藍色秘抄
ある児童文学のダブルパロ
01
たきぎのはぜる音でカガリはふっと目を開けた。
うとうとしていたのは自覚していたのだが、気付かずに浅く眠りに入っていたようだった。
「起きたか?」
ゆっくりとカガリが体を起こすと、声がかかった。炎の向こうの人影は凛とした表情でカガリを見ていた。
「ひょっとして、私ずいぶん寝ていたのか?」
「まあ、一時ほどな」
カガリがたき火越しに相手を見つめ返すと、彼はふっと目を伏せた。そうすると彼の顔の造りが整っていることが際立つ。揺れる炎に照らされて、切り揃えられた銀髪が紅を纏う様をカガリは素直に綺麗だと思った。
都で見て来たどの貴族より、彼が一番カガリの想像していた貴人に近かった。動作のいちいちが優美なのだ。
(でも、それだったらアスランも……)
目の前の少年と歳が近いせいか、カガリは幼なじみの顔を彼に重ねて思い出した。けれども、それは銀髪の少年とはわずかも似ない、やわらかく微笑む表情だった。優美という点では同じでも、二人の少年の優美さはまったく性格の違うものだった。
(あいつは優しいから……)
彼の仕草のひとつひとつにも、彼の優しさが見えていた。カガリが、アスランと名を呼んで振り返るその時の笑顔が不意に浮かんで、カガリの胸にじんわりと懐かしさがにじんだ。涙を誘うようなそれを、たまらなくなる前にカガリは喉の奥に押し込めた。
「いろいろ世話になったな」
カガリは着物を軽くはらって立ち上がった。
「行くのか? せめて夜明けまで待ったほうがいいんじゃないのか」
銀髪の少年はカガリを見上げた。
「いや。明けてからあの警備を抜けるのは私にはやはりできない」
少ない荷物を身につけ、カガリは身支度を済ませた。
「だから月のない今夜が勝負だと思うんだ」
「本当に貴様がやるのか?」
「……うん」
カガリは唇を結んだ。
「私以外の誰にもあいつを殺させない」
絶対に、とカガリは決心を言葉に込めた。
「……アスランは」
闇をじっと見つめ、言った。
「アスランは私が止める」
◇ ◇
「アスラン、早く」
カガリは息を弾ませて、後ろを振り返った。藍色の髪は二十歩は後ろをのんびりついてきていた。
「もう、おまえはなんでそんなにとろいんだよ」
カガリは頬を膨らませて腕を組んだ。腕を組む仕草は父の真似だった。そうすると、少し大人びたような気分になるので、腕組みは最近のカガリのお気に入りなのだ。とくにアスランといるときに、この姿勢をとることが多いのは、彼女にとってのアスランは世話を焼くべき弟だからだった。といっても実際はきょうだいではないのだが。
血のつながりがあるかどうかなんて、カガリには問題ではなかった。
「カガリ、そんな速さで山を登っていたら、きっともたないよ」
いまだ息を切らせているカガリとは逆に、彼女の隣に追いついたアスランは落ち着いていた。
「アスランみたいにとろとろ歩いてたら全然先に進めないじゃないか」
カガリは腕を組み直してため息をついた。
「もう、アスランなんか連れてくるんじゃなかった。私ひとりならもっと早く行けるのに」
「俺がいなかったら困ると思うけど」
独りごちたアスランのつぶやきをカガリは聞き逃さなかった。
「なんで私が困るんだよ! 逆だろ。私がいなくなったらアスランが独りぼっちになっちゃうから、可哀相だから、私はわざわざ連れて来てやったんだぞ」
「カガリ、本当に都なんかに行くのか?」
なるべくこれ以上カガリの機嫌を損ねてしまわないよう、アスランは否定をしないよう気を付けてたずねた。
「うん、行くぞ」
カガリは胸を張った。
「だってアスランが行ったことがあって私がないなんておかしいじゃないか」
アスランとカガリの住む里から都へと向かうために越えなくてはならないいくつもの山のうちのひとつを、いま二人の子供は越えようとしていた。
二人の背格好はほとんど同じ。カガリは今年数えで十二になる。それなので、アスランも無条件に同じ十二だろうとされていた。
だろう、というのはアスランの正確な年齢を知る者がいないからだ。アスラン自身も自分の生まれた年を知らない。さらには、親の顔も、生まれ故郷も、彼に起因するものすべては、誰ひとりとして知る人のないものだった。
「それにさ……」
カガリは組んでいた腕を解いて、アスランの手をとった。
「都に行ったらアスランのこと知ってる人に会えるかもしれないだろ」
繋いだ手を振って、カガリは屈託なく笑った。
「ひょっとしたらアスランのお父様とお母様もいるかもしれないし」
「……だから都に行きたいなんて言い出したのか?」
されるがままに手を繋いで、アスランはカガリの後ろ姿を見つめた。カガリは認めることが照れくさいのか、アスランの手をぎゅっと握ることで返事をした。
「私がアスランのお父様とお母様を見つけてやるよ」
山道にはそぐわない速度で、カガリは木の根や落ち葉を踏み締めていった。
「だから言っただろう?」
しゃがみ込んでしまったカガリの前に腰を下ろし、アスランは言った。まだ日が暮れる前だというのにカガリの体力は尽きてしまったのだ。疲れきって重くなった足を、投げ出して、カガリは黙って地面を見つめた。
