トロイメライ

05



 退屈だった。
 とうとうすることがなくなってしまったのだ。
 部屋にある本は専門書から雑誌まで読みつくしてしまったし、眺めるだけのテレビにも、画面の中だけのネットの世界にも飽きてしまった。
 はじめこそ、画面に映しだされる未知のものが面白くてしかたがなかったが、次第に映像だけでは満足できなくなってきたのだ。
 (テレビに出ていたような街に行ってみたいなあ)
 ため息をつきながらにらんでいるテレビ画面には、アイスクリームのショップを取材している女性タレントが映っていた。
 同じものを食べてみたいという気持ちでうずうずしてくる。
 (こっそり出かけてみようかな)
 カガリはリビングの時計を見上げた。
 ちょうど、正午になろうとしている。
 朝、出かけるときにアスランは帰りは夕方になると告げていた。
 彼が帰宅するまでに戻り、何食わぬ顔でいれば、外出が知られることはないのではないだろうか。
 (外に出るなといわれると、よけいに出たくなるんだよなあ)
 アスランはカガリの外出を遠まわしに禁じていた。
 家の外は危険であるから、自分が一緒のときにのみ出かけようと。
 カガリは聞き分けのいいふりをしていたが、そろそろ限界だった。四日前、アスランの父の家から帰ってきてから、一歩も家の外に出ていないのだ。
 ぎりぎりと絞られていた我慢の糸がぷつりと切れたのを感じて、カガリは颯爽と椅子から立ち上がった。
 それとほとんど同時に、玄関のベルが鳴った。
 (あれ、誰かきた?)
 チャイムに応じるのもやんわりと止められていたが、もうかまわないことにして、まずは玄関に向かった。
「あれ、君だけ? アスランいないの?」
 重い扉を開けたところにいたのは、見知った顔だった。
「キラ……」
「あ、名前覚えてくれてた? よかったあ」
「覚えるもなにも……」
 もともと知っていたようなものだと言いたくなったのを、カガリは手を握ってこらえた。
「アスランに用事か? あいつ、夕方には帰ってくるって言ってたぞ」
「ううん、用事ってほどでもなくて、暇だから遊びにきたんだよね」
 どうしようかなあ、とつぶやきながらキラは視線を泳がせた。
 カガリはその深い紫の瞳をじっと見つめていたが、とつぜん両手を握られた。
「カガリちゃん、僕と一緒にどっか出かけない?」
 願ったりかなったりな申し出だった。
 いましがた外出を決心したものの、正直なところ迷子にならない自信がなかったのだ。
 テレビに出ていたアイスクリームショップに連れて行ってくれるかとたずねると、キラは造作もないことだと早速カガリを連れだした。
 バスに乗れば三十分ほどで到着するという。
「なあ、キラ。アスランには出かけたこと黙っておいてくれないかな」
 路線バスの二人掛けの席に落ち着いてから、カガリは念のために口止めしておこうと思った。
「なに? 外出禁止令でも出てるの」
「禁じられてるわけではないんだけど」
「うわあ、あいつ、君を独り占めする気なんだね。やらしいなあ」
「いや、そうではなくて、私の身を案じて、たぶん」
「いいよ、黙っててあげる」
 キラはにっこりとカガリに笑いかけた。
 安心させるような笑顔に懐かしい居心地のよさを覚えて、うっかり目が潤んでしまいそうになった。
「ん、どうかした?」
「いや……」
 顔を見られたくなくて、少しうつむいた。
「キラは、アスランとずっと仲が良いのか」
「え、うん。小さいころからね。一番の友達だと僕は思ってるよ」
「そうか……」
「それが気になるの?」
「いや、あのさ……」
 迷いながら言った。
「キラは、私とどこかで会ったことはないか? 今より、ずっと、前に」
 キラは大きな目を丸くして何度もまばたいた。
 だが、そのうちに理解したような表情になると、落ち着いた口調で言った。
「あるよ、君に会ったこと」
「え!」
 カガリは勢いよくキラの腕をつかんだ。
「ほんとうか! 何か覚えているのか? 昔のことを」
「ぼんやりと、だけどね」
「いい、それでもいいから何でもいいから話してくれないか」
 キラの体を揺さぶり声をあげていると、他の乗客から迷惑そうな視線がちらちら注がれたが、カガリは気づいていなかった。
「わかった、わかったよ、カガリ」
 キラは抑えた声でなだめた。
「それはあとでゆっくり話すから、まずはバスを降りよう。目的のアイスクリームのお店に着いたよ」
 バス停から歩いてすぐの路地にテレビで見たとおりの小さな店があった。
 グリーンのストライプがプリントされたオーニング、白木のテラス、明るくさわやかな外観はそれだけでアイスクリームがおいしくなりそうだった。
 ここでわくわくしながらアイスクリームをほおばるのがカガリの予定だったのだが。
 キラが買って渡してくれたチョコとキャラメルが二段になったアイスも無邪気に受け取れなかった。
