これは恋ではなくて
08
※ ※ ※
どういう尋問をされるのかと想像すると、アスランは憂鬱だった。
キラがカガリをどれほど大切にしているかは、よくよく知っていたからだ。カガリが恋愛に対して中学生ほどの知識しか持っていないのも、そのため警戒心が薄いのも、キラに寄るところが大きい。
彼の預かり知らぬところでカガリと出会ったのでなければ、キラは初めからアスランを寄せ付けなかったに違いないのだ。
(参ったな……)
カガリをさっさと帰らせて、二人だけになると、キラはアスランに食事に付き合うよう要求した。駅の近くの居酒屋を適当に選んで、アスランの要望も聞かずビールを二つ注文すると、親友は盛大にため息をついた。
「カガリといつから付き合ってるの」
足を組み、椅子の背にもたれて、まるきり尋問の体勢だ。
「二週間……いや、三週間になるかな」
「僕の姉だって知らないわけないよね」
「知っていたよ。それより、キラ、その態度はやめろ。おまえがすると冗談にならない」
「冗談じゃないからね。わりと本気で頭にきてるんだけど」
無表情で、アスランを見つめる。
「まず、カガリと同じ会社に入ってたのを黙ってたのが許せない。さらに、黙ってそういうことになってたのが許せない。僕がカガリの虫よけをしてたの知ってたでしょ」
「だから黙ってたんじゃないか」
はっきり告白すると、キラは弾かれたように、前のめりになった。
「ちょっと待ってよ。じゃあ、君はカガリが目的であの会社に入ったの?」
「それ、人が聞いたら誤解しそうだから、他で言うなよ」
「カガリと同じ会社に入って、僕にいやがらせでもしたかったわけ?」
「どうして、そうひねくれた思考になるんだよ。接点が欲しかったからに決まってるだろう」
アスランが少しばかり声を大きくすると、キラは子供のように目をしばたいて、ゆっくりと身をひいた。
「アスラン、カガリのこと好きだったんだ」
「最初に気付いてくれよ」
アスランはうなって髪をかき上げた。
「だって、君が誰かを好きになるなんて思いもしないもん」
「たしかに、自分でもよくわからないよ」
「僕、てっきりカガリが君のことを好きになっちゃって、君はまた断りきれなくて仕方なく付き合ってるのかと思ってた。だったら殴るくらいじゃすまなかったけど」
「どうひっくり返ったって、そんなふうにはならないよ」
目線を落として、運ばれてきていたビールに、アスランは口をつけた。飴色に光る酒は、一口だけでも苦かった。アスランの話にキラは、がぜん興味が湧いたようだった。出されたビールにも手を付けず、彼は白木のテーブルに両手を置いて体を乗りだした。
「ねえ、もしかしなくても、君の片想いなの?」
「はっきり言葉にするなよな」
口に含むほど飲んで、アスランはガラスのジョッキをテーブルに戻した。まったくもって飲みたい気分ではなかった。
「そうでなくても、嫌というほど思い知らされているよ」
「じゃあ、カガリにはまったく手を出してないんだ。ちょっと、ほっとしたな」
キラは嬉しそうにして、ようやく飲み物を手にした。詳細をあえて話す必要はないだろうと考え、アスランは黙っていることにした。
「でもさ、僕から言わせてもらうと、好きでもない相手とカガリは付き合ったりしないと思うけど。君が気付いてないだけで、両想いになってるんじゃないの」
「最初にはっきり嫌いだと言われてるよ」
「でも言葉がすべてじゃないでしょ」
キラは真剣な目でアスランの顔を見た。
「人の気持ちが言葉なんかで、ぜんぶ測れるとは思わないな」
「でも、口にしないと伝わらないこともあるだろう」
「じゃあ、聞いてみたらいいじゃない」
突き詰められて、アスランは口をつぐんだ。言葉でたずねてみて、返ってきた答えが、やはりアスランの欲しかった答えではなかったのだ。
「なんだ、聞いてみたんだ……」
付き合いが長い分、キラには黙っていても悟られてしまうことがほとんどだ。
「君のことだから、また、ストレートな聞き方したんでしょ」
アスランは答えなかった。
「彼女はたくさんいたくせに、アスランの恋愛経験値はゼロだからなあ。誘導尋問なんてできる性分じゃないし」
「悪かったな」
不機嫌につぶやくと、キラは笑った。
「でもおあいこだと思うよ。カガリも似たようなものだから」
一息おいて、残りのビールを飲み干すと、キラは店員を呼び、いくつか料理を注文した。
アスランの前には、いつまでも減らないジョッキがあったが、キラが次に話題を振る前に、とりあえず空にしておいた。アルコールに強いキラがこの程度で酔うはずはないのだが、彼の機嫌はいつになく良かった。
