トロイメライ

07



 上手く取り繕えていないという自覚はあった。
 胸の奥に灯ったアスランへの気持ちに気づいてしまったら、それを隠して平然としているなんてカガリにはとてもできないことだった。嘘をつくのは不得手なのだ。
(でも結局はアスランにひどいことをしてしまった)
 アスランと目線が合うと胸が高鳴ってしまう。
 それを、なんとか平静を保とうと無理やり笑顔を作ると、彼はそれを見るたび悲しそうな顔をした。カガリがガレッジを訪れた後から食が細くなり、また疲れを蓄積していくのが明らかなのを、アスランは当然見過ごすことはできず、ひどく心配していたのは口にしなくても十分伝わっていた。数日前、なにがあったのかと問いつめてきたのもカガリを大切に思う気持ちからだったのだ。
(わかっていたのに、私はほんとうのことを言えないでいる)
 気まずいと思ったのもほんとうだ。いままでどうやってアスランと接してきたのか、急にわからなくなったのも事実だったが、それは彼の告白を聞いたからだけではない。
 カガリの心の揺らぎこそが原因なのだ。
(私は逃げている……アスランからも、自分の気持ちと向き合うことからも)
 フレイとガレッジに行った翌日から、ずっとカガリは市立の図書館に通いつめていた。そこで、生まれ育った国オーブについての文献を探すことにほとんど一日中を費やしていたのだ。
 アレックスの面影をそこに見つけられるとは思わなかったが、自分はたしかにオーブの人間なのだと、はるか昔を生きていたはずの者なのだと確かめたかった。馬車馬もいないのに走る自動車、さまざまに景色を映すテレビ、夜でも真昼のように明るい電灯、見たことはないが空を飛ぶ機械まであるこの世界。めまぐるしく、明るく、色あざやかなこの現代に身を置いていると、オーブでの自分がだんだんに薄れてなくなってしまうような気がした。
 図書館でカガリは閲覧可能な中世時代の歴史文書を片っ端から読みあさった。専門的な歴史書が図書館ならば閲覧できると知ってから、今までにも何度かこの作業をしようと考えたこともあったが、そのつど不安がよぎり実行に移せなかった。オーブという国の存在証拠を見つけられなかった時、いったい自分は何を拠りどころにすればいいのか。何度も沸き上がったその不安を押さえつけて、カガリは何日もページを繰った。
 そうしていたらアスランのことを考えずにいられた。
 アスランの住むこの土地がまさに数百年前にオーブと呼ばれる王国だったはずなのに、その名前が登場する文献は少なかった。
 国としての歴史は数十年と短く、他国との交流も多くはなく列強の間にひっそりと生きていたオーブ。城もなにもかもすべて焼かれてしまったのだろうから、確かな資料が不足しているのかもしれない。以前アスランがオーブという国名は聞いたことがないと言ったのも納得できた。
 そのなかでやっと見つけたのはオーブの国としての概要、残っている名前は王と王妃のものくらいだった。騎士だったアレックスの名も、長い時の流れのなかに飲まれて消えていた。
 

「閉館時間なので、そろそろ閉めますよ?」
 横から声をかけられて、カガリははっと顔をあげた。
 司書だろうか、中年の女性が気遣わしげにこちらを見ていた。ソファに腰かけてずっとホールを眺めていたのに、先ほどまでまばらにあった人影がすっかり消えていたことに気づかなかった。
「すまない、すぐ出るから」
 軽く頭を下げて、カガリは足早に出口に向かった。
 図書館の外はもう夜になっていた。
(帰らなきゃ、きっとアスランが心配してる)
 彼が気を揉むことを考えるとカガリも焦りを感じたが、足はひどく重かった。このところ何日も気を張って書類を読み続けてきた疲れが、一気に体にのしかかってきたようだった。
(お父様、お母様、お祖父様、そして最後の王だったキラの名前……)
