トロイメライ

06



 太陽の光が日増しに明るく、暖かくなってきていた。
 短い夏が近づいてきている証拠だ。
 キャンパスを歩く学生の服装も軽装になり、色も鮮やかなものが多くなってくる。
 曇天がほとんどの冬と違い、さっぱりとした晴れの日が続くこれからの時期は、それまでの灰色の風景に色をつけたようにみずみずしい。
 講義の最後の五分間、教授の無駄話を片耳で聞き流しながら、アスランは窓の外を見ていた。
 いくら初夏の景色が美しいとはいえ、陽光に照らされて光る樹木や、校庭の池の水面だけでは眺めて時間をつぶすには少し物足りなかったが。
(あと、二分)
 手元の時計で時刻を確かめる。
 この講義が終われば昼の休憩時間だ。
 いつもは気にしたり、待ち遠しく思ったりすることはないのだが、今日はその時間に早くきてほしい理由があった。
「よし、では今日はここまで。先日の課題の未提出者は次回までに提出するように」
 教授の言葉はまだ終わっていなかったが、終了のチャイムが鳴るのと同時に荷物をまとめると、アスランは誰より早く講義室を出ていた。
 背中のデイパックで筆記用具をかちゃかちゃ言わせながら足早に向かったのは学内のカフェだった。
(……すごいな、こんなににぎわっているものなのか)
 講義が終わってまだ数分だというのに、カフェはもう混雑をはじめていた。
(そうか、たぶんテラスにいるはず……)
 注文のための列や、室内をざっと見渡して、目的が見当たらないのを確認すると、アスランは併設されているテラスに出た。
 このカフェは学生たちにもっとも人気の休憩場所であり、カレッジのものにとっては他校に対してのちょっとした自慢でもあった。
 フードメニューやコーヒーの味はいうまでもないが、白と黒で統一されたモダンな店内と大きく開放された窓から見える校庭の緑が調和して、街の人気店にも負けない雰囲気がある。
 とくにウッドデッキになっているテラスはこれからの時期は席の取りあいになるくらいだった。
「やっぱりここだったか」
 テラスのテーブルをひとつひとつ目で確かめて、アスランは目当ての人物を探しあてると、やっと足を止めた。
「あれ? アスラン、めずらしいね、カフェに来るなんて」
 呼びかけに応えて読んでいた雑誌から顔を上げたキラは目を丸くしていた。
「おまえのほうは、ほんとう相変わらずだな」
 キラの座っている席はちょうど木陰になっている、テラスでもっとも快適な場所で、春の正午にこのテーブルに座れている者は、まず午前の講義をすっぽかしていると見て間違いなかった。
「いやあ、今日はなかなか起きられなくってさ。ここでコーヒー飲んだら目が覚める気がして」
「昨日、カガリを連れまわして遊んでいたから疲れていたということか?」
 アスランはあえて調子を変えずに尋ねた。
 それを受けたキラの笑顔もそのままだったが、親友を見る目の色がちらりと変化していた。
「なんだ、やっぱり気づいちゃったんだ」
「あたりまえだ。カガリには必要になったときに困らないくらいの金銭しか渡していないのに、両手に抱えるくらい服や靴を買って帰ってきたら、俺じゃなくてもおかしいと思う」
「そっかあ、調子にのってやりすぎちゃったかな。カガリが何を着せても可愛いから、ついね」
「キラこそ、昨日のことを俺がカガリから聞き出したとか、カガリから俺に話したかもしれないとは思わなかったのか。真っ先に『気づいた』とはあまり考えないと思うんだが」
「だって、二人ともそうはしないでしょ?」
 キラはどこか得意げに笑った。
「それで、君はどうしたの? 宣戦布告でもしに来たの? 俺のカガリに勝手に手を出すなとか? カガリは俺がもらうとか」
 一転して質問を浴びせてきた。
 白いテーブルに身を乗りだしたキラの表情は、あきらかに好奇心そのものだった。
「ああ、そうだ。釘を刺しにきたんだよ」
 アスランはキラの好奇を断ち切るように、きっぱり答えてやった。
「釘を刺すっていうと……?」
 アスランの攻勢が思いがけなかったらしく、キラはカウンターでも食らったような顔をしていた。
「カガリを連れ出すなら、次から俺に一言連絡してくれ、それだけだ」
「それだけ?」
「ああ、不要な心配をしなくてすむ」
 淡白なアスランの口調に、それまでの期待が足元から崩れたようで、キラは大仰な動作でテーブルにつっぷした。
「それだけー? カガリが出かけることについてはお構いなしなの?」
