トロイメライ
02
いつの間にか眠っていたらしい。
のんびり走っていたバスが大きく揺れて、アスランは目を覚ました。
ほんの浅い眠りのあいだに、何か夢を見ていた気がしたのだが、どんな夢だったのか少しも思い出せなかった。乗り過ごしたかな、と窓の外を見ると、いつもの停留所まであと一駅というところだった。
(疲れているのか……)
このところ、寝るのが遅かったからな、と少し反省する。図書館で借りてきた研究書を読んでいるうちに、気付いたら日付が変わっていることが最近続いていた。親友などは勉強のしすぎだというが、しすぎて悪いことはないというのがアスランの考えだった。
外を眺めているあいだに停留所に着き、アスランはバスから降りた。ステップを降りると、スニーカーが石畳の歩道につく、その瞬間に携帯が鳴った。見計らったようなタイミングの良さになんだか妙な予感がした。携帯の画面に「キラ」という表示を見て、やっぱりかと電話に出た。
「ねえ、アスラン、いま暇?」
「おまえの暇つぶしに付き合うほど暇じゃないぞ。家に帰ったら課題を片付けようかと思っていたところなんだから」
「なに、うそ、日曜日なのに勉強してるの?」
「日曜日だからするんじゃないか」
キラの声の向こうに、ざわめきと高い笑い声が聞こえる。遊びに誘うつもりだったのだろうか。気分転換に行ってもいいかなとも思ったが。
「それなら、僕に付き合ったほうが間違いなく有意義な日曜になるよ」
キラはきっぱりと言い切った。
「町外れに年代もののお城があるの知ってるでしょ? 今ね、フレイとそこに探検に行かないかって話してたんだ」
「やっぱり暇つぶしなんじゃないか」
つまり、暇でしょうがないから、おもしろいことでも見つけに行こうということだ。キラとは初等学校からの付き合いだが、遊びに誘うのは決まってキラからだった。
「暇つぶしでもなんでも、フレイと二人だけじゃあんまりつまらないから、アスランも来てよ」
「あの建物、確か市が立入禁止にしていたんじゃなかったか? いつ崩れるかわからないようなものだし」
町の北に位置する森の中に、キラの言う城はあった。城壁の跡からして、もとは立派な建物だったのだろうが、今はそのほんの一部が残っているだけの城だ。キラに無理矢理付き合わされて見物しに行ったことはあるが、中まで入ったことはなかった。
「じゃあ、町外れの橋のところに集合ね、すぐにだよ」
強制的に決められて電話を切られた。静かになった携帯の画面に日付と時間が示される。
(五月十八日か……)
課題の提出日は二十五日だから十分時間はある。付き合ってやるかと思い、アスランはそのまま停留所で町外れまでのバスを待った。
「遅いよっ」
集合場所に着くと、橋の前でキラは仁王立ちで待っていた。
「……時間を決めてないのに遅いも何もないだろう」
アスランはため息をついて後ろ頭を掻いた。橋は小川を渡るためのもので、町外れから森の入口にかけてかかっている。日照時間が長くなり、ようやく春らしくなってきたこの頃には、町の人々の散歩道として好まれている場所だったが、森まで入る者はまずいない。
「人員も揃ったことだし行くんなら、ぱっぱと行きましょ」
腰掛けていたコンクリートの土台から、フレイがぴょんと飛び降りた。
「やっぱりこのメンバーなのか」
フレイもアスランと同じくキラの遊び仲間だ。この赤髪の少女とはカレッジで初めて知り合った仲なのだが、まじめなアスランと違ってキラの悪だくみにも喜んで共犯するフレイは、何かとキラと気が合うようだった。
「……なんだって城なんかに行こうって話になったんだ?」
子供の時分には探検気分で廃墟に侵入したものだが、崩れかけた城を見てわくわくする歳でもない。橋を渡り終えたところでアスランがたずねると、キラはくるりとおどけたように振り向いた。
「それ、僕達もさっき聞いたんだけどね。なんか、噂になってるんだって」
「噂?」
すると、すかさずフレイが答える。
「あの廃墟のそばで不審者を見たっていう人が何人かいるらしいのよ」