「すごく気になるんだけどさ」
通しの煮物をつまみながら、キラは言った。
「いつからカガリのこと好きだったの」
それは聞かれるだろうと予想はしていたが。
(いつから……)
アスランはキラの問いを繰り返した。思ったこともなかった。そもそも、好きだという気持ちの正体がよくわからないのに。
「僕がカガリの話を初めてしたのは高校のときだよね。頻繁に自慢してた気がするからさ」
「でも、おまえ、自慢するだけで会わせる気は毛頭なかっただろう」
「当たり前のこと言わないでよ」
きっぱりと断言する。
「だったら、あれかなあ、写真を見せたのがきっかけなのかな」
言いながら、キラはなにか思いついた顔をした。
「ねえ、そういえば僕が君にあげた写真はまだ持っているの?」
高校の頃、いつだったかは忘れたが、キラが大量の写真を学校に持ってきたことがある。
何のためかというと、アスランに見せるためだった。キラの姉が通う女子高で学園祭があったらしく、その時に演劇で主役を張った姉の話がしたかったらしい。学校の風景なのかと思いきや、数十枚の写真には、なんとなくキラに顔の造りが似た金髪の少女しか写っておらず、キラは嬉しそうにそれの一枚一枚を説明した。写真の中とは思えないくらいに少女の表情はみずみずしく、キラの話を耳に流しながら、アスランは一枚ずつ手に取っていた。
テレビでもてはやされる女優も、人気の歌手にも、特別興味をひかれたことはなかったのだが。彼女の写真には、なぜだろうか、言い知れぬものを感じたのだ。いいものがたくさん撮れたから定期入れの写真を入れ換えるんだ、とキラはいそいそとその中の一枚を選んでいた。上機嫌な親友は、そうだ、君にも一枚あげるよと、アスランにも写真を一枚差し出した。戸惑うアスランをよそに、アスランの定期入れを引っ張り出して写真を挟む。お守りにするといいよ、なんて言いながら。
気持ちの生まれる瞬間があるのだとしたら。もしかしたら、それはその時だったのか。
それとも、入社式で、初めて写真ではないカガリを目にした時。
廊下で、初めて彼女の声を聞いた時。
初めてまともに会話して、食事をして、話をたくさん聞いて。路地で、初めて彼女の笑顔を見た時。
見えるはずのない感情に、かたちがあるのだとしたら。それは、きっと、鮮やかなものなのだろう。過言ではない。無色の、モノクロ映画の中で、彼女だけに色がついて見える。
とても、鮮やかに。
定期をなくしたことに気付いたのは、キラと別れて帰りの電車に乗ろうとしたときだった。
ファスナーのついている、鞄の内ポケットが定位置なので、落とすはずはないのだが、どこを探ってもなかった。IDは予備があるし定期券は再発行のできるものなので、たいした損失ではないのだが。定期入れの中には、買い直しのきかないものが入れてあったのだ。
(会計の時にこの内ポケットは開いていない、落としたとしたら会社の可能性が高い……)
誰かが拾ったとしたら、当然中身も見るだろう。
何年も、自分以外が触れたことのない写真に他人の手が触れるのは嬉しくなかった。定期券には名前も記載されているから、社内で拾われたなら返ってくる確率が高いが、写真を入れていることを知られるよりも、それに触れられることのほうが、アスランは嫌だと思った。
翌朝、出勤して、一応ロッカーを探してみたが、見当たらず、アスランはとりあえずあきらめて机についたが。アスランに続いて出勤して来たカガリが、彼女の机ではなくまっすぐ自分を目指してきて、驚いたのもつかの間、無言で見覚えのある定期入れを差し出されて、アスランは一瞬、その意味を理解できなかった。
「おまえのだろう?」
差し出されたものに手を伸ばさないアスランに、カガリはたずねた。
「昨日、キラが持って帰ったんだ」
「キラが……?」
名前もあるし、とカガリはケースを裏返す。
昨夜の居酒屋で落としたはずはないのだが。どうして、と考えて、アスランははっとした。キラは、アスランのかばんから定期を抜き取ったのだ。間違いない。アスランが一度だけ席を立ったときだ。何が目的なのかさっぱりだが、彼ならやりかねないことを、アスランは誰より理解しているという妙な確信もあった。
「必要なものだろう。いらないのか?」
「あ、いや……」
アスランは手になじんだ革の定期入れを受け取った。聞き違えれば刺があるようにも聞こえるカガリのぶっきらぼうな口調は、いつもと変わりなかったが、特別怒っているようにも聞こえない。