「……ひょっとして、おいしくないの?」
 テラスに並んで腰かけると、キラは小声で聞いてきた。
「いや、おいしいんだ。ありがとう」
「そう? あんまり嬉しそうじゃないけど」
「だって、話が途中だったじゃないか。気になってアイスどころじゃなくなっちゃって。なあ、キラ」
 問いただそうとしたところで、話の腰を折るようにキラがカガリのアイスにぱくりと食いついてきた。
「あ、おい!」
「あとで話すって言ったでしょ。まずは溶ける前にこれを食べようよ」
 たしかに、チョコとキャラメルのアイスは溶けてひとつになりかけていた。
 それらを少し急いで食べてから、カガリはもう一度同じように尋ねたが、またしても「話はあとでもゆっくりできるから、日があるうちに遊ぼう」と街のにぎやかなほうに手を引かれてしまった。
 どうもはぐらかされているようだった。
 それも少々強引にである。
 (……こういうところ、似てるな)
 いつも、カガリのわがままを無条件に叶えてくれたり、いたずらを見逃してくれたり、妹に甘い兄だったが。
 自分の意思を通したいときには、柔軟なようで、その実、決して譲らない強引さでカガリの自由を奪うこともあった。
 だから、カガリは残りたいと願った城から、連れ出されてしまったのだから。
 (似ているんじゃない、まるでそのものだ)
 しかし、どれだけ似ていても、いま手を引いてくれている少年を兄だとは思えなかった。
 生まれたときから、そばでずっと見守っていてくれていた人だ、たとえ姿が違っていたとしても、その人だときっとわかる。
 (キラは、「キラ」じゃない)
 それは、彼に初めて会った日にカガリが一日かけて確信したことだった。
 (そしてアスランも、アレックスじゃないんだ……)
 それは今も揺らがなかったが、それでもキラの「会ったことがある」という言葉にすがりたい気持ちは消せなかった。
 
 
「キラ、まだどこか行くのか?」
 会計を済ませてアクセサリーショップからでたところで、キラがまた路地に入っていこうとしたので、カガリはたまらず言った。
 まだ日暮れには間があったが、アスランが帰宅するまでに家に戻るためには、そろそろバスに乗らなくてはならない時間になっていた。
 キラに連れられて、ドレスやアクセサリーの店をさまざま歩き回っているうちに、カガリの手にはいくつも紙袋がぶらさがっていた。
 カガリが目に止めるものがあると、キラが見境なく購入してしまうためだった。
 さすがにもう十分だった。
「もう帰るの? 早すぎるよ、これから一緒にディナーでもどうかな、って思ってるんだけど」
「食事をするなら、アスランの家で一緒にどうだ。私、アスランよりも先に家に着いていたいんだよ」
「アスランが一緒じゃ意味ないんだよなあ」
 キラは嘆くようにつぶやいた。
「だったら、私は帰るよ」
 幸い、今いる路地は最初の目的地だったアイスクリームショップの近くだった。
 ここからならカガリひとりでもバスに乗って帰れそうだった。
「だからさ、話の続きを聞かせてくれないか。私と会ったことがあるって言って……」
「僕とこれから夕食一緒に食べてくれたら話すって言ったらどうする?」
 意地の悪い言い方だった。
 まだはぐらかす気かと、むっとした目でにらむと、キラは悠然と笑みを浮かべた。
「……だったらもういいよ、帰る」
「つまんないなあ、そんなにアスランがいいの?」
「少なくとも、おまえみたいに人を困らすような交換条件は出さないからな」
「それは違うよ。アスランだって君の自由を制限しているじゃないか。君に住む場所を提供する代わりに。なかなかあくどい交換条件だと思うけどな」
「私はなにも制限されてなんかない」
 カガリは語尾を強めた。
 穏やかな表情を崩さないキラを、じっと見据えた。
 二人はしばらく無言で向き合っていたが、やがてキラのほうが観念したように肩の力を抜いた。
「失敗したなあ、嫌われたくはなかったんだけど」
「……嫌いっていうより怒ってるんだ、私は」
「じゃあ、怒られついでに白状しておくとね」
 キラは一歩カガリに近寄った。
「君に会ったことがあるって言ったのは嘘なんだ、ごめんね。そう言ったら着いてきてくれると思ってさ」
 少しは予想していたことだったが、やっと掴んだものをまた失ってしまったような寂しさはどうしようもなかった。
「それから、アスランに会いにアパートを訪ねたって言ったのも嘘なんだ」
 ふいにぎゅっと腕を握られた。
「ほんとうは君に、カガリに会いにきたんだよ」
 掴まれた腕を思いきり振りほどこうとしたが、キラの力は思いのほか強かった。
「なんだよ、放せ。私に触れていいと誰が言った」
「女の子の手を握って怒られたのは初めてだなあ」
「ふざけてないで、はなせ」
「やだ」
 キラは楽しむように目を細めた。