「それを制限するような権限は、俺にないだろう」
「でも、嫌じゃないの? 昨日のは一応デートみたいなものだったんだけど」
「わかっているなら話は早い。ほんとうは、おまえを一発殴りたいくらいだったんだ」
 アスランは、昨夜からちくちくと感じていた苛立ちを笑顔で隠していたが、それが逆に表情に凄みをきかせていた。
「ちょ、カガリと勝手に出かけたのはフェアじゃなかったと思うし、謝るけど。そういう物騒な方向にいくのはやめようよ」
「出かけていたこと自体より、そのことをカガリが秘密にしようとしたことが面白くない……」
「……つまり、嫉妬したってこと」
 キラの一言は、昨日カガリの嘘に気づいて、ちくりと刺さったとげの正体で、ずっと形にできていなかった言葉だった。
「そう……なんだろうな」
 アスランはため息をついて、椅子の背にもたれかかった。
 言葉にすれば、もちろん意味も知っている明確な感情だったが、その内包する複雑さに頭を抱えたい気分だった。
「そっか、じゃあ君はもう自分の気持ちを自覚したんだ。カガリを好きだって」
「当然のように話を進めるなよ。俺はカガリについてキラに話した覚えはないんだが」
「そんなの、最初にカガリに会ったときにわかったよ。アスランが見たことないような顔でカガリを見るからびっくりしたしね」
「……そうなのか」
 だとしたら、カガリに出会ってほとんど一瞬で、自分は彼女に惹かれていたんだろう。
 思えば、はじめから彼女は特別だった。
「それで、カガリには何か言ったの? 好きだとか愛してるだとか」
「……おまえはよく真顔でそういう単語が言えるな」
「そう? アスランのほうがよっぽど平気で恥ずかしいこと言ってそうだけど」
「キラみたいに慣れてなくて悪かったな。あいにく決心して言おうとしたら止められたよ」
「止められたって?」
「俺の気持ちは聞けない、受け取れないらしい」
 深夜にずっとカガリの思い出話を聞きながら、彼女が数百年の昔に置いてきた時間の重さと、自分と関わってきたこの一ヶ月あまりの日々が比べようもないものであることを痛感していた。
 いくら自分が彼女に心酔していようと、いくらアスランにとってはカガリに出会ってからの日々が一変して輝いたものになったのだとしても。
「だから、とりあえずは待とうと思う。カガリが受け入れるくらい気を許してくれるまで」
「……でもそれって、つらくない? いろいろと。だって同じ家に暮らしてるわけだし」
「だからといって、強引に気持ちをぶつけても取り返しのつかないことになるだけだろう」
「たしかに。まあ、アスランに恋愛の駆け引きをしろなんていうのも無理な話だろうしね」
「……悪かったな」
「いいんじゃないかな、実直でアスランらしいと思うよ」
(実直……とはいえないかもしれない。でも今はこれが最良だと思うから)
 せめて、彼女の思い出と対等になれるまでは待とうと思った。
 カガリの居場所は自分の手元に縛りつけているのだから、少しは分がある。
 ほとんど誘導尋問のようにして、カガリの帰る場所を決めさせたやり方は誠実とは言い難いかもしれない。
 けれども、アスランの持つ武器といえばこれしか今はないのだ。
「でも、言っておくがキラに対しては待つつもりはないからな。おまえがカガリを狙うなら物騒な手段も使うかもしれないぞ」
「あ、やっぱり宣戦布告もしに来たんだ」
 キラが肩をすくめて笑うと、アスランは冗談半分、半分は本気のつもりで忠告した。
「もちろんだ、カガリを連れ出すときは連絡しろとは言ったが、それで俺がどうするかは、まだなにも言ってないんだからな」




 ※ ※

 淡いグリーンのドレスに袖をとおす。
 日が陰ると肌寒いかもしれないから、合わせて買ってもらった白いボレロを上に羽織る。それを着たところで鏡の前で自分の姿を確認して、思わず笑みがこぼれた。
 重たいビロードや、うっとうしいレースで着飾るのが嫌いだったから、着替えもドレスの新調も嬉しいことではなかったのに、このところは新しい服を試すのが楽しくて仕方がないカガリだった。仕上げにブラウンのサンダルに履き替えると、玄関のドアにきちんと鍵をかけて、アパートを出た。
 アスランにもらった携帯電話もしっかりバッグに入れてある。これさえ持っていれば、どこにいくにも不安はなかった。行ってみたい場所はたくさんある。
(やっぱり、映画館ってところには行ってみたいんだよなあ)