アスランにはやわらかくも聞こえた。
(この中を……)
カガリは見たのだろうか。もしも写真を目にしたのだとしたら、カガリはどう思ったのか。
表情から読み取れなかった。昨日、最後に見たのは、自分をうらめしそうににらむ彼女だったが。怒るどころか、カガリは笑った。
「私、今日は終わったらアスランの家に行こうかなって思ってるんだけどさ」
何か先約が入っているかと、カガリはたずねた。いつもと変わりないようにも思えるし、そうでもないようにも見える。
「それは……」
アスランはまつげを伏せた。
「それはできない、カガリ。昨日話しただろう」
「私は昨日おまえが言ったことを了承した覚えはないぞ」
しかし、とアスランが口を開こうとした瞬間、挨拶と一緒に部屋の扉が開けられて、アスランは声を止めた。カガリが返した挨拶に応じて、朝の早い上司が自分の机について伸びをするのを、二人とも視界に入れていたのだが、カガリはアスランから離れていかなかった。
「前にも言ったと思うけど、私は嘘をついたり、約束を破ったりするのが嫌いだ」
じっと、琥珀色の瞳がアスランを見据える。
「仕事が終わったら下で待ってるからな」
アスランは、こちらから関係を切れば、カガリは離れていくだろうと踏んでいたのだが。
こういう展開は予想していなかった。カガリの純粋な優しさや、親切心に、同じように応えられる余裕が、今のアスランにはなく、ともすれば想いをぶつけてしまう。逆巻く感情は行き場をなくして、どうすれば楽になるのか。アスランはその方法を知らなかった。彼女を傷つけてしまい、取り返しのつかないことになる前に、距離を置こうと考えたのだが。
(カガリの納得しない気持ちもわかるけれど……)
彼女を部屋には上げられなかった。カガリは待っていると言った言葉通りに早くに退勤していたが、アスランはじっとして席を立たなかった。一人、もう一人と仕事を終えて席を立っていく。時計に目をやるとカガリが出て行ってから三十分が経っていた。
逡巡して、またキーボードに向かう。
(待って、来なければ、怒って帰ってくれるだろう。そのほうがいい)
どれほど遅くまで残業をしていても、アスランは時間を気にしたことはなかったのだが。カガリを待たせて、一時間、二時間経ち。のしかかるように、じわりじわりと過ぎていく時間が、ひどく重たかった。胸を潰すような時間の重みを振り払うように、黙々とキーボードを打ち続けた。
外は寒いに違いない。そう長く待っているはずがないだろうと、アスランは三時間を過ぎたところで、会社を出た。
照明の落ちた一階の玄関には警備員の他には誰もいなかった。寒いのは覚悟していたが、ガラスの自動ドアを出た途端に、冷えた空気と水音が体を包んだ。外に出て初めてわかったのだが、雨になっていたのだ。鋭い雨粒がアスファルトの地面に叩きつけるように落ちている。
「……ひどい雨だな」
まさか、雨の中で待っているようなことは。いや、いくらなんでもそんなことはない。待っているはずがないだろうと。頭をよぎったカガリの姿を打ち消しながらも、アスランはロッカーの傘を取りには戻らず、冷たい雨の中に出た。
自然と足が急ぐ。
雨が、髪から体を冷たく伝っていった。しかし、いつも待ち合わせに使っているコンビニの前に、カガリはいなかった。店内の客は数人で、いつもカガリが立っている軒下は、ただ白い蛍光灯が照らしているだけだった。
(そうか……)
コンビニの前でしばらく立ち止まる。
(そうか、帰ったんだな……いや)
当然だ。
当然だと思ったら、重くなっていた体がほどけて、肩の力が抜けた。気付いたら息が切れるくらいに走っていた。
(そうとう憤慨して帰ったんだろうな……)
怒る彼女の様子が容易に想像できた。これでカガリは、アスランに寄せていたわずかな信頼もなくしたのだ。雨足が強くなってきて、コートが重たくなるほど濡れてきたので、アスランはコンビニで傘を買った。財布を取り出した際に、携帯が目に入り、はっとして着信を確かめてみたが、待受画面にはなんの表示もなかった。
カガリが帰ってくれていてよかったと思う。思うのに、その反面、心を抜かれたような喪失感があった。
なんて身勝手なのだろうか、自分は。では、彼女が待っていたとしたら、どうしたというのだろうか。
いつもの電車に乗り、いつもの駅で降りて、出来始めた水溜まりの間を縫いながらアスランはマンションまで来ていた。カガリの思いがけない行動に、驚かされたのは一度や二度ではないのに、今度もそうである可能性を考えもしなかった。強くなる一方の雨のせいで視界は悪かったが。しかし、はっきりと目に映ったものに、アスランは足を止められた。
