藍色秘抄

03





 声が聞こえた気がして、カガリは目を覚ました。
 春でも、冬でも、寝起きの悪さには侍女達の定評があるカガリにはめずらしく、目を開けた瞬間からはっきりと覚醒していた。
 まだ、鳥の鳴き声もまばらな早朝、東の空がやっと白みはじめた時刻だった。
 ひよどりの声を遠くに聞きながら、カガリはつぶやいた。
「……アスラン?」
 寝起きの喉のかすれた音は広い部屋に響かず溶けた。
 それは久しく発音していない名前だった。
 カガリは体を起こして薄暗い部屋を見回した。戸の透き間から淡い朝陽が漏れ、床板に光の線を引いていた。
「寒い……」
 戸を開いて縁側に出たカガリを一瞬にして冷気が包んだ。巡ってきた季節は冬の終わり、春の始まりだった。
 欄干の手摺りも冷えきっている。
「アスラン」
 明るくなりはじめた空を背にして、カガリはもう一度名前を口にした。声にしたのは久しぶりのことでも、彼の名前はカガリの身に溶け込み馴染んでおり、呼ぶことに違和感はなかった。
 いつでもぼんやり考えてしまう。今、何をしているのだろうかとか、由良での思い出と幼い二人を、アスランを考えない日はなかった。
(そうか……私、あの時の夢を見たんだ)
 声が聞こえた気がしたのは、夢でのことだったのか。
 さっきまでいた夢の中でカガリは十二の子供になっていた。淡い青一色の情景は幻想的で、うつつ離れした美しさだったのに、カガリはそれが夢だとは気付かなかった。あの月夜はそのくらい美しかった。
 微笑むアスランも、少し高めの彼の声も、握った手のひらの感触も、カガリは今でも思い出せた。
 最後に見た彼の姿なのだ。何度も何度も思い返した、結晶だった。曇らぬように、絶えず磨いてきたのだ。
(あれから四年になるのか)
 あの時の気温を肌で思い返せるくらいに記憶は鮮明なのに、それは果てしなく遠い思い出だった。
 あの頃、胸の位置にあった欄干にカガリは今、腰掛けている。この四年で知ったことは多く、見えなかったたくさんのものが見えるようになっていた。
(もう二度と由良には帰れないことが理解できたときは七日は泣いたな……)
 カガリにも諦観に似た覚悟はできていた。
 今でも淡い希望はあり、たまにふとアスランを連れて都を逃げ出すことを空想するが、それが不可能なことも同時に理解していた。二人が逃げればそれを口実に由良は攻め入られるだろうし、カガリが反抗すればアスランに累が及ぶ。
堂々巡りを繰り返して、カガリが出した答えは、諦めることだった。
 十六になる春に正式に宮に入ることが決められていたので、それまでの単調な日々をカガリは大人しく過ごした。后となるべく学ばされること、覚えさせられることはたくさんあったので、それらをこなしているうちに気がつけば十六の春がきていた。
(変だな……夢なんてずっと見なかったのに)
 カガリは手のひらをじっと見つめた。
 夢で見た子供の手とは違う、長く細い指だった。思えば成長したものだ。十二の頃に考えていたことがどれだけ幼稚であったのか、わかる今では笑ってしまうくらい。
(アスランはどこまでわかっていたんだろうか)
 カガリの叶わない約束も、子供じみた夢も、四年前のアスランはすべて黙って聞いていた。
 由良に、ウズミに拾われる以前のアスランがどんな経験をしてきたのかは今のカガリにも想像はつかなかったが。アスランは、いずれカガリが諦めるであろうことまでわかっていたのだろう。
(お父様が皇子の勅命を断れるはずもなかったし、私が逃げられるはずもない、誰かが止められたことじゃなかったんだ……)
 どういう理由で自分が后に選ばれたのかはわからないが、ここへ来てしまった以上、カガリにできるのは由良を守ることだった。逆を言えば后になれば、その力で由良を守れるのだ。
 背伸びをして、男の子の真似をして、身につけた武術より遥かに確かで強大な力だ。
(皇子がどんなやつかは知らないけど、私は私のために后になるんだ)
 四年たった今も、顔すら見せぬ皇子にカガリは関心はなかった。その妹であるラクスが言うには、彼に会った瞬間にカガリは声をなくすくらいに驚くはずらしいのだが。
(でも……私は)
