ポケットの中の星を
二章 金星
悲しい気持ちで胸がいっぱいになって、裂けてしまいそうで、目が覚めた。
まつげが濡れていた。しばたくと雫がぱらりと散る。そうして見つめた天井は見覚えのないものだった。眠っていたのだろうか。体はだるく重かったが、気分はすっきりと晴れていた。
何かが悲しくてしかたなかった。そういう夢を見ていた気がしたが、よく思い出せない。
ふと、誰かに手を握られていることに気がついた。左手が温かい。人肌の感触がある。視線と頭を動かして横を見たら、緑色の目とはちあった。
「アス……ラン」
そうか、ついさっきまで彼と一緒に食堂にいたのだった。彼の様子が知りたくてクサナギを出てきたのだ。それが今日の目的だったことを、カガリはゆるゆると思い出した。
「大丈夫か、カガリ? 気分が悪くはないか?」
「……私は、寝てたのか?」
「ああ、少しだけだが」
「どのくらい?」
「二十分も経ってないよ……熱を出して意識をなくしてた、と言う方が正しいかもしれないが」
アスランは神妙な顔をしている。心配をしてくれているのか、と思うとなんだかくすぐったくて温かい気持ちになる。
「道理でだるいと思った。熱があるのか、私」
「ディアッカは過労じゃないかと言っていたが」
「過労だって? そんなわけあるか。たぶんクサナギで一番働いてないのは私だぞ」
盛大に笑い飛ばしてやりたかったが、さすがに熱が高いようで口の端をあげるくらいしかできなかった。
「私の仕事は管理と総括なんだってさ。座って報告を聞いたり、計画について意見するだけだ」
「そうしろと、誰かに言われたのか」
「いろいろ、みんなに言われたんだよ。モビルスーツで出ようとしたら怒られた」
戦争にひとまずの終止符が打たれてからだ。周りのカガリに対する気構えがまず変わったと感じた。彼らが何を考えているのかも、なんとなく察している。オーブに戻れば以前のような好き放題のできる子供のままではいられないのだろう。
「ほんとはね、眠れなかったんだ……」
小さな声で、カガリは誰にも言わずにいたことを話した。
「寝ようと目を閉じると、これまでのことと、これからのことが頭の中に浮かんで止まらなくなって、気づいたら起床時間のアラームが鳴ってる」
父と最期に交わした会話、戦いの中で亡くした近しい者たちのこと、ザフトの中枢で会ったアスランの父、真っ白な未来で自分のすべきこと。思い浮かぶ考え事はいくらでもあった。
「考え事をしてたら寝るのを忘れちゃってたんだ、おかしいな」
「俺に休息をとれと言いながら?」
アスランは眉尻を下げてこちらを見下ろしていた。手はまだ繋いだままだ。温かなアスランの手を、カガリはぎゅっと握り返した。
「そうだぞ。アスランが休まずモビルスーツに乗ってるって聞いたから、文句を言うつもりで来たんだ。でも、たぶん、それって口実だったんだよなって、来てから気づいた」
「口実?」
「おまえの顔を見たら、すごく安心したんだ」
思わず顔をほころばすと、それを映した緑の瞳が揺れた。ほんとうはただ会いたくて来たんだと、続けて言おうとしたのに、彼のかすかな動揺を感じたら言えなくなっていた。
「まあ、安心したら、すごく眠くなってこんなことになってしまったんだけど」
食堂の机につっぷしてうとうとしてしまったのを思い出したすと、なんだかばつが悪かった。恥ずかしいのを笑ってごまかす。
「アスランのベッド占領しちゃって悪かったな」
「いいよ、俺が連れてきたんだし」
「連れてきたって……そういや、どうやって」
「抱えてきただけだが?」
こともなげに言うので、カガリはおおげさにため息をついてしまった。
「なんだよ、いいなあ。私も人ひとり簡単に担げるくらいになりたいよ」
正直に羨ましかったので、すねてくちびるを尖らせた。
「人を担ぐって? カガリが?」
「キサカみたいなのが目標で、鍛えてはいるんだけど、理想って遠いもんだよなぁ」
「キサカさんみたいになりたいのか……?」
アスランは絶句したような顔をしていた。
だが、カガリは真剣だ。学生の頃に軍の訓練に参加してから、ずっと男子たちの力強さに近づきたいと思っているのだから。それなのに、頑張るほどに性差を思い知らされることが多かった。
アスランに出会ってからは、もはや敵わないと認めるしかなかった。コーディネーターの身体能力を素直に素晴らしいと思う。細身に見えて、カガリを抱えるなどわけないなんて、ずるいくらい格好いい。
「アスランはいいなあ……」
いま、握っている手も、カガリのよりひとまわりは大きい。長くて綺麗な形をした指にも、たしかな筋肉を感じる。
「……カガリはそのままでいいと思うけどな」
じろじろとアスランの体つきを眺めていると、その本人がぽつりと漏らした。
「それ、マーナも言ってたけど、私は嫌なんだってば」
「なんだか、可愛いと思ったよ、俺は。抱き上げたときは、細いのに驚いた」
「……ええ?」
声を上げた拍子に繋いだ手を離していた。じわじわと頬が熱くなってくる。もうすでに高い熱が出ているのに、おかしなことだ。
「……可愛くなんかないだろ、私は」
「俺はそうは思わない」
視線をそらせたカガリの頬にそっと手のひらがそえられる。言葉を連ねずに、アスランはくちづけた。
そういうことになると思いもしなかったので、カガリはしばらく目を見開いたままだった。アスランの長い睫毛が触れそうに近い。頬を撫でた手を髪の毛に差し入れて、一瞬だけ伏し目にカガリを伺い、アスランはもうひとつキスをした。そこでカガリも目を閉じた。こういう時は目をつむるものだと思ったからそうしたのだが、まだ頭の中では疑問と困惑が渦を巻いていた。
彼とのキスは二度目だ。最後の戦いに出立する前、別れ際にアスランにくちづけられたときも驚いたが、きっとまた会おうという心を込めたおまじないのように思っていた。
ベッドがきしむ。アスランが腕を乗せて体重をかけたのだ。どうしよう。心臓が壊れそうに鳴っている。何度もくちびるをついばみ、重ねるうちに互いの口唇はしっとりと濡れていた。
無心になってキスを受け続け、これはずっと続けるものなのだろうかと思ったときに、それを読んだかのようにアスランはふいに離れた。
「アス……ラン?」
