ポケットの中の星を

一章 蠍の火

 川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう。」ジョバンニが云ひました。「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より


 その古典童話を読み聞かせてくれたのは、キラの母親だった。
 アスランがヤマト家で夜を過ごすときは、カリダは決まって何かしらの本を二人に読んで聞かせた。アスランもキラも、兄弟というものを知らない子供だったが、ほとんど兄弟のようにして過ごしていたと思う。ベッドにキラとアスランとを並べて寝かせ、二人へかわるがわる視線を向けながら、彼女は丁寧な発音で物語を読んでくれたものだった。キラが好きでよく読んでくれとせがんだその童話は、やや古風な日本語で書かれていたので、カリダは英語圏で育ったアスランのために、ことさらにゆっくりと物語を紡いだ。
 その頃のアスランは、キラの両親が早口で交わす日本語の会話も難なく聞き取れていたので、理解が難しいということはなかったが。柔らかな口調に込められたカリダの優しさは素直に嬉しかった。ついでに言うと、キラもアスランがレノアと会話するときの英語をすべて理解していたので、子供だけでの会話は言語がごちゃまぜになっていた。
「蠍はいまも星のままなのかな?」
 キラがぽつりと日本語でそう呟いた。カリダはもう電気を消して部屋を出て行っているし、独り言かなと暫く黙っていると、ねえアスラン、と呼び掛けてきたので答えが欲しかったらしい。眠るつもりで目を閉じていたアスランはベッドの中で寝返りをうった。
 キラは暗くなった部屋の天井をぼうっと見つめていた。
「キラは蠍座という星座を知っているか? 地球から見た星空の話だけど」
「星座かぁ。本で見たことあったような……」
「蠍座にはアンタレスという赤い恒星があるんだ」
「ああ、赤い星」
「そうだ。たぶんあの話の蠍の火というのはその星のことだと思うな」
「それって………」
 何を思ったのか、キラはせっかくかけてもらった毛布をはぐってベッドを抜け出した。裸足で床をぺたぺたと歩いて、子供部屋の大きな窓の前に立つ。
「そのアンタレスって月からでも見える?」
「ええっと、時期にもよるけど見えるはずだぞ。たしか……」
 アスランもベッドから出てキラのとなりに立った。環境灯の消えたコペルニクスの空は星の光で埋め尽くされていた。
「あった、あれだ。赤くて明るい……」
「ほんとだ。綺麗な星だね」
 アスランの指差す先を見て、キラはほうっとため息をついた。
「死んだらあんなに綺麗な光になれるのかな、人も」

* * *


 コックピットのハッチを開くと、数えきれない星の光が視界に広がった。
 何万光年も先にある恒星の光が真空の宇宙では手に触れそうなほど近い。闇の中に大小あまたの光る石を無数に流し込んだような景色だった。宇宙で生まれ育ったアスランには、星々の光も特別心を動かされるものではなかったが、その時はあるものに気づいてふと目を戻した。
 ひときわ輝く赤い星があった。星の命を燃やしているような光がはっとするほど美しい。
「アスラン・ザラ、どうした?」
 ヘルメットの内に通信の声が響いてはっと我に返った。どうやら吸い寄せられるように赤い星の輝きを見つめていたらしい。
「いや、なんでもない。作業を開始する」
 感傷に浸りに来たのではない。仕事があって船外にいるのだ。アスランはテザーのフックを手すりに固定すると、ハッチの縁を蹴った。ふわりと真空の海に泳ぎ出す。推進装置で方向を調整しながら、難なく目標物にたどり着いた。右手でそれに触れながらアスランは体勢を整える。巨大な金属の構造物。ザフトのモビルスーツだった。
