でも、言えない

運命後





 懸命に広い肩にしがみついていた。
 掴まっていなければ、どうかしてしまいそうだったから。
 その肩が揺れるたびにカガリはたまらず声を漏らしてしまう。
 うっすらと汗ばんだ肌と肌を隙間なく合わせて、体の奥で繋がっているのに、まだ足りない。貪欲に求めたくなる。
 いとおしくてたまらない気持ちで手を伸ばしたら、彼の髪に触れた。緩い癖のある柔らかな髪。その髪が夜明け前の空のような群青色だということを確信しながら、カガリは閉じていた目を開けた。
彼の乱れた吐息を耳元に感じる。
 顔が見たい。
 彼の顔が見たいと切実に思って、カガリは身をよじってその意思を示した。息はあがるばかりで言葉で伝える余裕がなく、肩をほんの少し押しただけだったが、その人はカガリの要求を察してくれた。
彼がゆっくりと上体を起こしながら、角度を変えてカガリへ、さらに深く入ってくる。
 わずかな明かりのなか、こちらを見下ろす翠の瞳と目があった。
「……アスラン」


 自分の声で目が覚めた。
(夢……)
 いま、彼の名前を呼んだのは自分の唇だったのか。
 それとも夢の中でのことだったのか。
(そうか……夢だったのか……)
 まだ日の出前だった。一人きりの寝室は薄闇の中にある。空気はしんと少し冷たかった。
 カガリは右手で顔にかかった髪をはらおうとして、手のひらが汗ばんでいることに気がついた。
(こんな……夢かほんとかわからなくなるな……だって、あれは)
 アスランとあんなふうに触れあったのは、もう何年も前のことだった。カガリが十六の少女だったときのこと。
(でも、さっきの夢にいたのは……今の私だった)
 カガリは体を起こした。まだ目覚めるには早かったが、もう一度眠ることはできそうになかった。
 薄手の寝間着に包まれた自分の体を見下ろす。
 シンプルな絹のワンピースは体に沿ってなめらかな曲線を描いている。男子に間違われることも珍しくなかった十六歳のカガリにはなかったものだ。さっきまでいた夢の中で、アスランの温もりを抱きしめていたのは華奢なばかりだった十六歳の自分ではなかった。
そしてカガリを抱きしめていたのも十六歳の少年ではなかった。
「なんだって、あんな……」
 小声でつぶやいた。
 オーブ軍の軍服を着たアスランとは三歩以内の距離に近づいたことすらない。一度だけ交わした抱擁の他には。少年のアスランしか知らないはずなのに、夢の中のカガリは彼の背が自分よりずっと高いことを心得ていた。抱かれ方を知っていたのだ。
「……手だって握ったことないのに」
 カガリは歪めた顔を手でおおった。
 よりによって、今朝、夢に見たことが疎ましい。どうやって気持ちを立て直したらいいだろう。今日の予定には軍の定期報告会への参席があった。


