ログ 2

社会人パロ





 終電よりも早い電車に乗れたのは、二日ぶりだった。
 座席の端に腰かけて腕時計を確認したカガリはほっと息を吐いた。なんとか日付が変わる前に家に帰れそうだ。
(もう少し早く帰れたらよかったけど……仕方ないか)
 定時退社したはずなのにこの時間の電車に乗っているのは、スペインバルと居酒屋をはしごしてきたからだ。
 めでたく納期が明けた祝いの飲み会だったので、なかなかすっぱり断れなかった。しかし、誰もが疲労の限界のはずなのに、ばか騒ぎをする元気はあるから不思議だ。
(でもさすがに眠たいな……)
 まだ電車が動き出して数分なのに、まぶたがとろとろと落ちてきてしまう。
 まずい、と反射的に思ってびくりと目を開けたが、眠ろうとする体のほうが頑固だった。今、寝入ってしまったら降りる駅を乗り過ごすのは確実だと思うのに、どうしても目が開かない。とろりとした眠気に沈み込んでしまいそう。
(……あいつ、また起きて待ってるかな)
 カガリは同居人の顔を思い浮かべていた。
 先月同居人となったばかりのその人物が、自分より先に寝入っているところをカガリは見たことがない。持ち帰り仕事があったからとか、観たい映画が深夜放送されていたからとか、いろいろな理由で彼が夜更かしをするので、率直に『私を待たずに先に寝ていてくれ』と伝えたのは二週間前のことだったか。
 それからは、深夜に帰宅した時にリビングにこうこうと灯りがついていることはなくなったが、カガリが寝室に来るまで彼が眠らずにいるのはなんとなくわかっていた。
(眠れない……のかな)
 そうだとしても、申し訳なくてむずむずしてしまう。彼の帰宅が遅いときのカガリは、たいていリビングのソファで待ちながら眠ってしまうから。彼を待ちながら眠気に勝てなくなってしまう自分を思い出しながら、いまのカガリもすっかり目を閉じてしまっていた。
 たたん、たたん、と単調な音を響かせながら走る電車。かすかに揺れながら次の駅を目指す、深夜の車内は話し声もしない。
 ふと、隣に誰かが座る気配がした。
 出発してから数分、今頃になって。
 不思議に思い、確かめたいと思っても、すぐ横の座席が沈む感覚が夢なのか、そうでないのかわからない。ほとんど意識が溶けていたところに、覚えのある香りがふわりと届いた。
(この香り……)
 よく知っている匂いだった。爽やかなグリーンの花のような香り。なんだろう。いつも嗅いでいる気がするのに。眠りのなかでぼんやり考えて、いきなりハッとした。
 ぱちっと目が開く。
 視界にあったのは、隣に座る男性のスーツだった。いつの間にか、もたれ掛かって眠っていたらしい。
「アスラン……」
 びっくりしたおかげで、眠気が消えていた。隣にいたのはカガリの同居人だった。
「ごめん、起こしちゃったかな」
 アスランはこちらを見てすまなそうに笑った。
「頭がこくこくしてたから危なっかしくて。そのままにしてたら倒れそうだったぞ」
「いたんだ……いつから?」
 何度もまばたきしながら、懸命に乗車してからの記憶をたぐってみたが、眠くてしかたなかったことしか思い出せない。
「三つ隣の車両にいたんだ。そしたら、さっきの駅でカガリが乗ってくるのが見えたから」
「そっか……」
 口許が緩むままに、カガリは微笑んだ。
 カガリの職場とアスランの職場は街の対角線上にある。帰る家が同じでなければこうして同じ電車に乗り合わせることもない。
「偶然だな」
「……うん」
「今日、けっこう残業してたんだ?」
「明日、クライアントとの打ち合わせだから」
「そっか……」
「カガリは? 無事に納品できた?」
「なんとか、かんとか、かな」
「頑張ってたもんな」
 ぽつりぽつりと言葉を交わして、二人は同じ窓の外を眺めた。まばゆいネオンや、家々の暖かい灯りが通りすぎていく。黙ってそれを眺める。やんわりとした沈黙の次に口を開いたのはアスランだった。
「ほんとうは……」
 打ち明けるような囁きだった。
「ほんとうは偶然じゃないんだ」
「……というと?」
 おっとりと首を傾げて、カガリは隣を見上げた。
「カガリ、居酒屋を出るときに今から帰るって連絡くれただろう。その連絡をちょうど帰りの電車のなかで受け取ったんだ」
「うん……?」
「だから、同じ電車になるように乗り換えの時に二本、わざと遅らせた」
 彼の微笑みが色づく。ほんの少し、カガリだけに見せる顔を覗かせた瞬間だった。
「なんだ、わざとか」
「うん、わざとだ」
 ふふ、とカガリの喉に笑いが込み上げた。
 素敵な偶然より、選んだ故意を嬉しく思うのはおかしいだろうか。
「眠たかったら寝てもいいぞ。俺がいるから」
「眠気なんかどっかにいっちゃったよ」
 嬉しくて、と付け足す代わりにカガリはアスランの腕にこめかみを寄せた。もう眠くはないけど、嬉しさを噛み締めるように目を閉じる。爽やかなグリーンの花の香り。我が家の柔軟剤の香りだ。同じ匂いがカガリのブラウスからもふんわり香っている。
(同じ匂いを身に付けてるんだ……)
 洗剤も柔軟剤も、シャンプーもせっけんも。ずっと一緒にいたら肌の匂いも同じになるのかな。
 そんなことを思いながら息を吸ったら、花の香りと一緒に、アスランの肌の匂いがした。
 電車の揺れに合わせて触れあう腕のぬくもり、彼がそこにいるという存在感。二人で眠る温かなベッドに潜り込むときのような安心を感じて、ぬくぬくとしているうちにカガリは知らずまどろみに落ちていた。




2020/04/25