これは恋ではなくて

01



 
 
 
 何か話さなくては、と思った。話をするような場ではなかったのだが、沈黙に耐え切れなくなってしまったのだ。
(どうして、こう運が悪いんだろう、私は)
 息をするのもはばかられるほど、あたりが静かなので、カガリはため息をつきたくなる気持ちをぐっとこらえた。
 無機質なオフィスの、音が死に絶えたような夜中。残業をするのには慣れているはずなのだが。
(よりによって……こいつとなんて)
 囁き声のような空調の音と、キーボードを叩く、かたかたという単調な音と、パソコンの駆動音、そのほかはいやというほど静かだった。明日までに上げなくてはならないレポートに集中するには申し分ない環境のはずなのだが。それと同時に、カガリにとっては、仕事をするのにもっとも不向きな環境でもあった。
「ザラさん、コーヒーいりますか?」
 カガリは立ち上がると、斜め向かいのデスクに座る同僚に声をかけた。
「ああ……」
 仕事に集中していた様子の彼は、少し遅れて返事をした。
「そうですね。ありがとうございます。ついでならもらおうかな」
 礼儀正しく彼は微笑んだ。同じ部署で働きだして数ヶ月が経つが、彼は言葉遣いを緩めない。カガリが敬語のままだからそうなのかもしないが。職場でも二人が会話をする機会が多くはないことが、まずは一番の要因だろう。
「じゃあ、淹れてきます」
 パソコンに向かう以外のことをして、無理矢理にでも会話を作らなくては、どうにもいたたまれなかった。カガリは部屋の一角に作られた給湯場に向かった。ついたてによって区切られたスペースに、電気ケトルや紙コップ、コーヒーなどが用意されている。
 ガラスのついたての内側に入ってしまえば一人になれたのと同じようなもので、カガリは噛み殺していたため息をついて、壁にこつりと頭をもたれさせた。
 (なんでよりによって、あいつとなんだろう……もう)
 あいつというのは、カガリと同じ本日の残業組、アスラン・ザラのことだった。
 カガリは彼が苦手だった。誰と残業しようと構いはしないのだが、彼とだけはごめんだった。それが証拠に、カガリはふたりきりになってからの二時間で、もう二度もコーヒーを淹れに席を立っていた。
 のろのろと紙コップを取り出して、コーヒーを用意しながら、またため息をつく。
「もう、帰っちゃおうかな……」
 帰れるわけがないのだが、そんなことをつぶやいてみる。完全に独り言のつもりだったのだが、まさかそれを聞かれているとは思わなかった。
「残念だな、帰るんですか?」
 すぐ近く、真後ろで声がして驚いた。机で待っているとばかり思っていたアスラン・ザラが、カガリの背後に立っていたのだ。
「あ……」
 完全に不意を突かれたので、すぐには声が出てこなかった。なんて心臓に悪い人だろう。カガリは不審に思われないよう必死で返答を探した。
「いや……帰りません。帰れませんから」
 上手く表情をとりつくろえているのかがわからず、カガリはコーヒーを作るふりで彼に背を向けた。
「まだまだかかりそうですか? レポート」
 アスランはカガリの隣にくると砂糖とミルクをトレイの上に用意した。
「ちょっと……なかなか進まなくて」
 給湯場は二人が並ぶには狭い。机を隔ててでも意識してしまう相手が、腕が触れそうな位置にきて、平然としていられるわけがなかった。
「大丈夫ですか? 電車とか……」
 たずねながら、カガリが用意したコーヒーふたつを、アスランの手がさらってトレイに置いた。彼がそのままコーヒーを運んでしまったので、カガリは後を追いながらあわててお礼を言った。
「終電は、まだ大丈夫なんですが……」
 残業までしたというのにペースが落ちている。私情を仕事に影響させてしまうことが、カガリは許せなかった。
「優秀なアスハさんがめずらしいな。体調がよくなかったりしませんか?」
 カガリの机の上にコーヒーを置くと、アスランはカガリを振り向いて笑った。
「いや、元気なんですが……」
「そうですか? どうにも元気がないように見えますよ。アスハさんといえば、いつもはもっとはつらつとしている印象があるんですが。ここに一人で残して帰るのはなんだか心配だな」
「え?」
「実を言うと、俺のほうはもう仕事片付いてしまったんです」
 アスランは自分のデスクに目をやり、残念そうに言った。
「せっかく俺の分もコーヒーを淹れてくださったのに、すみません」
「いえ、べつにそんな」
 カガリは両手を小さく振った。
(なんだ……帰るのか)
