ポケットの中の星を
三章 君のいる惑星
「救護を! 早く」
抱き止めた細い体が、俺の腕のなかでぐったりと動かない。
とにかく止血を、と思ったときに手のひらをぬるりと温かい液体が伝った。赤い色が生き物のように白い軍服を這い、みるみる広がっていく。ぽたりと深紅の滴がコンクリートの床に続けて落ちた。
冷静に、迅速に、傷を確かめ対処をすべきなのに、俺は思わず傷口を手で押さえていた。
だめだ、それだけは……
彼女の傷を必死で押さえる指の間から、鼓動に合わせて鮮血がにじむ。
「止血の道具だけでも、だれか」
冷静に言ったつもりが、声がかすれていた。
誰もが何も言えずに立ち尽くしている。世界が暗転するような絶望が彼女の傷を中心にして広がっていく。どこかに光の射すところがないかと、そばに立つキサカを一瞬見上げたが、彼の瞳は何も映していなかった。彼はもう、わかっているのだ。
あまりの沈黙に時間が止まったようなのに、溢れる血は止まらない。
止まれ。
止まれ、止まれ、止まってくれ。
叫びそうになるのをこらえきれず嗚咽が漏れた。致命傷だ。わかっている。撃たれた場所と出血の量で、もういくらももたないのを、この場の誰もがわかっているのに。目の前のことは何かの間違いだと、俺だけがまだ思っている。
「……っは」
抱いていた彼女の体が痙攣したように震えた。
息が苦しいのか。だめだ、そんなのは。いかないでくれ。
幻聴か、父のうわ言のような末期(まつご)の声が聞こえた気がした。
司令室の青白い光に照らされた血を吐く父の横顔。
母のいたユニウスセブンが爆散する映像。
逃げろと告げて途切れたニコルの最期の通信。
キラの機体に組み付いてイージスを自爆させた時の爆風の熱。
頭の中に記憶の音と残像がないまぜになった嵐が吹き荒れた。亡くしてしまう。俺は、また、失くしてしまうのか。
「カガリ……!」
空は青く、穏やかな午後のはずなのに、どうしてここはこんなに暗いんだ。
か細い悲鳴のような呼びかけに、応えて彼女がまぶたを震わせながら目を開けた。
「アス……ラン」
ゆっくり、吐く息の中にかろうじて名前を発音した。
「ああ……」
しかし、痛がるでも、苦しむでも、嘆くでもなく、彼女は微笑んでいた。
「よかっ……た。おまえは……無事だな」
目を開けた時には、全身が冷たくなるほどの汗をかいていた。
二、三度瞬きをして自分が自室のソファに座っていることを確認して、アスランは深々と息を吐いた。組んでいた腕をほどこうとして震えていることに気づく。
「……くそっ」
滅多につかない悪態が口からもれた。震えを抑えようと自分の腕を掴んで体を丸める。いつまでこれを見させるつもりだ、と心に向けて唸った。
このところ繰り返し見ている夢だった。カガリが何者かに狙撃される夢。それも自分の目の前で。
彼女がテロに遭ったと知らせを受けたのは、もう三週間も前のことだ。落ち着いて聞いて欲しいが、という前置きのあとにキサカ一佐が話したことに、アスランは全身の血が凍りついた。その時に脳裏をよぎったイメージがこのところ眠るたびにやってくる。
カガリは無事だったんだ。このまえの襲撃事件でも、カガリにはかすり傷一つ付かなかったじゃないか。そう、何度も何度も自分の脳に言い聞かせてきたのに、また同じ夢を見ている。
少しも従う気のない夢魔に苛立ちを覚えながら、アスランは部屋の外に出た。
深夜のアスハ邸はしんと静かだ。
回廊の窓の外には明るい月夜の庭園が広がっている。アスランは足音をひそめて廊下を渡ると、通用口の扉を抜けて庭園の芝生を踏んだ。
外の空気は汗ばんだ体には冷たいくらいだった。昼間は熱帯の気温となるこの国の夜の姿は、まるで手品で取り替えたように爽やかだ。乾いた涼風がアスランの頬を撫でる。
ゆっくりと歩みだし夜空を見上げると、冴えざえと輝く月がまぶしかった。夜の地上では太陽の光を反射した月が光って見える。満月の夜はそれだけで夜歩きができるような明かりなのだということは学んで知っていた。それがこんなに静かで淡い光とは想像もしていなかった。地球に降りて知ったことのひとつだ。地上から眺める月は造り物のようだ、と思う。キラも、自分も、あの衛星に暮らしていたなんて、おとぎ話めいて感じた。
空に向かって手を伸ばしてみる。目に見えているのに、届くはずもないほど遥かな場所にある星。地球と月との距離を思うとき、地球の途方もない巨大さも、アスランは同時に思うのだった。戦争はこの巨大な惑星すら滅ぼそうとしていた。息づく無数の命と共に。
遮二無二守ろうとしたのがそんな目眩がするような大きなものとは、思ってもいなかったけれど。
「アスラン?」
遠慮がちな呼び声に振り向くと、通用口のドアからカガリが顔をのぞかせていた。
「カガリ……どうしたんだ、こんな時間に」
それとなく周囲を確認してからアスランはカガリに近寄った。
「それは私の台詞だぞ。おまえこそ何してるんだよ。こんな夜中に散歩ってわけじゃないよな」
「散歩? いや、その通りだよ。なんとなく目が覚めたから月を見ていた」
「ああ、確かに今夜は月が綺麗だな」
言ってから、カガリは背伸びをするように空に目を向けた。金色のまつげを、なだらかな頬を、透明な月光が照らした。太陽の元では金色に輝く髪が、月明かりだと透き通るように淡くなる。
ふいに夢の中の薄い色合いの風景が思い出されて、アスランは手を伸ばしていた。
「……どう、した?」
アスランの指先が頬に触れるとカガリは小動物のように目を丸くした。自分から触れることには無頓着で無遠慮なのに、アスランから触られると彼女は途端にどぎまぎする。蜂蜜色の瞳がまばたく間に、アスランは指の腹でなぞるように何度も頬を撫でた。ちゃんとここにいる、彼女は生きている。肌の感触にそのことを実感する。
すべらかな頬。そこから繋がる華奢な首、小さな肩も、きっとみんな温かい。確かな命の存在感と熱を放つ彼女を確かめたいと思った。
「え……あのっ」
すがるように抱き締めていた。
「ごめん、少しだけ」