人型の戦闘機は頭部を破損して、機関は停止して久しい様子だった。だが、幸いにも電源は生きている。コックピットの開閉装置にランプが点滅しているのを確認して、アスランは息を吸い込んだ。
「いま、目標の電力残存を確認した。これよりコックピット内を確認する」
 相手の了承を待ってから、アスランは並んだボタンを操作した。プラントで造られたモビルスーツだ。扱いは熟知している。
 アスランの操作に応じて沈黙していたモビルスーツにかすかな振動が生じたのはたっぷり十秒は経ってからだった。意識を取り戻したようにゆっくり開いたハッチの奥に人影が見えた。それを見据えながらアスランは唇を結んだ。機体の損傷はひどくはない。致命的な怪我さえなければ今度こそ助けられるかもしれない。
 体を滑り込ませるようにして、コックピット内に入った。操縦席に座っていたのは青年だった。さっと彼の全身に目を走らせて大きな外傷がないのを確認する。気を失っているのだろうか、わずかも動かない。けれど、呼吸はある。かすかに腹部が動いており、青年の生存を教えていた。
「大丈夫か? 救助にきたぞ」
 アスランは彼のそばに寄って肩を叩いた。通信を開いて呼び掛けるが、相手に届いているかどうかはわからない。それでも、呼び続けた。
「しっかりしろ、助かるんだぞ」
 懸命に声を上げても、電波を介さないと伝わらない真空がもどかしい。けれどもここが宇宙であるおかげで、アスランひとりでも救助ができるのだ。青年を担いで戻るのはたやすいことだった。
 アスランは応答を待つのをやめて慎重に彼の体に手をかけると、そっと引き寄せた。
「……うっ」
 かすかなうめき声が通信から聞こえた。
「気づいたか?」
 はっとして、アスランは青年の脇腹に添えていた手を離した。
「すまない、傷に触れただろうか」
「……いや」
 青年は顔をしかめてから、ぼんやり目を開けた。
「……おかげで目が覚めた」
「そうか、意識が戻ってよかった。どこか他に痛むところはあるか?」
「……全身が痛いな」
 答えながら、青年は弱々しく笑った。衰弱は見られるが、状態はひどくはなさそうだと検分して、アスランは少し安堵した。
「手当てが受けられるところに案内する。が、その前に説明を聞いてもらいたい」

 地球軍とザフトの戦闘が停止してから二日が経った。
 混沌の殺戮がおびただしい命を散らした空間には、冷たくなった機体の残骸がいくつも漂っていた。水面下では停戦合意が進められているという情報を伝え聞いているが、和平に至ったわけではない。アスランたちも、今はただ黙って連合とプラントの動きを注視していた。
 待つより他になかった。けれども、ただ状況を見守っていては手遅れになるかもしれない命がすぐそこにあるのだ。それがわかっていて、じっとしていることはできなかった。そう意見するものが多く、戦闘の疲れを癒すより先に仮づくりの救助隊が組織されたのだった。
「助かるなら、なんだっていいさ。連合でもそうでなくても……」
 アスランの話を聞き終えた青年は弱々しく言った。
「なんたって、生きていれば家族に会えるからな……」
 かすれた声でつぶやきながら、彼はコックピットの壁に手を伸ばそうとした。上手く腕を上げられない様子の青年に代わって、アスランは壁に貼られた写真を指差した。
「……これか?」
「すまない。持っていきたい……これだけは。頼む」
 言いながら、意識が保てなくなってきたらしく、青年のまぶたが重そうに垂れてくる。
「わかった。俺が必ず持っていくから」
 青年を抱えながらアスランは写真を剥がしてしっかりと握った。陽光の中で微笑む女性と、彼女に寄り添う幼児が写った写真だった。
 そういえば、父もずっと執務机に写真立てを置いていた。なんの写真だろうと、いつも思っていた。その写真が母と幼い自分が写ったものだったのだと知ったのは、父に撃たれた時だった。
