藍色秘抄
02
「へえ、それが馴れ初めなのか?」
にやにやと顔をのぞきこまれて、アスランはうるさそうに眉を寄せた。
「べつにそんなことは言ってません。ただカガリを初めて見たのが由良に来て初めに目を覚ました時だったということです。ハイネさんの質問に答えただけだ」
「でも、じゃあおまえのほうは一目惚れってことか」
ハイネはあごに手をやり、藍色の髪を見下ろした。
「何かと思えばそんな話をしにきたんですか」
アスランはため息ついた。するとハイネは、お前はもっうちょっと子供らしいため息をつけよ、と嘆いてからかうのをやめにした。
「そんな話というか、姫さんの話題を持ってきたのは間違いないぜ。お前も聞きたいから抜けてきたんだろ?」
背を向けてもと来た方向へ戻りはじめていたアスランの足が止まった。それを同意と受けとり、ハイネは単刀直入に話した。
「カガリ姫がふせっているらしいんだよ」
「え……」
翡翠の瞳が大きく見開かれた。アスランの反応をからかいたいがために、ハイネが似たような話を切り出したことは、じつはこれまでに何度かあるのだが。今回のハイネに冗談の気配はなかった。
「俺は実際姫に会ったわけじゃないから、聞いた話になるんだが、どうやら食べ物を受け付けないらしい」
「カガリが?」
アスランは思わず聞き返した。食べることにあまり執着のないアスランの隣で、いつも嬉しそうに果物なんかをほお張っていたカガリだったのに。
「女官のあいだじゃ、呪詛なんじゃないかって噂もあるけど」
「ばかばかしい……」
アスランは一蹴したが、そんな噂があってもおかしくはない状況がカガリにはあった。家格がある貴族でもなく、皇家にゆかりがある家柄でもない、地方の小国の姫が皇子に輿入れしてきたのだ。妬みや羨望の対象になっていることくらいは想像できた。カガリとアスランが都へ来てから数か月があっというまに過ぎていた。
一度、カガリが行きたいと言いだすと、意外なことにウズミは何ひとつ反対はせず、それから時を置かずに二人は由良を出る運びとなった。普通なら半年はかかる他国との婚礼準備がひと月もかからず整ったため、ハイネの登場からカガリの出立までに退屈を味わうことすらなかった。
あらかじめ用意されていたような円滑さでことは進み、花嫁はおそらく感慨や感傷、そして疑問を感じる間もなく送りだされたのだろう。多少の障害は覚悟していたハイネは、とんとん拍子に進んだ仕事に肩透かしをくらう格好となった。もちろん彼はそれを幸運だったと喜んだのだが、しかし、それと同時にあまりの都合のよさに、引っ掛かる疑問を感じたのも事実だった。ウズミには何か謀略があるのではないかと。
「ふせっているなんて噂が近衛に伝わるくらいだったら、かなりひどいのか……」
アスランは地面を見つめてつぶやいた。少年は考え込むときの顔がなんとも様になっている。感情も表情も豊かなカガリと、彼とが同じ年頃にはハイネの目からも見えなかった。
「アスラン、おまえさ、愛しのカガリ姫が誰かのものになってしまっても平気なのか?」
ハイネはぽつりとたずねた。すると、アスランは思考を中断させてゆっくりと顔を上げた。
「カガリの病のことを話に来たんじゃなかったんですか」
「いや、それはそうなんだが、何となく聞きたくなってな……」
どうなんだ、とハイネがうながすと、アスランは睨むように見ていたハイネから視線を外した。しばらく考えてから、アスランは言った。
「……カガリにとって宮中ほど安全な場所はないだろうから」
アスランの視線が向いたのが御所の方角だったことにハイネはすぐに気がついた。この都でもっとも巨大な建造物から南西、アスランとハイネが立っているのは、御所に程近い近衛兵が控えいる館だった。兵の訓練のために設けられた広い庭はあるが、いたって簡素な館だ。そこが、いま現在のアスランの居場所だった。
「由良は小さな国だ。平穏でいられるのが今だけなのは俺から見てもわかることです」
「だからウズミ殿は反対しなかったというのか? 大王と争わずにいるために繋がりを持とうと……?」
言ってはみたが、ハイネはその考えにどうにも合点がいかなかった。多く言葉を交わしたわけではなかったが、ウズミというあの小さな国の長が、娘を交換条件に平穏を選ぶような人物には思えなかったから。だから引っ掛かるのだ。
