリに強引なくらいの手助けをしようとしているのが、自分でもなぜだかよくわからなかった。
 たしかに放っておくのは不親切なことであり、彼女に宿を提供することは良心のある人間としてはおかしくもなんともないことなのだが。
(キラが知ったらいぶかしむだろうな)
 紫の瞳に疑問の色が浮かぶ様を想像してしまいながら、アスランは鍵を取り出し玄関の扉を開けた。アスランがポケットを探る間も、カガリはきょろきょろとアパートの様子を観察していた。
「こういうかたちの家をアパートと呼ぶのか?」
「まあ、家主に借りて住まう家をアパートと呼ぶな」
「家主……地主のことか。ふうん」
 少し解釈が違う気がしたが、アスランは訂正せずに流しておいた。帰る道々に、アスランはカガリから同じような質問攻めにあっていたからだ。
 ターミナルビルのエレベーターの説明をせがまれることから始まり、バスに乗ればこれはどういう馬車なのかと問われ、窓の外に映るものすべてに、カガリはあれはなんだとたずねた。アスランが説明してやるとカガリは興味深そうに何度もうなずきながら聞いてくれるので講義のし甲斐があったが、その質問も息つく暇もないとさすがに疲れてしまった。
「……本当に何にも知らないんだな」
 扉を開けてもらうと、さっさと部屋に入って家具のひとつひとつを眺めているお姫様の背中にアスランは言った。
「何にも知らないから、今から知るんじゃないか」
 カガリは腰に手をあててみせる。
 長くぐずついていた天気がすっきりと晴天に変わったように元気になったカガリに、アスランはひとまず安堵していた。
「それにしても、すまなかった。裸足で歩かせてしまって。怪我してないか?」
 床に触れるほど長いドレスのすそがふわりと広がった拍子に白い足が見えて、彼女が靴を履いていなかったことを思い出した。
「いや、平気だ」
 ドレスを少し持ち上げて、カガリは片足をのぞかせてみせる。
「裸足で土を踏むのは好きなんだが。でも、これで洗わないといけなくなっちゃったな……」
「なら、シャワー使ってもう休むか? それとも何か食べてもいいけど」
「あ、お腹空いたぞ、私」
 カガリはいいことを聞いたとばかりに賛成した。
 アスランが作り置いていた野菜入りのコンソメスープを温め、パンと一緒にキッチンの小さなテーブルに並べると、カガリは何度もおいしいと言っておかわりまでしてくれた。お姫様の口に合うとは思わなかったなとアスランが冗談めかして言うと、料理長の晩餐よりおいしいという褒め言葉が返ってきた。城での晩餐がどんなものなのか、カガリの話を聞きながらアスランもスプーンを口に運ぶ。
 こうして、自宅で誰かと夕食をとるのは、アスランにとって何年ぶりかのことだった。
「なあ、アスランの他にここに住んでいる人はいないのか?」
 テーブルに頬杖をついて、カガリは二人分の食器を洗うアスランの背中をじっと眺めていた。カガリにはどうやら興味のある対象を見つめて観察する傾向があるらしい。
 手元に強い視線を感じて、それがそらされることがないので、アスランはなんだか動きづらかった。
「俺一人だよ、ここに住んでるのは」
「……家族はいないのか?」
「父親がいるけど一緒に生活しなくなって長いからな。独りみたいなものだ」
「せっかくの家族なのにどうして一緒に暮らしてないんだ? もしかして出稼ぎか?」
「ちょっと違うけど……」
 カガリの質問攻めの焦点が自分に当たるとは思わなかった。すれたところのない、純粋な興味からの問いにどう答えたものか、アスランは迷った。
「今の時代は家族が一緒に暮らす必要はあまりないんだよ。別々に生活しても金銭的に困ることはないし」
 たいしたことではないと言いたかったのだが、カガリはさらに詰めてきた。
「そんな、家族が一緒にいること自体が必要なことだろう? 離れて暮らして困らないならどうして一緒にいないんだ」
「父が俺のことを嫌いだからだよ」
 進んで話したい内容ではなく、カガリはまだ問いたげだったが、アスランは会話を打ち切った。
「そろそろ休まないか? いろいろあってカガリも疲れているだろうし」
「あ、……うん」
 納得しきれない様子だったが、カガリは小さくうなずいた。
「そっちの部屋が寝室になっている。俺はここのソファーで寝るから君はベッドを使ってくれ」
 キッチンとリビングのある部屋が一部屋、パソコンデスクのある寝室が一部屋、それから浴室の三つがアスランの生活空間だ。一人くらい同居人ができても十分な広さだった。