服越しのほのかな体温。カガリの呼吸を聞きながら、鼓動を腕に感じる。
アスランは肺の奥からひとつ息を吐いた。何日もぬぐえずにいた不安と恐怖が和らぐのを感じた。胸の底に溜まっていた夢の名残が少しずつ薄まっていく。
アスランの安心がカガリにも伝わるのか、肩をすくめていた彼女もそのうちに腕を伸ばして、両手で包むようにアスランの背中を撫でてきた。
「大丈夫か? おまえ」
「……なにがだ?」
抱き締めたまま尋ね返すと、カガリは口ごもりながら言った。
「だって、なんだか最近顔色が悪かったじゃないか。無理して立ってるって感じだったぞ」
アスランは思わず目を見開いた。例の夢を見ずに済まそうとして、このところまともに睡眠をとっていない。それでも、護衛の仕事は問題なくこなしていたし、それを誰かに気取られるようなことはなかったのに。カガリは気づいていたのだ。
「ずっと、話をしよう、機会を作ろうとしてたんだけど今日も閣議の準備をしてたら夜中になってしまって」
カガリは執務の服装のままだ。
「ほんとは、おまえの部屋に行こうとしてたんだ。気になったら我慢できなくて」
「いま?」
小さな子供のように彼女はこっくりとうなずく。
「夜中に俺の部屋を訪ねるのは……よしたほうがいいと思うが」
めざといメイドたちに見つかったら噂がどこまで飛んで行くかわからない。今のこの有様だって誰も見ていないとは言い切れないのに。
「でも、アスランがなにか辛く思っているなら私は放っておけない」
触れそうなほど近くからカガリはきっぱりした顔で見上げてくる。相談話にのぞむには勇ましい顔をする彼女がなんだかおかしかった。
「ありがとう、カガリ」
もう一度、彼女のかたちを確かめたくなって抱き寄せてみる。
「もう、大丈夫だ。問題は解決したから」
「ほんとうに?」
なんだか疑わしいな、という顔でカガリが見上げてくる。
「少し眠れない日が続いていただけなんだ。今日はたぶん眠れる。カガリのおかげだ」
「私、何もしてないぞ」
「いいんだ、カガリに会えたら安心した」
半分は本当で、半分は彼女のための嘘だった。
たぶんこの問題はいつまでも心の深部に横たわり続けるのだろう。大切なものがあるということは、同時にそれを失う恐怖を抱え続けるということだ。
だから、もう手にすることはないと一度は手放した銃を、いままた手にしている。もう二度と、なくさないために。
「アスランはあったかいなあ」
抱かれた腕の中で身じろぎすると、カガリは額をアスランの胸にうずめた。顔は見えないが、たぶん微笑んでいる。照れているのか、くすぐったそうにカガリが笑う。その仕草と声に、胸が締め付けられた。この存在をなくしてしまったら、今度こそ堪えられない。
カガリを上向かせると、黙ってくちづけた。
金色の髪を乱すように撫でて、さらにキスをする。不意打ちに驚いていたカガリの瞳が、そのうちに閉じられたのを確認して、さらに深くくちびるを求めた。でも、圧倒的に足りない。
彼女の熱をもっと確かめたい。そう簡単にいなくなったりしないと、自分に確信させたい。疼くもどかしさを、どうすればいいのか。体の奥が発熱してくるような、得体の知れない衝動を感じる。これ以上、彼女に触れてはいけないとわかっているのに。庭園の奥の暗がりで立ち尽くしたまま、キスを重ねていた。
一度目のキスは、別れのあいさつのつもりだった。自分の願いと命ごと、きっと生き残る彼女に託すような、そんな想いでくちづけた。
二度目のキスは、愛しさのためだった。ふいに好機だと気づいたからでもあった。食堂で昼食をとりながら会話するという健やかな逢瀬を何度となく重ねて、日々に色がついて見えてきた頃だった。あのとき、自分の寝室にカガリと二人きりでいるのだと、会話が終わるころになってようやく気付いたら、思慕と、好奇心が同時に疼いた。
三度目のキスは明確に彼女が欲しいと思ったからだった。そして、同じ気持ちがカガリの瞳の中にあるのを見たからだった。けれども、肩を掴んで引き留めてくる優等生の自分がどこかにいて、それでどうするんだ、と尋ねる声で我に返った。
「……カガリも、もう休まないと」
引きはがす気持ちでカガリから身を離すと、アスランはその背中を戸口へ促した。
「あ、うん……」
エスコートするような手に促されるままに、二、三歩歩き出して、しかしそこでカガリは足を止めた。なぜか、怒った時のように肩をいからせている。
「どうしたんだ」
後ろから顔を覗きこんでから、アスランは自分のしたことを後悔した。ざわっと血の沸き立つのを感じた。くちづけの名残に濡れたくちびる、瞳まで潤んで金色のまつげを艶めかせていた。
「……まだ、部屋に帰りたくない」
カガリの囁きはかすれて切れ切れだった。
「って、言ったら、おまえ、困っちゃうよな」
ごめん忘れて、と言ってなかば駆け出しそうだった彼女の手首を掴んだのは、正しかったのか、間違いだったのか。
けれども、同じことを百回繰り返したとしても、たぶん、同じように引き留めてしまうのだろう。あらがいようのないことだった。
「は、……んぅ、ん」
二人分の荒い息づかいと、重みに軋むベッドのスプリング、唾液の交じる水音だけがある。ベッドの端に腰かけた二人は、溺れるようなキスを繰り返していた。
「アス……ラン」
息継ぎの合間に、カガリが吐息に混じって名前を呼ぶ声に、体の奥がずくんと熱くなる。
呼吸と呼吸、体温と体温をひたむきに重ねあう。
キスをしているだけだというのに、どうかしてしまいそうだった。愛しく想うその人の存在を肌で感じることの途方もない心地よさが、麻薬のように理性を溶かしていく。
やがて、下半身に集積し始めた欲望と情動は無視できないほど高まっていた。服の下で屹立し熱を持つものが、次第に体積を増してゆくのをありありと感じてアスランは愕然とした。
自分の体が、彼女との行為を望んでいる。それは単なる生理的反応だけでなく、実感のこもった欲望だった。アスランが知るのは教育によって得た性行為のかたちだったが、そこへ自分を重ねてカガリをベッドに組敷く様を頭によぎらせた瞬間、獰猛な衝動に意識がくらんだ。
