これは恋ではなくて

04



 
 
 
 その年はいつまでたっても夏の名残を引きずっているような年だった。晩秋に近づいても日中は暑いと言わずにいられない気温が続き、街路樹も色づくことを忘れたようだったが。十月の終わりにふっと気が変わったように寒くなった。
 アスランとカガリが、初めて業務以外の会話をしたのがその頃だった。
(二月までか……)
 付き合う約束をしたのが十一月だったので、有効期限は三ヶ月後になる。厳密にいえば三ヶ月後の昼休みまで。
(何がどう変わるのか、よくわからないけど)
 屋上でアスランと話をしているうちに昼休みが終わってしまい、ラクス達に昼のことを報告できたのは、仕事終わりだった。定時に上がれるときは、三人でお茶をしたり、ぶらりと買い物をしたり、いつも駅までの道のりは三人で歩くのが決まりだった。
 その帰り道、すごい剣幕でたずねてきた二人に、カガリが屋上でのことを話すと、フレイはともかく、ラクスはひどく驚いていた。フレイのほうは、たぶんそうなるだろうと予想していたらしいのだが。
「それで、なんであんたは私達と一緒にいるわけ?」
 フレイは不思議そうな顔をした。
「なんでって、いつも一緒に帰ってるじゃないか」
 カガリも似たような顔で、フレイを見返したが、彼女は呆れたような奇声を上げた。
「あんたね、ひょっとしてアスラン・ザラほっといて会社出てきたんじゃないでしょうね」
「え? うん。あいつ残るみたいだったし」
 フレイは額を押さえた。
「そうよね、そうするわよね、あんたは」
「なんだよ」
「さすが、カガリさんですわ」
 ラクスは手を叩いている。二人の反応にはだいぶ落差があった。
「それにしてもお試しで三ヶ月? しかもキスしかしないって中学生みたいね」
「かなり意外でしたわ。なにか裏に考えがあるのでしょうか」
「単にカガリのレベルに合わせたんでしょ。私はちょっと安心したわ。遊ぶつもりじゃなさそうだからいいんじゃない」
「そうでしょうか、あまり安易に受け取っては危険だと思いますわ」
「危険って、あんたね。社内での噂はあくまで噂なんだし、カガリが付き合うって判断したならそれを信用してもいいと思うわ」
 当事者をおいて、二人の友人が議論を続けるのをカガリはただ聞いていた。カガリの交際について、自分よりも二人のほうがよっぽど熟慮している。
「……だからね、カガリ。明日は彼に帰りの相談するのよ」
「へ?」
 いきなり話を振られてカガリは目をぱちくりした。
「へ? じゃないわよ、まったく。いい? 付き合うってことについて私が一から教えてあげるから、よく聞きなさいよ」
 フレイが言うには、付き合っている間柄だと、たいていは帰り道を示し合わせて一緒にするらしいのだ。せっかく、職場が一緒なのだからと彼女はうらやましがってもいた。
 指摘されればカガリもなるほどと思い、次の日からはアスランを待つことにしたのだった。課が同じで、机も近ければ、それは簡単なことだった。いつも自宅のパソコンでする仕事を、アスランを待ちながら、カガリはひとつずつ片付けているだけでよかったのだから。
 入社して二年が経つ今も、課のなかではカガリとアスランが一番下だ。そのため、資料まとめや、企画書の下準備としての情報や数字の整理など、単純で時間のかかる仕事を任されることが多く、仕事を持ち帰ることはしばしばだった。カガリが黙々と仕事をしているうちに、先輩や上司がひとり帰り、またひとりと少なくなって、いつの間にか部屋にはアスランとカガリの二人だけになっていた。
「めずらしいですね。アスハさんが残っているなんて」
 誰もいなくなると、それまで黙ってパソコンに向かっていたアスランが口を開いた。
「その話し方やめろよ。なんか変な感じだ」
「そうかな、俺はけっこう楽しいけど」
 静かになったおかげで、机を隔てても話ができたが、おしゃべりをしながら仕事はできない。
「無駄口叩いてないでさっさと終わらせろよ」
「もう、終わっているよ」
「は?」
 口をぽかんと開けたカガリを見ると、アスランは声を上げて笑った。
「やっぱり俺を待ってたんだな」
 はっとして、カガリはつい声を大きくしてしまった。
「おまえ、気付いてたのか」
「ごめん。わかってたんだけど、黙ってたらふたりきりになれると思って」
 アスランは悪びれる様子もなく言った。アスランが得意なものは、カガリの苦手なことばかりだった。ポーカーフェイスも、物腰の穏やかさも、ちょっとした企みも。だから、いつもどこか敵わないのか。