「ベッドを使わせてもらえるのはありがたいけど、その前に体を洗ってもいいか?足もこのままじゃ」
 寝室をぐるりと見渡して、カガリは自分の足元に目を向けた。
「そうだったな。シャワー使うか?」
「……シャワー?」
 カガリは右に首を傾けた。もしかしてと、じわりと嫌な予感が広がってきた。
「カガリはやっぱりシャワーを知らないってことになるのか」
「知らないぞ」
「でも、まさか一人で風呂に入ったことがないとは言わないよな」
「ない」
 腕を組んでカガリはきっぱりと言った。あっけらかんとした告白に、アスランは思わず脱力してしまいそうだった。
「悪いがこればっかりは手伝ってやれないぞ」
「でも、手伝いがないとまずドレスが脱げないんだが」
「背中のリボンを解くくらいなら手伝ってやれるけど、それから先は頼むから自分でやってくれ」
 性別の違いをまったく意識してない様子のカガリにアスランはため息をついた。
「俺が男なんだってわかってるのか? その気があれば君をどうにだってできるんだぞ」
「どうにだってって、殴るってことか? おまえはそんなことしないだろ」
 カガリの生きていた時代にそういう方面の教育は存在しないのか。だとしても、少しも意識されないのはもどかしかった。アスランの方はカガリのドレスの前開きから、少しだけのぞく胸の柔らかそうな様子にたびたび目をそらしているというのに。
 つまり、カガリの恋愛対象にアスランはかすってもいないのだ。それに気付くと、どうもむっとするような気分になるのだった。
「とにかく、郷に入ったら郷に従ってくれ。君のいたところは違うかもしれないけれど、この時代はひとりで入浴するものなんだよ」
 外に出れば年頃の女の子には危険も多い。カガリの今後のためにもある程度の警戒心は持ってもらうべきなのだろうが。それを一から説明するのは骨が折れそうなので、ひとまずアスランはカガリの背中を押してバスルームに促した。
 シャンプーやボディーソープ、蛇口の使い方からひとつひとつ教えてやり、カガリが飲み込めたところで、彼女のドレスのリボンに取り掛かった。すると、カガリは慣れた様子で後ろ髪を掻き分け、少し首をうつむけてアスランに背中を差し出した。
 女性の服の種類はわからないが、カガリの着ている布地が高価なものであることはアスランにもわかる。
誰が編み上げたのか、サテンのリボンはきっちりと隙なく結われ、ほどくのがもったいないくらいだった。するりとリボンの結び目を解いて、アスランはドレスの背中を緩めていった。
 ほどけたところからカガリの白い背中が少しずつ覗いていく。
 アスランは靴ひもを解くつもりで、自分の指先だけに目を落としてリボンに指をかけた。いまだ信じきれないが、カガリが眠って時を越えてきたというのなら、彼女は何百年も昔に誰かにこれを着せてもらったのだろうか。
「……ミリアリア、綺麗に着せてくれているだろう?」
 小さく、でも自慢げにカガリがつぶやいた。
「ミリアリア?」
「うん、侍女の名前だ」
 カガリの口から具体的な名前が出たのは初めてだった。アレックスを除いては。
「私の一番の侍女なんだ……」
 目を閉じて、カガリは続けた。
「やっぱり不思議だな……こうして私が生きているのが」
 夢なんじゃないかと思うと、カガリがもらした言葉に、アスランの胸に薄暗い不安がよぎった。
 カガリが話した、オーブという国や、カガリの住んでいた城、そこを脱出したときの様子は鮮明で生々しく、とても空想で語れるようなものではなかった。それでも、くつがえしがたい常識がアスランにもあり、カガリの話を澄んだ気持ちで受け入れられなかった。
 もしも、本当にカガリがここにいるはずのない人間なのだとしたら……
「シャワーが済んだらこれを着てくれ。俺のものだからサイズが合わないかもしれないけど」
「……ありがとう」
 ドレスと、その下のコルセットもリボンを解き終わると、アスランは自分の寝間着を洗面台の横に置いた。もしかすると、ミリアリアという侍女の話も、もっと聞いてやればよかったのか。どちらにしても、カガリの話をちゃんと信じてやればよかったと、アスランの不安が後悔に変わったのはその後だった。
 数十分後、浴室から出てきたカガリに代わってアスランもシャワーを浴び、二人は寝室とリビングに別れて眠りについた。
 疲れていたのか、アスランの意識はすぐに眠気に飲まれたが。
 真夜中に、目が覚めた。
