トロイメライ
01
「……最悪の誕生日だな」
カガリは出窓から見える景色をじっと見下ろして、そうつぶやいた。
城下街も、さらにその先の農村までも見渡せる、その窓はカガリのお気に入りの場所だった。季節ごとの心地よい風を感じられる、天井まで高く空いた大きな窓。しかし、今カガリの頬に触れるのは心地よいとは言い難い、ぬるくよどんだ風だった。かすかに混じっているのは煙のにおいだろうか。
「お祝いの式典がつぶされてしまって残念なお気持ちはわかりますが」
少し焦りを帯びた声で呼ばれた。振り向かなくてもわかる。侍女のミリアリアだ。
「カガリ様。早くお支度をしてください。時間がありません」
「支度なんかしないぞ。私は逃げないからな」
カガリはようやく部屋のほうへ体を向けた。
ミリアリアの他にも数人の侍女があわただしく部屋の中を走り回っていた。カガリが背を向けていた数分の間に部屋はずいぶんと様変わりしていた。貴金属の飾りのついた調度品はすべて運び出され、タンスなど動かせないものは、取っ手の金飾りが外されている。光るものがなければここまで自分の部屋も簡素になるのかと、カガリは思った。
「なんだかさっぱりしたなあ。私はこっちのほうが好きだ」
「悠長なことを言っている場合じゃないんですよ。さあ、早くこちらに。ドレスを着替えられないと」
「だから、私は逃げないと言っただろう」
「カガリ様……」
気丈なミリアリアがめずらしく泣きそうな声を出した。
「賢いあなたならおわかりでしょう? 口に出したくはありませんが、じきにここも戦場になるんですよ」
ミリアリアはカガリと同じで今年、十六になる少女だ。この状況でも取り乱さずに、よく自分を抑えているものだが。それでも、やはり声が震えていた。
カガリは、ゆっくりと息をして、夜明け色の燃えるような瞳で、幼なじみともいえる少女を見据えた。
「ここは戦場になったりはしない」
決意を込めて言った。
「だって、あいつが戦っているんだから」
カガリは、背を向けた窓の向こうにいるはずの人物を想った。深い湖の色をまとった人。青みがかった黒髪と、エメラルドグリーンの瞳と、やわらかく笑う、カガリの好きな笑顔を。
「カガリ様……いけません」
ミリアリアはかぶりを振った。
「アレックス殿は」
「必ず守るってあいつは言ったんだ。この国と、この城を守って、また戻ってくるって」
「カガリ様……」
「だから私はここで待たなくては」
今度はミリアリアが深呼吸をする番だった。
「アレックス殿はカガリ様の一の騎士ですから、あなたをお守りするために、国を守り、城を守るのが勤めです。そう、私も承知していますよ」
話すうちにミリアリアにも覚悟ができたのだろう。彼女は落ち着いてさとすように言った。
「だからこそ、アレックス殿のためにもカガリ様は生き延びなければならないでしょう?」
窓際のカガリに歩み寄ると、ミリアリアは主人の手を取った。
「だから、ね、逃げるんですよ」
「ミリアリア、私が頑固なのはおまえならよく知っているだろう」
するりと、カガリは重ねられたミリアリアの手から指を抜き取った。
「私はここに残るよ」
大切な幼なじみに、親愛を込めて微笑みかけた。
「でも、おまえには決して迷惑をかけたくはないから、今をもってミリアリアは私の侍女から解任する。私のことは忘れていいから逃げてくれ」
「なに馬鹿なこと言ってるんだよ、カガリ」
カガリが言い終わる前に、やれやれといった口調にさえぎられた。開けっぱなしになっていた戸口を見ると、カガリの兄がこちらに向かってくるところだった。
「遅いと思って見に来たら、やっぱりだね」
キラは肩をすくめる。年若い城主に、ミリアリアは軽く会釈をして場所を譲った。
「ここに残るだなんて、カガリ、東の魔女の呪いを気にしているんでしょ」
「呪いを気にかけているのはここにいる全員、同じだろう。この状況が偶然なわけがない」
最悪の誕生日だった。けれども、それはあらかじめわかっていたことでもあったのだ。カガリが十六歳の誕生日を祝福されて迎えられないことは、城の誰もが知っていることだから。それを知っていながら、今日までカガリは近づく刻限に向かって生きてきたのだ。
「だから、逃げてもしかたがないって思ってるの?」
「違う。私はただ逃げたくないんだ。外で騎士団が戦っているというのに、城主が逃げ出すことなんてできないだろう」