マンションのエントランスにたたずむ人影があったのだ。それは屋根の下で雨を避けながら立ち尽くし、アスランを待つカガリだった。
アスランが帰ってきたことに気付くと、カガリはパンプスを鳴らしながら歩み寄ってきた。
「遅いっ」
音がしそうなほど鋭くアスランをにらむ。
「遅い、遅い、遅い!」
ずんずん距離が縮まり、ビニール傘の中に、カガリの華奢な肩もすっぽりとおさまった。
「なにやってたんだ。この雨の中どれだけ待ったと思ってるんだよ」
圧されて、アスランは何度かまばたいた。
「……すまない」
近くで見ると、カガリの髪はアスランと同じくらいに濡れていた。冬の雨に濡れながらもカガリはずっと待っていたのだ。強い後悔にアスランが顔をゆがめると、彼女はふっと微笑んだ。
「なんて、べつに怒ってるわけじゃないんだけど。私が勝手に待ってるって言い張っただけで、おまえはうなずいてなかったし」
「でも、俺は」
カガリが待っているんじゃないかと思いながらも、帰らなかったのだ。いかにもあくどいと思う。
「どうせ仕事してたんだろう。私が待っているだろうとは思いながら。なるほど、よっぽど家に上げたくないらしいな」
カガリは口角を上げてどこか挑戦的な笑みを作った。
「……すまない」
アスランは繰り返した。
水をかぶった体で、この気温の中待ち続けたカガリは冷え切っているに違いない。顔も青ざめて見える。
「だから、おまえが謝ることはないんだけど」
平謝りするアスランにカガリは攻める気をそがれたらしかったが。
「でも、悪いと思ってるんなら、お詫びでもしてもらおうかな」
いたずらを思いついたみたく、くすりと笑って、カガリは猫のようにするりとアスランの傘から出た。
「早く中に入らないと冗談抜きで風邪ひくぞ」
振り返ってアスランに呼び掛ける。
「カガリこそ、冗談にならないだろう。体、冷えてるんじゃないのか」
カガリを追い掛けて傘に入れた。
「アスランだって濡れてるじゃないか。傘、ささずに会社を出たのか?」
「そんなところだ」
ふうん、とあいづちを打ちながらカガリはじっと傘を見ていた。
マンションの中は暖かくエントランスに入るとひとここちつけた。アスランの部屋も外の気温を考えると冷え込みをあまり感じなかったが、冷えた二人の体温を温めるには当然足りない。
「エアコンじゃいまいち温まらなさそうだな」
アスランの渡したタオルでカガリは髪やコートを拭いていた。よく見ると、少し肩が震えている。ヒーターか何か、直接的に温めるものがあればいいのだが、あいにくアスランの家には何もなかった。アスランひとりならさっさと熱いシャワーを浴びているところだが。
(でも、それをいまのカガリには……)
カガリから言うならまだしも、アスランから風呂に促すのは気が引けた。下心が皆無なわけではないのだから。
「もう、上着よりパンツが結構濡れちゃってさ」
カガリの黒いスラックスのすそは重たく湿っていた。冷たそうだし、タオルで乾くものではないだろう。
「なんなら下だけでも着替えるか? 何か貸すから」
「そうだな、ありがとう」
カガリは肩をすくめて笑う。
「そのついでに……」
迷って、アスランは結局言った。
「シャワーでも浴びるんだったら、今から用意するけど」
「シャワーか?」
カガリはきょとんとしてアスランを見た。これには、さすがのカガリも身構えるだろうと思っていたのだが。
「ありがたいけど、でも、私が先にお湯使っちゃっていいのか? アスランも冷えてるだろう」
カガリは心配そうに眉を寄せた。ことごとくアスランの予想を裏切ってくれるのだ。
「いや、俺は平気だから」
片手を上げて示す。
「カガリが温まっている間に何か食べるものを用意しておくよ。待たせたお詫びに」
すると、カガリはますます眉をしかめた。
「食べるものって言っても、ここ、ろくなものないじゃないか」
「一品作れるくらいの食材は買ってあるんだよ。せっかく買った道具を遊ばせておくのもつまらないから」
「アスラン、料理できるのか?」
「まったく出来ないわけじゃない」
「なんだか心配だなあ、その答え。アスランが先にシャワー浴びて、私が作ってたほうがいいと思うぞ」
「いや、カガリが先に入ってくれ。風邪なんかひかせたらキラに何をされるか、わかったものじゃない」
強気でうながすと、カガリは渋りながらもうなずいた。
「だったら、服、上下とも何か借りてもいいかな? こっちも湿っぽくて」