それを聞いてキラが不満そうな声を上げた。
「もう、不審者じゃなくてせめて幽霊とか言ってよ。夢がないなあ」
「だって、ピンクの長髪してるっていうのよ。不審者以外のなんだっていうの」
「最初に見た人は妖精だって思ったらしいじゃない? きっと可愛いんだよ」
「可愛くても問題があれば不審者よ」
目の前で言い合う二人に、アスランはまたため息をついた。事情はだいたい飲み込めた。つまり、面白そうな情報を得たのでその真偽を確かめに行こうというのだ。キラとフレイが言い合っているうちに、森はだんだんと深まり、春の陽光も薄れて暗がりが多くなる。シャツや薄手のニットといういでたちの三人が震えるくらいの気温になっていた。
暗い森で、落ち葉の上に特別な道しるべがあるわけでもなく、方角を見ながらほとんどあてなく三人は歩いていたが、誰の幸運のおかげか、難なく目的地にたどり着いた。
「なんか、こんなに小さかったかなあ」
「まあ、前に来たときは俺達も小さかったからな」
廃墟とはいえ、石壁も、木の柱も、この城が機能していた頃の形をそのまま伝えるくらいに残っている、遺跡としては立派だ。雨の少ないこの国でそういう遺跡はめずらしくなかった。この城も、たまに大学の研究機関が調査に来ているくらいで、放置されているも同然だった。
「じゃあ、アスランは一階お願いね。僕達は二階を見てくるから」
「お願いって、俺はその不審者を探せばいいのか?」
「不審者じゃなくてピンクの髪の女の子だよっ」
キラは語尾を強めて言うと、アスランをおいて螺旋階段を登って行ってしまった。
「探すって言ってもな……」
アスランは廃墟をあらためて眺めた。
こんなところに自分達以外に人がいるのだろうか。中に侵入できるくらい建物の形が残っている部分はそう広くない。大きさだけなら、アスランの住むアパートと大差ないだろう。その小さな空間に人の気配はしなかった。したらしたで、ぞっとするものだが。
(噂になっているって、どの程度広まってるものなんだろうか。それなりの信憑性があるものなのか)
あるのだとしたら、フレイの言い分が正しいだろうとアスランも思う。
「ピンクの髪か……」
そんな色にどうやって染めるのだろうか、そんなことを考えていたときだった。視界の端に今まさに想像していた色を見た気がして背筋がざわついた。
鮮やかなピンク。
キラが登っていった階段のすぐ横の小部屋だった。アスランは弾かれたように振り向き見直したが、気のせいだったのか、部屋の中には崩れた壁のかけらくらいしかなかった。見間違いだろうとは思いながら、念のために、廊下よりさらに薄暗い小部屋の中に入って確かめた。
ドアだとか、窓枠だとか、家具やカーテンはもちろん、すべて朽ち果て跡形もなくなっているので、そこが部屋であることを示しているのは、扉の形に空いた壁の穴だけだった。いったいどのくらいの時代のものなのか、見当もつかないな、とアスランは何気なく部屋を見渡したが。
ひとつ、おかしなことに気がついた。細長い長方形の部屋の一番奥に、木でできた扉があったのだ。
「なんだ……?」
近づかなくてもわかる。扉は新しいものだった。建物の荒廃ぶりにまったく見合わない。アスランは近づいてまじまじと観察した。
(これは、まるきり新品じゃないのか)
扉には、繊細な模様が彫り込まれ、真鍮の縁取りと、ドアノブがついている。
(誰がこんなものを)
アスランの頭にキラとフレイの会話がよぎった。何者かがこの廃墟に手を加えたのだろうか。例えばピンクの髪をした不審人物が。
(一体何の目的で……)
キラを呼ぼうかと一度はためらったが、ふいに沸き上がった好奇心には勝てず、アスランはドアノブに手をかけた。銀色の取っ手は、電撃が走るようにひやりと冷たかった。
扉は思ったより軽い。
「……な」
扉の向こうの景色にアスランは唖然とした。