彼女の肩を掴んで押し倒してしまいたい。理性も建前も未来さえもかなぐり捨てて、カガリを抱いてしまいたい。
「……アスラン?」
カガリが舌足らずに名前を呼ぶ。口づけを止めてわずかにためらうアスランの顔を、伺い見る彼女の上気した頬のなんという扇情か。こんな顔をどこに隠していたのだろう。
「あ、わ……」
匂いたつような首筋に顔をうずめると、彼女は慌てた様子で背筋を反らした。柔らかい肌にかすかに歯を立て舌でなぞる。思うさま体に手を伸ばす。乳房のふくらみを撫でて手に含む。厚いジャケットの下にある体のやわさも熱も、まだ隠されたままだったが、不可侵の場所に触れている事実がアスランを高揚させた。
「んっ……んく」
声を出すのをこらえているのだろう。きつく噛んだ唇からくぐもった吐息が漏れている。直に触ったら、声を我慢できなくなるものだろうか。執務服のインナーのファスナーに指をかけて一気に下げると、そこにはみずみずしく温かな肌があった。下着に包まれた胸に指を滑らせると、吸い付くような感触と想像もしなかった柔らかさ。甘い手触りだった。
頭がくらくらしてくる。
なおも押しとめようとする理性を振り払ってしまおうか。足を踏み外してしまえば、蜜のような泥の中に滑落できる。落ちるなら一瞬だ。けれども、自分がそれを思い切れない人間なのだということはアスラン自身が一番わかっていた。
肌の上の上を這い始めた冷たい手に、カガリは堪えかねたように腰を引いて逃げた。
「ゃ、待って……っあ」
カガリの制止はほんの小さな囁きだったが、アスランを止めるには十分だった。その言葉を、たぶん待っていた。手を離し、体を遠ざける。
上がった体温を冷ますように、しばらく二人は無言で肩を上下させていた。
「……ごめんって、言ったら怒るからな」
まさに口を開こうとしたときに先を越されて、アスランは敵わないな、と小さく笑った。ゆっくり呼吸して自分を落ち着かせる。
「止めてくれてよかったよ」
「……え……あの」
カガリはまごついた様子で服をきゅっと握った。
「私はべつに……待ってと言っただけで……」
もぐもぐと口ごもる。おさまってきていた頬の赤みがまたぶり返している。そういう表情のひとつひとつを愛おしいな、と思う。そういう彼女の髪を、ただ親しみを込めて撫でる自分でいたかった。今はまだ。
「くしゃくしゃになってしまったな」
カガリの前髪を整えて、衣服を元に戻す。
「アスラン、私は」
開きかけた口唇を、手を伸ばして止めた。
「今日はもう休もう、お互いに。明日も午前に会談の予定だったろ。俺も追随するから」
情動の濁流に飲まれるのが怖かった。自分の中にある劣情を見つけた時に、それを恐れた自分がいた。彼女を真綿でくるむように大切にしたい己と、男として彼女を愛したいと望む己が、馴染めずにこじれているのだ。
カガリと見た、どこまでも広がる海辺の景色を思い返すたびにプラントの小さな海を同時に思い出す。この途方もなく広大な惑星のどこかに根を下ろしていけるのだろうか。それはカガリの隣なのだろうか。不確かな未来に誓えることは心だけなのに、彼女に触れられるはずもない。
愛おしいと思う、底のない気持ちを抱えてたたずむだけだった。
ユニウス条約が発効したのは、雨期の只中だった。カガリがオーブ新代表としての演説や記者会見、独立宣言のためのレセプション、外交の下準備としての各大使館への訪問と、休みなく駆け回る中、雨は降り続いた。
「オーブの雨期はいつもこんなふうなのか?」
移動の車に乗り込むわずかの間に降られた雨を髪の先に滴らせながら、アスランは隣に座るカガリに尋ねた。
「いや、今年は特別よく降ってる気がする」
自分の頭や肩を拭きながら、アスランにもタオルを差し出す。雨粒がルーフや窓ガラスに叩きつけるように当たる音が車内に響いていた。車がそろそろと走り出すと、カガリは深いため息をついて座席に背を沈ませた。
「疲れただろう。休みなしだったもんな」
「いや、決まったことをこなしたり喋ったりするだけだったから……大したことないんだ」
カガリはぼうっと前を見たままで言った。言葉がどことなく自嘲的に聞こえる。
「一昨日の就任演説、俺は非番だったから街頭モニターで見ていたんだ。カガリの言葉に頷いたり歓声を上げる街の人の熱気を目の当たりにして、君への期待の大きさを知ったよ」
「……みんなが期待してるのは、私じゃなくて『アスハ』にだから……」
雨音にかき消されそうな呟きだった。南国の太陽そのものだったカガリの笑顔は、代表就任と同時に鍵をつけて仕舞い込んでしまったようだ。もうずっと、彼女の笑った顔を見ていない。
『そんなことない。みんな君に希望を託してるんだ』と言葉をかけるのは難しいことではない。けれども、カガリの自嘲にも逃げ切れない事実がある以上、アスランは甘い気休めを口にすることはできなかった。
彼女の自信や意気地は毎日、毎日、確実にそがれていた。閣議で発言を否定され、覆されるたびに、カガリの内側に傷がついていく。けれども彼女は弱音ひとつ、涙ひとつ見せなかった。歯を食いしばって立ち続ける細い肩が、隣に立つアスランにはどうしても痛々しかった。
「臨時会談? 聞いてないぞ」
秘書官から手渡された予定表を見るなりアスランは声を上げた。代表就任から一カ月あまり、半日の休みもなかったカガリに、明日は休日が用意されているはずだった。そこに素知らぬ顔で予定が追加されたと告げに来た秘書官に、アスランはつい不快をあらわにした顔を向けていた。
「大洋州連合の外相から申し入れがあったのです。訪問の日程が繰り上がったのだとか」
「先方の勝手な変更に親切に応じる必要はないのでは? 代表は体調が優れないからと伝えましょう。本来の予定通り、会談は明後日に」
アスランが予定表を突き返すと、秘書官はたじろいで半歩下がった。
「……護衛のあなたに予定の決定権はないはずですが」
凛然としたアスランの態度に気圧されながらも、秘書官はすぐには引き下がらなかった。