カガリは白いニットをくいくいと引っ張った。わかったよ、と言いかけて、アスランはため息をついた。目がいってはじめて気付いたのだが、水を含んだ薄手のニットに淡く下着が透けていた。
「頼むからもう少し気を使ってくれないかな」
カガリに聞こえないようにぼやいて、アスランはとりあえず寝間着を一揃いカガリに渡した。ひとり住まいの間取りにはゆとりがないため、浴室とキッチンは隣り合わせだった。シャワーの音とぼやけた影を映す浴室の扉を背にして、アスランは料理を始めた。
シチューくらいなら簡単に作れるだろうと、買っておいた材料がある。学生の頃にはそれなりに自炊もしていたので、料理の経験がないわけではないのだ。皮剥きをする包丁の手つきが少々怪しかったが、カガリが浴室の扉をノックする頃には下ごしらえまで終わっていた。
「アスラン、ごめん。そういえばバスタオルもらってなかった」
ドアをほんの少しだけ開けて、アスランを呼んだ。小指ほどの扉の隙間から、甘い石鹸の香りが湯気とともに流れてきた。
「すまない。忘れていた。ここに置いておくから」
アスランは、マットの上におろしたてのバスタオルを置いたが、の向こうを意識せずにいるのは難しかった。
もともとカガリに警戒心がないのか、それとも全面的に信頼されてしまっているのか。どちらにしても困るのだが。例えば、いますぐ黙って浴室の扉を開けて入り込み、驚くカガリを押さえつけて、どうにかしてしまおうと思えば、それはたやすいことなのに。こんなに狭い空間に二人きりなのだから。
「なんだ、ちゃんと出来るんじゃないか」
呼び掛けられてパソコンから顔を上げると、カガリはアスランの切った人参を拾い上げていた。カガリが身支度を終えるまでリビングで待っていたので調理が途中になっていた。
「お湯、ありがとな。温まったよ」
アスランの視線に気付くとカガリは笑った。雫の落ちる金髪をタオルでかき上げながら、包丁を手に取る。
「後は私がやっておくからアスランも温まってこいよ」
とん、と音を立てて人参が刻まれていく。
「いや、俺はいいよ。続きも俺がやるから、カガリはこっちで待っていてくれないか」
「何がいいんだよ。私より水浸しのくせに」
「カガリを待っている間にだいぶ乾いたよ。部屋も温まってきたし」
カガリの隣に立つと、アスランは彼女の手から包丁を抜き取って元に戻した。
「それに、これだけじゃ料理ができる証明にならないじゃないか」
「上手くはないのはわかったぞ」
いきなりカガリは背伸びをすると、えいとばかりにアスランの頬を両手で包んだ。
「やっぱり冷たいじゃないか。なに意地張ってるんだよ」
湯上がりの心地よく柔らかなぬくもりがアスランを包み込んだ。同時に甘い香りがふわりとカガリから立ちのぼる。
思わず、そのぬくもりを抱きすくめてしまいそうになって、アスランは息を止めた。
「早く温まってこいよ。私がこのいびつな野菜を上手く仕上げておいてやるから」
カガリの手が再び包丁を取った。アスランは諦めて従うことにしたが、この押し問答も楽しんでいる自分に気づいてひっそりと口元をゆがめた。それから、アスランがシャワーをすませて浴室を出ると、この部屋には滅多に漂わない食べ物の匂いがしていた。できたてのシチューの匂いのおかげでアスランは空腹だったことを思い出した。
「記念すべき第一作目の料理だな」
テーブルに向かい合って二人で作った夕食を食べる。市販のルゥを使っただけなのに、やたらとおいしく感じた。
「あ、失敗した。写真撮っておけばよかった」
口数の少ないアスランに対して、カガリはあれこれとしゃべりながらシチューを口に運んでいた。カガリがおしゃべりなときは機嫌のよいときだ。
しかし、何がカガリのご機嫌をとったのか、考えても思い当たらなかった。使った食器を片付けて、先日買ったポットではじめて入れたお茶で、カガリは満足そうにくつろいでいた。自分の家だというのに、アスランのほうが居心地が悪かった。カガリの体には大きすぎるアスランの寝間着から鎖骨がのぞいてしまっている。それだけのことに気を取られる自分が大人げなくておかしかったが、カガリにだけは敵わないのだ。
彼女との団欒を惜しみながらも、アスランは本題を切り出した。
「カガリは夕食が食べたくて待ってたのか」
「なんだよ、それ。皮肉か?」
目を丸くして笑うカガリに、アスランは言葉を変えて言い直した。
「それが違うなら、君は一体何のために俺の家に来たんだ?」
「なんのため……?」
手にしていたカップをカガリはテーブルに置いた。