 ほっと、気が抜けた。やっとこの妙な緊張から逃れられるのだ。
「よかったらコーヒー飲んで帰ってください。外、寒いだろうし。温まりますよ」
「そうします」
 アスランはカガリの隣のデスクにトレイを下ろすと、椅子を引き出した。ここで飲んでいけと言ったつもりはなかったのだが、他の席にいくのも不自然なのでカガリは自分の机についた。
(そうか……帰るのか)
 コーヒーに口をつける。
(そうか……)
 拍子抜けしてしまった。帰りまで一緒だったらどうしようとか、ついでに夕飯でも食べに行くことになったら、なんてあれこれ考えていたのが馬鹿みたいだった。不安と緊張でいっぱいだった胸がぽっかりと空になったようで。
(一人で居残るのはよくやることだし、べつに寂しいわけじゃ。いなくなってくれてありがたいし……)
「それは、この前の市場調査のレポートですか?」
 ふと、隣からアスランが首を傾け、カガリのパソコンを覗いた。
「え? あ、はい」
 いきなりだからびっくりしてしまう。
「アスハさんが残業してるの珍しいと思ったんですが、持ち帰れない資料が絡んでたんですね」
「明日の会議に間に合わせなきゃいけないから、もう少し頑張ります」
「なんだったら俺が手伝いましょうか? 手も空いたことだし」
「へ……」
 金色の瞳をぱちくりさせるカガリの横で、アスランはもう資料をぱらぱらとめくっていた。アスラン・ザラという名前は社内ではとても有名だった。
 カガリの勤めるのは、中堅の製薬会社だ。その本社に勤務するカガリには二百人以上の職場仲間がいるのだが、その中でも彼の存在は特別だった。おそらく知らないものはいないだろう。噂にうといカガリでも知っているくらいなのだから。彼が有名なのは、他の同僚とは出身大学がワンランク違うことが要因であるらしいが。なにより彼を目立たせていたのはその容姿だ。
(かっこいいというか、綺麗……だと思う)
 カガリは資料をにらむアスランの横顔をこっそり見た。学生の頃に、かっこいいと評判の先輩だったり、人気のある同級生は、もちろんカガリの通った学校にもいたのだが、たいして興味もわかなかった。そんなカガリを友達みんな口をそろえておかしいと言ったものだった。
(まつげが長いんだな……)
 でも、彼のことは綺麗だと思うのだ。だから苦手なのだろうか。
「手が止まってますよ」
 ふいに柔らかい声で指摘された。アスランは資料に落とした目線をカガリに向けた。いつから気付かれていたのだろうか。
 からかうように動いた緑の瞳から逃げるようにカガリは急いでパソコンに向き直った。
「後少しだから頑張りましょう。それで、サプリメントの需要の項目はできましたか?」
「それは……大丈夫です」
 カガリは声を固くした。頬が熱い。たぶん、苦手なのはこういうところ。
 彼はカガリの虚をつく。偶然なのか、見透かされているのか、いつもぎくりとさせられる。だから、きっと変に緊張してしまうのだ。
「そこができれば完成ですね。やっぱりこれは世代別に分けてまとめましょうか」
 カガリの机に寄って、手にしていた資料を見せながらアスランはまとめ方について提案する。彼のおかげでレポートは完成間近だったが、カガリの集中力はちっとも働かなかった。
 しばらく押し問答してみてもアスランはふわふわとかわしてしまうばかりで、カガリは断念してレポートを手伝ってもらうことにしたのだが、断固拒否していればよかったと今になって後悔していた。アスランの誘導を耳で聞きながら、キーボードをひたすら叩く。右頬の辺りに視線を感じて仕方がないのだが。
「……俺の顔、なにか変でしたか?」
 静かだと思ったら、ぽつりとつぶやくものだから、打ち間違えてしまった。
「一度や二度じゃなかったから聞きたいな、と思ってたんですが、アスハさん、よく俺の方見てますよね」
 無視してしまいたくて、カガリは文字を打ち続けた。
「もしかして、嫌いですか?」
 俺のことが、とアスランも資料を見つめながら小声で囁いた。誰も聞いてなどいないのだが、まるで職場の内緒話のように。
「率直で申し訳ないのですが、俺を避けていますよね。アスハさんは他の同僚や先輩だったら誰でも垣根なく接しているから、唯一の例外は目立つんですよ」
 穏やかな囁き声なのに、なんだか脅迫されているような気分だった。息がつまってきて、キーボードは叩けなくなってしまった。かといってじりじりと視線を感じるアスランの方を向くこともできず。
(なんて答えたら……)
 アスランはカガリの返答を待っていた。
(苦手ではあるけど、嫌いなわけじゃなくて)