 図書館員が貸し出しはできないのですが、と言いながら書庫から持ち出してくれた古い歴史書に探し求めたオーブの記録があった。図書館に通い詰めた数日に、そうした古典をいくつか見つけたが、見つけるたびにカガリの心は重くなっていくようだった。
 オーブが過去のものだというあかしは、そのままカガリの愛しい人たちの墓標だった。
(帰らなくちゃいけないのに帰りたくない、いまは……)
 しばらくぐずぐずと迷ってから、カガリはいつものバスの停留所とは逆の方向に歩き出していた。図書館は街の中心部に位置していたので、少し歩くとにぎやかな通りに出る。
 この街の繁華街、飲食店や商店の立ち並ぶ通りだった。夕食時のいまはどの店も客であふれていた。煌々とした灯りがそれぞれの店から通りに注がれ、石畳の道までもが明るいオレンジ色に染まっていた。
(私、そういえば夜の町に来たの初めてなんだ)
 いつも夕暮れまでには家路についていたので、幻想的で華やかな夜の繁華街をカガリは知らずにいた。深く水底まで沈んでいた心が少しだけふわりと浮かぶ。
(アスランは自由に出かけてもよいと言っていたんだし、いざとなれば携帯電話もある……)
 そう自分に言い訳して、カガリは少しだけ街を見て帰ろうと決めた。
 雑貨店や、食料品店、衣料品店など、ぎっしりと品物がつまった店を眺めて回ると時間はあっという間に過ぎた。ある店の時計をふと見たときにはすでに図書館を出てから二時間以上が経っていた。時間を知ったカガリが慌てて店を出ようとしたときだ。
 後ろから声をかけられた。
「ねえ君、ちょっといいかな」
 振り向くと若い男性が親しげな笑みを浮かべていた。
「君に用があるから連れてきてほしいとある人から言われたんだけど」
「私に? 用だって?」
「そうだよ、ええっと君、名前は?」
「カガリ、だけど……」
「ああ、やっぱり! ブロンドのカガリって名前の女の子を探して欲しいって言われててさ」
 今、カガリを探している人物がいるとしたら、それはアスラン以外にいないだろう。
 すぐさまその男性に案内を頼んだが、あとを着いて歩きだして数分もたたないうちに、カガリは自分の思慮の浅さを激しく後悔することになった。
 始終にこにこと笑みを絶やさないその男が案内したのは入り組んだ路地をいくつも曲がった先の薄暗い袋小路だった。だまされたのだと悟った時には背後からも二人の男が近づいてきてカガリを囲んでいた。
「君みたいな目立つ子が一人でうろうろしてると、変なのに絡まれたりするから気をつけないとねえ」
 最初に声をかけてきた男が言った。
「私に触れたら腕を折るぞ。それなりに心得はあるんだ」
 低い声で脅したが、ほとんどは虚勢だった。アレックスにねだって剣術や格闘術を教えてもらったこともあったが、所詮は真似事だ。握りしめた手のひらがじわりと汗ばむ。
(どうしよう、逃げられるか……)
 男たちが間を詰めてくる。
 隙を見いだそうとカガリは必死に視線を巡らせた。恐怖と焦燥で震えそうな足になんとか力を込める。
(……アスラン)
 ふいに思い浮かべた名前に胸を締めつけられた。彼の名前を叫んでしまいたい衝動があった。
「カガリ!」
 その声に全身が反応した。立ちはだかる悪漢の向こうに、こちらへ駆けよるアスランの姿があった。アスランが現れた途端に、カガリを追い詰めていた男たちは慌てて囲みを解いた。
「カガリ、大丈夫か?」
 アスランはカガリのそばに寄ると、そっと顔をのぞいた。不安と恐怖が一度に安堵へと変わり、カガリはどういう顔をしたらいいのかわからずに、目をしばたいていたが、カガリを気遣うアスランの瞳を見ると、ついに涙がこみあげてしまった。
 ほっとすると、それまで支えていたひざが崩れてしまい、よろけたカガリをアスランはとっさに抱き止めた。悪漢の前で泣き声を上げるのは悔しかったので、カガリはくちびるをきつく噛んで涙をこぼしていた。肩を震わせるカガリを黙って見つめていたアスランは、後ずさりして間合いを取ろうとしていた男たちに向き直った。
