ログ 3

義姉弟パロ





 床板のきしむ小さな音がする。
 規則的な足取りで階段を登る足音だ。ああ、もう六時半がきてしまった、嘆く気持ちで私は目を閉じたままその足音を聞いていた。時計代わりの正確さでやってくるその足音は、いつものように私の部屋の前で止まった。
「カガリ、起きる時間だよ」
 呼びかけられても、なかなか目が開かない。まとわりつく眠気を払うように私はベッドの中で伸びをする。でもまだ布団はかぶったままだ。
「ぅうん……わかってるよ……」
「今日は朝イチ会議の日じゃないのか?  そろそろ支度しないと」
 私の声でベッドから出られないでいることを察したのだろう、ドアの向こうから辛口の口調でさらに声がかかる。
「慌てて準備するとまた会議に忘れ物するぞ」
「んーわかってるよ……」
 その会議のための資料を仕上げていたために寝不足なのだ。あと二分でいいから目を閉じていたかった。 返事をさぼっていると、廊下の相手はしばらく黙った。たぶん、ため息をついているのだ。
「今日の朝御飯はアボカドとトマトのホットサンドにしたんだけどな」
 誘うように相手がつぶやいた。こういう時の口調はずるいくらい甘い。
「ついでにチリソースも用意したけど、このままじゃ食べてる時間なくなるなぁ」
「食べる!」
 起こしにこさせてなお、ぐずっていたくせに、私は跳ね起きるままドアを開けていた。ドアのすぐ前にいた相手の胸元に飛び込みそうになる。
「おはよう、カガリ」
 胸に抱き止める前にしっかり肩を押して止めて、別段驚く様子もなく朝の挨拶をする。朝日を背にして、彼は微笑んで私を見下ろしていた。
「うん。おはよう、アスラン」
 眩しくて目を細めた。日射しが藍色の髪からこぼれて彼自身が光を放っているようにも見える。アスランのエメラルド色の瞳が逆光にも輝くようだった。
「髪、ぐしゃぐしゃだぞ」
「え、そうか?」
 アスランが私の髪を無造作に撫でる。
「あと、寝苦しかったとしても下はちゃんと着た方がいいと思うな。夏じゃないんだし、寝冷えするだろ」
 髪の乱れを指摘するのと同じ様子で言い置いて、アスランは階段を降りていった。
「下?」
 自分の足元を見下ろして青ざめた。晩秋だというのに妙に気温の高い夜だったので、冬物の寝間着が暑苦しくなって夜中にズボンを脱ぎ捨てていたのだ。
「……情けない」
 うなだれながらため息をついた。
 寝坊したところを起こしにきてもらった上に、自分のみっともない格好に気づきもしなかった。年長者としてはあんまりに思えてくる。アスランの淡々とした言い方も私に呆れていたからだろう。
「姉としてもっとしっかりしなきゃ」
 会議もあるし、今日は冷たい水で顔を洗おうと決める。洗面室に行く前にちらりとダイニングをのぞくとパンの焼けるいい匂いがした。
 朝食の用意はアスランの担当だ。夕食を外で済ませることの多い私のことを考えてか、いつも野菜をたっぷり使ったメニューを作ってくれる。それもドレッシングまで手作りするこだわりようだから、また頭が上がらなくなる。
(受験生なんだから、もう少し簡単にしてもいいのに……)
 そう、本人に伝えたこともあるのだが、アスランとしてはここは譲れないところなのだと言われてしまった。朝食だけでなく、じつは洗濯掃除もアスランがほとんどしているので、少しくらい手抜きをしてくれないと自分のふがいなさがますます際立ってしまうのだけど。
(特待生で高校の学費も負担させず、家事全般もこなして)
 自慢の弟だった。
 これまでの担任教師は誰もが彼を手放しで誉めた。近隣でもトップの進学校に首席で入学し、ずっと学年首位を保っている。普通の商業高校を出て、中規模の普通の商社に就職した私とはずいぶんな違いだといつも思う。
 だから、よく言われるのだ、まったく似てない姉弟だと。