 だんだんと寒さが身に染みてきて、カガリは手摺りにすがると自分の体を抱いて白い息を吐いた。
(宮に入る前に、もう一度だけでいいから、アスランに会いたい)
 目を閉じると、自分より小さなアスランが見えた。さんざんわがままを言って困らせたはずなのに、思い出す顔は、いつもやさしい笑顔だった。
(どうしてかな……)
 どうして今朝はこんなにもいろいろ考えてしまうのだろうか。
 誰かに呼ばれたような不思議な目覚めといい、なにかがいつもと違っている。見上げた空は白く明るく、巨大な都も後宮も朝の静寂の中にあった。
 鳴くのは朝鳥ばかりで、しんと冷たく、清らかな朝なのに。カガリの胸には小石のような違和感があった。
「今朝は早起きでいらっしゃいますのね」
 カガリの背中でくすくすと笑う声が聞こえた。
「悪いかよ」
 カガリが振り向くとラクスもまだ夜着姿だった。
「いいえ。でも、どうしてでしょう……わたくしも今朝はなぜか早く目が覚めてしまって……」
「あ、悪い。起こしてしまったのか」
 皇女という身分にあるラクスだったが、彼女の希望によりラクスはカガリの隣室、本来ならばカガリ付きの侍女が控えるべき部屋で寝起きしているのだった。そのおかげでカガリは退屈せずにいられる。
「いえ、そうではないのです」
 ラクスは少しだけ顔を曇らて首を振った。
「ただ、どうしてか目が覚めてしまって……そう、なにかに起こされたような」
「え……」
 カガリの内でざわりと何かが騒いだ。
 心臓が大きく波打つ。胸の違和感が弾けて、もやのように広がってゆき、嵐の前のようなざわめきが耳の奥で聞こえた。理由も、原因もわからないのに、カガリが感じたのは抑えられない不安だった。
「なあ、ラクス。あいつ、もう帰ってくるんだよな?」
 カガリは不安に押されてたずねた。
 あいつというのは他の誰でもない、アスランのことだった。今ではもう、個人的な会話でもカガリはアスランを名前で呼べなくなっていた。ここでは二人は幼なじみなどではなく、皇子の后と近衛の一人という立場でしかない。本来なら接点のないはずの二人に関係があることが他に知れればそれを悪用しようという者がでてくるのは必至だ。
 隠しておくべきだというラクスの助言にカガリは納得して従っていた。華やかな外見をした宮廷の、その内の権力闘争は熾烈で陰湿だった。
「ええ、もうすぐのはずですよ。東方の戦に決着はついたと聞きますから。アスラン殿を先頭にお兄様の軍は帰ってきますわ。それをわたくし達が見られないのは残念ですけれども」
 ラクスの返事を聞きながら、カガリは遠く東の白く光る山と空を見た。
 今現在、アスランは都にはいない。数カ月前に東で造反を企てた国があり、それを鎮めに向かった皇子の軍を、彼は指揮しているのだ。実際にアスランの属している近衛というのは、皇家直属の、皇家のための精鋭の集まりだ。
 それは本来、軍とは無関係のはずなのだが、アスランの機知と判断力に目をつけたハイネが彼を担ぎだしたそうなのだ。素性もよくわからぬ少年が軍の指揮をとることに当然反対の声が押し寄せたが、それを無視する形で戦をさせてみれば、味方の犠牲をほとんど出さずに、わずか二日でアスランは敵に白旗を挙げさせたのだという。
「あいつは私の知らないところで知らないことをしてるんだな」
 カガリが思い浮かべられるのは幼いアスランでしかなくて、あの繊細な子供が軍を動かすなど、カガリには想像もできなかった。
「遠いな……」
 カガリはぽつりともらした。
「……カガリさん」
 ラクスは目を細め、義姉というよりは妹にするようにカガリの背中に触れた。
「きっと……あの方も、カガリさんと同じようにあなたを遠く思っていらっしゃるのでしょうね」
「連れてくるんじゃなかったかな……あいつを」
 じつは、カガリも諦めるに至るまでに何度もこりずに脱走を謀っているのだ。アスランに会いたかったのが第一ではあったが、彼への罪悪感もカガリを動かした要因だった。
 由良にいたほうがアスランにはよかったに違いないから。カガリのわがままで、こんなところまで連れて来てしまったのだ。
 ラクスと並んで庭を眺め、とりとめなく考えていたカガリの視界に、不自然な煙が見えたのはその後だった。
(あれ? 火事……?)