 物音がした気がしたからだ。ソファーから身を起こし、暗い部屋で目をこらすと、寝室の扉が開いたままになってることに気がついた。
(閉めたと思ったんだが……)
 不審に思って中を見るとカガリがいるはずのベッドが空になっていた。部屋の中を探すより先に玄関のドアを確かめると、内鍵が開けられていた。
「こんな時間に、どこに……」
 支度もなにもせず、そのままで玄関を飛び出してきたため、夜の冷気が寝間着の下に入り込み体を冷やす。陽が落ちてから急速に下がった気温に地面も空気も熱をなくして冷え冷えとしていた。
 バスも動いていない時間だ。タクシーも安々とはつかまらないから、カガリも遠くには行っていないはずだった。
なにより、金を持っていない。
(くそ……カガリが出て行ったその時に気付けていれば)
 胸のうちで悪態をついて、アスランはとにかく足を進めた。あてずっぽうに捜して果たして見つかるものか。大通りに出るつもりでアパートの外階段を下りようとして、アスランはふと足を止めた。
 高いところに連れていってくれとせがんだカガリを思い出したのだ。
(高いところ……)
 アスランの住むアパートは四階建てだ。その二階にアスランの部屋があるのだが。屋上に上がれば周囲は十分に見渡せる。
 思い立ったのが先か、アスランは鉄の階段を駆け上がっていた。
 深夜三時を回った頃だというのに、出てみると屋上は思いのほか明るかった。満月だったのか、月が冴え冴えと照って、打ちっぱなしのコンクリートが広がる床に反射していた。
 そこに、カガリはすぐに見つかった。その後ろ姿にアスランはぞっと胸を冷やした。
 カガリがいたのは屋上の低い手摺りの上だったからだ。コンクリートに腰掛けて足をぶらつかせている。息を切らせて追い掛けてきたアスランには気付かず街を見下ろしていた。
「カガリ!」
 呼び終わるより早く、アスランはカガリに飛び掛かっていた。
 背中に鈍い衝撃を感じる。どうやったのかは自分でもわからないが、カガリを抱きかかえ手摺りから奪うように下ろすと、勢いのまま床に倒れ込んでしまっていた。
 つけた勢いに反してカガリが予想よりずっと軽かったのだ。
「つ……」
 アスランと同時にカガリも声をもらす。しびれて、二人ともしばらく動けなかったが、アスランの胸の上でカガリがのろりと体を起こした。
「おまえ……なんなんだよ」
「……すまない」
 アスランも起き上がりながら、しかし、手はカガリから離さなかった。
「もしかして、私が飛び降りるかもしれないとか思ったのか」
「そうとしか見えなかったぞ」
 白い月明かりにさらされたカガリは白黒の映像のように色がなく、ひどく儚く見えた。
「君はここにいることが夢みたいだと言ったけど、俺には君が夢みたいだ」
 目を離した隙に消えてしまいそうな、ここにいるはずのない人。
「でも、私はこうしてちゃんとここにいるじゃないか」
 肩を抱いたまま離れないアスランの手にカガリは触れて言った。
「決心がついたから、もう飛び降りたりはしないよ。私のほうがびっくりしたぞ」
 思い出してカガリは笑った。
「黙って出てきて悪かったよ。ただちょっと眠れなかったから、散歩してただけなんだ」
 そっと伏せたまつげに月光が降り注いだ。
「眠ったら、また違う場所で目を醒ましそうな気がして、眠れなかった」
「……君は、本当に何百年も昔のお姫様なんだな」
 アスランはようやく浸透するように理解した。どうやって時を越えたのか理論的に説明がつかなくても、カガリの存在がそれをなにより証明していた。
「なんだ、今頃信じたのか?」
「俺はどちらかというと頭が固いんだよ」
「そういうところ似てるよな」
 カガリはなにか思い出したのか、くすくす笑いだした。
「似てるって、誰とだ?」
 たずねてもカガリは笑うばかりで答えてくれなかったが、声を上げて笑う彼女を見るのは悪くなかった。それに、たぶんアレックスという人物なのだろうと見当もついてしまっていた。
「そうして笑うようになってくれてよかった」
 彼女の中でどういう決心がついたのかわからないが、それが良い方向のものだと、アスランにも思えた。
「俺は君みたいに家族や友人を一度に失った経験がないから、いいことを言える自信はないけど」
 アスランが話を継ぐと、カガリは笑うのをやめて顔を上げた。
「カガリに生きていて欲しいと願った人達の気持ちはわかるよ」
「……うん」
「だから、今、目を覚ましたんじゃないのか」