 道に迷わないようにと、アスランがくれた街の情報誌とポケットサイズの地図を、歩きながら開いてみる。映画館があるのは街の中心だからバスに乗る必要があるな、などと考えながら歩いていたら、正面から声をかけられた。
「ちょっと、カガリじゃない。どこ行くの?」
 地図に没頭していたため気づかなかったが、すぐ目の前に人が立っていたらしい。カガリのゆくてを阻むように立っていた少女は大きな目をぱちくりさせていた。
「え、フレイ……?」
「あ、よかった! 覚えててくれたのね。忘れられてたらどうしようかと思ったわ」
 フレイは本気でほっとしたように笑っていた。
「そんな、忘れたりするわけないじゃないか! また会えて嬉しいぞ、フレイ」
 カガリにとっては、ただ一人、気を許せる女の子である彼女との再会が嬉しくないはずがない。フレイの手をとると喜びに任せて何度も振った。
「どうしたんだ、今日は? アスランに用事か」
「いいえ、まさか。だってあいつ学校に行ってるでしょ?」
「そうだな、夕方まで帰らないぞ」
「今日はカガリに会いに来たのよ。ちょうど暇ができたから、あなたと遊びたいなあ、と思って。私も一緒に出かけていいかしら?」
 一人より、二人で出かけるほうが何倍も楽しいに決まっている。朝からわくわくしていた外出への期待が、一気にふくらんでカガリの心を押し上げた。
「もちろん! フレイが一緒なんて今日はいい日になりそうだ」
 道に不慣れなカガリにとっては心強い味方でもあるのだ。ただ、先日のキラの訪問の状況に似て、少し都合がよすぎるような気もしてひっかかったが、その小さな気がかりも、フレイが美味しい昼食が食べられるレストランの話を始めたので、すぐに頭の奥に押しやられてしまった。
「それで、アスランとはその後どうしてるの?」
「え?」
 バスに乗り込んで、二人掛けの席に落ち着くと、フレイは前触れなく顔を寄せてきた。
「ね、どうなの?」
「どうって……どういう?」
 フレイの気迫に押されてしまいそうになったが、カガリは質問の主意がわからず首をかしげた。
「どういうって、そう返されると困るわね……つまりキスをしたとかなにか進展があったか、ってことなんだけど」
「キ……!」
 ほとんど叫び声のような声を上げてしまいそうになって、カガリはあわてて口を押さえた。車内には他にも何人かの乗客がいるのだ。
「な、なんでそんなこと聞くんだよ。そんな進展だとかなんてあるわけないだろ」
「え? アスランとカガリって付き合ってるんじゃなかったの。同じ家に住んでるのに?」
「違うよ! アスランは私が他に行き場がないからアパートに置いていてくれてるんだ。恋人とか……そういうことじゃ」
 最後のほうは口ごもってうまく言えなくなってしまった。自分のひざを見つめて黙ってしまったカガリを、フレイは横目でしばらく観察していたが、やがて彼女は納得したようにひっそり微笑むと、カガリの目を見て言った。
「でも、顔に書いてあるわ。カガリはアスランに恋してるのね?」
「恋……?」
 頬の熱を抑えるようにあてていた手をカガリはそっと離した。
「私が……アスランに?」
 なぞるようにつぶやいたのは、彼女の発言が腑に落ちなかったからだ。アスランとキスしたことは、不意打ちのようなものだったにせよ事実だったため、フレイに言い当てられて心臓が跳ね上がったが。
「それは、アスランはいいやつだし、好きだけど、フレイが言うようなものとは違うぞ」
 どうして顔に書いてあるなんて言うのだろうか。そんなはずはないのだ、なぜならカガリの想う人は……
「そんなはずはないわ。きっとまだ自分の気持ちに気づいていないのね」
 フレイは迷わず断言した。
「なんだよ、自分の気持ちくらい自分でわかってるさ。いや、自分が一番知ってるものだろ」
 負けずにカガリも反論したが、フレイはびくともしなかった。
「いいえ。気持ちって、ときどき無意識に目をそらしてしまってることがあるのよ。カガリが見ないようにしている心が、他の誰かには見えてしまうなんてことも、別にめずらしくはないわ」
「じゃあ、フレイには私の心が見えるっていうのか?」
 見透かしたような物言いに、少しむっとして喧嘩腰につっかかると、フレイは大人っぽい笑みを浮かべた。
「そうねえ……」
 まるでカガリの心を透視でもするように、上から下まで眺めあげる。
「カガリはアスランと一緒にいると、緊張するようなときがあるんじゃないかしら?」
「え……」
