これは恋ではなくて

06



 
 
 

「お鍋とフライパンくらいはあったほうがいいだろ」
 ずらりと並ぶ調理器具を前にして、眺めるだけのアスランに、カガリは得意げに言った。
「この二つがあったらたいていの料理はできるからな。アスランだって家庭科の授業くらい受けただろう」
「まあ、知識として料理がどういうものかは知っているけどな」
 壁にかかっているフライパンをひとつ取り上げて、アスランは物色してみる。
「レシピ通りに作れば失敗することもないと思うのに、アスランはどうして料理しないんだ?」
「時間がかかるじゃないか。外で食べればすぐなのに」
「毎回、外食してたら野菜も足りなさそうだし、塩分だって」
 アスランの手からフライパンを奪って、カガリは壁に戻した。
「それに、二人分作るくらいなら、このくらいの大きさがちょうどいい」
 アスランが手にしたものより一回り小さなものを差し出して見せる。
「二人分ね……」
 フライパンを受け取って、アスランはつぶやいた。
 あれから巡ってきた最初の土曜日にアスランとカガリは大型のショッピングモールに調理器具を選びに来ていた。料理をすると張り切ったカガリだったが、アスランの部屋を探って、鍋はもちろん十分な量の食器もないことを知り、愕然ととしたのだ。
 したがって、強制的にアスランを買い物に連れ出したのだが。
「初デートが鍋選びとはな」
「何か言ったか?」
「いいや」
 アスランはカガリの選んだフライパンを買い物かごに追加した。すでに、食器やら箸やらがいっぱいになっている。それらのすべてが二つずつだった。
「あとは、炊飯器かな。電磁調理機はマンションのがあるし」
 カガリはアスランの部屋を思い浮かべて足りないものを考える。初めに訪れて以来、何度か仕事帰りに寄っているので、だいたいの間取りも覚えていた。もっぱら、仕事を片付けに行くわけなのだが、アスランはいつも早くにカガリを帰し、律義に駅まで見送ってくれる。
「炊飯器も買って帰るのに、これだけ持ってマンションまでは大変かな……」
「配送を頼むよ。この量はさすがに無理だろう」
 かごを覗き込みながら二人が思案しているときだった。
「アスハ先輩?」
 後ろから呼び掛けられた。
 二人が一緒に振り向くと、通路をふさぐ形で立っていた二人の後ろに青年が一人立っていた。
「うわあ、やっぱりアスハ先輩だ。偶然だなあ」
 青年の顔がぱあっと明るくなる。
「シン?」
 声に聞き覚えがあったのだが、不意打ちだったのでまず驚いてしまった。カガリも青年につられて顔が綻ぶ。
「懐かしいな、卒業して以来だっけ。おまえ、変わってないなあ」
 買い物かごから手を離して、カガリは青年に駆け寄った。
「先輩はなんだか大人っぽくなったっすね。ちょっと見間違えました」
 カガリの上から下まで、シンと呼ばれた青年の視線が動く。
「カガリ……誰だ?」
 アスランがはしゃぐ二人に問い掛けた。
「ああ、大学のときの後輩なんだ。サークルが一緒で」
「サークル? なんの?」
「テニスだよ。その一年後輩でな、シンっていうんだ、こいつ」
 シンのシャツを引っ張ってカガリは笑顔で紹介した。
「どうも、シン・アスカ、ていいます」
 カガリの紹介を受けて、シンはぺこりと真面目に頭を下げた。
「で、先輩、こちらは?」
 視線でためらいがちにアスランを指し示す。
「ああ、会社の同僚のザラさんだ。課が同じなんだ」
 カガリは簡潔に説明したが、シンは目をぱちくりさせた。
「同僚? なんだ、彼氏さんかと思った」
「え……」
 そんなふうに返されるとは思わず、カガリは動揺した。付き合っているわけだから、たしかにアスランはただの同僚ではないのだが、彼氏だと紹介しようと少しも考えなかった。まだ実感がないのだ。