「俺には詳しいことはわかりませんよ。俺からウズミ様の考えを引き出そうとしても無駄ですから」
「おまえ、やっぱりわかってたのか」
近衛に直接関係があるわけではない、皇子の側近であるハイネが頻繁にアスランのもとを訪ねるのは、当然だが、彼をからかうためだけではなかった。しかし、ハイネは悪びれる様子もなく笑った。
「まあ、ウズミ殿のことがなくても俺はちょくちょく来ていたと思うけどな。おまえが寂しくないようにな」
ハイネは無愛想な少年をこづいた。
「それで?おまえの答えはどうなんだ?」
「だから、さっき言ったとおりですよ」
絡んでくるハイネをよけて、アスランはきっぱりと言った。
「俺はカガリが生きていればそれでいい」「いま、病にふせっていてもか?」
ハイネはふいに真面目な声で言った。
「カガリ姫の病は間違いなく心からのものだぞ。あの姫があんな窮屈な宮で過ごせるわけがないのはおまえの方がよくわかってるんじゃないか」
言われるまでもなくわかっていることなのだろう。なにも言い返さずにアスランはうつむいていた。
「大事なものを他人に預けてるなんてよくできるな。俺だったらさっさと奪い返すけどな」
「俺はハイネさんこそしないと思いますよ」
確信のある口調だ。まだ子供の年頃の相手だったが、言い当てられている気がして、ハイネは言い返せなかった。彼が口をつぐむと、寡黙なこの少年との会話は間違いなく終わってしまうので、ハイネはアスランに質問で返した。
「なあ、じゃあカガリ姫を連れ帰そうとは思わないのか」
「ハイネさん。もう少し上手く探った方がいいですよ。俺が正直に答えると思いますか」
アスランは鋭く聡い。それは、ここではハイネが一番よく知っていることだった。カガリを種にからかったりはしても、ハイネにこの少年を子供だとあなどる気持ちは一切なかった。じつは近衛に入ってからのアスランの教育にあたっているのが、由良の山でアスランが倒した男の一人なのだが。彼からの報告も受けているハイネはその報告内容に、驚きながらもうなずくしかなかった。近衛にも、すでに誰ひとり、アスランに敵うものはいないというのだ。誰もが相手をするのを嫌がり、飛び抜けて年若い新入りを遠巻きにしているのだという。
「いや、探りたいわけじゃなくて、正直に聞こうと思ったんだよ。俺も正直に話すから」
ハイネは歯をこぼして笑った。こちらが力を抜かなくては、相手も警戒を続けるだろう。ハイネはこの年不相応に頑なな少年と打ち解けてみたくなっていた。
「純粋な興味として聞きたいんだが、アスラン。おまえはどうしてカガリ姫についてきたんだ?」
「カガリがついてこいと言ったからですよ。他に理由はない」
アスランは手の中の木刀を滑らせてもてあそんだ。
「それに俺が都に来るように提案したのはそちらですよ。こちらじゃない。わざわざ面倒を招いたのではないですか」
「そうか……じゃあひとつ教えてやるよ」
ひらりと、ハイネは何気ない動作でアスランの手から木刀を奪った。
「俺が都に連れ帰るように命を賜ったのはカガリ姫だけじゃない。姫とおまえの二人揃ってなんだよ、アスラン」
面白そうに剣を操り、切っ先をアスランの喉にあてる。しかし、ハイネの告げた事実は彼が期待したほどにアスランを驚かしはしなかった。ただ、少年は深い色の瞳を燃やしてハイネを見上げた。
「なんだ、それにも感づいていたのか?」
ハイネは明らかに残念そうに木刀を下げた。
「やっぱり不自然だったか。いろいろ考えたんだがな。おまえも目的だということを悟られないように、というのが皇子の命だったんだが……」
「皇子の……」
アスランは眉をひそめて繰り返しつぶやいた。
「姫のことはまあわからないでもなかったが、皇子がどうしておまえを都へ呼んだのか、俺もわからなかったんだよな。でも、おまえの顔を見て納得したよ」
ハイネは含みのある微笑を浮かべた。
「顔……?」
アスランは不可解そうな顔をハイネに向けた。めいっぱいに笑った顔より仏頂面の方が似合う子供も珍しいのだろうが。アスランの笑顔はちょっと想像がつかないハイネだった。悩ましげな眉の下には、闇色の長いまつげに縁どられた緑色の瞳がある。細い首や手足と、繊細なつくりの少年からは大人しそうな印象を受けるのに、彼は見た目にそぐわず頑固で、とても大人しくこちらの言うことなど聞いてもくれそうにない。もっとも、それもカガリの前では違うのかもしれないが。ハイネには知りようのないことだった。