そこは寝室だった。映画や、初等学校の遠足で行った古城で見たような部屋だ。こじんまりとしているが柱や天井には壮麗な装飾がほどこされ、調度品は遠目からでも細やかに作り込まれていることがわかるが。それらすべてが、今作られたかのように真新しく輝いていた。
(これは……)
まるで、ここだけ廃墟が息を吹き返したかのようだった。すすけた石壁は白く輝きを取り戻し、家具は磨き上げたばかりのようだ。寝室を呆然と眺めていたアスランの目は、自然と中央に置かれた天蓋つきのベッドに吸い寄せられた。そこに横たわる人物がいることを確認して、アスランは足音を殺して近づいた。
ベッドを覆う天蓋はつややかな絹のドレープの下に、繊細なかぎ編みのレースが重なっており、どちらも花嫁衣装のように真っ白だった。
真っ白な大理石の床に、真っ白なベッド。窓のひとつもない部屋なのに光に満ちていて、白昼夢かと思うような美しさだった。
一歩、二歩と近づいて、レースの向こうに小さな影が横たわっているのを、もう一度確認する。アスランは誘われ、引き寄せられるように、レースの天蓋に触れた。空気をかきわけるくらいに重さのないレースを持ち上げると、柔らかなベッドに身を沈めた少女がいた。
洗い立ての枕に金髪を散らばらせて、桜色の爪と華奢な指は胸の上で軽く組まれている。
彫刻のような寝顔だった。金のまつげに縁どられた瞳は軽く閉じられていて、ほんの小さく声を掛けようものなら、少女はまぶたを開いて、夢から醒めそうにも見えるのに。決して醒めない眠りについていると、アスランは一目でそう思った。少女の肌は透き通るようで色も現実感ももっておらず、そしてなにより、彼女はかすかな寝息もたてていなかったのだ。
アスランも息を忘れて見つめていた。何ひとつ思考が働かなかったが、ただ、少女への興味だけがふつふつと湧いてきた。ガラスの人形のような少女の頬に赤みがさしたらどんなに生き生きするのだろうか。閉じられたまぶたが開いたら、小さな手にぬくもりが宿れば、甘い色をした唇が……。
触れてみたいと、はっきりと思ったのではないが。気がつくと、アスランは金髪の少女の頬に触れ、身をかがめていた。唇で触れると、少女の唇はしっとりと柔らかく、温かみがあった。
その拍子に、なにか、込み上げるものがあった。
なんだったのかはわからない。アスランは少女を激しく抱き締めたい衝動にかられたが、うっとりとした動きで彼女のまぶたが開かれて、アスランは唇を離した。現れた少女の瞳は蜂蜜のような琥珀色だった。ぼんやりと二度、金のまつげをまばたいて、彼女は口を開いた。
「……アレックス?」
かすれた囁きの後、少女の開いたばかりの瞳がみるみる潤んでいった。
「アレックス……」
眼のふちから涙が一筋流れ落ちると、後から後から湧き出た涙でいっぱいになり、静かにぽろぽろ零れていった。
「アレックス、よかった……」
少女の指がアスランに向かって伸びてきたかと思ったら、次の瞬間、彼女は勢いよくアスランの首に飛びついた。
「よかった、アレックス、生きていたんだ……よかった!」
勢い込んで言うと少女はアスランにすがりついて声を上げて泣きじゃくった。
「ち、ちょっと待ってくれないか」
圧倒されそうになって、アスランはようやく我に返った。
「アレックスって誰のことだ? そんなに何度も呼ばれても」
抱きつかれては身動きもとれず、少女の肩を離そうとしたが、彼女はアスランのシャツを力いっぱい握っていた。
「誰かと勘違いしていないか、君は……」
何かたずねようと思ったが、何からたずねたらいいのだろう。アスランは混乱していた。とにかく、整理して考えようとするが。
「アレックス……じゃないのか?」
アスランの背中を掴んでいた手が不安げに緩んだ。少女はゆっくりと体を離して、涙に濡れた顔を上げた。
「俺の名前はアスランだ。アレックスじゃないよ」
「アスラン……?」
濡れたまつげを何度もまばたかせながら、少女はアスランを上から下まで眺めた。それでも信じられないような顔をしている。
「なに嘘を言ってるんだよ、だって、おまえ」
「嘘でもなんでもなくて、俺はアレックスなんて名前じゃないよ」
