トロイメライ

04



 カガリはアスランのそでを引いて、パトリックのところへ連れていこうとした。
 父はアスランの姿を認めると、背中を向けて廊下を先に進んでいった。
 どう挨拶したものかと、迷っていたアスランは少しほっとしてしまった。
「ぴったりのタイミングだったな。今、ちょうどお茶を入れたところだったんだ。私が煎れたんだぞ」
 カガリは得意げだった。
「お茶を? カガリが?」
「なんだよ、その驚いたような声は」
 カガリがちらりとアスランをにらんだ。
 世間知らずの見本のようなカガリに調理のたぐいのことができるとは思わなかったのだ。
「言っておくが、私の煎れたお茶は美味しいぞ。うちで一番上手くお茶を煎れるミリアリアの作り方をずっと見てきたんだからな」
「見てきた?」
 習ったではなく、見てきたということは。
「つまり、実際にお茶を煎れたことはないのか?」
「したくても、させてくれなかったんだよ」
 カガリが煎れた紅茶はダージリンだった。
 三人がリビングのソファーにつくとすでに甘い香りが漂っていた。
 アスランは正面に座った父をちらりとうかがい見たが、パトリックに唐突な息子の訪問に驚いた様子はなく、いつもどおりに無言だった。
 渋味が少なく、やわらかな甘みのある、それでいて深い味わいのある紅茶は、飲み物の味に特別詳しくないアスランでも、他にない味だと思った。
 パトリックはじっくりとそれを味わいカガリの腕をほめた。
「アスハさんは、だれかにお茶を習ったのかな」
「習ったわけではないのだけれど、無言で教えてくれた人がいるんだ。教えてくれないから見て覚えようとした私が見やすいように手元を広げて」
「なるほど。それでこんな不思議な味なのか」
 パトリックの厚みのある手が、小作りなカップをもう一度持ち上げる。
 生前の母が選んで買ってきたティーセットだ。
 とことん母親似のアスランは父のような手つきには結局成長しなかったが、幼い頃にはグローブのように思えた父の手が、今だと小さく見えることに驚いた。
「アスラン、学校のほうは順調にやっているか?」
 パトリックは紅茶を飲み終わるとたずねた。
 会話を作るために、父がアスランによくするいくつかある質問のうちのひとつだった。
「はい、問題ありません」
「そうか……食事はちゃんととっているのか? 少し痩せたようだが」
「このところ忙しかったので、体重が落ちたかもしれませんが、食事は足りています」
「そうか……」
 パトリックは肩の力を抜くように息をついた。
「おまえはいい友達を持ったんだな。アスハさんはおまえを心配して直談判にきたのだぞ。親子一緒に暮らしたほうがいいのじゃないかと」
「……は」
「お父様が言うのは少しニュアンスが違うけどな」
 カガリは小さく肩をすくめた。
 アスランが到着するまでに二人の間にどういったやりとりがあったのかはわからないが。
 カガリが父の心をやわらげたのは間違いなかった。
 アスランはパトリックの目許が緩んでいる様子を、ああ、こんな顔もするのだったと思い出すほど久々に見た。
「それにしても、じつは驚いた。アスハさんの言ったとおりにお前が訪ねてきたものだからな」
「あの……彼女が何か言っていたのですか」
「ああ、アスランが自分を追って今日中にここを訪ねてくるはずだ、そうしたら一緒に住むことを二人で検討してくれないか、とそう言っていたのだ。私は息子が自ら進んでここを訪ねることはないと返したのだが。彼女のほうが正しかったわけだ」
 カガリはアスランの隣でいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「お前は、アスハさんと何かそういう約束をしていたのか」
「いえ、そういうわけではないのですが」
 カガリとアスランの関係をパトリックに説明するのはおそろしく難しいことに思えた。