「……そうだな、そう思う」
「もう、違う場所で目覚めることはないさ。もしも、カガリがそんな眠りについたら俺が起こすよ」
 何の確証もない宣言だったが、それでも、カガリは黙ってうなずいた。
 冷えきっているはずなのに、カガリの肩に置いたアスランの手のひらばかりは熱を持っていた。そうして、煌々と照らす月に背を向けると、二人は部屋に戻った。
 歩きながら思い出して、アスランが次から外に出るときは声を掛けて欲しいと言うと、カガリは笑って、そういえば同じことを言われたな、とつぶやいた。誰に、とまた聞きかけて、アスランはやめた。
 横目で見たカガリは愛おしいものを思い出すように瞳を閉じていたからだ。そのまぶたには誰の姿が映っていたのか。
 アスランはカガリのそんな表情を見なかったふりをした。


 日曜の翌日は当然月曜日で、アスランにとってはカレッジに行くべき日だった。
(一日くらい休んだところで大きな問題じゃないんだが)
 朝食をとって、朝の支度を済ませるまでアスランは悩んでいた。今日は外せない講義が二つもある。
 しかし、カガリを家に一人にしておくわけにいかないのは明白で、結局アスランは講義に穴を空けることに決めていた。
(カガリの生活用品もなるべく早く揃えないといけないしな)
 今日の予定に考えを巡らせながら、アスランはつけっぱなしのテレビに見入っているカガリを眺めた。ドレスを脱いでからのカガリに着せるものが、まずは必要なのだ。今はアスランの寝間着で代用しているが、それでは大きすぎて、広いえりぐりから常に肩が覗いている状態だった。
 それはアスランの精神衛生上もあまりよいとはいえない。時折胸元も覚束なくてぎくりとさせられるのだ。確かめてはいないから推測になるのだが、おそらく寝間着の下に下着はつけていないのだろうし。
(まずは着るものを揃えて……)
 とんでもない試練だなと思いながら計画を立てていた時だ。
 玄関のチャイムが鳴った。
 嫌な勘ばかりは当たるもので、チャイムが鳴ったその音でいい音ではないような気がしたらその通りだった。
「朝からなんて顔してるんだよ、アスラン。僕が迎えに来たのがそんなに嫌?」
 玄関の扉を開けたアスランに出迎えられたキラは渋い顔をし返した。べつに後ろめたいことは何もないのだが。アスランはカガリのいるリビングに続く廊下を背にして立っていた。
 やましいことはないとしても、どう説明すればいいのか。
「嫌なわけじゃないが、どうしたんだ? めずらしいじゃないか、迎えに来るなんて」
「昨日、君をほったらかして帰っちゃったじゃない? だから僕なりの罪ほろぼしだよ」
「それはありがたいんだが」
「アスラーン、どうしたんだ?」
 悪気のない声と共に、アスランの努力もむなしく、カガリがひょこりとリビングから顔をだした。
「あれ? お客様か?」
 ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら近づいてくる。カガリを目にしたときのキラの顔といったらなかった。
紫の瞳が凍りついている。
「アスラン! ちょっと、どういうこと?」
 血相を変えてアスランの胸倉につかみ掛かり、まるで恋人の浮気を問い詰めるようだった。アスランは片手を上げて制止をかけた。
「落ち着け、キラ。おまえが想像しているのとはたぶん絶対違うから」
「なにが違うっていうんだよ。女の子連れ込んじゃって」
「とにかく上がれ、ちゃんと説明する」
 キラの手を離させると、アスランは中へと促したが。
「カガリ?」
 廊下の中央に立ち尽くしているカガリに気がついて足を止めた。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
 カガリは恐ろしいものでも見たような顔をして動けなくなっていた。目はキラに向いているようだったが。
「キラがどうかしたのか?」
「……いや」
 人形のようにぎこちなくかぶりを振ると、カガリもアスランと一緒にリビングに戻った。会議でもするように、三人はテーブルについた。
 滅多にないくらい興奮気味のキラに、昨日の出来事から、カガリの非常識な境遇までをすべて説明すると、キラもアスランも遅刻が確定する時間になっていた。
 アスランが話す間、カガリは一言も口を挟まずに、斜め前に掛けたキラをじっと見つめていた。その熱烈な視線を、ちらちらとキラのほうも気にしながら相槌を打っている。アスランが嘘をつけないことを知っているので、キラはアスランの話をその場を言い逃れるための壮大な作り話だとは思わなかったようだったが、アスランの予想に反して、彼は一度の説明で飲み込み、信用してくれた。