「だって、手を放したら君はアスランのところに帰るんでしょ」
 悪意があるようには見えないが彼の真意が読めず、体に緊張が走ったが、カガリはそれを知られまいときつくにらんだ。
「そんな顔をしないでほしいな。ただもう少し、君と一緒にいたいだけなんだよ」
「なにを」
「君のことが好きだから」
 キラは相変わらずの笑顔で言った。
「だからもう、アスランの家には帰らないでほしいんだ。僕だって君を独り占めしたい」
「は……」
「アスランより絶対僕のほうがいいと思うよ。君のこと放って毎日カレッジ行ったりしてないで、一緒にこうしてデートだってたくさんするし」
「や、いや、ちょっと待て」
「だめかな? 僕のこと嫌い?」
「いや、そうでもなくて」
 会話が思わぬ方向になってしまい、カガリはしどろもどろになってしまったが。
「……わ、私もキラのことは好きだぞ」
 こんな多少の意地悪をされても、嫌いになんてなれるわけがない。
「でもカガリ、僕が言ってるのはそういう好きとは違うんだよ。わかってる?」
「わかってる、わかっているが、それなら私にはどうにもできない」
 すまなそうにうつむくと、キラの手がするりと緩んだ。
「ごめん、キラ」
 驚きはしたが、キラの告白に心は動かなかった。
 彼の言う好きならカガリも知っている。
 もっと心を占領されるような、自分を見失ってしまいそうになる気持ちのことだ。
「じゃあ、誰かほかに好きな人がいるんだね」
「え、わかるのか?」
「うん。アスランでしょ」
 カガリはふいに息を止めた。
 いま、思い浮かべていたのは深い藍色の髪と真面目そうな笑顔だったが。
「あれ、違った?」
 キラは当てが外れたように首をかしげていた。
 深呼吸をするとカガリは首を縦に振った。
「うん……違う」
 笑顔で言おうとしたのに、なんだか胸がいっぱいになってしまい、泣き笑いのような顔になっていた。
「アスランじゃない。子供の頃からの友達なんだ」
 キラに向かって言いながら、胸の中でも繰り返しつぶやいた。
「それってつまり、君の言ってたオーブって国の人だってこと?」
 カガリは黙ってうなずいた。
「そうかあ、まいったなあ……」
 空を仰いで、キラはため息をついた。
「僕はてっきり、君がアスランのことを好きなんだとばかり思っていたよ。だからちょっと背中を押すというか、おせっかいをするというか、親友としてはなにかしてやりたくなっちゃって」
「おせっかい?」
「自分からは手も握れないような奥手な親友に代わって、僕がカガリの気持ちを確かめて、仲を取り持ってあげようか、とかね」
 親切を言うような口ぶりだったが、目にはいたずらっぽい光があった。
「でも、それは必要なくなっちゃったってことだね」
「……うん」
「今の話でとくに反応しないってことは、カガリはアスランの気持ちに気づいていたんだね」
「……キラってほんとうに抜け目ないな」
「あはは、ありがとう。褒め言葉だよね」
 少しふざけてみせてから、ふと、キラは声の調子を落とした。
「アスランとカガリがうまくいってくれたら嬉しかったなあ」
 残念そうに言われてしまっても、なんと返せばよいかわからなかった。
「アスランが誰かを特別に思ったのは僕が知っている限りでは初めてなんだ。僕やフレイではどうにもできないアスランの心を、君が安心させてくれたら嬉しかったんだけどね」
 カガリは何も言えずに視線を落とした。
「でも、もうこの話はおしまいだね」
 さっぱりと宣言すると、バス停まで送って行くよと付け足した。
「あ、でもね」
 歩き出したと思ったら、キラはくるりと向き直ってきたので、あと少しのところでぶつかってしまうところだった。
「君を好きだって言ったのは嘘じゃないからね」
 間近で見上げたキラの瞳は、やはりカガリの親しんできた色をしていた。
「元気で、可愛くて、妹がいたらこんなかんじかなって意味でね」
 キラに見送られながら乗り込んだバスは、行きと違って少し混雑していた。
 後ろの方に空いている席を見つけて座ると、なんだかどっと体が重くなった。
 (すこし疲れたかな……一日中キラと歩き回っていたからなあ)
 彼のエネルギーはいったいどこから来るのかと疑問に思うくらい、キラはずっとはしゃいだ様子を途切れさせず、カガリをあちこち案内してくれた。
 話の続きをせがむカガリの気をそらすための演技かとも思ったが、街歩きを楽しんでいたのは本心のようだった。
 たくらみのために相手を翻弄するようなことはするが、たぶん本質は無邪気な少年なのだ。
 (それが決定的に違うんだ、きっと)
 カガリの兄にも天真爛漫な気性はあったが、キラのように心底から遊びに興じることはなかったように思う。
 それは、彼には生まれたときから背負ってきた責務があったからだろう。
 一国と、その民がいずれは兄の肩にのしかかってくるはずだった。