「二人でいると間が持たないような気がすること、あるでしょう?」
 カガリは口を結んで、息を飲んだ。ますますフレイの笑みが色づいたように見える。
「でも、一緒にいられると嬉しい?」
 声をひそめ、彼女は肩を寄せた。
「そんなふうにして、気がついたらアスランのことばかり考えてるんじゃないかしら?」
「ちが……」
 声が途中で切れた。違うと言い切れなかったのだ。
「そういうのを恋っていうのよ」
 フレイの諭すような囁きを、けれどもカガリはなんだそうなのかと、容易に受け入れることはできなかった。
 否定しなくてはならない義務を感じて、ただ首を振った。
「違う? 認めたくないのかしらねえ。別に何も悪いことでもなんでもないのに、アスランに彼女がいるわけでもあるまいし……」
 フレイは唇に人差し指をあてて、考え込む仕草をしていた。
(悪いこと……)
 何気なく彼女が選んだ言葉が、カガリをとどめのように揺さぶった。なにか自分の後ろめたい部分を見つけられてしまったかのように、胸のどきどきが止まらない。
(私が、好きなのは……)
「ね、それなら、今からカレッジに行ってみましょうか?」
「え?」
 顔を上げると、フレイが淡いグレーの瞳をきらきらさせていた。
「アスランに会って確かめたらいいじゃない。アスランの顔を見てもなんとも思わなかったら、カガリが正しいってことになるし、ちょっとでもドキドキするようなら私の勝ちだわ」
 どうしてもカガリに認めさせたくなったらしく、彼女はもう勝ったような顔をしていた。
「そうと決まれば、ターミナルでカレッジ行きのバスに乗り換えよ!」
「ちょ、何も決まってないだろ、なにも!」
 まだターミナルまでは二駅あるのに、フレイはカガリの手を引こうとぎゅっと握ってきた。彼女の一存で、あっさりと行き先が変更されてしまったのだ。
「え……ほんとうに、行くのか? アスランのところに?」
「もちろんよ、もう決めちゃったんだから」
「決めたって……」
 カガリの心は揺さぶられたまま、まだ水面が騒いでいる。いま、アスランの顔を見るのは怖い気がした。
 フレイの舵取りは強引ではあったが、ほんとうにカレッジに行くことが嫌なら手を振りほどくことはできる。けれども、カガリはフレイの細い指を握り返すことはしないでも、引かれるまま、抵抗することはなかった。
 アスランの通う学校について、年若い学生たちが集まって学問を学ぶ場所だということくらいはカガリも知っていた。アスランの寝室にあった本の中に、入学案内書というのがあり、それに建物の写真が掲載されていたのを見たこともあった。アスランが毎日どんなところに通っているのかは、だいたい想像がついていたはずだったが、カガリはその規模を目の当たりにして、すっかり驚かされてしまった。
 広大な敷地には手入れされた芝生と緑の木々が織りなす庭が広がっており、その中心に五階建てほどの巨大な校舎がいくつも並ぶ様は、まるで城のようなのだ。
「すごいところだな……みんな毎日ここに通ってるのか」
 圧倒されて、校門から入ったところでカガリは立ち止まってしまっていた。
「うーん。ほぼ、毎日かしら。私は今日はこうしてサボっちゃってるわけだし」
「え? あれ、フレイは今日は休日なんじゃ……」
「あ! そんなことより、お腹空かない? この学校は美味しいって有名なカフェテリアがあるのよ」
 カガリの疑問が聞こえなかったのか、それとも聞き流したのか、フレイはバスからずっと握ったままの手を引いて、さっさと校内を進んでいった。
 石造りの校舎の間に作られた庭を歩いていくと、カガリと同じ年頃の若者と何人もすれ違う。木陰に設けてあるベンチではランチボックスやサンドウィッチの包みを広げている者もいた。彼らは一様に、めずらしいものを見るような顔ですれ違いざまにカガリとフレイを見てくのだった。
 カガリも彼らを興味深く観察していたので、おあいこではあるのだが、そのうちに段々不安になってきた。
「フレイ……私、もしかしておかしな格好しているのかな」
「あら、どうして?」
「いや、なんだか周りの人がみんな私たちを見ていくような気がするんだ。もしかすると、私のドレスの着方がおかしいのかも……」
 たった今、すれ違った少女と自分の服装を、繰り返し振り向いて確かめてみる。もしかすると、この時代の感性に上手く馴染めていないのかもしれない。
「それはまったく逆よ、カガリ」
「逆?」