「信じられない、とは思わないのか?」
 説明しておきながらアスランは疑問に思った。
「まあ、おとぎ話めいてるとは思うけどね」
 キラは長い息を吐いた。
「でも、君の話と僕が昨日見たものとの相違点が、裏を返せば符合が合うことになるんだよね」
「……どういう意味だ?」
「君は昨日、あの廃墟でカガリさんを見つけたんだよね」
 少し間をとって、キラは言った。
「君が真新しい扉があったって言ったのと同じ部屋に、じつはフレイと僕もいたんだよ。しかも、ほとんど同じ時間に、君を捜して。でも、あの部屋にそんな扉なんかなかったんだ。あそこは壁と窓枠だけの部屋だったんだよ」
「でも、俺はたしかにあの部屋の続き部屋で」
 扉の向こうには、作られたばかりとも見えるほど美しい寝室があったのだ。
「だから、おかしいんじゃない。カガリさんのいう魔女なんていうのが本当にいるのかもしれないよ。昔からちょっと変わった噂の絶えない森だし」
 アスランは顔をしかめてうなった。キラほど柔軟性のある頭をしていないのだ。安々と受け入れられなかった。
「話はわかったけどさ」
 少しばかり身を乗り出して、キラは話題を変えた。
「アスランはこれからカガリさんをどうするつもりなの?」
「どうするって、とりあえず住む場所や働き口が見つかるまでは寝場所を提供するつもりでいるぞ」
「ふうん……」
 キラはすうっと目を細めた。
「なんだよ」
「いや、べつになんでも」
 言う気はないのか、アスランの追及をかわして、キラはなぜか携帯を取り出した。
「ねえ、アスラン。これでフレイ呼んでくれない?」
「呼ぶって、ここにか?」
「だって、カガリさんの服どうにかしないといけないでしょ? ここだとアスランの服しかないし」
「そうか、たしかにフレイに手伝ってもらえるのはありがたいな」
 借りるぞ、と一言断ってキラの携帯電話を受け取ると、アスランは廊下に向かった。


 アスランの姿が見えなくなるまで見送って、キラはカガリに向き直った。
「挨拶がまだだったよね」
 キラは口調をやわらげた。
「はじめまして、カガリさん。アスランの幼なじみのキラっていうんだけど」
「……カガリでいいぞ」
 カガリは警戒しているのか、身を固くしていた。
「そう? じゃあお言葉に甘えて、カガリ。いきなりだけど、ひとつ聞いてもいいかな」
 キラは得意の人懐っこい笑顔になると言った。
「アスランのこと好きなの?」
「好きだぞ」
「ううん、そういう好きじゃなくて」
 カガリの答えた好きの種類が単純に好意を表すものだと、言い方から察したのだろう。キラは質問を変えた。
「アスランとこのまま一緒に住むことになっちゃってもいいの?この国にはいい福祉制度があってね、君が十六歳ならたぶん施設で暮らすこともできなくはないと思うんだけど」
「……アスランと一緒がいい」
 カガリは首を振った。
「あいつがここにおいてくれるっていうなら、私はアスランのそばにいたいんだ。アスランをもっとちゃんと知らないと……」
「ふうん、そうか」
 キラは優しく同意したが、笑顔が形だけのものになっていたのに、目を伏せていたカガリは気付かなかった。


「キラ、三十分くらいでフレイも来るらしいぞ」
 電話を終わらせてアスランがリビングに戻ってきたのは、それとほとんど同じタイミングだった。
 アスランに服を靴から下着まで一揃い貸してほしいと頼まれて、フレイはいぶかしがりながらもわざわざ自宅に戻ってくれたようで、紙の袋をひとつ下げてやってきた。
アスランは彼女にもカガリを紹介して、キラに話したのと同じようにここまでのいきさつを説明した。最後まで口をはさまずきいていたキラと違い、フレイはアスランの話の途中で、そんなことはどうでもいいから、カガリを着替えさせてやらないと可哀相だろうと言って席を立ち、カガリを寝室に連れ込んだ。
 そんなフレイの判断を見て、キラは感心して言った。
「さすが、フレイだね。過去の経緯より目の前の問題か」
「けど、来てくれて助かったよ。どうしようかと思っていたところだったからな」
「なんて説明したのか知らないけど、よくフレイが服貸してくれたねえ。きっと、君の日頃の振る舞いがいいからだね」
「それ、たぶんほめてないだろ」
「あ、わかった?」