「顔で納得したといえば姫もなんだけどな」
理解できていないアスランを放っておいて、ハイネは話した。
「皇子にいきなり由良なんて田舎の里に行けって言われたときは何の聞き間違いかと思ったもんな。由良は優秀な武人の多い国だ。はっきり言うと人質という意味合いも確かにあるが、正室に迎えるなんて馬鹿げてる。皇子の気まぐれはいつものことだが、さすがにあの時はどうかしてると思ったな」
ハイネの、日継ぎの皇子へのあまりに明け透けな物言いにアスランは閉口した。
「噂が都に届いているわけでもない、名もない姫をどうしてかと……。カガリ姫を見てなるほどとは思ったが、皇子はどこで姫の美貌を聞きつけたんだろうな」
ハイネの主は、たびたび気まぐれを起こしては周囲を困らせるという迷惑な特技をもっていた。従者に難題を与えてみては、頭を抱えているのを眺めて楽しんでいるのだ。年の頃はアスランと同じではあったが、その内面はまだアスランの方が素直かも知れなかった。
「ん? 何か聞きたそうだな。何が聞きたい?」
ハイネは気さくにうながした。主と違ってこの少年にはまだからかいがいがある。
「いいです。聞いて答えが返ってくるようなことならハイネさんは黙ってても喋りますから」
「いいぞ、心配になったんならカガリ姫を奪還しても。面白そうだから俺は応援してやるぜ」
ハイネは笑ったが、アスランはそれを無表情に見返しただけだった。
「カガリが決めて、ウズミ様が許したことに逆行する権利は俺にはない。ハイネさんが面白がるようなことをしてみたところで結果は見えていますよ」
「やっぱりかわいくない子供だな、おまえは。夢がない」
ハイネは息を吐いて腕を組んだ。
「言っておくが宮の中が安全だと思ったら大間違いだぞ。権力と保身のために暗殺も日常的に起きる場所なんだからな」
そのことは想像になかったのだろう、ハイネの次の言葉でアスランは初めてはっきりと顔色を変えた。
「女官達の言う呪詛は、誰かの盛った毒だって意味でもあるんだぜ」
◇
小さな池の水面が光を跳ね返してきらきらと無数の輝きを放っている。午後の太陽は夏に向けて日に日に明るさを増していた。いつも同じ縁側、同じひさしの下で、同じ庭を眺めるカガリには季節の動きが誰より敏感に感じられていた。
(あの池を渡って、その先の木を伝って、それから塀を越えれば……)
目の前にただ広く横たわる庭を眺めてカガリはそこを横切り駆ける自分を想像していた。たっぷりと重たい絹の衣を脱ぎ捨て、カガリの好きだった朱色の衣のように気持ちのいいものだけ身に纏って。
(でも……、アスランはどこにいるんだろうか)
ひざを抱え込んでカガリは息を吐いた。都へ来てしまってから数カ月。カガリの日課といえば庭を眺めること以外になかった。空想と、時間のつぶし方ばかりが上手くなっていた。
(こんなことをしにきたんじゃないのに)
思い通りにことは運ばないもので、都へ来て早々に予定外の状況に陥り、カガリは身動きがとれずにいた。アスランも共に上洛するということは、てっきり由良でしていたように彼と同じ部屋で寝起きし、一緒に暮らせるものだとばかり思っていたのだが。それを道中でハイネに言うと、カガリは大笑いを返されてしまった。カガリは宮中に住むのだからとてもじゃないが、そればかりは叶えられないと。それを聞いてカガリは愕然とした。アスランと離れて過ごす毎日など今や考えられないことだった。それならアスランはどこに暮らすのか、とたずねたカガリに、ハイネは「私が責任を持って見守りますよ」としか答えなかった。答えてくれなかったのだ。だからこの都の一体どこにアスランがいるのかを、カガリは知らなかった。
(アスランは大丈夫だろうか……弱虫だからな、いじめられたりしてるんじゃないだろうか)
アスランがどこで生活しているにしろ、ひとりではないはずなのだ。どこかの新しい輪の中に入って、彼が簡単に打ち解けられるとは思えなかった。
(都がこんなところだなんて思わなかったな)
都にたどりついて初めに目にした、見上げるほどの門だけでも十分に驚かされたというのに、それをくぐってからの景色にカガリはめまいがした。建物と人の波が延々と途切れることなく続き、果てがないのではないかと思った頃に行き着いたのが、いまカガリの住まう御殿だった。都は、カガリの想像を遥かに越えた世界だった。