「でも、その同僚さんと、なんでまたこんなところにいるんすか? なんか見たことないくらいかわいらしい格好して」
 深紅の瞳がアスランとカガリを見比べた。かわいらしい格好というのはカガリの着ているワンピースのことだろう。滅多にスカートもはかないカガリにはワンピースなど縁遠い服だった。
「それに、そのかごの中、それ食器ですか?」
 シンはアスラン越しにかごを覗いた。
「もしかして先輩、一人暮し始めたの? あんなに実家が大好きだったのに」
「あ、いや、これはアスランの……」
 率直なシンの質問にたじろいでしまう。
「アスランって、ザラさん?」
 カガリが返事をすると、ふうん、とシンは見定めるような目をした。
「……先輩、相変わらずなんですね」
「なにがだよ。おまえ、さっき見違えたって言ってたじゃないか」
「それは見た目の話です」
 なんだか似たようなことをアスランに言われた気がする。何か言いたげな目をしていたが、まあいいや、とシンは話を切った。
「つまり、先輩には彼氏はいないってことですね。だったら、また連絡してもいいですか? アドレス、あれから変えてなければ」
 カガリが曖昧にうなっていると、シンはそれを良い方の意味にとったらしく、じゃあまた、と言って笑顔でその場を後にしてしまった。
 背の高い商品棚の向こうへ、シンの姿はすぐに見えなくなった。後には広い店内のざわめきだけが残る。
「……つまり、先輩には彼氏はいないってことですね」
 カガリの背中へ、アスランはシンのせりふを棒読みして繰り返した。
「あ、や、今のは……」
 弾かれたように振り向くと、アスランは笑みを浮かべていた。おもしろいものでも見つけたような。
「今のは?」
「いや、あいつが早口でしゃべるから、違うって言うタイミングを逃しちゃって」
「何が違うんだ?」
「何がって……」
 カガリは言葉を失った。なんだろうか、空気がぴりぴりと痛い。手のひらにはぬるつくくらいの汗をかいていた。
「何も違わないんじゃないのか? たしかに、俺はカガリの同僚だし」
 アスランはゆっくりと言い放つ。
「カガリの認識では、恋人というのは好き合っている間柄のことを言うんだろう? だったらカガリは俺を彼氏と呼べなくて当然だ」
 どう答えればいいのかわからずに、カガリはうつむいた。
 いつもの彼ならここで軽口でも言ってカガリの緊張を解いてくれるのだが、今回は違った。カガリにとってのアスランはすでにただの同僚でも友人でもない、カガリがこれまでもったことのない親密さが二人の間にあるのは確実だった。けれども、彼を恋人と呼ぶことがカガリにはまだできなかった。なにが足りないのか、自分でもわからない。
 考え込んでいると、アスランのため息のような笑い声が聞こえた。
「肝心なときに黙るのは卑怯だよ、カガリ」
 口許を歪ませて、アスランはみるみる笑みを取り下げた。
「……この沈黙を良い方に捉えられるほど、俺は楽天家じゃないんだよ」
 待ってみても、 カガリが答える気配がないので、アスランはそれ以上の追及はせず、買い物の続きをしようとうながした。
「他にもう買うものはないのか?」
 まだ答えを探して考えていたカガリはのろのろと返事をした。
「うん……次は電気屋に行きたいって思ってたから」
 かごに手をかけたアスランに続いてカガリも歩きだす。
「ごめん。いろいろ言って悪かったよ。そんな顔をしないでくれ……さっきの話はもう忘れてくれて、いいから」
 消沈した表情のカガリにアスランはやわらかく言った。
「もう、わかったから……」
 何がわかったというのだろうか。カガリの胸にはすっきりしないものがもやのように残っているのに。
「次は電器屋だな。またカガリが選んでくれるのか?」
「……うん。一緒に選ぶ」