「私たちが可愛いから見られているのよ。カレッジなんて半分はみんな恋愛しに来ているようなものなんだから」
「ええ? そうなのか」
 カガリが目を丸くすると、フレイは人差し指をふるって得意げに講義をはじめた。
「だって、年の近い男女がこれほど大勢集まって毎日顔を合わせる場所なんて、社会に出たらほとんどないのよ。カレッジほどよりどりみどりに恋愛できるところなんてそうはないわ」
「……う、うん」
「だから、みんなより良い相手を探そうと必死なのよ。恋愛を楽しむためだったり、女の子は将来有望な彼を、男の子は将来のお嫁さん候補を見つけるためだったりね」
「……フレイもそうなのか? ここで自分の婚約相手を見つけるのか」
「私はこのカレッジだけにとどまるつもりはないわ。キラだってけっこう奔放に遊んでるしねえ、真面目に勉強しにきてるのはアスランくらいじゃない?」
 最後の一言にカガリは無意識にほっと息をついていた。。
 フレイ自身のことをたずねたとき、ほんとうは心の中に浮かんでいたのはアスランの名前だった。
「ふふ、安心した?」
 意味ありげに含み笑いをしたフレイが、ひょいと顔をのぞき込んできた。
「え、なにが?」
 フレイは心を読む魔法でも知っているのだろうか。
 たじろいだカガリを見て、彼女は満足したようだった。
「私の知る限りではアスランが恋愛に興味を示したことなんて一度もないから安心していいわ。女の子に興味がないんじゃないかって疑ったことがあるくらいだもの」
「……そうなのか」
「まあ、言い寄られることは少なくはないんだけど……って」
 言いながら、フレイが足を止めたので、その横でカガリも彼女に従った。
 生い茂っていた樹木がちょうど途切れた場所で、森を切り開いたようなそこには白いテラスがあった。テラスの奥にはガラスでできた建物があり、どうやらフレイが話していたカフェテリアのようだったが。
「……こんなこと言ってたらほんとに出くわすなんてね、ついてないのかしら」
 口の中でぼやいて、フレイは髪をかきあげた。
 彼女の視線をたどってみて、カガリもたずねようとした言葉を飲んだ。
 テラスのテーブルにいたのは、キラと、アスランと、アスランに寄りそうようにして笑っている知らない女の子だった。
 ふいに、耳の奥に潮騒のようなざわめきが鳴りだした。
「あ、カガリ、違うのよ、あの子は」
 フレイはぱっと振り向くと、取り繕うように両手を振ってみせた。
「なんだか、アスランに一方的に付きまとってるのよ。ほら、うっとうしくても、あいつお人よしで追い返したりできないから、あの子も調子に乗っちゃって」
 早口でそう説明されたが、遠くから見る限りでは二人はにこやかに会話をしているようにしか見えなかった。
「やきもち妬いちゃうのはわかるけど、こんなことで喧嘩とかする必要ないんだからね?」
「そんなこと……しない」
「え? なに?」
 低いつぶやきを聞き返すようにフレイはまつげをしばたいたが、カガリはかまわず彼女に背中を向けた。
「ごめん、フレイ、私もう帰るよ」
「え、カガリ、ちょっと」
 肩にかけようとしてきたフレイの手をすり抜けて、来た道をまっすぐに戻った。
 フレイは追うそぶりを見せたようだったが、カガリはカレッジの門を出るまで振り返らなかった。
(違う……これは)
 レンガ造りの校門を出たところで、足を緩めて校舎を仰ぎ眺めた。すっかり息が上がってしまっていた。
 早足で通路を駆けてきたからか、鼓動も激しくなっている。
(違うのに……)
 手をぎゅっと胸元で握った。何度も同じ言葉を頭の中で繰り返しつぶやいた。違う、と。
 先ほどの少女とアスランが特別に仲が良いわけではないことくらいは、わかっていた。
 フレイが否定しなくてもアスランを見ていれば自分で結論できたと思う。
(なのに、どうして……)
 身の内のざわめきがおさまらない。
 問題なのは、あの少女とアスランの関係などではなく、彼が知らない女の子と親しげにしている場面に出くわして、一瞬でも動揺した自分自身の心だった。
 アスランの隣の少女の楽しげな表情を見たときに、胸の奥ににじんだ灰色のもの。
 今日のようにフレイにいろいろと揺さぶられたりしなくても、遅かれ早かれ目の前に突きつけられていたのかもしれない。
 自分の心の向かう先にあるものを。
(見ないようにしていたんだ、私は)
 心がこんなにも自分の意思に反して動いてしまうものだとは思わなかった。