くらくらしながら目を開けたら、見たこともない彼がそこにいた。獲物になった気分だと、ふいに思った。なにも声がかけられなくなってカガリが無言で見上げていると、アスランは炎を吹き消すように熱情を隠した。
「ごめん。やっぱり、熱が高いな。解熱剤をもらってくるよ」
クサナギとのコンタクトも確認してくると付け足すと、彼は部屋から出ていってしまった。呼び止める間もない。しばらく唖然としてから、カガリは小さく悪態をついた。
「……なんなんだよ、もう」
まだ名残のあるくちびるを指先でなぞる。ばくばくと鳴っている心臓を抑えてしまおうと、ブランケットを頭までかぶると、きつく目を閉じた。
オーブは主権を取り戻せることになりそうだと、報告を受けたのはそれからしばらくしてからだった。
「プラントの独立については講和会議も紛糾しているようなのですが、国境線を戦前に戻すことについてはすでに合意がまとまっているようです」
「そうなれば、補給を待ちながら宇宙にとどまる必要はありません。オーブに戻る準備にはすでに取り掛かっており……」
「帰国の日取りをまずは決定しましょう。オーブ暫定政府とも調整が進んでおりますので……」
部下たちの報告を聞きながら、カガリはゆっくりと息を吸い込んだ。事態が動き出したのだ。ザフトに反逆者として追われてきた者たちと、地球軍の脱走兵と、陥落したオーブを脱出してきた者たちという、この寄せ集めの集団にも、じわじわと解散の時が近づいていた。
「帰国の準備というが、全員のことじゃないだろう。自国に戻るに戻れない者も多いはずだが」
「それは、おっしゃるとおりです」
答えたのは叔父ホムラの側近だった尉官だ。
「それがわかってるのに、オーブの人間だけさっさと帰国するなんてことできるわけないじゃないか。いま、この三隻はオーブからの補給で食いつないでるってのに」
大人たちのあまりに薄情な提案に、いっそ舌でも出して馬鹿かと言ってやりたくなる。カガリを一刻でも早く地面に降ろして安全を確保したいのだろうが、それを受け入れると思われているなら甚だ心外だ。
そっぽを向いてしまったお姫様に、別の者がやんわりと話しかけた。
「ですが、オーブの独立が約束されたものというなら、この三隻の乗組員にはひとまずオーブへ亡命してもらう、という方策も取れますよ」
「亡命……?」
カガリの手の内にはない言葉だった。
「亡命って、私にそれができるのか? 誰に頼めばいい?」
思わず椅子から腰を浮かせた。地球軍でも、ザフトでも、脱走兵は自国に戻れば最悪銃殺刑だ。それを回避できる方法がオーブにあるのなら、全力を注ぐべきと思った。
「彼らの亡命はカガリ様がご自身で実行されるのが、最短の道でしょう」
「……私が? どういうことだ。私にはそんな権限はないぞ。いまは特に」
カガリは眉を寄せて相手を見上げた。元代表首長の娘という身分はカガリにたくさんのわがままと自由と不自由を与えたが、カガリ自身にはなんの力もないのだ。
身分だけでは動かせないことはたくさんある。それは、痛いくらいわかっていた。どれだけわめき散らしても、父の決定はひとつも動かせなかったカガリなのだ。
「じつは、アスハ家の当主をカガリ様に、という動きがあります」
叔父の側近が低い声で告げた。
「私、が……?」
驚きで声がかすれた。
「どうしてだよ? だって、オーブには叔父様が残って指揮を執られているはずだろ」
「そのホムラ様が、時期当主にはカガリ様をと望まれているのです」
「そんな……私は、まだ」
早い、と言いかけて口をつぐんだ。やはりそうなのか、と納得する自分もいたからだ。どこかでそんなことを言われるような気もしていたのだ。
「ウズミ様の後継として望まれているのですよ。カガリ様が戻られたら、ホムラ様ご自身は、責任をとる形で当主を退くおつもりだと」
「……だから、私が?」
カガリは両手で顔をおおっていた。いつかは国政に関わる時が来るだろうと、あれこれ学ばされてきたし、その心づもりはあった。けれども、そのどちらも間に合っていない。まだ、先のことだと、戦争が起きるまでは誰もがそう思っていた。
「カガリ様がお一人で立つわけではありませんよ。補佐が立てられることになるでしょうし、そもそも、国事はひとりで回すものでは」
「わかってる!」
声を荒げてしまった。こういう時に感情的になってしまうのも未熟の証だと、自分を叱って落ち込む。口をつぐんだ尉官に代わって、別の声がカガリに話しかけた。
「……ですが、カガリ様。アークエンジェルとエターナルの乗組員のすべてを亡命させるなら、その地位に立つのがなにより確実かと」
「わかってる」
低く、一言だけ返した。机の上でこぶしをぎゅっと握る。
艦長室に集まった大人達は黙ってカガリを見下ろしている。彼らは間違いなくカガリの味方のはずなのに、この不快さはどうだろう。
「ちょっと、時間をおいて考えたい。このあとに人と約束をしてるんだ。終わったらまた召集をかけるから、そこで決めよう」
誰とも目を合わせずに、艦長室を出た。昼食をアスランと一緒にとることは、いつの間にか習慣化していて、今日はクサナギでの待ち合わせの日だった。
早くアスランの顔が見たい。彼に会うとわけもなく安心する。ほっとできる。早足で向かった食堂はやや混雑していたが見渡すまでもなく、彼はすぐに見つかった。何かの資料を読んでいるのか、手元の端末を見ながら考えている様子だった。
「アスラン、何見てるんだ?」
よほど没頭していたのか、アスランは数秒遅れて顔を上げた。
「ああ、カガリか」
「モビルスーツの資料?」
「そうだな。OSの更新をしようとしてて」
「また? つい一昨日も何かやってなかったか?」
宇宙での捜索と救助活動を停止してから、乗組員は艦内の整備に手をかけているが、アスランはどうやらエンジニアとしてあちこちから頼りにされているようだった。
「プログラムはどうしても日々修正点が出てくるものなんだよ。今回は機体の反応速度の調整をして欲しいと……」
言いかけて端末を手放すと、アスランは立ち上がった。
「それより、料理を受け取りにいかないとな」
カガリに笑いかける。
この頃のアスランは笑顔が増えたように思う。戦争が終わってすぐの頃は、放っておいたら宇宙に出てそのまま戻らなくなってしまいそうに、カガリには見えていた。ふっといなくなってしまうのではないかと不安で、毎日会いに行っていた。
