これは恋ではなくて

07



 
 
 

 なんだか、とんでもないことをしたのではないかと、カガリは思った。
 アスランのマンションを後にして、家に帰ってからはちっとも思わなかったのに、月曜日になって、人でぎゅうぎゅう詰めになった電車から降りて、会社に向かう道を歩いていて、ふと急に、どうしようと思ったのだ。
 すると、マンションでの一連のことが、一斉によみがえってきて、どくどくと胸が鳴りだした。会社の中で話をすることはほとんどないのだが、アスランの顔をどう見ればいいのか、カガリは戸惑った。いつもは、出勤するとアスランのほうが先に机についている。その姿を見つけたときのことを思うと、手に汗がにじんでくるような気持ちだった。
「おはようございます」
 ドアの前で深呼吸をして、ノブを回すと、中にいたのはアスラン一人だった。挨拶を聞いて、ドアのほうに顔を向けた彼と、当然目があった。
「おはようございます」
 顔が強張ったカガリに、アスランは軽く笑って挨拶を返した。いつもと同じだ。
(まだ、誰もきていない……)
 部屋を見渡してもアスラン以外には出勤してきていなかった。新人の二人の朝は少し早い。
 アスランの斜め向かい、自分の席について、カガリはパソコンを開いた。液晶の画面の向こうをちらりと見ると、彼は手元の資料を見ていた。青みがかった黒髪がまつげのあたりにかかっている。
 動き始めたパソコンが小さくうなる音を上げて、静寂をほんの少し乱した。
「アスハさん」
「はい」
 カガリはとっさに返事をした。呼んだのはもちろんアスランで、もう一度向かいを見ると彼と間近で目があった。
「今日、仕事が終わってから何か予定入れてますか」
「……いえ、何も」
 まっすぐな彼の目を少し怖いと思ったが、引きつけられたようにそらせなかった。
「それなら、上がったら下のコンビニで待っててもいいですか。今日は定時で上がるので」
 二度、まばたきしてカガリは、「わかった」と答えた。机二つ分の距離が近いようで遠く感じて、カガリは敬語をやめて話しかけようとしたが。廊下のほうから騒がしさが近づいてきて、間をおかずに先輩達が部屋に入ってきたので、会話はそれっきり途切れてしまった。
 仕事をしているあいだ、何度もつい、斜め向かいの席に目がいってしまったが、それからは彼がこちらを見ることはなかった。


 片付かなかった仕事を持ち帰ることにしてしまえば、終業と同時に退社することは簡単だった。終業時間の六時になり、時をおかずにアスランが席を立ったので、カガリも続いて会社を出た。空調のきいたビルから一歩外に出ると、冬の初めの空気が肌に染みた。
 そろそろ手袋が欲しいななどと思いながら少し歩くと、すぐにアスランは見つかった。
(あ……)
 ほんのりと疲れていた体からほっと力が抜ける。彼のほうもカガリを見つけると近づいてきた。
「早かったな」
「まあ、すぐに出たから……」
 カガリの右隣に来て、彼は歩調をあわせた。
「少しだけ、来ないんじゃないかと思ったよ……」
「私は行くといったら行くぞ」
「そうか、そうだよな」
 何がおかしかったのか、彼は笑っていた。
「約束は律義に守るもんな」
「当たり前だ」
「カガリはえらいな……約束したのに、俺のほうが破ってしまったな」
 カガリが顔を上げると、立ち並ぶビルを見上げるアスランの横顔があった。その顔に、なぜか強い不安を覚えて、カガリはアスランのコートを掴んでしまった。
「あの、私……」
 アスランは驚いてカガリを見る。
「私、このあいだのことなら気にしてないぞ。アスランと買い物するの楽しかったし」
 彼が離れていくような気がして、カガリは思い付くかぎりのことを言った。
「私、またアスランの家に行ってもいいよな。せっかくいろいろ買ったんだから使わない手はないだろ。おまえが料理できるようになるように、教えながら作ろうと思ってたんだ。きっと楽しいだろうから」
「うん……楽しそうだな」
 アスランがやっと微笑んだのでカガリは安心したが、彼の手がするりとカガリの手を取ったので、ついどきりとさせられた。
「それはきっと楽しいだろうけど、俺が欲しいのはそれだけじゃないから」
 アスランの手はカガリと同じように冷えていたが、力を込めて握られると、じんわりと体温が伝わってきた。
「でもカガリは欲しがられても困るだろう?」
 首をどちらにも振れなくて、カガリは目の前の地面を見つめた。