「彼女に何をした」
「何って、ただ道を聞いてただけだって。そんな怖い顔でにらまれるようなこと何もないぜ」
「それなら、彼女が泣くのは不自然だろう。もう一度聞く、彼女に何をしたんだ」
 聞いたことのないようなアスランの声だった。
 対峙しているのは三人対一人、数の上では相手のほうが当然勝っている。けれども、アスランの低く冷たい声にただよう嵐のような怒りに、男たちは気圧されていた。少女をだまして連れてきては数人で襲うような、卑怯な行いをするような小物なのだ。本気の相手と戦おうなどという気概はないようだった。
「正直に言えないようならしかたがない。武術には少し自信もあるから、話したくなるようにするしかないな」
 その周囲の温度が下がるような声だった。カガリを包んでいた腕がそっと離れる。
 続けて、構えようとアスランが息を吐いたのがわかって、カガリはとっさに彼の服をつかんだ。
「大丈夫だ、アスラン。この人たちにはなにもされてないから」
 アスランは男たちに向けて全神経を引き絞るのを止めた。
「カガリ、こんな奴らに気をつかわなくてもいいんだぞ。心配しなくてもすぐに終わる」
「違う、違う! 触られてもいないよ。だからもういいんだ」
 見た目以上に頭に血を上らせていたらしいアスランを説得するのに少し手間取ったが、彼が納得して怒りを解くと、男たちはいちおうそれらしく詫びて、そそくさとその場を後にした。
「カガリ、ほんとうに平気か?」
 涙のあとを気にしているのだろう、アスランはカガリの瞳をじっと見た。まつげに残っていた雫をぬぐって、カガリはやっと笑みを見せた。
「うん、もう落ち着いた。ほんとうにありがとう。アスランが来てくれていなかったら、私どうなっていたか……」
「いや、もっと早くに見つけるべきだった。すまない、カガリ。俺が不甲斐ないせいで君に怖い思いをさせてしまった」
「そんなことないよ、不甲斐ないなんて少しも思わないぞ。だって武術ができるなんて、アスランすごいなあ、羨ましいよ」
「護身術程度のものだから自慢にはならないが、今日は俺に武術を習わせた父に感謝したな。自身が誘拐に巻き込まれないために習ったものが、こうして役立つことがあるとは思わなかった」
 アスランは手放しで誉められた照れもあるのだろう、気まずそうに笑った。その笑顔がカガリの心に温かく沁みる。
「それにしてもよくこの場所がわかったな。私、元の道に戻れるか不安なくらいなのに」
「それに関しては謝ることもあるんだ。じつは君に渡してある携帯電話にはGPSという機能が組み込まれていて、これを使うと携帯のある場所が詳細にわかるようになっているんだ。説明すると長くなるんだが……」
「GPSについては確か何かで読んだぞ。なるほど、だから私の居場所がわかったのか。でも、謝るってなにを?」
「できれば、このGPSを使うことはしたくなかったんだ。監視をされてるようで、あまり気分のいいものではないだろう。だから、この点については謝ろうと思っていたんだ」
 すまなそうに目線を下げだアスランを見て、カガリは胸の奥に湧いてくるものを感じた。澄んだ泉のような感情だった。
(どうして、アスランはこんなに……)
 気持ちを受けとることを拒否しておきながら、離れることもできない、気を持たせるようなずるいことをしていると思う。ただ気遣い、想ってくれる彼の好意を無視してひどい態度をとり、手酷く傷つけたというのに。
 どうしてこんなに優しいのだろう。
(私をただ、待ってくれている)
 泉が満ちてあふれるように、カガリの心からこぼれるものがあった。
「私、アスランが好きだ……」
 押されるように言葉が出ていた。それは、ずっと背を向けて逃げ続けていた言葉だった。アスランへの恋心を自覚しながらも、カガリはそれを認めることができなかった。
 アレックス以外の誰かを想う自分が許せなかったのだ。