もうずいぶん前から、足はいうことを聞かなくなっていたのだが、先を歩くカガリにぴたりと調子をあわせてついてくるアスランがどうにも癪で、カガリはやせ我慢を続けていたのだ。
「アスラン……嘘ついてるだろ」
唇を尖らせて、カガリはぼそりと言った。
「嘘?」
「ほんとは疲れてるのに、疲れてない振りしてるんだろ」
「そんなことをしてどんな意味があるんだよ」
「だって、おまえの勝ちじゃないか」
口にしてしまうと余計に悔しく、カガリは朱色の衣を握りしめた。出発前には鮮やかだったその色も、今はくすんでしまっている。
「こんなことに勝ちも負けもないだろう? もともと無理だったんだよ、二人だけで都まで行くなんて」
「ちゃんと前に進めば行けないところなんてない」
言い返すカガリを、アスランは穏やかに諭した。
「カガリは都がどれだけ遠いか知らないから……それにあんなところ行ったってカガリの喜ぶものは何もないよ。カガリの好きな花や、小川や、鳥も、緑も何もないんだから。ここの方がずっとずっと綺麗だ」
アスランは遠慮がちにカガリの髪を撫でた。普段口数の少ないアスランが、言葉を選びながら優しくなだめる声と、優しい手つき、それにカガリ自身の疲れと湧いてきた後悔が後押しとなって、カガリの目から涙が溢れた。
ほとんど衝動的に里を飛び出して来たカガリだったが、そのおかげで自らの幼さと浅はかさを、小さな心に思い知らされたのだった。行けると踏んだ都だったが、道半ばどころか初めの山で足をくじかれてしまったのだから。
「でも……でも、私」
しゃくり上げるのをこらえて、カガリは息を継いだ。
「私、都に行きたかった」
「下里のやつらに言われたからか?」
思いがけないことを言い当てられて、カガリは涙を止めた。
「なんで……?」
「ごめん。俺も聞いてたんだ、昨日」
カガリの父親は里の長だ。
アスランの言う『下里』というのはカガリの父親が治めるこの由良の里の、上里と下里のうちの下のほう。小作人達の住む北側の土地、またそこに住む百姓を指す言葉だった。
「俺のことを穢れたよそものだって?」
「アスラン……」
昨日は、下里の小作人達が毎月の貢を納める日だった。その親達についてきていた子供達がカガリに言ったのが先の言葉だった。
彼らより数段上質な衣を着て、身なりを整えていたアスランが子供心にもねたましかったのだろう。乳母の目を逃れ、館の外でひとり遊んでいたカガリは、下里の少年数人に取り囲まれたのだ。彼らは口々に「よそ者をなぜ丁重に扱うのか」とほとんどなじるように問い詰めた。
自分自身のことを悪く言われるのならまだ無視もできたが、彼らがアスランについての暴言を吐いた途端にカガリの血が沸騰した。里長の姫だからとあなどっていた様子の少年四人は、美しい着物の裾から繰り出された蹴りで地面に臥すこととなってしまったのだった。
「見ていたのが俺でよかったな」
唖然とするカガリにアスランはくすりと笑った。
「あんまり、ああいうこと外ではしないほうがいいよ。ウズミ様にでも見られていたら、また倉に閉じ込められていたかもしれないぞ」
「うるさい……」
少しばかり頬を赤くして、カガリは「弱虫アスランのくせに」と小さく言い返した。別に何を怖がるというわけではないのだが、里の少年達のように武術を身につけようとしないアスランを、カガリは時々弱虫と呼んだ。
由良の里は自給自足、そして自衛の集落だ。都との交流はあっても、それは年始に使者を遣わすだけの挨拶、それだけだった。カガリの父の代になる以前には都、つまり大王との間に血を流すようないさかいが数十年に渡って続いていたこともあったのだが。カガリの父ウズミが、一度、大群を組んで攻めて来た大王勢をその半数の兵で全滅寸前まで追い込んだ戦いがあり、それ以来戦火は冷めていた。
小さな集落である由良など、とうに落ちていて当然のものなのだが、独立を保つことができたのは、ただ由良の武術と馬術の鍛錬のおかげだった。
「でもカガリ……」
アスランに口を出されることを何より嫌うカガリだったが、アスランは言わずに済ませるのは彼女によくないと思ったのだろう。
「今回は相手が弱かったからいいけど。誰にでも通用すると思ってたら、いつか怪我じゃすまないことになるぞ」
「アスランじゃないんだから、私は怪我なんかしない」
里の少年達は皆、五つの歳から大人と変わらない稽古を受ける。もちろんそれは男の子だけのもので、カガリが習う必要のないことだったのだが。男だけに許されているという、そのことが納得いかずカガリは大人の目を盗み、独学で体術を得ようとしていた。
その相手をさせられているのがアスランだった。
「本当に怪我しないでいてくれるんならいいんだけどな……」
「なんだよ、私が弱いって言いたいのか?」
「いや、カガリは弱くないよ」
「じゃあ、何なんだよ」
「カガリより強い人の方が多いってことだよ。誰彼構わずぶつかっていったらだめだ」
「また説教か?」
カガリは顔をしかめた。カガリがアスランの小言を嫌いなのはそれがいつも核心をついているからだ。間違いを指摘されたようで悔しくなる。
「聞きたくないんなら、里へ戻ろう、カガリ」
カガリが落ち着いたところでアスランはそう投げかけた。