「アスハさんの目には家族が離れて暮らしているのが、非常に寂しいことに見えてならなかったと、そう何度も言われてな」
 父はカガリからの談判を受けて、息子にどう話そうか考えているふうだったが、やがてこう提案した。
「現状、一緒に暮らすのは難しいことではあるが、せっかく来たのだから今日は泊まって帰るか? 彼女も一緒に」
 三年前に家を出る決心をした頃、アスランの生活空間でもっとも居心地が悪かったのが我が家だった。ハウスキーパーの作る食事から、廊下に飾られる花まで、父の厳格さが、家のすみずみまで満ちていた。
 それが、一体どうして、何が変わったというのだろうか。三年ぶりに訪れた家の中は、窓から差し込む午後の光までもやわらいで見えた。
「そうですね……」
 アスランも空になったカップをソーサーに戻した。
「今からアパートに帰ってもかなり遅くなりますし。今日はお世話になります」
 アスランが丁寧に言うと、カガリが横から指摘を入れた。
「ここはおまえの家なんだろ。世話になるなんておかしな話じゃないのか?」
 すると、驚いたことにパトリックが軽く声を上げて笑った。
「たしかに、アスハさんの言う通りだ、アスラン。世話をしてやるつもりはないぞ。掃除のひとつくらいはしてもらわないとな」
「掃除……ですか?」
 アスランは聞き間違いかと思って繰り返した。父がアスランに掃除を言い付けたことなどなかったのだ。食事も掃除も洗濯も、すべてはハウスキーパーの仕事だった。
「まさか、父上は屋敷の掃除をご自分でされているのですか?」
「自分が使う範囲くらいはな」
「ハウスキーパーはきていないんですか?」
「今は呼んでおらん」
 アスランは愕然とした。
 母がいなくなってからは特に、仕事以外に手を動かすことのなかったパトリックが、まさか、家の掃除を自ら行っているなんて。ザラの家が、金銭的に十分過ぎるほど潤っていることはアスランも承知しているくらいだから、節約のためなどではないのだ。
「掃除もなかなか興味深いものだぞ、アスラン。研究のしがいがある。もったいないことをしたものだと思うのだ」
「では、もしかして、庭の花壇も」
「レノアのように上手く咲かすことはできないがな」
 目を細めた父の目尻にいくつもしわが寄った。
「花の世話も研究のしがいがある」
「いえ……」
 アスランはゆっくりと首を振った。
「母上が咲かせたのかと思いましたよ」
 アスランは昔使っていた自室と、カガリのための客室の掃除をして、ベッドには糊のきいたシーツを敷き、父に言われて花壇の花を飾った。カガリは自分も掃除をすると言ってなかなかゆずらなかったが。夕食を作るパトリックの手伝いをするということで妥協してくれた。
 パトリックが料理をするということにも、アスランは今日何度目かの衝撃を受けたが、カガリがその手伝いをすることのほうが心配だった。
 しかし、紅茶の時と同じように、申し分ない出来の食事が食卓に並び、パトリックはカガリの助手としての優秀さをアスランに話して聞かせた。
 パトリックとアスランと、カガリで使い慣れた円卓を囲んだ。円卓にパトリックとアスラン以外の誰かがつくのはレノアがいなくなって以来だった。
 
 
 アスランの部屋は二階のもっとも東に位置する、屋敷で特等の場所だった。
(三年ぶり……になるのか)
 アスランは肌に馴染んだ自室を見渡した。
 三年住んだアパートは、この頃ようやく自分の居場所だと思えてきたが、この部屋には敵わない。両親がアスランの成長に合わせて選んだ机とベッドの手触りはしっくりと心地よく、壁紙も天井もカーテンもアスランが生まれた時から見ていたものなのだから。
(この部屋ももっと居心地が悪かったのに)
 父とは激しい喧嘩をして別れたわけではない。
 進学するのに合わせてアスランが家を出たのだ。
