トロイメライ

08

　静かな湖畔に、アスランはいた。
　時折響くシジュウカラの鳴き声と、馬のひづめが土を踏む音のほかにはなにも聞こえない。
　乗騎は栗色の毛並みが美しい馬で、手綱を握っているのは自分だ。湖は対岸が霞んで見えるほど大きく、澄んだ水は森の緑と空の色を映していた。散策するようにゆっくりと歩みを進める馬に乗っているのはアスランだけではなかった。
　アスランの腕の中に金髪の少女がいる。カガリだと確信していた。鞍をつかんで馬にまたがる彼女はこちらを振り向かないが、後ろ姿だけで誰かなんてすぐにわかる。どちらも無言で、ただのんびりとした速度で乗馬をしているだけだった。それだけの夢だった。
　それだけの夢だったのに、目が覚めたアスランの胸には締め付けるような痛みがあった。
（なぜ……）
　感覚を確かめるように深呼吸をする。
　夢の中にいるときにひどく懐かしい心地がした。だが、朝日を反射する天井を見つめているうちに、その郷愁も眠りの中で見た情景もおぼろげになっていく。身じろぎをすると、視界に金色の髪が見えて、アスランは完全に覚醒した。
　肩が触れるほど寄り添って眠るカガリはまだ静かな寝息をたてていた。
（そうだ、一緒にベッドで眠っていたんだった）
　昨夜もいつもどおりにリビングのソファで眠ろうとしたアスランをそんなことをする必要はない、とカガリが引き止めたのだ。アスランとしては今夜ほど寝室を別にする必要を感じる日はないくらいだったが、カガリはアスランが窮屈に眠るのが忍びないのだと、眉を下げて言った。また、ひとりになると色々と考えてしまい眠れなくなりそうだからそばにいてほしい、と言われては断れるはずがなかった。
　二人で眠るのに十分な広さのあるベッドだったが、カガリの隣でアスランは空が明るみ始めるまでほとんど熟睡できなかった。
（明け方の夢はカガリが隣にいたせいで見たものだったのか）
　起きる気配のないカガリの前髪にそっと触れる。夢の風景を思い出そうとしてみるが、ついさっきのことなのに霧がかかったようにはっきりとしない。カガリがそばにいたことだけは確かに覚えているのに……
　カガリが目を覚ますのを待って、二人で朝食を食べた。いつも以上に食欲があるらしいカガリはパンをふたつも平らげていた。さっぱりとした表情で久しぶりによく眠れたというので、アスランの寝不足も少し報われるというものだった。
　いつもの朝に乗るカレッジに向かうバスを見送って、逆方向に向かうバスに乗り込んだ。朝早い時間のバスは混雑を覚悟しなければならなかったが、町外れに向かう路線は空席のほうが多かった。
「ああ、なんだか思い出してきたな」
　窓の外を眺めながらカガリはつぶやいた。
「あの日もこうして街の様子を見ながら、とんでもないところに来ちゃったって思ったんだ」
「……最初にカガリに会った日のことか？」
　アスランの質問にカガリはこちらを振り向かずに答えた。
「うん。そんなに前のことじゃないのに、もう何年も昔に思えるんだ……不思議だな」
　道を走る車が少なくなり、建物の密度が濃い街の風景から農地の多い田園地帯に変わっていく。農地の終わりにぽつりとある停留所でアスランとカガリはバスを降りた。
　森の入り口だった。
「こんなところまで切り開いて農地にしたんだな……羊の牧草地になってるなんて」
　あたりを見回してカガリはおかしそうに言った。
「カガリはこの場所がオーブでいうならどのあたりなのか、わかるのか？」
「ああ、今はわかるよ。ここは東の森だ」
「それはオーブの領地？」
「違う。どこの国の支配下にも置かれていない森だったんだ。人の立ち入ることを許さないような雰囲気のある深い森だったんだけどな」
　二人が進み入った森は広葉樹が多く、今の時間帯は陽の光も十分に届いて明るい。散策に訪れる人もいるような場所なのだと話すと、カガリは「じゃあもうここにはいないのかもしれないな」とひとりごとのように言った。
「ここにはいない……？」
「ここは魔女の森だったんだ」