「でも、せっかくここまできたのに……」
もう、都に行く気持ちはだいぶ薄れていたのだが、カガリの性格の都合上、そう安々と帰るとは言えなかった。
アスランは少し考えてからつぶやいた。
「都なんかで、俺はカガリを守れるかどうかわからない……」
「なんでお前が私を守るんだ? 逆だろ。お前、弱いくせにさ」
「じゃあそれでいいよ。俺は都なんて危険な場所には正直行きたくない。だから帰ろう? カガリ」
帰ろうと言う、アスランの口調はあっさりとしていて、まるでいつもの遊びで帰宅を促すときのようだった。だからだろうか、カガリももう反抗を起こす気はなくなり、ひとつこくりとうなずいた。それを見てアスランはやわらかく表情を崩した。
「歩けるか? おぶってあげてもいいけど……」
「歩ける」
めずらしく素直になっていたカガリだったが、背負われるのはさすがにごめんだった。今回のことでわかったのは、カガリの思っていたよりずっとアスランに体力があるのだということだった。
それは認めないわけにはいかなかった。
「アスランさ……」
「ん?」
くだりの先導は自然にアスランが務めた。カガリがついてこられる速度を知っているかのような歩みで、彼は雑木林を進んだ。
「いや……あのさ、アスランは都に行きたいって思わないのか?」
実際、頭にあった質問は違うことだったのだが、カガリはそれを言い出せず質問をすりかえた。
四年前、アスランは由良の里にやってきた。それからずっとカガリとは兄弟のようにして育ってきたが、それ以前に彼がどこにいて、なにをしていたのか。それを彼は一切誰にも話していないのだ。カガリは何度もそれを尋ねようと試みたが、結局四年間うまく切り出せずにいた。
彼が話たがっていないことがわかっていたからだ。
「行きたいなんて思ったこともないな。都なんていいところでもなんでもないよ」
「でも兄様達はあんなに楽しいところはないって言ってたぞ。できるものなら都人になってみたいって」
兄様というのはカガリの実の兄のことではなく、アスハ家の分家の青年達、カガリの従兄弟のことだ。
「それに、アスランの生まれたのは都なんだろう? だったらお前の……」
「父と母なんていないよ」
問いに先んじて答え、アスランは足を止めた。
カガリを振り向いたアスランは複雑な笑顔だった。悲しげな、それなのに穏やかな、それ以上踏み込めなくしてしまう笑みだ。
「いないなんて、そんなわけないだろ」
けれども、カガリは引き下がれなかった。
「きっとどこかにいるさ。私が見つけてやるって言っただろ」
「いや、いないんだよ」
アスランは妙にきっぱりと言った。
「だから、ウズミ様が俺の親代わりになって下さると言われたんじゃないか。俺にはそれで十分過ぎるよ」
卑屈に言っているわけではなく、アスランは本心からそう思っているようだった。
「でも、お前、お父様のことちっともお父様だなんて思ってないじゃないか」
「父じゃなくて、父親代わりだよ。ウズミ様は」
「どうして、お前はそうやって独りぼっちになりたがるんだよ」
カガリは思わず声を大きくしていた。
「私達のこと嫌いなのか?」
アスランが里で暮らし始めて四年。なかなか馴染めなかった彼が、やっとカガリとだけは兄弟のように過ごすようになっても、アスランには開いてない扉があった。
彼が意図的に打ち解けようとしていない部分があることを、カガリも肌で感じていた。
「嫌いなんかじゃないよ。誰のことも」
カガリをなだめるように言ってやると、アスランはまた背を向けて歩きだした。その背をカガリは追い掛けた。
「なら、嫌いじゃないんだったら、もっと……」
(もっと……)
もっと、なんだというのだろう。
どうしたらカガリの感じているもどかしさは取り除けるのか、わからなかった。カガリが感情も、考えも、すべてさらしてぶつけているように、アスランにもして欲しいだけなのだ。
「アスラン……」
カガリは意思を込めて呼んだ。
「なあ、私、ずっと聞きたいと思っていたんだ。由良に来る前のお前が何してたかって」
アスランの過去を共有できればもっと近づける気がした。身内のような気でいながら、思えばカガリはアスランについて知らないことがありすぎる。
「聞きたいのか?」
アスランは振り返った。
その彼が真顔だったのを見て、カガリはとたんに不安になった。やはりアスランにはむやみに触れられたくないことなのだろうか。
「やっぱり……言いたくない?」
「知らない方がいいこともあるんだってことだよ」
ほとんどのことには何でも答えをくれるアスランがこう言うのなら、カガリはそれ以上追及できなかった。いつもアスランに無遠慮でいるカガリだったが、これだけは無理矢理には踏み込めない。カガリは幼いながらにも、アスランの過去を解くことが彼の深い部分に触れることになるのだと、感覚的には理解していた。
(あの時……アスランが初めに里に来たとき……)
ひとつ、カガリの記憶にひどく鮮明に残る映像があるのだ。
生々しい傷やあざを白い肌に無数に刻んだアスランの姿だ。ぐったりと力をなくした少年が父に抱えられて我が家にやって来た日のこと。四年前、カガリが初めてアスランを見た日のことだ。