 キラは嫌味ひとつない顔で笑った。頭が固いともいう、アスランの真面目さを知っているフレイは不審な頼み事もきいてくれたのだろう。
 二人がそんなやりとりをしているあいだにフレイのほうは準備ができたようで、ドレスでもアスランのシャツでもない服を着たカガリを連れてリビングに戻ってきた。
「どう? ちょっとなかなかいないくらい可愛いと思わない?」
 自慢の妹でもお披露目するように、フレイは胸を張った。フレイに続いて現れたカガリは興味深げに自分の着たものを見下ろしていた。
「ほんとだ、すごく可愛い。カガリ、よく似合ってるね」
 びっくりしちゃった、とキラは手放しで褒めた。アスランはキラほど滑らかに感想が出てこず、無言でカガリの変身ぶりに目を見張った。
 綿の白いワンピースだった。ひざまであるすそから、すらりと伸びた足先には、ワンピースと同じ白のサンダルが履かせてあった。ドレスを纏っていたときの近寄りがたいような高貴さは薄れていて、どこにでもいそうな女の子に見えた。
 どこかの街角ですれ違いそうな。けれども、どこかの街角ですれ違ったとして、アスランはそのまま通りすぎていただろうか。
「ここじゃ、フレイくらいの歳の女の子はみんなこんなドレスを着るのか?」
 カガリはすそをくるりと回してみた。新しい着物に興味津々のようだ。
「そうよ、可愛いでしょ。よかったわ、サイズが合って」
「うん、動きやすくていいな。気に入った。城下の女の子みたいだ。こんな格好で走り回るのがちょっと夢だったんだ」
 屈託のない笑顔が白いワンピースによく似合っていた。
「じゃあ、走り回りに行く? どうせ三人ともいまさら講義に出る気はないでしょ」
 提案したのはキラだった。
「月曜だったらどこに遊びに行っても空いてると思うし、遊園地でも行っちゃおっか?」


 たびたび講義をさぼっては平日の街に遊びに出ているキラにはずる休みも慣れたもののようだった。その親友でありながら、初等学校から病欠以外は一度も欠席したことのないアスランはどうにも落ち着かなかった。
 隣の市に大規模な移動遊園地が来ているという情報をキラから得て、それに行くことがその日の予定になった。四人は昼食をとってからのんびり出発したが、隣町に向かう電車はどの車両も空いていて、四人でスナック菓子をつまみながらボックス席を独占できた。
 キラとフレイは純粋に平日の自由を楽しんでいるようで、アスラン達をよそに、どこのバイトが割りがいいだとか、誰と誰が付き合いだしたとか、そんな話をしていた。さらには、二人が車内に持ち込みした飲み物がアルコールだったことに、アスランは気付いていたが、気にしないことに決めて放っておいた。
 素行の悪さでは不名誉にも有名な二人組なのだ。
 一方、カガリはといえば、電車という巨大な乗り物に圧倒されながらも、おおいに興味を示した。また、窓の外には彼女の知らないものばかりが映るので、電車が着くまでアスランはカガリの教えて攻撃にあうはめになった。それは遊園地に着いてからも緩むことはなく、アスランは遊ぶよりも口と頭を働かすことのほうが多かった。
 隣町をにぎわせていたのは、春のはじめの祭りにあわせてやってきた移動遊園地だった。
 空が茜色から群青色に変わる頃、沈んだ太陽に代わるようにイルミネーションが灯り、広い公園に敷き詰められた遊具やアトラクションが浮かび上がる。白熱灯の暖かな明かりがちりばめられた中を、カガリはワンピースのすそをひるがえしはしゃぎまわっていた。
 キラとフレイをともなって遊具に乗り込んでは、興味をひくものを見つけるたびにアスランのそでを引っ張り、解説をせがむ。カガリは始終笑顔だった。
「カガリちゃん、君の飼い猫みたいだね」
 ソフトクリーム売りの列にフレイと一緒に列んだカガリを見ながらキラがぼそりと言った。
「アスランのことを信頼してるのがよくわかるよ……あれは、なんでなんだろうね」
「飼い猫という表現は間違いだと思うが、それを俺に聞かれてもわからないぞ」
 カガリが自分を頼っていることには自覚があった。ただしそれは刷り込みのような親兄弟に寄せるたぐいの信頼だ。
「昨日会ったばっかりなんでしょ」
「まあ、昨日だけでいろいろあったけどな」
「カガリのほうもだけど、アスランがそんな短時間でこんなに誰かと仲良くなったのにもびっくりだよ」
 昨日の出来事を事細かに伝えてはいたが、キラには話していないことがひとつだけあった。