「……騎士団にはアレックスもいるもんね」
キラの声が低くなった。紫色の瞳が見透かすように澄んだ色になる。
「カガリ、いい加減、自分をごまかすのはやめよう? わかってるんでしょ? 騎士団はただ時間稼ぎをしているだけだって、彼らは全滅するつもりで剣をとったんだから。もちろん、アレックスも」
「いや、あいつは違う」
カガリは自分でも驚くくらい強い口調で言っていた。
「他の誰もが諦めていても、あいつだけは違うよ」
両手を強く握り込む。
(あいつだけは……私を諦めなかった)
カガリの国、オーブ公国には強力な力を持つ魔女がいる。彼女の呪いに、この国は十六年前から毒されているのだ。オーブは、カガリの十六歳の誕生日に、城の石壁のかけらひとつ残さず滅びると。
ことの始まりは、カガリの生まれた年に遡る。
小国だが実りの多い土地柄から、豊かで穏やかな国であるオーブが、王女の誕生に祭りさながらに湧いた日のことだ。国をあげて盛大に行われた生誕の式典だった。
娘の誕生を誰より喜んだカガリの父が、来賓を通常の二倍になるほど大勢招待し、オーブの豊かさを計らずも示すこととなった。軽く混乱を起こすほどの規模の祭典の熱気のなかで、手違いから招待すべきある人物への招待状が送られていないままとなっていた。
東の魔女、ただひとりだけに。
魔女は、雪のように真っ白なドレスで現れたのだという。酔いと、歓談と、色とりどりの華やかな衣装の中を、冷静な足どりで切り裂くように、やってきた彼女は雪の女王のようだったと。
式典の祝いの熱を、彼女は一瞬で凍りつかせた。
「ご機嫌麗しゅう、ウズミ殿」
東の魔女は、外見だけはほんの十五、六の少女だ。やわらかいのに、温度を感じさせない、冷たい美貌の少女はカガリの父母の前に立ち微笑んだ。
「盛大な式典だこと。こんな素敵なお祝い事があるなんて、知りませんでしたわ」
身構えるウズミに構わず彼女は歌うように続けた。
「こんなに可愛いお姫様なら一番に見せていただきたかったのに」
天蓋のある小さなベッドで寝息をたてる赤ん坊に、魔女の白い指がそっと触れた。
「なんて、可愛い。きっと輝くように美しい王女になるのでしょうね。誰からも愛されて、大切にされて」
来賓からも、給仕や衛兵達からも注目を一身に受けて、うっとりと囁く。
「でも、残念。王女様は十六歳の誕生日に大切なものをすべて失ってしまうみたいですわ。愛する国も、人も、自分の命も」
呪いの言葉は穏やかだった。魔女の怒りに触れてはならないというのは、誰もが心得ていることだ。彼女達はたいてい森の奥でひっそりと暮らし、強い力を持っていながらむやみに使うことはなく、誰の味方になることもないが。
敵にしたら、まず生きてはいられない。
(自分の命に限りがあるのだと知って、私だって投げやりな気持ちにならなかったわけじゃない)
早くに他界したカガリの母は、時々ふと、とても寂しい目を娘に向けた。その表情が、カガリの幼い記憶に笑顔の母よりも強く焼きついている。母に限らず、カガリの周りは誰もがそうだった。毎年、ひとつ歳を重ねるごとに開かれた、カガリの生誕の式典は、王女の成長を派手に祝う一方で、どこかに影を含んでいた。
(でも、あいつは、あいつだけは……)
カガリは、ぎゅっと目を閉じて緑の瞳を想った。彼の瞳だけは、一度でも曇ることはなかった。カガリの生誕祭以来、薄暗い雲におおわれていた城の中で、カガリが見つけた、ただ一人澄みきった瞳をした人。
(あいつが諦めないなら、私も諦めちゃいけないんだ)
「ちょっと、カガリ、どこに行くの?」
「カガリ様!」
急に、キラとミリアリアの間を突っ切って、部屋を出ていこうとしたカガリを、キラはあわてて追い掛けた。
「外を見に行く」
「外って、なに言ってんの。そんな格好で出ていける場所じゃないよ」
キラは妹の肩を掴んで止めた。
「この格好がだめなら鎧を出せ。もうだめだ。じっとしていられない」
アレックスに会いたい。会わなければ。
「それなら王女殿下、鎧をお貸ししましょうか?」
がむしゃらに兄と揉み合っていたカガリは、その声ではたと動きを止めた。
「ただ、サイズが合わないだろうとは思いますが。それでもよければ」
張り詰めた城内に似合わない朗らかな声だった。
「アレックス……」