 かといって、学校が自宅から通えない距離だったわけではない。母がいなくなってからというもの、ぴりぴりと固くなっていく家の空気から離れたかったのだ。
 そうして三年、アスランは一度も実家には近づかなかった。
(時間が人の気持ちを変えていくものなのか)
 三年の間に、父はずっと穏やかになっていた。
(じゃあ、俺も変わったんだろうか)
 自分のことについては、よくわからなかった。
 学校へ行って帰って、また行ってと、平坦な日常を繰り返してきて、何かが変わったとは思えないが。大きな変化があったとすれば、カガリに出会ったことだろうか。
(カガリが変化をもたらしているのだろうか)
 シャワーもすませて、もう休むつもりでアスランは部屋に下がったのだったが、思い立って部屋を出た。
 眠る前にカガリに会おうと思ったのだ。しかし、彼女のいる客室のドアはノックしても返事はなかった。もう寝てしまったのだろうかと、諦めて戻ろうとしたが、アスランはふと耳を澄ませた。
 どこからか小さく話し声が聞こえたからだ。音をたどっていくと、父の書斎から暗い廊下に明かりがもれていた。
「……カガリ?」
 てっきり父とカガリが話をしているのだと思ったのに、書斎にいたのはカガリ一人きりだった。
「何してるんだ? こんなところで」
 しかも、カガリは父の机についてパソコンの画面を見ていた。アスランですら立ち入ることのほどんどない書斎で、カガリが机に向かっているのは奇妙な光景だった。
 どうやらパソコンで映像を見ているらしい。
「いたずらか? 父に叱られるぞ。何見てるんだ?」
「アスランを」
「は?」
「アスランを見ているんだ」
 カガリは画面から目を離さずに言う。
「お父様の許しはもらっているから大丈夫だぞ。おまえも見てみるか?」
 カガリの指が軽く手招きした。
 首を傾げながらも机を回り込んで、アスランはカガリの隣に立った。
 パソコンの液晶画面いっぱいに映っていたのは、移動遊園地の風景だった。誰が撮影したのか、ひどく下手くそな映像だ。素人が、ぶれないよう懸命に写しているのが伝わってくる。子供の歓声とざわめき、続いて女性の声で、アスランは大丈夫かしら、とスピーカーから音声が響いた。
「母上?」
 忘れもしない、母の声だった。それに答えて、今よりいくぶん若い父の声が心配しなくても大丈夫だと言う。
 パソコンに映されていたのはパトリックが撮影したホームビデオだった。それは、父と、母と、三人で隣町の移動遊園地に行ったときの映像だった。
 おぼろげだが記憶がある。
 強く覚えているのは母の着ていたワンピースの柄と、遊園地で食べたアイスクリームだ。パトリックの写すアスランは背格好から見て四、五歳だろうか、周囲の子供がはしゃいで走り回っているのと対照的に、じっとアトラクションを観察している子供だ。
「どうしたんだ、これ。カガリよく見つけたな」
 感心したような、驚いたような気持ちでアスランは言った。
「というより俺はパソコンの操作を教えた覚えはなかったけど」
「お父様に昼間教わったんだ。そういえばこんな形の機械、アスランの部屋にもあったな」
 カガリはマウスをすらすら動かして、映像を選択しては次々開いていく。ほんの数日前まではテレビのリモコンも扱えなかったというのに。
「小さい頃のアスランがどんなだったのかって、私がたずねたら、お父様がこれを見せてくださったんだ。自慢のビデオだって。すごく嬉しそうに」
「そうなのか……」
 画面は移動遊園地から真夏の海に切り替わっていた。眩しい太陽の下に、母と幼いアスランがいる。
「こんなものが残っているなんて思わなかったな」
 アスランが子供の頃に撮影したものならば、元はおそらくアナログビデオだ。それがパソコンで見られるということは、父はわざわざビデオを編集してデータ化したのだ。