 あの割れた写真立てを、父はどうしたのだろうか。
 青年を連れて自分の機体に戻ると、アスランは真っ先に彼の家族写真をなくさないよう仕舞った。彼のお守りであり、道しるべであるものだ。家路を示す道しるべ。
 青年には帰りたい場所、会いたい家族がいる。それらは自分にはもうないものだな、とアスランは無意識に内側に思考を向けていた。
 はるか過去を振り向くと、父も母も笑顔でそこにいるが、いまもこれから先にも彼らは永遠にいないままだ。先を見据えても未来は夜明け前のように暗くて、よく見えない。
 いなくなってしまった父と母は、あの無数の星の瞬きのどれかになってしまったのだろうか。
 そこに行けば会えるのか。
 ふっと、幼い頃に聞いた物語の幻影に囚われそうになって、アスランは衝動的に手を動かした。
「目標のモビルスーツのパイロットの生存を確認、保護した。これよりパイロットを伴って帰投する」

 医師の見立てでは青年は衰弱著しくあるが命に別状はないということだった。それを聞くまでが重要だったアスランはひとまず胸をなでおろした。また一人、助けることができた。
 労いつつひとまず君も座ってはどうか、と促す医師に一礼して、アスランはかかとを反転させた。さっきまで使っていた機体はすぐにでも動かせるようにしてあった。
 宇宙を漂っている要救助者にはタイムリミットがある。彼らの機体か、パイロットスーツの生命維持装置の電源がそのまま時限装置といえるのだから。一秒でも惜しかった。
「もう動かすんですか?」
 モビルスーツの点検をしていた整備士が乗り込もうとするアスランを見て目を丸くした。
「そうだが、整備が必要か?」
「いえ、いまのところは機体に不具合はありませんが……」
 整備士は困ったように視線を泳がせたが、やがて決心した顔でアスランを見た。
「機体に休息は必要なくても、動かす人間はそうはいかないと思います」
「……ああ、そういうことか」
 アスランはかすかに笑った。
「わかっているなら、休むべきです。この二日の間、乗りっぱなしじゃないですか……食事もとっていないのも知っています」
「食事なら携行食を摂っているから問題ない」
「携行食は栄養材のようなものです。食事とは言えませんよ」
 整備士は食い下がったが、彼の言葉はアスランの耳を素通りしていた。
「それで充分だろう。操縦にはなにも支障はない。それより、次の目標地点のデータを頼む」
 コックピットに乗り込んで、起動をかけた。まだ小言を言いたそうだったあの整備士は、渋りながらもデータを送ってくれていた。その数値を頭の中に入れながら、アスランは携行食のパックを掴んだ。
 空腹は感じないが、必要な栄養素とカロリーが不足すると脳も手足も働かなくなる。決まった時間に栄養を摂取するのはパイロットの仕事であると考えていた。
 ゼリー状の液体を機械的に嚥下する。果実に似た風味づけされていると書いてあったが、何の味も匂いもしなかった。だが、それは重要なことではない。頭の中はすでに次の救助活動の段取りと目標地点への経路計算でいっぱいだった。
 父を止められなかった自分にできることを探していた。あまりに多くの命を戦場に投げ捨てさせ、戦火をただただ広めた父を止められなかったことへの対価、償い。ジェネシスのはらわたの奥でしようとしたのは、償いとして自分にできる最大のことだった。
 そこから戻ってきたのは、そこで終わりにせずに戦い続けると決めたからだ。

「アスラン、こんにちは。お疲れ様でしたね」
 今日二人目の救助者を慌ただしく救護室に運び込んだところで、背後から呼び掛けかけられた。
「ラクス?」
 微笑みをたたえた少女がぽつんと立っていた。はっとして、アスランは詰め寄る勢いで言った。