振り向くと、体の力がゆるりと抜けた。彼がいつもの笑顔でカガリを見ていたからだ。無事だったのかと思うと、緊張がほどけて、うっかりすると目許が潤んでしまいそうだった。
「アレックス、おまえ、どうしてここに」
戦いの中では、いつも最前線に立つ彼が生きて戻って来られる可能性はとても低い。後ろ向きな考え方はしたくないとカガリが思っていても、それは避けられない現実だった。だから、今朝、もう会えない覚悟で彼の背中を見送ったのに。
「まさか、どこかひどい傷でも」
戦力にならなくなったから、戻って来たのかと思い至り、カガリは青くなったが。
「いえ、殿下が駄々をこねているんじゃないかな、と思ったので」
アレックスはやんわりと首を振った。
「な……」
カガリがむきになるのがわかっているからか、彼は時々こうしたからかいを言う。
「駄々をこねてたんじゃないぞ。私は私の筋を通そうと」
「助かったよ、アレックス」
カガリの反論を笑って無視して、キラが前に進み出た。
「悔しいけど、うちのお姫様はどうやら君じゃないということをきいてくれないらしい」
「いいえ、大丈夫です。退路は確保してありますので」
「じゃあ、後は頼むよ。こちらはもう大丈夫だから」
アレックスとキラは視線を交わしてうなずいた。何かしら二人の間に事前のやりとりがあったらしいが、カガリには何も知らされていない。
「……何の話をしているんだ、二人とも」
ここへきて初めて不安になった。気付くと、三人の周囲に、ミリアリアをはじめ、さっきまで忙しく撤退の準備にかかっていた侍女達が集まっていた。
「なんでもない、二手に別れて逃げようって話だよ。生き残る確率は、そのほうがずっと高い」
キラはカガリに向き直ると、微笑んでみせた。
「落ち合う場所は、アレックスに伝えてあるから」
「そんな……」
それぞれに荷物を抱えて集まった侍女達は、皆カガリが物心ついた頃からの馴染みの顔ばかりだ。
「そんな、行くならみんな一緒に」
「カガリ」
首を振ると散らばる金色の髪に、キラはそっと触れた。
「きいて欲しい。僕のわがままだと思って」
兄の瞳に見たこともないような切なげな色を見て、カガリは言葉をなくした。
「また……会えるよ」
キラはカガリの頬に口づけた。なにか言わなくてはと、強く思ったが、キラの体が離れていくのに指も動かせなかった。
「アレックス、カガリを頼むよ」
アレックスは無言でうなずくと、立ち尽くすカガリの手を、失礼しますと断り、引いた。引きずられるように歩きだし、長い廊下の角で一度だけ振り向くと、小さくなった侍女達とキラがただ黙って見送っていた。
アレックスの行動は速かった。入り組んだ城の中を最短の道のりでカガリを裏門まで連れ出し、さらにその先の城壁の外へ向かおうとしていた。裏門の小さな木戸をくぐり、重厚な石造りの城の外に出ると、戦いの喧騒が体に響いた。
敵が間近に迫っているのだ。
「森が赤くなってる……」
城下に火を放たれたのか、燃え上がる火事の色を映して、城の裏手に広がる森が赤く染まっていた。オーブの相手にしているのは、近年、征服で領土をむさぼるように拡大している大国だ。後の禍根を残さないために、征服した国の王公貴族を徹底して根絶やしにする残虐さでも有名な国だった。
「アレックス」
引かれるままに従っていたカガリは、意志を持って彼の手を振りほどいた。
「やっぱり私はここを離れられない。国を置いては逃げられないよ」
アレックスはゆっくりと振り向いた。
「城下のみんなも、農村の民も、残してなんて」
「大丈夫ですよ。城下には今はもう誰もいません。すべて避難した後ですから」
「本当か、それは……」
「私が嘘を言ったことがありますか?」
安心させるように教えて、アレックスは再び手を引いた。
「殿下、時間がありません」
早足で外壁を目指すアレックスの後ろを小走りでついていく形になる。キラと落ち合う約束をしている以上、この場に残ることはできないのだが、それでもカガリの胸にはしこりが残った。
城を離れてはいけないような。
「そういえば、ドレスのままで来てしまったんですよね」
退路を用意していたとはこのことなのだろう、城門のすぐそばに馬が一頭つけてあった。その馬にカガリを先に乗せようとして、アレックスは苦笑いした。カガリの着ているのは何枚もペチコートの重なった重たいドレスだ。とても乗馬には向かなかった。
「もう、べつに汚れても破れても構わないぞ。なんだったら私だって手綱を引くし」