 煙が上がっているのは街ではなかった。御殿の内、方角は皇子の館のあるほうだった。
 ぼやか何がだろうか。風が音をたてるように、またカガリの胸がざわめいた。
「ラクス……あれは」
 位置的に二人のいる場所からは煙しか見えず、何が燃えているのかまではわからなかった。
 二人は視線を交わして合図にすると、廊下を下り、曲がり角から煙の先をのぞき込んだ。そして、二人はまばたきができなくなった。
 白く明るんだ空に昇る前に、朝陽が地上に落ちてきたかのようだった。
 どうして気付かなかったのか。煙の正体はぼやなどではなかった。館がまるまるひとつ赤い炎に包まれ燃え盛っていたのだ。
 カガリの予感は、よく当たる。それも悪いことのほうが多いのだ。だめかもしれない、と一度でも思ったものが上手くいった試しはなく。言いようのない不安を感じた日には必ず良くないことが起こった。
 今朝感じた不安は、嵐の前の重たい空のように胸の中を渦巻いており、カガリはきっとなにかあるのだろうと、軽く覚悟はしていたのだが。
(こんな……)
 これが予感の正体だというのだろうか。
 カガリとラクスは燃える館をしばらく呆然と眺めていた。
「お兄様……」
 先に言葉を発したのはラクスだった。彼女はおぼつかない足で廊下を横切ると、欄干に手をついた。
「お兄様……お兄様っ」
 焼けているのは、ラクスの兄、皇子の起居する館だった。ラクスがとっさに火事のほうへ向かおうとしているのに気がついて、カガリはようやく我に返った。
「ラクス、だめだ!」
 後ろから羽交い締めにする格好でカガリは少女を止めた。
「いやですっ、離してください……!」
 振りほどこうともがいたラクスをカガリは夢中で抱きしめた。
「待て、ラクス! 火の中に飛び込むつもりかっ」
 カガリが叫ぶとラクスははっと動きを止めて、やがて足元から崩れた。
「そんな……どうして、お兄様」
 炎を見上げて、ラクスは声をかすれさせた。皇子の館とカガリのいる後宮とは、実際には一町ほどの距離があり、それぞれが独立した建物である。上がる炎の熱も火の粉も届きはしないが。
 ラクスの髪を撫でてやりながら、カガリは逃げるべきかどうか思考を巡らせた。
 火事は、由良でもたびたび起きていた。その恐ろしさを、カガリは骨に染みるほど教え込まれていたのだ。由良では館と一緒に収穫期の穀物庫が焼け落ちた時などは、冬が越せなくなるのだから。
(風がほとんどないのは救いだったな。でも、ここ何日も雨が降っていないから、火はきっと伝わるところまで回る……)
 瞬時にいくつも可能性を考え、計画を立てる。それらがまとまった頃、カガリの耳に遠くのざわめきが届いてきた。
 カガリは目線を上げて炎の方を見た。視認はできなかったが、火事に惑う人々の騒ぎのようだ。
「まあ、殿下! こんなところにいらっしゃったのですか!」
 女性のかな切り声が二人を呼んだ。見ると、数人の侍女が廊下をこちらへ駆けてきていた。息を切らせて、彼女達は口々に言った。
「妃殿下に、皇女殿下、早くお逃げくださいませ!」
「近衛が間もなく参るはずですから、それと共に行ってください。逆賊がこちらへ来る前に」
「逆賊……?」
 カガリはゆっくりと目を見開いた。
 侍女の言葉を繰り返すと、しびれが広がるように体が動かなくなる。怖いくらいに暗い予感がした。
「謀反でございます、妃殿下」
 侍女の顔色は真っ青だった。
「先頃戻りました、皇子殿下の軍が謀反したのです。アスランと申す者が率いているらしいのですが。皇居の内で蜂起した軍が、皇子の館に火を放ったのです」
「うそ……」