(自分がこの時代で生きていることが間違いなんだって、この場所に根を張って生きてはいけないと戒めようとしていたんだ……私は)
 図書館でひたすら自分のルーツを探していたのはそのためだった。
 いくらアスランがカガリに愛情を傾けてくれても、それに応えることはしてはならないのだと、アスランへの想いを押し留めようとしていた。それなのに、彼のひたむきな優しさはカガリが懸命に作った壁をついに崩してしまった。
「好き……と言ったのか?  君が?」
 アスランは戸惑ってカガリの顔を見返した。
「カガリ、泣いてるのか?」
「な、泣いてない」
 そっけなく答えてカガリは顔を背けた。高まった感情のままに言葉があふれたが、アスランの鈍い反応に、はっと我に帰った。
(言ってしまった……口に出していた、わたし)
 自らの発した言葉に血の気が引く思いと、頬が火照るような熱さが同時にやってくる。
「もしかして、いまの好きだというのは言葉通りの意味だと受け取っていいのか?」
 耳まで赤くしてうつむくカガリにアスランが一歩近づく。
「……答えないなら、自分に都合よく解釈してしまうけど」
 迷う気持ちはカガリの中にまだあった。けれども、もうこれ以上、彼に嘘をつきたくはない。
「俺は……カガリの素直な気持ちを聞きたい」
「好きだよ」
 カガリはエメラルドのような彼の瞳をまっすぐ見つめた。
「アスランが、好きだ」
 冷静でいたかったのに声が震えてしまう。言葉の響きを確かめるようにアスランは黙って聞いていたが、しばらくして静かにたずねた。
「カガリに触れてもいいか?」
 気恥ずかしさで返事をすることができず、カガリはただ小さくうなずいた。触れるというのは、髪に触るとか手を取るとかいうことだろうかと想像したところで、カガリはアスランに抱きすくめられていた。
「え、あ……アス」
「……ごめん」
 驚きはしたものの謝ってほしいわけではなかったが。吐息の混じるアスランの声はカガリの耳をくすぐった。
「なんだか、信じられないな。カガリが俺を好きになってくれただなんて」
 アスランは喜びを込めるようにきつく抱きしめたので、カガリは身じろぎもできなかった。
「あのな、ほんとうは、ずっと好きだったんだ……だけど自分でそのことを認められなくて。ごめん、私、アスランを傷つけていた」
 アスランのシャツをきゅっと握る。
 彼が自分よりずっと背が高く、力強い体つきをしていることをカガリは改めて実感していた。
「いいんだ。こうして君を抱きしめられただけで、もう……」
 叶わないことだと思っていた、とアスランはため息とともに呟いていた。
 それからアパートにもどるまでの間、アスランはカガリの手を握って離さなかった。帰宅するとテーブルにはごちそうと言えるほどの料理が並べられているのにカガリは歓声をあげた。
「アスランが作ってくれたのか?」
「食べ物で機嫌をとろうか、なんて考えていたんだ」
 アスランはソーダ水のコルクを抜きながら苦笑いしていた。
 肉料理のスパイスやスープのよい香りに、カガリは急に空腹を思い出していた。疲れと気詰まりで、食べ物を美味しく感じられなかった昨日までとはまるで違い、つい休まずフォークを口に運んでいた。食事を楽しめることがありがたかった。
「カガリに食欲が戻ったようで安心したよ」
 アスランが安堵した様子で微笑んだ。
「ごめんな……アスラン、たくさん心配させたり気遣わせてしまって……それと、ありがとう」
「お礼を言いたいのは俺のほうだよ、今日は何度でも言いたい気分だ」
「お礼を?」
「気持ちを告白してくれてありがとう、って」
 こちらをじっと見つめながら言うので、カガリは思わずフォークを取り落としそうになった。
 実直だからなのか、それとも狙いを定めて言っているのか、アスランは平然としながら心を揺さぶってくることがある。カガリが返答に困っていると、アスランは続けて切り出した。