 カガリがアスランを「アレックス」と呼んだくだりだ。呼ぶだけではなく、彼女は何度も何度も確かめた。違う誰かではないのかと。
 カガリはそれ以上アレックスという人物について語ろうとしなかったが、そのことがアスランの胸に拭いきれない汚れのように、ずっと静かに残っていた。


 ソフトクリームひとつにもカガリは子供以上に喜んだ。
「アスランはどれも乗らないのか?」
 キラとフレイがアルコールを調達しにいってしまったので、残されたアスランとカガリはベンチで休憩していた。
「ああいう乗り物は好きじゃないんだ」
「そうか、楽しいけどなあ」
 しみじみ言うとおり、カガリはどんなアトラクションも平気で楽しんでいたが、スピードの出る乗り物は大人でもなかなか乗るものではない。好んで乗りたがるのは子供か、怖いもの見たさの若者くらいのものなのだ。
「じゃあ、どんな乗り物なら好きか? バスとか電車とかか?」
「乗り物でか……」
 アスランは視線をイルミネーションの中に泳がせた。乗り物に対して、何が好きだとかいうことを考えたことはなかった。
「乗り物じゃないが、馬は好きかな」
「馬……乗馬か?」
 カガリの声が低くなった気がした。
「アスラン、馬をあやつるの、上手いのか?」
「筋がいいとほめられたことはあったな。父親に連れられてよく遠乗りに行っていたんだ」
「……ふうん」
 アスランの横顔をじっと見て、カガリは考え込むように自分のひざに目を移した。
「乗馬も、クルージングも、昔の父は外に出るのが好きな人だったからな」
 休日には必ず家族でなにかしら出かけていたものだった。アスランの母が生きていた頃までは。
「こんなふうに遊園地にもよく連れていかれたな」
「アスラン」
 呼ばれて隣を見ると、カガリは強いまなざしを向けていた。
「ずっと気になっていたんだけど、どうしてお父様に嫌われてるなんて思い込んでるんだ?」
「思い込んで?」
「子供を愛さない親なんてこの世にいるはずがないだろう。どうしてそんなふうに行き違っちゃったんだ」
 琥珀の両目は吸い込まれるほど真摯だった。
「行き違っているわけじゃないよ。嫌われているという言い方は正しくなかったかもしれないが、父が義務感で俺を養育しているのは事実だ。でも、俺はそれでも構わないからいいんだよ。仲が悪いわけでもない」
 母が亡くなってからの父は血が通わなくなった人のようだった。
 家庭の中での会話は日常生活を坦々と語るだけの報告になり、元々表情の少なかった父は口許すら緩めなくなった。母がいなくなってからこれまで、アスランは何不自由なく育ったが、ただそれだけだった。
「いいわけないじゃないか、そんなの」
 カガリは反発を込めて言った。
「そんなの、悲しすぎる」
「カガリが悲しむことはないよ。俺は十分幸福だと思っているし」
「いいや、そんなの間違ってる。アスランのお父様の気持ちがアスランに伝わっていないじゃないか。アスランも、お父様も、それじゃよくないよ」
「いいんだ、本当に。お互い自立していて、何も問題はないんだから」
「でも」
「この話はやめよう、カガリ。せっかく楽しむために来ているんだから」
 カガリがうやむやにさせてくれないので、アスランは話を無理矢理断ち切った。これ以上、話せなかった。
 誰もが遠慮して、今まで踏み込んでこなかった領域なのだ。そこに澄んだ光をあてようとするカガリに、胸の奥をほどかれそうで怖かった。


 夜が暗さをまして、祭りのイルミネーションが消えるまで待って、四人は帰路についた。
 行きと反対の電車に乗って地元の駅に着く。四人がそれぞれに別れる際、カガリは楽しかったと礼を言った。
フレイは自分も楽しかったと笑顔で応じたが、キラは酔っているのか、妙にうやうやしい様子でカガリの手をとった。
 なにをするのかと思いきや、キラはカガリの指先に口づけて、光栄ですお姫様などと、冗談めかして言ったのだ。
カガリは少しだけ目を丸くしたが、すぐに上品な笑みを浮かべて、ではまたの機会に、などとキラの演劇に応じていた。カガリのその様子があまりに手慣れていたので、アスランはキラの行動に驚くよりもカガリに意識がとられていた。
「カガリがお姫様をしていたんだってことが、なんとなくわかったよ」
 夜の道をバス停まで歩きながらアスランは言った。言葉遣いや態度からはお姫様というよりむしろ少年のような印象を受けるが、ちょっとした仕草に、はっとさせられることはいくつもあった。
「そんな服を着ていると普通の女の子みたいだけどな」