 カガリは体の中が真っ白になっていくようだった。
 侍女はまだ話を続けていたが、「アスラン」という一言で、カガリの耳には何も入らなくなってしまった。謀反だなんて、しかも預けられた軍ごと反旗をひるがえすなんて、それをしているのは本当にアスランなのだろうか。カガリには少し困ったように笑う、十二歳の少年しか思い浮かばなかった。
(違う。きっと間違いだ。間違った情報が伝わってきてるんだ)
 上手く動かない頭に、カガリはそれだけ響かせた。よろけてしまいそうだった体に、ぐっと力を戻して必死に考えた。
 あのアスランが皇族に刃向かうなんて大それたことができるはずがない。まず、謀反を起こす意味がないではないか。
(そうだ、それに……)
 それに、アスランは約束したのだ。いつか一緒に由良へ帰ることを。
(それまで元気でいるって……)
 大王に逆らって由良が無事でいられるはずがない。
 もしも、月日が過ぎて、約束が果たされることがなかったとしても、それは反古にしたことにはならないけれど。謀反は皇族よりも、カガリに対する裏切りだ。
「おまえ達、そのアスランという者の話、誰から伝え聞いたのだ?」
「は……、皇子殿下付きの侍女にございます」
 目のあった侍女が答えた。
「その者が皇子の軍を率いていたということは、今回、皇子殿下は遠征には加わっておられなかったのか?」
「さようでございます。殿下は体調を崩されてご自分の館においででしたから……ですから……」
 侍女は言葉をつまらせた。震えを抑えきれなくなり、彼女はわっと泣き出した。
(……だったらこれは皇子の命を狙った大掛かりな暗殺だ。誰かが裏でこの事件を仕組んでるんだ、きっと)
 推理していくうちに、カガリは落ち着きを取り戻していった。
 いや、無理矢理にでも考えていたかったのかもしれない。でなければほとんど取り乱していただろうから。それもラクスの比ではないくらいに。
「お二人共、どうかどうかお逃げくださいませ。近衛が森のお宮までお連れいたしますから」
 急かす侍女にカガリはうなずいてみせた。
 その一方で計算を始める。森の宮というのは皇居の最奥。未開の森の中に作られた祭事のための建物だ。そこが非常時の避難場所としての機能も持っていることはカガリにも教えられていた。
(森の宮なら高い塀も堀もない。抜け出すのは楽にできる……)
 カガリの心に、忘れていた野心がむくむくと湧きはじめていた。
 この混乱を好機に変えるのだ。アスランが謀反したことになっている以上、放っておけば由良は必ず制裁を受けるだろう。その前にアスランに会い、彼の潔白を証明し、どこかにいるはずの真犯人を引きずり出さなくては。
 それができるのは、カガリただ一人だった。

 反乱は、波となって街や庶民を巻き込み、宮中だけにとどまらないのではないかと危ぶむ者は多かった。
 けれども、騒ぎが拡大することはなく、その日の正午には館の火事もおさまっていた。人づてに聞いた報告によると、皇子の館に火を放った反乱軍は、鎮圧にかかった大王の兵や近衛に応戦をしたのち兵を退くと、大胆にも中大路を抜けて都から撤退したというのだった。
 数百の軍が土けむりをあげて都の中心を駆け抜け、街は混乱に陥ったが、それも一時的なもので治まったという。一旦、森の宮に身を隠していた御所の人間も、夕暮れまでには少しずつ宮に戻っていったが。
 カガリやラクス達、皇族の人間は念のため、森の宮で一夜を過ごすことになった。カガリはこの機を逃すつもりはなかった。
「行かれるのですか?」
 側付の女官が寝静まった頃、カガリがそっと夜具を抜け出すと、隣で眠っていたラクスが頭を起こし、小声でたずねた。心なしか彼女の声は弱々しく聞こえた。