「人に言わせると俺は鈍感らしいから、口にしてくれないと相手の気持ちがわからないんだよ。とくにカガリは誰にでも優しいから、親切なのか、好意なのか、さっぱりわからない」
 車の音にかき消されずに彼の声はよく通る。
「付き合ってみて、少しは気持ちが変わったかな?」
 声が囁きに変わる。
「少しは、俺のこと好きになってくれた?」
 答えてくれたら手を離すからと、アスランは手を繋ぎ直して、指の間をぎゅっと握った。
(手が……熱くなってくる)
 アスランのことを嫌いだなんて思わない。嫌いどころか好きだと、カガリは迷わず言えた。けれどもその好きがアスランの求めるものなのか。
 息のつまるような速い鼓動や、声にならなくなる声、今、熱くなっている手のひらも。体ごと変えてしまうような、感情が彼に向かっていることは、カガリも意識の底で気付いていた。少しずつ満ちてきたその感情は、目には見えないけれども、例えるなら、あたたかな液体のようだ。それは、今はまだ薄くやわらかな殻に包まれていて、今にも、はちきれそうなくらいにまで満ちているけれど。
 でも、きっとそう長くはもたない。
 それが弾けるときが怖かった。自分自身を怖いと思った。彼を信じて溺れてしまっていいのか。カガリはまだ思いきれないでいる。
「私は、アスランのこと、好きだぞ」
 白い息と一緒に、一言一言吐き出した。
「前よりずっと好きだと思うし」
「俺はそういう好きを言ってるんじゃないんだよ」
 鈍感だと主張したくせに、アスランは鋭かった。
「わかっててはぐらかしているだろう」
「だって、わからないんだ」
 カガリは声を大きくした。
「私は自分の気持ちがわからない……」
 手のひらに汗がにじんできて、彼の手を離したいのに離せなかった。
「一緒にいたり、話して楽しかったり、この前みたいに買い物したり、私はアスランとそんなふうにするのは好きだ。好きだと思う。でも、それじゃだめなのか?」
「だめなんかじゃないよ」
 アスランは穏やかに答えた。
「カガリと一緒にいて話を聞いているだけで、俺も楽しいよ」
 ただ、とアスランは前触れなく手をほどいた。
「ただ……俺が欲張りなだけだ」
 ぬくもりをなくした手が驚くほど寒くなった。アスランは独り言のように続けた。
「同じ気持ちを返してもらえないのって、もどかしくてしょうがないものなんだって、初めて知ったよ。少し反省したな」
「……なにを」
「カガリ、こうして一緒に帰るのは今日でやめにしないか?」
 唐突に切り出されて、カガリはまばたきだけ返した。
「三ヶ月間、付き合おうと言った約束を反古にしようって言っているんだよ」
 カガリが険しい顔になったからだろう、アスランは首をかしげて笑った。
「もう君を追いつめたりしないよ。嬉しくないのか?」
 嬉しい気持ちなど少しも湧かない。嬉しくなどないと、カガリは急いで話をしようとしたが、その時に視界に見慣れた姿が映って、言いかけた声を止めた。
(あれ……もしかして)
「……キラ?」
 カガリが名前を呼ぶより先に、弟の名前を口にしたのはアスランだった。駅の方角からカガリの弟がこちらへ歩いてきていたのだ。
「なにこれ? どういうことなの?」
 いつから二人に気付いていたのか、キラはつかつかと詰め寄ってきた。
「なんでカガリと君が一緒にいるわけ?」
 めずらしい色の瞳がじろりとカガリではなくアスランを見上げた。
「しかもさっきまで手繋いでたでしょ。なにしてんの、君。どういうことか説明してくれる? アスラン」
 キラが現れたところまではよかったのだが、なぜ彼がカガリを放ってアスランを追及するのか。カガリは混乱した。
「ちょっと待てよ、キラ。おまえ、どうしてアスランを知ってるんだ」
「それはこっちが聞きたいよ。二人とも、いつ知り合いになったの。いや、知り合いなんてレベルじゃないよね」
 探るような目をするキラに、カガリは胸を張った。
「私とアスランは会社の同僚だぞ。知り合っていて当たり前だ」
「同僚?」
 キラはすばやくまつげをしばたいた。それから、すうっと瞳を細めると腕を組む。
「へえ、僕はそんなこと一言も聞かなかったけどなあ、アスラン」
「聞かれなかったから言わなかっただけだ」
「じゃあ、僕が君のどこの会社に入ったのか、聞いてたら答えてたの?」
「当然だ」
「嘘だね」
「嘘をつく理由がどこにあるんだ」
「ここにあるじゃない」
 二人の言い合いはなかなかおさまりそうになかった。アスランのことを隅々まで知っているわけではないのだが、彼がこんなふうに肩の力を抜いて話す相手をカガリは初めて見た。