「本当か? 城下町にいそうな娘に見えるか?」
 怒るのかと思ったらカガリは嬉しそうだった。
 きりりと正しく伸ばした背筋、美しい足運び、印象的な目線、隣町でもたびたび振り返られていたカガリは、どこにでもいそうな女の子だとはなかなか言えなかったが、アスランはうなずいておいた。
「その服もよく似合ってるよ」
 正直に言ったつもりなのに、カガリは金色のまつげを何度もまばたいた。
「どうしたんだ? もしかして、自信がなかったのか? ちゃんと似合ってるぞ。キラもほめていたじゃないか」
「キラは似合っていても、いなくてもほめそうだけど……」
 ぼんやり言って、カガリは急に吹き出た。くすくすと笑いはじめたのだ。
「なにかおかしかったか?」
「いや、いまさら服のことを言うんだなと思って」
「それがそんなにおかしいことなのか」
「いや……」
 腹を押さえて笑い続けて、やっとおさまったころには目尻に涙がたまっていた。それを払って、カガリはアスランに笑顔を向けた。
「でも、ありがとう。嬉しいよ」
 その笑顔はその日見たカガリのどの笑顔より、アスランの胸に染みた。



 二日続けて休むわけにはいかず、翌日アスランは気が気でないながらも、カガリをおいてカレッジに行った。
 勝手に家から出ないこと、人が尋ねてきてもドアを開けないこと等々を言い聞かせたが、退屈に飽きて、カガリが家にいられなくなりそうなことは最初からわかっていた。アスランの研究書をはじめ大量の本があるから退屈はしないとカガリが言ったので少しばかり安心してアスランは出掛けたが、カガリはそんなに甘くはなかったのだ。
 カガリが大人しくできたのは、もって三日だった。
 家に残して出掛けて、一日、二日目とカガリはきちんと留守番をしていたので、アスランはすっかり安心していたが。三日目にやられてしまった。
 夕方、帰宅したら玄関のドアに鍵がかかっていなかったのだ。
(まさか……)
 最初に思いついたのは、不審者が家に侵入したことだったが、家の中は綺麗にからっぽで、アスランはすぐさまアパートの屋上に走った。しかし、そこにもカガリの姿はなく、仕方なしに、ひとまず開けっぱなしだった鍵だけ締めに戻ると、そこでアパートの管理人である老婆に声をかけられた。
「ひょっとして、あの金髪の恋人さんを探しているのかしら?」
 おっとりと管理人はたずねた。アスランがそうだと答えると、老婆は手を打った。
「やっぱりそうなのね。あの娘さん、あなたのお父様に会いに行ったみたいなのよ。ザラのお屋敷への行き方を私に聞いてきたから」
 聞かれたから答えたが、どことなく危なげで心配だから追い掛けて欲しいのだと、彼女は付け加えた。言われなくともそうするつもりだったがアスランは困惑した。
(なぜ、父のところなんかに? カガリが父を気にしている様子なんてどこにもなかったのに)
 アスランの実家は郊外の住宅街にある。
 そこまではバスで行くのが普通だが、あのカガリが果たしてバスを使うことができたのだろうか。なにかがあったときのために、少しの金銭は渡してあったが、その使い道までは教えていないのだ。
(どこかで迷子になっていたら。ただの迷子じゃすまないぞ)
 じれったい気持ちでバスを待って、そこにカガリがいるかもしれない可能性にかけて、アスランは何年かぶりに実家をたずねた。
 近所でも一際目立つ親子三人で住んでいた屋敷だ。
 三人で住むにも大きすぎた家は、今、父ひとりが暮らしているのだと思うと、見た目以上に大きく見えた。
(あれ、母が育てていた花壇が……)
 主に母が手入れをしていたため、いなくなってからは野放しになっているであろう庭を想像していたのだが、母が咲かせていたバラが、昔と変わらず綺麗に咲いていることにアスランは驚いた。
(父が花の世話なんか出来るはずがないんだが)
 疑問を頭の隅に押しやって、アスランは呼び鈴を押した。時を置かずして、元気な足音が聞こえ、玄関の扉が開けられた。
「やっぱり、アスランか」
 足音で気付いてはいたが、出迎えたのはしたり顔のカガリだった。
「やっぱりじゃないだろう、なにやってるんだ、カガリ。約束違反だぞ」
「すまない。それについては後で謝るから、とりあえず中に入ってくれないか」
 カガリはアスランの手首を引っ張って玄関に引き入れた。
「お父様と一緒におまえが来るのを待っていたんだ」
 カガリの目線の先を見ると、廊下の奥にアスランの父、パトリックが立っていた。