「じつは、君に相談したいことがあるんだ。さっきバスのなかで今後のことを考えていたんだが」
「今後のこと……?」
 声色に深刻なものを感じて思わずアスランを見つめると、彼は考え込む表情をしていた。
「今後は別々に暮らすべきじゃないかと思うんだ、俺とカガリは」
「別々に暮らすって、つまり私にここを出ていけっていうことか?」
 思ってもみなかった話だった。
「出ていけという言葉は少々乱暴だけど、端的に言えばそういうことだな」
 つい先ほどまで、恋人じみたやりとりをしていたのはなんだったのだろうか。アスランの冷静な顔をカガリはただ見つめ返した。
「俺は知り合いが少ないから、あまり頼れる先がないんだが、フレイがわりと広い部屋に一人暮らしをしていたはずだから相談してみようかと思うんだ。事情を理解してくれているから、カガリも暮らしやすいと思うし。もしもフレイが無理だったなら俺の父に頼んでみることも……」
「私は、いやだな」
 アスランの言葉を遮ってカガリはつぶやいた。
「フレイの家やザラ家以外がいいということか?」
「そうじゃなくて、寂しいから……」
 見当がつからないらしく真顔でまばたくアスランを見て、カガリはむっとした顔をした。
「わかんないのか? アスランと離れるのが寂しいって言ってんだよ。ていうか、おまえは平気なのかよ。わたしのこと好きだとかなんだとか言ったくせにさ」
 くちびるを尖らせたカガリの横顔を、アスランは目を丸くして見ていた。
 やはり予想外の言葉だったらしい。彼はしばらく考え込んで下を向いていたが、立ち上がるとテーブルを回り込んでカガリのそばにひざをついた。
「カガリと住まいを別にすると当然、俺も寂しいと感じるよ。一緒に暮らすのが当たり前だと思ってしまうくらいには二人暮らしが長くなったし」
 片膝をついた姿勢で、カガリの顔を見上げる。
「でも、だからこそ二人暮らしはまずいと思ったんだ。これまでは完全な片思いだったから自制もできたけど……今日、カガリの気持ちを知って、じつは内心相当舞い上がってるんだ」
 アスランは手を伸ばすと金髪をそっとすくいとった。
「ほんとうは今すぐにでも、どうにかしてしまいそうだよ」
 夜闇色のまつげがかすかに揺れる。抑えた声には熱が込められていた。
「えっと……どうにかって、いうのは」
「わからないのか? 言葉で説明してもいいけど」
「いや、いい! 結構だ」
 あわててかぶりを振った。
 王候貴族の家に生まれた娘は嫁ぐ前にその方面の知識を学ぶものだったが、カガリは学びそびれてしまっている。それでもアスランの言わんとしていることはなんとなくわかった。
「今の食事中も、平静でいるように努力していたんだが、それをなし崩しにするようなことをカガリが言うからな」
「そんなこと言ったか?」
「わからないのなら、いいよ」
 幼いしぐさで首をかしげたカガリにアスランはくちづけていた。
 くちびるが重なったことに驚いてカガリはとっさに立ち上がったが、離れるより早くアスランの腕がカガリの背中に回された。椅子が高い音を立てて倒れる。
 訴えかけるような眼差しががあまりに間近でカガリを見下ろしていたので、つい目をきつくつぶってしまった。
 それを合図ととらえたように、アスランはもう一度くちびるをあわせた。されるままに何度もキスを重ねる。そのうちに、背中を撫でていた手のひらは腰まで下りてきていた。
「……んっ」
 大腿へと手をかけられて、カガリはつい声をもらした。
「……いやだよな、やっぱり」
 アスランが手を止めてたずねた。翡翠の瞳が熱っぽい。
「いやだとは、思わないけど……」
「性急だったよな……ごめん。もう妨げるものはないんだと思ったら、抑えがきかなくて」
(妨げるもの……)
 胸のなかでアスランの言葉を繰り返すと、カガリの心の奥を鈍く刺すものがあった。