「どうした? 食欲ない?」
 ホットサンドをひとくちかじったところで考え込んでいると、アスランが顔をのぞきこんできた。
「それとも料理失敗してたか」
「いや、すんごく美味しい」
 かぶりを振って二口目を頬張る。とろりとアボカドとチーズが舌の上で混ざる。悔しくなるくらい美味しい。
「ちょっと考え事をしてたんだ。最近、わたしちょっと緩んでるから」
「緩んでる?」
 私は深刻な顔になりながら朝御飯を食べ続ける。
「うん……連日アスランに起こしてもらわないと起きられなくなってるし」
「それは今に始まったことじゃないが」
「休日の夕食当番は私なのに、毎回手伝ってもらってるし」
「それも今に始まったことじゃないな」
「そろそろ洗濯くらいはできるようにならないと情けなさすぎて」
「柔軟剤と洗剤を間違えるのは確かに困ったけど」
「だからといって、家事から逃げていたら一生できないままだろ」
 声を大きくして言ってから根菜のポタージュを飲み干した。
「どうしたんだ、急にそんなことを言い出して」
 アスランは不可解そうに私の顔を眺めていた。
「急でもないぞ、この頃けっこうずっと考えてたんだ。でも今日という今日は決心すべきだと結論したんだ」
「結論?」
「私もアスランと対等に家事を分担する!」
 胸をそらして堂々と宣言したのに、聞いたとたんにアスランは吹き出していた。
「何を言い出すのかと思ったら」
「なんで笑うんだよ! 私は本気だぞ。いつまでもアスランの世話になってばっかりいられないだろ」
「それについては何度も話したと思うが……生活費をカガリが負担してる限り、俺がその他のことを負担しないと俺の気がすまないんだよ。世話になってばかりいたくないのは俺の方だ」
「学生の本分は家事じゃなくて学業だろ」
「学業はぬかりなく修めてると思うが?」
 言い返せない言葉がきてしまい、私は思わずくちびるを噛んだ。
 まったく、かなわないと思う。一緒に暮らし始めた七年前から主導権を握れたことがない。 参った、と思いながら噛んだくちびるを尖らせてぼそぼそと呟くしかなかった。
「……だって、おまえ、今日で十八歳になっちゃうじゃないか」
「ん?」
「私は十八歳で社会人になったし、成人はまだでも免許だって取れるし子供じゃなくなる年齢だろ? 半年もしないうちに高校は卒業してしまうし、そのうちアスランが就職したら今の家事分担じゃ不公平すぎるだろ」
「……そんなことを考えたのか」
「アスランが大学生してるうちに家事を習得するのが目標だと考えたんだ」
「……なるほど」
 アスランは手にしたコーヒーカップをしばらく見つめていた。
「そのカガリの未来予想図では俺は社会人になってもここにいることになってるのか」
「ん? なにかおかしいか?」
 アスランの口許が笑んでいた。
「いや、好都合だと思っただけだよ」
 なにかを勝手に納得した様子でアスランはうなずいていた。
「カガリ、今日は早く帰ってこられそうか?」
 ぱっと翠色の両目が私のほうを向く。
「もちろん! 課のみんなに定時であがる約束を取り付けてるからな」
「じゃあ、帰ったら大切な話があるからそのつもりでいてくれ」
「へ? ああ、うん」
 宝石のような瞳の向こうに小さな火が見えたようで、一瞬気圧されて呆けた返事をしてしまった。なんだろう、今朝はやけに彼の目が気になる。視線が私のなにかを捉えようとしているように思えてしまう。
「ところで、時間は大丈夫なのか?」
「え?」
 ぎくりとして時計を振り返った。夢中で話していたせいだ。もう出発時刻の十分前になっていた。
「えええ? もう? やばい、食器の片付けが」
「俺がやっておくよ」
「そういうわけには……」
 と言いかけたが、メイクも着替えもまだなのだった。
「だめだ、このままじゃ、やっぱり姉として格好悪すぎる」
「姉としてか……最近、よくそれ言ってるな」
 急いでコーヒーを飲み干す私に向かってアスランは微笑んで言った。
「心配しなくても、俺はカガリのこと姉だなんてこれまで一度も思ったことないよ」
「おまえな……!」
「ほら、苺がひとつ残ってるぞ」
 口を開いたところにデザートの苺を放り込まれた。大粒の苺をもぐもぐと食べるしかなくなった私を見てアスランは愉快そうだった。
「やばい、ほんとに時間がない」
 ばたばたと食器を下げて着替えに行こうとダイニングを出る前に、はたと私はアスランに向きなおった。
「誕生日おめでとう、アスラン」
 心を込めてきちんと発音すると、アスランは黙って笑顔を返してくれた。
 仕事から帰ったらプレゼントの希望を聞くからな、宣言のように言ってからまたばたばたと準備に戻った。
「プレゼントの希望ね……」
 私が後ろ手に閉めたドアに向かってアスランがつぶやいていたのには当然気づかなかった。


