これは恋ではなくて
03
「食欲ないの?」
そのせりふを聞くのは三度目だった。
「なんとなく……」
そう答えたのも三度目だ。
「あらあら、いけませんわね。風邪でしょうか?」
ラクスが気遣わしげにカガリの顔をのぞいた。
昨日の夕食の席で母が、今朝一緒に朝食をとった弟も、同じようにしてカガリを心配した。
「大丈夫だよ、ありがとう」
カガリは友人二人に笑顔を見せて、半分近く残ったオムライスを食器の返却口へ運んだ。万人の健康を預かる製薬会社としての自負があるのか、カガリ達が世話になっている社食のメニューはかなり綿密に栄養価の計算がされている。
健康にはもちろん、味にも申し分ないこの昼食を、カガリは残したことなどなかったのだが。
「あんた、それ、恋わずらいじゃないの」
席に戻るなりフレイに詰め寄られた。
「な、なんだよいきなり。違うぞ、そんなんじゃない」
恋わずらいという言葉は知っていたが、それが具体的にどういう症状をいうのかは知らなかった。知らないが、違う。違うはずだとカガリは首を振った。
「嘘ね、だってカガリずっとため息ばっかりついてるじゃない」
「今日はよくぼーっとしていらっしゃいますしね」
ラクスまでも言う。この二件に関しては、身に覚えがあったので、カガリは否定できなかった。
「なんか、いっそ風邪のほうがよかったな」
陽のあたるテーブルはほんのり温かい。クリーム色のテーブルにうつぶせてカガリはぼやいた。光を受けてきらめく金髪を、ラクスもフレイもじっと見つめて聞く体制に入ったが、カガリがした質問はかなり大まかなものだった。
「なあ、好きってどんな気持ちなのかな」
「え……?」
二人は返答に困って顔を見合わせた。
「難しいですわね……どんなと言われましても」
「どきどきするとか、かしら」
「会いたいと思ったり、ずっと一緒にいたいと思ったり……」
「この人のために何かしたい、て思ったりもするわね」
「ふうん……」
どこかで耳にしたようなフレーズだった。歌でも、小説でも恋愛をテーマにしたものは多いのだ。
(あいつは、私のことをそんなふうに思うっていうのか?)
やっぱり、信じられない。彼についての良くない噂が疑いの種になっている。噂なんて不確かなもので言葉の真偽ははかれないと思う自分がいる一方で、状況証拠が揃いすぎていると憤慨する自分がいるのだ。
「ちょっと、カガリ」
一瞬、考えに没頭していたカガリは肩を叩かれるまで、二人に呼ばれていたことに気付かなかった。
「え……」
顔を上げると、ラクスもフレイもなぜか浮足立っていた。焦っているようにも見える。カガリが首を傾げて、フレイが視線を送った先を見ると。
彼がいた。テーブルの間を縫って、アスランはまっすぐカガリを目指して来ていたのだ。
「アスハさん」
近くのテーブルについている人達の意識がカガリに向いたのがわかった。呼び掛けられて、さすがに無視はできず、カガリはアスランを見上げた。
「暇だったらでいいんですが、昼休みが終わるまで少し時間をもらってもいいですか」
「暇……ですけど、ザラさんに割く時間はありません」
カガリは穏和な笑顔をにらんだ。喧嘩別れも同然だったのだ。にこにこ笑って、いいですよとは言えないだろう。
「そうですか……」
しかし、アスランはカガリの敵意をまるで気にしていなかった。
「だったら、ここで話をさせてもらってもいいですか」
「話ってなんですか?」
「土曜日の」
がたん、と音をさせてカガリは立ち上がった。少し離れた席から、露骨にこちらを見ている者もいる。公衆の面前で卑怯だと叫ぶのは我慢することにした。
「ごめん、二人とも、ちょっと出てくるな」
二人の友人は目を丸くしてカガリを見上げたが、無言でひとつうなずいた。出口のほうにうながすアスランに従って、カガリがざわめく食堂を後にするのを二人はそろって見送った。
「やっぱり、アスラン・ザラが原因だったのね……」
カガリの背中が遠ざかり、やがて見えなくなると、フレイは肩をすくめた。
「もっと根掘り葉掘り聞き出しておくべきでしたわね。アスラン・ザラとなにがあったのか、ちっとも聞けませんでしたわ」
「うん。行かせるんじゃなかったわ」
「ほんとに……なんといいますか、彼はどうも、つまみ食いがお好きなように聞きますし」
「つまみ食いって、あんたね」
フレイはたじろいだ。秘書課に所属する彼女には、秘書のイメージがよく似合う上品さがあるのだが、時々ぽろりと辛辣なことを言う。
「でも、たしかに話に聞く分じゃ、あんまりいい印象はないわね」
「ああ、わたくしのカガリさんが貞操の危機だなんて」
「社内で貞操の危機も何もないでしょうけど」
嘆くラクスを放って、フレイはカガリの置いていった荷物を軽く片付けた。
「大丈夫かしらね、あのこ」
友人二人分の心配を背負ったカガリはもちろん大丈夫ではなかった。平常心を保ちたいのに、鼓動がいうことをきかない。