 どうすればいいのだろう。奔放な風のようにカガリの手をすり抜けてしまった心を、どうして元の場所に戻せばいいのかわからない。
「こんなこと、許されない……」
 強く思ったことが声になっていた。
 それで我に返ると、知らず歩道に立ち止まってしまっていた自分がすれ違う学生の注目を集めていることに気が付いて、カガリはまた足を速めてバス停に向かった。
 息を整えながら懸命にアレックスの顔を思い浮かべようとしたが、いつもすぐ瞳の奥に見えていた彼の笑った顔が、どうしてかとても遠くに見えていた。
 
 
 
 
「あれ、フレイ一人なの?」
 中庭の芝生を踏み分けてテラスに向かってくる少女を見つけて、そう声をかけたのはキラだった。
「しらじらしく聞かなくても、わかってるんでしょ」
 フレイは白い床板を鳴らしながらテラスに上がると、少し不機嫌そうに髪をかきあげた。
「フレイも昼食か? だったら俺はもう済んだからこの席を……」
「いいえ。アスランと、そこの策略家に用があってきたのよ」
 トレイを持って立ち上がろうとしたアスランを手のひらで制止させて、フレイは彼の横に立つ少女をちらりと横目で見た。
 少女はただ見つめられただけだったが、その視線になんらかの圧力を感じたのだろう、さっと目をそらすと「じゃあ、私はこれで」とだけ言ってテラスの席を離れていった。
 その後ろ姿を目で見送って、口を開いたのはキラだった。
「ひどいなあ、策略家っていうのは僕のこと?」
「あたりまえじゃない、私を使うなんていい度胸してるわ」
「使うなんて人聞きの悪いこと言わないでほしいな。フレイだって楽しんでやってたんじゃないの?」
「それが策略的だっていうのよ。あの子の反応が可愛いから、いろいろ問いかけるのをうっかり楽しんじゃったじゃない」
「おい、二人ともなんの話をしてるんだ?」
 会話の意図が見えないアスランは置いていかれる前に口をはさんだが、キラもフレイも説明をする気はないようだった。
「キラ。さっき、見てたんでしょう?」
「あ、やっぱり気づいてたんだ。なんとなくフレイと目が合った気がしたから、ばれたとは思ってたけどね」
 キラは、フレイだけは騙せないなあ、などとぼやいて笑ったが、フレイのほうはますます眉間にしわを寄せた。
「今朝、急にカガリのところに遊びに行ってほしいなんて言いだしたのは、このためね? さっきの場面をカガリに見せるのが目的だったんでしょう」
「まあ……あんまりおせっかいを焼くのもどうかと思ったんだけどね」
「うそね、面白がってるくせに」
「まさか! ただ、僕は純粋に二人を気にかけてるだけだよ」
「ちょっと待て、さっきからなんの話をしているのか説明してくれないか」
 今度は声を強めて、アスランははっきりと会話を断ち切った。その声で思わずキラへの反論を飲み込んだフレイが、しばらく状況を整理するように考え込んだのちに、しぶしぶ話した。
「ついさっきのことよ。カガリね、私と一緒にカフェの前まで来てたの」
「ここにカガリが来ていたのか?」
「そうよ、私と一緒にね、街に遊びに出ようと思ってたんだけど、途中でカレッジに行くのも面白そうだと思いたって、私から行こうって誘ったのよ」
「それで? もう帰ったのか」
 アスランは、目線を中庭に向けた。
「帰っちゃったわよ、やきもち妬いてね」
「やきもち?」
「アスランがさっきの子と一緒にいるところを見て何か勘違いしちゃったみたいなのよ。あなたも、帰ったらちゃんと弁明しておきなさいよ」
 フレイは唇をとがらせて人差し指を向けてきたが、忠告をされた本人は驚いた顔は見せても、すぐに眉をゆがませて苦笑いをした。
「それはないな。カガリが俺に対して嫉妬をするなんてことはありえない」
「……ありえないって、どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。カガリが帰っていったのにはなにか他に理由があったんだろう。カガリを動揺させることがキラの策略だというなら、まったくの的外れだ」
 言い切ってから席を立つと、次の講義があるからとアスランはテラスを出て行った。
「……どういうことかしら、ああまで断言するってことは、アスランってそうとう鈍いのかしら」
 空いた席にゆっくりと腰かけると、フレイは不可解そうに首をひねった。
「それがどうやら、アスランの気持ちは受け取れない、なんてカガリから言われたらしいんだよね」