「代表の健全を守るという意味では、職務を逸脱していないと考えます。代表の様子を対面して見ていたあなたも気づいたでしょう。彼女には休息が必要です」
頭に血が上っていたとは思う。以前からカガリのスケジュールをめぐって意見が食い違うことの多い相手だったが、今日ほどはっきりと対立したのは初めてだった。秘書官を追い返した後の控室で、アスランは一人脱力して椅子にもたれた。
カガリには手放しで仕事を委ねられる腹心がまだ少ない。世襲であるからには側近の基盤ごと受け継がれるのが通常だろうが、アスハ家は戦争で側近の多くを失っていた。
「アスラン」
随分長引いているなと手元の時計を確認した、ちょうどその時に控室の扉が開いた。
「お疲れさまでした、代表」
立ち上がり、扉に向かって目礼する。閣議の後のカガリはいつも疲れ切った顔をしていたが、今日はことさらに顔色が悪かった。
「控室で少し休みますか? それとも」
「ううん、帰りたい。少しでも早く」
駆け寄ってきたアスランの腕を掴んで引き寄せたカガリは今にも倒れそうだった。支えながら公用車へ乗り込み、並んで腰かけた後部座席でも、カガリははばからずにアスランにもたれていた。嘔吐をこらえるようにきつく眉をしかめている。
「大丈夫か? アスハ邸に主治医を呼んでおこうか」
「……いらない。アスランが部屋までついてきてくれればいいから」
それきり押し黙ったカガリの腕を支えて部屋まで付き添ったが、廊下を歩きながらやはり医者を呼ぶべきだろうかと再三迷った。カガリの様子は明らかに普通ではなかった。
「ベッドに横になるか? 何か飲んだり、食べたり……」
「いらないよ、大丈夫」
寝室まで同行して彼女をベッドに座らせると、アスランは向かいに膝まづいた。小さな手に手を重ねて、心を込めて彼女を見上げた。
「もう、大丈夫なんて言うな。もう、気を張らなくていいから。ここには他に誰もいない。誰も見ていないから」
二人きりで向かい合って、ようやくカガリのこわばった肩が弛緩した。そこまで、ずっと、堪えていたのだろう。気持ちを込めた声をかけると、カガリは糸が切れたように泣き出した。
「カガリ」
胸に倒れ込んできた彼女を受け止めながら名前を呼ぶ。説明はなく、ただただ泣きじゃくっていた。代表と呼ばれるようになってから、ずっと溜め続けていた涙の水瓶がひび割れてしまったように思えた。
今しか、泣けないのだ。泣いてすがれる相手がカガリにはアスランのほかにいない。それならば嗚咽に震える背中を撫でてやれるのもアスランしかいないのだ。カガリの眼からこぼれる涙がなくなるまで、アスランは床に座り込んだまま、じっと彼女を抱き締め続けていた。
その日、カガリは政界での唯一の拠り所をなくしていた。
それまで宰相として務めていた叔父ホムラの更迭が決まったのだ。戦後処理の責任をとっての退任ということだったが。責任の一切を彼に負わせることを執拗に主張したのは新しく五大氏族となった一族の族長なのだと、のちに聞いた。
セイラン家というその氏族の当主であるウナトという男が、後任の宰相と決まったのはそのすぐ後だった。アスハ家の使用人から聞いた話によると、ウナトはカガリの父ウズミの知己であるということだったが、アスランの彼の対する第一印象は明るくなかった。人を見た目では計らないアスランだったが、この男はどうにも親しみにくい印象の外見をしていた。表情を隠すような色眼鏡を好んで着けているせいか。初対面の際にアスランを頭から爪先まで舐めるように眺め、意図のわからない笑みを浮かべたせいでもあるかもしれない。
だが、たしかにカガリにとっては父の友人として見知った相手なのだろう、叔父ほどに親密ではないにしても、相談事も気安くできているようだった。
議場では意見の対立も少なくないらしかったが、会食の機会も多く、度々顔を合わせていたので、カガリ自身も相談相手として信頼しているのだろうかと思っていたところに、青天の霹靂があった。
いつもの料理店での会食の時だった。通された部屋に入ってから十分もしないうちに、扉を蹴破る勢いで開けてカガリが飛び出してきたので、ちょっとした騒ぎになった。
「おい、いまの代表に間違いないよな」
「なにかあったのか?」
「わからん。忘れ物、ということでもなさそうな」
待機していた護衛が顔を見合わせているうちに、アスランは一人駆け出していた。通りすがりに個室内を確認すると、そこにはウナトともう一人、若い男がいた。初めて見る顔だなと考えながら、そのままカガリの背中を追った。
「どうか、されたのですか?」
廊下の突き当りに彼女はいた。店を飛び出してしまいそうな勢いに見えたので、アスランは胸をなでおろしたが、すぐにその安堵は打ち消された。こちらを振り向いたカガリの瞳が怒りに燃えていたからだ。
「すぐに帰るぞ。みんなを呼んでくれ。今日はもう終いだ」
「前菜もまだなのに? なにか問題が起きたのか」
近づいて小声で尋ねると、カガリは握り込んだこぶしを震わせた。
「問題なんかにしない。私はぜったいに認めない」
金茶の瞳に炎が揺らめいていた。
それほどの感情を持つにはなにがあったのだろうかと、もう一度わけを尋ねたが、カガリは黙り込んだまま首を横に振るだけだった。心配いらないからと、一言だけ言い置いて自室に向かってしまうまで、カガリは言葉にならない憤りを燃やしているようだった。
カガリの激しい怒りの原因は、セイラン家の一方的に押し付けてきた婚約話にあったのだということを、翌日になってアスランは侍従たちの立ち話で知った。昔から決まっていたことだと話す者もいれば、聞いたこともない話だからセイラン家の策謀ではないかと言う者もいた。
どちらであったとしても、昨夜、会食をぶち壊しにした理由を、カガリがアスランに語らなかったのは、婚約を断固として認めない意志があったからだろう。言葉にもしたくなかったのかもしれない。
ウナトの息子はユウナといった。いつ見ても薄く笑みを浮かべている、なんとなく芝居がかった動作をする男だった。
宰相に就いた父に代わって入閣したため、やがて彼とは頻繁に出くわすようになっていた。