「少し寒いところでも平気ですか」
カガリが平気だと答えると、アスランはエレベーターに向かった。ボタンで選んだ行き先は屋上だった。天気の良い日の屋上はこのビルでカガリの一番好きな場所だった。
「誰もいない……」
気候が良くなってくると、皆こぞって屋上に出てくるのだが、少しでも北風が吹き出すと、ぱたりとここは無人になる。ぬるい空調から解放されて、カガリは少しひんやりとした風を深呼吸で胸に入れた。
「気持ち良さそうに深呼吸しますね。見ているほうがすがすがしい」
「正直いうと、中はあんまり好きじゃないので」
まだ扉の近くに立っているはずのアスランを振り向かずに言う。
「いいですよ、誰もいないんだから遠慮しなくて」
言葉を崩しても構わないということだろう。強い風に舞う髪を押さえて後ろを見ると、アスランも肩の力を抜いているように見えた。つまり、職場の同僚として模範的に振る舞うのをやめているのだ。
「遠慮なんか最初からしてないぞ」
カガリがぶっきらぼうに言うと、彼はどこか挑戦的に微笑んだ。
「それならよかった。俺も一切遠慮する気はないから」
「いまさら話ってなんだよ」
陽が出ているといっても、ビルの最上階を吹く風は、ニット一枚だけのカガリには冷たかった。
「あのときは追いかけてこなかったじゃないか。ようするに、あれ以上話をすることはなかったってことだろう」
「じゃあ、追い掛けたほうがよかったかな?」
ぎくりとして、カガリは反論を飲み込んだ。ものの数分だった駅までの道のりで、アスランがカガリの足に追いつけないわけはなかったのだが。
彼は来なかった。早足だったカガリの歩みが次第に速度を落とし、駅の前で立ち止まってしまったというのに。
「あのときは俺が何を言っても君は聞かなかったと思うな。怒っている人間には説明も言い訳に聞こえる。頭が冷めるまで待つのが得策だ」
「悪かったな、怒りっぽくて」
ぷいと、カガリはそっぽを向いた。
「いや、何を言っても変わらず笑い続ける人間よりずっといいと思うけどな」
「それっておまえのことか?」
「俺だって怒るときは怒るよ」
アスランの冷然とした物言いに、カガリは少し不安になった。もしかしたら、アスランは土曜日のことをひどく怒っているのだろうか。頭に血が上っていたから何を口走ったのか、よく覚えていなかったが。
良い言葉を言っていないのだけは確かだ。
カガリの悪態に憤り、がっかりしたとか、幻滅しただとか、話というのはそういうことかもしれない。そう考えが行きつくと、不安が失望感に変わり、カガリの胸をさあっと冷たくした。
どうしてだろうか。いつものように、そんなのこちらから願い下げだと、たんかを切ってやればいいのに。
「もしかして、おまえ、土曜日のこと怒ってるのか?」
カガリは慎重にたずねた。
「いや、君を怒らせてしまったことは後悔してるが、俺が憤る理由はどこにもないよ」
「なら話って……」
アスランが扉の前から動かないので、二人の間には依然として距離があったが。
「一言で済む話なんだけどな……」
ふと、アスランの笑みが変わったのは読み取れた。
「……付き合って欲しいと言おうと思って」
ビル風がカガリの耳をふさぐ。聞こえなかったわけではないのだが、カガリが沈黙してしまったので、アスランはもう一度言った。
「付き合うってことの意味わかるか? どこかに行くのに付き合う、じゃなくて」
「わかってるよ! ばかにするな」
紛らわすようにわめいてみたが、だめだった。頬がみるみる熱くなってくる。
「そんなにびっくりすることかな。君なら言われ慣れてそうだが」
「おまえに言われるのは初めてだ」
「土曜日に一度言っている」
相手の目を見て話すのが、カガリの信条のひとつなのだが、アスランの目が見られなかった。
「二度も言えば十分だよな」
コンクリートを踏む足音がカガリに近づいてきた。
「保留はなしだぞ。今ここで答えてくれないか」
アスランの言ったように、今までに付き合ってくれと言われたことは一度や二度ではなかった。カガリはそのたびに謝り、断ってきたのだ。迷うことなく首を横に振って。
「カガリ……?」
名前を呼ばれることに、まだ慣れていないから、よく響く彼の声で呼んでほしくなかった。
「わ、私は……」
上手く、話せない。喉が張りついたような感覚は、なんだか就活の面接に似ていた。
「い……いやだって言ったら?」
はっきり言いきったつもりだったのに、語尾が弱かった。
「今まで、みんなそんな曖昧な断り方してきたのか?」
アスランの声は冷ややかに聞こえた。
「男には変に優しくしない方がいいぞ。でないといつまでも期待し続けるじゃないか」
「ご……ごめん」
カガリはそれ以上何も言えなくなって、足元を見つめた。自分でもおかしいと思うくらい迷っていた。