いま、向かい合って食事をしながら、モビルスーツの機体反応とパイロットの体感の話を続けるアスランは、少なくとも楽しそうに見えた。
「アスランは電子工学やってたんだっけ」
「まあ、キラほど専門的には学んでいないけどな」
テーブルの向かいから、じっと彼の目を見ながらカガリは言った。
「オーブの電子産業の技術は世界でもトップクラスなんだ」
「……そうだと、思うが」
会話の意図が掴めないのか、アスランはきょとんとしていた。
「アスラン、オーブに来ないか?」
「オーブに?」
「うん、いまクサナギは帰国の準備を始めている。私たちと一緒に来ないか」
「……一緒にというのは」
アスランの表情が固くなる。
「それは……つまり、亡命を意味して言っているのか?」
くちびるを噛んで、カガリはひとつうなずいた。
「そうか……亡命は、まったく考えになかったことじゃないが」
「あのな、ずっとってわけじゃなくても、せめて講和が確実に結ばれるまででも……」
「たしかに、いまプラントに戻れば俺は銃殺刑だろうからな」
口許をゆがめたアスランを見て、カガリの胸に突沸するような感情がこみ上げた。
「そういうことを笑って話すなよ」
怒ろうと思ったのに、声が震えてしまう。カガリの瞳が潤んでいるのに気づいて、アスランは息を飲んでいた。
「私はほんとに、もう、誰にも死んでほしくないんだよ」
肩に力を込めて震えを止めようとするのに、上手くいかない。
「アスランや、他のみんなの行動が、罪とされるものなのか、償うべき罪がみんなにあるのか、私にはわからない。わからないけど、罪があるというなら私にだってある」
戦火をどうにか消したくて、カガリも無我夢中で戦場を駆けたのだから。巨大な兵器に乗り込んで、砲を撃った。
「でも、私は、それでも命を使うなら未来のために使いたい。お父様が命懸けで守ったオーブに帰りたい」
カガリの言葉を受けて、アスランはしばらく黙っていた。長い沈黙の末に言ったのは短い一言だった。
「……わかったよ、カガリ」
何ヵ月も宇宙船の照明しか浴びてこなかった体には、南国の太陽は強烈だった。刺すような光に目を細めて、カガリは右手を陽にかざした。
「オーブの空だ……」
カガリは甲板の手すりから下を覗きこんだ。海はサファイアの青だ。
アークエンジェルとクサナギは並走して海の上を飛んでいた。大気圏の内側、地球の上にいる。重力のおかげで軍服が少し重い。湿り気を含んだ風、海の匂い、音に満ちた世界だ。
帰ってきたんだ、という実感が込み上げてきた。きっと戻ってくる、という決意を胸に抱き続けていた一方で、戻れないかもしれないという予感は影のようにずっとそばにあった。オーブ国内での復興は思うように進んでいないらしいと艦内で噂が立つくらいだから、手放しで喜んでばかりもいられないが。いまは嬉しい気持ちが勝っていた。
現在地のアナウンスを聞いて、アークエンジェルの甲板にわらわらと出てきた面々を見渡すと、乗組員の多くが同じ気持ちでいるようだった。皆の表情が明るい。
眩しそうに海と空を眺める乗組員たちの人波の向こうに、アスランの姿が見えた。誰かと話をしている。
カガリは彼の名前を呼ぼうとして、口を閉じた。呼びかけても声が届きそうにない距離だし、大声で呼べばたぶん注目を集めてしまう。
誰と話しているのだろう。人と人の隙間からでは相手が隠れてしまっている。やっぱり少し話したいな、こちらを見ないかな、と思ったらほんとうに彼はこちらを振り向いた。
「カガリ」
涼やかな声であっさり呼んでしまうので、案の定、何人もが一斉にカガリを見た。人垣を抜けてアスランはカガリのいる甲板の舳先に来た。
「お姫様もここにいたのか」
アスランの後ろにディアッカが着いてきていた。どうやら会話の相手は彼のようだった。
「二人とも、出て来て大丈夫か? 海上はいきなりだと目を痛めるかもしれないぞ」
「大丈夫、大丈夫。紫外線には耐性あるからさ」
ディアッカは手をひらひらとさせた。
「でも、たしかにすごい陽射しだな。肌がひりひりする」
目を細めながらアスランは苦笑いする。
「そうだろ? この陽射しは海水浴には最高なんだけどな」
「海水浴か……俺は経験がないな」
「レジャーとかスポーツ目的で泳ぐっていう、あれだろ? 知ってはいるけど」
「二人ともか? じゃあまずは海に行かなくちゃな。オーブにいるのに海を知らないのはもったいないぞ」
「へえ。そんならいるうちに案内してもらうかな」
ディアッカは手すりから身を乗り出して波立つ青い水面を観察していた。
「ディアッカはやはりプラントに戻るつもりでいるのか」
カガリは長身の少年を見上げた。
「まあね、状況を見定めたら帰国の手配をするって言われてるし、親父はしつこいし」
「そうだよな……」
「いまの議会は仮作りみたいなものだ。状況はまだまだわかんないな。プラントも変化の途中なんだろ。エターナルの乗組員も帰国を考えてるやつは多いぜ」
横なぐりに海風が吹いてきた。三人の髪が舞って乱れ、シャツがはためく。
アスランは今後をどう考えているのか、聞くなら今だと思ったのに、その言葉は風をやりすごすうちに喉の奥につかえてしまった。
帰ってきたと思うと気が緩むのか、忘れていた疲労がどっと押し寄せてきて、港からの移動の車中でカガリは気絶するようにして眠っていた。車が玄関に横付けされてやっと目覚めてもまだ眠気は抜けなかったが、アスハ邸でカガリをまず迎えたのは休息の時間ではなく、叔父との面会だった。
「カガリ、よく戻ったな。無事でよかった」
執務室に入室してきた姪を見るなり、叔父は早足でやってきてカガリの両肩に手をおいた。
「……叔父様」
幼い頃は肩車もしてくれた子供好きの叔父だったが、カガリの成長につれて触れあう機会はあまりなくなっていた。けれども、彼が姪の身をどれほど案じていたかは、小さく震える手から伝わってくることだった。
「叔父様もご無事で安心しました」
「ああ、使命は果たせた。おまえに繋ぐことができたのだから」
ホムラの安堵のため息を聞いて、カガリは顔をこわばらせた。
「叔父様が私を後継に考えておられるのは聞いております……ですが、私はまだあまりに未熟で」