　先を歩いていたカガリが足を止めた。森を進みはじめて十数分、目指していた遺跡はもう目前にあった。カガリはしばらく立ちつくして遠くから城跡を眺めていた。やがて、外周をゆっくりと時間をかけて巡り、正面の門の名残に近づくと大きな灰色の石に指先でそっと触れた。
「これは私の知らない城だ」
　つぶやく声には落胆の色があった。
「場所も合致するから、てっきり魔女の城だと思ってたんだけど」
「その魔女というのは、いわゆる中世時代にいた妖術師のようなものか」
「魔女は魔女だよ。魔法を使う、人知を超えた存在だ」
　カガリは当然のことだという顔をした。
　カガリのいう魔法が比喩ではないのだとわかって、アスランはキラとこの森に来た日の最初の動機を思い出した。
「この場所がカガリの時代には魔女の森と呼ばれていたのなら、なにか不思議があってもおかしくはないのかもしれないな。これは、カガリにはまだ話していなかったと思うんだが……」
　不確かな噂に過ぎないが、と前置きしてアスランは話した。
「じつはキラたちと俺があの日ここへ来たのは、この城の付近で亡霊だとか妖精だとかを見たという噂を聞いたからなんだ。キラの話では森に散策に来た人が何人も奇妙な人影を見たと話すから、ちょっとした怪談になっていたんだろう」
「……奇妙な人影？」
「ああ、それがピンク色の髪をした少女らしいんだが……」
　アスランの言葉を聞きながら、カガリの瞳がみるみる大きくなった。一点を見つめたまま、波がひくように顔色を変えたカガリはまさに驚愕の表情をしていた。
「カガリ？　どうしたんだ」
　呼びかけたが、彼女はアスランを見ていなかった。
　カガリの視線はアスランの肩ごしに背後の廃墟へ注がれている。
「大丈夫か？」
　震えて見える肩に手を伸ばそうとした瞬間、カガリはいきなり駆け出した。
「カガリ！」
　追って振り向いたアスランは目を疑った。廃墟に向かって、いまアスランの横をすり抜けたはずのカガリの姿がなかった。
「まさか、そんなばかな」
　城跡の内部に入ったのだろうかと考えてすぐさま否定する。
　アスランの立つ城門の内側はなにもない広場になっている。全力で駆けたとしてもほんの数秒のあいだに建物に入り込めるはずがない。
　まるで手品で消された鳩のように、カガリの姿は忽然と消えてしまっていた。
　
　
　
　
　駆け出したカガリは十歩も走らないうちに、たたらを踏んで立ち止まった。いきなり雲のなかに突っ込んだように視界が真っ白になったのだ。何度かまばたいて、自分の目が眩んだのではないことを確かめて、すぐさま振り向いた。
「アスラン」
　しかし、そこにいるはずの人影もまたなく、背後も同じように真っ白だった。
　なにもない。ついさっきまであった風景がすべて消えていた。それもスイッチを切り替えるような消え方だった。代わりにカガリは光る霧に包まれている。
「アスラン！　どこにいる」
　今度は声を大きくして呼び掛けた。しかし、声は響かずに霧に吸い込まれた。耳を澄ますまでもない無音だった。
　アスランもこの霧の中にいるのだろうか。
（魔法だ、これは。魔女の魔法だ）
　カガリは両手を強く握った。廃墟の柱の影でピンク色の長い髪が揺れたのを見て、不用意に飛び出したことを後悔した。
（魔女は私に気づいて逃げたのか……）
「アスラーン！」
　さらに遠くへ呼び掛けてみるが、答えるものはなかった。
　自分がいるのが森の中なのか、それとも別の場所なのか、それすらもわからない。落ち着くために深呼吸をしようとしたが、乱れた呼吸を繰り返すばかりで、手にも汗がにじんできた。このままアスランのところに戻れなくなってしまったら……
（離れるんじゃなかった……）
　くちびるをぎゅっと噛んで、次の手を考えていたときだった。
「もう、あなたの騎士の名はお呼びにならないんですね」
　背後から声がしてカガリは跳ねるように後ろを見た。周囲に人の気配などまるでなかったのに、いつからそこにいたのか、柔和な笑みをたたえた少女が立っていた。
「東の魔女……」
「その名で呼ばれるのはほんとうに久しぶりですわ。近頃はわたくしを亡霊だとか妖精だとか呼ばわる者ばかりでしたから」
　少女は嬉しそうな顔になった。咲きほころぶ花のようだ。鈴のような声も人とは思えぬほど透き通った美しさの容姿も、鮮やかな髪の色までも、数百年前にカガリが見たままの姿だった。