彼がどこでその傷を受けたのか、なぜあんな姿になっていたのか、そして、どういう経緯でカガリの父に拾われたのか、カガリは何も知らなかった。それが恐らく、アスランの陰を作っているものなのだろう。
(私はアスランを知ってるつもりでいるだけなのかな)
そう思うと、急に寂しくなり、カガリは目の前を行く若草色の衣をわしづかんだ。
「カガリ? どうしたんだ?」
「……手」
「え?」
カガリは無造作にアスランの手を握った。目を白黒させるアスランをよそにカガリは握った手を引いた。
「はぐれたらお前が困るだろ。なんだか暗くなってきたからさ」
カガリの言い訳を聞いくと、アスランは眉を下げて笑った。
「ああ、そうだな」
少し熱を持ったカガリの小さな手を、同じく小さなアスランの手が握り返した。ぬくもりを分け合うことで、少しだけわかり合える気がした。
(アスランはいつかきっと話してくれる……)
アスランに隠していることがあったとしても、それで彼を信じられなくなるわけではないのだ。
そのときは、それでひとまず自分の気持ちに決着がついた。けれども、この日、アスランの隠していることの一端を知ることとなり、カガリは大きな衝撃を受けた。
それが、始まりだった。穏やかに過ぎるかに思えた、アスランが来てから五度目の初夏は、カガリの人生の最初の転機となった。
その日はとくに暖かかった。
深い雑木林にも浸透する陽気が、山下りをする二人の肌にじわりと汗をにじませる。暖かな季節がやってきていたが、まだ夏の前である。一度、陽が傾くと、それから夕暮れが過ぎるのは速かった。
思えば遠くへ来ていたようで、二人が山を抜けきらないうちに森は闇に沈んだ。幸いなことに満月が近かったため、月が昇るのが早かったのは救いだったが。
丸い月は明るく二人の足元を照らし、青白い光で二つの小さな影を繁る木々の間に並べていた。
「お父様、怒ってるかな……」
無言で歩いているうちに思い至り、カガリはぽつりと言った。
「……心配してはおられるだろうな」
いつも穏和なカガリの父が怒ることは滅多とないのだが、その滅多とない憤怒の形相をとったときのウズミの様子を知っているアスランは暗い声で応じた。
「やっぱり今日の夜は倉に決定かなぁ」
カガリは肩を落とした。悪さをしたときのお仕置きは倉での謹慎と決まっているのだ。
「俺も付き合うからさ……」
「はあ……ご飯も抜きだったらどうしよう」
「だったら俺も食べないから」
「……うん」
一瞬ですっかり憂鬱になってしまったカガリは力なく返事した。カガリの気落ちが伝播したようにアスランもまた表情を曇らせ、二人はまた無言になった。さくさくと、森の土を踏む音と、遠くの夜行鳥のかすかな鳴き声以外にはなにもない、静かな静かな夜だった。
しかし、それを打ち壊すような悲鳴をカガリは上げた。
もののけに捕まったのかと思ったからだ。何もなかったはずの木立から、不意に黒い腕が伸び、カガリの二の腕を掴んだのだ。
「カガリ!」
アスランは叫んだ。
カガリの腕を掴んだのは黒い衣に身を包んだ男だった。体だけではなく丁寧なことに顔までも黒い布でおおっている。相手に好印象を与える服装ではない。
とっさにカガリへ駆け寄ろうとしたアスランに、男はすらりと腰の刀を抜いて切っ先を向けてきた。均整のとれた無駄のない動きだった。
「動くなよ。可愛い恋人をどうにかするのも、お前を一突きにするのも簡単なことなんだからな」
アスランは凍りついたように体を止めた。瞬きすら止めて、男をにらむ。
男とアスランが対峙していると、どこから湧いたのか、男の仲間らしい同じく黒い頭巾をかぶった数人が現れ、二人を取り囲んだ。
「こいつか?」
「ああ、間違いない。まさかこんなところで見つけられるとはな。里まで下りずにすんでしまったとは、ついてるのかもしれないな」
「じゃあ、俺の考えた策は用無しになったってことか」
腕を掴まれて硬直しているカガリと、同じく動けないアスランを囲んで、男達は二人をじろじろと観察した。子供だけで決して山に入ってはならないと、娘の肩に手を置いて強く言い聞かせたときのウズミの顔を、カガリは思い出していた。
まだ、アスランがやってきて間もない頃だ。
初めてできた友達に里を見せてやりたくて、今日のようにカガリは二人だけで山に入ったのだ。
もちろん無断だった。
高台から里を見下ろせる場所にアスランを案内して、小さくなった緑の里を眼下にして、呆然と綺麗だと感想をもらした彼に大満足したカガリだったが、帰宅した彼女を待っていたのは容赦ない平手打ちだった。
「は……放せよ!」
震えそうな声をカガリはわめくことで強くした。
(「山には盗賊が出るのだから……」)
父はそう言っていた。子供のための脅しだとカガリは半分信じてはいなかったのだが。この物騒な連中の名前を他には思いつかなかった。彼らが人をあやめること、人のものを盗ることなどを生業にしていることは知ってはいたのだが、カガリはそれをもののけか何かに近い、空想のもののように思っていたのだ。
「おい、こら暴れるな」
「うるさいっ、放せ」
持てるだけの勇気でカガリは手足を動かした。剣先を突きつけられて硬直してしまったアスランをなんとかしなくては。この場で助かるには自分が何とかしなくてはならないのだ。