「な、ちょっと待てよ、説明しろって、二人は」
「高校からの同級生だよ」
 アスランが口を開く前にすかさず答えて、一呼吸おくとキラは口調をやわらげた。
「カガリ、悪いんだけど、先に帰っててくれるかな」
「そう言われて私が素直に帰ると思うのか?」
「帰ってもらうよ」
 笑顔で、キラは強制的にうながした。
「ここのところ帰りが遅かったから、どうしたんだろうと思って今日は迎えに来てみたのに、まさか、こんなことになってるなんてね」
「私は帰らないぞ。アスランとの話がまだ終わってないんだ」
 食い下がるカガリに制止をかけたのはキラではなかった。
「もう終わってるよ」
 突き放すでもなく、アスランはやんわりと告げた。
「話はもうすんでいるだろう? 少なくとも俺はもう言うことはないよ」
「おまえになくても、私にはあるんだ」
「そうか、だったら今聞くよ」
 どうぞ、というようにアスランは微笑んだが、カガリにだって恥じらいはある。こんな場所で、さあ話せと言われてできるわけがなかった。
 キラがいるというのに。
「わかったよ、先に帰ればいいんだろう」
 憤慨して、カガリはため息をついた。
「アスラン、おまえ、明日覚悟してろよ」
 横目でアスランをにらんでおいてから、カガリは二人と別れた。アスランとキラはカガリの背中を見送っていたようだった。アスファルトの歩道をしっかり踏み締めながら、駅を目指す。
 カガリの胸には憤りと不安がないまぜになって渦巻いていた。アスランがいきなり約束を破棄しようとしたことに、ひどく腹がたっていたのだ。
(嬉しくないのか、だって?)
 では、アスランは嬉しいとでもいうのだろうか。要するに、別れようということなのに。
(こうして別れてきたってことなのか……いままでも)
 あんまりにも唐突すぎて、彼の気持ちがわからない。せめて、理由を聞かなければ。
(どれが本当で、なにを信じればいいんだろう……全部が嘘だったとは思えない)
 圧倒されるくらいの、彼の情熱を感じたことはたしかにあった。好きだという言葉も。彼からのキスも。けれども、もしもそれらが口説き文句のひとつだったのだとしたら。
(なんだったんだろう……いままでのは)
 すべて白紙に戻すのだとしたら、カガリの想いは、溢れそうなところをせき止められたまま、持て余すことになるのだろうか。


 キラが帰ってきたのは、カガリが夕食も入浴も終えて、自室で仕事に取り組んでいた頃だった。キラを出迎える母親の声が聞こえて、カガリは耳を澄ませた。どうやら夕食は外ですませてきたらしい。
 きりのいいところまで書類を作って、キラのところに行こうと、カガリは再びキーボードを打ち始めたが。間をおかずに、キラのほうからカガリの部屋を訪ねてきた。
「カガリは仕事熱心だよねえ」
 机についていたカガリを見て、キラは感心した。
「……私はおまえほど要領よくないからな」
「そうかな? カガリはとても優秀だよ。僕との違いがあるとしたら熱意かな」
「キラは冷めてるもんな、いろいろ」
 高校生くらいの頃からキラにはどこか達観したようなところがあった。クラスに必ず一人はいる、周囲の盛り上がりにつられない、それに加わらないような子供だった。
「落ち着いてるって言ってほしいな。べつに冷めてるわけじゃないよ」
「そうか?」
「そうだよ。いろんな物事に対して落ち着いてるだけだよ。なにか一つのことにのめり込んだりしないし……僕はアスランもそうだと思ってたんだけどな」
 その人の名前に反応してしまうことが少し悔しい気がした。
「アスラン、優しそうに見えて結構冷たいからなあ」
「冷たい……のか?」
 いまいちピンとこなかった。熱血漢とはとても思わないが、冷たい人間だとも思えない。
「冷たいよ。僕よりずっと。そして、それに悪意がないからたちが悪い」
「……たとえば?」
「ううん」
 キラは少し考えてから話を継いだ。
「たとえば親しくしている人がいるとするでしょ」
「彼女とかか?」
「まあ、そういう場合もあるけど。そういう人が困っているときだったり、助けを求められたときに、アスランは絶対見捨てたりしないんだよ」
「それって、冷たくないんじゃないのか? 面倒だったら適当にあしらうキラのほうがよっぽど冷たいぞ」
「ひどい言いようだなあ」
 キラは声を上げて笑った。