「ここはおまえが作り出した場所なのか？　それとも私になにか幻覚でも見せてるのか？」
　出会えて安心できる類いの知り合いではなかったが、カガリは少し落ち着きを取り戻していた。この不思議な空間の原因は十中八九、この少女だ。
「どちらでもある……とお答えできますわね。夢の中にいるようなものだと思ってくださいな」
「そんな、曖昧じゃ困る。私はアスランのところに戻らなくちゃならないんだ」
「なぜですか？」
「なぜって、それはもちろん……」
　カガリはなぜかとっさに言葉が出なかった。どうしてなんて聞かれるまでもないのに。彼が自分を探しているだろうから。彼が気を揉んでいる様子が想像できてしまう。
「あの方は探してはいないかもしれませんよ？」
　少女は微笑んだ顔のまま少し首をかしげた。
「なんでだよ、そんなわけない」
「彼にとってはもともと出会うはずのない存在だったのですから、夢かまぼろしだったのだと思うかもしれないでしょう？」
「……まさか、私はもう、戻れないのか？」
　血の気が引いていくのを感じた。おかしな場所に迷いこんだだけだと思っていたのは違ったのだろうか。
「もしかして、私は死んでしまったのか？　それとも初めから生きてなんかいなかった？　私があの時代にいられたのはそういうことだったのか」
「そうではありません。いまもあなたの鼓動は生き生きと脈打っていますよ。前にも申し上げましたが、あなたは眠っていただけなのですから。また季節が巡ってきたら十七歳になりますね」
　長いドレスの裾を音もなく引いて、少女はカガリの目の前に立った。
「わたくしはあなたの意志を尋ねているのですわ」
「私の意志？」
　自分の鼓動を確かめようと胸に当てていた手をぎゅっと握った。
「あの方が探しているから帰るなどという受動的な選択ではなく、あなた自身はどうしたいのか、それをお聞きしたいのです」
　カガリは少女の透き通った空のような瞳を見つめた。
「あなたの幸せのありかはどこなのでしょう？」
　少女の問いかけに誘われるように、しばらく思い出すことを避けていた記憶が弾けて溢れてきた。
『私の幸せはここ以外にない』
　オーブが滅びかけている事実に潰されてしまいそうになりながら、カガリはそう言い切っていた。自分自身に、そしてアレックスに向かって宣言したのだ。
「私の幸せは……」
　あの時、これ以上底がないほどの絶望の中で眠りについた。目覚めてからもアレックスの不在と愛しいものすべてをなくしたことから生きる理由を見失っていた。暗闇にとらわれていたカガリをほんとうの意味で目覚めさせたのはアスランだった。
　カガリを夢から呼び醒ましたのはアスランだ。
「私はアスランに会いたいんだ」
　彼の名前には夜明けという意味があるのだと聞いた。その通りだと思う。
「幸せはなにかと言うなら、アスランとこの先の未来を生きることだと思う。だから、戻らなくちゃ」
　カガリはゆっくりと言葉にした。自分の心にも聞かせていたかった。
「……わかりましたわ」
　納得がいったように少女はにっこり笑った。謎めいた微笑でなくなると、なんだか年頃の娘のように見える。
「ご両親やお兄様からわたくしが承ったのはあなたが平穏な場所で幸せに暮らせることでしたので。これでわたくしは約束を果たせましたわ」
「そうか、そんなふうに言っていたな」
　普段は仕舞い込んでいる記憶だったが、彼女を前にしていると会話を次々思い出してくる。
「わたくしのお話ししたことを覚えておいでですか？」
「出来事としては数百年前にした会話でも、私にとっては数ヶ月前の感覚だからな」
「わたくしにとっては途方もなく懐かしいことですわ」
　彼方にある昔を見るように少女は白い霧を見上げた。姿かたちは年若い少女そのものなのに間近でみても彼女には少女らしい瑞々しさがない。すべらかな白い肌は美しいが大理石の彫像のようだった。
「おまえは不思議だな……魔女というより、なんだか女神みたいだ」
「わたくしに神ほどの力はありませんよ。悔しく思うことがあるほど、できることはとても限定的ですわ」