「もしかして、何かプラントから情報が入ったのか? 状況になにか変化が」
「いいえ、なにも」
 アスランの早口に対して、ラクスはゆったりと答えた。
「まだ、もう少し時間が必要なようですわ。両者が話し合いのテーブルにつくまでには……」
「……そうか。せめて停戦合意だけでもされれば救助の手も増えそうなんだが」
「ただ待ってはいられないことが、ここにはたくさんありますからね……アスランが先ほど連れ帰ってくださった方も。一刻を争う状況のようでしたね」
「ああ、実質的な停戦から二日が経過している……今は一分でも惜しい。すぐにまた戻らないと」
「そうですわね、ええ。そうおっしゃると思って参りましたの。お止めしようかと」
 穏やかな表情のまま、ラクスは有無を言わせぬ気配を漂わせた。
「止める? しかし、いまは動ける人員が多くはないだろう」
「だから、ですわ。あなたがいなくてはきっと皆が途方に暮れてしまう。逸るお気持ちはとてもよくわかりますが、少しは休息をとらなくては、倒れてしまいますわ。キラのように……」
 ラクスがうつむいて言葉を切る。キラはエターナルに戻ってきてからずっと寝込んだままだった。怪我の程度は酷くはないのに、なぜか熱が下がらないのだ。
「俺なら問題はない。仮眠はとっているし、携行食で栄養は足りているから」
「なにをそんなに急いでおられるのですか?」
 悠長に話すラクスに思わず気が荒だった。まるで子供の問いかけのような言葉に、焦る気持ちが怒りに変わりそうになる。
「どうしてって、つい今も自分で話したことじゃないか。救助は一刻を争うと」
「今の時間はクサナギから救助の人員を出して頂いています。交代と休息はわたくしたちが持続的に活動するのには必須のことです」
 ラクスの顔から笑みが消えていた。
「アスランは、まるで何かに追いたてられているようではないか? と……」
「え……」
「カガリさんが心配なさってましたよ」
 その名前を久しぶりに聞いた気がした。前に顔を見たのは二日前だから、久しぶりというにはおかしいが。彼女のことを思い出すと、急き立てる耳鳴りのような音が小さくなっていた。
「アスランがきちんと食事をとっていないことにも、カガリさんは憤慨されていたので……じつはエターナルの食堂で待っていると伝言を預かっているのですけれど」
 たくらむ仕草で首をかしげて、ラクスは食堂へ続く廊下へアスランを促していた。カガリが食堂のテーブルに頬杖をついている様子が思い浮かぶ。たぶん、ぷりぷりしながら指先でテーブルを鳴らしている。
「……その伝言を初めに言ってほしかったな」
「そのつもりだったのですが、うっかり話し込んでしまいましたわね」


 ラクスの前を辞して向かった食堂ではカガリがぽつんと一人で座っていた。机に頬杖をついてはいたが、怒っているのとは少し様子が違った。考え事をするように、ぼうっとしている。
「食事は済ませたのか?」
 アスランが近づいて声をかけると、カガリは驚いた顔でこちらを見た。
「アスラン……?」
 金色のまつげを何度も動かしている。幻でも見たような顔だ。
「どうしたんだ? カガリも食事をしにきたんだろう」
「あ、いや、私はクサナギでさっき食べたから」
 答えてから、カガリはジャケットの胸元をぎゅっとにぎって長い息を吐いた。
「ああ、びっくりした……いまは船外作業に出ているって聞いてたから、会えると思わなかった」
 驚かされたことがおかしくなってきたのか、彼女はくすくすと笑いだした。ああ、そうだ、彼女はこんなふうに笑うんだったな、と思ったら湯に浸したように気が緩んだ。
「俺が船外作業に出ているって誰から聞いたんだ?」
 なんとなくことの次第が推察できたが、アスランは念のために尋ねた。
「ラクスが言っていたぞ。しばらくはもどらないかもって」