※ ※


(姉だなんてこれまで一度も思ったことない……か)
 会議室でひとりプレゼンの支度をしながら、私はアスランとの会話を頭のなかで再生していた。
(たしかにそうかもしれないけど)
 ため息が音になってもれた。あのアスランの言葉は反抗や皮肉でもなんでもない、まごうことない事実だった。
 アスランと私に血の繋がりはない。戸籍上の繋がりがあるわけでもない。当然、苗字も違う。それなのにきょうだいだと言い張っているのは私だけなのだ。
(だって、きょうだいじゃないとしたらどうして家族でいられるんだ)
 アスランは十八歳で、私は二十六歳、姉と弟という肩書き以外に家族の形に収まる方法があるだろうか。事情をよく知る人からは「いつまで一緒に暮らすの?」と言われる。事情を説明しなくてはならない相手からはなかなか理解してもらえない関係だった。
「今日で十八歳か……」
 立ち上げたパソコンの日付をなんとなしになぞる。毎年のアスランの誕生日は喜びと誇らしさでいっぱいになるのに、今日はどうしたというのだろう。自分の心に靄がかかったように、晴れやかに喜べない。
「十八歳って、例の『弟くん』のことかな?」
 不意に声をかけられて振り向くと、いつからそこにいたのか長身の男が立っていた。
「……バルトフェルドさん、驚かさないでくださいよ」
「いや、すまない。何か考え事をしているふうだったから声をかけるのをためらってしまってね」
 ひょうひょうと言い訳をする。食えない上司だった。
「弟くん、今日が誕生日だったのか」
「はい、まあ……」
 バルトフェルドの『弟くん』という呼び方は何か含みを感じさせる。なんとなくいやだな、と思ったが無視するわけにもいかずにカガリは手を動かしながら上司の顔を見た。
「大切な弟くんの誕生日なので、今日の会席を欠席する、と。なるほど、そういうことだったのか」
「申し訳ないとは思ってます……」
「社長も来る会なのになあ」
「……すみません」
 謝りはするが、これをネタにいじられるのは納得いかなかった。その代わりという訳にもいかないかもしれないが、今月は終電近くまでの残業を大量にこなしてきたのだ。
「君は、いつまでその弟くんのお守りをするつもりなんだい?」
 なんとか話題を変えようと懸命に考えていた思考がはたと止まる。
「いや、君の家庭の事情に立ち入るのはさすがにお節介がすぎるとは思うのだが、弟くんの父君にはお世話になった過去があるからね」
「……そう、でしたね」
 このバルトフェルドは私とアスランの『事情』を詳しく知っている方の人物だった。彼はアスランの父パトリックの直属の部下だった人なのだ。幼い頃のアスランのこともよく知っているらしかった。
「彼がもう十八歳になるとは……」
 『もう』ではなくやっと十八歳なのだと、私は胸のうちで呟いた。
 彼の後見人となってから七年。前だけ見てがむしゃらに仕事をしてきた。アスランの保護者になったからには絶対に不自由などさせるものかと意地にもなっていたからだ。 それに、仕事のことだけ考えていたら忘れていられたのだ。両親のことを。
「十八歳といっても、まだ高校生ですし、子供なんですけどね」
「ほんとうに子供だと思ってる?」
 バルトフェルドは首をかしげて笑っている。
「……どういう意味ですか」
 私は息を吸い込んだ。この上司の見透かすような茶色の瞳はどうも苦手なのだ。だが、こちらの警戒を気取ったのか、ふっと彼は調子を変えて軽い口調で言った。
「まあ、弟くんがいかに大切だとしても、君は君の人生を生きるべきだと思うよ?」
「私の人生……ですか?」
「じつはね、アスカくんが君が食事の誘いに一切応じてくれないとぼやいていたり、アルスターくんなんかは君が合コンを全部断るのはなぜかと僕にまで聞いてきたり、先日は君の所へ縁談を持ってきた課長に一生結婚する気はないと答えたそうじゃないか」
 心当たりのある話を並べられ、どきりとして、私は眉を寄せた。
「……そういう心配は」
「無用だと僕も思うよ。個人の自由意思で決めることに口を出すべきでもないとね」
「わかってるなら放っておいてください」
 私はむくれて言ったが、バルトフェルドはやけにきっぱりと言い返してきた。
「たぶん、君は弟くんと生涯共にいるつもりでいるんだろう? だが、きょうだいならこの先の生涯ずっと一緒だというわけにはいかない」
 バルトフェルドの一言が無遠慮に胸をえぐった。
「だったら、いま少し交遊関係を広げてみたり、視野を広く持ってみるのもいいんじゃないかと思うんだがね」
 なんて結局お節介を言ってしまったな、とバルトフェルドはひたひたと心を逆撫でするような物言いを一転させ、明るく笑った。