 けれども今までこれほど気まずい苦手意識を持った相手はいなかったので、もしかしたらこれが嫌いだという感情なのかもしれない。だからといって、嫌いだと本人に向かって言えるわけがなかった。
「べつに嫌いなんかじゃないです……私は」
「でも少なくとも苦手だと思っていますよね」
 すかさず彼は言った。
「ぜんぶ、顔と態度に出てますよ、アスハさん」
「え……、いや」
「ぎくりとしたでしょう? 今」
 図星だった。彼には心を読む能力でもあるのだろうか。カガリは何も返せずにうつむいてしまった。
「やっぱり、子供みたいに嘘のつけない人ですよね。ほんとう、わかりやす過ぎて可愛いな……」
 笑みを噛み殺しているような声だった。可愛い、というそのつぶやきにカガリの耳は過剰に反応していた。
(……可愛いって)
 いつから胸がこんなにうるさく鳴っていたのだろう。いよいよこの状況に堪えられなくなって、カガリはつい癇癪を起こしてしまった。
「もう、いい加減にしてください。からかうなら他を当たってくださいよ」
「からかうならもちろん他を当たりますよ。俺はいたって真面目に聞いています」
 しかしアスランは申し訳なさそうに笑うと、少し楽しんでいたのは本当だけど、と付け足した。それはカガリの頭に血を上らせるには、十分効果的な一言だった。
「おまえな……っ」
 かちんときて、はっきり思った。こいつは嫌いだと。
「もう、嫌いだ。嫌いだぞ、おまえなんか。こんな意地の悪いやつだと思わなかった」
 立ち上がって、思いきりわめいてやった。
「手伝うなんて言っておいて、どうせ私をからかうために残ったんだろう。手助けなんかなくてもレポートくらい私一人でできるぞ。さっさと帰れよ」
 頬が上気して、息がきれていた。言ってやるとやけにすっきりとした気分だったが、アスランはさすがに驚いた顔でカガリを見上げていた。お互い無言で見つめ合う。やがて興奮が落ち着き、沈黙が身に染みた頃になって、やっとカガリは我に返った。
 一気に血の気がひく。
(私、いま……)
 アスランも驚くはずだ。次のアスランの反応が恐ろしかったが、彼の反応は反対にカガリを驚かせた。彼は声を上げて笑ったのだ。
「すみません。こんなに怒るなんて思わなくて、さすがにやりすぎでしたね」
 とぎれとぎれに言う。
「失礼を働いたのは謝ります。意地悪がしたかったんじゃなくて、ただ、アスハさんのいろんな表情が見てみたかったんですよ」
 アスランが怒るカガリに呆気にとられたように、整った顔を崩して笑うアスランをカガリは呆然と見下ろすしかなかった。
「どうしても俺には事務的な会話しかしてくれなかったですからね。他の人には惜し気もなく笑うのに」
 ため息で息を整えて、彼は椅子に座りなおした。
「そんなにおかしいですか……」
 なんだか力が抜けてしまい、カガリは椅子にもたれるように腰を下ろした。
「いえ、思った以上に上手く引っ掛かってくれたものだから」
 アスランはまだ笑いが抜け切らないようだった。
「ザラさんは、そんなふうに笑ったりしない人だと思ってました」
 少しふくれて、カガリはアスランをにらんだ。
「へえ……じゃあどんなふうに思ってたんですか?」
「もっと大人な人だって」
「大人だって笑いますよ」
 アスランは手にしていた資料を綺麗にまとめた。
「けど俺の方は思っていたとおりでしたよ。アスハさんは、なんというか子供がそのまま成長したみたいな人ですよね」
「それって褒めてるんですか」
「もちろん」
 アスランは正解を言い渡すようににっこり微笑んだ。
「なんだか嬉しくない……やっぱり、だまされたような気がする」
「釈然としないなら、今度お詫びに何かごちそうしますよ」
 くすくす笑いながら、アスランは提案した。
「何がいいか考えておいてください」
「え……」
「それで、レポートは大丈夫そうですか?」
 きょとんとするカガリの隣からアスランは液晶画面を覗いた。
「そろそろ時間が迫ってきましたし、切り上げて早く帰りましょう」
「あ、はい……」
 さくさくと言われるままに、カガリはパソコンに向き直った。後は真面目に手を動かし仕事を完成させるだけだった。
 認めたくはないがアスランの的確なアドバイスのおかげで思ったよりも仕事は楽に片付き、カガリは終電よりずっと早く帰路につけたのだった。
(変な一日だったな)
 いつもの電車のいつもの車両で夜の光が流れていく窓の外を眺めながら、カガリはアスランとの会話を繰り返し思い出していた。