「なにか用がないと、来ちゃだめなのか」
「だって、おかしいだろう?」
「おかしくないだろ。アスランは友達にも何か用事がないと会わないのか」
カガリは強気だ。
「それって違うだろ。ただ会いたいと思うときに会うんじゃないのか」
しかし、アスランも鋭く切り返した。
「俺はカガリのことを友達だと思ったことは一度だってないぞ」
「私だってない」
アスランの思ってもみなかったことを、きっぱりと言い切った。
「たぶん、はじめから、アスランのことを友達になんて私は思っていなかったぞ……いや、思えなかった」
まつげを伏せるカガリに、アスランは慎重にたずねた。
「だったら……なんだと思っていたんだ? 俺のこと」
返ってくる答えが良いものなのか悪いものなのか、わからない。しばらく間をおいて、カガリはくるりと金色の瞳をアスランに向けた。
「教えてやんない。悔しいから」
「悔しいって、何が?」
「さあな、自分で考えろ。だって、私は怒ってるんだからな」
カガリは頬をふくらませていた。
「おまえが一方的に約束を破るから。私がなんにも言わないからって許したと思ってるのか」
ソファに手をついて、アスランの目を覗き込む。
「昨日覚悟してろって言っただろ。私は怒ると怖いんだぞ」
「どうも、怖そうに見えないんだが」
カガリはにらんでいるつもりなのかも知れないが。
「どう怖いんだ? ひょっとして仕返しでも待っているのか?」
「そのまさかだ」
つい、たいしたことでもないだろうと思ったアスランだったが、カガリの次の言葉で呆気にとられてしまった。
「とりあえず、私は今日帰らないからな」
カガリは嘘を言わないのでこれは冗談ではなかった。知らず声が大きくなっていた。
「それ、どういう意味かわかって言ってるのか」
「意味ってそのまんまじゃないか。明日の朝はここから会社に行くからな。キラが言うにはこれが一番効果的なアスランのいじめ方らしいんだ」
カガリは楽しそうに笑う。
「アスランと最初にした約束のこと話したら笑ってたぞ、あいつ」
一番始めに、カガリとした二つの約束。カガリの深部に触れない戒めのかわりに、アスランはカガリの唇に触れる権利を得たのだが。
「……怒ると怖いの意味がわかったよ」
「もう遅いぞ。おまえが、私が家にいるのが嫌だっていうなら意地でも居続けてやるからな」
「嫌なんかじゃないよ」
ため息をつきながらどうしたものかと考える。
「俺はできることならカガリにここにいて欲しい。帰したくないのは俺のほうだよ」
「……それじゃ、仕返しにならないじゃないか」
「いや、十分過ぎるくらいだ」
アスランはソファの背に持たれて天井を見上げた。
「ぜんぜんわかんないぞ、仕返しの意味が。キラの話が嘘だったのかな」
人差し指を頬にあてて首をかしげる。そういう仕草のいちいちを愛しく思う。ふと、その頬に手を伸ばしてしまった。恋人ごっこを終わりにしようと自分から言ったくせに、先週からの続きにいるような錯覚を見たのだ。
「……アスラン?」
まばたく瞳をじっと見つめ返した。カガリのそばにいるだけで満たされる気持ちがある一方で、底なしに貪欲になっていく。どうしようもないほど、彼女が好きなのだと思う。
時々考えものだと思うくらいの無邪気さも、陽の光のような澄んだ明るさも、憧れてやまない。だからこそ、傷つけてしまうことが恐ろしかった。彼女のそばにいすぎると、感情が上手く抑えられなくなるような自分を嫌悪もした。だから距離を置こうと殊勝なことを考えたはずなのに、カガリを誰かに渡すのは想像しただけでも気が触れそうになる。身勝手な矛盾だ。
(俺は押し付けてばかりだ……)
それなのに、カガリの気持ちがひょっとしたら自分に向かないだろうかと、馬鹿のひとつ覚えのように、何度も、何度も、期待してしまうのだ。雨の下のコンビニで、カガリがどこかにいはしないかと、何度もあたりを見渡したように。
「……ごめん、なんでもないよ」
そのまま、愛しいものを貪りたい衝動を覚える一方で、それをしてはカガリとの関係が途方もなく遠くなることを冷静に理解している自分がいて、アスランはカガリが言動を起こす前に手を放した。
不可解に思ったのだろう、カガリは唇をむっと結んでいたが、やはり開いた口から出た言葉は文句の口調だった。
「おまえは、そういうところがよくないんだよ」
どういう意味かとアスランが問う前に、カガリは言葉を継いだ。
「言わないことが多すぎる。その場で思ったことだけ言って、説明しないからいけないんだ。もっと言い訳がましくすればいいのに。かっこつけてるのかよ」