 それは嘘ではない。アスラン自身、戻らずにまた宇宙に出ようとしていたのだから。しかし、つまりはカガリからの伝言というのは、アスランの気を引くでまかせだったということだ。
「なに、笑ってるんだ?」
 カガリがうつむいたアスランをのぞきこんできた。
「いや、休息はたしかに必要だな、と思っていただけだ」
「なに当たり前のこといってんだ」
 カガリは眉をへの字に曲げたかと思うと、すぐさまそれを吊り上げた。
「そうだぞ! アスラン、おまえまともに食事をとってないだろ? 戦闘が停止する前からこの食堂にほとんど来てないの、知ってるんだからな」
「……なんでカガリが知っているんだ?」
「調理師から聞いた!」
 言うなり立ち上がったカガリは、アスランをぐいぐいと調理場に引っ張ってゆき、いくつも料理を注文した。トレイがいっぱいになるほど皿を並べると、カガリは嬉しそうに目を丸くしていた。出てきた料理の出来栄えに驚いたらしい。
 エターナルはザフト出身の乗組員がほとんどだ。彼らが食べなれているものがメニューに多いので、カガリには珍しい料理もあったらしい。アスランに料理の説明をたずねたり、一口ねだってみたりと楽しそうだった。
「エターナルの料理長は腕がいいなぁ。クサナギも同じ缶詰や保存食を材料にしてるはずなんだけど、出来上がる料理がこんなに違うのは面白い。次はこちらで食事してみよっかな」
 取り分けたものを口にするたび、カガリは瞳を輝かせていた。
 美味しい、美味しいと彼女が言うので、自分が長らく美味しさを食事に求めていなかったことに、ようやく気づいた。義務のように栄養補給をしていただけだった。いつからだろう。最終の戦闘前からか、いや、モビルスーツに乗るときはいつもレーションしか口にしなかった。基地にいるときでも、食事を美味しいと思ったことがあっただろうか。
「アスラン、美味しいか?」
 思考を見透かしたようなタイミングだった。
「ああ……うん」
 ブール・ルージュの味も、肉の旨味も、ちゃんと舌が理解している。ものが通るだけだった喉が温かい。
「あのな、食事をする気が起きない時は、誰かと一緒に食べるといいと思うんだ」
 両手で頬杖をついて、カガリは満足そうに微笑んでいた。
「同じ食べ物でも、誰かと話しながら食べた方が何倍も美味しいんだぞ? 今は皆ばたばたしてるから、あまり集まって食事したりはしないかもだけど」
 言いながら金色の目で食堂を見渡す。たしかに、がらんとしている。テーブルについて食事をしているのは二人の他には数名しかいない。
「まだ、みんな気持ちが落ち着かないのかな。食堂に料理を食べに来る者がどの船も少ないって聞いた。仕事や作業に没頭していたい気持ちもちょっとわかるけど」
 組んだ両手を見つめてカガリはうつむく。
「ラミアス艦長だって、きびきび指示を出して艦を整えてるけど、この数日はあまり食べられてないみたいなんだ……食べられないのかもしれない」
 恋人と死に別れたばかりの彼女のことを思ったのだろう。カガリの表情が暗くなる。
 アスランは、食事の手を止めて顔を上げた。ラミアス艦長とフラガ少佐が恋仲だったというのは、ディアッカから聞いていた。彼がそのことをどこで知ったのかはわからないが。恋人を亡くしたラミアス艦長の心の痛みはどれほどのものか。
 大切な人はアスランにもいる。いま、目の前で楽しげに味見をしたり、明るい声でたくさん話す彼女がいなくなるなど、アスランには想像できなかった。想像もしたくない。奈落を覗くようなものだ。
「明日も一緒に食事しないか、アスラン」
 カガリが弾んだ声で言った。つられて、アスランの表情が曇ったと思ったのだろう。
「そうだな……」
 気づくと手元の皿はどれも空になっていた。食欲は感じていなかったのに、完食していたことに少し驚いた。
「それじゃあ、明日は俺がクサナギに行くよ」