(いつか、アスランは私と一緒には暮らさなくなる……)
 それは、来年の大学入学の時かも知れないし、大学を卒業する年のことかも知れない。 いつか、だけど、そのいつかは必ず訪れるのだとわかっていた。
(わかっていたはずだ……ちゃんと覚悟をして今の二人暮らしを始めたはずなのに)
 七年前、アスランと私は同じ日に二人ともが両親を亡くしていた。
 あの日のことは、いまだに夢に見る。
 アスランの母レノアと、私の母カリダが親友同士という縁から両家は家族ぐるみで仲が良かった。といっても、ザラ家とヒビキ家の全員がそろって会うことは稀で、学生の私は部活の練習や友達と遊ぶのに忙しかったし、アスランの方は全寮制の小学校に通っていたらしく、両家の子供たちはお互いの顔も知らないままだった。ごくごく幼い頃にアスランと一緒に遊んだらしいのだけど、残念ながら私にその記憶は残っていない。もっぱら、連れだって出かけるのは二人の母たちか、彼女らに付き合って出かける夫たちを混ぜた、パトリックにレノア、カリダにユーレンの四人だった。
 その両家の夫婦を合わせた四人が乗る車が事故に遭ったのだ。私とアスランは二人ともが両親を一度に亡くしてしまったのだった。
 それは私にとってはこの世の終わりだった。父と母の棺を前にして私は二日、飲まず食わずで泣き続けた。私にはきょうだいがいない。両親がいなくてはどうしようもなく天涯孤独だった。どうして、私も一緒じゃなかったんだろう。一緒に車に乗って出かけていれば一緒に死んでしまえたのに。そう繰り返し考えて泣き続けていた。
 そんな、この世でひとりきりになってしまったと、思えてならなかった時にアスランに引き合わされたのだった。
 合同で行った葬儀で、泣きもせずアスランは立ち尽くしていた。私と同じ、一人きりになってしまった子供。私に気づくと華奢な首を傾げて「君がカガリ?」と透き通る声で言った、その時に沸き上がった気持ちは共感でも安堵でもなく、使命感だった。彼のそばにいなくてはと、天啓に打たれたように思ったのだ。
 アスランはまだ十一歳で、庇護すべき子供だったのだから。八つも年上の私がべそべそ泣いてばかりいてどうするんだと。
(……でも、実際に救われていたのは私だ)
 必死になってアスランの未成年後見人の立場を得て、その力量があることを証明するためにもがむしゃらに仕事をした。そうして、生活を作ろうと必死で働くことができたのも、彼がいたからだ。深夜に帰宅した家に明かりがついていたのも、発作のように襲ってくる悲しみに飲まれそうになったときに優しく声をかけてくれたのも、アスランだった。
 きょうだいと呼んで、繋がりを求めて離れられないのはカガリのほうだった。