「こんなことに時間を割く人だと思わなかった。父は、もっと仕事中心の人で、家族は俺は二の次で」
「家族のための仕事だろ?違うか?」
 カガリはパソコンから顔を上げてアスランを見上げた。
「な、来てよかっただろう? アスラン」
 少しだけ勝ち誇ったような笑顔だった。
「私の言った通りだろ。子供を愛してない親なんていないんだぞ」
「……そうだな」
「一緒に住むのが難しいなら、もっと会いにきたらいいんだ。会おうと思えばいつでも会えるし、これからいくらでも話はできるんだから」
 カガリは微笑んでアスランを励ました。彼女が心底からアスランと父の和解を望んでいるのを感じて胸が温かくなる。
 しかし、それと同じ瞬間に胸は強く痛んだ。
(でも、じゃあ、カガリは……)
 彼女の話をしたい人、彼女の会いたい人は。それらは皆、もう二度と会えない人なのではないか。
(何百年の昔にすべて置き去りにして)
 いまさらにも、カガリの途方もない孤独を思い知らされて、アスランは息がつまった。それほどの寂しさを抱えながら、この少女はどうしてこんなにも温かいのだろうか。
 太陽のように澄んだ光で、アスランの暗がりを照らす。
「……カガリ」
 心の中でつぶやいたのか、それとも声にしていたのかさだかではないが。
 名前を呼ぶだけでは足りない気持ちがあった。のどから、胸の奥から、指先から溢れそうになる、この気持ちは。もどかしくて、手を伸ばしたら、アスランは、椅子の中の小さな体を抱き締めていた。
 腕にすっぽりおさまってしまうカガリの体は、想像していたよりずっと華奢で、それがアスランの気持ちをさらにかきたてた。
 愛おしい、守りたい。
 いままで感じたこともない感情の波に押されて、肩を抱く手にさらに力を込めていた。
「アスラン?」
 カガリの声が少し震えていた。
「どうしたんだ、どこか痛むのか? 大丈夫か、お父様を呼ぼうか?」
 アスランの高ぶりに反して、カガリはけろりとまるで普通だった。声が震えていたのはどうやら苦しかったらしい。
 (カガリは、俺のことなど)
 どうも、子犬がしがみついているくらいにしか思っていないのか。アスランは自分の鼓動を聞かせてやりたいと思った。
 腕や手のひらに感じるカガリの柔らかさに、鼓動が一気に跳ね上がっていく。恋愛経験のまったくないアスランにも、さすがに悟るものがあった。出会ってまだ一週間も経っていないが、自分はこの少女に惹かれている。
 それも急速に。
 けれども、一方的にだった。
(片想いというのか)
 カガリはアスランに安心と信頼は寄せていても、それ以上の感情は持っていない。今の態度からも明白だった。そのことを実感すると、突かれるように胸が痛んだ。
(どうしたら……)
「アレックス」という名前が心の中で点滅していた。
 いままで考えるのを避けていたことだ。
(どうしたら、君は)
 アスランはきつく抱きしめていた腕の力を緩めた。
 カガリがほっとしたように顔をあげた瞬間を逃さなかった。膝をかがめてくちづけ、小さなくちびるをふさいだときになにかを思い出した気がした。
 カガリに初めて会ったときのことだ。無意識同然にくちづけていた、あの時すでに彼女に恋をしてしまっていたのだろう。
「……や」
 くちびるの透き間から、声がもれた。
「や、……いやだ!」
 カガリがアスランの胸を突き飛ばした。手が震えていたので力は弱かったが、拒絶された衝撃が強くアスランは後ろに一歩引き下がった。
「……カガリ」
 好きでもない男に無理にキスをされれば、拒否して嫌悪するのは当然だ。カガリは手だけでなく、体まで震えだしていた。
「す、すまない……いきなり」
 恋愛とは段階を踏んでいくものだと、アスランにもそれなりに知識はあった。他にやりようがあっただろうに、想いを伝える方法が思いつかなかったのだ。嫌がらせたかったわけではない。