「待っててやるんじゃなかった」
 ここで怒ったら負けだと思い、カガリはふてぶてしくつぶやくだけにしておいた。書きかけの書類に保存をかけて、帰る準備を始める。
「どういう風の吹き回しだろうかと思ったよ。わざわざ残って俺を待つなんて。何か言いたいことでもあったか?」
「言いたいことなら、いっぱい山ほどあるぞ」
 つっけんどんに返して、資料の紙束をまとめる。アスランは机の列を回り込んで、カガリの側に歩いてきた。
「山ほど?」
 面白そうに聞き返して、彼はカガリの隣に座る。
「よければ、君がすっかり言うことがなくなるまで聞くけど」
「言ってやんない。そんなの自分で考えろ」
 手ばかりは早く動かしていたので、帰り支度はもう済んでしまった。その様子を見守るアスランの視線を感じていたが、そちらを向かずにカガリは言った。
「べつに用はないし、なにか話そうと思ったわけでもない。ただ待ってただけだ」
 べつに喧嘩がしたいわけではないのだ。彼と付き合うのだと決めた自分と向き合うつもりで、カガリは言った。
「私はただ、駅まで一緒に帰ろうと思って待ってたんだよ、おまえを。ただ待ってちゃ悪いかよ」
 くちごもりながら付け足した言葉に、アスランは目を見張った。
「いや……悪くないよ」
 すんなりとアスランは気持ちを述べた。
「悪いどころか、嬉しい」
 まだ、邪気のある答えのほうがよかったかもしれない。あんまり、てらいなく言うので逆にカガリは恥ずかしかくなってしまった。
「もういいだろ。パソコンも落としたし、私は帰るぞ」
 席を立とうとしたら、ぱしっと手首をとられた。
「待てよ、一緒に帰るんだろう」
 まさか手を繋いで、と聞こうとしたが、それより先にアスランが言った。
「カガリ、キスしてもいいか?」
 今度こそ、カガリはうろたえた。
「な、なんでどうしたらそういう運びになるんだよ」
「こういうものにはっきりした理由なんてないよ」
 揺れた琥珀のまなざしを、アスランはのぞきこんだ。
「それをいうなら、君が俺と一緒に帰ろうと思った理由を聞いてもいいかな」
 その直接の原因はフレイの助言にあるのだが、それは原因であって動機ではない。カガリは、ただ彼と駅まで一緒に歩こうと思ったのだ。何も言えずにいると、アスランはカガリの髪に軽く触れた。
「カガリ。今度は嫌だって言わないのか?」
 人気のないオフィスの静けさが、彼の囁きをいっそうクリアにする。部屋を分断するように、蛍光灯が半分消されてできた暗闇が、じっとこちらを見ている気がした。
「許可が下りたと思ってもいい?」
 身動きのとれなくなってしまったカガリの髪を、やわらかく何度も撫でる。そのままの穏やかさで、アスランはカガリに口づけた。
「待っ、ん」
 触れた唇が、そっと少しだけ離れた瞬間に、カガリは声を上げたが。それを言わせまいと、また唇を押し当てられた。
(息、が……)
 止まってしまいそうだった。アスランの手が耳にも触れ、カガリの小さな頭を両手で包む。ゆっくり数を数えるように、彼はついばむようなキスを繰り返した。突き飛ばそうと思えばできたのだろうけど、手足がしびれて動かない。
「は……ぁ」
 重ねた唇が離れていったので、カガリはようやく息をついた。酸素が足りないのに、上手く深呼吸もできない。
「ちゃんと息しないと窒息するぞ」
 前髪の触れ合う距離でアスランが言う。
「だって……」
 開きかけたカガリの唇を、彼はまたふさいだ。
 ごく自然な動きで。噛み合わさったところから、するりと何かが入り込んできた感覚があって、それが舌だと気付くのに間はなかった。
 思わず、カガリはアスランのスーツに手をかけた。
 やわらかい感触が舌に絡まり、上あごを撫でていく。口づけが深くなるのにあわせて、髪を撫でていた彼の手も、ゆっくりと背中を降下していった。ただ優しく、カガリの強張りをほどくよう。心臓の早鐘は相変わらずだったが、固くなっていた体からは力が抜けていった。アスランがキスを終わらせたときには、カガリもうっとりと瞳を開いた。
 自分をじっと見つめる、アスランが目の前にいる。彼がどうしてか苦しそうに見えるのを、なぜだろうかと、カガリはぼんやり見上げた。
「ひどい拷問だな。思った以上に」
 カガリの肩に額をつけながら、アスランがぼやいた。そろりと、腰のあたりにあった手がさらに下ろされて、カガリはびくりと一発で夢見心地から覚めてしまった。