「もちろん、俺はカガリを手放す気なんて少しもないし、できるならこのまま側にいたいけど、抑制できる自信がないんだ」
 アスランは眉を下げて笑って見せた。
「俺はまだ学生だし、社会的にも君を支えられるようになるまでは節度を守るべきだとは思う……けれど」
 表情に葛藤がにじむ。
「かなりの長期戦を覚悟していたし、振り向いてもらえない気さえしていたから、正直に言うと、今はカガリに触れたくてしかたがない」
 アスランが想いが通じる希望をあまり持てずにいたのは、カガリが彼の気持ちを受け入れることすら拒み、逃げていたからだ。
 カガリの心に住まう人がいたから。それを思うと、カガリはまた胸がうずくように痛んだ。アスランを不必要に傷つけたことの自責の痛みだと思った。
「いいんだ、アスラン。さっきも言ったけれど、私はおまえと一緒にいたい」
「……カガリ」
「それに私も、その、アスランに触れたいと……思ってるし」
 触られるのも少しも嫌ではない、と付け足そうとしたのに、言葉にするのは思うより恥ずかしく、くちびるは空回りしていた。しかし、話を続けるよりも先にアスランがカガリのくちびるをふさいだので、それを言葉にする必要もなくなってしまった。
 それまでのキスが感情を抑えたうえでのものだったのだと、実感させられるようなくちづけだった。
 カガリを味わう権利を得てそれをすみずみまで行使するように絡まる舌も、息つく間もないキスも、今はもう容赦がなかった。
「あ……アス、ラン……待って、ま」
 胸のふくらみにアスランの手が触れ、いよいよなのだと悟るとカガリはあえぎながら訴えた。
「ちょっと……あの、もう少し」
「……さっきの言葉の取り消しなら受け付けられないぞ」
 アスランも息が少し乱れている。言いながら、彼はカガリを抱き上げた。
「わあっ、いいよ、歩けるから! 自分で歩く」
「俺がこうしたいんだ」
 横抱きにされてしまっては暴れるわけにもいかず、カガリはおとなしくアスランの首に腕を回した。
「あのさ、言ったことを取り消すつもりはないけど、ただもう少しゆっくり……私、こういうことは初めてで、ただでさえいっぱいいっぱいなんだぞ」
「俺も要望を聞ける余裕はないかもしれないが」
 アスランは愛おしげにカガリを眺めながら、でも、と続けた。
「できる限りは努力はしますよ、お姫様」
 カガリははっとした。その呼び方をする人はもう誰もいないのに。
「……なんで、急に姫なんて呼ぶんだよ」
 アスランが冗談半分に姫様などと呼んだことはわかっていた。けれども、カガリには聞き流せない違和感があった。
「カガリは王女として育ったんだろう? それを納得させる品格があるよ、君には」
 カガリをベッドに座らせながらアスランは答える。
「カガリの過去はまるで映画かおとぎ話みたいな話だけど、それを冗談だと笑ってしまえなかったのは、カガリの持っていた雰囲気がただの女の子じゃなかったからだ」
「……たしかに今、思い返すとはじめてアスランに会ったときの私の言動はかなり突飛なものだったよな」
「初めに着ていたドレスも説得力はあったよ」
 隣に腰かけたアスランの瞳が懐かしむようにまつげを伏せた。
「それに、とても綺麗だった」
 素直な賛辞にカガリははにかんだ。
「ありがとう……でも私は服装としてのドレスは好きじゃないんだ。この時代の女の子の着てるもののほうが断然いいよ。動きやすいし軽いし」
 おもいっきり走ることのできるスニーカーや、足さばきを気にせずに動けるパンツスタイルを初めて見たときにカガリが受けた衝撃は大きかった。町娘の着るものですら、長い裾が邪魔で仕方がないと不平を言い続けてきたのだ。ひょっとすると現代の生活でカガリが一番便利に感じているのは服装の自由かもしれなかった。
 その嬉しさを話そうと口を開いたら、言葉の途中でくちびるをふさがれてしまった。
「……その話はまたあとで聞くよ」