カガリは掴まれている腕を軸にして男に思いっきり蹴りを食らわせた。手加減なしで人を蹴ったのは初めてで、それをすれば最低でも相手はよろけるはずだった。
「この……っ、大人しくしろ」
しかし、男は体制を崩すどころか、さして痛がりもせず、逆にこちらの喉元にめがけて手を伸ばしてきた。
カガリは愕然とした。自分の技が何の効果もなさなかったのだ。
一瞬のうちに、アスランと二人で逃げる方法をいくつも考え、それと同時に父や里の者の顔が嵐のように思い浮かんだ。自分に向かって伸びてきた男の手と、自分の何倍もある背丈を見たカガリを貫いたのは怖いという感覚だった。
「……や」
カガリが目を見開いて息を飲んだ、その時だった。なにかがカガリのすぐ横を飛んだかと思うと、カガリへ伸びていた手が止まった。
やがて一拍おいて、黒ずくめの男が地面にゆっくり倒れ込んだ。気がつくと、カガリの足元に黒い人影が弛緩しのびていた。カガリはもちろん、他の男達も何が起こったのかわからず、緊張を忘れてまばたいた。
「うわぁ!」
続けて、カガリの背後で情けない悲鳴が聞こえた。
見ると声の主の男は地面に仰向けにひっくり返っており、震えていた。恐ろしいものを目の当たりにしているかのように、男は腰を抜かしてじわりと額に汗を浮かせていた。その目線の先、男の首元に刀の先を差しだし、無言で牽制していたのはアスランだった。
「アスラン……?」
視覚に事実を受け止めても、カガリは自分の見ているものが信じられなかった。呼吸を荒げ、取り乱した相手とは対照的に、アスランはいつもと変わりない様子で剣を構えていた。
「や、やめろ……」
うめく男を見下ろして、アスランは口を開いた。
「カガリが見ていなければ、こんなもので済ませたりはしないんだけどな」
アスランはいつも通りに穏やかな声だったが。その底に怒りが沈んでいるのが、カガリには感じ取れた。
「汚い手でカガリに触って……」
刀の切っ先が喉元に軽く押しあてられた。覆面をはぎとられた男が耳から血を流しているのにカガリは気づいた。
(アスランがやったのか…? いま?)
男はいよいよ恐怖に押し潰されそうだった。アスランが刀を握る手に力を込め、体ごと勢いをつけて踏み込んだ。容赦なく剣は突き立てられたが、刀身のほとんど半分が突き刺さったのは男の首の真横の土だった。
紙一重で突き立てられた凶器が土を巻き上げる前に、男は自失していた。
「こ……このガキ……!」
仲間のひとりがアスランに向かって飛び掛かって来たが、アスランは驚きもせず軽く男の足を払い、よろけて傾いた彼の後頭部を蹴り下ろした。それから続けざまに、アスランは残りの黒服も難無く地面に倒していった。
「カガリ、痛めたところはないか?」
戦いを終えると、アスランは呆然と立ち尽くすカガリの衣を払いながらたずねた。アスランが今なにをしたのか、カガリには上手く飲み込めなかった。状況を整理できない一方で、一連の戦いに見惚れてしまっていた。
アスランの立ち回りは美しかったのだ。一寸の無駄もなく、正確でしなやかだった。太刀さばきも、体術も。
修練を積んだ里の少年達の誰よりアスランが強いことは比べてみないでも明らかだった。いや、比べようもないことだった。
「頼むからこういう無茶はやめてくれないか。まったく、君は由良のお姫様だっていうのに……」
「なんなんだよ……アスラン」
アスランの説教なんか聞いていられなかった。
「今の……なんなんだよ」
カガリはアスランの袖を引っつかんだ。
「お前、いったい……」
何を隠して、と言った途端カガリの瞳から涙が落ちた。恐怖が解けて気持ちが緩んだこともあったのだが、それよりも、ずっと、思いもよらなかったアスランの姿にひどく動揺したために零れてしまった涙だった。
カガリの知るアスランはいつも穏やかで、体術の修練のまねごとをするカガリの相手をするときも、防戦しかできない少年だったはずなのだ。だから、守ってやらなくてはならない弟だと思っていたのに。
もしかすると、彼は防戦しかできなかったのではなくて、戦えなかったのだろうか。戦えば、おそらくカガリなどが敵いはしないのだから。
「なにも隠していたわけじゃないよ」
アスランはゆっくりと言った。
「ただ、あの里ではこんなことをする必要がなかっただけで」
「じゃあ、どこでしてたんだよ」
アスランが急に遠くなったようで、それをどうにかしたくて、カガリは詰問した。
「お前は言ってたけど、知らないほうがいいことなんてない。私は自分の知らないことがあるのはやっぱりいやだ」
「カガリ、泣くなよ……」
いつのまにか、カガリは次から次へと涙を零していた。感情が高ぶるとすぐ涙に表れるのは、やはり子供だからだろう。けれども、同じ年頃だというのに、カガリはアスランの泣いたところを見たことがなかった。
「泣いてなんかないっ」
若草色の衣をちぎる勢いで握って、カガリは噛みついた。
「言えよ、アスラン」
泣くカガリと、怒るカガリに、なにより弱いアスランはどうすることもできずに薄闇のなかでも明るい金色の少女を見返した。
「言えって。お前がどこで生まれて、どこで育って、なにをしてきて、どんなふうに生きてきたのか」
