ログ 4

運命後 モブ視点





 両手に抱えるほど大きな花瓶を持って、私は執務室のドアをノックした。
「どうぞ」
 部屋のなかから返事がある。女性の声としては少し低めの、よく響く声。
「失礼します。今日のお花をお持ちしました」
 ドアを開けると、ふわっと強めの風が髪をなびかせた。思わず、わっと声をあげてしまう。
「あ、すまない。窓を全部開けてしまってた」
 謝りながらも、声は少し笑っている。
 真っ白な朝日を金色の髪にきらきら浴びながら、代表がこちらに向かって手を挙げていた。
「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで」
「今朝は風が気持ちいいんだ。遠出したくなるな」
 もう仕事の下準備を始めていた様子の代表は、机についたまま両手を組んで大きく伸びをした。
「遠出はとても素敵ですが……あいにく今日は予定が詰まっておりまして……」
「ふふ、冗談だよ。おまえは真面目だなあ」
 代表が目を細めて笑う。琥珀色の宝石みたいな瞳がからかうように光る。こういう時の代表は、いたずらっこみたいで、なんだか私より年下に見える。
「すみません……気が利かなくて」
「そんなことないよ。まだここに来て半年なのに、ほんとうによく気がつくから助かってるよ。今日の夕方からのスケジュールを空けてくれたのも、おまえだろ」
 代表は私をじっと見て「ありがとな」と言った。それだけで、心の隅まで光がいっぱいに満ちるような気持ちになる。
 死ぬ気で猛烈に勉強してやっとの想いで、アスハ代表の秘書官になれてから、毎日が嬉しいことばかりだ。休日まで仕事で埋まりそうな代表のスケジュールを力業で調整した頑張りも全部報われちゃったなあ、と私は少しはにかんでしまった。
「それが、今日の花か?」
「あ、はい。どれにしますか?」
 私は脇に抱えていた花瓶を代表に差し出した。
「そうだなぁ……」
 代表は色とりどり、様々な種類の花をゆっくり眺めていた。
 毎朝、御用達の生花店が官邸に届ける花は市場からの選りすぐりだ。華やかに薫るバラにユリ、種類が豊富なラン、ガーベラ、ヒマワリ、カーネーション……
「今日はこれにしよう」
 しばらく思案して、代表が花瓶から取り上げたのは一輪のヒマワリだった。
「一輪でよろしいのですか?」
「うん、今日は金曜日だから……」
「え?」
「これだけ飾るよ、いいかな?」
 いつもは十本くらいを選んで執務机の上にささやかな花束として飾るのだが。
「では、すぐに一輪挿しを用意して参りますね。他の花は官邸のホールに飾りましょう」
「ああ、よろしく頼む」
 私のあるじは、花を愛でるように眺めながら短い返事をした。

 今日、最初の訪問者はザラ准将だった。
 翌週の軍の主な行事や訓練内容を将軍であるアスハ代表に報告するのが、金曜日の朝の恒例だった。
私は代表の横に控えて事前連絡のデータと差異がないかと、代表の予定との兼ね合いをチェックする。黙々チェックしながら、代表と准将の顔をこっそり見比べていた。
 二人が一次大戦の頃からの友人だというのは、わりと官邸内では周知のことだ。ザラ准将と話をするときはアスハ代表もくだけた表情を見せてくれるのかな、という淡い期待がいつもあるのだが、いくら注意深く見守ってもいつも二人は公人としての態度を崩さない。
 そんなものだろうか。
 今朝の代表がどことなく上機嫌な様子に見えたのは、ザラ准将の報告があるからかな、と少しだけ期待したのに。
「今日はヒマワリなんですね」
 報告の仕事を終えた准将が、ふと口にした。
「ああ、綺麗だろ」
「今日も彼女が?」
 ザラ准将が私に視線を向けた。
「いっぱい抱えて持ってきて選ばせてくれるんだ、いつも。そういう気づかいが嬉しくてね。優しい秘書官だろ」
 話が私個人に及ぶとは思いもしなかったので、いきなり頬が熱くなってくる。今日は代表に二回も誉められた。
「気に入ったんなら持って帰るか? 准将」
 代表がヒマワリを指差して言うと、准将は少しだけ目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「ああ、おまえの机には飾りもなにもなさそうだしな。今から本部に戻るんだろ」
「そうですね……では、有りがたく頂いていきましょうか」
 准将が口許を緩める表情はあまり見ないものだった。代表も楽しそうに見える。でも、たぶんこれは上司と部下としての親しみ。代表の労いに敬意を返す准将にしか見えなかった。少なくとも私には。
 やっぱり特別な間柄ではないのかな、と残念になりながら、私は机の上のヒマワリを軽く包装して准将に手渡した。
「……ありがとう」
 温もりのあるお礼に准将の人柄が滲んでいる。端整に微笑んだ後、彼はほんの数秒、代表を見つめたようだった。