議事堂や駐車場で顔を合わせると、ユウナは必ず含みのある一瞥をアスランに注いだものだった。その視線に含めた意図にアスランは早々に気づいた。彼はアスランとカガリの関係を知っている。そのうえで、議場に入るカガリの隣に立ち、肩に触れたり、なにかとそばに寄り添おうとする。虫唾が走るようだった。
セイラン家が持ち出してきた婚約が政略のためなのは、子供でも見透かせそうな簡単な図式だ。だが、いつから下準備をしていたのだろう。代表として戴いておきながらカガリの発言力を削ぎ、ホムラを失脚させ、宰相という立場を獲得し、地盤を作ったところに婚約の話を打ち込んだのだ。根が深く張り巡らされている。カガリ一人でこの策略を根まで焼いてしまえるものだろうか。
「アスラン、支度できたか?」
ノックと同時にカガリの呼ぶ声が聞こえた。アスランはドアを振り向きながら声を張った。
「もう終わるよ。あとはネクタイだけだ」
「入ってもいいか?」
「もちろん、どうぞ」
待ちきれないのだろうか。子供のようだなと笑いながらアスランが返事をすると、扉が開いて、眩しい色彩が飛び込んできた。
「わあ、アスラン、すっごく似合ってる!」
目を輝かせてカガリが駆け寄ってきた。ドレスの裾がふわりとなびく。
「どうした? 何か気になる?」
アスランが、瞬きもせずに固まっているからだろう、カガリは首を傾げてこちらを眺め回してきた。彼女が駆けたために動いた空気に乗って、何かが香った。すがすがしく甘い匂いだった。
「ああ、そうか、香水か」
納得するのと同時に思ったことが口から出ていた。
「えへへ、いい匂いだろ? メイクの仕上げにって付けられたんだけど、好きな香りだったから、ずっとふわふわ香ってるのも案外いいなぁって」
「そうか……そうだな」
肩をすくめて嬉しそうにするカガリに相槌だけ打つ。なにか言うべきだと思いながら、言葉が見つからなかった。
若草色のドレスはカガリ自身の持つ淡い色合いにとてもよく似合っていたし、控えめな色のルージュは彼女を魅力的に彩っている。細い首筋も、まろやかな肩も惜しげもなく見せているが、こんな服装で数百人もの招待客のいるホールに登場しようというのか。
「アスランは、ネクタイしたら完成か?」
「ん? ああ、待たせてすまないな」
「ネクタイするとこ見てみたい。面白そうだ」
瞳がきらきらと輝いている。光の色のような虹彩が今日はことさらに綺麗だった。まつ毛にも、瞼にも星屑のようなメイクが乗っているからか。
「カガリぃ! 探したよ。こんなところにいるなんて」
カガリがアスランのネクタイに触れようとしたときに、計ったような間で声が飛んできた。扉を開け放ったままにしていたことに今更気づいて、アスランは舌打ちした。
「なんだよ、ユウナ。ここはアスランの控室だぞ。断りなく入室するのは失礼じゃないか」
「これは失礼。ドアが開いてたものだから。どうぞ、って意味かと思ったよ」
おどけて片目をつぶるユウナをアスランは正面から見つめた。いつからそこにいたのか。この男はおそらくタイミングを見て姿を見せたに違いないのだ。
「で? 何しに来たんだ」
「おかしいな、あんまり良い言い様じゃないな。僕は今日の君のエスコートなのに」
カガリが瞬発的にかっと血を上らすのが表情に見えた。
「今日の私のエスコートは叔父様と決まっていたはずだぞ。誕生日のパーティーは身内が付き添うのが通例のはずだ」
「身内というなら、僕が一番の身内だろ? なんてったって未来の……」
「その話なら私は一切認めてないからな。お父様の名前をいくら出したって、約束があったって主張したとしても、証文も本人の承諾もなしに話は進められないはずだ」
カガリは低い声に怒気を込めていた。絹の手袋に包まれた彼女の手が震えているのに気づいて、アスランはとっさにそれを握った。その手を自分の腕へと促す。
「支度ができたらホムラ様のところへ伺うことになっておりますので。失礼します」
形ばかりの会釈をして、二人でユウナの脇を通り抜けた。
「ふうん……まあ、せいぜい今を楽しむといいよ」
すれ違いざまにきっちり台詞を浴びせるところは、さすがと言えるか。だが、アスランには、現時点ではユウナがアスランとカガリの親密さについて口を出すことができないと、確信していた。どこへも訴えることができないからだ。
例えば、スキャンダルにでもすれば、カガリの印象に傷がつくかもしれない。カリスマの国家元首の夫におさまりたがっているユウナに、それは少々都合が悪い。カガリが首を縦に振らないうちは、婚約を持ちかけている閣僚の一人に過ぎない彼には、そもそもカガリの交友関係に口出しはできないはずだ。婚約を承諾して欲しがっている今は、カガリの機嫌をできるだけ損ねないことを得策としているだろうと、とアスランは踏んでいた。
しかし、その予想はまったく甘かった。ユウナはずっと、したたかで大胆だった。
カガリの誕生日を祝う今夜の夜会には、国内外から賓客が多く招待されていた。外交的側面も多分に含んだ祝賀会ではあったが、年若く国民に熱烈に支持されているカガリ自身に注目と興味が注がれているのは、彼らの会話や、主役を待ち望む様子から見てとれた。そうして代表首長の登場に期待していた客人たちの前に現れた国家元首の隣に、ユウナは泰然と控えていたのだ。
壇上に立ったカガリへ一斉に拍手と歓声が向けられる。その声に、カガリはゆったりと微笑んで応じていた。数百人からの祝いを一身に受ける彼女の横に、当たり前のような顔で立つその男は、幕の陰に控えていたアスランを目ざとく見つけ、薄く笑った。
「カガリ、入るぞ」
ノックをしてしばらく、くぐもった声が返ってきたのでアスランはノブに手をかけた。煌々と明るい廊下に対して、カガリの控室はランプ一つ灯していなかった。暗順応を待って目をすがめると、窓際の椅子に座るカガリの姿が見えた。室内はインクを薄めたように暗かったが、庭園の外灯の光の入る窓際だけがほのかに明るく、カガリの輪郭をにじませていた。