「では我々はこちらでお待ちしております」
 護衛の二人が扉の前で立ち止まった。
「ああ、ありがとう。よろしく頼む」
 彼らを見上げてカガリは口許に笑みを作った。カガリより頭二つは大きい、隆々とした体格の二人だ。
 護衛業務の専門家である彼らは、軍人ではなく政府管轄のいわゆるシークレットサービスだ。これから行われる軍の会議には立ち入ることはできない。会議が終わるまでは扉の前で待機しておくのが常だった。
「このあとは確か会食の予定だったな」
「はい。十九時より、財務長官らとの会食となっております」
 護衛のうち年長の男が、情報端末を開いて確認をする。会食の参加者を読み上げてもらい、カガリはそれをうなずきながら頭にいれた。
「会食の予定は少し早めることも可能なのですが……」
「早める? 誰かから要望があったのか」
「いえ……差し出がましいことを申し訳ありません。朝食をあまり召し上がっておられなかったので、もしやと思いまして」
 彼は何年もカガリの専属の護衛として勤めている優秀な人材だ。日々の中の些細な変化も鋭敏に察する能力がある。いつも食事をすべて食べきるようにしているカガリが今朝に限って料理を残していたのを、見逃してはいなかったらしい。
「大丈夫だ、どこも悪くなんかないよ」
 カガリは手を腰に添えてポーズを取ってみせた。
「このところちょっと忙しかったからかな。でも体調は万全だ。それに昼食はぜんぶ食べただろう」
「そうでしたね」
 偉ぶった顔をする小さな代表首長を見下ろして、護衛の二人はどちらも笑顔になっていた。
 首長服に袖を通した瞬間から、カガリはオーブ連合首長国代表なのだ。どんな時も演じきらなくてはならない。朝食のことだけは失態だったが、今はもう表情のすべて、体も指先までも、代表首長としての振る舞いができているはずだ。
「本日の会食の後はアスハ邸に帰宅予定となっていますので、早めに帰れるよう取り計らいをいたします」
「そうか……悪いな」
「お体がなにより第一ですので」
 敬礼のあとに二人の護衛は重い扉をゆっくりと開けた。廊下に立つ二人へ返礼をしてから、カガリは会議室に入った。背後で観音開きの扉がきしむ音を立てて閉まる。室内を見渡していると、先に入室していた人物が近づいてきた。
「ご参席ありがとうございます、アスハ代表」
 最敬礼で出迎えたのは、見馴れた人物だった。
「ザラ准将、すまないな、仕事を増やしてしまって」
「増えてはいませんよ。業務のうちのことです」
 ばかに真面目な返答をする。彼らしいな、とカガリは口許を緩めながら相手を見上げた。翡翠の珠のような瞳と少しだけ目が合ったが、彼がすぐに手元の紙の束に視線を落としたので、観察する間はなかった。
 今朝の夢で見た瞳。
「こちらが今日の報告会の参考資料です。開始までまだ時間がありますので一度目を通していただけるとスムーズだと思います」
「ありがとう。いま、確認してもいいか?」
 差し出された冊子を受け取って、カガリは斜め読みを始める。カガリが軍の会議や報告会に参加するときは、たいてい将校から事前説明を受けることになっていた。普段、軍務に携わっていないカガリには、専門性の高い議題になると予備知識がなくてはならない。
彼が今日の講師役なのは、数日前から決まっていたことだったが、カガリは淡々とことを進めていた。マルーンレッドのジャケットに身を包んだ今は、夢はただの夢でしかない。
 報告会の開始予定まであと三十分ほど。カガリは資料に目を通しながら、気になった点を次々と質問した。答えるザラ准将は、一瞬の思案や迷いもなくさらさらと返答していく。どれも簡潔で最適な答えだった。
突っ込んだ質問をすると、従軍経験の長い者でも即答できないことはままあったが、彼だけはそういうことが一度もない。
 心の隅で感心しながら、資料の最後のページを読み終えて、カガリはふと気づいたことを口にした。
「もしかして、今日の報告会の内容は准将の苦手分野だったりするのか」
「……そういうことはありませんが。なぜですか?」
 資料から顔をあげたアスランと視線がかち合った。やっと彼の目を正面から見られたのではないだろうか。
「いや……いつも目を見て理解や反応を確かめながら説明してくれているのに、今日はずっと資料から目を離さないから」
 なぜ、彼はこちらを見ないのだろう。今日の報告会で導入を議論する新技術の原理を詳しく尋ねたからだろうか、などと考えたのだ。
「……不自然でしたよね。たしかに」
 アスランは決まりが悪そうに眉をゆがめて笑った。
 それで、資料ばかり見ていたのが意図的なことだったとわかった。
「無礼な態度でもありました。申し訳ありません」
「いや、そうは思っていないよ。不思議に思っただけだから」
 詫びる姿勢をとるアスランをなだめるようにカガリが言うと、彼はじっとこちらを見てきた。熱心な視線に、たじろいでしまいそうになる。
 彼は少し考える様子で黙っていたが、やがて呟くように言った。
「今朝、夢に見たばかりだったので」
 アスランのまなざしに、カガリは思わず身をすくませた。
 手が触れる距離にもいないのに、視線が肌に触れた気がしたのだ。
「……あっ」
 両手に持っていた資料の冊子が床に散らばった。絨毯の上に落ちた衝撃でクリップが外れて何十枚もの紙がばらばらと花びらのように舞う。
「わ……ごめん」
 はっと気づいて、カガリはそれだけ口にした。
 胸がうるさく鳴っていて自分の声もよく聞こえなかったが、アスランは拾います、と言いながらかがんで紙を集め始めてくれた。
「すまない、私も拾う」
 カガリもあわててしゃがみこんだ。
 三十人分の椅子が用意してある広い会議室に、紙をくしゃりと触る音が妙に響いて聞こえる。二人きりなのだから当然かもしれない。
(夢に見たって、それは……私を?)
 服の内側に閉じ込めていた今朝の記憶が、どっとカガリの身体中を支配してしまった。資料を持つ手が震える。
(いま、私を見たアスランの目は)
 夢の中で見た彼の目だった。見つめられるだけで体温が上がるような視線。
「代表、大丈夫ですか?」
 アスランがこちらを気づかわしげに覗き込む。言葉もまなざしも多分に意味を含んでいた。
 耳まで熱くなっている。
 頬が目に見えて赤くなっているはずだとカガリは思った。それに彼は気づいているのか。
「……あ」
 同じ紙を拾おうとして、アスランの指に触れていた。もう、少年の手ではない。カガリの手よりずっと大きな手のひら、骨ばった長い指。
「……私も」
 声はかすれて、囁きになっていた。
「……私も、今朝」
 報告会が始まるまで、たぶんあと二十分くらい。最初の参会者が部屋の扉を開けるまで、どのくらい時間があるだろうか。
それをどこか冷静に考えながら、カガリは指に力を込めた。





アスラン視点で書こうとしていたときの没文章を
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2018/11/20