カガリがさらしている、同じものをアスランにも見せて欲しかった。カガリの冒険談のひとつ。鳩のひなが見たくて、里の宮の御神木に登ったカガリが、巫女に見つかって悲鳴をあげられ、驚いて転落したことだって。
それで足をくじき、そのうえ父に散々怒られてしまい、さすがに、それからしばらくはおてんばが影をひそめ、借りてきた猫のようになっていたことだとかも、アスランが聞いているカガリの昔話は限りない。数々のいたずらも、ずっと可愛がっていた犬のことも、幼い頃のカガリが好きだった歌すらも、アスランにはすべて話しているのに。
彼が話してくれたものは、何もないのだ。
「話したら……たぶんカガリは俺を嫌いになると思うよ」
まくし立てたカガリの息が落ち着いた頃に、アスランはそう答えた。
「俺はカガリが思っているようなやつじゃないから……」
「何言ってるんだよ、アスランはアスランじゃないか」
しごく当然のことだと、カガリは胸を反らした。けれどもアスランは同意せず、少しだけ苦い笑みを零した。
「カガリは俺のこと、弟だと思っているんだろう?」
「だって、そうじゃないか」
「だったらやっぱり無理だな」
「なんでだよ」
「俺は君の弟にはなれないよ」
アスランの声には強いものがあった。掴んでいたはずのアスランの着物が手の中からすり抜けていってしまう。
「アス……」
深みを帯びた碧の瞳に、彼が遠くへ行ってしまうような恐怖を感じてカガリは名前を呼ぼうとしたが。それより先に背後から掛かった声に、二人は会話を中断された。
「あーあ、思いっきりやってくれたなあ」
さっぱりとした口調の主は若い男だった。着慣れた絹を纏った、赤毛というより橙色に近い髪をした青年だ。
彼はアスランとカガリの周辺を見渡すと笑ってため息をついた。
「これはもちろんお姫様じゃなくて、そっちの君がやったんだよな?」
先ほどの男達とは、見た目からしてもずっと友好的だったのだが、青年が現れた途端、アスランがさっと緊張したのを隣で感じて、カガリもまた身構えた。
カガリが正月などに着る晴れ着と同じくらいの上等な布地をこの青年は旅装にしている。砕けた話し言葉だが訛りはなく、洗練された空気をまとっている彼は間違いなくこのあたりの集落の人間ではない。
(都人だ……)
相手をにらみながらも、カガリは好奇心が湧いてくるのを抑えられなかった。青年は、警戒心をあらわにした二人の子供を見て苦笑いした。
「悪かったなあ。こいつらに任せたのが間違いだったよ。荒っぽいやり方しか知らない連中だからな」
夕日に似た色をした、鮮やかな短髪を掻き上げて、青年は地面に転がる黒服の数々を眺めた。
「お前、そいつらの仲間なのか」
毅然とたずねながら、カガリはアスランの袖をぎゅっと握った。
「残念。仲間じゃなくて、上司だ」
おかしそうに笑って、彼は一歩二人に近づいた。青年の陽気な笑顔に嘘は見えず、先ほどのことがなければ善人だと思えたかもしれないが。
「こいつらがお前の部下なら謝れよ。言っとくけど先に手出したのはこいつらだぞ」
「そうなのか? それは申し訳なかったな。丁重に扱うようにって、きつく言っておいたんだけどな」
「都人の丁重ってのはずいぶん野蛮なんだな」
「カガリ、余計な挑発はするなって」
黙って二人のやりとりを聞いていたアスランが小声で忠告した。
「あれ? 都の人間だって気付いてたのか?」
「すぐわかるぞ、そんなこと。衣と言葉が違うもん」
「なるほどね。変装にはまだまだ改善の余地があるようだな」
自分の衣を見下ろして、彼はなにかを納得したようだった。
「お前、由良になんの用だ?」
カガリがにらみつけると、青年の顔から冗談の色が消えた。瞳を燃やして自分を見上げる少女を、彼はまじまじと見つめ返した。
光を放つくらいに明るい色の髪は、やわらかくそのまま華奢な肩にのせてある。洗いざらしの麻を纏っただけの、いうなれば田舎の少女のはずなのに、もしもここが都の往来であったとしても、この小さな輝きを見過ごすことはなかっただろう。
そう、強く惹きつけるなにかが彼女にはあった。それはもしかすると宝石のような瞳だったのかもしれず、彼女の内にある純真さのためだったのかもしれなかった。
「私はあなたをお迎えするためにはるばる由良に参上したのですよ」
見上げる立場だったのが、突然逆転してカガリは驚いた。青年が寸分のためらいもなくカガリとアスランの前にひざを折り、こうべを垂れたのだ。
「私の名はハイネと申し上げます」
目をぱちくりさせるカガリを見上げて青年は言った。
「カガリ様を都へお迎えするべく命を賜った者ですよ」
おしおきで、夕飯を抜きにされることも、食糧貯蔵の倉に閉じ込められることもやむなしとカガリは諦めていたのだが、意外にもウズミの雷は落ちなかった。
帰宅するなり、二人は乳母に引き渡され、すんなり夕飯にありつけたのだ。それまで空腹だったこと自体、二人は忘れていたのだが温かな汁菜を前にしたとたん、胃にせっつかれるように空腹を思い出した。
たった半日の冒険だったのだが、小さな二人にそれは大変な刺激だった。その証拠に、出された食事を夢中でかき込むと、次にやってきたのは強烈な眠気だった。