「忘れちゃったのか? 私のこと」
「忘れたもなにも……」
君と知り合った覚えがないと言いかけて、アスランはついさっきの自分のしたことを思い出した。思い出した途端に顔が熱くなる。なんてことをしたのだろうか、自分は。まるきり初対面の相手に。
「黙るってことはやっぱり嘘をついているんだろう? 誰かの命令か?」
「いや……」
視線を尖らせて目を覗き込んでくる少女をまっすぐ見られなかった。
「君は誰かと間違えているよ。すまないが、君とどこかで会った覚えはないし」
目を伏せると少女の着ているものにはじめて注意がいった。少女は大きく胸の開いた若草色のドレスを着ていた。
舞踏会にでも行けそうな古めかしいデザインのものだった。少女のほうもアスランの姿を探し物でもするような目で眺め回していた。
「君は一体どういう……」
「アレックスじゃ……ないのか」
落胆した声が少女の口からもれた。彼女が心底がっかりした顔をするので、アスランは悪いことをしたような気分になってしまう。
「そんなに似ているのか、そのアレックスという人と」
少女は黙って首を振った。力のない動作だった。それきり、黙り込んでしまう。まずは状況を整えようと、沈黙が長く続く前にアスランはたずねた。
「君、名前は?」
答える元気もなくしてしまったのか、かなり間をおいて少女は言った。
「……カガリ」
「カガリ?」
「うん、カガリだ」
少女はそれ以上自分から語る気はないらしく、アスランは重ねてたずねた。
「ここには君だけなのか? 他に人は? なんだか、ずいぶんめずらしい格好をしているけど」
アスランの質問の途中で、少女……カガリはいきなり跳びはねるように顔を上げた。
「なあ、グレゴリオ暦はまだ続いているのか?」
「え?」
「アスラン、ていったよな。教えてくれないか。今は、何年の何月だ?」
「グレゴリオ暦だって?」
たしかに現行の暦の正式名はグレゴリオだが、まだ続いているかなど聞くまでもない常識だ。カガリという少女は必死な様子だったし、冗談を言っているようにも見えないが。
「続いているのかなんて、知らないわけじゃないよな? グレゴリオ暦は改正されてから何百年と続いているぞ」
「何百年……」
カガリは絶望をたたきつけられたような顔をしたが、それにアスランは謎が深まるばかりだった。
「今年が何年かも答えたほうがいいか?」
子供でもわかる質問を答えることもないかとたずね返したら、カガリは手を振って必要ないと言った。
「わかった、もういいよ」
か細くかすれた声だった。
「つまり、みんなもういないんだな」
カガリはうつむいて、また黙り込んでしまった。細い肩が何か痛みに堪えるように強張って、痛々しく寂しげだった。アスランは慌てて掛ける言葉を探した。ふに落ちないところはたくさんあったが、それらがどうでもよくなるくらいカガリの姿に胸が痛む。
「……ここには他にも誰かいたのか?」
カガリに顔を上げて欲しくて、アスランは静かにたずねた。カガリはまた首を横に振る。
「君はまさか、ここで暮らしているわけじゃないよな?」
金髪が左右に揺れるのを見て、アスランは言った。
「じゃあ、どういうわけでこんなところにいるのか知らないが、帰るなら早いほうがいいぞ。春とはいっても森が暗くなるのは早い。太陽が見えなくなったら、まず出られない、迷うしか」
「帰るところなんかない……」
カガリは弱い息と一緒に吐きだした。
「もう、私はどこにも帰れないんだ」
「帰れないって……どういう」
戸惑うアスランをよそに、カガリはぎゅっとこぶしを握ると、ベッドを降りた。石の床に白い素足をつく。
「もし……」
どこか遠くを眺めるようにしてつぶやく。
「森で迷ってたら、そのうち力尽きて土に帰れるかな」
アスランに問い掛けているのか、しかし彼女の目はアスランに向いていなかった。声をかけるのをためらっていると、カガリはくるりと口調を変えた。
「なんだか騒がしくして悪かったな」