 隣国との関係にも戦争という緊張が常に付きまとっていたあの頃に。
 (“キラ”もこの時代に生まれていたら、キラのように心から楽しんで生きることができたんだろうか)
 カガリは窓の外に目を向けた。
 歩道を歩く人々の服の色が、鮮やかな絵の具をちらしたように、灰色の石造りの街並みに映えている。
 明るいピンクのシャツに短いパンツをあわせて颯爽と歩く女の子、それとすれ違うのは青い花柄のドレスをひらひらさせた女の子だ。
 この時代の街を歩いて驚いたことを挙げればきりがないが、人々の服装もそのうちのひとつだった。
 フレイが用意してくれたという、ひざの見える丈のドレスを着ることに初めはかなりの抵抗を覚えたが、コルセットもペチコートもつける必要のない服装は大変動きやすく、今では気に入っている。
 (みんな、楽しそうに見える……)
 自分の意思で生きる方向を決めて、自由に人生を歩める時代なのだと、アスランが言っていたことがある。
 (なにより、ここには身分の差がない)
 王族の血筋を持って生まれたカガリは、選ぶ余地のない人生の道すじがあった。
 だが、それを不満に思ったことはなかったし、自分が平民の税で生かされているのだと幼い頃から教えられてきたため、いつかは自国の安定と発展のために、顔も知らない王族に嫁ぐことが自らの役目だと思っていた。
 だから、彼への想いも、ただの想いでしかなかったのに。
 (こんな時代のこんな場所に生まれたのでなければ、もっと自由だった……)
 彼が最後に言っていた言葉が、口調もそのままに耳の中で聞こえた。
 (でも、アレックス……、私ひとりが自由になっても何の意味もない)
 信号待ちをしていたバスが走り出すエンジンのうなる音、乗客のざわめき、窓の外に行きかう人波と、のろのろと動きはじめる車の列。
 カガリの生きてきた時代の風景からは想像もできない、夢のような景色なのに、ここに身を置いていると、オーブの王城や城下町、森や丘の広がる景色のほうが夢のように遠くかすんでくるのがわかる。
 (だから、私が覚えておかなくちゃいけないんだ)
 記憶はもろく、不確かなものだ。
 人の頭で覚えられるものは、アスランの父に書斎で見せてもらったビデオの映像のようにはいかないのだから。
 (笑顔……真剣な表情、しぐさ、声も、手の暖かさも)
 何度も繰り返し、思い出しては確かめ、忘れてしまわないようにしたかった。
 この時代で生きていくことを決意した今、後ろ向きな気持ちで回顧の感情に浸るつもりはなかったが、彼の記憶だけは薄れさせたくなかった。
 (アスランに言わなくちゃ……)
 くちづけをされたときに、アスランが自分に少なからず好意を抱いてくれているのだと思ったが、それが早合点や独りよがりな思い込みかもしれないという迷いもあって、あれからずっと考えないようにしていた。
 けれども、その迷いが今日のキラとの会話の中ではっきりと固まった。
 (なかったことにして答えを保留にしてしまうのは、フェアじゃない……)
 見ず知らずの自分に心から親切にしてくれた優しい人。
 彼の好意を利用するような形で、その庇護を受けるのはカガリの良心がよしとしないことだった。
 (まじめで、正直で、頑固だけど、素直なところもあって)
 深夜の書斎でアスランの体を突き飛ばしたときの、彼の表情を鮮明に思い出して、カガリはシャツの胸の辺りをぎゅっと握った。
 傷ついた顔でも驚いた顔でもなく、はっとして申し訳なさそうにゆがんだ顔だった。
 つまり、とっさに彼は彼自身の感情よりカガリの心を気遣っていたのだ。
「お人好しだろ……あいつ」
 窓におでこを寄せて小さくつぶやいたカガリは、しかし、次の瞬間、唐突に立ち上がった。
「あ、アスラン?」
 車窓から見える歩道に走るアスランの姿があったのだ。
 それも明らかに何かを探している様子で駆けている。
 自分を探しているのだとすぐに確信して、カガリはあわてて叫んだ。
「ごめん! 止めて……! 止めてください」
 すぐ次の停留所でバスを飛び降りたカガリは、それまでの進行方向とは逆に走り出した。
 (そうか、キラと話してたから思ったより時間が経ってたんだ)
 留守番の約束を破った後ろめたさと、いたずらが失敗したような焦りがないまぜになって、胸がどきどきする。
 見落としてしまわないよう通りの向こうにも目を配りながら走っていたら、ほどなく彼の姿が見つかった。
 アスランの走る速度は人探しをしながらだったため、すぐ追いつけたようだ。
「アスラン!」
 声が届くぎりぎりの距離だったが、アスランは即座に振り返った。
「ごめん、わたし……!」
 怒られる前に先手を打って謝ろうとしたら、立ち止まったアスランはこちらを見ると、ほっとした様子で表情を緩めた。
「ああ、なんだ、さっきのバスに乗っていたんだな」