「そう言うだろう、とは思っていたがな」
カガリを応接用のソファに促し、叔父はその向かいに腰を下ろした。
「私だけが、カガリを首長にと望んでいるのではないのだよ。これは生き残った一族の総意だ。そして、他の首長家からも同様の声が多くある」
「他の首長家も……」
カガリはソファに腰かけ身を縮めた。カガリを首長に押し上げようとするのが、アスハの身内だけの話ではないなら、代表首長に就かせることも見据えてのことなのだ。決めてきたはずの心がもろく揺らいだ。どうしても自信が持てない。父の背中があまりに大きい。
「ウズミの子として掛けられている期待は大きい。次の代表首長選挙で、おまえが選出されるのはほとんど確実なことだろう」
「……はい」
「やはり、不安があるか?」
カガリが答えられずにうつむくと、ホムラは朗らかに言った。
「年若い代表首長には補佐として宰相がついた前例もある。当主を退いたのちに、私が宰相を務めるのは難くないことだろう」
カガリは叔父の言葉ひとつひとつに頷き続けた。話を聞きながら、頭の中には入港前に見た湾岸の風景が再生されていた。色彩の豊かな海辺の景色は一幅の絵のようだったのに、それは見る影もなかった。見覚えていた山の稜線がいびつに歪み、瑞々しい緑だった斜面はえぐれて崩れ、整然と美しかった港は元の形がわからないほどだった。
オーブを取り戻したい。
失ったものは戻らなくても、新しく創り育てていくことはできる。カガリは胸に灯る使命感の温かさを感じていた。父の言った『想いを継ぐもの』になれるだろうか。
叔父との面会後、今度は無事を喜ぶアスハ邸の使用人達が挨拶のために集まってしまったので、カガリが解放されたときには窓の外もすっかり暗くなっていた。
自室の重い扉を開ける時に、少し足がふらついた。忘れていた疲労が足首にまとわりつくようだった。真っ暗な寝室の整えられた懐かしいベッドを見たら、倒れこんでそのまま起き上がれなくなってしまった。
溶けるくらいに眠ったら、目覚めたときには体が軽くなっていた。
睡眠不足を続けて、体が限界だときしみ始めて、ようやく夢も見ないような眠りに落とされる。そんなことがこの頃、続いていた。
そうして疲労が蓄積している時には、アスランに必ず見抜かれた。彼の心配は嬉しくもあったが、心配する以上の手助けができないことをアスランはもどかしく思っているようで、そのことが巡りめぐってカガリの心を刺した。
夜明けて間もない時間だったので、久しぶりにたっぷりお湯を使って入浴し、時間をかけて身支度をしてみた。今日一日は、カガリの自由だった。明日には早速、五大氏族の内々での集まりが予定されているから、今日の時間はかなり貴重だった。
朝食をとってから、邸内をあちこち歩いて回った。散歩のつもりが半分、もう半分はアスランを見つけたかったからだ。オーブへの亡命者のうち、何人かはアスハ邸に宿泊している。ホテルを仮住まいとした者がほとんどのなかで、外部からの目を気にする必要のある人物はアスハ邸の客として招いているのだった。
「アスラン、こんなところでなにしてるんだ?」
庭園でも温室でも、図書室でもなく、エレカのガレージでようやく目的の人物を見つけてカガリは気の抜けた声を上げてしまった。
「ああ、カガリか」
アスランはちらっとこちらを確認すると、また手元の作業に目を戻した。
「……なんだよ、それ」
小声で文句を言ってカガリはくちびるを曲げた。一時間は探し回っていたカガリに対してこの言い草だ。そんなことは彼の知り得ないことだし、これは作業に意識のほとんどを集中させているからなのだが。
アスランの中での自分の居場所が時々わからなくなる。
共に死線を乗り越えてきた仲間ではあるが、それ以上のなにかが二人の間にあるのかと、もし聞かれたら、上手く答えられる自信がなかった。
なついた子犬のようにアスランを追いかけているばかりだ、と思う。追いかけた先でアスランが無事に笑っている姿を見ると、心の底からほっとできた。厳しい顔をしていることが多い彼が、目元を緩める瞬間が好きだった。ずっとそうしていて欲しい。そう望むたびに、体の奥がきゅっと痛んだ。
「それ……修理しているのか?」
「そうなんだ。たぶんシステムの不具合だと思うから調整しているんだが」
昨日、アスハ邸にやって来るときに乗っていた車の運転士とエレカの話をしたのだという。アスランが乗り込んだ車がプラント製のものだったことから話が広がったらしいのだが、その時に調子の悪い車両があると聞いたらしい。不具合の種類によっては自分にできることがあるかもしれないと今朝になって修理を申し出たのだ、とカガリに説明しながら、彼は手元の端末のキーボードを叩き続けていた。
システムの修正を試みているらしい。片手間にできるようなものではないはずのことを、彼はやすやすとやってのけてしまう。
「よし、たぶんこれで大丈夫だ」
ひとりごちて立ち上がると、アスランは運転手の待機室にすぐさま向かっていった。やがて、駆け足でやってきた運転手は興奮した様子で、脇に立つカガリに気づかずエレカに乗り込んだ。エンジンをかけて計器をあれこれ確かめた彼は、感嘆して唸った。
「驚いた、ほんとに直ってる」
「モビルスーツにも応用されている既知のプログラムだったのが幸いでした。原因が運転者の認識装置の誤作動だったので、簡単な修正でしたし」
「いやいや、メーカー修理に出そうとしていたのに、まさか直せてしまうとは。恐れ入ったよ」
「なるほどなるほど。とすると無事に修理は終わったわけだな?」
会話のはずみそうな二人の前に、カガリはぴょんと身を乗り出した。
「ええっ、カガリ様! なぜこちらに?」
運転手の男はのけぞって驚いていた。隠れたつもりはなかったのだが、結果的にいたずらが成功したようで、カガリは小さく吹き出した。くすくす笑う屋敷の主人を見ながら、運転手は苦笑いで居住まいを正した。
「まったく、いたずらがお好きなのはお変わりありませんね」
「うん。いまのはちょっと面白かったぞ。ところで、相談なんだが。この車、ちょっと私に貸してくれないか?」
「ああ、それはもちろん。どちらかにお出かけですか?」
「うん、せっかく天気がいいしなぁ……」