「そういうわけにもいかないのですが」
アレックスが腰を掴んで軽く抱え上げてくれたので、カガリは彼の肩を支えにしてふわりと馬の背に飛び乗った。アレックスも追って馬に乗り、カガリを胸に抱える形で手綱を取った。
「なんだか、こっそり城下に連れて行かされたときのことを思い出しますね」
城壁を出てすぐからはじまる森の中に馬を走らせながら、アレックスはつぶやいた。
「なんだよ、その連れて行かされたってのは。強制したんじゃなくて、私はちゃんと頼んだぞ」
すべてがふに落ちたわけではなかったが、憎まれ口を言う元気くらいは取り戻しつつあった。
「そうでしたね。城下に連れて行ってくれないなら、自分で窓から縄ばしごを使って下りるなんて殊勝なことも言われてましまもんね」
アレックスはカガリの耳元でくすりと笑った。アレックスに馬を出させて、城下にこっそり遊びに行ったことがある。十二、三の頃か、護衛もろくにつけずに、頻繁に城の外に出ていたカガリに、さすがに王女らしくするようにと、キラからおとがめがあった翌日のことだ。禁止されると逆らいたくなるのがさがというもので、カガリはアレックスと誰にも秘密で城を出たのだ。
「そういえば、せっかく侍女の服をくすねたのに、子供達にも、すぐに殿下だってばれてしまいましたよね」
「あれはくすねたんじゃないぞ。交換したんだ。ちゃんと私のドレスを代わりにおいておいたんだからな」
「侍女の服、泥だらけにしてしまいましたからね」
薄暗い森の中を、重いひづめの音を規則的に鳴らしながら馬が走る。大きく弾む体を支えるために、カガリはぎゅっと鞍を握った。
「ほどほどにしておけばいいのに、子供達と一緒になって思いきり遊ぶから、擦り傷まで作って帰って」
手綱を引きながら、アレックスは思い出話をする。
「たぶん、兄上には気付かれていましたよ。しかると火に油だってわかっておいでだったから、何も言われなかったんだろうけど」
くすくすと笑う声がまた背中越しに聞こえる。そのやわらかさが不自然に思えて、カガリはふいに胸騒ぎを覚えた。
「アレックス」
違う。こんな話をしていられる状況のはずがないのに。カガリを落ち着かせるためにしても、アレックスの口調は穏やかすぎた。
「おまえ……」
片手をアレックスの腕に移してカガリは後ろを見た。
「おまえ、何か隠してないか?」
「いえ、何も」
アレックスはカガリを見下ろして微笑んだ。その笑顔でカガリは確信した。
「嘘だ、何を隠しているんだ。キラと何をたくらんだ?」
アレックスの袖を強く掴んだ。彼の言葉の端々から表情のすべてに、悟ったような諦観を感じる。どこか、遠くにいるような。
「一体どこへ行くつもりだ? 言え、どこへ私を連れて行くつもりだ」
思い返してみれば、キラもどこかおかしかった。まさか、はじめから合流するつもりなどないのか。城を出てアレックスが進んできた方角は真東だった。同盟関係にある国に向かうなら西に進路を取るはずなのに。
「アレックス、答えろ。でなきゃ、今すぐ私を下ろせ。聞かないなら飛び降りるぞ」
おどしのつもりではなかった。三つ数えるうちに馬から飛び降りるつもりでカガリは腰を浮かせたが、背中からすかさず腕を回されて、止められた。片手で馬を操りながら、アレックスはカガリを力強く抱きしめた。いきなりのことで、カガリは一瞬で勢いを奪いとられてしまった。
「もう、黙っていて下さい。少し飛ばしますから舌を噛みますよ」
頭に直接声が響いた。背中にアレックスの体温を押しつけられて、注意されなくても喋ることができなくなっていた。
森は見る間に深まっていった。雑多で密度の濃い森から、やがて針葉樹の大木が等間隔で並ぶ静かな森へと入り、古い森に足を踏み入れたのだと、カガリは思った。
ここは、オーブでもっとも深く広大な森だ。不用意に入れば抜け出せなくなるのは必至で、わざわざ足を踏み入れる者はいない。その森をアレックスは進路を変えずに、まっすぐ東に進んできた。つまり、森の中心を目指しているのだ。
(言われなくても、もう、ここまでくればわかる……)
二人、無言で馬を駆るうち、カガリには察しがついていた。アレックスは国外に向かっているのではない。
(東の魔女だ)
この先には彼女の城以外に何もないのだから。
(アレックスは魔女の力を借りるつもりなのか?)