「え、気づいていたのか?」
「いや、タイミングがよすぎるからそうだろうと思って」
 そう言って、アスランは安心がにじむような微笑みをみせた。
 カガリの無断外出をとがめる気配はどうやらなさそうだった。
「バスに乗って出かけていたのか? 街のほうに?」
「あ、うん……」
「一人で行って帰ってこられたのか? すごいな、カガリは。順応力と学習能力がかなり優れていると思っていたが」
「そんなことなくて……」
 説明をしかけて、カガリはためらった。
 彼に黙って、キラと二人きりで出かけたことが急に後ろめたく思えたのだ。
「ごめん……」
「え?」
 しかし、謝ったのはアスランのほうだった。
「俺が君を探しているのが見えたから、バスを途中で降りたんだろう。走って追いかけさせてしまったし」
「え、いや、そんなことはないぞ! 私もほんとはあそこで降りて、家まで少し歩こうと思っていたんだ。だから、平気だ」
 急いでそんな理由を作って言うと、アスランは目を丸くし、続けて笑い声を上げた。
「そうか、それならよかった。ちょうど俺も歩いて帰ろうと思っていたところだ」
 バス通りから路地に入ると、人通りはほとんどなくなり車道の喧騒も届かなくなる。
 静かな道を選ぶあたりが彼らしいと思いながら、カガリもそのあとに続いた。
「カガリが一人で街歩きができるようなら、ちょうどよかったかもしれないな」
 淡い灰色の石が敷き詰められた路地を進んでしばらくしたら、アスランがそう切り出した。
「今みたいに、君を家に閉じ込めておくようなことをいつまでも続けるわけにはいかないと思っていたんだ」
 言いながらポケットを探って彼が取り出したのは、白くてつやつやした小さな機械だった。
 差し出されて受け取ると、わずかな重みを感じる、それをカガリは興味深く観察した。
 これに似た機械には見覚えがあった。
「携帯電話だよ、わかるか?」
「見たことあるけど……これを、私に?」
「今日帰りに買ってきたんだ。これがあればもしもカガリがどこかで道に迷ったりしても迎えにいくこともできると思って」
「つまり、これを持っていたら好きに出かけられるのか……」
 小さな機械の便利さに感心して言うと、アスランは真面目な顔をして首を振った。
「そういう交換条件をだすつもりじゃないよ。今までも、俺は君の行動を制限したかったわけじゃないんだ、ただ……」
「わかってる。心配してくれてるんだよな。だから今日みたいに私が勝手に出かけたって、心配して探し回ったりはしても怒らないもんな」
 話しながら携帯電話のボタンをそっと押すと、画面がぼんやり光って数字が浮かび上がった。
「いつもそうだった……」
 かすかにつぶやいた言葉は聞こえなかったようで、顔を上げるとアスランは視線を前に戻していた。
「それを渡したら、カガリに話をしようと思って今日はずっと考えていたんだ」
 思いつめたような静かな口調に、カガリは思わず手の中の携帯を握った。
「このあいだの父の書斎でのことを覚えているか?」
 やや間をあけてアスランはそうたずねた。
 (やっぱり、その話……)
 覚えているかと聞かれるまでもないことで、カガリは覚えている、と小さく答えた。
「まずは、もう一度きちんと謝らなくてはならないと思っていたんだ。君を嫌がらせて、泣かせてしまうようなことをして……」
 苦い声でアスランは言ったが、カガリはどう返そうか迷った。
 あのときのカガリの涙は嫌がって流れたものではない。
 瞬間に目の前によみがえった景色のせいで、込み上げてあふれた涙だった。
「でも、俺は中途半端な気持ちであんなことをしたんじゃない。それは、カガリに知っておいてもらいたいんだ」
 アスランの横顔はいさぎよく、聞いているカガリのほうが動揺して目線を地面に落としてしまっていた。
 言葉を継ぐ前に、アスランが歩く速度を緩めて立ち止まったので、カガリもつられて足を止めると、緑の瞳とはちあった。
「俺が言いたいことわかる?」
 自分を見つめる瞳に、どことなく熱がともっているのがわかって、カガリは返事ができなかった。
「カガリ、君のことが」
「待って」
 口から飛び出した言葉でさえぎってしまった。
 意図せず言ってしまっていたカガリ自身も驚いたが、アスランのほうも身構えるように顔をこわばらせていた。
 大通りのざわめきがさざなみのように遠くに聞こえる。
 立ち止まったままの二人に、しばらく沈黙が続いたが、カガリは上手く思考を組み立てられずにいた。
「あの……」
 携帯電話を手の中でぎゅっと握る。
 アスランが言おうとしていたことはわかっていた。
 彼の気持ちは視線と雰囲気からでも十分に伝わっていたからだ。
 (この目を、私は知っている……)
 以前にも、こんな真摯な目でカガリを見てくれた人がいた。
 その人のためにも言わなくてはならないことがあった。