太陽に向かって大きく伸びをするカガリに、運転者は不安そうに尋ねてきた。
「もしや、カガリ様がご自分で運転なさるおつもりですか?」
「いや、運転はアスランに頼むつもりだ」
「え、俺が?」
ケーブルの片付けをしていたアスランがこちらを振り向いた。
「アスランも自分で直した車、運転してみたくないか?」
「……それは、正直いうと少し思ってはいたが」
「じゃあ、決まりだな」
カガリは満足げに助手席をぽんと叩いた。赤いボディカラーの鮮やかなコンバーチブルだ。バカンスなどプライベートで使うのが主な用途の車だった。
「な? 彼が運転するなら安心だろ?」
「それは、確かに、運転には問題もないと思いますが……」
「じゃあ、すまないが、料理長のとこまで行って私の伝言を伝えてくれないか? 今日の昼食は外で食べるのでサンドウィッチかなにか軽く作ってくれって」
「……それも、かまいませんが、外出なさるならせめて護衛をつけていただかないと」
「護衛? いらないよ。アスランより強いやつなんてたぶんそうそういないから」
アスハ邸を出てから車が向かったのは森の中を貫く私道だった。整備された道路の奥は原生林なので、明るく開放的なドライブではない。車窓の向こうは暗く茂った南国の森だった。
窓枠にひじをついて、カガリはずっと外を見ていた。外出すると聞いて、すぐさま電話を掛けてきたキサカにアスハ家の所有地外には行くなと、何度も念を押されたその声がまだ耳の奥に響いている気がした。
「なんだか、窮屈だなぁ」
せっかくのオープンカーなのに、ルーフを閉めたままで車は走っていた。
「しかたがないよ、いまは」
ハンドルを切りながら、アスランはカガリをなだめた。
「しかたないって言っても、こんなに気持ちのいい日なのに。ほんとは、海岸沿いの道路を走りたかったんだ、私は」
「また、行ける時が来るさ。情勢が落ち着けば」
こちらを向いた彼の目がやさしく諭したが、情勢という単語がカガリの耳に障った。にわかに現実が迫る。『また』とはいつのことだろう。子供のように駄々を言いたい気持ちが、カガリの中でふっと薄れた。こんなふうに二人だけで出掛けることはこの先にはできないことなのかもしれないと、気がついた。
彼は『また』と言ってくれたが、カガリが代表首長になればそれは簡単には叶わなくなるかもしれない。子供の自由な時間は、残りわずかなのだ。砂漠を駆け回った日々が遠く懐かしかった。
「ほら、カガリ、海が見えてきたぞ」
行く手に、一文字の水平線がある。常夏の日差しに輝く水面が広がっていた。森を抜けた先にある浜辺はアスハ家の私有地だ。樹木の緑と空の青が鮮やかだった。
「綺麗なところだな」
「美しい海はオーブの自慢なんだ。小さい頃は、あそこの浜辺でよく遊んだよ」
密林を出たとたんに視界のぜんぶが青になった。海と空の中に放り出されたような景色だった。
車のスピードが緩まったのに気づいて隣を見たら、アスランは景色に少なからず驚いているようだった。遠出は彼の気晴らしになっただろうか。アスランの中ではまだ何もかもが片付いていないのだろうと、カガリは思っていた。
オーブの空と海が彼の悲しみをみんなさらってくれたらいいのに。
浜辺のコテージに着くと、本邸の者がすでに手配していたようで、冷たい飲み物や果物などが揃えてあった。持ってきたサンドウィッチを平らげてから、二人は浜辺や木立の中を散策した。
アスランにとっては海も森もどちらも未知の多いものらしく、多様な動植物を珍しげに観察したりもしていた。アスランが地球の土を踏むのは二度目のことだが、前回は戦争の最中だったのだ。目的以外のことに目を向ける隙などなかったのだろう。
惜しいと思う時間ほど、瞬きの間に過ぎてしまう。
浜辺で足を水に浸してみたり、砂を踏んでただ歩いたり、コテージに戻って果物を摘まんでみたり、無為に過ごすうちに太陽は音もなく落ちていく。ふと遠くを見上げると、空と海の境目が茜色に変わり始めていた。
「もう、一日が終わってしまうのか」
コテージのテラスにはカガリの長い影が伸びていた。
「長いようで短かったな」
「短かったよ」
カガリはすねた口調で言った。
「ずっと今日のままならいいのに、なんて思ってしまったじゃないか。もう決めたのにな……」
「決めたって、なにを?」
「私な、アスハ家の当主になるんだ。昨日叔父様から話があった。まだ内々での決定だけど変更はないと思う」
夕日を浴びて赤く染まったソファに身を投げるように腰かけた。
「君が当主になるのは、たしかに順当なことだろうな。でも国政に関わるのには、少し早いんじゃないか。オーブでは君の年齢なら未成年のはずだろう」
アスランはソファの前に立ち、気づかうように背を屈めたが、顔を上げずにカガリは答えた。
「当然、補佐はつく。だけど、アスハ家の当主になるということはそれだけじゃないんだ。これまでの代表首長はほとんどアスハ家から選出されてきた。次が例外とは、たぶんならない。お父様と同じものに私はならなくてはならないんだ……」
政治には流れがある。あらゆる方面からの思惑と声が作る、その流れがカガリを担ぎ上げるなら、それを逸らす力はカガリにはない。
「私は、私にできることをしたい。オーブと世界が立ち直っていくためにできること、ぜんぶ。でも、そう思ったら改めてお父様がすごく大きく遠く思えた。頑張らなきゃって思うのに……使命感を持っていようって、昨日は思えたのにな」
ひざに目を落したまま、ぽつりぽつり話すカガリの隣に、アスランは黙って座った。ソファが彼の重みを受けて沈む。アスランはしばらく何も言わずにさざめく海を眺めていた。
「俺には……」
言葉を選んでいるのだろう、彼は考えながら少しずつ話した。
「カガリが、光って見えていたよ」
おかしなことを言うと思わないで聞いてほしいんだが、と前置きする。夕日が何もかもを赤橙色に変えていくなかで、カガリが見上げたアスランの瞳も赤い色を映していた。
「ジェネシスで俺を呼んだ君はほんとうに光って見えたんだ。髪の色のせいかな、燃える星みたいだった」
常闇の宇宙で帰路を教える帰還信号の光。暗い海で行き先を教える灯台の光。地上の夜明けを教える金星の光。導くものは光を放つものだと思うのだと、アスランは取り留めなく話した。