アレックスの考えも、キラの考えも、まったく読めなかったが。その場になればわかるだろうかと、カガリは沈黙を破らずに、行く先を見つめた。どのくらい馬を走らせていたのか。陽が少し傾きかけていたから、そう長い道のりではなかったが。ふいに、空に届きそうな杉の古木の波が途切れて、視界が明るくなった。
まさか森を抜けたのかと思ったが、現れたのは森をナイフで切り取ったかのような、驚くほど何もない場所だった。そこにはカガリの城がまるごと納まるくらいの綺麗な円形の草むらが広がっており、その中心に、ぽつりと石造りの民家があった。ひどく異様な光景だった。
「魔女の城、なのか……?」
民家の少し手前で、足を止めた馬から草の上に降り立って、カガリはつぶやいた。
「話に聞いていたのとずいぶん違って驚きましたか?」
アレックスが、なかば呆けていたカガリに問い掛けると、彼女は勢いよく振り向いた。
「おまえ、魔女の城を知っていたのか?」
「まあ、そうですね」
「まさか、来たことが」
「いえ、様子は聞いて知っていましたが、来るのは初めてですよ」
近づいて見てみても、魔女の城は、オーブの城下によくあるような、普通の民家だった。二階建てのこじんまりとした印象の家だ。アレックスが杭に馬を繋げると、二人はそろって玄関の木戸を叩いた。
「空いていますよ」
中から、柔らかい女性の声で返答があった。従って扉を押し開けると、カガリはまたしても、想像に裏切られることになった。
「え……」
扉の中にカガリの声が反響した。家の外見に見合った小さなリビングを予想していたのに、カガリの目に飛び込んできたのは大理石でできた大きな広間だった。城の謁見の間に似ているが、ずっと広い。
「どういう」
急いでもう一度扉の外に出たが、そこにあるのはやはりただの民家だった。
「入るのか、出るのか、お決め下さいな」
高い天井に響く足音と共に、先ほどの女性の声が近づいてきた。
「ご用事があったから来られたのでしょう? 王女殿下」
声の主はすぐそばまで来ていた。声の柔らかさから思い浮かべていたそのままの、優しげな笑みをたたえた少女がそこにいた。
「東の魔女……」
少女の年の頃はカガリと同じくらいに見えた。驚いたことに、彼女の髪は桃色だった。どんなふうに染めたらこんな色になるのかと、カガリは正直な疑問を抱いた。
「魔女、ですか。そう呼ばれることは多いですけれど」
魔女は、こつりと靴を鳴らしてカガリに近づいた。
「まずは、挨拶が先ではないのですか? オーブの姫君」
首を傾げて微笑む仕草は、子供のようで、彼女をカガリよりも幼くも見せたが。東の魔女はカガリの生誕祭に現れたときも、少女の姿をしていたというのだ。
(私と同い年くらいのはずがないのに)
花のように見事な髪の色と、華奢な体つきの少女と、冷たく広がる大理石の床と。なにか、得体の知れないものを見ている気がして、カガリの背中に寒気が走った。
「突然で申し訳ない、ラクス殿。殿下には何も話さず、ここへお連れしてしまったので」
「いいえ」
魔女はアレックスに顔を向けた。
「キラ殿が来るものだとばかり思っていましたが。あなたが代理ですか? アレックス」
「私が適任だろうと、公が」
それを聞くと、彼女はどこか嬉しそうに笑った。
「わたくしもそう思います。最後に見るのがあなたの姿であるということは、王女殿下にとっても、きっと幸福なことでしょう」
「最後……?」
カガリは魔女の言葉に胸がざわついた。
「……何の話をしているんだ?」
魔女とアレックスは何かを前提の上で話をしている。カガリに隠している何かだ。
「アレックス、もういいだろう。いい加減、説明しろ。この間にもオーブは」
「もう、オーブという国はこの世にありませんよ」
魔女は微笑みを浮かべて告げた。
「わたくしが十六年前に申し上げたとおりに」