 キスの隙間にアスランが短くささやいた。くちづけを繰り返しながら、アスランはカガリの体をゆっくりとシーツに倒す。
「あ……」
 間を置かずに衣服に手をかけられて思わず不安げな声がもれた。
「すまない、了承をとるべきだったな」
 アスランは一旦手を止める。
「いや、ちょっとびっくりしただけだ。さっきからずっとどきどきしてしまってて」
「俺も我を忘れてしまいそうで、少し怖いな。もし世が世なら絶対に手に入らないお姫様だもんな」
 アスランはカガリを見下ろして、尊いものに触れるように金色の髪をすくう。
「でも、たぶん俺はカガリに触れることが許されない身分に生まれても君に惹かれたんだろうな」
 アスランの深い想いを込めた言葉だった。
「身分なんて……」
(例え話でも口にしては……)
 それなのに、聞いたとたん夢から覚めるように、胸の高鳴りが消えた。耳に違和感と、聞き覚えとを同時に感じる。
(これは、似たようで真逆の言葉だ……)
 否応なしに一人の人物が脳裏に浮かぶ。思い出すまいとしてできるものではない。彼の思い出はすでにカガリの一部なのだ。
『騎士を務める家系に生まれなかったとしても、私は殿下のお側に仕えていたと思いますよ』
 いつだったかは思い出せない、けれども、彼が確かにそう話してくれたことははっきりと覚えている。敬愛を込めてカガリを見つめていたエメラルド色の瞳も。
「アレックス……」
「え?」
 こぼれるように名前を口にすると、カガリの両目に涙があふれた。
「カガリ……」
 くちびるを噛みしめてうつむいたカガリを見て、アスランは触れることをやめた。彼を驚かすのも、心配させることもしたくはなかった。これ以上は泣くまいと、カガリは涙を飲み込もうとしたが、かえって肩が震えてしまい涙も嗚咽も止まらなくなってしまった。
「アスラン、ごめん、こんなつもりじゃ……ごめん」
 しゃくりあげながらなんとか言葉をつづる。
「アスランのことは好きなんだ、ほんとうに好きなんだ……でも、でも」
 忘れたわけでも、断ち切ったわけでも、消え去ったわけでもなかったのだと、カガリは思い知らされていた。
「私には、どうしても忘れられない人がいて……」
 彼以外の誰かに恋をすることを後ろめたいとはもう思わない。
 けれども、こんなにも簡単なきっかけで呼び覚まされてしまうようなアレックスへの恋心の残響を心の奥底に横たえたまま、アスランに抱かれていいはずがなかった。
「やっぱり、アレックスか……」
 黙ってカガリの独白を聞いていたアスランがぽつりとつぶやいた。
「どうしても立ちふさがるんだな、そいつは」
 カガリを組み敷いた体制のまま、アスランは長く息を吐いた。
「でも、カガリが誰かを想い続けているのは初めから知っていたし、そうして誰かを想っている君を好きになったんだ、俺は」
「アスラン……ごめん」
 カガリが彼の想いに背を向け続けていたときにも、アスランは一途にカガリを想いやり支えてくれていた。
「私、ひどいことしてるな……」
 カガリの瞳に新たに涙が浮かぶ。
「俺はそんなふうには少しも思ってないよ。カガリが他の誰かを好きでいることはなにも悪いことではないし、むしろ俺が横恋慕しているとも言えるしな」
 少し茶化すようにアスランはカガリの頬を指先でなぞる。
「でも、待つのはもうおしまいだな」
「え……」
「カガリが俺のことを好きになってくれたなら、もうなにも遠慮することはないだろう?」
 アスランはカガリの初めて見るような笑みを浮かべていた。不敵で挑戦的な、なまめかしい笑みだった。
「アレックスなんてやつのこと、考えられなくなればいい」
「アスラン……!」
 噛みつくようなくちづけが始まり、カガリはなにも言えなくなった。さっきまでは、時折ためらいながら進められていた愛撫も、カガリの反応に構わず体を巡り、早々に服をまくりあげられる。
「やめて、まって!」
 アスランの胸を押し返そうとした両手も、たやすくまとめて頭の上で拘束されてしまった。