「カガリは人を導く力を持っているよ。そういう君にいつも道を示してもらっていた気がする。だから俺は生きて今もここにいるんだ」
オーブを導く光にきっとなれるよと、アスランは表情をなごませた。案外に口下手な彼は言葉でもって相手に想いを伝えるのを得意としないだろうに。励ましてくれているのだとわかった。
「……ありがとう」
急いでうつむいて、カガリはそれだけ言った。胸が温かいものでいっぱいになる。その場限りの慰めでも、世辞でもない、彼の言葉は本心からの言葉だ。
『ウズミの後継』だから、『ウズミの子』だから、おまえならできると、言われてここまできた。では、父の娘でなければ私にはなんの価値も資格も素質もないのだろうか。そもそも父とは一滴の血も繋がっていなかったのに。それを知った時には、ウズミの子であるという唯一の自分の価値すら幻だったのだと思った。
けれども、アスランは『カガリに』会えてよかったと言った。いまもまた『カガリなら』できると言うのだ。無人島で出会ったときには、その名前すら持たないカガリと向き合っていた。
「アスランは、いつも私にやさしくしてくれるな」
熱を出したときもずっと付き添ってくれていたことを思い出しながら言うと、アスランは少し戸惑ったようだった。
「……俺は優しいわけじゃないよ」
「そんなことないだろ」
「優しさというのは、そうあろうと努めることじゃないかな。俺のは自分がしたいと思ったことをしてるだけだから。純粋な善意とは言えないと思うぞ」
「それって謙遜か?」
「違うよ。どう言ったらいいんだろうな」
アスランは考えながらまつげを伏せた。沈みかけた太陽の光が顔の陰影を際立たせている。ずいぶん彼を知ったつもりになっていたのに、こんなに綺麗な男の子だっただろうか。見惚れる思いで横顔を見ていたら、視線に気づいた彼がこちらを見た。
さっと自分の頬が紅潮するのがわかった。『やさしいわけじゃない』と言った曖昧な言葉の意味を、カガリはアスランの瞳の中に見ていた。
そうか、彼は私を求めているのか、とようやく悟った。求めて、慈しんでくれるのか。
アスランは額を寄せて、そっと重ねるだけのキスをした。
膝の上に置いていた手にも彼の手が重なる。くちびるを離すと、触れるか触れないかのところで、彼は止まって見つめていた。なにも言わない。こういうときこそ、言葉が欲しいのに。だが、なにも言えないのはカガリも同じだった。どう言えばいいのか、わからない。喉がじりじりと乾くような、この気持ちの伝え方がわかわらない。
話す代わりに、カガリは目を閉じた。それに応えるようにアスランは唇を重ねてくれた。何度も、離れては重ね、味わうようにキスをして、アスランはカガリの唇を舌でなぞった。開くように促されている、かすかな誘惑だった。
「んぅ……」
その先は、キスとは別のものだと思った。舌と舌が触れてぬるりと合わさる。まさぐるようなその動きにカガリは思わずアスランの二の腕を掴んだ。ここにいるのは、エターナルでベッドに横たわりながら見上げたときの、彼だと思った。きつく仕舞っていた感情がいきなり開け放たれたよう。アスランにこんな熱情があるなんて思いもしなかった。
彼の中に自分がいるのかわからないなんて、どうして思えたんだろう。どんな言葉より強烈に、カガリを求めていることを教えてくれる。カガリが欲しいと。
「……ごめん」
衝動を押しとどめた声でアスランが言った。
くちびるを離すと惜しむように白糸が二人の間を伝った。いつの間にか背中に回っていた彼の手が離れていく。そういえば、前にキスをした時にもアスランはごめんと言ってカガリを放した。
「なんで謝るんだよ」
「……君に触れないつもりだったのに……なんて説得力ないな」
「私は触るな、なんて言ったことはないぞ」
「……歯止めがきかなくなりそうなんだ」
アスランは顔をしかめていた。自分をなじるような表情だった。
止めなければどうなっていたというのだろう。求めあう二人が止めるものをなくして得るもの。知識として知っている行為はあるが、それが自分とアスランのふれあいの延長にあるものとは、その時のカガリには思えなかった。
カガリの日常はいきなり目まぐるしくなった。
連合とプラントの交渉が固まりつつあり、講和が成れば主権を回復するオーブでは、それまでに内政の下準備をする必要があった。一日のほとんどが会議と会談で終わっていく。
当主を亡くした五大氏族には入れ替わりが必要で、閣僚もほとんどが新任の者になる。それらの選考が急務だったが、調整は遅々として進まなかった。会議とはおよそが堂々巡りなのだと、カガリは早々に思い知ることになった。
こんなにいらいらする話し合いを、父はどうまとめていたのだろうか。カガリは何度もため息を押し殺していた。話し合いの向こうに利権と欲が透けて見えるようだった。たしかに、五大氏族になれるかどうかは向こう数十年の一族の盛衰を左右する大事だろう。そのため、カガリに対して個人的にアプローチをかけてくる者もいた。収賄を持ちかけるのではなく、志を語り、感情に訴えてくるものばかりだったのは、カガリの性格をよく調べているのだろう。
しかし、推挙を頼み込もうとするものがいれば、その逆もいるのは世の常か。対立派閥を排除することで力を得ようとする氏族も当たり前にいた。だが、それが命を狙われることに繋がるとは思いもしなかった。
事件が起きたのは、新たな五大氏族を選定する会議に向かう途中だった。カガリはナイフを携えた青年に強襲されたのだ。
「アスランを護衛に?」
襲撃事件の翌日、カガリの元を訪ねたキサカは決定事項としてそう告げた。
「ああ、そうだ。行政府の組織するシークレットサービスではなく、アスハ家の私的な護衛として仕事をしてもらうことになった」
淡々と話す馴染みの顔を、カガリは思いきり睨んだ。
「……どうして、アスランなんだよ」
「彼のほうから申し出があった。護衛に必須の身体能力と戦闘能力なら十分すぎるほど彼は有している。理由はそれだけだ」
キサカは感情を乗せずに答える。いつものことだが、それが余計にカガリの感情を煽った。
「そんな。だって、おまえだって言ってたじゃないか。アスランにもモルゲンレーテから声が掛かってるって。選ぶなら、そういう仕事を」