「里長様からのお言いつけで、今夜はお部屋から出ないでいてもらいますからね」
乳母はどうやら二人が山に入ったことについて、叱りたくて仕方がない様子だった。けれども、それよりも何か重要なことがあるようで、二人を食べさせ、身の回りを整え、布団を用意すると、先の忠告だけして、彼女は部屋を出て行った。
「あんなこと言ったら、外に出たら面白いことがあるって言っているようなものじゃないか」
「カガリ、眠たいんじゃなかったのか?」
ついさっきまで、着物を着替えさせられながら、カガリはうとうとというよりもう半分眠りに入っていたのだが。彼女の好奇心はどんな眠気覚ましよりも効き目があるらしい。
「アスランだってあいつらのこと気になるだろ。絶対あいつらが来たから皆忙しくしてるんだよ。おかげでおしおきはなかったけどさ」
ハイネと名乗った都の青年とその部下は、カガリとアスランについて由良に下りて来たのだった。自分は大王からの使者だとハイネは言ったが、カガリはもちろん信じなかった。だから由良に案内することにしたのも、客人としてではなく、狼藉を働いた連中を野放しにしておくと危険だと考えたからだった。
しかし、もてなしに走る家人達の様子は、カガリがこれまでに見たことのないほど深刻だった。
「たしかに夕飯は食べられたけど、でもここで部屋から出たことがばれたらそれこそおしおきだぞ……」
アスランの袖を引っぱって軽く跳びはねるカガリを見上げて、アスランはため息をついた。
「あの連中は今頃ウズミ様と話をしているだろうと思うけど、ウズミ様がカガリに気付かない訳がないだろう」
「でも、じゃあ、何の話をしてるのか余計に気になるじゃないか」
カガリは頬を膨らませた。興奮ぎみのカガリとは逆に、アスランは声を落としてつぶやいた。
「話すことなんてひとつしかないと思うけどな」
アスランの言葉に興味を引かれたようで、カガリは跳びはねるのをやめた。
「アスランはあいつらとお父様が何を話しているのかわかるのか?」
アスランにあわせて、カガリは床にひざをついた。期待を浮かべた琥珀の瞳を受けとめてから、アスランはまつげを伏せた。
「言っていたじゃないか、ハイネだとかいうやつが。カガリを都に連れて行くって。あれはつまり君が皇族に召されるという意味なんだってわからなかったのか?」
「……お前の言ってることのほうが意味がわかんないぞ」
カガリは眉を寄せてしかめっつらを作った。アスランはよくカガリの知らない言葉を使う。大人みたいに物知りで、カガリはそれを知らない自分が悔しいので、わからない言葉が彼の口から出ても聞き返したりしなかったのだが。
今日の冒険がカガリの意識を変えていた。
「皇族っていうのは大王の家族のことだろう? それと私と何の関係があるんだ?」
決定的に敵わない部分をいくつも見せられたことで、カガリの中にアスランを認める気持ちが生まれていた。
同じに肩を並べる相手として。大人に守られる立場ばかりのカガリには、庇護するべき存在だったアスランの登場が嬉しかった。
カガリは得意になってアスランにあれこれと教え込んだものだった。かくれんぼも、鬼ごっこも、ちょっとしたいたずらも、およそ子供ならば自然に覚えて当然のものを、アスランは何ひとつ知らなかった。カガリはほんのりと優越感に浸りながら、彼の知らないものを見つけると手足をとり教えてやったのだった。
「関係があるんじゃなくて、これから関係ができるんだよ」
アスランは説明したが、彼の声はめずらしく不機嫌だった。
「たぶん、皇子のところになんだろうけど……召されるっていうのはつまり嫁がされるってことだよ」
思いもよらなかった答えを理解するまでに、カガリは大きな瞳を何度もまばたかなくてはならなかった。
「それって、私が皇子のお嫁さんになるってことか?」
「平たく言えば」
「なんだそれ?」
カガリは笑った。
「なんでそんなものにならなくちゃいけないんだ? アスラン、嘘だろ、それ」
「俺は嘘はつかないよ」
アスランの静かな声が、カガリの笑いを止めた。
アスランは冗談も嘘も言わない。今日だって、カガリが泣きながらした詰問ごと上手くごまかそうと思えばできたのに、アスランというのはそれをしない人だった。
「あいつら本当に大王の使者なのか?」
カガリは恐る恐るたずねた。
「間違いないよ。都でもハイネのような着物を着られる人間は多くない。それに、あいつの部下達の着ていた黒い衣は大王直下の近衛のものだ」
アスランの言った言葉のいくつかをまた理解できなかったカガリだったが、そんなことはどうでもよかった。
アスランの告げたことは大問題だった。いつか自分が誰かのもとへ嫁いでいくのはカガリでも漠然と考えてはいたことだったが。それはこんな形で決められるはずではなかった。
「アスラン、やっぱり行くぞ」
相方の腕を容赦なく引っ張りあげると、カガリは部屋の引き戸を勢いよく開けた。
客人をもてなすのは、館の一番広い部屋だといつも決まっていた。その広間の扉をカガリは堂々と開けたが、娘を見たウズミは驚きはしなかった。
「へぇ、ほんとに来られましたよ。さすが御父上でいらっしゃる」