「だめだ……!」
 スカートもめくれ、下着があらわになる。アスランはカガリの抵抗を無視して、現れた柔らかな肌にくちびると舌を這わせていった。
「やめて……アスラン!」
 太ももを撫でていた手が脚の付け根に伸び、薄布一枚の下着にも触れる。同時にカガリはほとんど叫んでいた。
「だめだ! アスランがそんな顔をするのを私は見たくない」
 アスランが手を止めてカガリの顔を見返した。
 状況的には襲われている格好のカガリよりも、彼の方がずっと苦しそうな表情だった。自分で自分を痛めつけて、その痛みをただ飲み下そうとしているような。
「どうしてアスランがそんな顔をしなくちゃならないんだ。悪いのは私なのに」
 捕まえていたカガリの両手首を離すとアスランは小さく頭を振った。
「……カガリはなにも悪くない」
「でも、私は気を持たせるようなことをしてきたのは自分でもわかってるんだ。アスランの好意を知っていたのに、ここに居続けた」
「君が俺のそばにいるように仕向けたのは、俺自身だ。それならカガリが俺を受け入れられるようになるまで待つべきなのに、肝心なところで自分を抑えられない……」
 アスランはカガリの手をすがりつくように握った。
「俺は、どうしてもカガリが欲しい」
 痛いくらい強く握られた手からアスランの熱が伝わる。
「白状してしまうと、アレックスというやつがうとましいんだ。そいつからカガリを奪えるなら直接対峙したっていい。それなのに手も足もでないんだからな」
 アレックスがいるのはカガリの思い出の中だけなのだからと、アスランは苦々しく言った。
(わたしの、思い出……)
 オーブの澄んだ空気、静かな月夜、居城のひんやりとした石壁、自分の寝室のシーツの肌触り。
 記憶を呼び起こして目をつぶれば、いまも故郷の景色を描くことはできた。けれども、いつかこの記憶も輪郭があいまいになり、これから起こるたくさんの出来事のなかに埋もれていくのだろうとわかっている。
 オーブに触れることができるのは、眠りの淵にいるときだけだった。
「……いまはもう、夢の中にしかいない人だよ」
 カガリは小さくつぶやいた。
「私のいたオーブは歴史の中にたしかにあったんだ。図書館でいくつか記録としてのオーブを見つけたよ。でもそこに私も、アレックスもいない。私が国の最後を見たときの戦火も逃げ惑った民も、あんなに生々しいものがたった数行の文章でしかない」
 アスランはカガリを見つめながらゆっくりと体を起こした。
「それを図書館で探していたのか」
「うん。自分の記憶の中のオーブがほんとうのことだったのか、私の見ていた夢だったのか、だれにも確かめることはできないんだ」
 カガリの上体を抱き起こし、その隣に腰掛けるとアスランはしばらく考えていた。やがて、決心したように向き直ると静かに言った。
「カガリ、あの森にもう一度行ってみないか」
 カガリは深い湖のような色をたたえた瞳を見上げた。
「あの森って、アスランに最初に会った場所のことか?」
「もう一度行こうと、じつはずっと考えていたんだ。俺がカガリを見つけた部屋をキラが見なかったというのがやはり引っかかてもいて。つらいことを思い出したりカガリが苦しい思いをするようなら行くべきじゃないとも思ったんだが」
 目覚めた場所のことを思い返してみようとして、カガリはおぼろげにしか覚えていないことに気がついた。いろいろなことに動転していて、子細を気にしていなかったのかもしれない。
「私、行きたい」
 背筋を伸ばしてカガリは言った。
「いまだったら冷静にあの城跡を見られると思う。元が何の建物だったのか、もう一度よく見てみたい」
「それなら、さっそっく明日行ってみよう」
「明日? 学校はいいのか?」
 明日のことだとは思わなかったので驚いてたずねると、アスランは意味ありげに笑った。
「いいんだ。たぶん講義を受けてもいつもどおりに集中できないだろうから」