 しかし、カガリの震えは止まらず、ついに瞳から涙があふれてしまった。
 あとからあとからこぼれてきた涙に映っていたのは、アスランが恐れたような嫌悪ではなく、戸惑いだった。ふたつの琥珀の瞳がぼうぜんとアスランを見つめた。
 いや、目線はたしかにアスランを向いていたが、彼女はその向こうに、なにか別のものを見ているようで、二人の焦点はかみあわなかった。
「カガリ?」
 おかしいと思った。ただの驚き以上に思える、激しい動揺だった。
「カガリ、ごめん……」
 さっきの今で、震える肩に手を置くこともできず、心から謝ったが、カガリは前を見たままかぶりを振った。
「ちがう……ちがうんだ」
 かすれた声は、うわごとのようだった。
「どうして……」
 最後のほうは音にならなかった。カガリは部屋の外へ駆け出してしまった。
 廊下に響く足音が遠くなっていくと、小さく潮騒の音が聞こえてきた。パソコンからホームビデオの続きが流れたままになっていたことに、やっと気がついた。
 アスランは立ち尽くし、カガリの出ていった扉を見ていた。
 声にならなかった声、カガリが最後につぶやいていたのがなんだったのか、くちびるの動きでわかってしまっていた。
「アレックス」だと。
 
 
 翌朝はすっきりと晴れた朝だった。アスランは朝陽がカーテンを照らすのを待って、寝床を出た。
 少しも寝つくことができず、何度も寝返りを打つうちに外が明るくなってきてしまったので、寝ることをあきらめたのだった。寝間着のままでバルコニーに出ると、ひんやりと清浄な空気が寝不足の頭に心地好かった。
 小さく見える街の景色は朝陽に照らされて白く輝いて見え、その背景の山にはうっすらと霧がかかっている。伸びをひとつして、ふと足元の庭に目を落とすと、父の姿があった。
 花壇に水をやっているようだった。
(そうか、いつもこうして出勤前に手入れをしているのか)
 母のいたころは住み込みの庭師をおいて、毎日手入れをしなければならなかったほどの、広大な庭である。父の手にはあまるものではないかと思い、アスランは部屋に戻ると手早く着替えて庭に下りた。
「おはようございます」
 足音に気づいて振り向いたパトリックは表情をやわらげた。
「ああ、よく眠れたか」
「はい、慣れ親しんだ部屋ですから」
「そうか……」
 ひとつうなずいて、父は花壇に向き直った。散水式のホースを手にしている。咲いているのは色とりどりのチューリップだった。どれも大振りの立派な花を咲かせている。
「なんだか、不思議に思います……」
 ぽつりと、アスランは思ったままを口にしていた。
「不思議か、なにがだ?」
「母上がいらっしゃるのだと錯覚してしまいそうになります、この花を見ていると」
「そうか、レノアほど上手くは咲かせられないが、だとしたら嬉しいことだ」
 パトリックの声はやわらかく響いた。アスランは少し迷ったが、昨日からずっと思っていたことを言った。
「……父上は変わられましたね」
「ああ、私もそう思う」
 驚いたことにパトリックは声をあげて笑った。
「いろいろと考えたのだ。アスラン、おまえが出ていってからな」
 次の花壇に移りながら、話を続けた。
「レノアがいなくなってからおまえがほとんど笑わなくなってしまったことがあっただろう。あのとき私は何もできなかった。いや、何もしなかったのだな。時が経つのを待つのが一番だと結論づけて、私は何もしなかった」
 ホースの水を止めると、父は息子に向き合った。
「結果、生じたのは沈黙だった。沈黙は生まれるのはたやすいが破るのは容易ではないものだと思い知ったよ」
「いえ、そんな、父上のせいではありません。俺がかたくなだったのです」
 パトリックがこんな考えや後悔を抱いているなど、想像しようとすらしなかった。会話を避けていたのは、むしろ自分のほうなのに。