 大量の食器を、会計と同時に配送の手配もして身軽になると、二人は次に同じ敷地内にある家電量販店に向かった。アスランはさきほどの会話など、まるで気にしていない様子で明るかったが、カガリは買い物をはじめた当初の元気には戻れなかった。
 目的の買い物をすませ、アスランのマンションに着いてからもそうだったので、さすがにアスランは話を掘り返してきた。
「さっきのこと、まだ気にしているのか」
 淹れたてのコーヒーをテーブルに置きながら、ソファーに黙って座るカガリに問い掛けた。
「気にするに決まってるだろう。私は全然すっきりしてない」
 カガリは湯気の上がるコーヒーに手をつけずに見つめた。
「アスランと一緒にいるのは楽しいと思う。でもそれだけだめなのかな、関係に名前を付けたり、何か答えを出さなきゃだめなのかな」
 また考え込んでしまったカガリをしばらく見つめてからアスランは言った。
「俺も今日みたいにカガリとただ一緒にいるだけで十分に楽しいよ」
 アスランはカガリの隣に腰を下ろした。
「でも、俺にはそれ以上を求めたい気持ちがあるんだ。だから付き合ってほしいと言ったし、カガリがそれに応じてくれたからいまこうして隣に座れるわけだけど」
 でも、とアスランはティーカップを手に取った。
「それはカガリが俺に振り向いたからじゃない。恋人だって言っても口約束で繋がっているようなものだ。カガリにそういう気持ちがないのなら」
「じゃあ、アスランは?」
 カガリは反射的にたずねていた。
「アスランにはその気持ちが」
「ないと思っていたのか?」
 言い切るより先に、アスランは問い返した。
「俺が冗談か何かで、カガリに付き合おうなんて言ったと思っていたのか?」
 かちゃりと、アスランがカップを置いたソーサーが鳴った。彼の瞳が間近に迫ったかと思うと、ひざの上に置いていた手がぎゅっと握られた。深い声で囁く。
「俺がカガリをこんなに好きなのに」
 視線に堪えられずにカガリが身を退くと、アスランは緩まず間を詰めた。
「どうかしてしまいそうだと、この頃いつも思うよ」
 空いていた手にもアスランの指がかかる。
「……君を傷つけたくないから必死で自分を殺しているんだ」
 気おされてバランスを崩し、カガリはソファーに背をついた。
「アスラ……」
「俺はどうしたらいい? カガリ」
 淡い緑のソファーに散らばった金髪にアスランは指を滑らせた。
「どうしたら、君は俺を好きになってくれるんだ」
 体が、柔らかいソファーに沈む。
 カガリを押し倒すかたちになったアスランの重みも加わって、スプリングがきしりと音をたてた。腕の中に追い詰めたカガリを、アスランは無言で見つめていた。甘い手つきでさらさらと髪に触れて、息を詰めてされるがままになっているカガリの唇を、許しを求めるようにゆっくりとふさいだ。
「……んっ」
 唇のやわらかさを何度も何度も味わって。やがて、絡めるように、口づけは深くなっていく。
(だめだ……)
 何も考えられなくなってくる。
 アスランはカガリの小さな頭を両手で抱え込み、カガリの知らないキスをする。カガリも必死でそれを受け入れていた。だんだんと二人の息があがってくる。
「は……ぅ」
 体まで熱くなってくると、たまらなくなったように、アスランの手のひらが、首筋から肩へと下りてきた。その手を追うように、アスランの唇がカガリの首にも落とされる。
「……んんっ」
 まるで吸血鬼のように、唇でカガリの肌をついばんで。彼の手はカガリの胸に触れた。
(……あ)
 カガリは息を飲んで、手を握った。破れてしまいそうな鼓動を打つ胸をアスランはゆっくりと確かめる。服の上からでも、きっと音がわかってしまう。
(アスラ……)
 名前を呼びたいのに声にならない。カガリはただただ苦しい息を繰り返して瞳を閉じた。