 明日も彼女の笑顔が見たいと思った。こちらへ来てくれたことへのおかえしのつもりで提案したら、断固とした手ぶりで断られた。
「だめだ。明日は私がこちらに来る」
「気を遣っているのか?」
「まさか。じつはさっき料理長に聞いたんだ。明日のメニューはとっておきの仔牛肉を使うんだってさ! そんなのぜったい食べたいだろ」

 空の食器を調理場に返しに行ったところで、アスランは見慣れた後姿を見つけた。
「ディアッカもこれから食事か?」
「おっ、アスランじゃんか」
 アスランと同じメニューの乗ったトレイを手にした彼は、眉を上げておどけた顔をしてみせた。
「ここで会うって珍しいな。コックピットで食べてばっかだと思ってたぜ」
「それを改めようと考えさせられてたところだ」
 アスランが苦笑いすると、ディアッカはふうんと軽く首をかしげた。
「ま、明日の我が身がどうなってるかなんてわかんねぇし、せめて旨いものは食べてたいよな」
「明日の我が身か……」
 世間話のトーンで話されたことの意味はアスランもわかっていた。ディアッカも、アスランも、ザフトから脱走兵として追われる身の上だ。平常時ならば。
「……アスランさ、国際状況の動きを誰かから聞いてねぇの?」
「いや、まだ大した進展はないようだった」
 声を落として話す。エターナルの乗組員の多くが気にかけている話題だろう。
 情勢がまだ停滞していることを知って、安堵したような、残念がるような、どちらともない表情でディアッカはため息をつく。しかし、暗い顔を長くは見せない彼は、けろりといつもの斜に構えた笑みになっていた。
「そういや、あのオーブのお姫様が心配してたぜ。アスランを見なかったか、て何回聞かれたか」
 にやりとしながらディアッカはこちらを見下ろす。
「ちゃんとかまってあげなくちゃな。あんまり淡白だと愛想つかされるかもよ」
 カガリのことに話が及ぶとは思わなかったので、アスランは少々ひるんだ。
「……かまってあげるとか、そんなものじゃない。彼女は俺のことをそんなふうに待ってはいないと思うが」
「ていうと? おまえら付き合ってるわけじゃないのか?」
「いや、彼女は……」
 答えようとして、言葉が出てこなかった。恋人と、呼ぶのだろうか。彼女のような存在を。
 カガリはアスランのことを、放っておけないと言った。危なっかしいと何度も言われた。かまわれているのは自分のほうだ。どうしようもなく暗がりに引きずり込まれそうになったとき、カガリはいつもアスランの前に現れた。キラを殺したアスランに「死んでほしくない」と護りを託し、自死を選ぼうとしたアスランに「生きろ」と叫んだ。
 光のある所へ、手を引いて呼び戻す。ためらいなく心の内側に入り込んできて、いつもアスランを揺さぶる。どうして彼女はそうまでしてくれるのだろう。いま、アスランの一番奥深く、一番柔らかいところに彼女はいる。
 それを何と呼べばいいのか、わからなかった。
「いや、彼女になら会えたから心配ない。じつはいまそこにいるんだが……」
 質問に答えるのを濁して、アスランは後ろを振り向いた。さきほどまで座っていたあたりに目を向ける。金色の髪が視界の中心に映るはず、と思ったのにすぐには見当たらなかった。
「いるって? どこに?」
 ディアッカも食堂を見渡していた。
「そこだ」
 アスランは言うより先に座席の間を歩きだしていた。カガリはテーブルにつっぷしていた。すぐには気づけなかったのはそのためだ。手前の人物の陰になっていた。
 力なくテーブルに伏せている。いまのわずかの間に眠ってしまったのだろうか。だとしたら、こんなところに長居はできない。
「カガリ?」
 肩を軽くたたいて声をかける。反応はなかった。
「お姫様、寝ちゃってんの?」
 後ろからやってきたディアッカがテーブルにトレイを置きながら言う。