「うん。行かなくちゃ」
 事変の一日はあっという間に過ぎ、都は夜を迎えていた。カガリ達のいる森にも、夜のとばりが下りていた。
 森の夜の闇は深い。月明かりの届かない森の底は、まるでカガリが闇にまぎれて抜け出すのを待っているかのようだった。
「ごめんな、ラクス。おまえを置いて行きたくはないんだけど……」
 カガリは本心から言った。彼女はいまや親友だった。カガリがアスランに会えず、ふさいでいた時にそばにいてくれたのはラクスだ。彼女はこの四年、カガリが最も信頼した相手だった。
「わたくしのことはどうかお気になさらず。それに、止めたってカガリさんは行ってしまうのでしょう」
 ラクスは身を起こした。
 隣室に控える侍女が眠るまで待っていたので、それを起こさぬよう、二人は小声で話した。
「今朝は取り乱したりして申し訳ありませんでした。情けなかったですわね、わたくし」
「ラクス……」
「でも、もう大丈夫ですわ。強がりではありませんわよ」
 カガリの手に手を重ね、ラクスは微笑んだ。
「だって、考えてみたらお兄様があんなに簡単に亡くなられるはずがないですもの。暗殺されたように見せて、どこかに落ちのびているのだと思います。あの方はそんなに繊細でもありませんもの、もっと往生際が悪いですわ」
 ほめているようで、その実けなしているのか、どちらも含んだ口調だった。ラクスはカガリを笑顔で見つめた。
「それに、お兄様はカガリさんにお会いする前に死ねるはずがありませんもの」
 カガリは困って眉根を寄せた。
「変なやつだよな。皇子って。なんでそんなに私のこと好きなんだ?」
「それは、お兄様にお会いになってから直接聞いてくださいな」
 ラクスは歌うようにはぐらかした。そして、ふと真顔になると言葉に力を込めて言った。
「わたくしもあの方が造反なんてなさるはずがないと思っています。今回の事変にわたくしも、黒い企みや裏で動いている何者かの存在を感じています。だからこそ、あなたを行かせたくない気持ちは過分にありますが」
「ラクス……でも私は」
「わかっていますわ。あの方を助けに行くんですものね。それができるのはあなただけだと、わたくしも思います」
 ラクスは自分の気持ちを抑えるように深く深呼吸すると、カガリの肩を軽くたたいてうながした。
「さあ、支度をなさるのでしょう? ぐずぐずしているとまた夜明けが来てしまいますわ」
「ラクス……ありがとう」
 カガリは笑顔を返した。二人の寝室にとあてられた部屋は、握っている手すら見えないくらいの暗闇だったが、ラクスが微笑んでいることは声色でわかった。
「いいえ」
 ラクスはまたふっと笑い、それから声を落とすと言った。
「それよりも、戸外にはお父様が近衛を置いているはずです。見つからずに逃げることは困難でしょう。まずはそれの注意をわたくしがそらしますから……」
「ラクス、大丈夫だよ、私ひとりで」
 彼女に迷惑をかけるわけにはいかなかった。これはカガリのわがままなのだから。
「いいえ、出来ないと思いますわ」
 ラクスはやけにきっぱりと言った。
 自分の身体能力にはかなりの自信を持っているカガリは、思わずむっとした。
「あのな、私をラクスみたいなお姫様だと思ってもらっちゃ困るぞ。由良に廊下を走っちゃいけないなんて規則はないんだからな」
「でも、アスラン殿に勝ったことは一度もありませんでしょう?」
 思いもよらぬところを指摘され、カガリは言い返せなくなった。そういえばアスランに勝ったことがあっただろうか。