「そんな」
カガリは肩を震わせた。
「嘘だ、そんなこと」
アレックスを振り向き、確かめるように服を掴んだ。
「だって、アレックス。おまえは私を、オーブを守るって。おまえはオーブを救うためにここに来たんじゃないのか? そうだろう?」
彼はまた笑顔で、そうだ、だから安心しろと言ってくれるだろうと思ったのに。アレックスは答えず、唇を噛んで視線をそらした。カガリはぶたれたような衝撃を感じて、何も言えなくなった。
「アレックス殿は、ただ、あなたのためだけにここへやってきたのですよ、王女様」
魔女の澄んだ声が石の天井にこだまする。
「あなたが生まれた日に、わたくしが告げた未来の話はご存知でしょう?」
「私が……十六の誕生日に何もかも失うと、自分の命も、大切な人も」
「そう。でも、その話には続きがあるんです」
恐らくあなただけが知らない昔話ですわ、と彼女は語った。
「わたくしの話を聞いて、あなたの父君は呪いを解く方法はないのかと、おたずねになりました。そこで、わたくしは、なくすことはできないけれども、やわらげることは、少しだけ変えることはできるとお答えしたのです」
「変えるって……」
それは、アレックスも、キラも、カガリに黙っていたことだった。黙っているはずだ。
「王女様は命を亡くすかわりに、眠りにつくことになると。オーブが城壁のかけらひとつも残さずに滅んで、永遠の眠りについても。あなたの眠りはいつか醒める。これが、わたくしからあなたへの生誕の祝福だったのですよ」
キラの言葉、じっと見送っていたミリアリアと、アレックスの諦観の理由が、すべて解けた瞬間だった。
「いやだ……そんなの」
カガリは魔女を見据えたまま、扉のほうへ後ずさった。
「私一人が生き残るなんて。そんなの、呪いにかかったままで、みんなと一緒に死ぬほうが、私はずっといい」
「呪い、呪いとオーブの方はおっしゃいますけれども、わたくしは呪いなどひとつもかけておりませんのよ」
「だが、私の生誕祭で」
「あの席で、わたくしは、ただ単に殿下の未来を教えて差し上げただけですわ。あなたのお兄様の生誕祭でもしたことです」
魔女は冷静に答える。
「あなたの嫌がるお気持ちもわかります。あなたが嫌がるだろうから、誰も何も言わずに、あなたをここへ寄越したのでしょうし」
でも、と彼女は若い娘をさとす大人のような口調になった。
「あなたの父君と、母君と、その他大勢のあなたのことを愛する人の願いなのですよ。不安定で、殺伐としたこの争いの時代ではなくて、いつか穏やかな時代で、幸せになれる道があるのならと」
「私の幸せはここ以外にない」
カガリは迷わず言い切った。父母の願いであったとしても、カガリにはとても受け入れられなかった。憤りと、オーブに戻りたいというはやる気持ちで、どきどきと鳴る胸をぐっと押さえて、カガリはアレックスの腕を引っ張った。
「アレックス、オーブに戻ろう。今からならまだ間に合うかもしれない」
カガリが言えば、彼は従うはずだった。幼少の頃に出会ってから、彼は一度だってカガリの言葉に背いたことはないのだから。ただの一度も。
「アレックス……?」
けれども、彼は「はい」とは言わなかった。
「どうしたんだ? 戻らないと、森の中で日が暮れて」
「戻りますよ。けれども、それは私一人でです」
「……なにを」
カガリは動揺した。アレックスの表情には説得のきかない決心がある。
「何を言ってるんだ。キラから命令を受けたからか? それなら私が撤回する。アレックスは私の騎士だろう。おまえのあるじはキラではなくて私だ」
「いいえ、これは俺の意志です」
アレックスはやんわりとひねるようにカガリの手を掴み返した。
「は、はなせ……」
「離しませんよ」
アレックスの意志のこもった視線に、琥珀の眼差しが揺らいだ。彼に裏切られるとは思わなかったのだ。