「カガリ、こんなところで寝るな」
 もう一度、肩をたたく。髪が垂れてきていて顔が見えない。身じろぎもしないので、アスランはそっと彼女の髪をかきあげてみた。
「……まさか」
 カガリの頬がやけに紅潮していた。ただのうたた寝にしてはぐったりしているように見えないか。さっと首筋に手を触れてみる。熱い。はっきりとわかるくらい発熱していた。
「どうした、アスラン」
 ディアッカも異変を察したようだった。
「医務室に連れて行ってくる。カガリが高熱を出している」
 いつからだ。少しも気づかなかった。だが、思い返してみればアスランが声をかけるまでの彼女はけだるそうだった。
 目を開けそうにないカガリを抱えて急いだが、医務室はいまだ負傷者でいっぱいだった。簡易ベッドをありったけ持ち込んでいるのに、それでも足りずに椅子で診察を待っている者もいる。医務室の入り口で立ち止まっていたら、背中からディアッカが声をかけてきた。
「どうした、中に入らねぇの?」
 アスランの肩越しに室内の様子を一瞥した彼は、さっと人を掻き分けて看護師に近寄った。何ごとか話しやりとりをして、戻ってきた彼の手には内科診察用の器具がいくつかあった。
「こんなとこで待つより、早くどこかで寝かせてやろうぜ。アスラン、おまえの部屋ってどこだっけ?」

 幸い、同じフロアにアスランに割り振られた部屋があったので、ひとまずカガリをそちらへ運ぼうということになった。
 カガリはアスランのベッドに寝かせられても、まだ目を覚まさなかった。浅く規則的に寝息をたてているので、ひどく心配することはないのかもしれないが、抱いた体は明らかに熱かった。
「過労、じゃないかと思うな。寝てるからあんまりあれこれ診れないけどさ。呼吸音は綺麗だし、風邪症状はなさそうだぜ」
「過労……か」
 休息をとらないアスランを気にかけていた彼女が、高熱を出して意識をなくすほどの過度な働きを自分には課していたのだろうか。
「俺らにはあんまり馴染みがないけど、ナチュラルは過労から死に至ることだってあるからな」
 カガリの様子を注意深く観察しながら、ディアッカは呟いた。その声にはかつてのナチュラルへの侮蔑はない。カガリを知り合いとして心配もしているようだった。
「ま、ともかく休ませるべきだな」
「そうだな。目を覚ましたら改めて診察させるとして」
 ベッドに近寄って、カガリの額に軽く触れてみる。変わらず熱い。彼女がここにいることをクサナギに知らせておくべきだろう。
「ディアッカ、すまないが彼女の様子を診ててくれないか? 俺はクサナギへ連絡してくるから」
 言い残して管制室に向かおうとしたところで、肩をがっしり掴まれた。
「いやいやいや、それ、普通逆じゃね? おまえがついててやるとこだろ」
「逆? 医学知識のあるディアッカが付き添うのが最適だと思ったが」
「おまえって、ほんとそういうところあるよな」
 ディアッカはわざとらしくため息をつきながら首を振った。
「とにかく、連絡なら俺がしとくから、アスランは姫さんの世話してろって」
 言い聞かせるように肩をたたいてから、ディアッカはアスランの手に白いタオルを持たせた。
「汗かいてるだろうから、拭いてやれよ。でないと次は風邪ひきかねないからな」
「ああ、わかった」
「ちゃんと、服の中も頼むぜ?」
 片目をつむってみせてから、彼はさっさと部屋を出て行ってしまった。
「……そうか、体を冷やしすぎないようにだったな」
 アスラン自身も、幼い頃に高熱を出したときは母に体を拭いてもらった記憶がある。それが必要な看病だということは知っているが。
 ベッドに横たわるカガリに目を戻すと、彼女の首元にはしっとりと濡れた気配があった。考えるともなく、無人島で見た光景が脳裏に浮かんだ。彼女の肌を見たことはあるのだ。だが、必要な看病だとしても意識のない彼女の服を脱がせ、タオルで体をぬぐうのはさすがに躊躇われた。