「私は……」
 カガリは目を伏せたままつぶやいた。
「私は、アスランの言葉を聞けないよ……」
「それは、俺の気持ちに応えられないという意味か?」
 低い声の問いかけに、黙ってうなずく。
「そうか……」
 吐息をはくように言って、アスランも地面に目を落としていた。
 また、沈黙が二人の間に横たわる。
 それを振り払うように、アスランは空を仰ぎ見た。
「正直なところ、そう言われるだろうとは思っていたよ。受け入れてもらえると自惚れていられたら、もっと楽だったかもしれないけどな」
 アスランは笑っていたが、どこか自嘲ぎみに見えた。
「あいにくそこまで鈍感でもなかったらしい」
「アスラン……」
 彼は、カガリが彼ではないほかの誰かを想っていることに気づいているのだ。
 気づいているはずなのに、それを尋ねたり、聞き出そうとしたりはしなかった。
「でも、俺の気持ちを知っておいてもらいたかっただけだから、今はそれでいいんだ」
 ふっきれたように言うと、アスランは真顔になりカガリの目を正面から見つめた。
「カガリのことを特別だと思う感情を、消したり変えたりする方法を俺はたぶん知らない」
 ゆっくりと、言葉を考えながら彼は言った。
 翡翠色の瞳にカガリの姿が映っている。
「だから、俺が勝手にカガリを想っていることが嫌でなければ、許してほしい。多くは望まないから」
「そんな……」
 ひたむきな視線が堪えきれなくなって、カガリは目を逸らしてしまった。
「嫌だなんて……思ってない」
「でも、俺は自分で自分がわからなくなるときがあるんだ」
 苦々しくアスランはつぶやいた。
「言い訳になるかもしれないが、父の書斎で君にしたことに俺自身ほとんど無意識だった。衝動的だったと思う」
 たしかに、いつも理性的な彼の行動としては感情的だったかもしれない、とカガリも同時に思い返していた。
「カガリに迷惑はかけたくない、でもそれが保障できない気がして……だからカガリに選んでほしいんだ。このまま俺のところに帰るか、それが嫌なら、これから先は例えば父の家に住んでもらうことだってできる」
「え……」
「それを君に選んでほしい」
 アスランはゆっくりと唇を結んだ。
 カガリの答えを待つつもりなのだ。
「そんな……」
 (そんなふうに私に決めさせるのは……)
 ずるい、と思った。
 彼の気持ちを受け入れることはできないと決めたが、カガリはアスランのそばを離れられなかった。
 アスランの隣は唯一安心できる、カガリがこの世界で手に入れた自分の場所だった。
 (でも、アスランの気持ちを拒否するなら、ここでアスランの家に帰ることを選ぶべきじゃない)
 それはわかっていても、カガリに選ぶ余地はなかった。
 意気地がないと自分を責めながら、カガリは首を横に振った。
「私は、アスランの部屋以外に帰りたいと思うところはないんだ」
 彼を完全に拒絶できない。
 アスランにも、カガリにも、中途半端に甘く、そして苦い選択だった。
「……それでいいのか?」
「うん、いいんだ」
 カガリの返事は彼にとって意外なものではなかったらしく、アスランは驚いた顔はしなかった。
 (だから、ずるいんだ……)
 どちらを選択するのかわかっていながら選ばせたのは、カガリの気持ちを確かめる意味もあったのだろう。
 どっちつかずで決められない、自分のあさましさを見透かされているようだった。
「そうか……ありがとう、と言ってもいいのかな」
 アスランは口の端に笑みを見せた。
「カガリが近くにいてくれるのはなにより嬉しいけど、その反面つらくもあるからな」
「つらい、のか……?」
「たぶん俺は、君に触れたくなるから」
 思いがけない返答に、カガリは思わず後ずさってしまうところだった。
「あの、えっと……それは」
「そんなに赤くなってくれるとは思わなかったな。俺の家に帰るって決めたの後悔した?」
「お、おまえな……!」
「言っただけでこんな反応なんだから、ほんとうに何かしてしまったら、カガリは二度と俺のところに戻ろうなんて思わないだろうな」
「あ……」
 垣間見せた意地悪を楽しむような顔をひっこめると、アスランは真面目な笑顔になって言った。
「だいじょうぶだよ、君をまた泣かせるようなことはしない」
 静かな声だったが、誠実な響きだった。
 気軽に手をとったりするキラとは違い、これまでも、積極的にカガリに近づこうとはしてこなかったアスランだが。
 カガリは今までになかった、はっきりとした壁を感じた。
 それはきっと、これまでアスランがカガリに向けて漠然と持っていた感情を、お互いに確信したからだろう。
 カガリも急に彼から向けられる感情を意識してしまい、家までの道を歩きながら、アスランの背中を見つめるのもためらわれてしまっていた。
 (考えてみたら、私に好意を持ってくれている誰かとこんなふうに過ごしたことってないんだ……)