「……いやだっ」
カガリははじめて大声を上げた。
「私だけおいてみんないってしまうなんて、そんな、どうして」
「カガリ様」
彼が何年ぶりかに名前を呼んだ。二人、成長してからは、ずっと敬称でしか呼ばなかったのに。
「一度しか言いませんから、最初で最後です。俺の願いをきいてくれませんか」
いつも、カガリのわがままをきかせたいだけきかせてきた、カガリの騎士だった。その彼の願いだったとしてもそんなことはとうてい許せない。
「いやだ、いやだ、そんなのきかない」
「カガリ様、俺はあなたに生きていて欲しい」
「やだ……いやだ、私は」
カガリは子供のように首を振って繰り返した。
「こんな時代のこんな場所に生まれたのでなければ、カガリ様は、きっと、もっと自由だったと、いつも思っていました。そして、こんなふうに出会わなければ、俺は」
「だからって、私をおいていくのか、おまえも」
口にしてしまうと、堪えていた涙があふれた。
「おまえのいないどこかで、どうして生きろっていうんだ」
こんなときになって、好きなんだと、自覚するなんて。気付いてしまったら、想いが泉のように溢れて、涙と一緒に止まらなくなってしまった。
「カガリ様……」
鳴咽をもらして泣くカガリの肩を、アレックスはそっと包み込んだ。アレックスの低い囁きで、また涙が込み上げてしまう。そうして寄り添う二人の姿を、魔女はただじっと見つめていた。
「カガリ様、泣かないでください。俺の願望ですが、最後に見るなら笑顔がいい」
「最後って」
最後になんか、どうしてしなくてはならないのかと、言いたい言葉が涙のせいで上手く言えなかった。アレックスはカガリを胸に抱き寄せ、カガリは彼の服に額を押しあてた。こんなふうに触れるのはいつぶりだろうか。ずっと幼い頃には、じゃれあって遊ぶことも許されたけれど、今では親しく言葉を交わすことも難しかった。
今朝の、騎士団の壮行の儀でもカガリは死地にゆくアレックスに「オーブのための、そなたの働きを期待する」と、そんなことしか言えなかった。大勢の騎士と、側近達を前にして彼の目をまっすぐ見ることすら叶わず。けれども、そうするしかなかったのだ。
アレックスとカガリの立場はどこまでも平行線で、決して交わることはない。それがわかっていたから今まで気持ちを殺してきたのだ。とうの昔に好きだったのに。好きだと気付くのが怖いくらいだった。
アレックスは、カガリの背中を撫でながらそっと言った。
「ずっと、あなたのことばかり想っていました」
アレックスも似たことを思い出していたのだろう。
「殿下のために生きると誓いをたてる、殿下のための騎士でいられて、よかった」
アレックスはカガリを力の限りに抱き締めた。華奢なカガリの体がきしんだが、息が苦しいのか、胸が苦しいのか、もうわからなかった。
「いつも、高い場所にいるあなたを見上げて、こんなふうに抱き締められたらなんて」
夢見ていたのはカガリも同じだ。ようやく、わかった。オーブを失うこと、キラを、ミリアリアを、大切な人達をおいていくことよりも、何より恐ろしかったのは、アレックスのいない世界にいくことだったのだ。
「アレックス……」
少しだけ緩んだ彼の腕からカガリは濡れた顔を上げた。
「私は、おまえが」
言わなくては、と思ったのに。言えなくなった。ふいに唇をふさがれたからだ。アレックスの闇色の前髪が額にやわらかくかかる。
なんて、ずるい人だろう。カガリが顔を上げるタイミングも、想いを告げるタイミングも、わかって腕を緩めたのだ。アレックスの背中にすがっていた手に力が入らなくなる。
ふと甘い香りを感じた気がした。そのとたんに強烈な眠気に飲まれて、カガリの意識は途切れた。
閉じたまぶたに残った残像は、アレックスの微笑んだ顔だった。
***