「彼のほうから申し出があったんだ」
キサカは言い聞かせるように、もう一度同じことを言った。その意味をわかっているのに、カガリの心は飲み込むのを拒否していた。
「護衛……なんて」
それならば、アスランはまた銃を持つことになるのだ。殺して、殺されて、そういうものを終わりにしたくて戦ってきたのに。
「私はいやだ。いやだよ……キサカ」
小さい頃のわがままみたいに、彼の上着をぎゅっと掴んでやりたかった。けれども、キサカが立つのは執務机の向こう側だ。
「だが、おそらくアスラン・ザラ以上の護衛はいないだろう」
「そんなの、知ってるよ」
「アスランに昨日、事件の知らせを持って行ったのは私だ。その時の彼の様子を見ていたら、なにも言えなくなるだろうと思うがな」
「……どういう意味だ」
「あんな顔をする少年だとは思わなかったよ」
アスランの顔を見て、キサカは思わず言葉を飲んだらしい。血が沸くような殺気であった。話を一通り聞いて、激昂するのかと思いきや、アスランは冷静に護衛の精度を上げるべきでは、と話してきたのだという。その落ち着きが、逆に怒りの深さを示していたように思えたと、キサカは言っていた。
「アレックス・ディノか……」
カガリは小さなカードを持ち上げて、じっと睨みつけた。
「どうぞ、お見知りおきください。というべきかな」
隣に座る人物は小声で言って手を差し出してきた。その手の中に突き返すようにカードを乗せる。
「知らない。名前なんかすぐ忘れるからな」
「そういうわけにはいかない。間違えずに頼むぞ。国外に出るには、どうしてもこういうものが必要になるんだ」
二人は囁き声で言い合っていた。アスランの護衛としての初めての勤務日だった。
今日は港の被害状況の視察が予定にあり、そこへ向かう車中から、すでに彼の仕事は始まっていた。本来なら口調を改めるべきなのだろうが、それは車に乗って最初にカガリが断固として嫌がったので、小声で会話するよりなくなったのだ。
アスハ家の新たな私設ボディーガードとなったのは、アレックス・ディノという名前の少年だということになっていた。
亡命者であるアスランには、国外への渡航に制限がある。カガリの外遊にも付き添うには、オーブ国民としての身分証が必要だった。アスランがカガリの護衛にあたること自体を喜べないカガリには、そのことが一層重かった。
時局が変われば大仰な護衛は、きっといらなくなる。この前の襲撃も実のところは脅し程度のものなのだ。本気で暗殺を企むなら、ナイフでの単独攻撃など選ばない。オーブの国内で起こる事件など、そのくらいのもののはずだ。
アスランが銃を持つ必要なんかないことを早く証明したいと、そればかり考えていたカガリの想いを、鋭い銃声が霧散させた。目的地に着いた直後だった。車を降りたところを待ち伏せされたていたのだ。
あまりのことに、カガリは身構えることもできなかった。
警戒して精鋭をそろえていた護衛の中で、アスランの応戦は誰より早かった。振り向きざまに撃った銃弾が暴漢に命中したのが、彼の肩越しに見えた。
敵の銃は、明確にカガリを狙っていた。最初の銃声と同時にアスランがカガリを腕のうちに引き入れたおかげでかすりもしなかったが。銃撃がおさまり止めていた息を吸ったときに、自分を隠すように覆った腕を見て、カガリは悲鳴を上げた。
「アスラン……!」
呼ぶなと言われたばかりなのに、名前がついこぼれてしまっていた。銃弾のひとつがアスランの上腕に、当たっていたのだ。ひどく出血している。
「ひとり、南へ逃走したぞ! 茶色のジャケット、黒髪の男だ! 脇腹に被弾している」
カガリの呼び声には応えずに、アスランは他の護衛に逃走者を追うように指示する。それに短く応じてすぐさま二人が犯人の追跡に駆け出した。
少し離れた路地には大柄な男が太腿をおさえてうずくまっている。アスランの拳銃に倒れた男だ。身動きがとれないようでアスファルトに血だまりができていく。シークレットサービスの二人がその男に駆け寄っていくのを見てから、カガリはアスランをあらためて見上げた。
彼は周囲のビルや路地に視線を滑らせて、ほかに危険が残っていないか、確認しているようだった。鋭いナイフのようなまなざしだ。車と自分の体の間にカガリを隠しながら、警戒を緩めない。
「アレックス……」
「お怪我はありませんか、代表?」
カガリがこの場での正しい名前を呼ぶと、アスランははっとしてカガリを見下ろした。
「私は大丈夫だ、なんの怪我もない」
「そうでしたか、よかった……。いま応援を呼びます。それが到着するまで代表は車内に」
「待てよ、おまえ、怪我してるんだぞ」
アスランは冷静に次のことを考えていたが、カガリはそれどころではなかった。アスランの傷からは血が流れ続けている。黒いジャケットでは鮮血の赤は目立たないが、裂けたところから暗く重い色がどんどん広がっていた。
「早く手当てしないと……!」
焦りばかりが湧いてくる。位置を見る限り大丈夫だと思うが、動脈を傷つけていたらこれだけで致命傷にだってなるのだ。
「大丈夫ですよ、このくらいのかすり傷は。もう痛くもありませんし」
「なに言ってんだ、ばか!」
かっとして、素のままに怒鳴った。そんな平気な顔をするなんて。有事の渦中だからなのだとしても、痛くないなんて言わないでほしかった。
「いいから、おまえも車に乗る! おまえが乗らないなら私もここを動かないからな」
代表首長の専用車は防弾仕様だ。アスランは早くそこにカガリを入れてしまいたいのだろうが、怪我を負ったアスランを外に立たせながら、安全な車中にひっこむなんて、絶対にごめんだった。
「ほら、ジャケットを脱げよ」
結局、交渉に勝ったカガリは、車に乗り込むやいなやアスランの上着を剥ぎとった。傷ついたほうの腕をかばいながら慎重に脱がせたが、腕を抜くときにアスランが息を詰めたのがわかった。
「これで、どうして……」
カガリの嘆きは声にならなかった。
ジャケットはじっとりと重く濡れていた。インナーのシャツの裂け目から傷口が見えている。肌を削ったような銃創。カガリはぐっと唇を噛みながら備え付けの救急セットを取り出した。
はさみを手にとり、グリーンの布地を切り裂いていく。