目を丸くしてカガリとアスランを振り向いたのは、ハイネだった。
板張りの広間にウズミとハイネの他に人はなく、二人は距離をおいて向かい合い、杯を交わしていた。けれども、カガリの目から見ても彼らに打ち解けて飲んでいる様子はなく、流れていたのは、近づこうという形をとりながら牽制しあっているような空気だった。
「姫君、そんなに息を切らせてどうされたのですか」
からかいの含まれたハイネの声を無視して、カガリは父の前に進み出た。
「カガリ、言いつけを聞かなかったのか?」
ウズミの低い声が広い空間に響いた。
「聞きました。聞きましたけど、お父様はずるい」
カガリは怒っていた。怒っていなければさすがにいいつけを破り、その上に正面から父に対峙することはできなかった。
「私に何も言わずになにもかも決めてしまうために、部屋から出るなと言ったんですか? 私は嫌です」
カガリはかぶりを振った。
「私ひとりで由良を出てどこか知らない人の家の人間になるなんて」
都の皇子に召されるということが、カガリには途方もない孤独を意味していた。身に馴染んだ由良を捨てて、血縁をすべて他人に変えて、知らない土地に行くということなのだから。婚姻というものについて、カガリにはまだそれだけの認識しかなかった。
「お父様。私は絶対絶対、嫌です。行けといわれても由良を動きませんよ」
カガリは父の衣を引っつかんだ。がむしゃらに反対する娘を見下ろして、ウズミは穏やかな声色で言った。
「何も決めてなどおらんよ」
金色の小さな頭を大きな手の平が撫でた。
「そうではなくて、ハイネ殿に退いていただくよう話をしていたのだ」
「私は退くわけにはいかないのですけれどね」
はっとして父を見上げた後に、都の青年を振り向いたカガリに、ハイネは肩をすくめて笑った。
「里長殿、カガリ姫ご本人にお伺いしてもよろしいですか?」
「構わんが?」
了承を得ると、ハイネは表情を正し、カガリを見つめた。
「姫。我々と共に都へ来てはいただけませんか。あなたをお待ちになっていらっしゃる方がいるのです」
「嫌だ」
ハイネが言い終わらないうちにカガリはそっぽを向いた。
「これはすごいな。皇家に仕えて初めてですよ。こんなにはっきり断られたのは」
酔いもあってか、ハイネは声を上げて笑った。
「ひとりになるのが嫌だとおっしゃるならどうですか? 姫」
そこでハイネは、部屋に入ってきてからずっと明かりから外れた暗がりで、三人のやりとりをうかがっていた少年の方を一瞥して続けた。
「あの少年も一緒に都へ行くことにしては」
「アスランを……?」
カガリが少年の方を向くと、話を振られた本人も戸惑っている様子だった。
「できるのか? アスランも一緒に行くことが」
カガリの声が急に明るくなった。うなずき、いっそう笑顔になってハイネは言った。
「彼だけでなくて姫の侍女も一緒にお連れくださってよいのですよ。一人は必ず供を付けていただくのはしきたりですから。ただ彼は……ぜひ近衛に加えてみたいと私が勝手に思ったのですけれどね」
「このえ……?」
聞き覚えのある言葉にカガリが首をひねると、ハイネはかみ砕いて説明してくれた。
「近衛とはみかどのもっとも御側近くに仕え、御身をお守りする役目を仰せつかった者のことです。当然ながら、この国で一番の精鋭でなくてはならないのですが」
ハイネはちらりとアスランを見遣った。
「彼はそれになれます。間違いなく。天賦のものに加え適確な教育を受けている。まったく由良とは恐ろしい国ですね」
陽気なハイネの褒め言葉に、しかし、ウズミは反応を返さなかった。
カガリは焦った。里の者でアスランの戦う姿を見たのはカガリだけなのだ。ハイネの言葉を、ウズミはいぶかしんでいるに違いない。
「まあ、里長殿のお許しがなくては、姫も彼も連れては帰れませんが。もちろん私も手ぶらでは都の大門をくぐることはできないですけどね」
「お父様、私……」
ハイネを遮ってウズミに呼び掛けたのはカガリだった。
(もし……もしもアスランが一緒なら)
アスランと共に都に行ける。そのことがカガリの心を強く揺さぶった。由良を離れること、父と離れること、それらの辛さをかすめてしまうほどに、アスランとの上京はカガリの中で輝いていた。
(二人で行けばアスランのお父様とお母様を探せる……アスランの里も家も、アスランの)
ハイネの一言でカガリの夢が一気に膨らんだ。
アスランも周囲の大人たちも、誰もアスランと都を結びつけることはなかったが、カガリはそこにこそ彼の由来があるとこだわっていた。カガリには彼が都から来た人間だという確信があるのだ。それは感覚的なものではあったが、誰に言っても納得してもらえると思っていた。
アスランの身に纏う雰囲気はこの里では異質でもあった。朴訥としていて、ある種粗野な由良の者達とは明らかに違う。わずかな所作にも上品さがある、たたずまいからして涼やかだった。例えば、同じ服を着せた大勢の由良の少年達の中に彼をひとり放りこんだとしても、彼は際立つはずだ。
自分の計画と、これからのことにカガリは少し頬を紅潮させていたが。深呼吸をし、声を落ち着かせて言った。
「私、アスランが一緒なら都へ行く。行きたいです……お父様」
◇ ◇