「かたくなな子供の心もやわらげてやるべきなのが親だ」
 低く、ゆっくりと父は言った。
「すまなかったな、アスラン」
 母を亡くしてから、不器用さからお互いにぎくしゃくしてしまった父と子の関係を、どうしたら取り戻せるのか、さんざん考えたのだと、パトリックは語った。
 考えた末に、まず、妻がいたときと同じように屋敷を変えようと、花を植えた。妻が手料理を息子に食べさせていたように、料理を覚えた。身の回りの掃除は自ら行っていた妻を真似して、掃除というものを初めてした。うまくいかずに、花をすべて枯らしてしまったこともあったし、何度鍋を焦がしたかわからない。
 そうして、仕事以外の時間を作って家事に打ち込んでいると、ふと穏やかな気持ちになれたのだと、アスランに話すパトリックは満ち足りてみえた。
「朝ごはんができたぞ!」
 手分けして行った花壇の水やりが終わった頃に、カガリがリビングの窓から手を振ってきた。
 アスランは、顔をあげた一瞬、母のまぼろしを見たようだった。カガリが着ていたのが、レノアが好きだったワンピースだったからだ。
「それはありがたい。この匂いはオムレツかな」
 庭先からパトリックが返事をした。
「本を見ながら初めて作ったものだから、ちょっと自信がないんだけどな」
「いやいや、アスハさんは私よりよっぽど料理が上手だと思うがね。ところで、そのワンピースはいかがだったかな」
「サイズはちょうどよかったみたいだ。服が他になかったからほんとうに助かったよ。こんな素敵なドレスを貸してもらってしまって申し訳ないけれど」
 カガリは淡いブルーのワンピースの裾を少し持ち上げてみせた。
「いや、サイズが合うのなら、それはもらってもらおうと思っていたところだ。そのまま、着て帰ってくれて構わんよ」
「え。そんな、だって大切なものなんじゃ」
「服は着られてこそ意味のあるものだ。妻も息子のガールフレンドが着てくれたなら喜ぶにちがいない」
 そうだろうアスラン、と呼び掛けられて、はい、とも、いいえとも言えずに、アスランは言葉を濁した。
「彼女に、よく似合っていると思います」
 カガリをまっすぐに見られなかった。見られるはずもない。けれども、彼女の声の調子から昨日の涙は少しも感じられなかった。
「そうか、ありがとう、アスラン。ありがとう、お父様」
 くすぐったそうに笑うカガリは、すっかりいつもどおりに見えた。
 昨夜の書斎での出来事が、まるで消えてなくなってしまったみたいに。
 
 
 朝食をとって、パトリックが出社するタイミングで、アスランとカガリも、近いうちにまた来ることを約束して、ザラ邸を後にした。
 バス停に向いながらアスランは時計を確認した。
(まだ、8時前か)
 その日に受ける予定の講義は午後からだったので、一旦自宅に戻り、カガリに留守番を頼んでから、カレッジに向かっても十分間に合う。
「カガリ、今日も家で留守番してもらうことになりそうだけど、いいかな」
「ああ、構わないぞ。昨日、インターネットというものを覚えたからな。家にいるのがもっと楽しくなりそうなんだ」
「そうか、すまない。じゃあ、家のパソコンの使い方も説明するよ。それに、なるべく早く帰るようにするから……」
 バス停に着いて、足を止めるとアスランはカガリを振り向いた。機嫌が良さそうな顔でまわりの家を観察しているカガリは、やはりいつもどおりだった。
「……カガリ」
「ん?」
「いや、なんでもないよ」
 彼女は昨夜のことをなかったことにしようとしているのだ。それならば、掘り返して尋ねる時は今ではない。
(カガリに俺の家に戻る気持ちが、まだあるのなら……)
 カガリを失いたくなかった。
 昨夜のようなことがあっても、それでも一緒にいてくれるのなら、卑怯だと言われても、行くあてのない彼女の現状を利用してしまおうと思っていた。