そういうわけではない、と反論しようとしたが、カガリは勢いよく顔を上げてそれを止めた。
「じゃあ、なんなんだよ、あの写真は」
「写真……?」
一瞬ののち、ひらめいた。カガリはやはり、定期の中身を見ていたのだ。
「高校の頃から私を知っていたなんて、聞いてないぞ」
琥珀の瞳を燃やすカガリは続けて言った。
「キラと友達だったってことも、入社前から私が誰だかわかっていたことも、ぜんぶ、キラに聞かなければ私は知らないままだったんじゃないか」
「怒っているのか?」
「悔しいんだよ」
つん、とカガリはそっぽを向く。
「私だけ何にも知らないで。今になって知らされるなんて、空回りもいいところだ」
カガリの憤る理由がアスランにはわからなかった。彼女をいつから知っていたかなんて、それはアスラン自身の問題であって、カガリには関係ないのだから。
「たしかにキラと知り合いなのを言いそびれていたのは悪かったと思うけど。だが、昔の話だし、特別話す必要もないだろう? それを話して何かが変わるわけでもないし」
「私の気持ちが変わるんだ!」
カガリの手がアスランのシャツをひっぱった。
「もっと早くキラに話を聞いていたら、噂に耳をとられて、アスランを疑うこともなかったかもしれないし。だいたいおまえは誤解されやすいんだから、言うべきことはちゃんと言えよ」
キラにどういう話を聞かされたのか、気になるところではあったが。アスランは先にたずねた。
「それは、カガリが誰かから聞いた噂で俺を誤解していたってことか?」
ちらりと一瞥したカガリの口から突飛な答えが返ってきた。
「ろくでもない女たらしだと思ってた」
「どういう噂だよ、それは」
誤解だと説明するのもばかばかしいような噂だった。一体なにがどうなってそんな話になったのか。
「今はよくわかったけど、そんなふうに噂されるのは半分以上おまえが悪いんだぞ」
「言っておくが、噂の種になるようなことをした覚えはまったくもってないぞ」
「知ってるよ。キラからどれだけアスランが私を追い掛けていたのか聞かされたから」
さらりと言われて、アスランは言葉を飲み込み、むせそうになった。がむしゃらで不格好な自分をキラには知られているのだ。
「それを教えられるのがキラからだってのがおかしいんだよ。アスランは口説き方を知らないから仕方がないってあいつは言ってたけど」
「余計なお世話だな」
ため息をつくアスランの横で、カガリもまたため息をついた。
「つまり、私はキラに口説かれたことになるんだぞ」
面白くなさそうにつぶやく、カガリの頬が心なしか染まって見えたが。それはキラのせいではなかった。
「私がアスランを好きだってこと、あいつに教えられたんだから……」
(好きだ……って?)
カガリはふてくされた顔でテーブルの上のカップをじっと見ている。その横顔をアスランは同じように見つめた。
「好きだというのは、つまり?」
下手に期待しないことに決めて、落胆を前提にしているつもりだったが。
「いや、だからつまりキラからアスランの話をいろいろ聞いて……」
「そうじゃなくて」
カガリが意図的に論点をずらしたのがわかった。言いにくそうに声をつまらせるから、期待の方に傾いてしまう。
「わかってるんだろう?」
詰め寄ってみる。
「失言だった、じゃすませないからな」
視線をそらしていたカガリが悔しそうにアスランをにらんだ。頬が赤くなっている。
「一回言ったらわかれよな」
「俺はばかだから、二、三回聞かないとわからないんだ」
「うそつけ」
なかなか言わないカガリの手を掴んで握ると、いつになく熱かった。
「もう一度言ってくれないか」
頬にも手を添えてそらせないようにすると、カガリの表情が弱った。
「誰が誰を好きだって?」
答えを誘うように囁いてみる。
琥珀のまなざしが揺れて、軽く押せば崩れてくれそうだと思う。押しとどめようとしても溢れてくる想いと、降ってきた出来事をまだ信じられない気持ちが、ないまぜになって、血管をめぐる。
たしかなものが欲しかった。
カガリを抱き締めてもいいのだと。手に感じる彼女の熱が自分のものなのだと。もしそうならばと、望む気持ちで胸がつぶれそうだった。
「カガリ、キスしてもいいか?」
しばらく沈黙が続き、アスランは待つことにしびれを切らしてしまいそうだった。
近づくとわかる、洗い立ての髪の香りが誘惑的で、冷静さを奪われそうだ。カガリは首を横にも縦にも振らなかったが、それを了承だととることにして、アスランは軽く唇を重ねた。
「ん……」
カガリは小さく身じろぎした。