 かけっこをすれば、一番をとるのはカガリだったし、組み手のまね事をしても、防戦一方でおされていたのはアスランだった。形としてはカガリが負けを見たことは一度もないのだが。振り返ってみると、勝ったという気がするものはひとつもなかった。
(そうか、アスランが本気で相手をしてなかったから……)
 あの頃は、それを気弱だと小ばかにしていたが。あれはカガリに勝てると、絶対の確信があっての手加減なのだ。
「考えてみたら、つくづくむかつくやつだな。会ったら最初に殴ってやらなきゃ」
「そうなると、たぶん大人しく頬をさしだしてくださるのでしょうね」
「だったら反対の頬もひっぱたいてやる」
 カガリが意気込むと、ラクスはくすくす笑った。
「でも、おわかりになりましたでしょう? カガリさんがいくらお強くても敵わない相手もあるのです」
「あいつみたいなこと言うなよ……」
「任せてくださいますね? 近衛の目をそらす役目」
 彼女に強く言われてしまったらカガリは頷くしかなかった。渋々承知して、カガリは準備を再開した。
 といっても荷物はほとんどといっていいほどなく、カガリはとりあえず動きやすいように着物を脱ぎ、上衣だけになって、帯をきつく締めた。貴人の着る着物は優雅さを象徴するようにゆったり作られているから、上衣はカガリのひざまで覆っていたのでカガリはひとつも気にしなかったのだが、ラクスはむきだしの足を許さなかった。
 夜はさらに更けていたが、断固反対するラクスを説き伏せるのに、カガリはまた時間をとられてしまったのだった。


(近衛って何人くらいいるんだろ……)
 戸板の透き間からのぞいてみると、ラクスの言ったとおりに黒服の男が数人見えた。近衛の一部は逃げた軍の後を追ったと聞いていたが。
 山狩りをするほどの人数がいるものなのだろうか。
「では、カガリさんはそちらから……」
 つい、考えがそれていたカガリにラクスから合図がかかった。
「うん、わかった」
 簡単な打ち合わせもして、カガリの支度も万全だ。今から御所を抜け出して自分の足でアスランを見つけに行くのだと意識すると、ふいに心がさわいだ。
 待ち望んでいた自由が嬉しくて浮き足立ってしまう。喜べる状況ではないことは承知していても、先の不安は今のカガリにはなかった。
 カガリはラクスを振り向くと、想いを込めて言った。
「ありがとう、ラクス」
「……いいえ」
 少し間をおいてラクスは答えた。
「きっと、もう二度とお会いできないのでしょうね。いつかこうなる気はしていましたけれど」
「そんなこと言うなよ。ラクスが来たいなら、一緒に行ってもいいんだぞ、私は」
「いいえ。できませんわ、わたくしには」
 ラクスは深く息を吸った。
「わたくしにはカガリさんのように走れる脚もなければ、カガリさんの心を占めているような大切なものもないのです。自由になってみたいとすら思わないんですもの」
 しゅっと、きぬ擦れの音をさせてラクスは立ち上がった。
「もしも、カガリさんのように生きられたら……」
 ラクスはつぶやき、それからカガリに向けて言った。
「どうか思うように生きてくださいね、あなたの純粋さが曇らぬように。カガリさんはわたくしの憧れの化身なんですから」
 カガリがいるのと反対の扉に手をかけてラクスはカガリに指示した。それを受けて、カガリはためらわず板戸を開いた。
 板と板がきしむ音は大きく響いたが、それを甲高い悲鳴がかき消した。
 ラクスの悲鳴だ。
「誰かあ!」
 皇女の叫びを聞きつけた黒い影は俊敏に動いた。外廊下、木立の陰と、散らばっていた近衛は一瞬で声のした方に集中し、庭から一掃されてしまった。