(アスランのお父様とお母様を探さなくちゃいけないのに)
この世界の中からどうして探したらいいのか。都の広さを思い知らされたいまは途方もないことに思えた。さらに今のカガリでは探しに出掛けることが、まずできないのだ。宮の中を歩き回ることすらも制限されているからだ。都に来て三日で我慢の限界を迎えたカガリはアスランを探しに行こうと、侍女が部屋を下がった隙に、脱出を試みたことがある。もちろん数十歩も行かないうちに捕まってしまったのだが。それで、都の姫は御所内でもひとりでは歩いたりしないものなのだと、きつく諌められたのだった。それが頭にきたカガリはあれこれと策を練り、そのひとつを今日こそ実行しようとしていた。
「カガリ様、また悪巧みですか?」
欄干に頬杖をついて庭を凝視していたカガリの背中にやわらかい声がかかった。誰だかわかっていたので、カガリは振り向かずに答えた。
「べつに悪いことじゃないぞ。だって誰かに迷惑かけることじゃないだろう」
「いいえ、わたくしが困ります。カガリ様にいなくなってしまわれたら、わたくしきっと生きてはいけませんわ」
「おおげさだなぁ、ラクスは」
「あら、本当のことですよ。それにわたくしだけでなくて、きっとお兄様も生きてはいけなくなってしまいますわ」
「それは嘘だな」
カガリは断言して振り向いた。縁側から二歩ほど間を置いた場所に桃色の長い髪をふんわりと着物に垂らした少女が座していた。声と同じやわらかさで微笑み、少女は言った。
「どうして嘘だと思われるのです?」
「だって、皇子のやつ、そうして私が大事だ大事だと文では言っておきながら、いまだに顔も見せないじゃないか。私はそんなやつを信用しない」
「お兄様は真面目な方ですから、正式に婚礼するまで会わない方がいいとお考えなんですよ」
「それだけとは思えないけどな」
この頃、皇子への不信感は募るばかりだったラクスというこの少女の兄。次の大王となる、その人に呼ばれてカガリは都へ来たのだ。それなのに呼び出した本人が顔も見せないというのはあまりに失礼ではないだろうか。
「私に会いたくないってんならもういいけどさ、私のこの状態はどうにかなんないのか?」
「やはりアスランさんに会いたいのですか?」
「会いたいっていうか、心配なんだよ。あいつ私がいないとだめなんだから」
こうしているうちにも、アスランはどこかでひとりきりでいるかもしれないのだ。ところが、ラクスはまるでカガリの心配を否定するようにはっきりと言った。
「アスランさんなら大丈夫ですわよ」
根のない気休めなどではなく、彼女の口調は事実を知っている人間のものだった。
「あの方はカガリ様が思っていらっしゃるよりずっとお強いですし」
驚いて振り返ったカガリにラクスは満面の笑みを返した。
「片割れがいなくてだめになってしまうのは、ひょっとしたらカガリ様の方ではないのですか? 依存って言葉、カガリ様はご存知ですか?」
「いぞん……?」
カガリは眉間にしわを寄せた。ラクスもまた大人のようなことをよく言うのだ。歳はカガリのひとつ下の十一だというのに彼女はカガリよりずっと落ち着いていた。
「よくわからないけど、あいつは強くなんかないぞ」
言ってから、カガリの頭に黒服の男達をたやすく倒していくアスランの姿が浮かんだ。ラクスがいうのはそのことだろうか。だとしても、カガリの中のアスランは今も強くなどない、優しすぎて弱いくらいの線の細い少年だった。ためらいなく頚椎に蹴りを落とした少年と、いつでもカガリの遊びに付き合わされていた弟のようなアスランとがカガリの中で結びついていない。
「ラクス、もしかしてアスランの居所を知ってるのか?」
身を乗り出したカガリに、ラクスは笑顔だけを返した。
「やっぱり知ってるのか? なあ、ラクス、あいつどこにいるんだ」
「教えたらカガリ様はきっと行こうとなさいますよね」
「当たり前だろ」
「でも、カガリ様がひとりで行けるような場所ではないですのよ……まず宮から外へ出ることだって」
「行こうと思えば行けないところなんかない」
それはカガリの信条にしていることだった。諦めるという選択肢はカガリの中にはない。ラクスにはできなくても、カガリには里の野山で駆け回った体がある。都のお姫様であるラクスは走ったことすらないらしいのだ。走るということをしないのが、都の貴人らしかった。