 彼の表情も、仕草も。耳に響いた声も、じんわりと体に残っている気がした。頭もぼうっと熱いようだった。
(熱でもあるのかな)
 頬に手をやると、手のひらのほうがずっと熱っぽかった。世間話にもならない、天気や、仕事の会話を思い返す。
 別れ際に、そういえば連絡先を知らなかったからと、携帯の番号を聞かれた。たしかに同僚のなかで彼の連絡先だけが欠落していたので、カガリは教え、アドレスはいいのかと逆にたずねた。しかし、彼はメールは嫌いなのだと言った。
(変わってるよな。男友達はみんなたいてい初めにアドレスを聞いてくるのに)
 カガリの男友達はほとんどが、わりとまめにメールを送ってくる。学生の頃からの付き合いだったり、同僚だったり、取引先の人間だったりである。飲みに行こうとたびたび誘われるのだが、予定が合わなかったり、そもそもカガリが酒を好まないために、誘いに乗ることはまれだった。
(ごちそうする……って言ってたよな、あいつ)
 あんまりさりげなかったので、冗談の続きなのか、本気の言葉なのかがわからない。ふたりきりで食事をするなど想像しただけでカガリは気まずかった。
 
 
 晩秋の透明な陽射しを浴びられる窓際の席が、カガリは好きだった。
 ビルの最上階から見える景色は日に日に色がなくなってきて、冬が近づいていることを知らせている。寒い季節が来るのだ。
「まったく、なんでカガリばっかりなのかしらねえ」
 テーブルを挟んだカガリの正面には二人の友人が席についており、そのうちの一人、フレイが頬杖をついて思いきりため息をつくと、隣に座るラクスが得意げに答えた。
「だってカガリさんですもの」
「この天然娘のどこがそんなにいいのかしらねぇ、色気だったら大差で私の勝ちなのに」
「なんだよ、それ」
 休憩時間の社員食堂はにぎやかで、フレイのオーバーリアクションも歓談に紛れてしまうくらいだった。日なたのテーブルを三人で囲んで、昼食をとりながらするいつもの雑談の中で、カガリは昨夜の残業のことを話したのだが。フレイとラクスが、意外なくらいに食いついてきたのだ。
「それで、連絡はきたの?」
 カガリの話に対するフレイの興味の強さが、彼女の瞳の輝きから見てとれた。
「昨日の今日でくるわけがないだろ。今朝だってあいつは普通だったし」
「でも、私は気になってしょうがなかったのに……ですか?」
 ラクスも大きな瞳でカガリをじっと見つめてくる。
「いつ、私がそんなことを言ったんだよ。変なこと付け足すな」
 カガリは赤くなってしまったことをごまかそうと憤慨した。
「ただ、アスラン・ザラがちょっと嫌なやつだったって話をしただけだろう。人のこと面白半分にからかって……」
 話をしている間にすっかり冷めてしまったカフェオレのカップを両手で包む。
「あいつは、他の課の子達が騒ぎ立てるようなやつじゃないぞ、きっと」
 カガリの言い分をじっくりと聞いていた二人は、やがて深刻な表情になった。
「困りましたわね……」
「……そうね」
「何がだよ」
 二人の間だけで理解が成立していることにふてくされて、カフェオレを一気に飲み干した。
「ねえ、カガリ。私、アスラン・ザラに関わるのはよしたほうがいいと思うわ」
 フレイはやけに真剣に言った。
「……なんで?」
「今だったらまだ引き返せるからですわ。まだ取り替えしがつきますもの」
「そう、好きになっちゃってからじゃ遅いわ」
 続けざまにフレイが告げた言葉に、カガリはほとんど立ち上がってしまいそうになっていた。
「好きって、な、ちょっと待てよ」
「ほら、そうやって焦るでしょう。気になっている証拠よ」
 喉の奥を握られたみたいだった。言い返したいのに、声が出てこない。
「でも、カガリさん、わたくし達はあの方をあまりおすすめできませんの……」
「ホントだったらあんたの初恋を応援してあげたいんだけど」
「初恋……って、だから二人とも」
 両手で顔をおおってしまいたかった。おかしな前提でどんどん話が進んでいってしまう。
「あのね、カガリ。あんたは知らないんだろうけど、アスラン・ザラに告白した子がまともに彼女になれたって話はぜんぜん聞かないのよ」
「皆さん、たいてい泣いていらっしゃるそうなんです」
「それだから、あんなに有名なのよ、あの人は」
「使い捨てみたいなことしてるんじゃないかって言われてるもんね」
「あらあら、カガリさんにはもう少し品のある言い方のほうが……」
 そんな話は自分には関係ないと言うつもりが喉に張りついてしまい、カガリはコーヒーカップを手にしたまま固まっていた。