「でもね、アスランが放っておかないのは、そういうときに力を貸すのが人として正しいんだって思ってるからなんだよ。そう学んだからだ。相手を大切に思って、なんとかしてやりたいなんて、思ったからじゃないんだよ。そんなの同情より嫌だと僕は思うけどね」
 カガリはなんとも返せなかった。まったくの義務感から手を差し延べられたら、一体どんな気持ちがするものなのか。
「特別、好意を持ってない相手には下手にぬるい優しさなんかあげたりしない僕のほうがよっぽど優しいと思わない?」
「それは……」
(どうなんだろう)
 アスランの言動を思い返して、カガリは考え込んだ。
 自分に接するときのアスランは優しかったと思う。時々、からかうようなことを言われて、むっとさせられたりもしたが。本気で腹がたったわけではない。いつも、時間が遅くならないうちにカガリを帰し、どちらかといえば自分の仕事よりカガリの仕事を優先してくれる。些細な話でも、カガリの話すことを適当に聞き流したりはしなかった。
 それは、彼の優しさだったのではないだろうか。
「私は、アスランが冷たいとは思わないぞ」
 カガリはひざの上で手を組んだ。
「義理を通すことが、人として正しいってわかっていても、それでも自分のことを優先してしまう人はたくさんいるだろう。不条理を見て見ぬふりをする人は少なくない。私もそうじゃないとは言い切れないし」
 キラはなにか言いたげだったが、カガリは続けた。
「それでも人に手を差し延べられるのは優しいからだと思うな。キラが優しくないとも、アスランが冷たいとも、私は思わないよ」
 つい先刻まで、アスランに憤りを感じていたというのに、弁護してしまうのを言いながらおかしく思った。キラは、カガリの意見を吟味するように何度もうなずくと、言った。
「カガリはアスランが好きなんだね」
「え……うん、まあ、好きだけど」
 キラの言い方がどこかひっかかって、カガリは口ごもった。アスランのことは、深く考えずとも、好きだとカガリは正直に思うのだが。
「何、にやにやしてんだよ」
「ううん、ちょっとね。アスランの完全な一方通行かと思ってたから」
 キラは大きく伸びをすると、カガリのベッドに寝転んだ。
「あーあ、なんか嫌だな。カガリが誰かを好きになっちゃうなんて」
「やきもち妬いてるのか? そういや、私の友達にも似たようなこと言ってたことあったな」
「相手がアスランだってのが嫌だ」
「おまえ達、仲良いんじゃなかったのかよ」
「アスランだってのが嫌だけど、アスランでよかったとも思うよ」
「なんだよ、それ」
「可愛い妹を持つお兄ちゃんはいろいろ複雑なんだよ」
「何言ってるんだ。私が姉だろう」
「恋愛ごとに関しては、僕が間違いなくうわてだと思うよ」
 反動をつけて、キラはベッドから起き上がった。
「カガリの言うとおり、アスランとは仲良しなんだよ。だから、まだ釈然としないけど、僕は親友を応援してあげることに決めたから」
 彼はジーンズのポケットから、黒い手帳のようなものを取り出し、カガリに手渡した。
「定期入れか?」
「そう、アスランの」
 装飾のないシンプルな革の定期入れは、アスランの部屋を思い出させた。
「明日、届けてあげてほしいんだよ」
「忘れて帰ったのか? あいつ」
 こういうミスをするのかと思うとおかしかったが、彼らしいようにも思う。
「カガリ、ひとつ教えておいてあげるけど」
 定期の文面を眺めていたカガリに、キラはゆっくりと告げた。
「アスランが就活のときに受かった会社に、いくつか今の会社より大きな企業があったんだよ。僕はてっきりそっちに行ったものだと思ってたんだけど」
 どうして、今の会社を選んだと思う? と、キラは問い掛けを残してカガリの部屋を出た。
(どうして、なんて、したい仕事があったとかそういうことじゃなくて?)
 考えて、わかるはずもなく、アスランにたずねてみようかと思って、カガリは黒い定期入れを鞄にしまおうとしたが。
(あ、そういえば……)
 会社のIDも、定期入れに入っているのではないかとひらめいて、カガリはもう一度それを取り出した。だとすれば、明日、アスランは会社に入るのに苦労するはずだ。
(なんだってこんな大事なもの忘れるかな)
 二つ折りの定期入れを開いて、ポケットをひとつずつ探ってみた。
「あれ……」
 しかし、IDよりも先に見つかったのは一枚の写真だった。それを引き出して、カガリの瞳は見開かれて動かなくなってしまった。
 それには、今よりいくぶん幼い、高校の制服を着たカガリが写っていた。