「今日も一日、お疲れさま」
 視察先からの帰りの車中で、代表は助手席の私に声をかけた。
「ありがとうございます。代表、一週間大変お疲れさまでございました」
「うん、明日は一日公休でいいんだよな」
「はい。日曜日は地球圏総合スポーツ大会の開会式への参列など、式典がいくつかありますが……」
「わかった。資料を見ておこう」
「あ、もうすぐ着きますよ」
 私は窓の外に馴染みの建物を見つけて代表を振り向いた。
「時間通りでしたね」
「ああ、予約してくれてありがとう。今日はほんとにいろいろ助かったよ」
「そんな……身に余るお言葉です」
 言葉に詰まって、私はうつむいてしまった。大したことをしたわけではないのに、代表はいつも感謝の言葉をくれる。たしかに、今朝は少しだけ焦ったけれど。
 准将の訪問の少し後だった。「いつもの店を予約してくれないか」と代表に思いつきのように頼まれたのは。
「いつもの店」とは代表お気に入りの会員制のフレンチレストランだ。格式や味についての評価は言うまでもないが、このレストランには広大な庭に建てられた別棟の個室があるのだ。つまり代表であっても人目を気にせずプライベートな時間を過ごせる。プラントのクライン議長と友人としての食事を楽しむのも決まってこの店だった。
「今日のコースのメインは仔羊だそうですよ。シェフがお待ちしておりますと」
「そうか、楽しみだな」
 公園のように広い店の敷地を車は回り込む。
 そういえば、先月この店に代表がプライベートで来たのも金曜日の夜だった。金曜日の食事の相手を私は知らない。けれども、記憶をたぐってみると、あの日も店の予約を頼まれたのは准将の訪問の直後だった気がする。
 あの日、執務机に飾っていた花はなんだったろうか。
 あの日も、代表は准将に花がいるか、と尋ねたような。
 そして、准将はそれを受け取ったのではなかったか。
「おまえは? この後は直帰なのか?」
 鉄製の門扉をくぐった車は、店の敷地内をゆっくり進んでいた。何かにひらめきそうだった私は代表に呼ばれて慌てて顔を上げた。
「あ、はい! 今日は私も代表をお見送りしたら終業です」
「そうか、ならすまないが彼女を自宅まで送ってもらえるかな? その後はこれは車庫に戻してくれていいから」
 バックミラー越しに運転手と目があったのだろう。運転手の男が寡黙に頷いた。
「それは……とてもありがたいお気遣いなのですが、しかし代表のお迎えは」
「私は大丈夫だよ。今日の連れに送ってもらうから」
 さらりと言う代表の目線の先をたどると、別棟の横には先客の車が停まっていた。暗がりでよく見えないので車種は曖昧だった。
「ここでいいよ」
 ちょっとした離宮のような離れの建物へ続く石畳の小道で代表は車を降りた。車を降りた瞬間でお互いに今日の仕事は終わりだ。代表と呼ばずに、私は心の中でその後ろ姿へカガリ様と呼び掛けた。
 今日の視察に珍しくワンピースを着て出掛けたのはこれからの時間のためだったのだろうか。ヘッドライトの前でくるりとこちらを向いたカガリ様の膝の下でワンピースが揺れた。
「じゃあ、また明後日に」
 いつの間に引き直したのだろう。別れを言ったくちびるには綺麗な赤色が艶めいていた。







2020/04/25