鼻にかかった声が耳をくすぐる。それだけで、理性も常識も吹き飛んでしまいそうだった。手を伸ばせば触れられそうな距離に、寝間着の無防備なカガリを置いて、狭いマンションでは数歩でベッドまでたどりつけてしまうこの状況で、いつもと変わらぬ会話をしていられるのは、すべてアスランの理性にかかっていた。好きな相手を前にして、生まれぬはずのない劣情をきつく押さえつけて、アスランは触れるだけのキスを繰り返した。
いつから、気持ちが通じていたのか。
それはカガリにもよくわかっていないらしかった。突き詰めて問うと、彼女は恥ずかしいのか機嫌を悪くするので、アスランはとりあえずは諦めることにした。しかし、愛おしく想う気持ちがいつ生まれたのかなんて、アスランも正直答えられないことなのでおあいこなのかもしれない。それでも、なにも構わなかった。ただ、カガリが同じ気持ちを返してくれるなら。目に見えない感情だから、まったく同じだとはいえないのかもしれないが。
手を繋げば、握り返してくれ、抱き締めれば、背中にそっと触れる華奢な腕を感じられる。キスに応える舌は、まだたどたどしくても。
それだけで、心がたまらなく満たされるのだ。
「……ようするに、君は律義に約束を守ってるんだね」
アスランの話を押し黙って聞いていたキラは、深く感心して言った。仕事帰りに、二人で寄った店は話し込んでいるうちにラストオーダーの時間になっていた。
「律義もなにも、約束は守るものだろう」
「僕は破るものだと思ってるけどね」
「カガリとしたものでもか?」
「まさか」
グラスに残っていたビールをキラは一気に喉に流した。
「ていうか、僕は君がカガリを呼び捨てにするのがなんだか気に入らないんだけどな」
「じゃあ、なんだ? カガリさんとでも呼んだほうがいいのか」
「それもやだ。なんかすぐお嫁にやらなきゃいけないかんじじゃない」
「……いつかはもらうけどな」
酔っているのか、変な駄々をこねるキラに聞こえないようにアスランはつぶやいた。
あの雨の日から一週間近く経つが、キラとカガリの間はどうやら筒抜けになっているらしく、ほどなくキラから呼び出しがかかった。別段隠すこともないので、聞かれるままにアスランは自分の気持ちを話したのだが、キラはおもしろくなさそうだった。
「君が手のひとつでも出したら、手っ取り早く喧嘩になってくれそうなのになあ」
「おまえはどうして人の幸せを素直に喜べないんだ」
「……じゃあ、アスランは今の状態で幸せなんだ」
「気持ちを返してもらえるだけで嘘みたいだからな」
カガリは、特別用事がない限りは仕事帰りにアスランのマンションに寄って帰るのがこのところの日課になっている。
しかし、キスより先のことをいまだにカガリは知らないままだった。辛くないといえば嘘になるが、十分だと思えた。唇をねだって、腕の中にカガリを捕まえても、彼女はぶつぶつ言いながらもくすぐったそうに応えてくれるから。
「でもさ、解禁日まであと二ヶ月近くあるわけでしょ」
「解禁日って、嫌な言い方するなよ」
「だってそうじゃない。いいの? うかうかしてると、他に盗られちゃうかもよ?」
キラは意地悪く、にやりと笑った。
「……なにか根拠でもあるのか?」
「あるよ。ねえ、カガリが今、どこに行ってると思う?」
たしか、昨日、今夜は大学のときの友達と飲みに行くと言っていたはずだが。
「アスラン。シンって子、知ってるでしょ?」
「あいつと飲みに行ってるのか?」
思わず料理をつつく手を止めると、キラがけらけらと笑った。
「まだまだ課題は多いみたいだね。カガリって男友達と女友達の差がないからねえ」
それについてはよくよく承知しているつもりだったが。
(手に入ると、独占欲って増すものなんだな……)
アスランは時計に目を落とした。まだ十一時を過ぎたところだ。
「カガリ、どこのなんて店にいるんだ? おまえのことだから知ってるんだろう」
「まさか、今から行くつもり?」
「俺はおまえよりよっぽどやきもち妬きなんだよ」
キラから店の名前を聞き出すと、アスランは五千円札をテーブルに置いて、外に出てしまった。後に残されたキラは、しばらく呆然とアスランの出て行った先を見つめていた。
「カガリもやっかいなの好きになっちゃったなあ」
アスランの残したワインを飲みながら、キラはくすくす笑っていた。シンと笑い話をしていたところに、何の前触れもなく現れたアスランに有無を言わさず店から連れ出されたカガリがその後どうしたのか。
キラがいくら問い詰めても、話してくれなかったらしい。
終