冗談のように明るく言って、ありがとう、とカガリはアスランを見上げてふわりと微笑んだ。それだけ残して、背を向けて出口に向かおうとする。カガリのつぶやきの意味は深く考えなくてもわかる。アスランはとっさに手を伸ばし、カガリの手首を掴んでいた。
「な、放せよ」
「放さない」
手首をねじりとろうとするカガリを自分のほうに引き寄せる。
「ここの森は馬鹿にできないくらい広いんだ。後悔しても迷ったらおしまいだぞ」
「だから、おしまいにするために行くんじゃないか。そんなこと、おまえには関係ないだろ、放せよ」
「いいや、君を死なせるわけにはいかないな」
強く言うと、琥珀色の瞳が大きく揺れた。どうして、必死に彼女を引き止めたい気持ちになったのか。後から考えて思うのだ。おそらくすべては必然だったのではないかと。
「帰るところがないというなら、俺の家に来ればいい。ちょうどよく一部屋空いているから。土に帰るよりはよっぽどいいと思うぞ」
「おまえの家に?」
カガリは大きな瞳をさらに大きく見開いた。強く掴んでいた手首を、アスランははっとして離した。
「あ、いや……」
勢い込んで言ってしまってから、アスランは発言の重大さに気付いた。同じ年頃の女の子に軽々しく提案すべき話ではないだろう。
「その、行くところがなくて困っているなら、使ってくれてもいい部屋があるからと思って」
言い訳を探すが、上手い話が見つからない。
「家出みたいなことなら俺も覚えがあるし、帰りたくなるまでいてくれて」
「行く」
アスランが説明するまでもなく、カガリは同意した。
「おまえの家に行きたい」
輝きを取り戻した瞳に強い希望を見て、アスランは戸惑った。自分から提案したことのくせに、ことの大変さを今更考えたのだ。
「行ってもいいんだろう?」
アスランが答えないので、カガリは首を傾げて確認する。問題は様々あったが、アスランはそれらを棚上げしてうなずいた。死ぬことをほのめかしていた彼女の気が変わったのなら、その気持ちがまた変わってしまわないうちに行動に移したかった。
「……ここから少し離れた場所になるんだが、構わないか?」
「どこだって構わないさ」
「なら日が落ちる前に行こう」
アスランはカガリの手を引こうとしたが、そこで彼女が裸足であることに気付いた。
「靴、ないのか?」
「脱がされちゃったみたいだな。いいよ、このままで」
「なあ、聞こうと思っていたんだが、その服は衣装か何かなのか」
こんな廃墟で眠っていたことからしておかしいのだが、そうならばこの奇妙な服装にもなんらかの事情があるのだろう。とはいえ床に引きずる長さのドレス姿でバスに乗れば注目を浴びるのは間違いなかった。
「私からしたら、おまえの格好も衣装みたいに見えるけどな」
「どういう意味だ?」
服装に文句をつけられたのかと、少しむっとしたが、カガリはお互い様だということだと曖昧にぼかして先を急がせた。
部屋を出たところで、カガリを待たせてアスランは携帯を取り出した。キラに連絡して、合流しなければと思ったのだ。しかし、電話に出たキラの背後が妙に騒がしく、アスランはまさかと頭が半分青くなった。
「キラ、おまえどこにいるんだ?」
「あ、ごめんね、アスラン。なんだかお腹空いたから先に帰っちゃった」
キラは笑いながら謝り、フレイと一緒にいつものカフェにいるから来るかと誘ったが、アスランはげんなりしながら断って電話を切った。携帯電話で話していたアスランが、それをジーンズのポケットにしまうまでをカガリはじっくりと興味深そうに眺めていた。
「待たせて悪かったな」
「……いいや」
カガリをともなって城の外に出ると、かろうじて方角がわかるくらいまで太陽は低くなっていた。この奇妙な事態をキラにも相談したかったのだが、それを明日の学校で会う時までに先延ばしにして、アスランはひとまず自宅を目指した。