「ハーブティだそうだが、飲めそうか」
カガリはネストテーブルの一つに脚を投げ出して窓の方を見ていた。大理石の床にハイヒールが転がっている。アスランが別のテーブルに茶器を置くと、彼女はのったりと顔を上げた。
「……ありがとう」
「挨拶は済んでいるし、このまま休んでいていいと、ホムラさんから了承をもらってきたよ」
「そっか……」
それだけの返事をすると、カガリはまた口を閉じたが、しばらくするとそっと聞いてきた。
「なあ、私、ちゃんとできてたかな」
そんなこと、心配するまでもないと、アスランは笑ってみせる。
「すれ違う招待客が口々に君を褒めるのが聞こえたぞ。役目は十二分に果たしただろう」
「アスランが聞いたってんならほんとだな……よかった」
深く息を吐きながら、カガリは脱力して椅子に背を沈ませた。
「ちゃんと最後まで会場にいるつもりだったんだけどな。こんなに疲れた誕生会は初めてだ」
「今日のは半分以上が仕事だったもんな。誕生会は明日マルキオ導師のところでやり直すと思おう。キラ達にも久々に会えるし、きっと楽しいぞ」
労う言葉に、こくんと頷く。そうだな、楽しみだと明るい声で答えたが、カガリは窓の外に目をやったままだ。拭い去れない影があるのか。はしゃいで喜ぶ様子ではなかった。
「なにか食べるものでも頼もうか。少し口に入れたほうがいいかもしれないぞ」
「ううん。パーティーの前にじつはけっこう食べてはいたんだ」
「でも、顔色が悪いぞ。スープみたいなものでも……」
言いながらそばを離れようとしたアスランを、カガリは服を掴んで引きとめた。
「……いいんだ。ここにいてくれ。ほんとに何もいらないから」
アスランを見ずに言う。ジャケットの裾を引っ張りながら、しどけなく伸びていた脚を折って身を縮める。なんだか寂しがる幼子のようだった。
「……なにか、言われたのか?」
誰に、と名前は出さずに尋ねる。
「なんにも……」
膝を抱き込んで、カガリはぼそりと答えた。
「なにも、言わなかった。あいつ。てっきり招待客にありもしないこと吹聴して回るのかと思ったら、聞かれたときに宰相の息子だと名乗るだけで」
何を考えてるのか、わからない、と話す声が心細く暗い部屋に響く。
「でも、すでに叔父様を味方につけていた。エスコートのこと、今朝までは『私が務めるから』て叔父様自身が言っておられたのに。先回りばかりされてる」
ユウナのあの笑顔の仮面の下に、隠しているものが読み切れないのはアスランも同じだった。ひたひたと周囲を囲い、近づいてくる足音がそこにあるようだ。
「カガリ……」
「わからないことを、あれこれ考えてもしょうがないんだけどな」
話を打ち切ると、カガリはようやく掴んでいたジャケットの裾を手放し、眩しく仰ぐようにアスランを眺めた。
「おまえさ、今日、ホールで一番目立ってたぞ」
「それは……なにか失態があったということか?」
「はは、逆だよ、逆。あんまり見た目がいいから、注目されてたんだよ。隅っこにいたってのに」
「……気づかなかったな」
「来賓に彼はどういった人なのか、と散々聞かれたなぁ。一人二人じゃなかったぞ。顔立ちがあんまり整っているから、俳優なのかと思う人が多かったみたいだ。みんなが見惚れてた」
カガリは自慢げに話してから、小さく付け足した。
「私も、なんだけだけどな」
はにかんで笑う。内緒だけどおまえの方を見ていたんだよと、彼女はほんのり頬を染めた。その表情が、小さな宝物のように思えた。スポットライトを一身に浴びて壇上にいたあの女性は、手の届かない高みにいるようだったのに。アスランだけは彼女が幼さを残した一人の女の子だと知っている。
雲が切れたのか、窓辺がにわかに明るくなった。カガリのささやかな笑顔が月明かりに浮かぶ。その微笑みを、震えるほどいとしいと思った。
言葉にすると、途端にありきたりなものになってしまう。好きだと、愛していると、伝える言葉は映画の中にも小説の中にも、溢れるほどあるのに、どれも自分の想いとは何かがそぐわない。足りないと思う。
この唯一の心は、彼女のためだけのもの、アスランだけのもので、他の誰かの愛の言葉では例えられない。
言葉にできない気持ちを込めて、アスランはカガリのくちびるに一つ、キスをした。
「カガリは……綺麗だな」
ふいのキスに驚いたのか、目を丸くするカガリに微笑みを返す。
「夜会が始まる前、控室に入ってきたときに、あんまり綺麗で……それが上手く言葉にできなかった。ドレスがいいものだと、初めて思ったよ」
「それは……どうも、ありがとう」
素直な賛辞に戸惑い、カガリはいたたまれない様子で下を向いた。照れると、彼女はよくむっつりと唇を尖らす。艶やかなドレスと対照的な、いとけない仕草だった。
「じつは、誰にも見せたくないな、と思ったんだ」
「なにを?」
「君を」
マホガニーのテーブルに軽く腰かけて、アスランはカガリを正面からじっと見た。彼女の座る椅子を滑らせて、両脚の間にやんわり囲う。
「誰にも見せないようにするなら、逃避行という手もあるか、なんて思ったしな」
「……ううん、白状すると、それは私も考えたことあるぞ」
顔を見合わせて二人で笑いあう。
「明日、マルキオ邸にはヘリで行くだろ? それをハイジャックでもすればできないこともない」
「それなら、エレカ一台くすねたっていいな」
「オーブは無人島が多いから船で出たほうがいいかもしれないな。モビルスーツが拝借できれば最適なんだが」
「あはは。ばかだな、おまえ、無茶苦茶だ」
ころころと声を上げてカガリが笑った。やっと、ちゃんと笑った。彼女の周りがぽっと明るくなるようだった。益も害もない、他愛のない空想話だ。それが不思議に楽しくて、寂しい。
静かな夜だ。夜会のホールからの楽し気なざわめきと、楽隊の音楽がかすかに聞こえてくるが、ここには二人の話し声だけだ。こんな時間がずっと、ずっと地平の先まで続いていたらいいのに。
泉のように会話が湧いては広がってゆく、だが、その水面に石を投げ込むようにドアをノックする音が鳴り響いた。
「カガリ? いるかい?」