「ここじゃあぜんぜん披露できてないけど、私は里の子のなかで一番木登りが上手いんだぞ。あんな塀だって綱ひとつで登ってみせるのに」
宮に住むようになったその日に、まず、カガリは走ることを厳禁されていた。カガリの居室に案内するというので、長い長い廊下を侍女と共に渡っていたときだった。のろのろと進む先頭の歩みの遅さが堪えられなくて、カガリは着物の裾をひるがえして廊下の端まで軽く駆けたのだった。都の大人はばかに足が遅いな、どうだ私は速いだろうと、見せつけるつもりもあった。得意げな顔で振り返った次の瞬間、侍女達がよろめくような悲鳴を上げさえしなければ完璧だったのだが。
「わたくし、カガリ様がうらやましいですわ」
ラクスは淡い色の瞳をきらきらさせて、しみじみと言った。
「カガリ様のようになってみたかった。あなたの強さと自由がわたくしにはとてもまぶしい……」
「だったらラクスも一緒に宮を抜け出すか?」
カガリは手をとって誘ったが、ラクスは首を横に振った。
「わたくしにはできませんわ。それどころかきっとカガリ様が宮から逃げてしまうことをお兄様に報告してしまうでしょうね」
その一瞬でこわばったカガリの表情をほぐすように、ラクスはカガリの手に白い指を重ねた。
「でもわたくし、言いませんわ。決して。言いませんから、そのかわりに約束してくださいませんか?アスランさんにお会いになったら宮へ戻って来てくださると」
そうして、カガリにうなずかせてから、ラクスが言ったアスランの居所に、カガリは憤慨したのだった。
夜更けに、細い月が東の空にかかった。都の夜が深まった頃だ。人が溢れる大路も、昼間の喧騒も、行き交う色彩の嵐も、どこへ行ったのか。闇に沈み、かすかな月光に浮かび上がった都は、昼間とはまるで違う街のようだった。そうして街と御殿が寝静まり、遅い月が昇るのを待って、カガリは寝所からごそごそと動きだした。
いつものカガリなら月を拝む前に起きていられなくなり、一度寝てしまえば、誰が何度揺り起こそうとしても頑固に眠り続けるのだが。昼間からの興奮が続いているのか、眠気は一向にやってきていなかった。
(近衛なんて……)
アスランの居場所を聞いてから、カガリの怒りは心頭に達したまま冷めずにいた。実際、手違いではあったものの、近衛といえば自分とアスランを襲った連中という印象しかカガリにはなかった。その近衛にアスランが加わっているのだという。それをカガリが怒らずにいるだろうか。
「ハイネのやつアスランのことは任せろなんて言ってたくせに。全然だめじゃないか」
都行きが決定した後になって、ハイネの部下の黒服の男たちも近衛の一員なのだと知ったカガリは、アスランが共に上京するのはよいが、彼を近衛にするのは断固反対だという意思をハイネに伝えたておいたのだが。「はいはい」と彼が笑顔で応えたのは了承の意味ではなくて受け流していただけだったのだ。
侍女に着せられた夜着を脱ぎ捨て、ラクスの用意してくれた着物に着替えながらカガリは思い出してまた腹を立てていた。カガリが袖を通したのは、上質な布で作られてはいるけれども、いたって簡素な薄墨色の衣だった。貴族の少年の平常着だろうか。身に馴染む、とても動きやすい着物だった。
すばやく支度を調えると、念入りに周りに人がいないことを確かめてから、カガリはそっと部屋を出た。板張りの縁側を、慎重に歩く。由良の屋敷とは床板の大きさからして倍くらいは違う、巨大な皇家の宮だ。小さなカガリが歩いたところで軋みもしなかったが、カガリは持てる注意力のすべてを足先に集中させて慎重に、けれども少しだけ早足で歩いた。失敗はできないのだ。一度失敗すれば、きっと次からは夜中であっても、付き添いという名目の見張りがカガリにつくことになるだろう、というのがラクスの見解だったからだ。
風もない、月明かりの他には何もない、静かすぎる夜の宮では、カガリが動くたびに擦れる衣の音すら耳についた。肌がぴりぴりするくらいに耳を澄ませて、カガリは渡り廊下にたどりついた。縁側より一段低くなっているそこから地面に飛び降り、庭を横断して、宮を抜け出すのだ。これから行く先をにらみ、深呼吸をして気合いを入れてからカガリは手摺りに手をかけた。