町外れのバス停から、行きと逆の方角に向かうバスに乗ると、案の定二人して乗客の視線の的になった。子供なんかは目をきらきらさせて座席から身を乗り出して覗いている。カガリの豪華なドレスはもちろんのこと、アスランにも好奇の目があちこちから注がれていた。カガリは裸足で構わないと言ったが、小枝や木の根で足を傷つける可能性のある森の中を歩かせるわけにはいかないと思い、アスランは自分のスニーカーを彼女に履かせた。結果、アスランは靴下でアパートまで帰ることになっていた。
「ごめんな、足痛くないか?」
二人掛けの座席に落ち着くと、カガリは小声でたずねた。
「いや、君こそ寒くないのか?」
日が暮れてきて気温も下がり、ドレスからむき出しの肩が寒々しかったが、カガリは首を振った。そんなことよりも、彼女の興味は窓の外にあるようで、バスが動きだすと、カガリは一心に窓の外を見ていた。
郊外の農村風景から、アスランの住む街中へと景色が移って行く。最初はあれはキャベツの畑か、羊もいるなと呟きながら外の風景を見ていたカガリだが、ビルや車の数が増えていくに連れて、どうしてか口数は減っていった。やがて、アスランがいつも降りる停留所に着いた頃にはカガリは固い表情で唇を結んでいた。
「気分でも悪くなったか?」
心配になってたずねると、カガリは違うと首を振った。
「すぐそこが俺のアパートなんだが」
無理をしているのは見え透いていて、早く温かい家に入って休ませてやろうかと、アスランは大通りから路地に入ろうと歩きだそうとした。それをふいにシャツを掴んで引き止められた。
「アスラン、頼みがあるんだけど」
カガリはきつく眉を寄せていた。
「どうしたんだ?」
「どこか、高いところに連れていってくれないか? このあたりの景色がよく見えるような」
「……今すぐにか?」
体調がすぐれないように見えるカガリを気遣って明日にしたほうがいいのではと返したが、カガリはすぐに頼むと繰り返した。切羽詰まった様子の頼みを断るわけにもいかず、アスランは了解した。
「……わかった」
小声だがしっかりと答えたあとで、でも、と靴下を示して付け加えた。
「せめて靴を履いて……あと、君のその服は着替えておかないとな」
カガリを連れて家に戻り、アスランはとりあえず靴下を脱いでスニーカーを履いた。そうして、クローゼットからなるべく小さめの服を選びカガリに手渡したが、彼女は困惑した顔でそれを見つめた。
「そっちの部屋で着替えてくれたら俺はここで待ってるから」
寝室へうながしてもカガリはリビングから動こうとしない。軽い気持ちで着替えることを勧めたのだが、これほどためらわれるとアスランはこれまで以上にカガリが女の子であることを意識してしまった。
「……なんだったら、部屋の外に出ていようか」
「それは困る」
アスランのシャツとジーンズを抱き締めて、カガリは顔を上げた。
「私、一人で着替えたことがないんだ。その……アスラン、手伝ってくれないか」
「冗談じゃ……ないよな」
「これのなにが冗談なんだよ」
カガリは胸を張って言うのだから、本気なのだろう。
「一人で着替えたことがないなんて、君は一体どこの国のお嬢様なんだ?」
「お嬢様じゃないぞ。私は……」
言いかけて、カガリは口をつぐんだ。それをアスランが聞き直す前に、カガリはくるりと背中を差し出してきた。
「おまえが着替えろっていうから着替えてやるんだぞ。だったら手伝うのが筋じゃないか」
さらりと軽やかな音をたててドレスのすそが広がり、向けられた背中はレースアップになっていた。光沢のあるリボンで腰から背中にかけて編み上げられている。これはたしかに一人で脱ぎ着ができるものではないだろう。だからといってアスランが手を貸すわけにはいかなかった。
「わかったから、ちょっと待ってくれないか。手伝える人間を呼ぶよ」
とは言ったものの、アスランが頼みごとのできる異性といったらフレイぐらいしかいない。しかしながら、アスランはフレイの直接の連絡先を知らなかった。キラに取り次いでもらおうかと、アスランは携帯を取り出そうとしたが、後ろ手に伸ばした手を横からカガリがつかまえた。
「人が来るのなんて待てない」