「私をこうして生かしているのに？　生誕の祝福だって言ってたけど十分神がかった力だと思うぞ」
　カガリの質問には答えず、少女は口許だけで微笑んだ。
「そういえば、私の生誕祭でしてくれたようなこと兄の生誕の時にもしたんだよな？」
「ええ、いたしましたわ」
　すうっと少女の顔から笑みが消えた。
「生誕祭ではお兄様の未来をお教えしましたわ。敵国の王として捕らえられ処刑される未来を」
　楽しい話題のつもりでたずねたカガリは表情を凍らせた。
「ほんとうに損な役回りですのよ。隆盛の国ならよいのですが、滅亡を前にした国の王族の生誕祭に呼ばれるのは」
　それまで感情のほとんど見えなかった少女の顔に悲しみのような色が浮かぶ。
「わたくしの力では、そもそものオーブへの侵攻をなくすことはできませんでしたが、お兄様が処刑される未来を変えることはできました。追っ手の手を免れて遠くの小さな村に逃れて落ち延びられるように」
「それならキラは……！」
「ですが、お兄様はのちにご自分でその祝福の贈物を破ることをお選びになったので……」
「……え？」
　取り戻しかけた明るさを一瞬で潰されて、カガリは顔を歪ませた。
「なんで？　どういうことだよ、なんのために」
「王女殿下が目を覚ましたときにそばにいるためですわ」
　少女の言ったことがすぐには理解できずにカガリは混乱した。
「……生まれ変わりとか、そういうことか？」
　カガリの兄とアスランの親友は驚くほど瓜二つではあったが、内面はまるで違う。他人の空似だと思っていたのに、そんなことがあるのだろうか。あのキラが兄と同じ人物だというのか。
「あのキラが……私のキラなのか？」
　呟きながらカガリは弱々しく頭を振った。
「正確には同一人物ではありません。彼は正しくいまの時代に生まれた青年ですから。両親もきちんといます」
　一呼吸おいて、少女は胸に手を当てながら言った。
「お兄様と彼が共通して持っているのは目に見えないものですわ。胸の奥に宿っているもの……」
　カガリは思わず目を閉じた。キラに感じた不思議な親近感はそのためだったのか。
　注意して自分の心を見てみないと気づけないくらいの細い糸が、彼に繋がっているような感覚だった。
「でも、あいつは私をまるでわかっていないぞ。この先もオーブのことも私のことも関係なくいると思うな」
「そういうものですわ。前世と呼んだりもしますけれど、生前を記憶していることはごく稀ですから。そして、妹を見つけてもそれとわからないであろうことはお兄様も承知なさっていたんですよ」
　兄の選びそうなことだと思った。カガリは潤みそうになった目をしばたいて涙をこらえた。
「ですが、こうも言っておられましたよ。覚えていなくてもわからなくても、きっと大切に想うはずだから大丈夫だと。それに前世の出来事を思い出すのはまったくの不可能ではありませんから、希望がないわけではありませんわ」
　薄情な振る舞いの多い彼女が励ますようなことを言うので、カガリがおかしくなって笑ってしまった。
「そっか、でも今のキラには楽しい日々だけ知っていてもらいたいとも思うからな」
「そうですか……そう思われるのでしたら良かったのかもしれませんね。あなたの騎士はもう思い出すことは決してできませんから」
　ついでのように少女は言ったが、カガリを驚愕させるには十分な一言だった。
「アレックスが、なにを思い出さないって？」
「彼は彼の記憶と存在を代償にしましたから」
「え、わからない。わかるように言ってくれよ」
　声が震えた。ざわつく気持ちに呼応して鼓動が速くなる。
「アレックス殿はいつか目覚める王女殿下を生まれ変わってでも仕えて守りたいと希望なさったのです。わたくしの力で希望を叶えることはできましたわ。ですが、それを叶えるには彼の記憶と存在を消し去らねばなりませんでした」
　少女は残念そうに眉を寄せていた。
「彼の願いを叶えた瞬間にアレックス殿の存在は消えました。記録にも残っていないはずです」
　美声の鳥がさえずるような彼女の声が、重く暗い音に聞こえる。
「あなたの記憶の中にまだ彼の存在がはっきりと残っているのには驚きましたが、そう長くはもたないでしょう。いずれ名前も残りませんわ」