そこで、少しでも前触れがあればよかったのだが。何の気配も感じていなかった背後から誰かに肩を叩かれて、カガリは胸が止まりそうになった。気を失ってしまいそうなほど驚いて、悲鳴と息を一気に肺へ吸い込むと、カガリはばねのように振り向いた。
カガリの後ろに立っていたのは、大人ではなく、紗の布を頭から被った少女だった。
「ラクス……?」
カガリが宮の中でこの年頃の少女で知っているのは彼女だけなので、とっさに名前を口にしてしまったのだが。振り向いた瞬間に彼女でないことは判別してしまった。薄布で、少女は顔も髪もほとんど隠されており、目深に被った布のせいで、わかることといえば顔の輪郭くらい。
けれども、カガリには瞬時に少女の正体を見抜いたのだった。あまりに目に馴染んだ形だったからだ。
「あ……アスラン?」
少女の装いをした目の前の人物が彼だとカガリにはすでに確信があったが、あまりに信じられなくて、カガリは疑問付のついた呼び掛けをした。
「カガリ、こんなところで何してるんだ」
アスランは紗の布を取ってまばたいた。彼も驚いていたが、カガリの驚きはそれ以上だった。アスランが唐突に現れたことにはもちろんだったが、何より……
「おまえ、その格好どうしたんだよ」
カガリが呆然と聞き返すと、アスランは急に疲れたように肩を落とした。
「他にも言うことはあるだろう。一番初めにそれを聞かないでくれ」
しかめっつらに変わったアスランが髪をくしゃりとかき上げた。
「いや、だって……」
カガリは上から下までまじまじと何度もアスランを眺めた。アスランが身に纏っているのは侍女たちが着ているような着物だった。ゆったりとした上衣はアスランによく似合う深い緑だった。一見すると、まるきり宮仕えの娘だ。女物にしては落ち着いた色合いのおかげだろうか、少女の装いはアスランに違和感なく馴染んでいた。
「カガリこそ俺の質問を無視しているだろ。こんな時間にそんな格好で一体何してるんだ?お姫様が一人でふらふらしているような時間じゃないだろう」
「それはアスランだって……!」
「俺はカガリを探しに来ただけだ」
アスランはカガリに視線を戻した。じっとカガリを見つめたが、やがて小さくため息をついた。
「でも、そんなおてんばができるなら安心だったかな」
「なんだよ。私はちゃんとずっと大人しくしてたんだぞ。今日は特別だ。ていうか、これはおまえのせいだぞ。私、アスランのところに行ってやろうとしてたんだからな」
カガリがアスランの鼻先を指さすとアスランは緑の瞳を丸くした。
「俺のところ……?」
「おまえをひとりにしてるのが心配だったんだよ。寂しがったりいじめられたりで泣いてそうで」
カガリは胸を反らしたが、そんな幼なじみを見て、アスランは表情を緩ませた。
「つまり、カガリが寂しかったんだな」
「は? いつ私がそんなこと言ったんだ?」
カガリは半分怒りぎみに聞き返した。からかうようなアスランの態度がなんだか悔しかったからだ。しかし、アスランはカガリの不機嫌には構わずに、ふっと微笑むと彼女ヘ手を伸ばした。
「ちゃんと元気にしてるんだな。噂が本当じゃなくてよかった」
アスランの指がカガリの金髪を滑って頬に落ちた。あまりに自然な動作に、カガリは反応できず、ただ目を見開いた。やわらかな月の光が陰影をつくるアスランの笑顔はどこか別人のようだった。
「う、噂って……?」
カガリはとっさに右足を退いた。それでアスランの指は頬を離れたが、肌にはまだ彼の指の感触が残っていた。
「やっぱり知らないのか」
アスランはカガリの様子の変化に気付いていないようだった。
「カガリが病に伏せっているっていう噂が宮の外にまで聞こえているんだけどな。嘘なのだとしたら、一体誰が流したのか……」
「え……」
カガリはぱっと顔を上げた。
「それ、宮の外にまで伝わってるのか?」
「宮の外なんてもんじゃないぞ。市井の人間の口にも上っているんだからな。カガリ……ひょっとして噂知ってるのか?」「いや……」
アスランが詰め寄りそうだったので、カガリはまた少し身を退いた。
「あの……、知っているというか、その噂流したの私なんだけど……」
ぼそぼそと告げられたカガリのせりふを聞いたアスランは、小さな子供のような顔でカガリを見返した。
「意味がわからないんだが……つまり、本当にカガリにどこか悪いところがあるということか?」
「いや、あの、ごめん……」
「ごめんじゃなくて」