「ど、どこ触ってんだ、変態!」
 驚かされた猫のようにカガリは後ろに飛び下がった。
「そんなこと言ったら世の中の男はみんな変態になるぞ」
「屁理屈をいうな」
 さらにわめこうとしたその時に、カガリはひらめくように思い出した。
 数十秒前の自分を。
「あ、私……」
 まだ少し濡れている唇に手をやると、感触まで思い出して体の熱が上がった。
「キスもそう悪いものじゃないだろ?」
 アスランはにこりと笑う。
「あんな……あんなの聞いてないぞ。約束になかったじゃないか」
「キスはキスだろう。種類についての規定は決めてないぞ」
 けろりと切り返されても、カガリは言い返す言葉を持たなかった。
 アスランが帰ろうと言ったので、電気を消して部屋を出た。ロッカーから上着を取ってきて身支度をすませると、二人は外に出た。日に日に冬が近づいて来ていて、今日は昨日よりも寒くなっている。コットンのトレンチコートでは風が染み込んでくるくらいだった。
「やっぱり怒ってる?」
 カガリが黙り込んでいるからだろう。アスランは歩き始めて最初にたずねた。
「違う……」
「本当に?」
「怒ってるんじゃなくて、悔しいんだよ」
 黙っていたのは、ずっと考えていたからだ。カガリの知らない色々なことを、アスランが経験しているのは、さっきのやりとりでよくわかった。それを知ったかぶりして隠していても、いつかばれてしまうだろう。そのほうがずっと恥ずかしいと思い、カガリは正直に打ち明けることにした。
「私、付き合ったりするのって、アスランが初めてなんだ」
「……どういう意味だ?」
 言葉通りの意味なのだが、アスランは何かの例えだと思ったらしい。それもそうだろう。いい年した大人がキスのひとつも知らないなんて、思いもしないはずだ。
「そのまんまだよ。キスだって、この前のが初めてだったんだからな」
 地面を見ながら告白する。かなり間をあけて、彼の返事が返ってきた。
「それ、嘘じゃないよな?」
「こんなことで嘘ついてどうするんだよ。嘘をつくなら逆にするよ。わざわざこんな恥ずかしいこと教えたりしない」
「……俺を喜ばすための嘘かと思った」
 カガリは思わず顔を上げた。なるほど、彼の横顔は緩んでいるようだった。
「喜ぶようなことなのか?」
「だって、俺はある意味で特別だってことだろう。今まで、学生の頃だって、俺みたいに君に付き合ってほしいと言ってきた相手は一人二人じゃないはずだよな」
「まあ、うん……」
「そのなかで俺に首を縦に振ってくれたってことは、良いにしろ悪いにしろ、理由があったからだろう。いい方向での特別なら当然嬉しいよ」
 カガリはまた考え込んだ。今まで誰に対しても、誘いにのることができなかったものが、どうして彼にはできたのか。
「……最近、とくに大学の時の友達なんかが心配するんだよ」
 ぽつりと思いついた。
「女の子って集まったらすぐそういう話題になるだろう。仲間内で恋人がいないのは私くらいだから、みんなで言うんだよ、彼氏作ったらって。いろいろ紹介してくれたりするんだけど」
 話しながら、風になびく前髪を直した。
「だから、付き合ってもいいかな、って思ったのかな。紹介なんて、気を使っちゃうし。会社の人なら……」
 言いながら、自分でもそれが一番正当な理由だという気がした。自分自身を納得させて、カガリは少しすっきりした気持ちだったが、アスランは表情を曇らせていた。
 それには気付かず、カガリは反対にたずね返した。
「そういうおまえはどうして私なんだ?」
 彼こそ相手は選ぶほどいるのだ。それも、彼に好意を寄せている相手が。何気なくたずねたが、口にした後で聞くんじゃなかったとカガリはとっさに思った。
 どういう答えが返ってくるのか、少し怖い気がしたのだ。複数ある選択肢の中から選ぶように、カガリに決めたのだとしたら。
「……好きだからという以外に理由なんてないよ」
 アスランはカガリを見ずに言った。落ち着いた声だったが、その奥には深い意志が沈んでいるようで、カガリは、そうか、としか答えられなかった。もっと突き詰めて聞いてみたかったが、できなかった。
 いつから、どうして、いったいどこが、好きなのか……
「私は……」
 冷たい風のせいか、声がかすれていた。
「私は、好きだとかいう気持ちはよくわからない」
 アスランは無言だった。