捕まえた手首をぐいぐいと引っ張って、カガリはアスランを再び外に連れ出した。
「注目を浴びるのが嫌だったら付き合ってくれとは言わないから、どこに行けばあたりが見渡せるのか教えてくれないか」
バスの中で自分の姿が目立っていたのに、カガリもちゃんと気付いていたらしい。だが、そんなことよりも街の景色が見られる場所を見つけたい気持ちが彼女の頭をいっぱいにしているようだった。
「一応、駅前のターミナルビルからだったらかなり遠くまで見渡せるけど……」
「それは、どの方角だ?」
「方角でいうとここから真東」
「わかった」
言うが早いか、アスランの手を離すとカガリはすぐさま歩きだした。
「ちょっと待った」
今度はアスランが手を掴み返す番だった。
「道もわからないのに一人で行く気か?」
「真東だろ? 道なんか知らなくても方角がわかれば十分だ。問題ないよ」
「君が一人で行くこと自体が問題なんだ。ここはそんなに安全な街でもない」
ドレスなど着ていなくてもきっと彼女は注目を浴びるに違いないから。
「一緒に行くよ。映画なんかでも、お嬢様は護衛を連れているものだろう」
「護衛……」
カガリはまばたきながらアスランを見上げていたが、そう口の中でつぶやくと、何かを思い出したように顔をくしゃりと歪ませた。堪えかねたように、カガリはまつげを伏せる。
「どうしたんだ……?」
カガリが時折見せる表情だった。悲しみに押し潰されそうな、その表情を押し込めるように首を振ると、うつむいたままでカガリは囁いた。
「連れて行ってくれ……アスラン。ここがどこなのか、確かめたい」
アスラン、と発音を確認するように強めて言った。
もう一度バスに乗り、二人は駅を目指した。
途中、カガリが靴をアパートに置いてきていることにアスランは気付いたが、カガリは重たくて歩きにくいから素足のほうがいいのだと言った。
「下町の子供達と遊ぶときはよく裸足になってたしな……」
窓を流れる風景を見ながらカガリは誰に言うでもなくつぶやいた。
(下町……?)
また聞き慣れない言葉だった。この少女は一体どういう人物なのだろう。勢いに流されるままに、彼女の願いをきいてやっているが、その願いの意図も、行動の理由も不可解だった。それを何度かアスランがたずねようとしたときに、カガリは明らかにはぐらかしている。何度聞いてもおそらく彼女は答えないのだろう。自ら話してくれるときを待つことに決めて、アスランは無言でバスに揺られた。
街で一番大きな駅に隣接するターミナルビルはモダンなガラス張りの建物で、その最上階には展望室が設けられている。石畳の路地や古い石壁の建物が多く残るこの街では、かなり異質なビルだ。十階建ての高さから見る景色はなかなかのもので週末にはカップルでにぎわう場所なのだが、平日の日暮前という時間帯のおかげだろう、展望室に人はまばらだった。
アスランに続いてエレベーターを降りたカガリは、目の前に開けた景色に圧倒されたのか、しばらく立ち尽くしていた。
「久しぶりに来たけど、綺麗だな」
街並の向こうに横たわる山に茜色の夕日が沈もうとしている。眼下にミニチュアのように広がる街も、森も、山の色も輝くあかがね色に染まっている。隣に目を向けると、カガリの淡い色の髪も赤く色づき輝いていた。炎のように揺らめく瞳は、まばたきもせずに前を見つめていた。
「カガリ……?」
心配になった。見とれているのとは違う。心を奪われたようなその目には、景色とは何か別のものが映っているようだった。雲を踏むような不確かな足どりで、カガリが窓に近づいていく。ガラスでできた部屋は黄昏の暗さでは空との境界線がわからなくなる。カガリは夕焼け空にゆっくりと手を伸ばしていた。そうして、透明な壁を何度も触って確かめると、支えをなくしたようにその場にしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫か? カガリ」
アスランが駆け寄ると、カガリは肩を抱き締めて泣いていた。
「どうして……」