 打ち合わせどおり、カガリは振り返らずに部屋を飛び出し、ふわりと高床になっている廊下から草の上に降り立った。そのまま一目散に林に駆け込む。ラクスの悲鳴はすぐに遠くなり、カガリは闇に紛れた。
 思いきり、加減をせずに走ったのはいつぶりだろうか。
(きもちいい……)
 冷たく澄んだ夜風を肺の奥まで吸い込んで、カガリは落ち葉を散らして走った。
 にわか旅仕度では履物の用意まではできず、地面を踏む足は裸足だったが、それが反対に気持ち良かった。四年も運動を忘れていた体はすぐに息を上げてしまったが、カガリは朝陽が昇るまで足を止めなかった。
 そしてあたりがすっかり明るくなる頃には、森を抜けていた。白い矢のような朝陽に洗われたような都を見下ろせる開けた丘に出て、カガリはようやく息をついたのだった。

 陽が昇ってから、カガリがまず向かったのは近衛の屯所だった。ラクスからおおよその場所と館の外見を聞いていたので、迷うことはなかったが、問題はどうやって中に入るかだった。
(ひどい格好してるもんな、私)
 アスランがいるであろう場所をひとつずつ当たっていこうと思い、まっすぐ都を出ずに御所の裏の森から市街に下りてきたのだが、屯所の門の前に着く頃には、カガリはすっかりぼろぼろになっていた。
 着物のすそからのぞく両足は泥とほこりで汚れ、絹の上衣はもとの鮮やかな緑をなくしていた。木の枝葉で擦り切れた衣はカガリが由良で着ていた麻の衣よりも見映えがひどかった。
 もしもカガリ付きの侍女が横を通ったとしても、これならば気付かず素通りするに違いない。カガリがぼうっと高い門戸の前に立ち尽くしている後ろを、ちらちらと視線を向けながら通行人は過ぎていった。
(正攻法がだめなら裏技でいくだけだ)
 いまやなんの後ろ盾もないカガリが正面から訪ねていっても門前払いにあうだけだろうし、ここまでぼろぼろになったら、カガリは何をするのもためらわなかった。
 もう、上品に振る舞う必要はないのだ。

 屯所は思っていたよりずっと広大で、塀をぐるりと回って見ると貴族の邸宅ひとつ分はあった。
 カガリの背丈をゆうに越える板塀に足掛かりになりそうな穴と、塀に寄り掛かるように伸びた松の木を偵察の中で見つけたカガリは、さっそくそこから中へ侵入することにした。
「えいっ」
 よじ登り、カガリは塀の中を覗き込んだ。都合のよいことに、そこは建物の裏になっており、薄暗く狭い空間になっていた。館と塀の透き間に松の木が育ったようだった。
 カガリは塀の内側に飛び降りて、着物と手のひらを軽くはらった。
 屯所の中は静かだった。
(非常時だもんな……出払っちゃってるのかな)
 思えば、正門にも門番は見当たらなかったし、屯所内にも人の気配はまるで感じられず、カガリは警戒の度合いを下げてあたりを偵察した。館の中に耳を澄ましても物音ひとつしない。
 まるでもぬけのからだ。
 館と塀の狭い空間を抜けると、だだっ広い庭に出た。カガリの知っている都の庭というのは池があったり、手入れされた樹木が植わっていたりと、なにかしらの装飾があるものだったが。その庭は言葉通り、ただ広いだけだった。
(ここにアスランはいたのか……)
 殺風景な庭にも誰もいないことを確認して、カガリは館の中を見ようときびすを返した。警戒を怠っていたにしても、よほどカガリの勘が鈍っていたのか、足を止められるまでカガリはすぐ後ろに人がいたことに気付かなかった。
 いきなり二の腕を掴まれ、ぐいと引っ張られた。
「貴様、そこでなにをしている」
 鋭く怒鳴られて、カガリは声も上げられなかった。
(見つかった……!)