 部屋の鍵を開けて自分を先に通してくれるとき、疲れているだろうとお茶を差し出すとき、彼の表情が思いやりと優しさに満ちており、それがまたカガリを緊張させた。
 食事前にシャワーを浴びようと、着ていたシャツを脱ぐときにうっすらと汗をかいていたことに気づいてカガリは自分自身の反射に笑った。
 (こんなことで緊張するなんて、アスランの家にいたいといったのは私なのに)
 シャワーのバルブをひねりながら、カガリはバスルームの鏡をのぞいてみた。
 さっきから体温が上がっているような気がしていたが、そこにいたのは、ほんのり頬を紅潮させた自分だった。
 (……そうか、意識して当然の状況だったんだ)
 温かい湯が一瞬で頭から体をざあっと濡らす。
 けれども、それより早くカガリの全身は一気に熱くなった。
 男女がふたりきりの環境でシャワーを浴びるなど、無防備なことをしているといまさら気づいたことで、急に恥ずかしさが指先まで走った。
 (どうして、わたし……)
 鼓動が早くなる。
 どうして今まで平気だったのだろう。
 いや、どうして急に平気でなくなってしまったのか。
 無意識にキッチンで料理をしているはずのアスランの気配に耳を澄ましていた。
 そこで、バスルームの扉をノックされて、カガリは思わず声を挙げそうになった。
「カガリ?」
 扉の向こうからアスランが呼びかけた。
 アスランの叩いた扉はシャワールームの外、さらに洗面室をへだてた先だったが、カガリは思わず体の前で手をかきあわせていた。
「ごめん、そういえばバスタオルを切らしていたと思うんだ。リネンボックスになければ、悪いが乾燥機から直接とってもらえるか?」
「あ……ああ、うん」
 何のことはない伝達に安堵したが、まだ尾を引く驚きのせいで、シャワーの音に消されてしまいそうな返事しかできなかった。
 なんとかその返事が聞こえたのか、アスランの足音が遠くなっていくのを確かめて、カガリは息をついた。
 同じようなことはこれまでにもあったはずなのに、こんなに動転したのは初めてだった。
 (なんだろう、これは)
 アレックスの鞍に乗せてもらって馬に二人乗りをしたときや、公ではない場でこっそり会って話ができたときなどに感じたときめきとは異なるものだった。
 シャワーを済ませてリビングに戻るとすでに料理のいいにおいがただよっていた。
 アスランの用意してくれたスープとパンを腹におさめてしまうと、強い眠気がカガリを襲った。
 料理をしてくれたアスランに変わって食器の片付けは自分がしようと思っていたのだが、疲労感にはあがらえず、アスランが早めに休んだほうがいいと促してくれた言葉に甘えてしまった。
 慣れないものにたくさん触れ、感情のふり幅がとても大きかった一日だった。
 それを労わるようなやわらかいベッドに横たわると、吸い込まれるように寝入っていた。
 しかし、それがいつもの就寝時間よりだいぶ早かったからだろう、カガリは深夜にふと目を覚ました。
 窓辺にアスランが買ってくれた兎の形をした白い時計があり、それがまず視界に映ったが、時刻は午前三時を過ぎたところだった。
 もう一眠りしようと寝返りを打ったものの、いざ目を閉じると眠気がすっかり消えていることに気づいた。
 (……やだな、こうなるとたぶんなかなか寝付けないぞ)
 こういうときは何か温かいものでも飲んだほうがいいだろうかと、カガリはそろりと音を立てないようにベッドを降りて、リビングに続くドアを開けた。
 ドアはかすかに軋む音をたてたが、その音はしんと静かなリビングに響かず消えていった。
 カーテンから真夜中の淡い街明かりと月の光が透けて差し込み、装飾の少ない部屋の中はまるで海の底のようだった。
 (……アスラン)
 その中央に置かれた二人掛けのソファにアスランが体を折るようにして眠っていた。
 藍色の黒髪が、ますます深い青色に染まって見える。
 規則正しい寝息を気にしながら、カガリはそっとソファに近づいてみた。
 (こんな狭いところでいつも寝てくれてたんだな……文句も言わないで)
 意外に長いまつげや、緩んだ眉を観察しながら、カガリはソファの前のサイドテーブルに腰を下ろしていた。
 ただ、じっと見つめながら、カガリは目の前の寝顔を記憶の中のアレックスと重ねようとしていた。
 今まで意識してそういう見方はしないようにしていたが、アレックスの面影を思い浮かべ、透かし絵をあわせるようにしてみても、二人の人物は決して重ならなかった。
 双子よりも瓜二つともいえるくらい似ているはずなのに。
 (アレックスに似ているから、この場所が居心地がいいんだと思ってた。やっぱりどこかオーブの影から離れられない気持ちがあるから、ここに帰りたいと思うんだと……)
 そうではないのだと、少しずつ悟りながらカガリは自分の心を探るように自問していた。