「え、カガリがそんなこと言ってたの?」
 キラはうなずくかわりに、もうすっかり氷の解けてしまったアイスコーヒーを黙って飲み干した。
「なんだ、私てっきり、うぶで奥手な二人がなかなか進展できなくてじれてるだけなんだと思ってたわ。カガリがアスランの気持ちを知ってるなんてね……」
 テーブルに頬杖をついてため息をついたフレイを見て、キラは表情をやわらげた。
「カガリのほうに枷があるみたいなんだ。でも、それを少し緩めたりできないかな、と思って今日はフレイに手伝ってもらったんだけど」
 言いながら、彼は面白いことを思い出したような笑みをのぞかせる。
「さっきのカガリの様子だと、ちょっとは動いてくれそうかな」
 その顔を見て、フレイはあきれた様子で、やっぱりおもしろがっているじゃない、と文句を言ったが、キラはにっこりと笑っただけで返事はしなかった。
 
 
 
 
 太陽が山の向こうに落ちて、東の空から街がだんだんと群青色に染まっていく。
 ぽつぽつと街灯に灯りがともりはじめ、家々の窓からもれる光があたたかく見える頃。通常の講義や研究を終えて、居残りの作業がない日のアスランが家路につくのは、いつもそんな時間帯だった。
 暗い自室に帰り、自分で明かりをつけ、静かなキッチンで料理を始める。それはなんの感情も起こることのない日常だったが、この春からは違っていた。
 アスランの部屋の窓からも明かりがこぼれるようになり、玄関の扉を開けると温かな光とはずむような笑顔が迎えてくれるようになった。
 いまは、この玄関を開ける瞬間が一日の楽しみになっていた。
「カガリ、ただいま」
 ところが、その日はいつもと違っていた。後ろ手にドアを閉めて少し待ったが返事がない。いつもならドアを開けた音だけでリビングから飛んできてくれるのだが。
「カガリ?」
 出掛けているのだろうか、いや、電気がついているから家にはいるはずだと思い、部屋をのぞくとカガリはキッチンに立っていた。
 アスランに背を向けてスープをかき混ぜている。
「ただいま、カガリ」
 玄関の音が聞こえなかったのだろうかと、もう一度声をかけるとようやく彼女が振り向いた。
「ああ、おかえり、アスラン。ご飯できてるから座れよ」
 カガリの口元に笑みがあるのを見て、アスランもほっとして上着を脱いだ。
「今日は出かけていたんじゃないのか? 悪いな、夕食まで作らせてしまって」
「いいや、昼過ぎには帰ってたから、時間はあったんだ」
「そうか……そういえば、今日カレッジに来ていたんだったな。フレイから聞いたよ」
 テーブルに皿を置くカガリの手が糸で引かれたように止まった。
「あ、うん……フレイに連れていかれてさ」
 こわばったように見えたカガリの指が、またカトラリーを並べはじめたので、アスランもジャケットをハンガーにかけながら話しを続けた。
「とくに面白みがある場所でもないからな、つまらなかったんじゃないか?」
「そんなことないぞ。庭園も見事だったし、建物も立派で驚かされた」
「まあ、うちのカレッジは歴史だけは長いからな。でも来ていたなら声をかけてくれてもよかったのに」
 テーブルに近づきながら、アスランの目はカガリの顔をそっと捉らえていた。
「カガリ、もしかして、体調がよくないんじゃないか?」
「え、どうして?」
「あきらかにいつもと様子が違うぞ。元気がないというか」
 アスランが歩み寄って確かめるように顔を見ると、カガリは目線をうつむけた。
「そうだな、少し、疲れたかもしれない。今日は早めに休むよ」
 表情がこわばっていた。顔色もあまり良くないように見える。
「大丈夫か? 常備薬ならいくつかあるが」
 カガリはおおげさだな、と言って笑顔を見せたが、そこにいつもの明るさがなかった。
 カガリが必要ないと重ねて言うので、それ以上体調について詮索するのはやめておいたが、翌日になってもカガリの様子はいつも通りにはならなかった。
 いつもの夏の青空のような笑顔がどこかへ消えてしまっている。
 いつもじっとまっすぐに目を見て話をする彼女がうつむき加減で話す様子は、まるで内心ではアスランのことを拒んでいるかのようだった。
 カガリの表情や態度の変化を確信しながら、しかしアスランは踏み込んでたずねることができなかった。
(怒っている様子とは違うようだが、原因がわからない)
 態度の変化を見せまいとカガリはつとめて笑顔でいたが、それがまた不自然だった。