※ ※


「ただいまー」
 深呼吸をして玄関のドアを開けた。しばらく間をおいて、リビングからアスランが顔をのぞかせた。
「おかえり、ほんとに早かったな」
「驚きの早さだろ? 定時であがったからな」
 尊大なポーズをとって見せてから、パンプスを脱ぐ。
「よかったよ、食事の前に話がしたかったんだ」
 アスランが私を迎え入れるように開けたリビングの扉からごちそうの匂いがした。
「話? 話って朝言ってたやつか?」
「うん。今後の進路についての相談……かな」
「進路か……」
 私は心臓がぎゅっと縮むような心地がした。この家を出ていくとか、そんな相談だろうか。 私が両親と暮らしていた家、そしてアスランと七年暮らした家を、彼が出ていく時がとうとうきたのか。
「これを、今日もらってきたんだ」
 ダイニングテーブルに座るよう促され、その卓上に彼は一枚の紙を広げた。
「……婚姻届」
 枠の一番上に書かれた文字を、私は反射で読み上げた。
「ああ、カガリがサインするのはここだから」
 アスランは淡々と書類の『妻となる人』の欄を指差した。
「うん……?」
「あとは俺が書いておくよ。証人もちゃんと頼んである」
「いや、そうではなくて……」
「あ、そうだな、ペンがなかった」
 うっかりしていたという様子でアスランはボールペンを差し出してきた。
「そうじゃなくて!」
 カガリはよろめくように一歩後ずさった。
「なんなんだよ? これは、どういう冗談だ?」
「俺は冗談はひとつも言っていないが」
 アスランは心外だとでも言うようにわずかに眉を寄せた。その顔があまりにいつも通りだったので、私の憤りかけた気分が途端に冷えた。
「……どうしたんだ、本当に。なにか思い詰めるようなことでもあったのか?」
「そんなに驚くとは思わなかったな」
「いや、だって、おまえ……婚姻届だぞ」
「最適な手段だろう? 俺が成人した後もカガリが一緒に暮らしていくのに」
 アスランが成人したら未成年後見人の私は保護者ではなく、ただの同居人になる。 成人した男女がただ同居するのは、何かと世間に対しての説明を要するものだというとこをアスランも言いたいのだろう。
「カガリはこの先も俺と生活していくつもりなんだろう? というより、カガリに一人暮らしはちょっと無理だと言うか」
「無理ってなんだよ。今はたしかにアスランに甘えてるところもあるけれど……」
 返す言葉がどうしてか出てこなくなった。
 私だって赤ん坊ではないのだ。いくら家事が苦手でも一人で暮らせないわけではない。けれども、いま、アスランのいない日々は想像できない。想像もできなくなっていた。
「……でも、結婚はそんな理由でするものじゃないよ」
 私は長いため息の後に、諭すように言った。
「じゃあ、どういう理由でするものだっていうんだ?」
 アスランは腕組みをしてこちらを見下ろしている。全部が本気の言葉なのだろうか。だとしたら、だいぶ常識はずれの十八歳に育ってしまったのかもしれない。保護者としてそういう方面の知識を与えるべきだったのだろうか。
「全部が全部そうじゃないかもしれないけど、私は結婚は好きな人とするものだと思ってるよ」
「それなら、よかった」
 ほとんど言い終わらないうちに、アスランはさっと私の手を握って引き寄せ、かすめるようなキスをした。傾き、近づいた体を逃さずアスランの両腕が抱きしめる。
「アスラン、なにを」
 足元から崩れ落ちそうなほどの衝撃だった。ほんの軽いくちづけだったが、柔らかなくちびるの感触の余韻がたしかにある。体はすっぽりとアスランに抱きすくめられている。これは、いったいなんだ。
「はな、して……」
 力加減を忘れてしまったように、アスランの腕はぎゅうぎゅうと私を抱きしめ続けていた。
 そんな場合ではないのに、ふと記憶の断片が頭をよぎった。昔のことだ。リビングで夜中にぼうっとしていると、父と母への気持ちが溢れてきてたまらなくなって、それが涙に変わりそうな瞬間にいつも計ったように抱きしめに来る細い腕のこと。私の肩を包むのがやっとな、子供の腕だ。その腕の主と同じ人のはずなのに。
「年齢のことを言われたらどうしようかと思った……」
 私の肩に鼻先をうずめるようにしながら、アスランはぼそりと言った。
「年齢……?」
「年上としか結婚しないつもりだとかいいだしたらどうしようかとは思っていたんだ」
「なんだよそれ」
 声がどうも弱気に聞こえて思わず吹き出したら、アスランは額が触れそうなくらいに顔を寄せてきた。
「今日まで待ったんだ。ほんとうに長かった」
 アスランの吸い込まれそうな緑の光彩が視界いっぱいになる。その瞳が炎のように揺らめいて動けなくなった。もう、息をするので精いっぱいだった。さっきのキスはまるで通りすがりの挨拶だと、大したことに思えなくなるくらいのキスが何度も繰り返された。
 待っていたって、なにを。こうして触れ合うことを? 待ち望んでいたというのか。
 どうしよう、それは私が最も望んではいけないこととして、体の一番奥に閉じ込めていた望みなのに。
 どうしよう、どうしよう、ねえ、アスラン。
 なにも言えず、聞くこともできずに、私はキスを受けながらずるずると床に座り込んでいくばかりだった。





みいるさんへ贈ったもの 2024/02/03