ユウナの声だった。
「貧血を起こしたって聞いたんだけど、大丈夫? 入ってもいいかな」
カガリの顔からさあっと表情が抜け落ちていくのを、アスランは間近で見ていた。
返事をするつもりなのだろう。アスランへ制止を指示する手つきで合図をして、カガリは息を吸い込もうとする。その頬を、反射的に押さえて掴んだ。
「あっ……」
声を出すよりも早く唇を唇でふさぐ。
「んぅっ」
いきなり舌の奥まで舐め上げた。噛みつくようにキスをしていた。
しびれたように反応できなくなっている舌を絡めとる。誘われて反応するその舌先と愛撫を交わし合った。顎を押さえながら後頭部に左手を回す。熱い口内、カガリはすでに息継ぎするような呼吸になっている。じゅっと音を立てて唾液を飲んだ。ひとしずくに至るまで、誰のものか。
不行儀にも、返事を待たずに控室の扉を開けたその男が、戸口で立ち止まり、数秒の後に立ち去ったのを、アスランは視界の端で見ていた。
閣議のあとのカガリは、いつも、まるでいまにも降り出しそうな雨空だった。まれに話し合いが上手くいった日も、事案を取り合ってすらもらえなかった日も、いつも同じ顔をして控室に帰ってくる。迎えるアスランに、身を寄せて泣くのを懸命にこらえるようなこともあった。何も言わずに色んな感情を仕舞い込む。言葉こそ少なかったが、カガリがもたれて休める唯一の場所であるということが、アスランの居場所でもあった。
それが、その日は、微笑みとともにカガリが議場から戻ってきたので、アスランははじめ何かこれまでにない大きな成果を得たのかと思った。だが、カガリは喜びを見せるようなことはなく、手早く荷物をまとめていた。
「……車を出してくれ。邸に戻る」
短くそれだけ指示する。カガリには話すつもりはないようで足早に控室を出た。議事堂の廊下に二人分の靴音が不ぞろいに響く。凛とした背中を黙って追っていたアスランは、彼女の隣に並ぶとよい話題のつもりで尋ねた。
「今日の閣議で、なにかいいことがあった?」
「そう思うか?」
「君が笑っているのは、ずいぶん珍しいと思って」
「いいことがあったら、もう少し違う顔をするかな」
前を見据えたまま彼女が唇を曲げた。喜びのひとかけらもない笑みだった。
アスランはようやく彼女は怒っているのだと気づいた。猛烈な怒りを腹の底で煮やしている。閣議で相当のことがあったのか。だが、彼女をこれほど激怒させる議題があっただろうか。
すぐに思い当ってしまうのが、どうにも不愉快だったが、あの男となにかがあったのだろうかと、アスランは思いながらも口には出さなかった。二人の間では、その男の名前が呼ばれたこともないからだ。お互い、暗黙のうちに避けていた。
アスハ邸に着くと、カガリはアスランの手をぐいぐい引いて離さなかった。目的地はやはりカガリの部屋で、アスランは押し込むようにしてドアの中に入れられた。
着いて来いと言われたときにそこまでは予想していたのだが、ソファに押し付けるように倒されて、アスランは面食らった。太腿にまたがりのしかかって、カガリは額を近づけてきた。
「キスしよう、アスラン」
あけすけに誘われて、アスランは唖然とした。
「……キス、されたのか」
カガリからの誘惑よりもよほど問題に思えたが、彼女はいきなり胸倉を掴むと怒鳴った。
「そんなことされてたまるか!」
かぶりつく勢いでカガリはアスランの唇をふさいだ。拙く入り込んできた舌に驚きながら応じる。懸命に唇を求める様子をめまいがする思いで眺めた。火照った頬、金糸の髪がさらさらとアスランに触れる。体勢がまずいなと思った。カガリの重みと熱を両脚の上に感じている。これほど密着するのは初めてかもしれなかった。足の付け根に集積する熱をどうにか逃がそうと、アスランが身じろぎしたのを両手で押さえて、カガリは身を起こした。組み敷く体勢でこちらを見下ろす彼女が、おもむろに衣服を脱ぎ始めたので、アスランは慌てて起き上がった。
「ちょっと、待て、カガリ」
「何を待つって言うんだ? いいだろ」
あっという間に桃色の下着があらわになる。
「頼むから冷静になってくれ」
「私はいたって冷静だ」
脱ぎ去ってしまいそうな首長服を、アスランは急いでかき合わせて肌を隠したが、カガリは少しもやめる気はないようで、今度はアスランの衣服に手を伸ばしてきた。
「カガリ……!」
カガリの手がジャケットを掴んでするりと肩から落とす。ついでインナーのファスナーに手をかけようとする。情熱的ともいえる行動だったが、カガリは凍てついた無表情だった。彼女の頭の中は、きっとなにか別のことでいっぱいになっている。
止めなくては、と小さな手を引きはがしてぎゅっと握った。
「カガリ、やめよう。こんなふうにしたいわけじゃないだろう」
「……したいから、してる」
カガリは抵抗して振りほどこうとしていたが、アスランは離さなかった。
「自棄になってすることじゃないよ」
「やけでも、なんでも、するならアスランとしたい」
がなるように言って、カガリは拘束されていないほうの手でアスランの服に触れた。音を立ててファスナーを引き下げる。そこで、カガリの動きが止まった。
「……あ」
感情が呼び覚まされ、瞳が揺らいだ。
「……これ」
カガリの視線の先で、赤い石が揺れていた。
「ずっと……持っていてくれたのか?」
「そうだよ。女神の護り、なんだろう」
「いつも、ここに?」
「ああ、俺の道しるべだから」
道しるべ、とカガリは口の中で繰り返していた。
「……そうだな。ちゃんと、生きて帰ってこいって、私はいつも思ってたかもしれない」
そっと、護り石に触れる。
「帰ってこれるように、アスランを護ってと、ハウメアに祈ったんだ……私はアスランの帰ってくる場所になりたいと、思ってたんだな……」
言い終えた瞬間、カガリの手から力抜けた。同時にまなじりがみるみる潤んでいく。
「今日、私は……」
言いかけて、唇を切れそうなくらいきつく噛む。絶対に泣いてやるものかと、心に決めているようだった。