絞り出すように言う。
「あの山も、森も、私が城の塔から見ていたものだ」
「城……?」
いぶかしむアスランに構わずカガリは吐露する。
「やっぱり、ここはオーブなんだ。オーブだったところ……私の国だ」
震えるくちびるでささやいて、カガリは崩れ落ちるように泣きだした。
「どうして、私だけ」
涙がドレスのすそに後から後からぼろぼろと落ちてくる。
「もう、誰もいないのに」
皮膚が白くなるほど自分の肩を強く引き掴んで、カガリはかすれた声で名前を呼んだ。
「……アレックス」
泣き続けるカガリをどうすることもできず、アスランは彼女の隣にかがんで涙が落ち着くのをただ待っていた。
何人か、床にしゃがんだ二人の後ろ姿を不思議そうに見ながら通り過ぎて行く。やがて、少しずつ落ち着きを取り戻したカガリに話を聞いてもいいかと問い掛けると、彼女はぽつりぽつりと話しだした。
ようやく話されたそれは、おとぎ話のような身の上話だった。カガリが唇を噛みながら苦しそうに話すので、そんなの冗談だろうと一蹴できなかったが。それにしても、あまりにも現実味のない話だった。
「じゃあ、君は何百年も昔の人間で、今日までずっと眠りについていたっていうのか」
だとしたら、彼女の着ているものも納得できるといえばそうなのだが。
「……それは、ちょっと信じられないな」
アスランは低くつぶやいた。カガリが嘘をついているとは思わないが、だからといって話が飲み込めるわけではない。
「信じられないってなら、私にとってはこの世界のほうが信じられないよ」
日が沈み、明かりの燈った街を見下ろしてカガリは言った。
「頭がおかしくなりそうだ。こんな、魔法でできたような街……あの山の形はオーブと同じなのに」
「その、オーブという国なんだが、一応歴史は一通り習ったけど俺は聞き覚えないぞ」
「信じられないなら、信じてくれとは言わない」
言い放つと、カガリは立ち上がった。
「ありがとな、連れて来てくれて」
しわの寄ったドレスを軽く払う。
「帰るのか?」
「いや、とりあえず今夜寝られる場所を探すよ。ここがオーブだったところならなんとか生きていけそうだ、みんなの分も」
カガリは前向きな表情だったが、アスランは、そうかよかったとは応じられなかった。
「生きていけそうっていっても、右も左もわからない場所でどうするんだ」
「働いて、賃金を稼いで、それで食べていくんだろう。民の暮らしくらい私だって知ってるさ」
何百年も前の生まれではあるが、実際のカガリの歳は十六だと言っていた。一人で働いて生活していけない歳ではないが、彼女はスニーカーの紐すら結べなかったではないか。アスランは強く引き止めていた。
「働くというがあてはあるのか? 身分証明もできないのにすぐすぐ働き口が見つかるものでもないだろう。それまでどうするつもりだ」
「雨露がしのげれば十分だ。探そうと思えばいくらでも」
「だったら、俺のアパートでいいじゃないか」
押し問答につられてつい声が大きくなっていた。言ってしまってからアスランはあせった。カガリがきょとんとして目をぱちぱちさせていたからだ。
「いや、こうして会ったのも何かの縁だと思うし、カガリの住む場所が見つかるまでだったら」
「縁か……」
カガリはかすかに笑った。嬉しそうにではなく、何か痛みを思い出したように。
「そうだな、最初の予定どおり世話になろうかな。おまえのところに」
展望室の外にもすっかり夜が訪れていた。再びバスに乗ってひとまずアスランのアパートに戻ることにした二人は来た道を引き返した。その道の途中で、ひとつだけ、引っ掛かっていたことをアスランは歩きながらたずねた。
「なあ、アレックスというのは誰だったんだ?」
カガリの口から何度も何度も呼ばれた名前だ。アスランと間違われた人物。似ているのかとたずねてカガリは首を振ったが、見間違うほど似ている人物のはずなのだ。
「大切な人だったのか?」
カガリはしばらく押し黙っていたが、間を置いて一言だけ小さく答えた。
「……ただの護衛だよ」