「……いや、クサナギから人が来るのを待つべきだな」
 ひとり呟いて、アスランはカガリの額に浮いた汗の雫を拭った。タオルが触れても、すうすうと寝息をたてている。いまは容態に変化がないか、見守るのが自分にできることだろう。
「……んっ、うう」
 唐突に、それまで穏やかだったカガリの表情が歪んだ。苦しげにうめいて、体をよじる。
「カガリ、大丈夫か?」
 どこか、痛むのだろうか。ベッドサイドに膝をついて様子を伺う。カガリの息が急速に乱れていく。意識は戻っていないが、なにかを訴えているようだった。
「どうしたんだ、痛みがあるのか?」
 肩を軽くゆすって呼び掛ける。カガリは意識のないまま口を開いて、何事か言おうとしているように見えたが、声になっていない。
「カガリ……」
 辛そうな呼吸を聞くばかりで、もどかしくなる。何度目かに名前を呼んだときに、それまで力無く垂れていた彼女の手が何度か空を掻き、アスランの袖をつかんだ。
「いくな……」
 うわ言だった。声はかすれて震えている。不安でたまらないような呼び声に、アスランは思わず返事をした。
「大丈夫だ、どこにもいかない」
 夢を見ているのだろうか。ジャケットに縋りついた小さな手を、アスランは上から包むように触れた。白むくらいに力を込めて袖をつかんで離さない。
「……まっ……て」
 カガリはうわ言を繰り返した。声は小さかったが、まるで悲痛な叫びだった。
 必死に、誰を呼び止めているのだろう。カガリの目尻に涙がにじんでいた。それが、やがて雫になって頬を次から次に伝って落ちた。
「だめだ……しんだ、ら」
 あえぐように言いながら、カガリはつむった目から涙をこぼした。
「アスラン……死ぬな」
 かすれた、か細い声だった。彼女が眠りながら何を見ているのか、どこにいるのか、見えるはずもなかったが、アスランの眼前にはジェネシス内部の幻があった。
 一瞬で地獄のような戦場に揺り戻される。
 『逃げるな!』と言ったカガリの声が力強く記憶に響いていた。生命の力に溢れたその声に呼び戻されたのだ。
アスランが行こうとしていたのは父母のいる場所だった。そこには心地よい常闇が待っているはずで、争いも苦痛も孤独もない。父の過ちを止めた後に、その闇に溶けてしまえるはずだった。
 母が望むはずのない復讐を止める。これこそが自分の存在意義、使命だったのかと、最期のボタンを押そうとしていた。そのすぐ後ろをカガリが追ってきていることには少しも気づかずに。
 カガリが追ってこないはずはなかったのだ。冷静になればそれを察することはできたのに。アスランが切り離したリフターに進路を塞がれて、それでも必死でジャスティスの後を追いながら、カガリはこんなふうに『逝くな』と念じ続けていたのだろうか。
 生きる方が戦いだ、というのはカガリが彼女自身に言い聞かせていた言葉なのかもしれない、と思った。父の自爆を目の当たりにして、焼かれる祖国を置き去りにしてきたカガリは、生き続ける先にある困難を知っていただろう。
 それでも彼女は希望の火を絶やさなかった。
 アスランもカガリも、まだ戦いの中にいる。戦い抜いた先にある未来に光があると信じている彼女を、守りたい。生きる意味、生き残った意味がそこにあるのかもしれない。
「アス……ラン」
 涙に濡れた呼び声で、我に返った。
 震える手を、アスランは両手で強く握った。高熱は続いているはずなのに、カガリの手は生気を失ったように冷たかった。
「カガリ、大丈夫だ。ここにいるから。そばにいる」
 跪いて、手を握る。その姿勢は誓いのようだった。
 この先のことはまったく不確かでも、この気持ちだけは確かだった。宇宙(ここ)で誓うなら星にだろうか。
 蠍の火はいまはまだ、ここにある。