付き合えないと、それだけ言えばいいのに。言えば、今のアスランとの関係は終わるのだろうか。学生の頃に友達だと思っていた相手から交際を申し込まれたときは断ってしまったら、友人関係も同時に終わってしまうことがほとんどだった。
沈黙が長く続き、待っているだけでは解決しないと判断したらしいアスランは条件を出してきた。
「三ヶ月ならどうだ?」
弱った表情のままでカガリは顔を上げた。
「三ヶ月……って?」
「期間を限定しようって言ってるんだ。だったらそんなに深く悩まなくてもいいだろう?」
試用期間みたいなものにしようということなのだろうか。
「最初に約束する、三ヶ月経ったらさっぱり君を解放するよ。楽だろう、それなら」
アスランが気軽に言うので、カガリはつられてうなずいていた。
「うん……」
悪い気はしなかった。
女友達からよく、彼氏の一人くらいは作れと、心配と催促をされていた。これで、恋愛の話題になったときの肩身の狭さを味わわなくてすむかもしれない。
「それなら、いいぞ」
別に付き合うなんてたいしたことじゃないし、とカガリは強がった。アスランはカガリの答えがイエスだと予想していなかったのか、しばらくカガリの顔を見ていた。
「いいのか? 本当に?」
「そんなにおかしなことか? おまえが言い出したことだろ」
「……取り消しは受け付けないからな」
アスランが低く確認する。
「私はおまえと違って嘘はつかないぞ」
「おまえじゃなくてアスランだ」
アスランが足を踏み出したかと思ったら、腕をとられていた。一瞬で距離が縮む。
「恋人なんだから、できれば名前で呼んでくれないか、カガリ」
「恋人って……」
アスランの瞳を見て、カガリははっとした。
いつか見た色がそこにあったからだ。金縛りにさせるような色。この後に来るものをカガリは知っていた。
「え、ちょっと。ま、待って」
後ずさったが、効果はなかった。翠色の瞳がさらに近づく。
「付き合うって言葉の意味、わかってるって言ってたよな?」
いたずらが成功したような笑みで、アスランは乱れたカガリの髪に触れた。
「ま、待てよ、ストップー!」
カガリは腕を突っ張って、バリケードにした。カガリの必死の様子に、アスランも無理強いはしなかった。
「そんなに嫌か?」
声が乾いた笑いを含んでいた。
「嫌とか、なんとかじゃなくて」
慣れてないのだとは言えなかった。カガリの恋愛経験ははっきりいってゼロに等しい。
それを彼に知られるのは嫌だった。
「付き合うってなったからって、すぐすぐそういうことできるわけないだろ」
「そういうことって?」
「そんなとこばっか突っ込むな」
カガリは赤くなってアスランをにらんだ。
「だから……」
ぼそぼそと例えを上げる。
「キス……とか」
「その先も?」
一瞬、絶句してしまった。しかし、一般的な恋人同士なら当たり前のことなのだ。
「ば、ばか! できるわけないだろ。好きでもないのに」
叫ぶと、なぜか掴まれていた腕がするりと解かれた。あっさり引き下がるので、思わずアスランを見上げると彼の表情に笑みがなくなっていた。
「……あの」
ばかは良くなかっただろうか。口の悪さを直さなくてはならないのは、カガリの子供の頃からの課題だった。
(どうして、時々急に……)
胸がきりりと痛む。いつも余裕たっぷりに笑っていてくれたらカガリも遠慮なく突っかかれるのに。
「アスラン……」
考えた末にカガリは言った。
「そうだ、約束しないか」
「……何を?」
「いや、その……」
そういうことを、しない。
つまり、キスなどの接触をしないと約束しないか、とカガリはつっかかりながら説明した。
「試用期間なんだし、妥当な気がするんだけど。それなら私も変に構えなくてよくなるし」
彼はしばらく考えてから苦笑いで答えた。
「拷問みたいなことを思いつくな」
「拷問っておまえな……」
「その約束、ひとつだけ譲歩してくれないか」
「なんかろくでもないこと言うんじゃないよな」
アスランは駄々っ子をなだめるように笑った。
「キスくらいは許可制にするって」
「許可制?」
「カガリが俺のことがどれだけ嫌なのかはよくわかったけど。我慢するのが俺だけじゃ公平じゃないだろう」
公正じゃないだとか、不当だと言われると、曲がったことの嫌いなカガリは弱かった。
「それは、そうかもしれないけど……」
許可制にしたところで、果たしてキスなんてできるのだろうか。心臓がもたない気がした。
「君はよくわからないだろうけど、恋人という肩書があるのに三ヶ月も触れるのを我慢させるなんて、三ヶ月ずっと両手足を縛っておくようなものだと思うぞ」
「大袈裟すぎだろ……」
カガリはまた赤くなる。
「それで、どうするんだ?」
キスもしない恋人はさすがに普通ではないのかもしれない。ドラマなどでは気軽に目にするものなのだし、慣れれば簡単なことかもしれない。なにより不公平だと言われて、それを無視はできなかった。
「わかった」
カガリは唇を噛んできっぱり言った。
「その条件つきで、約束しよう。三ヶ月な」