「今日の閣議の終わりに、セイラン家が内々にだけ知らせておきたいことがあると、いきなり話し出したんだ。私にはなにも断りもせず、勝手に。ウズミ様と昔に約束していたこともあり、セイラン家とアスハ家は婚約を進めている、と。私の了承を待たずにだ」
怒りの炎がぶり返してきたのだろう、カガリは肩を震わせた。
「やられてしまった。先手を打たれた。閣議の場で決定事項として話されたら、私が簡単に突っぱねられないのをわかっているんだ。ウナトの発言力のほうが今はどうしても強い。それをわかっている。叔父様にも根回しは済んでいた。準備は整ってたんだ」
アスランは言うべき言葉を見つけられなかった。あの親子は侮ってはならなかった。軽薄なふるまいは見せかけと思うべきで、実態はずっと老獪で知略に長けている。
「……私は、悔しい」
こらえきれなかった涙が一粒だけ、カガリの瞳からこぼれて落ちた。声を殺してうめく小さな体が、ひどく切なく、アスランは無言で掻き抱いた。
世界に二人きりになったような気分だった。
味方なんて、どこにもいない。お互いがお互いを支えてやっと立っているというのに、それすら許さないというのか。
アスランの肩に額を押し付け、縋りついてカガリはいくつもいくつも涙を落した。声を上げずに泣かれるのは叫ばれるよりずっと苦しかった。
歯を食いしばって泣く、涙の雫の音まで、ぜんぶ漏らさず聞いておきたくて、アスランは熱い耳に頬を寄せていた。
「……アスラン……傷痕が、ある」
鼻をすすりながら、カガリがぽつりと言った。アスランの鎖骨に頭を乗せて、やっと泣き止んだところだった。
「ああ、それは……撃たれた痕だな」
カガリの見ているのは右肩の銃創の痕だ。父の撃った銃のためのものだと、言いかけてやめた。
「そうか……痛かったな」
言わずとも、カガリはそのことを覚えているようだった。
引き攣れた皮膚には触れずにその縁にそっと指を置いた。ひとつ。
「他には?」
「他?」
「傷痕。私が銃で撃った怪我もあるだろ」
言いながら、カガリはアスランのインナーをめくって脇腹を覗きこんだ。これだ、とひとり呟いて、カガリはその白い傷痕もなぞった。ふたつ。
さらに無言で指を滑らすと袖の内側、右上腕まで手を差し込んだ。そこにもカガリの撃った銃弾によるかすり傷の痕がある。見た目にはほとんどわからないくらいになっているが、触れると一筋のわずかな隆起がある。みっつ。
「もう、痛みもしないよ」
アスランが囁きかけてもカガリは首を横に振っただけだった。先日の暗殺未遂事件で負った怪我の痕。イージスで自爆した時に体に付いたいくつもの裂傷。アスラン自身も忘れていたような傷痕にカガリはひとつひとつ触れていった。よっつ、いつつ、むっつ、いくつもの痛みの痕。
痛みを想像しているのか、カガリはずっと眉根を寄せていた。アスラン自身も、どのくらいの痛みだったのか、すでに忘れてしまっているのに。
「……もう、痛いのはたくさんだな。これから先は、ずっと笑ってばかりいられたらいいのに」
小さな独り言は、アスランの幸いを願う声だった。カガリは自分の幸せを願わない。アスランに何かをしてほしいとは、この先決して言わないのだろうとわかった。
何もかもを彼女に捧げたいと思うのに、それができない。
だが、なにをどうできただろう。アスランも、カガリも、背中に負う名前がある。それを置いてお互いの手だけとって逃げることのできる二人ではなかった。
※ ※
その宝飾品店に入ったのは、カフリンクスを買うためだった。レセプションパーティーに参加するための衣装を一通り揃えて、いくつも紙袋を手に提げて歩いていたら、なんとなく目に留まった店だった。
「バルティックアンバーですよ。そちらは特に色味が美しいものです」
展示ケースを眺めていたら、カウンターの向こうから店員が低い声で言った。
「アンバー……本物は初めて見たな」
「何千万年もの年月が作り出した時間の結晶です。ロマンのある宝石なんですよ」
「それは、壮大だな」
アンバーとは、アスランの記憶にある情報だと、樹液の化石だ。
「太陽の石と呼ばれることもあります。人工的に作ることは決してできないものです。昔は庶民的な装身具にも使われたらしいですが、今はほとんど採取されなくなっていますから。手に取ってご覧になりますか?」
「ああ、そうだな。いくつか候補を……」
ガラスケースに並べられた宝飾品は、ライトを浴びて競うように輝いている。それを見渡していて、ある石の前で目が止まった。赤い色の宝石だった。橙色がかった暖かい色味をしている。
「指輪もお探しでしたか?」
「いや」
壮年の男性店員はさすがの目敏さでアスランの視線に気づいた。
「こちらはガーネットですね。今は一点しかないのですが、サイズ直しももちろんできますよ」
アスランが目を反らせずにいるのを察して、店員はスマートな手つきで台座に乗った指輪をアスランの前に差し出した。
「さきほどの続きというわけではありませんが、ガーネットのような鉱石も、地球が歳月をかけて作るものですからね……」
同じものはひとつとしてない、唯一無二のものと言えるのだと話す、店員の言葉を聞きながら、アスランは華奢な指輪を手にとった。
贈ろうと、決めて買ったわけではなかった。実際、指輪は小箱にしまわれ、机の引き出しに入れられたまま、ずっと置き去りにされていた。
婚約という契約の重みを知っている。自分もかつて結んだことのある約束だからだ。カガリは正式には認めていないと、セイラン家に言い続けているが、彼らが聞く耳を持つとは思えない。
「——ユウナ・ロマとのことはわかってはいるけれど」
出発の準備で身の回りの物を荷物に詰めているときに、置いていくことも捨てることもできずに中身だけをポケットに押し込んでいた。その指輪を彼女の薬指に通したのはほとんど衝動だった。
「やっぱり、面白くはないから」
言葉にした途端、身の内に炎が踊った。やっぱり、だめだ。
どうしたって、誰にも渡したくはない。その想いだけを込めた。
カガリの指に贈ったのは炎の色の石だった。アンタレスの赤。生命のように脈打つ脈動変光星の色だった。