銃弾はアスランの腕の外側を撃ち抜いていた。上腕動脈に当たるような場所を傷つけてはいなかったが、ひどい怪我には変わりなかった。弾丸の衝撃は皮膚を深くえぐり、出血も簡単には止まらない。
いま、カガリにできるのは応急措置くらいだが、せめて止血をしなければ。だいぶ前にキサカに教わった止血法を思い出しながら、傷口にガーゼをぐっと押し当てた。
カガリが厳しい顔で手当てをするのを見下ろしながら、アスランは黙っていた。
「……ごめん、アスラン」
仕上げに包帯の端を結び合わせながら、カガリはそっと言った。運転を担当していた護衛も襲撃者の追跡に向かっていたので、車内は二人きりだった。
「俺は大丈夫だ。大した怪我ではないし、なによりカガリを守れてよかった」
アスランがようやく笑みを見せた。ほっとしたような声色だったが、カガリは落ち着いた気分になど、とてもなれなかった。
「よかったことなんか……ひとつもない」
彼の顔をまっすぐに見られなくなって、カガリはうつむいた。
「なにもよくなんてない。おまえにこんな怪我をさせてしまった……」
悔しさに顔が歪んだ。
先日の暗殺事件は危なげもなく未遂に終わっていたが、実行犯の背後を捜査させて出てきたものが、最大の問題となっていた。襲撃を指示した可能性のある者として、下級氏族の当主の名前が上がったのだ。それを知って、カガリは深く追求するのをためらってしまった。
処断することでどれほどの余波があるのかわからない。首長たちの思惑の底が見えない。閣僚、政治の中枢はまだ少しもまとまっていない。それぞれに主張の違う彼らを自分の意志に沿わせられるほどの力がまだ、カガリにはない。
代表として氏族を統率することができていない自覚は嫌というほどある。
「怪我をさせた、ってこの傷はカガリのせいじゃないだろう」
「私のせいだ」
カガリはきっぱり言った。自分の弱さを見据える気持ちで包帯で包んだ傷をじっと見つめる。
「私がふがいないせいで、こんな……アスランにはもう絶対に傷ついてほしくなかったのに」
こみ上げてきた涙をぐっとこらえた。自分に父のような力があればこんなことには、きっとならなかったのに。
「俺が選んだことだよ。ここにいるのは」
「でも、私が代表としての務めを果たせていたら、こんな事件が起きることもなかった」
「テロや暗殺は犯罪行為だ。その原因は起こす側にあるもので、カガリにあるものじゃない」
穏やかな口調だったが、アスランの声には憤りがはっきりと表れていた。ぴりぴりと帯電するような怒りが彼の内側にあるのに気づいて、カガリはキサカの言葉を思い出した。
彼は望んでここに来たのだと。
「……でも、それでも私は」
絶対に泣きたくなかったのに、しずくが溢れて頬を伝った。
カガリを守ったのは自分の意志なのだと、アスランは言うのだろうけど。自分のためにアスランが傷ついてしまったと、責める気持ちから逃れられない。
「カガリ……」
琥珀色の瞳から、次々とこぼれる涙にアスランは手を伸ばしかけて止めた。嗚咽をこらえるカガリの肩が震える。しばらくの沈黙のあと、アスランは口を開いた。
「カガリは、納得できないかもしれないけど。これは、俺の戦いでもあるんだ」
生きるほうが戦いだからな、とアスランは表情を緩めて言った。慰めではなく、自らの心に決めたことの告白だった。
「カガリがいま、必死でオーブを立て直そうとしているのを俺は知っている。力不足だと自ら責めて苦しんでいるのも知っている……知っていて、その助けになりたいと思ったんだ」
カガリは何度もまばたきをして潤んだ視界を晴らした。アスランの目は、まっすぐにカガリの目を見ていた。
「平和を築こうと戦っているカガリを守ることが、カガリと一緒に戦うことになるんじゃないかと、考えたんだ。カガリを守れる能力はある。だから、俺はここにいるんだ」
アスランが自軍に背いてまで、キラとラクスと、そしてカガリと共に戦ったのは、彼自身が争いをなくすことを強く望んだからだった。それでも、カガリたちが平和を勝ち取れたとは、いまはまだ言えない。たぶん、誰もがいまも戦いの中にいるのだ。
「オーブを守るカガリを、俺は守るよ。これが、いま俺にできる最大限のことだから」
止まったはずの涙なのに、声にならない嗚咽となって後から後から溢れてくる。うつむいて泣くカガリの髪に、アスランの手のひらが優しく触れた。
「今日、ここにいてほんとうによかった……」
傷ついていない方の腕でカガリを引き寄せると、アスランはようやく心底から安堵したようなため息をついた。
今日、ここにアスランがいなかったら、彼がカガリをとっさに庇わなければ、弾丸はカガリを直撃していた。
「……アスランの傷の手当は、治るまで私がする、からな」
溜めていたぶんを全部泣いて、涙のあとを両手でぬぐいながら、カガリはぼそぼそと宣言した。
「これから、ちゃんと病院で処置をしてもらうけど、それからは私がぜんぶやるからな」
「それは……かまわないが」
カガリが断固とした顔をすると、アスランはよくわからないという顔で目をぱちくりしていた。
「だけど、手当なんて面倒なことしなくても……」
「じゃないと私の気が済まないんだ!」
むっとくちびるを尖らせるカガリを見て、アスランは小さく笑った。
それから少し考えるように視線をそらすと、座席に置いていた服に目を止めた。
「なら、手始めにジャケットを着るのを手伝ってもらおうかな。左腕がちょっと上げづらいんだ」
「わかった、任せろ!」
あまりない、アスランからの頼みごとにカガリは張り切って挑んだが。手当てをするからと、カガリが脱がせた黒い上着は着せる方がずっと大変だった。
初めはもたもたと手間取った着替えも、不格好な包帯の巻き方も、アスランの怪我が回復する頃にはずいぶん上達していた。怪我の処置について、看護師からアドバイスもたくさんもらった。
いざという時のために身に付けておくとよい知識だからと。
できるだけ、学べるだけ学んで、習ったことを頭に刻み付けながら、けれども、いざという時など来なければいいと強く思った。いざという時が来ない未来を創りたい。応急処置の知識など、使う出来事はどうか訪れないでほしい。
そう、願いながら、アスランの傷が完治したその日、カガリは救急箱を自室のクローゼットの一番奥に仕舞った。