(追及するべきなのか、それともカガリが事情を話してくれるのを今は待った方がいいのか……)
 カガリが平静をよそおう努力をしている以上、それを尊重するべきだとも思うが。迷いながらそれから数日、アスランはカガリの様子をうかがっていた。
 ところが、日が経つにつれて彼女は目に見えて元気をなくしていった。
 食事の量も減ってしまい、アスランが用意したものを半分も残してしまうこともあった。
 アスランが学校に向かったあとに、毎日かならず外出しているようで、その帰りも遅くなることがしばしばだった。
 日が完全に落ちたころに、青ざめた顔をしてカガリが帰ってきた日に、もう待ってはいられないと思った。
「カガリ、なにがあったのか、話してくれないか」
「なんのことだ、いきなり」
「これ以上はぐらかさないでくれ。それとも俺には話せないことなのか」
「そんな、怖い顔するなよ。アスランにはわりと何でも話してるぞ。なにもはぐらかしてなんか」
「カガリ!」
 つい声を大きくしてしまった。
 リビングの扉の前に立ちつくしたままのカガリの肩がびくりと小さくはねる。
「なにもない、と言われても納得できない。カガリがこのところ憔悴したように元気をなくしてきているのはどうしてだ。俺のことを避けているのも気のせいではないはずだ」
 アスランは歩み寄ってカガリの前に立った。
「外出するのを止めるつもりは少しもないけど、毎日疲れきって帰ってくるのに心配せずにいられるわけがない」
「あの、それは……最近よく図書館に行っていて……」
「図書館?」
 アスランに正面から見つめられたカガリは視線を迷わせて何度もまばたいた。
「本がたくさんあって、好きに読めるんだ。それでつい時間を忘れて読んでいたらちょっと疲れてしまって」
「図書館に行っていたのか? 毎日?」
 カガリの話に嘘はなさそうだったが、読書で疲れたからという話は腑に落ちないものがあった。
 もっと精神的に根の深い何かがカガリの心身を削っているように思えるのだ。
「ほんとうに、それだけなのか?」
「そうだぞ。アスランは心配性だなあ」
 顔を上げてカガリは笑ったが、それを見た瞬間アスランの心に張っていた糸が切れた。
(違う、それをやめてくれ)
 アスランが見たいのはそんな作り笑いではないのだ。
 カガリはアスランと距離をとろうとしている、見えない壁で心を隔てようとしている。
「そんなふうに無理に笑わないでくれ、カガリ」
 気づいたら、カガリの頬に触れていた。
「俺はカガリにはいつも笑っていてほしいと思っている。でも、それは笑顔を崩さないでいてほしいということじゃない」
 アスランの指先にカガリの髪が触れる。
「俺に心配されたくないから見せるような笑顔じゃなくて、カガリが心から楽しんだり喜んだりしてる顔が見たいだけなんだ」
 困惑しているのか、金色の瞳をただただ大きく見開いているカガリを、いっそ抱きすくめてしまいたくなる。
「話したくないなら以前のようになれない理由も言わなくていい、俺と距離を置きたいならそうしてくれてもかまわないから、嘘の笑顔はやめてほしい。本心を笑顔で隠すのは」
 ここで今、感情を決壊させてしまえば、カガリはきっと二度とアスランに笑かけてはくれなくなる。
 けれども待つことしかできないのだとしたら、どうすればカガリの心はこちらを向くのだろう。
 驚いたまま動けなくなっているカガリの瞳が潤んでいた。なにか言おうと口を開きかけたが、くちびるが震えるばかりだった。やがて堪えきれなくなったように、アスランの手を逃れると、カガリは無言で寝室に逃げていってしまった。
 
 
 翌日からのカガリは、アスランをあからさまに避けるようになっていた。
 アスランが朝に出掛けるまえに寝室のドアに声をかけても返事はない。
 とりつくしまもないという状態だった。
(ここまで完全に接触を断たれてしまうとはな……)
 よそよそしい態度をとられたり、作り笑顔を見せられるよりは、嘘のない今のストレートな態度のほうがまだいいと思えたが、これでは関係を好転させる糸口すら見えない。
 こうした真っ向から決裂するような状況に馴れていないアスランは、和解の方策も手数がない。
 ひとまずカガリの好みそうな菓子を手土産に買って帰ったのだが。 図書館の閉館時間を一時過ぎても二時間すぎても、カガリは帰ってこなかった。
 なぜか胸騒ぎがして、カガリの携帯電話を鳴らしてみたが何度もコールし続けても電話は繋がらなかった。