「大人の好きはもっとよくわからないんだよ。どうして、みんな二度や三度会っただけで、付き合ったりできるんだ? それで、一年も経たないうちに別れて、また次の人と付き合って」
「そういうのは軽薄に思う?」
「悪いとは思わない……みんな楽しそうだし」
 そうだな、とアスランは曖昧にあいづちを打つ。
「……でも私にはできない」
 バッグを握る手に力が入る。お互いに無言でしばらく歩いて、口を開いたのはアスランだった。
「カガリは誰かを待っているんだな」
 たずねるというより、確認の口調でアスランが言った。
「……誰か?」
「本当に好きになれる誰か」
 独り言のようなつぶやきだった。
「この人だと思える、自分の片割れのようなものかな」
「片割れか……」
 カガリの頭に双子の弟の顔が浮かんだが。
「君の弟はたしかに君の半身みたいなものだろうけど……」
 アスランが先にそれを打ち消した。オフィスビルが並ぶ静かな夜の歩道に二人分の足音がゆっくり響く。
 アスランはしばらく考えてから言った。
「カガリはギリシャ神話を読んだことがある?」
「まあ、有名なのならな」
 何の例え話なのだろうかと続きを待ったカガリに、アスランはゆっくりと話した。
「ギリシャ神話の中での古代の人間は、二人の人間がちょうど背中合わせになっているような形をしているんだよ。頭が二つで手足も四本ずつ、男女が一対になっていて」
「さすが、おとぎ話だな」
 アスランはうなずいて笑った。
「でも、その一対になっていた人間達は、あるとき神の怒りに触れて引き離されるんだ。それぞれ、ばらばらになった。それが今の人間の形で、だから……人はみんな、それぞれの半身を求めて恋をするんだそうだ」
 最後の言葉がカガリの胸に響いた。たとえ、子供じみていると言われても、カガリが恋に思い描いていたのはそんな何か特別なものだった。
「つまり、私がそういう幻想を持っているから、いつまでたっても恋人ができないってことなのか」
 カガリは半分いじけて言ったが、アスランは真面目だった。
「俺は幻想だとは思わないよ」
「それって、アスランはアスランの半身を見つけたってことなのか?」
 隣を見ると、アスランは何も言わずに微笑んだ。それは肯定の表情に見えたが、だとしたら彼にとってのカガリがその人だと言うのか。それほどの想いがアスランの身の内にあるのだろうか。今のカガリにはそれはただ不思議だった。
「聞きたいことがいっぱいあるって顔してるな」
「……してないぞ」
 笑いながらアスランが顔を覗き込んできたので、カガリは逃げるように顔をそらした。君はしゃべらなくても表情が代わりに教えてくれるなと、アスランは前に向き直った。
「……自分自身が間違いなく、この人しかいないと思っても、相手がそうは思わないこともよくあることなんだよ」
 アスランは静かに話を続けた。
「どうしても欲しいものが、どうしたって手に入らないこともある。生れついての才能だったり、叶わない理想だったり」
「それは……その人がアスランのこと、好きじゃなかったってことか?」
 カガリがためらいがちにたずねると、アスランはすぐには答えなかった。
「……ほんとうはもっと」
 何か小さくもらした言葉が聞き取れなくて、なにをと言おうとしたら、アスランは急に声の調子を変えてそれを遮った。
「つまり、俺は自分が思っていたより諦めが悪いらしいんだ」
「え?」
「という例え話だよ」
 話を打ち切るように彼はあっさりと言った。
 話し込んでいるうちに駅は目の前になっており、向かうホームの違う二人が別れる場所まで来ていた。そこでカガリは別れを言って駅に入ろうとしたが、去ろうとした手首をアスランが素早く掴んでその足を止めた。
「カガリ」
 翠の両目がカガリを見る。
「……え、なんだ?」
 彼の様子に少し身構えたが、ほどなくするりとアスランの手は解けた。
「いや、また明日。帰り、気をつけてな」
「うん……」
 カガリに笑いかけると、アスランは背を向けて行ってしまった。ぼうっと、その姿が小さくなるまで見送って、カガリも改札に足を向けた。
(たぶん、なにか言おうとしてた……なにを)
 定期を出して改札をくぐり、エスカレーターに乗る。体に馴染んだ動作をしながら、カガリの頭の中にはアスランの言葉が残響のように響いていた。
(かつての半身を求めて……)
 アスランの話したおとぎ話は胸に溶け込み、深く、音もたてずに沈んでいった。