 一瞬で先のことを考えたが、ここで捕まってしまえば確実に逆賊扱いされる未来しか思いつかなかった。焦躁で頭は真っ白になったが、カガリはとにかく体を動かした。
 足を振り上げてかかとで相手の顔を蹴り上げる。しかし、蹴りは成功せず、すんでのところで足首は掴まれてしまった。
「わ……っ」
 片足と片腕をとられたカガリは重心を崩して地面に倒れた。それを逃さず、敵はカガリの手足を押さえ動きを封じた。
「は、放せよ!」
 カガリは声を張り上げた。
 地面の上に押さえつけられた手足は固まってしまったかのように動かず、カガリの意思を反映してくれない。少しも動かなかった。
「威勢のいい子供だな。一体どうやってここに入って来たんだ」
 感心したように敵は言う。カガリを捕らえたのは少年だった。
 カガリと同じ年頃だろうか。
「門が閉まっていたから塀から入ったんだよ! 悪いか」
「ふん……貴様、猿みたいに小さいわりには見込みがあるのかもしれんな」
 わめくカガリと対照的に少年は静かに口許に笑みを作った。そして、数本あった自らの帯を一本解くと、それでカガリを後ろ手に縛った。
「だがな、近衛の屯所に不法侵入なんかしたらまず命はないぞ。遊びで越えていい壁じゃない。なんだって入って来たんだ?」
「アスランに会いに来たんだ! 遊びなわけないだろ、ばか」
 カガリが叫ぶと、少年はふいに表情を変えた。
「アスランって……近衛のアスランのことか?」
「他にアスランはいないだろ」
 深刻そうに眉をひそめた少年につられて、カガリの声も大人しくなった。
「貴様、アスランの知り合いか?」
 正面からカガリを見直した少年をカガリもまっすぐ見返した。
「知り合いじゃない、兄弟だ」
 少年は切れ長の目を見張った。今度はカガリが聞き返す。
「おまえはなんなんだ? アスランを知ってるのか?」
「まあな……」
 少年はため息をついた。
「知ってはいるが、いま奴がどこにいるのかは俺にもわからない。少なくともここにはいないぞ」
 簡単に見つかるとは思ってはいなかったから、それはカガリにはある程度予想できていた答えだったのだが。それでも落胆せずにはいられなかった。
「謀反のことを聞いたんだな……」
 少年の口調には同情がこもっていた。
「そうだな、反乱した軍が向かった先なら俺にもわかる、それを追い掛ければ奴に会えるかもしれないぞ」
 カガリの肩をひとつ叩いて、彼はカガリを縛っていた帯を解いた。
「あれ……いいのか?」
 カガリが目をしばたくと、少年は少々不服そうに笑った。
「奴には借りがあるからな。これで貸し借りなしだ」
 そう言って、起き上がろうとしたカガリに、彼は手を差し出した。
「それと、貴様はもう少しましな格好をしろ。俺はこじきか何かかと思ったぞ」
「うるさい」
 さすがに恥ずかしく、カガリは頬を赤くした。少年は笑いをもらすと、居直り自己紹介をした。
「俺はイザークだ。貴様は?」
 伸べられた手を握ってカガリも名乗った。
「私はカガリだ……」