詰問調子になってきたアスランにカガリは小さくなっていった。いつもは決してアスランに優位を譲らないカガリも、自分に決定的な非があるときだけは頭を上げられなくなる。迷いを振り切るように強くかぶりを振って、カガリは話した。
「えっとな、……噂が出まかせなのは当たりなんだよ。私はこのとおり元気なんだし」
「そうなのか……」
アスランは目に見えて安堵していたが、その後で思い出したように厳しい顔つきになった。
「でも、君が謝るってことは何か後ろめたいことがあるんだろう? 出まかせを広めてどうするつもりだったんだ」
カガリはのどを詰まらせた。ちょっとした悪戯心がいつだってのちに大変な事態を招いてしまうのを何度も身をもって経験しているのに、懲りずに何度も繰り返してしまう自分を恨んだ。これからは考えなしに行動するのは控えようと本気で決めた。
「けど……べつに悪いことをしようと思ったんじゃないぞ」
「カガリは悪いと思っていなかったら謝らないだろう?」
アスランには言い訳も通用しないから困る。渋りながらも、カガリは事のいきさつと動機を話した。皇子にどうしても面会したかったのだ。そのための方策をいろいろと試した末のことだった。
后が病に伏せったとあれば、皇子はなんらかの動きをするだろうと、カガリはそう考えたのだ。皇子自身が会いに来るなり、どうかしてカガリの言葉のひとつでも皇子へ通るのではないかと。ハイネの主である皇子にアスランの所在や様子をたずねたかったのだ。そんなことを手段にしてでも。そして、その噂を流す計画を助けてくれたのもラクスだった。
だが、いくら待っても皇子は動きを見せず、その代わりに別のところで薬が効いてしまったようだった。
「そんなに心配しなくても、俺はちゃんとやってるよ」
アスランの声にはげんなりした調子があったが、言っているほど嫌そうには聞こえなかった。
「でも何かおかしなことになってるじゃないか」
カガリはアスランの女物の衣を引っ張った。カガリとしては軽い仕返しのつもりだったのだが、まずいことにアスランには冗談にならなかったようだった。
「これはカガリがいたずらに噂を流したりしたからだろう。好きでこんな格好をするわけがないじゃないか。……そのうえハイネには借りを作ってしまったし」
声を荒げるわけでも、憤りを顔に出すわけでもなかったが、アスランはめずらしく怒っていた。カガリはなによりそれに驚いた。アスランが怒ることなど年に一度あるかないかくらいなのだ。
以前に怒らせてしまったのはたしか、昨年の春のことだ。アスランが何度も止めるのを無視したあげく、彼の目を盗んで倉の屋根に登り、つばめの巣をのぞいた時だ。結局、屋根から落ちて足をくじいたカガリにアスランは低い声で、二度としないでくれというようなことを言ったうえに、しばらくカガリの反省に耳を貸さなかった。あの時は、けっこう容赦がなかった。
「アスラン、おまえ怒ってるのか?」
カガリが大きな瞳をぱちくりすると、アスランは深いため息をついた。
「当たり前だろう」
一時だけ思案して、アスランは言った。
「カガリももう少し大人にならないと……由良にいた頃のままでいてはいけないのは君にだってわかるだろう? 君はそのうち必ず皇后になる人間になったんだから」
「わかってるさ。でもな、都にはおまえのお父様とお母様を捜すためにきたんだぞ。それができなくちゃ帰ることもできないじゃないか」
「帰る……?」
不意打ちで怒りをそがれて、アスランは小声でつぶやき返した。
「だってそうだろ? 二人だけじゃ二人だけじゃ来られないと思っていた都に、こうして来られたんじゃないか。アスランのお父様とお母様を探さなくて何をするんだ。そうして見つけて、そしたら一緒に由良に帰るんだろ」
「カガリ……それは」
「それに私がそうしたいと言ったら、お父様もそうしなさいって言ってくださったんだ。アスランと一緒に由良に帰ってきなさいって」
カガリの胸には暖かで緑の鮮やかな、里の景色がいっぱいに広がっていた。話すにつれ、カガリは宮にきてから久しく忘れていたわくわくする気持ちと笑顔を取り戻していったが、それを聞くアスランの表情はだんだんと冷静になっていた。
「カガリ……、ウズミ様がいつそんなことを言われたんだ?」
「行くって決めた夜だ。お父様がアスランと一緒に必ず帰ってきなさいって。お父様と私、約束したんだ」
「約束……」