「……カガリ」
 霞んだ声が名前をつぶやく。アスランの手は熱く、二人ともが熱に浮かされているのではないかとカガリは思った。
 どうかしてしまいそうだ。硬い下着に包まれたふくらみをアスランはもどかしげに愛撫し続けた。
「ふ……っう」
 吐息をもらしてしまう口に、カガリは指を押し当てて堪えた。これから先に二人がどうなるのか、カガリの本能はそれを知っている。
 知っているのに、止められなかった。体を合わせると二人分の体温が上がっていく。アスランの片手は腰から下り、ニットワンピースの中に滑り込むと、ふとももを撫で上げた。
「カガリ……」
 けれども、そこでアスランの動きがぐっと止まった。アスランは上がった息を深呼吸で整えて言った。
「カガリ、どうして抵抗しないんだ」
 どうして抵抗してくれないんだ、と懇願するようだった。
 くしゃくしゃにしていた眉を解いて、カガリはアスランを見た。自分もひどい顔をしているだろうと思っていたのだが、アスランはいまにも擦り切れそうな表情をしていた。
「……君はどうして肝心なときに何も言わないんだ。嫌だったら嫌だって言ってくれ、頼むから」
 アスランは奥歯を噛んで、カガリの肩に額を押し付ける。
「勘違いしてしまうじゃないか。少しは想われているんじゃないかって」
 そして消沈したように、カガリから手を引いた。
「……そうじゃないってわかっているのに」
 アスランは胸の底から吐くようなため息をついた。緩慢な動きで、彼は体を起こすと重い体を背もたれに沈めた。
 カガリもそれに続いてのろのろと起き上がった。ソファーの上に正座をして、ワンピースのすそを引っ張って直す。まだ、夢から醒めない感じだった。
「……ごめん」
 眉を寄せて、アスランはひどく後悔している様子でつぶやいた。
「一方的にすべきことじゃないのに」
 カガリは何も言えなかった。アスランの言葉も、自分の気持ちも、未消化のままで胸の中に満ちている。飲み込めないでいた。
 かなり長い沈黙のあとに、アスランは言った。
「カガリ、今日はもう帰ろう」
「え……」
「え、じゃないだろう。このままここにいる気か?」
「それは……」
 帰りたいと思っていなかった自分にカガリは驚いた。この上で、まだアスランのマンションにいたいと思ったのだ。それを言ってしまってもいいのか。返事がのどでひっかかり、カガリが逡巡していると、アスランは立ち上がりカガリのコートを取ってきた。
「荷物は鞄だけだったよな」
 コートを着せかけてもらいながらカガリはうなずいた。その髪が乱れていたのだろう、手を伸ばしかけてアスランは途中で止めた。
「少し待っててくれ、駅まで送るよ」
 荷物をまとめ、二人とも身支度をしてから駅へ向かった。
 まだ火照っていた頬を外の風が冷ましていく。夢中の好意から現実に引き戻すような冷たさだった。駅までの数分の道のりだったが、別れ際の挨拶以外は言葉を交わさないまま二人は別れた。
 休日の電車はそこそこに混んでいた。窓際に立ったカガリはアスランのマンションの方角を見ながら、まだ買った品物をひとつも開けないままだったことに気がついた。
(まだ、いたいって言えばよかったのかな……)
 言ったらアスランはどう答えたのか。
 嫌なら嫌だと言えと、アスランは言っていたが。自分は嫌だと思っていたのだろうか。キスから後はただ思考が真っ白になっていて、嫌だとか、なんだとか、そんなことは何も考えられなかった。
 ただ、はっきりしているのは、アスランの部屋を出たくないと思ってしまったことだった。
(私……は)
 歩きながら、カガリはアスランの声、ため息、表情や、頬にかかった髪の感触、熱を思い出していた。カガリの心の深いところにあって、正体のわからなかった何かが、その熱でじわりと溶かされはじめていた。