 (でも、だったら、私はどうして……)
 自らの深い気持ちに触れようとしたとき、唐突に危険信号を感じて怖くなり、強制的に思考を止めると我に返って目を上げた。
 そこで、翡翠色をした瞳がこちらを見ていたことに気づいて、思わず声を上げてしまうところだった。
「お、まえ……起きていたのか?」
「……やっぱり気づいていなかったのか」
「気づいてって、い、いつから?」
「カガリがリビングに入ってきたあたりからかな」
 それを聞いて、瞬時に部屋に入ったところから思い出し、おかしなことをしたり、言ったりしていなかっただろうかと振り返るうちに、カガリの頬はみるみる染まってしまっていた。 「どうした? 眠れないのか?」
 体を起こしながらアスランは気遣わしげな顔をした。
「うん。ちょっと目が覚めちゃって……ごめんな、アスランまで起こしてしまった」
「いや、それはいいんだ。むしろ起こしてくれてよかった」
「え、そうなのか?」
「ああ、目が覚めたときに、また、君にふらっと外に出られてたら心臓に悪いからな」
 そう言うと彼は、首をかしげていたカガリに向かってちらりと笑ってみせた。
「あ! あれは悪かったって、前にも謝っただろ。もうしないよ、そんなこと」
 誘いにのせられて、つい声を大きくしてしまうと、その反応を見てアスランは穏やかに目を細めた。
「それを聞いて安心したよ。少なくとも俺が寝ている間にカガリがいなくなることはないわけだ」
 どこか言葉の裏を感じさせるような言い回しに、カガリが問いかけようとすると、それを防ぐようにアスランは立ち上がりキッチンへ歩き出した。
「なにか温かいものでも飲まないか? 今から朝まで起きておくわけにもいかないだろう」
 心の中を読んだような申し出に、少し驚いたのと嬉しかったのとで、カガリは黙ってうなずいた。
 ひざを抱えてキッチンの椅子に座り、アスランが小鍋を火にかけたりする背中を眺めていたら、いくらもしないうちにその背中が振り向き、カガリの手に大きめのカップが手渡された。
 少し甘ったるい香りがする、ブランデーを数滴落としたホットミルクだった。
「あ、おいしい……」
 ほんのりとアルコールが体に広がり、胸のあたりから温まってくるのを感じる。
「小さい頃に父がキッチンに立つといえば、これを作るためだけだったんだけどな。いつのまにかレパートリーが増えていて驚いた」
 アスランもカガリのテーブルを挟んで正面に腰を下ろし、自分もカップから一口含むとそう言って笑った。
「そうか、これはアスランのお父様が作ってくれていたものなのか」
「温めるだけの料理だけどな」
「でも、うれしいよな。眠れないとき、そうして誰かがそばにいてくれるとすごく安心する」
 もう一口すすって、カガリは手の中のカップをじっと見つめた。
「私が作ってもらってたのはハーブティーだったな……」
 独り言のように言ったが、それが聞こえていたはずのアスランは相づちを打つことも聞き返すこともしなかった。
 ただ黙って壁のほうに目を向けていた。
 その沈黙に促されるように、カガリはぽつりと続けた。
「……ミリアリアはお茶もすごく上手で、私が夜に眠れなくなるとカモミールの入ったお茶を淹れてくれてたんだ」
 眠れなくなることは度々あった。
 兄やアレックスの遠征があったとき、近隣国の情勢が不安定になり戦争の緊張が高まっていたとき、そして、自分の縁談が決まったと父から聞かされたとき。
「その香りが好きで、よくミリアリアを夜更かしに付き合わせてたな……こんなふうに」
「……そうか」
「そうしておしゃべりしてたら、たまに兄が部屋に入ってきて一緒に話したがったりもして。私はそれが楽しくてみんなでおしゃべりしたかったんだけど」
「うん」
「いくら肉親といったって夜に淑女の部屋に入るものではありません、っていつも私の乳母に連れ出されてたよ。まあ、乳母には私もよく怒られてたんだけど」
「……へえ」
「言いつけを破って、よく城下に遊びに行ってたんだ。もちろん誰にも内緒でこっそり行って帰ってきてたんだけど、どうしてかマーナにだけはばれちゃうんだよな」
「そうか……」
 キッチンの電球の明かりの映るミルクを見る。
 ゆらゆらと揺れる水面が眠りを誘うような色をしていた。
「……なんだかこうしてると夢みたいだ」
 どちらが夢だとも言わなかったが、アスランはそれも聞き返しはしなかった。
 こんなにオーブの話をしたのは初めてかもしれない。
 再びうとうとしてくるまで、カガリは話を続け、アスランはただそれを聞いてくれていた。
 思いつく限りの親族や友人、知人の話をしたが、ただ一人だけ、名前も出さずにいた人がいた。
 カガリがオーブのことを思い浮かべるとき何より先に想う人だったが。
 アスランを前にして、いまは名前も口にすることができなかった。