由良で言う約束に、口先だけのものはない。約束と名のつくすべてが果たすべき固い誓いだった。たとえ死がそれを阻んだとしてもだ。それはカガリの血にも一族の掟として染み込んでいることだった。
しかし、幼いカガリが父とした約束は果たせるはずのないものだった。今もうすでに、カガリの細い両手足に絡んでいる鎖はこの国でもっとも硬く重いものなのだ。カガリに不運があるとしたら、都というものをほとんど知ることなく育つ田舎に生まれてしまったことと、皇家というもの、婚姻というものをよく理解できていない子供であったということだった。
「ウズミ様の企み……なのか」
アスランは口の中でつぶやいた。
「ん、なんだ?」
「いや、なんでもないよ」
顔をのぞいてきたカガリへアスランは微笑んで見せた。それはもういつもの彼のようだった。
「アスラン、もう怒ってないのか?」
カガリは首を傾げてそっとたずねた。
「ああ」
なにがおかしかったのか、アスランは声をもらして笑った。
「でも、もうおかしな噂を流そうなんてしないでくれよ。実態のわからない外部はうのみにするしかないんだからな。気が気じゃないよ」
「そんなに心配したのか?」
不謹慎だが、いたずらが成功したようなおかしさがあって、カガリは小さな肩を揺すった。
「心配しなくても私は絶対におまえをひとりにはしないから。私はアスランのお姉さんだし、親友だからな」
腕を組み、カガリは得意げに言った。アスランはそれを見てただ笑みを浮かべていた。淡い月光が、御殿の広い廊下に、小さな二人の影を落とす。弓張り月は、やがて高く昇り、変わらず都を照らしていた。控えめな月のおかげで、二人の頭上は降るような星空だった。
「なあ、アスラン、約束しよう」
唐突に、カガリはアスランの両手をとった。
「約束……? 何を」
「うん。いつか一緒に由良に帰るって」
やわらかな温もりの手で、少しひんやりとするアスランの手を強く握った。
「それまでは私は絶対に元気でいるから。真面目にお姫様もやる。だから、アスランもちゃんと元気でいる。そういう約束だ」
カガリは嬉しそうに頬を上気させていた。はしゃぐカガリはどこまでも無邪気だった。
「な、アスラン、約束しよう」
「うん……」
カガリの弾む声と笑顔に、アスランの表情が一瞬ゆがんだようだった。まるで泣きだす前のように。
「……約束するよ。必ずカガリを連れて由良に帰る」
アスランはカガリの手をやさしく握り返した。蒼く、さやかな月明かりの中で二人は不可能な約束をした。カガリの無知と幼さが結んだ約束だった。
それが叶わぬものだということも、ウズミがカガリにさせた約束の意味も、その父の企みも、のちにカガリはすべてを理解するのだが。そのときには、なにもかもが遅かった。アスランがこの時、どれだけの嘘をカガリについていたのかも。
知っていたなら止められただろうか。誰より無垢な彼を。
◇
「なんだか姫さん可愛くなったじゃないか」
感心したような声がアスランの背後からした。正確には背後の足元だった。
「立ち聞きなんて趣味もあったんですね」
アスランはカガリの消えた廊下を見つめたまま言った。
「俺のは趣味と実用を兼ねてるんだよ」
アスランの後ろで、渡り廊下の欄干につかまる手が現れ、次いでハイネが反動をつけてひらりと登ってきた。
「ところでなんなんですか? その格好は。奥の宮には女性だけしか入れないんじゃなかったんですか」
「俺が女装したって間違いなくつまみ出されるだろう?」
ハイネはけろりと言った。じっとりとハイネをにらんで、アスランはたずねた。
「……どこから侵入したんですか。この着物を着なくてすむ方法があるのなら、そちらを先に提案してほしかったな」
「この道はおまえには教えられないなぁ。皇家の最大の秘密のひとつでもあるし……」
言いかけて、ハイネはふと真顔になった。
「それに、教えたらおまえはカガリ姫をさらってしまうだろう?」
いつもの冗談ではないその問いかけを受けて、アスランはすぐには答えなかったが、かわりに、ゆっくりとまつげを伏せた。そしてハイネの前で初めて微かにだが口許に笑みを浮かべた。
「しないですよ。そんなこと」
視線を宮の御殿に移してアスランは言葉を継いだ。
「俺は、幸せに生きるカガリがいるなら……それでいい」
「それ嘘なんだろう」
ハイネの問いに、今度はアスランは答えなかった。
◇ ◇